◆「名君? 足利義尚」
八犬伝では名君と謳われる足利義尚であるが、果たして其の実態は如何なものであったか、といぅ無意味なテーマに少しく、お付き合い願いたい。
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(文明十五年八月)十八日(戊寅)陰。参室町殿、打聞事如例、注別記。依為時正中日各精進之間、被羞精進膳。是山城判官和讒也。自愛々々。及晩有犬追物、嬖人彦次郎始加射手。珍事々々。
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(十二月)朔日(庚申)晴。早旦退出、行水看経等如例。及昏参内。御祝祇候人々、
権中納言 下官 民部卿 以量朝臣 賢房等也
今夜令守庚申、御和漢御会也。親王御方、式部卿宮御参中院一品、海住山大納言、予、中側宰相中将等也(執事但依重服暁鐘以後退出自三折裏予執筆也)。及鶏終百韻功、入夜微雪降、
梅さきて雪をもまたぬ軒葉哉 御製
歳寒松独蒼 式部卿宮
抑嬖人彦次郎賜(尚正)出仕云々(名字広沢)。御一族也(一字欠)相沙汰之云々。
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八日(丁卯)晴。南面緑令敷之。今日梶井殿御参内。有和漢御会。可令祇候由、雖被仰下、故障之由申入了。入夜亜相入来、斟薯蕷湯。有興々々。
抑基綱卿送状云、就広沢彦次郎事、各進太刀於室町殿、可祇候哉之由也。不合期之間、難治之由返答。続後撰料紙、周防持来(此集書写事、堀河局/東山殿祇候/難去望所之子細也。進藤筑後守執次之者也)。
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廿日(己卯)晴。源大納言、大内記、極臈種直朝臣(一字欠)来、勧一盞、今日遣太刀於広沢彦次郎許。近日諸人如此云々。今日大樹渡御彼宿所云々。珍重々々。
三鈷寺仏眼院等巻数到来。大儀庵自播州上洛。及晩参内。依当番也。
廿一日(庚辰)雨降。行水。二尊院入来。及晩参室町殿、就広沢事令進上太刀。五十首和歌同持参之処暫被召留於厩上有盃酌事。大館治部少輔二階堂河内等、在座。傾数盃、退出。令祝著者也(以上「実隆公記」)
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(文明十六年二月)十七日(乙亥)晴陰。長興宿祢来。相談世上事。播州合戦浦上失色云々。観世大夫座者彦次郎、日比大樹被寵愛。旧冬給名字号広沢云々。御一族分云々。此事不可然之由世及沙汰云々。近日就此儀有物云云々。前代未聞之事也(以上「後法興院記」)
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(文明十六年三月朔日)
一観世座猿楽故正松大夫之孫子也(四郎次郎子也。本金剛座也)新将軍此一二年被懸御目、自去年被成侍了。名字広沢云々。一天下沙汰大名共嘲哢也。赤松大膳大夫如此事在之、内者共及訴訟、一家乱出来云々。凡不思議事也。
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(八日)
一自京都下向者相語浮説也。京都ハ日夜強党云々。細川一色同心、広沢之事無勿体旨訴申入、無承引者在国旨申云々。大方無益申状歟。赤松ハ此間之有馬之子御台并新将軍ヨリ被成、赤松浦上以下取立之、於東山殿者不被知召事也。山名ト合戦ニ打負了。随而在馬郡ヘハ以前之在馬右馬助令山名与同心打入了。此間之赤松ハ有京都。東山殿可有御扶持歟云々。今一人新赤松(播磨息云々)在之云々。在田広岡以下并山名取立之。備前播磨両国ハ悉以山名知行。美作ハ半分計山名知行云々。京都事ハ一定可被云々。珍事々々。可為如何哉。前代ハ田楽ニテ滅了。当代ハ猿楽ニテ可有事歟。
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(五月廿三日)
一京上人夫下向了。昨日新将軍二条殿庭を御覧則還御河原へ御遊覧云々。広沢御供。二条殿御返事仏地院事被仰合、自是御返事。松林院所労本復歟。可相尋之云々。松殿申。(以上「大乗院雑事記」)
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義尚の愛人(嬖人)として最も有名な広沢彦次郎尚正に就いて、当時の記録を若干引いた。義尚は、猿楽大夫の息子・彦次郎を愛した挙げ句、武士に取り立てて、広沢の苗字と尚正の名を与えた。尚正は当然「義尚」の一字を与えたものだ。しかも将軍家一族の格を与えたんだから、流石に有力武士たちは不満を抱いた。自分たちは、ただ単に偶々其の家に生まれただけで有力武家となったのに、彦次郎が単に偶々美少年に生まれただけで有力武家になるなんて、許せなかったのである……あれ?
とは云うものの、人間とは仲々勝手なものだから、自分のことは棚に上げがちだ。男色家では義尚より先輩の細川政元さえ、「やっとれん! 俺は領国に帰るぞ」と、義尚に言い渡している。まぁ此奴の場合は、何かと丹波に行きたがる癖があるので義尚も聞き流したか、案外「お前にだきゃぁ、云われたくねぇよ」と言い返したかもしれない。
筆者としては、誰が誰と愛し合おうが関知する気はないのだが、それが他者の社会生活に大きな影響を与えるとなれば話は別だ。本来極めて個人的な問題であるべき性愛関係が、他者に大きな影響を与えるとなれば当然、其れは自由で個人的な問題ではなくなり、社会問題となる。社会問題だから当然、影響を及ぼされ得る第三者から干渉されて然るべきだ。当時の大名たちが文句をつけるのも当然だろう。
将軍の愛人・彦次郎には公家も迷惑した。尚正なる名乗りは、元服に伴うものだ。本来ならば地下人なんだが、「将軍の一族」として元服したのだから、お祝いをせねばならない。太刀を贈ったり、伺候したり……虚栄心の強い上級貴族たちのことだ、憤懣遣る方ないってやつだろう。しかし迷惑は此に止まらなかった。
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(文明十六年五月廿六日)
一宗順下向。二条殿御返事到来。仏地院事近日不可成子細条々被出之。松林院得業返事到来。近日取直之云々。所労之間弟子ニハ伊勢兵庫助子息(於)契約之由申給之。来月中ハ可能在京之由申之。三条公躬卿息女新将軍家ニ祇候。此体(於)猿楽広沢之女房ニ可成之由以御使両日ニ十七度被仰出之。毎度難義之由被申。十七度度ニ畏入之由申入之。其間ニ彼女房髪切テ逐電了。猶以父卿ニ御問答不存行方之由申了。天下之沙汰不便且不運之次第不可過之云々。又以希代之仰且又広沢之所望以外之事也。彼連枝ハ大内左京大夫之女房也。三条ハ生死存定云々。其後又赤松伊豆守之息女事以御使被仰之云々。所詮此事天下珍事云々。東山殿ニハ以外之次第、不可然旨之上意云々。(大乗院雑事記)
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三条公躬すなわち藤原一族大臣家、正親町三条家当主の娘が狙われた。義尚から、彦次郎の嫁に寄越せと申し入れがあったのだ。二日の間に十七回使者が来た。……殆ど嫌がらせである。そぉこぉするうち、件の娘は髪を切って家出、行衛知れずとなった。彦次郎は三条公躬の娘を諦め、赤松伊豆守の娘に結婚を申し込んだ。義尚の父・義政も、彦次郎を巡る義尚の強引な婚姻申し入れに就いて否定的だ。義政も、かなり我が儘だが、どの口で綺麗事を言ったのやら。しかし、すべての事柄には、終わりがある。
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(長享元年九月)十二日(戊申)天快晴。巳刻許、武将進発。坂本彼岸所為陣屋云々。於路頭余密々令見物。先陣奉公衆自一番至五番(八幡善宝寺在奉公衆次)次富樫介大館刑部大輔結城越後守山徒両三輩結城七郎進士美濃守(幡指)次武将(赤地金爛直垂小具足等帯弓箭被乱髪ナシウチ烏帽子)先是御小袖(重代)前行次引馬広沢大館少弼細河右馬助以下常騎馬衆等後騎有済々。次公武輩。頭弁政資朝臣廷尉佐守光高倉藤中納言入道(父子)少将雅俊朝臣侍従冬光等令供奉。入夜畠山尾張守出陣。行向俊宣朝臣宿所、令見物。細河今日不出、種々有雑説云々。公家面々藤中納言入道守光冬光等外、皆帯弓箭。藤黄門入道透頭巾。其外ナシウチ烏帽子鎧直垂各青黄練貫也。有菊閉。今日見物雑人中於花御所旧跡山陰、或僧指殺若衆、其身又令自害云々。希代事也。自右府有使者。先日遣使者礼也。
信楽桂宇治兵士来。十五日可京着由令下知為参賀也。
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(長享三年三月)十九日(丁丑)陰朝間細雨灑。心中念誦如例。入夜聖門被来。大樹御歓楽以外危急云々。晩景自御陣(御台)以使者為御加持聖門早々可被参之由有其命云々。御台昨日下向御陣云々。
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廿一日(己卯)晴陰。理覚院為加持来。朔日依指合不来。大樹不例事、聊被立直云々。
廿二日(庚辰)晴。昨夕聖門帰洛云々。大樹不例有小減之由有世聞。
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廿四日(壬午)自御陣(長泰)有注進。大樹御歓楽有減気云々。聖門御加持之験、上池院良薬之徳共以奇特之由、於陣中称美云々。聖門又明日、被参陣云々。
廿五日(癸未)晴入夜雷雨。御陣之御所上臈并高倉局へ以書状御歓楽事驚存之由可被申入之旨申遣了。
廿六日(甲申)晴陰時々雨下。四五日以前河原者下向南都、■(テヘンに検の旁)知一乗院庭云々。樹事随御用可堀進由自門跡有注進間、今日愚状ニ門跡之書状相副遣堀河局許了。酉刻自方々告示云、今朝巳刻大樹他界云々。絶言語了。天下惣別珍事不可遇之。如何々々。
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三十日(戊子)陰自巳刻雨下風吹。是日御台并大樹等自江州陣被上洛。大樹直移申北山之等持院云々。供奉群勢如御出陣之時云々。結城新介昨日遁世。同越後為奉公衆可誅伐之由有其沙汰間、去暁令没落。罷下濃州歟云々。広沢出家在輿之御共云々。悲哉、去々年之秋者存而望東湖並轡、今年之春者亡而過北山駐駕。凡哀情無極矣。
後聞越後在坂本云々。(以上「後法興院記」)
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長享元年九月十二日、美々しく武装した二十五歳の将軍・義尚は、愛する広沢彦次郎を近くに侍らせ京の町を出陣パレード、近江に向かった。幕府奉公衆の人気を引くため、奉公衆の領地を横領していた六角高頼を討つ為であった。義尚、どうせ毎夜毎夜、彦次郎の肉体でのみ暴れ回ったんだろう、六角氏との戦いでは華々しい戦果が上がらなかった。在陣一年半、長享三年三月、病に倒れた。倒れたが一時は持ち直し、二十四日「歓楽」した。馬鹿騒ぎしたんだろう。彦次郎とも大いに交歓したに違いない。二十六日午前中、巳刻に義尚は死んだ。二十四日の「歓楽」は、線香花火、末期の輝きであったか。三十日、出家した彦次郎は義尚の遺体に付き添って帰洛した。以後、彦次郎が表舞台に登場することはない。歴史の陰間……陰(かげ)間(はざま)に消えていった。
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(明応元年十月)十五日(癸丑)天晴。今日上原豊前守来三荷五合持来之。滋野井宗祇等之外一向無人。冷然之席也。盃酌三反、閑談有興。土佐日記一反予読之令聞。依所望也。件日記更不得覚悟之多之。雖難治依難去命如此。
抑三十六人哥人色帋、常徳院被下広沢之物也云々。件色紙、近日感得。可令見之由豊前申之、召寄之。絶代之霊宝也。画図言語道断。於哥者後光厳院宸筆歟。称美之処、所詮可恵之。何ニても抄物一部可書写之由、豊前命之。件色紙所望之余且領状了(実隆公記)。
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義尚が死んで三年半後の話だ。引用史料後半で、三十六歌仙色紙が登場する。歌は後光厳天皇宸筆とされ、絵も「言語道断」に素晴らしい。此の「絶代之霊宝」と賞賛されている芸術作品は、抑も常徳院から「広沢」に与えられたものであった。常徳院とは足利義尚のことだから、義尚に此程の至宝を貰える「広沢」は、彦次郎に違いない。そして、此の段階で彦次郎、色紙を手放しているように読める。生活苦か……。
ところで日記を書いた三条西実隆は大臣級の貴族で、芸術作品のコレクターだったようだ。王侯貴族で芸術作品のコレクターって云ったら、例えばバイエルンの狂王ルートヴィヒ二世だが、如何しても如斯き長袖人士は男色家にも見えてしまう。悪趣味にも若干、三条西実隆の私生活を覗いてみよう。
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(長享元年十一月)一日(丁酉)天霽。行水。看経等如例。花厳経第十八書写之。及晩自親王御方有召之間参候。先参内御方御祝天酌如例。参仕人々、源大納言(雅行)、新中納言(教国)、権中納言(公兼)、右上門督(季経)、下官、民部卿(忠富)、以量朝臣(左衛門佐)、賢房(蔵人右少弁)等也。内々御会(和漢月次)可為明後日之由以匂当内侍被仰下、畏奉了。其趣可相触之由申入了。小時於匂当内侍極奉謁旧院上臈。有召之間、参親王御方、二宮(青蓮院宮)方、聯輝軒萬松軒、源亜相、新黄門、右金吾、下官、右大弁宰相(元長)、以量朝臣(五字分欠)宣等祇候、事頻及乱(四字分欠)(六字分欠 千世寿少年舞歌也 一字欠 被賞之者也。当時元服号六郎竹園御重愛也。仍諸人崇敬之。不可説事也云々)参候及深更之間、下官不及退出候。退出、候里戸御所了。
抑源大納言曰、当番為三番可参之由也。存其旨了。
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廿一日(丙戌)晴。行水。看経等如例。今日親王御方嘉例申沙汰也。仍一桶一種進上之。未刻参内。近臣大略皆参。嬖人六郎哥舞、其興不浅。入夜退出。
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(長享三年七月)十日(丙寅)天晴、朝間小雨。今日小生等嘉例盃酌事張行。滋野井右頭中将等、同羞盃飯。羽林同被送一桶、嘉例也。珍重々々。及晩参内。今日親王御方以下嘉例祝著之御盃也。密々有地下之小美声等、時宜快然一献、及深更。月光晴朗、有興有感。御前之儀終時分、聊於隠之所、妙法院宮等密々有傾一盞之事。山上之小童優美之者招寄之。尤可謂狂事。莫言々々。更闌退出。今日嘉例祝著盃遣都護卿許了。自音羽帷一被恵小生。不慮芳恵喜入者也。
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廿三日(己巳)天晴。宗祇法師人丸影持来之。来月上旬、可下向越州、其間預置之由也。今日梳髪小浴。及晩参萬松軒。入夜聯輝軒。月嶺東雲等参会。小河手猿楽大夫参入。盃酌以下尤有興。等衞美人同被、千載一歓也。
禁裏御乳母扇面哥所望則書遣之(実隆公記)。
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長享元年十一月一日および二十一日条に登場する「六郎」は、如何やら親王の愛人なのだが、彼の歌舞は興趣あるものだったらしい。性行為に於いては、筆者個人の意見だけれども、触覚に次いで聴覚が重要である。滑らかな肌、其の下で蠢く筋肉の感触が、第一義ではあるが、耳元で喘ぐ声が脳に妖しく響くことも、前立腺への神経指令となっているように思う。如何な声が当該個体の神経に、より働きかけるかは、まぁ【好み】ってやつだろう。肉体の感触を想起せしむる動き/舞、其れに歌/声が、共に性行為への深刻な繋がりを持つによって、歌舞は甚だ刺激的な見物となる。六郎の歌舞は、親王と六郎の、填め填められるハメハメハ、熱帯夜のフラダンスは汗塗れ、褐色豊満美女の放漫なる微笑みの如く、前立腺を刺激するパフォーマンスであったのだろう。そろそろ政元の話に戻さなきゃと思いつつ以下、次号。(お粗末様)