◆「喝食の頃」

 若気勧進帳なる奇文がある。文明年間の寅年に書いたと称する此の文書は、かなり巫山戯た内容で、もしかして馬琴が冗談で捏造したんじゃないかと思えるほどの傑作だ。主張する所は、武蔵坊弁慶と源義経の如く昔は麗しい男色模様があったが、応仁以降は財や身分を得るための手段と割り切る風潮となり、堕落してしまっている、若い人たちが奮起して男色道を再興してほしい、ってものだ。だいたいタイトルからして「若気(にやけ/男色)の勧め」なんだから、推して知るべしだけれども、面白いから此処に引こう。

     ◆
文明壬寅ノ冬抄。平朝臣井尻又九郎忠鋤謹白小僧喝食若衆言、夫惟混沌已分日月発光以来、有山河有人民有草木有鳥獣、皆以陰陽和合生成云々。爰有須弥山、山四方有州、南名南膽部州、有支那身毒扶桑之三国、彼三国有密道、厥用雖同、厥名各別、支那謂之押甎、身毒謂之非道、扶桑謂之若道、通用于三国、真俗共賞翫矣。殊本朝者、桓武天皇御宇、従弘法大師、此道専盛、而京鎌倉之諸五山、大和近江之四ケ大寺、其外都鄙諸宗、公家武家之人、雪月為便、詩歌為媒、不選貴賎、不論貧福、以志為本、契比翼連理、誓山河帯礪焉。■(謡の旁に系)茲捨財軽命退官位開名誉、世多有之。然者比叡山謂一児二山王、専翫之。用厥年齢、則上自七歳、下到廿五、是先諸家之通用。雖然、高野限六十、那智迄七八十、禅家不論年以望達之、諸家凡亦如是歟。可貴不可廃焉。嗚呼悲哉、従応仁文正頃、一々見此道之消息、■(矛にノブンしたに心)至而人雖嗜、不謂志之賎深、財宝為捷径、樽筒為媒介、裡墾切面名利、諂貴人悪貧賎、剰以密道容易流布。而樵蘇女子小児諳之■(テヘンに黨)之、廃哉廃哉。然又詢憂人、真成掻語、臥月吟花不歌無為節、恋慕之情薄故、富士之烟断、浅猿哉浅猿哉。古不聞文学憐六代御前、続頚於千本之松原、弁慶仕九郎判官、捨命六奥衣河、豈是非此道之威気乎。濁世導師観音大士、変婬女与馬郎、籠盟。本朝山城州太秦之太子、現小人姿、叶法師望。是亦非慈深乎。又賀州阿閇郡有一之山寺、寺後有深山、老狐栖焉。或夜彼狐妖、為蟄居■(ニンベンに辰)徘徊彼寺中、嬲童子誑法師。或房小新法師見彼妙姿、懸心於高間月、寄思於志賀波、展転反側寤寝不忘。譬如掩麝蔵不得終結一夜盟。謝詞難尽贈将引物矣。従古人、畜之尾忽有厥祟。翌日彼狐於于後山穴辺、枕雑紙挿扇子、首丘死矣。夫子曰、朝聞道夕死可矣、夫言歟。雖為無詮妖、畜類尚不顧身失達人望、増而為人無心同於草木。無情劣於鳥獣也。鳴花鶯、栖水蛙、読歌通詞、皆此道志深故也。北州千歳終有釁、此方人生不満百乎。世間者爾此可過、一生唯夢中夢。若時嗜、老後物語。妖艶之春、華卒風散之。嬋娟秋月狂雲蔵之、観之阿羅■(一字欠)当代若人各起誓願、再興此道、垂真慈悲、施無縁人、施者受者、現世共有衆生之愛敬、極浮世栄花、来世必憑三宝之負贔、得生天果報。傍有毛楮二先生、問此本名者、仍称烏有論、穴賢穴賢。
 文明壬寅南呂十日白玉書焉
右拝借有■(一字欠)為少年写之
維時享禄第五壬辰七月下院
 文久元年七月十四日以小林歌城所蔵家録写書一校
                  忠実(若気勧進帳/続群書類従版)
     ……書き下し(若干口語訳)……
文明壬寅の冬に抄(うつ)す。平朝臣井尻又九郎忠鋤、小僧喝食若衆に謹しみ白(もう)して言う、夫(そ)れ惟(こ)れ混沌の已(すで)に分かれ日月の光を発して以来、山河あり人民あり草木あり鳥獣あり、皆以って陰陽和合して生成すと云々。爰(ここ)に須弥山(しゅみせん)あり、山の四方に州あり、南を南膽部州と名づく、支那・身毒(インド)・扶桑の三国あり、彼の三国に密道あり、厥用するは同じと雖も、厥(ケツ/掘)の名は各(おの)おの別なり、支那は之を押甎と謂い、身毒(インド)は之を非道と謂い、扶桑は之を若(にゃく)道と謂う、通じて三国に用ゆ、真も俗も共に賞翫す。殊に本朝は、桓武天皇の御宇、弘法大師より、此の道は専ら盛んなり、而して京鎌倉の諸五山、大和近江の四大寺、其の外の都や鄙の諸宗、公家や武家の人、雪月に便りを為し詩歌を媒と為し、貴賎を選ばず貧福を論ぜず、志を以て本と為し、比翼連理を契り、山河の如き帯礪を誓う。茲に従い財を捨て命を軽んじ官位を退き名誉を開(はな)つ、世に多く之あり。然れば比叡山に一児二山王と謂い専ら之を翫ぶ。厥(ケツ)を用いる年齢は、則ち上は七歳より、下は廿五に到る。是は先ず諸家の通用なり。然ると雖も、高野は六十にして限り、那智は七八十まで、禅家は年を論ぜず望みを以て之を達す。諸家は凡そ亦、是くの如きか。貴ぶべし廃するべからず。嗚呼、悲しきかな、応仁文正の頃より、一々此の道の消息を見れば、愚かの至りにして人、嗜むと雖も、志の賎しき深きを謂わず、財宝の為の捷径、樽筒を媒介と為し、懇切を裏にして名利に面す、貴人に諂い貧賎を悪む、剰つさえ密道を以て容易に流布す。而して樵蘇や女子や小児も之を諳じて之を妨げる。廃れたかな廃れたかな。然して又、人に詢憂し、真すなわち僧侶は掻語を成す、月に臥し花に吟じ、無為の節を歌わず、恋慕の情の薄き故、富士の烟すなわち愛の永遠の誓いを断つも、浅ましきかな浅ましきかな。古えには聞かず、(眼前の現実としてはあり得ぬからこそ価値を持つ)文学、六代御前を憐れみ千本の松原に(怪僧文覚は斬首直前に六代御前の)頚を続け、弁慶は九郎判官に仕えて命を陸奥衣河に捨つを。豈に是、此の道の威気、濁世の現実を昇華したるイデアに非ざるか。濁世の導師観音大士は、婬女と馬郎に変じ盟(ちぎ)りを籠める。本朝山城州太秦の太子は小人の姿に現じ、法師の望みを叶えり。是亦、慈しみの深きに非ずや。又、賀州阿閇郡に一つの山寺あり、寺の後に 深山あり、老いたる狐が栖とす。或る夜、彼の狐妖は、蟄居の稚児となり寺中を徘徊し童子を嬲り法師を誑す。或る房の小さき新法師は彼の妙なる姿を見て、心を高間(山)の月に懸け、思いを志賀の波に寄せ、展転反側して寤(さ)めても寝ても忘れず。譬えば、麝を掩いて蔵して得ざるが如く、香気のみ愛づる信乃にも譬うべき八重梅の麗しきが如し。終に一夜の盟りを結ぶ。謝するに詞は尽くし難く、贈りて引物を将(すす)む。古えより人畜の尾(つる)めば忽ち厥に祟りあり。翌日、彼の狐は後山の穴辺に、雑紙を枕にし扇子を挿して、丘に首して死したり。夫子の曰く、朝に道を聞かば夕に死しても可、夫れの言いいか、獣ゆえに獣的に悪戯遊んでいた妖狐も真実の愛を知って其れに殉じたか。詮なき妖畜の類たりと雖も尚、身を失なうを顧みず人の望みを達せしむ、増して人たりて草木と同じく心無ければ、無情なること鳥獣に劣る也。花に鳴く鶯、水を栖とする蛙、歌に読み詞を通じれば皆、此の道の志の深き故也。北州(の者は寿命)千歳終に釁あり、此方の人生は百に満たず。世間は爾此として過ぐ可し、一生は唯、夢中の夢。若き時に嗜み、老いて後に物語る。妖艶の春、華は卒し風は之を散らす。嬋娟たる秋月、之を狂雲は蔵(かく)す、之を阿羅■(一字欠)に観ずれば、当代の若人は各おの誓願を起こし、此の道を再興し、真の慈悲を垂れ、無縁の人に施せ、施す者も受ける者も、現世に衆生の愛敬を共有し、浮世の栄花を極め、来世は三宝の贔屓を必ずや憑み、天の果報を生ずるを得ん。傍らに毛(筆)と楮(紙)の二先生あり、此の本名を問えば仍ち烏有すなわち虚無論と称す。穴賢こ穴賢こ。
 文明壬寅八月十日白玉書焉
右拝借有■(一字欠)為少年写之
維時享禄第五壬辰七月下院
 文久元年七月十四日以小林歌城所蔵家録写書一校
                  忠実
     ◆

 筆者が此処に写すに当たっては幾らか意識的な【誤字】がある。そうしないと意味が通らなかったからだが、まぁ誤字脱字は写本で当たり前に起こる現象だから、細かいことは気にしないように。
 さて、まず語彙から窺えることとして、男色の対象に小僧・喝食・若衆が挙げられている点に注目しよう。文明壬寅とは文明十四年、西暦一四八二年に当たるから、「若衆」は、狭義すなわち近世元禄期に売春を事とした若衆歌舞伎の演者ではなさそうだ。一応は若年男性一般を指すと考えておくが、若気勧進帳の作者は専ら若年男性を性的対象としていると思われるので、全くの広義に受け取ることも出来ない。有り体に言えば、此の場合の「若衆」は、【小僧・喝食以外の若年男性で性的対象たり得る者】ぐらいだろう。「小僧」は年少の僧侶を指していると思って良い。「喝食」は、前回紹介した通りだ。
 後の江戸時代以降、「稚児」「若衆」は男色を強く暗示する語彙として生き残り、また新たに「陰間」やら「飛子」やらが登場たりして、「喝食」の印象は薄れていくように思う。「若気勧進帳」で男色嗜好の対象として喝食が挙げられていることは、応仁以降の一時期に於ける風俗を映していて興味深い。筍は旬にしか食べられない。花は桜木、人は武士と云ぅなれば、人の花たる武士の精華は、盛りの極端に短い美少年に違いない。恋とは幻、一瞬の夢……との連想から、逆もまた真なり、遡行もすべき、近代以前の性欲か。衆道は、本能としての女色を純化し尽くしたが故の、逆転であったかもしれない。故に(女色)の頂点を突き抜けた上での衆道は、前提からしてタナトス、死と隣り合わせだ。死を取り敢えず最悪の不幸と定義づけながら(死に価値を見出す文化は前提として死を恐れることを前提として敢えて逆転することにより価値を見出すので同じ穴の狢)最高の幸せ、愛の成就の為に死を選ぶ。……思念は常に延長線上を行く。人として留まるべき点を突破してでも進む。それが人の宿命であり悲劇の源かもしれない。人として、死の直前では踏み止まるべきではあるが、それでも人は情死してきた。少女同士の心中なんざ、戦前の新聞には多く掲載されている(親友の境遇に同情してとか何とか説明されていることが多い)。男性同性愛の殉死は物語で枚挙に遑なく、異性愛者の相対死は、現在でも耳にする。人としての心的圧力は、それぞれで同等であったとしても、出口が狭ければ隘いほど、凄まじく噴出する。語彙として長々と命脈を保った「稚児」よりは、喝食の方が、より衆道の歴史を語るに似合うか。
 また、「用厥年齢、則上自七歳、下到廿五」とあるが、現代の発想ならば、「上は二十五から下は七歳まで」と言い回す所だけれども、逆である。年功序列の逆なのだ。此は斯道に於いて、若年者の方が尊重されたことを意味しよう。ただ併し、七歳の男の子に挿入よおぅたって、本当に入るのか? 口を遣っていただくのか? いや其れにしても無理じゃないのか? と考えると、平均的男(の道具のサイズ)を基準にした言葉とするならば、素股も男色行為として行われていた可能性が生ずる。丁子油か何か遣うとして(生物学者・南方熊楠に拠れば男も受動的性行為に於いて潤滑液を分泌するとは云うが……)幼きが故に滑らかな、文字通り子どものような滑らかな膚の、しかも肉感的感触は、夢想するだに……いや、夢想に限らねばならぬが、慕わしい……かもしれない。いくら男色横行の時代にあっても、実際に七歳の男の子を犯すは細川政元以上の【変態】であったろう。近世陰間の養成法でも、流石に七歳から始めろとは云ってなかったやに思う。男の性は所詮、想念の遊びであるから、若ければ良いとの理想の【延長線上】に「七歳」があるのではないか。また日本の寺子屋に限らず多くの民族で、この辺りの年齢から初等教育を施してきたが、此の年齢層は、人としての受け答えが漸く可能になる時期だ。想念の遊びである以上、言葉敵とならねば、抑も対象とは為り得ない。故に実際には十一歳ぐらいだった下限(上限?)を、童子信仰の如き「若ければ良い」を延長していき、でも言葉敵になり得る最小限の年齢で折り合いを付けたってことか。
 そぉそぉところで喝食といえば、八犬伝にも登場する堀越公方・足利政知は義政の異母弟だが、天龍寺(香厳院)の喝食をしていた。還俗して関東に下ったが、最期は息子に責められ割腹した。別の息子(後妻の子)が京都まで逃げ、父・政知と同じく香厳院の喝食となったが、還俗させられて、十一代将軍となった。足利義澄だ。多くの場合、男の精Y染色体は、女性を経由して次世代に引き継がれる。しかし、どうも古来、日本の一部階級は、直接Y染色体を次世代の体内に注ぎ込むことで継承としていた節もある。
 続いて「若気勧進帳」の話者として登場する「平朝臣井尻又九郎忠鋤」であるが、まぁ実在していたかもしれないけれども、それにしちゃぁ出来過ぎの名前だ。「井尻」の「井」は、尻を「お井戸」と謂う如く、男色の縁語。「九郎」は引用文にも登場するが、武蔵坊弁慶の稚児たる源九郎義経を想起させるし、「又九郎」だから、「井尻」で【股を食らう】となる。ならば鶏姦であり、「井尻」から独立させれば、食べる部位は常識的に口だから、親嘴となる。「忠鋤」は「ただ好き」だろうが、「鋤」は穴を掘る道具だ。DigAPony。男色行為に関わりがあろう。実際には禅宗系の僧侶っぽい臭いがするし、少なくとも修辞に仏教世界観を踏まえている点からして其れなりの教養を感じさせる。
 「混沌」云々は、日本書紀にも載す開闢神話を背景としている。開闢以来、生物は「陰陽和合」によって繁殖していると指摘し、異性間の交合が自然の姿だと断じている。此の立場からすれば、男色は、自然の摂理に逆らう特殊な行為とならざるを得ない。故に若気勧進帳は男色を「密道」と呼び、其の性行為を「厥(ケツ/掘ること)」と謂う。現代でも尻のことを「ケツ」とも謂うが、其れは其の者を行為対象とする能動者の視点から【挿入る】ことを前面に押し出した語彙であろう。生殖の必要条件が陰陽和合ならば、陰陽両者共に主体であり【挿入る/銜え込む】関係にあるが、男色の場合は能動者に依る一方的な快楽の追求であって、【挿入る/挿入られる】関係となる。肛門痔瘻……もとい、黄門侍郎であった水戸光圀は、こう云ったと伝えられている。

     ◆
一高田御邸に御座の年暮に広木代衛門参て今年は殿様御倉入宜敷御座候て目出度奉存る由申上けれハ、誠に珍重なる御事也、但御年貢を納むるは、いつとても女を御するやうにすへし、小童を御するやうにセぬもの也と打ゑまセ給ひなから被仰ける。代衛門御意を心得かねてためらひけれハ、重而被仰けるハ女を御するハ双方よろこひ男色ハ我ハ歓へとも、かれハ苦痛す、公儀百姓両方ともによきやうにセん事干要なりと御戯言に取なして被仰けれハ、代衛門かしこまりて退ぬ。後に被仰けるハかやうの事、屹度云聞すれハ迷惑致すもの也、それゆえわさと戯に托して被仰聞けると也(「玄桐筆記」)
     ◆

 経験に基づく言説ほど、重みをもつもはない。可哀相に、室町幕府の足利義満も男色家として有名だが、時代は変わっても三代目の将軍は困り者なのだな。ところでオマケとして「嵯峨物語」「幻夢物語」を紹介するので、稚児愛に触れてみては如何(▼→)
 えぇっと則ち男色受動者は、能動者に対して片務的に奉仕していることになる。痛いだけなのだ。性行為に於いて片務的であるが故に、性行為以外の日常では稚児(受動者)は偶像(Idle)の如く、念者(能動者)に尊重され奉仕される。【奴隷と王女】の構図だ。此処に於いて男色受動者は、少なくとも理念に於いては、自らは苦痛であっても相手を【昇天/成仏】させるため一方的に奉仕し、【功徳】を積む。まるで観音大士の如き、大慈悲の存在であろう。女色の如く共に直接の感覚的快楽を得るためではなく、相手の欲望を満たすためにのみ苦痛に身を置く。まるで餓えた虎に自らの肉体を与える行者の如きである。如斯き宗教的行為としての男色は、篤信者のみが行い得る特権的な行為となる。故に信心深くもない「樵蘇女子小児」(樵六・於兎子・寅童子……ではない)が表面的に厥/アナルコイトスを行えば、元来は宗教的な行為だったものの価値を堕とすことになる。若気勧進帳は、堕落した【男色道】に再び価値を付与するよう若者に呼びかけるが、最後は自ら「烏有論」と称し、即ち「まぁナンセンスなんだけどもね」と云いつつ、飄然として立ち去る。真実を語ることは、なかなか照れ臭いらしい。
 この態度、まるで男色和尚の一休宗純だ。引用文後半に「嬋娟秋月狂雲蔵之」とあるが、「狂雲子」とは一休の名乗りであるけれども、そりゃま措いといて、文明十四年といえば、一休が没した翌年に当たる。しかし一休ならば、八犬伝では、死して後に尸解し姿を現した実績がある。このぐらいの文章は、死んでても書けただろう。ってなぁ冗談だが、馬琴が同勧進帳を直接に目にしたといぅのではなく、日本人の発想として、同様のものが想起しえなかったとは断言できない、ってな淡く細い糸での連環を見たいのだ。想念と想念の繋がりは、必ずしも文字で証拠づけられるとは限らない(となれば「何でもあり」にはなるが、何処の一線で踏み止まるかがArtであろう)。
 八犬士に男色の臭いを嗅ぎ取る者は古来あった。正解である。しかし其の時に注意せねばならぬことは、男色と女色が全く断絶したものであると考えては間違いになる点だ。即ち、同じ人間ながらも男女を互いに【全く断絶した者】と極め付けるは余りに西洋的、近代以降の悪しき陋習であろう。男女は少なくともX染色体ぐらいは共有しているのだ。差はあっても断絶していない、此の豊穣たる背景が、八犬伝のみならず前近代日本の文学にはあったのではないか、とケツ論だけは綺麗に纏めて以下、次号。(お粗末様)

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