◆「今日もホリホリ明日もホリホリ」

 幼さ残る阿波の少年・細川澄元が、マッチョな三好之長の腕に抱かれて、奸臣跋扈する京都に乗り込んだ。しかし政元の後継者を後見する三好之長はマッチョ過ぎた。何かと理不尽を撒き散らす香西・薬師寺ペアを無視、云うことを聴かない。頼もしがった家中は、我も我もと三好に靡いた。香西・薬師寺Vs三好の確執は、日々深まっていった。
 先に動いたのは、香西・薬師寺だった。だが、政元の後継者は澄元に内定している。三好を討つということは、後継内定者を敵に回すということだ。政元に弓を引くことに外ならない。だから香西・薬師寺の行動は、政元の排除から始めねばならない。セオリー通り香西・薬師寺は政元を暗殺する。永正四年六月二十三日であった。

     ◆
○細川政元被害死事
角テ永正四年ノ夏香西又六郎元近薬師寺三郎左衛門武田源七郎新名某等寄ヒ密謀シケル様主君細川政元ハ近年物狂ハシフシテ行迹政道粗略ナレハ此人存命スルナラハ当家必滅亡スヘシ六郎殿ノ世ト成ラハ三好弥々権威ニ誇テ世ヲ傾テ覆サン所詮彼等ニ先立テ政元ヲ弑シ奉リ丹波ノ源九郎御曹司澄之ヲ細川ノ家督ニ京兆ノ家ヲ相続シテ六郎殿ヲ退ケ三好党ヲ亡スヘシト謀叛一決シケレハ頓而政元ノ右筆戸倉ト云者ヲ語ラヒ置同六月二十三日政元ハ例ノ如ク愛宕精進潔斎シテ沐浴ノ為ニトテ湯殿ヘ立入給フ処ヲ戸倉スルスルト走リ寄テ終ニ政元ヲ刺殺シヌ于時生年四十二歳無慚ト云モコトハリ也此時シモ常々政元ノ傍ヲ不離近仕シケル波々伯部ト云ケル小姓ノ童何意モ無ク湯明衣ヲ持来シ処ヲ戸倉是ヲモ切付ケリ薄手也ケレハ後ニハ蘇生シテ一命ヲ助リ疵モ漸ク癒タリケル政元敢無ク亡ケレハ香西薬師寺力ヲ得テイサ此次而ニ六郎殿ヲモ討取ント同廿四日香西又六同彦六兄弟多勢ヲ率シ澄元ノ館ヘ押ヨスル三好高畠等思儲シ事ナレハ百々ノ橋ヲ相隔斯ヲ先途ト防戦フ敵方ノ戸倉一陣ニ進ミ来ル処ヲ波々伯部キツト是ヲ見テ昨日深手ハ負ケレ共ヲノレハ正シキ主君ノ敵也遁スマシト名乗リカケ散々ニ突合ヒ終ニ鑓ニテ戸倉ヲ突伏セ郎党ニ頸ヲソ取ラセケルアツハレ忠義ノ若武者哉ト皆人是ヲ褒タリケル……中略……大将澄元モ三好高畠モ心ハヤタケニ勇メ共合戦不意ニ起テ味方纔ノ小勢ナレハ防難ク見ヘニケルヲ三好高畠等評議シテ斯ヲハ先ツ落行テ重而本意ヲ遂ヘシト主君澄元ヲ守護シセメ江州差テ落行ケリ……後略(応仁後記巻中)
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 政元最期の場面は劇的に彼の人生を凝縮していた。太田道灌とか色々、風呂場で暗殺されるケースが度々あるが、政元も湯殿で殺された。しかし別に、六月の猛暑で「掻ざる垢もよれる日ぞかし」などと云いながら、香油を塗った如きヌメヤカに輝く肌を物憂げに晒した信乃よろしく艶っぽく風呂に入った……わけではない。入浴の理由は「政元ハ例ノ如ク愛宕精進潔斎シテ沐浴ノ為」であった。深読み/意訳すれば、【愛宕精進潔斎すなわち女色を否定する行為すなわち美少年の若気を愉しもうと鼻歌交じりにシャワーを浴びていた】となる。ヘロヘロに油断しきっていたに違いない。と、香西に抱き込まれた秘書(右筆)が走り寄り、政元をバラリズン。其処へ「常々政元ノ傍ヲ不離近仕シケル波々伯部ト云ケル小姓ノ童何意モ無ク湯明衣ヲ持来シ」政元の寵童が来合わせた。湯明衣を持ってきた以上、「自分で着ろ」とは云わない。着せてやるとき当然サービスしただろうからこそ寵童だ。「見ぃぃたぁぁなぁぁ」と右筆、小姓の波々伯部君も切り伏せた。……積もりだったが軽傷だったらしく、続いて起こる戦闘に波々伯部君は参加、戦場で偶々出会った右筆を討ち取った(後に波々伯部君も討ち死にしたって情報もある)。天晴れな若衆物語となっている。八犬伝第百八十勝回下編大団円に、詳細な記述がある。しかし多勢に無勢、結局、澄元側は不利を悟って近江へと遁走した。

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○源九郎澄之最期事
……中略……京都ニハ香西薬師寺相談シ同七月八日丹波ノ源九郎澄之ヲ迎取リ是ヲ京兆ノ跡目管領職ト仰ケル因茲同十一日澄之ノ沙汰トシテ故政元ノ葬儀ヲ営ム此澄之実ハ九条殿ノ御子ナルニ其人カラモ麗シク礼儀作法モ賎シカラネハ今更公家武家モテナシマヒラセタリケルカ……中略……山城国守護代香西又六郎元近薬師寺三郎左衛門等思ノマ丶ニ威ヲ振フテ一家ノ権柄ヲ司リ栄華ニ誇テ明シ暮ス角シテ程モ無ク五十余日ヲ過ケル処ニ三好之長ハ才智有ル勇士ニテ六郎澄元ヲ相伴ヒ近江国甲賀ノ谷エ落行キ山中新左衛門ヲ頼ンテ近江伊賀ノ軍士ヲ催シ一家ノ細川右馬助同民部少輔淡路守護等一味シテ且又秘計ヲ廻シテは竹山家ヲ頼入リ大和河内ノ勢ヲ招キ程無ク人数ヲ引具シテ同八月朔日京都ヲ差テ攻上ル昔ヨリ主君ヲ伐タル悪逆人ニ誰与スヘキ様無レハ在京ノ諸人等香西薬師寺ヲ背キ捨テ我モ我モト澄元ニ馳加リ程無ク多勢ニ成ケル……中略……九郎方ノ者共ハ次第ニ落失相残ル香西薬師寺等斯ヲ先途ト防ケレ共多勢ニ無勢叶難ク終ニ薬師寺討死シケレハ香西又六郎元近モ流矢ニ当テ亡ケリ……中略……澄之ハ今年十九歳ヲ一期トシテ雪ノ肌膚ヲ押ハタヌキ尋常ニ腹切リ死シ給ヘハ……後略
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 香西・薬師寺は、政元によって後継者の座から追われた一人目の養子・澄之を迎えて、政元の葬儀を主催させた。九条家の出だから、こういう儀式ばったことには、打って付けだ。そして葬儀の主催は、後継者としての名乗りでもある。が、三好長之は八月一日に京都へ逆襲、香西又六らを屠り、十九歳の澄之を割腹に追い込んだ。
 さて、此処までを、政元暗殺事件に焦点を絞って書いた「細川大心院記」で裏書きしよう。かねて乱れていた丹後国の処理が終わらぬ永正四年三月下旬、細川政元は寵童・波々伯部源次郎ら五六人(柳本又次郎・須知源太郎・横河彦五郎・井上又四郎・登阿弥)のみを引き連れ、奥州に行くと言い出した。「こんな大事な時に、なに考えてやがんだ!」。細川家被官は驚き、引き留めたり、危険だからせめて伴を増やしてくれと説得に掛かったが、政元は、なかなかウンと云わない。政元が若狭から、漸く丹波国何鷹郡鷹津まで陣を進めたのは五月中旬になった頃であった。香西孫六らの奮闘で、丹後をほぼ鎮圧したと見た政元は五月下旬、後の処理を放っぽり出して、京へ帰ってしまった。香西孫六は敵の城を落とし、嵯峨まで凱旋した。

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大心院(政元)殿ハ其比京都ニテ様々御遊トモアリ。六月廿二日、伏見ノ沢ニテ舟遊トモアリテ同廿三日ニ御帰洛アリ。明日ハ愛宕ノ御縁日トテ御精進ノ御為、御行水アリ(私云惣別御行水ハ毎日ノ事ナリ)。然ニ廿三日戌刻計ニ御湯殿ニ入ラセ給フ。其夜ノ当番ハ竹田孫七ニ打キ心ヲ合テ、御湯殿ニ忍入リ、御湯カタヒラ参スルカケヨリ、小太刀ニテ二太刀マテ切マイラセケレハ、御手ニテアワセ給フト見ヘテ、御ウテヲ二太刀切マイラセ、取ナヲシテ御ソハ腹ヲツキタテマツリ、ハネコロハシ進ラセテ、御首ヲソカヒタリケル。御足ノウラマテカキ奉リ、御湯帷子ヲ引カケ進ラセ、御湯殿ノ戸ヲタテ丶ソ出タリケル。カクテ御坐所ニ忍入、色々ノ物盗取、出ケル。去間、波々伯部源次郎ハ毎ノ如ク、御トノヘニ可参心中ニテ参ケルヲ、是モ二太刀切ケル。大心院殿ニテ御坐ト心得テ、源次郎、畏テ申ケルハ、御手ヲヨコサル丶マテモナキ御事ニテ候、腹ヲ可仕候ト申テ、中ノ御局マテ退出シテ、御女房ニ刑部卿殿ト申ヲ以テ御検使ヲ被下、腹可仕ノ由申ケレハ、御坐所ニモ御寝所ニモ御見ヘナキ由申テソ返ラレケル。不思議ニ思ヒ源次郎、御湯殿ニ参リ見レハ、アサマシキ御有様、無是非題目ナリ。其マ丶源次郎、御屋形様ヲハ竹田孫七カ討マイラセタルソヤトノ、サケヒケル。サテ澄元方ヘ馳参、此由ヲソ申ケル。コハソモ何ト成行世中ソヤト、我人涙ノ雨ニカキクレテ、此マ丶トコヤミノコトク可成カト思シカ、サレトモ夏ノ夜ノ習トテ、ホトナク明テ、廿四日ニモ成ケレハ、巳刻許ニ香西又六元長・同孫六元秋・同彦六元能兄弟三人、嵯峨ヲ打立、三千人計ニテ馳上リ、其外路次ニ於テ馳付勢ハ数ヲ不知。京都ニハ又六弟ニ心珠院宗純蔵主香川上野介満景安富新兵衛尉元顕馳集リ、室町ヲ上リ二柳原口東ノ方ヨリ、澄元ノ居所安富カ私宅ニ押寄ニ、コハソモ何ト云事ソヤト弁ヘサル所ニ、香西彦六ハ、大宮ヲ上リニ欠通リテ、上ノ御犬口ノ馬場口ヨリ押寄ル。同孫六ハ大宮ヲ上リニ安居院ヨリ百々ノ橋口ニ押ヨセケリ。又六モ輿ニテ跡ニソ、ツ丶キケル。三方ノ寄手、六郎殿ニ押ヨセケル処ニ、薬師寺三郎左衛門尉長忠申ケルハ、今日被及合戦事ハ延引候ヘカシ。澄元ヨリ被申子細ノ候間、明日ハ同心可申由、両使ヲ以テ孫六カ方ヘ申送リケル……中略……百々ノ橋口ニテハ……中略……晩ニ及テノ合戦ニハ、波々伯部源次郎元継、昨夜ノ痛手煩ナカラ、輿ニ乗リテ出タリケルカ、コシノ内ヨリ小太刀ニテ切テ出、中路七郎左衛門ト云者ト引組、討死シケリ。是ハ大 心院殿ノ御供ニ腹ヲ切可申ノ由ニ候ヒケルカ、幸ノ事トテ討死シケルソ哀ナル。同名五郎左衛門モ見捨難シト、是モ討死シテケリ。カクテ三方ノ合戦思ヒ思ヒニ攻戦事、今朝巳ノ刻ヨリ酉ノ終ニ及ケル。サテ澄元ハ三好以下死残タル馬廻少々召具、江州ヲサシテ落玉フ……中略……去程ニ京都ニハ澄之家督ノ御内書頂戴有テ、丹波国ヨリ上洛アリ。大心院殿御荼毘七月八日被取行、七日々々ノ御仏事、中陰以下、大心院ニ於テ厳重ニソ其沙汰アリケリ……中略……佐々木六角四郎■二字欠■義澄将軍ヘ御方可為ノ由申上テ在京シケル間、御褒美アリ。九郎澄元モ万事ヲ云合頼ミ思ワレケリ。四郎カ被官ニ甲賀山家ノ強盗ナトノ様成者ニ三雲トヤラム云者アリ。澄元ヲ討テ参ラスヘキ由申テ、ソクタクノ鳥目マテハヤ請取、打トケ心安ク思ハル丶処ニ、四郎京都ヲ出抜テ、七月廿五日、白昼ニ逃テ落下リケリ。ソレヨリ京都以外ニ騒動シテ女童ンヘ逃マトヒ、資財雑具ヲ持運、身ノ隠レカヲ尋タル有様ハ、中々言ノ葉モ無リケリ……中略……同廿国地ニ右馬助政賢民部少輔高国淡路守尚春以下同心シ、方々ヘフレメクリ、又ハ辺土洛外ノ郷民、西岡ノ浪人共マテ云合テ、澄之ノ居所、遊初軒ヘ可取懸支度成ケレハ、澄之ノ馬廻ノ者トモ落散、寺町石見守長塩備前ナトヲ始トシテ、政賢ノ手ニ馳加ハルモアリ。高国ヘ属スルモアリ。国々ヘ逃下モアリ。残ル者ニハ香川安富香西又六同心珠院薬師寺三郎左衛門尉一色兵庫助以下計也。サレハ此間集置テ寺社本所領ヲオトシトリ、恩ヲ与ヘタル侍トモ、落失テ自身計ノ体也ケレハ、哀成シ有様也。只此比タヘタルハ兵ノ道。可成口ニ荒言ヲ云ヒアリキシ者モ御ヲ忘テ盲々タル風情ハ、浅間敷有様也。又タマタマ首ヲソリタレ共、仏法ヲモ修行セス。サラハ樹下石上ニモ居ヲ示ス、唯蝙蝠ノ鳥ニテモナク鼠ニテモアラヌ風情シテ、イカ者トモ無ク、朋友トモ見ヘヌ体ニテ出頭シ、ツイセウヲ専ニシテ、世ヲ諛イタル有様ハ、我人耻敷余所目也。
八月朔日卯ノ刻ニ澄之ノ居所遊初軒ヘハ淡路守尚春ヲ大将トシテ大勢ニテ押寄ル……中略……澄之ノ方ヨリ一色兵庫助切テ出、散散ニ戦テ大勢ヲ切チラシ沢蔵カ焼跡ニテ討死シケレハ、矢野八郎左衛門尉以下同ツ丶行、討レニケリ。サテ澄之御腹ヲメサルレハ、波々伯部伯耆入道宗寅ハ御座所ニ火ヲカケ、心静ニ御介錯申、其刀ニテ腹カキ切テソ死タリケル。浅間敷有様也。サレトモ遊初軒ハ一宇計焼テ残ハ不苦。其後、三郎左衛門尉宿所ニ残留者、僅ニ二三十人ニハ過サリケリ。一番ニ香西又六同心珠院三野五郎太郎、門ヲ開ヒテ切テ出、サンサンに戦フト申セトモ、大勢待カケタル事ナレハ、一人モ不残同枕ニ切殺シテケリ……中略……前ニハ香西又六、嵐ノ山ノ堀ホリノ人夫トテ山城ノ国中ニ人夫ヲカクル。今ハ又、澄元ノ屋形ノ堀ホリトテ九重ノ内ヘ夫役ヲカケラレケレハ、三好モ私宅ノ堀ホリノ人夫トテ辺土洛外ニカケホリヲホル。城ヲ都ノ内ニコシラヘケレハ、寔ニ静謐ノ世ニ兼テ乱世ヲ招クニ似タリケレハ、イカナル者カシタリケン、落書ヲソシタリケル。
キコシメセ弥々乱ヲヲコシ米 又ハホリホリ又ハホリホリ
京中ハ此程ヨリモアフリコフ今日モホリホリ明日モホリホリ
サリトテハ嵐ノ山ヲミヨシトノ ヒラニホリヲハホラストモアレ……後略
     ◆

 京都男色界の主宰者・細川政元が暗殺され、戦乱の挙げ句に、主立った男どもは互いに兎に角、掘り合ったというのだ(←但し館防備の為の堀を)。続きは再び「応仁後記」に任せよう。

     ◆
○細川六郎澄元任管領職事
丹波ノ九郎澄之滅亡ノ後細川六郎澄元ハ公方家ノ管領ニ推成テ右京大夫ニ任官ス于時行年十四歳此人心ハ剛ナレ共未タ若冠ニテ諸事ノ巨細ヲ知サル故政務ヲ行事不叶万端ハ後見三好之長ニ委付セラル之長其頃剃髪シテ希雲居士ト称シ嫡子下総守長秀ヲ澄元ノ執事トシ父子相共ニ彼家ノ権ヲ執リ公方管領ノ大小事ヲ心ノ侭ニ執リ行ヒ諸人ニ無礼ヲ不憚驕ヲ極ケル程ニ幾程無ク諸士ニ悪マアレ所々ニ澄元ヲ背ク者コソ出来ケル就中細川家被官ノ歴々……中略……一味同心ニ相談シテ……中略……細川一類ニ今無双人ナリトテ細川民部少輔高国ヲ四国ヨリ呼上セ管領若冠ノ内ハ此人在京シテ政務ノ後見セラルヘシト也。外ニハ箇様ニ名付ケレ共内ニハ密ニ相計テ此高国ヲ澄之ノ跡目ト称シ澄元ヲ退ケテ三好ノ輩ヲ亡スヘシト相企テ……中略……永正五年ノ夏ノ頃中国ノ多勢攻上ル由聞ヘシカバ澄元方ノ人々此少勢ノ分ニテハ大敵防キ難カルヘシ一先ツ身ヲ隠シテ重而人数ヲ相催シ大功ヲ立ヘシ迚同四月九日ノ夜大将澄元ハ京ノ宿所ヲ自焼シテ坂本ヘ落行ケレハ三好父子モ没落ス頓而翌十日民部大輔高国ハ即帰洛シタリケル扨澄元ト希雲居士ハ又江州ヘ忍行テ甲賀山ノ山中新左衛門ヲ頼ンテ居ケリ三好下総守長秀ハ勢州サシテ落行ケルヲ其比ノ伊勢国司北畠材親卿ハ高国ノ聟也ケル故討手ヲ差向ケ攻ラレケルニ長秀終ニ打負テ山田ノ中島ト云所ニシテ其弟頼澄等主従十二人自害シテ死失ケリ公方家義澄卿モ京都ノ御住居叶難ク思召サレ同月十六日御所ヲ開キ落サセ給テ忍而江州ノ朽木谷ヘ入ラセ給ヒ其レヨリ三四年当国ニソマシマシケル……後略(応仁後記巻中)
○細川家臣香西四郎左衛門讒死事
……中略……
細川家ノ領国丹波ノ国ニ住シケル香西四郎左衛門元盛ト云者ハ道永禅門ノ家臣ニテ彼家ノ沙汰ヲ執行ヒ威勢諸人ノ上ニ立テ驕ヲ極メタリケルカ此者ノ弟ニ柳本弾正忠ト云者有リ若年ノ時ハ美童ニテ道永禅門男色ニ耽ラレケル程ニ此者ヲ寵愛セラレ成人ノ後今ニ至テ俸禄身ニ余リ栄耀人ニ超タリケレハ香西柳本此兄弟カ権威肩ヲ並ル人無リキ然ル処此比細川右馬頭尹賢ノ居城摂州尼ケ崎ノ城ヲ築ントテ道永諸家ニ命セラル……中略……尹賢カ人夫ト香西カ下部ノ男ト土一簀ヲ争ヒ出テ口論ニ及ヒ両方ノ人夫共数百人宛引分レテ瓦礫打ニ成ケルカ他家ノ人々様々ニ取扱ヒ和平サセテ両方エ分ケ隔テ……中略……下知ヲ聞分ケヌ香西ノ溢レ者共少々尚モ居残リ謾ニ城中エ石礫ヲ投入ケル右馬頭大ニ怒テ……中略……此段ハ香西カ慮外ナレハ下部ノ者共ヲ咎ムヘキ事ニ非ト云テ怒ヲ押ヘテ静メラレケル香西モ奢ノ故ニヤ其後此事ヲ尹賢エモ不陳謝……中略……香西ハ本ヨリ文盲不学ノ者ニテ常々料紙十四五枚宛判形ヲ認置キ手書ニ召仕シ矢野宗好ト云者ニ彼判紙ヲ預置テ諸方書通ノ度毎ニハ宗好次第ニ状ヲ書テ書札ヲ進返シタリケルニ此比イカ丶シタリケン彼宗好ハ香西カ命ニ背キ浪人シテ居ヲリケルヲ尹賢キツト思ヒ着ケシ潜ニ宗好ヲ招キ寄セ色々ニ語ラヒシ済シテ彼判紙ノ相残テ宗好方ニ在ケルニ秘計ノ状ヲ書セケリ其趣ハ道永禅門ノ仇敵阿州ノ故細川澄元ノ残徒三好家ノ者共ト香西元盛が一味シタアル書札ヲ潜ニ道永ノ許エ持参シテ香西カ隠謀無紛事也ト是ヲ証拠ニシ誠ラシク云立テ終ニ讒言シフセラレケリ道永禅門心残リ是ヲ誠ト聞承テサラハ事ノ起ラヌ前ニ早ク香西ヲ誅ヘシト尹賢ニ示シ合サレケルカ又急度思出シテ香西元盛誅セラレハ弟ノ柳本我ニ仕ル事成マシ年来此柳本ハ道永カ命ニ替ラント契約シケル事有レハ名残惜キ者哉ト様々思案セラレケル漸々ニ案シ出シテ道永禅門ヨリ香西ヲ誅スレ共彼ハ謀叛ノ者ナレハ不及是非次第也。柳本弾正ニハ道永少シモ異心有之マシキ由真実ヲ顕シタル起請文ヲ書認兼而文箱エ納メ置……中略……于時大永六年七月十三日道永禅門ノ館エ香西ヲソ召レケル香西四郎左衛門元盛ノ此事夢ニモ知ラサリケレハ何心モ無ク急キ道永ノ館エ参テ遠侍エ入来セシニ若殿原二人出向テ太刀ト刀ヲ渡サレヨト云フ香西少シモ不騒シテ太刀刀ヲ渡シ蹲踞シテ何事ニヤ思シ体也其間暫ク時刻移リケルヲ道永禅門待兼テ香西ハ遅キソト云レシヲ右馬頭尹賢聞違ヘタル振ヲシテ彼二人ノ若殿原ニ香西遅キト宣フソ早ク斬レト申サレケレハ二人ノ若殿原其侭ニ 走リ寄テ香西ヲ斬倒シ即頸ヲ伐落ス……後略(続応仁後記巻之一)
     ◆

と、いきなりだが制限行数である。史料要約は次回に。(お粗末様)

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