◆「呪いが歴史を動かす」
細川家の家督を継いだ澄元は十四歳、後見人・三好の専横を憎んだ細川家被官連中は一味同心して、三人目の養子・細川高国擁立を目論んだ。三人も養子を取るから……と今更云っても仕方がない。永正五年四月九日、大軍に攻められた澄元は家を自ら焼いて夜逃げ、将軍・義澄も十六日には近江へ落ちた。政元の奇行が阿波・細川家の介入を呼び、内衆の不満を誘ってクーデターが勃発、更に逆転クーデターの挙げ句に、【第三の男】高国が突如として登場した。
高国も、やっぱり美少年好きだったのである。高国の家臣・香西四郎左衛門元盛は権勢を誇っていた。しかも弟の柳本弾正忠は、「若年ノ時ハ美童ニテ道永禅門男色ニ耽ラレケル程ニ此者ヲ寵愛セラレ」とあるから、かなりの上玉だったのだろう。しかも高国と柳本の繋がりは成人してからも失われていない。細川右馬頭尹賢に憎まれ、元盛が三好一族と通じて謀叛を企んでいると讒言される事件があった。高国にとって柳本は「年来此柳本ハ道永カ命ニ替ラント契約シケル」相手であった。高国は、柳本に累が及ばないようにと、慌てて策を巡らせた。柳本に謀叛をしていないとの証文を書かせ、高国自身が保証人となったのだ。幾ら中世で証文が呪術的なほどに効果があったとしても、紙切れ一枚では証拠にも何にもならない。しかも、この証文は、事件発覚後に書かれたのだし。が、謀叛の対象である高国本人が保証人となれば、まぁ認めざるを得ない。高国は、いわば体を張って、柳本を庇ったのである。此の事件は、近世説美少年録にも重要な挿話として採用されている。
……ちなみに男色、稚児愛といえば、中世後半に成立したと思しい少年愛絵巻「稚児之草紙」がある。身分の低い僧侶が、身分の高い稚児をモノにする話だ。身分の低い男と高貴な女性の絡み合うロマンスが、恋愛の純粋さを強調させるための配役だとは、現在でも変わらぬセオリーであるし、近代に至っても、身分を捨てて恋を貫徹した例は散見せられる。「稚児之草紙」も正しく【純愛モノ】なんである。ただし濃厚なエロを含有しており、ちょっと此処では言えない場所を、舐めてみたら塩っぱかった、とか何とか、かなり具体的な描写もあるので、取り扱いには注意せねばならない。で、此の門外不出の絵巻は、醍醐寺三宝院に秘蔵されている。醍醐寺三宝院といえば、政元掠奪事件に於いて、政元の後釜として名前は挙がった、足利義覚がいた場所だ。……あ、いや、彼も高貴なる稚児であったが、そういう(どういう?)話をしようとしているのではない。男色ではなく、呪いの話題だ。足利義政の息子であるが故に義覚は……といぅか日野富子の子であったため、眼疾を患ったとされている。
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(長禄三年正月十六日)
一御今参局所行、今度御産不平安、剰若君則早世事、彼局調伏故トテ去十三日被召取之、十四日隠岐国ニ配流、或辛崎ニシツメラル之由風聞云々。当室町殿ヲ守立申ハ此局ナリ。於女中テ権門不過之尤歟。今度事不知実否一向被失生涯、御沙汰次第指過歟。但御大方殿申御沙汰故云々。此間不知故也。彼局跡大館ニ給之。一家也云々。
…………
(廿六日)
一音今参局於江州テ十九日被切腹云々。先代未聞御下知也云々。
…………
(文明十二年三月十四日)
一三宝院若君(十五歳也)両眼共以不叶云々。御台御歎不及申。一天下人々思々所為也。如今者御台之御腹ハ一天下不可有御計基也。行末無憑云々(以上「大乗院寺社雑記」)
…………
(同年六月)
二十五日(甲戌)晴、参御霊北野平野等社。千年死候武家御今参局死霊今度三宝院目所労事、彼悪霊成其煩云々。依是彼喚請御霊之末社云々。今日始見之、有小社。建仁寺前住文紀来、勘一盞(後法興院記)
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富子と義政の寵を争った挙げ句、富子の子(すなわち義政の子)を呪殺した科で琵琶湖の島に流されることとなったのだが、途中で自殺したやら富子の刺客に殺されたかしてしまった絶世の美女・今参局の死霊が祟ったとされている。義覚が眼疾となった後、今参局は御霊(おんりょう)としての資格を得て、御霊(ごりょう)神社に祀られた。此の神社に祀られることは、御霊すなわち第一級の怨霊と認定されたことを示している。
呪い……此のオドロオドロしいタームが、男色と共に、中世という時代を彩っている。八犬伝でも【呪い】は時代を動かす重要な要因となっている。抑も玉梓の呪いがなければ、八犬伝は始まらない。犬士に対する擁護、と綺麗な言葉で言ってみたところで、実のところ、本質としては呪いと同じものだ。単に、否定的/ブラックなものか肯定的/ホワイトなものかの違いに過ぎない。
乱れた戦国時代に向けての諸段階として、応仁・文明の乱が画期とする説は古来あった。また此より以前には、永享の乱、結城合戦、嘉吉の変乱もあった。後には政元掠奪事件やら明応の変やらもある。八犬伝は、正に永享の乱に端を発した結城合戦で幕を開ける。そして後に、此の国が乱れていきつつあった時代を舞台にしている。
八犬伝は、少なからざる部分を【信乃物語】に当てている。一億人の恋人・信乃こそ、犬士を代表している。物語上最重要の犬士・信乃の素性が何たるかといえば、結城合戦で擁立された安王・春王の近習、大塚匠作その子・番作の独子であり、安王・春王に伝わった源家の重宝、妖刀・村雨を預かる身の上だ。里見家も結城合戦で安王・春王のもと戦い、季基が討ち死にしている。逃れた義実が安房で旗揚げし、家を再興した。そして【信乃物語】の結局付近で、安王・春王の首を改葬し、霊を慰めている。更に云えば、結城大法要を執り行った後に起こる里見家と関東連合軍との大戦は、結城合戦のリターンマッチと位置づけても良かろう。足利成氏は、関東管領側に与しており即ち、安王・春王の敵側に回っているので、安王・春王の弟だと云っても、其の資格を喪っている。
簡単に云えば、玉梓の呪いは里見家そして犬士個々人に降りかかってくるのだが、結城合戦の余韻が里見家の対外関係に関わっているようなのだ。即ち、八犬伝物語の動因の一つが結城合戦の余韻、有り体に言えば、安王・春王の呪いが、里見家をして、仇によって構成する関東連合軍との戦いに向かわせ勝利せしめたのではなかったか。例えば、上杉憲実記には、次のように書かれている。
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前略……警固ノ武士ハ長尾因幡守ヲ始、百余騎ヲ添、京都ヘ上セラル。四月下旬常陸ノ国ヲ立、五月上旬、鎌倉ニ著、両若君先考御腹被召所ヲ御覧シ、双眼ニ涙ヲ浮ヘ誦経念仏シテ二親ノ菩提ヲ訪仰ケルハ、親ノ第三年ニ思ワサルニ其ノ廟所ヲ拝申事、不思議ノ孝行ナリ。我モ今月中ニ害セラレ、冥途ニテ父母ニ逢奉ント仰シニ、警固ノ武士共皆、鎧ノ袖ヲヌラシケル。鎌倉ヲ立、伊豆国筥根山足柄宿著給フ。此山ハ先考ノ合戦セシ所ナリ。遂ニ此山ヲ越給ハスシテ空成給フ。我等ハ越行果報哉ト和口シ給ヘハ、安王殿、兄ニヲトラシト高ラカニ仰ケルハ、我モ思事有、昔頼朝ノ御時、曾我十郎五郎、建久四年五月ニ兄弟二人此山ヲ越テ親ノ敵ヲ討、名ヲ後代ニ挙シナリ。其モ五月、今モ五月。其モ兄弟、我等モ兄弟。越シモ此山、通モ此道ナリ。我等モ親ノ敵ヲ討テ本望ヲ達セン事、何ノ子細カ可有ト、高ラカニ仰ケレハ、警固ノ人々是ヲ聞、皆舌ヲ振テ御顔ヲ詠居タリ。後ニ思合スレハ、義教将軍、赤松カ為ニ弑セラレ給フハ、嘉吉元年六月廿四日ナリ。安王殿ノ憤リ、天ニモ通シケルニヤ、五十日ノ内、不慮ノ害ニ逢給フソ怖シケレ……後略(上杉憲実記)
…………
前略……(左馬)助殿は右の御手にとりつき給、彦二郎殿は左の御手にとりつき給ふ。其時御所様、こはそも何事そと仰られしかは、助殿かまへてかまへて御恨有へからすと申され、かたしけなくも御頸をは安積給はりて、御狩衣の袖につ丶み奉り、大門小門さしかため、彦二郎殿を大将にして、喜多野浦上安積彦五郎をはしめとして、大剛の武者七八十人、御座敷の御供の大名に切てか丶りけれとも、かねてより御なさけなききみにてましませは、心をよせす、みなみなおちゆかせ給ふ……後略(嘉吉物語)
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上杉憲実記は、嘉吉の変、赤松家による将軍・足利義教虐殺事件を、安王の呪いが原因であると云っている。前述の如く、馬琴は嘉吉の変の原因を男色に求めている。此も一つの見識で、嘉吉の乱を描いた軍記物などには、其れを臭わせるものがあった。同時に上記の如く、安王の呪いに言及するものもある。そして、安王・春王に対しては、多くの物語が同情的だ。まぁ愛らしい少年たちが大人の都合で虐殺されたのだから、同情を寄せぬ方がオカシイんだけれども、とにかく同情的なんである。
一方、引用文後半の「嘉吉物語」では、足利義教に対して、甚だ冷淡だ。両手をそれぞれ取り押さえられ、「恨むんじゃねぇぞ」と云われて、むざむざ斬り殺され首を取られた義教であったが、供の大名たちは、我関せずと逃げ散ってしまったという。何たって、「かねてより御なさけなききみにてましませは」、薄情な将軍だったから誰も慕っていなかったなんて、流石に哀れといぅか、何といぅか……。言い添えると、ちゃんと(?)供の大名も殺されたことにしてる物語もあるから、御安心を(とは云え、別に義教が殺されたから戦ったのではなく、襲いかかられたから戦っただけって描写だけども)。当時を描く物語に於いて、義教の評判は悪い。
恐らく、呪いというものが成立するためには、呪いを発する者への同情が必要だ(但し、其の同情が正当なものか否かは別問題だが)。呪いを発する者への同情は、呪いを向けられる者への悪意にも置き換えられる。呪いの主体が個有に同情する価値があるとは限らず、呪いの客体への悪意が主体への同情にズレ込んでいく場合も、当然あるだろう。上杉憲実記で触れられた、安王の呪いは、れぞれ元々あった主体への同情と客体への悪意が足し合わされて、発生したように思える。
馬琴が主に参考としたと思しき軍記物語群で構成されるイメージ世界は、足利義教を暴君に仕立て上げている。永享の乱の張本人にして安王・春王の父・足利持氏に就いても同様だ。しかし、安王・春王に就いては概ね同情的であり、ツイデに云えば、其の乳母は各種の拷問にも耐えて持氏の息子達を庇い抜いた烈女にされている。暴虐な者は殺されて然るべき者として冷淡に、可憐な者は殺されるべきでなかったと同情して描くのが、軍記物語ってもんだ。其れが真実であったや否やは全く別問題ではあるが、甚だ人間的な描写をする。
ただ軍記物語は、大筋に於いては、事実から懸け離れることが出来ない。其れは稗史の領分だ。結城合戦に幕開けた八犬伝物語で、安王・春王を滅ぼした者達が関東連合軍となって、結城の敗将・里見家に再び襲いかかり、返り討ちに遭う。圧倒的勝利を挙げた里見家は犬士全員を京都に派遣、戦後処理として幕府に挨拶し、犬士は帰路に於いて安王・春王の霊を慰める。此処に於いて八犬伝は、安王・春王の仇討ち物語としての相貌を、垣間見せる。が、仇討ち物語としての相貌はあくまで淡く、関東連合軍の主立った武将は、殆どが殺されず、囚われたのみだ。則ち復讐の連鎖は断ち切られており、物語は完結せざるを得ない。
此処まで室町後期のドタバタ劇を簡単に瞥見した。八犬伝と同時代の紹介なら、本来なら永享の乱から入らねばならないけれども、以前に書いたので略した。濃密な世界を構成するために、別に男色が必須ではないのだが、政治主体として個々それなりの立場を有する男同士が、掘れた腫れた(だから惚れた腫れただってば)とくっつき合うことにより、本人としては、主観的世界観をより濃密にすることが出来、即ち簡単に言やぁ【自分は正しい】と勘違いに陥り、仲良し以外は不倶戴天の敵として排除したがる、【本人だけに明確な政治】が幻視される。男色で政治が動いた院政期と同様だ。勿論、此の【陥穽】は、女性が「個々それなりの立場を有する」現代に於いて、男色の専権ではなく男女異性色の形で繁く見られるし、具体的な性愛行為を伴わないまでも、同様傾向の堕落は、蔓延しているようにも見えるから、「男色」そのものの罪ではないのだが。
さて室町幕府史を見る上で抜くことの出来ぬ「男色」だが、当時の男色語彙で外せないものに「喝食」がある。お若い方には、ご存知ないむきもあろうから、若干の説明を加える。喝食は、禅寺で僧侶の食事を監督する俗体の男性で、必ずしも年少者ではない筈なのだが、足利義政が将軍・大御所だった東山時代に於いては、色を愛でるための存在となっていた。ちなみに室町幕府の将軍たちは代々禅宗に深く帰依していたから、稚児より喝食の方が馴染みだっただろう。密教系寺院の稚児と同様に、喝食は男どもの性欲を処理する機能を持たされていた。但し、稚児とは髪型が少し違ったようだ。稚児は女童みたいに長くのばした髪を束ねるが、喝食は髪を肩の辺りで切り揃えていた。
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(寛正三年一月)廿二日 奉報勝定院御成之事也。御成先於昭堂焼香。本坊前点。来廿五日、鹿苑院東岳和尚依脚疾不可参之由披露之、雖然能医治而可被参由被仰出也。御扇子二十柄高檀帋十帖献之。御相伴如恒也。院主秀渓西堂為御成之礼、被参于当軒也。喝食額髪可被改之事被仰出也。御前守勢喝食承泰喝食為本、可被改之由、召寮坊主命之。
廿三日 為御代官諸七観音也。逮帰以伊勢七郎衛門白之。喝食額髪自御倉被仰旧本之影被相触也。御給仕勢泰二喝、改額後被参于御所也。
(寛正五年七月)廿一日 例日無御出。奉報慶雲院御成、可申案内之事也。以伊勢七郎右衛門尉之、以案内御成。遂於御桟敷御聴聞。拈香大圭和尚并諷経又誦経。雖為小衆尤厳。仍有御感。我山雖為多衆、不誦経之由被仰也。喝食衣裳、雖云九■(一字欠)喝、堅可禁紗并紋又雑色等之由被仰出。即触之。維那者周■(王に韋)蔵主、大圭和尚者時雲門庵庵主也。為門中老僧役勤之。諸大名并近習悉参候也。雨中山翠草木含潤。談余有前十九日譲位、奉観望之事也。院主高中西堂也。院主為御礼被参于当軒也。拈香被参于御相伴也。管領細川右京大夫殿依虫気不参之事披露之。仍不及御相伴也。侍所京極方仍辞其職而閣警固之事。仍雑色仕候。諸奉行参侍也。
相国大衆誦経毎度怠慢之事。被仰出次御雑談中、周洪蔵主被申様者、誦経怠慢之時、二三人被行厳科則可乎之由有之、愚老承此言深慎之。人皆聞之怖畏之。以後、衆中可慎乎。能令大衆識之也。
(同年九月)二日 御誕生疏御銘被遊也。疏数二十八。洪蔵主被申之、観音像御頂戴。自聖護院被献不参。天乍晴。御祈祷如恒也。沙喝衣裳可為一色之事。重依上意之厳而各侍衣。触于諸五山。若犯此法則為常住、即可被出院之由堅命之。
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どうやら喝食が一時期、稚児に倣って女性っぽく髪を伸ばしていたようだが、元のように肩辺りで切り揃えるよう、命令が出ていたりする。稚児は女性同様に化粧までしていたようだが、喝食はスッピンだったらしい。やはり武家政権だから、ボーイッシュな方が好みに合ったのだろう。紋入りのものや「雑色」の衣も禁じている。
ややこしいのは、同文中に身分としての「雑色」も表記されていたりもするが、「雑色」の意味が、多彩に文様がついているのか、お洒落な中間色なのかであるけれども、九月二日条の「可為一色」からすれば、華やかな文様入り衣裳を「雑色」と表現しているらしい。容色を以て尊重された喝食が、多彩で色鮮やかな衣を纏うは当然の趨勢だし、自分たちと同様の機能を有する稚児の髪型を倣うも当たり前だ。しかし当局者は、せっかくの男色世界を、女色と見まごう風俗に侵されたくなかったに違いない。女色が好きなら足利義政だって尼寺なり何なりに行っただろう。彼は、少女ではなく美少年たちに給仕され、枯山水を前に点心を味わうのが好きだった。当時の記録では、いったい何時仕事をしているのか分からないほど、まぁ殆ど仕事なんかしてなかったと思うんだが、度々寺に出向き喝食を侍らせ喜んでいる。って所で今回は、これまで(お粗末様)