◆「悪神退治譚の陥穽」

 八犬伝を、【里見義実の言葉によって婚約し、言い出しっぺの義実が翻意したものの、伏姫が進んで八房と山に籠居した】ことを以て、これを単純に異種婚姻譚と極め付ける声もあるやに聞くが、事の当否は措き、自称・女性&子ども向け稗史であった八犬伝に、和漢の【昔話】が織り込まれているのは、間違いない。まぁ「昔話」と一口に云っても、説話文学にも載すものやら各地に残る伝承やら色々あるだろうけれども、此処では峻別せずに、一括りに「昔話」と云っておく。
 昔話には、悪神退治と呼ぶべき類型もしくは集合がある。例えば、女性を掠奪して集め、大江山に拠った鬼を退治する源頼光と四天王の伝説も、其の一つと考えておこう。八岐大蛇が素盞嗚尊に退治される話も、同様に猿やら蜘蛛やら何やらに人身御供を捧げねばならなくなったときなど人身御供本人や偶々外部から来た異人/旅人が悪神を退治する各地の話、例えば巨犬と結婚させられた女性を山伏が救い出す(といぅか犬を殺して後釜に座る)話なんかも、同類だろう。ところで犬を殺した山伏の話を単なる異種婚姻譚と、筆者は考えていない。悪神を退治する話だと、まずは理解しておく。
 さて、悪神を退治する話を、八犬伝が素直に取り入れているかといえば、そうでもあり、そうでもない。越後の山賊・酒顛二(←越の国出身とも云われる大江山の酒呑童子)を討つ犬田小文吾らの活躍は、まぁ素直な方だろう。但し、酒呑童子伝説の頼光四天王をモジったと思しき名の登場人物が、馬加大記の家来となって犬田小文吾らと敵対する。則ち小文吾は、酒呑童子も頼光四天王も敵に回している。
 変態管領・細川政元の養女・吹雪姫が悪僧たちに誘拐され陵辱されんとした将に其の時、画から実体化した虎が現れる。話の前半は、前の浜路を奪った網干左母二郎を彷彿とさせる誘拐の話に見えるが、猛々しい虎が登場することで、吹雪姫が昔話に登場する人身御供にも見えてくる(まぁ日本の昔話で虎が悪神として登場する可能性は低い……っていぅか、虎なんて居なかっただろうが)。八犬伝の読者は既に、虎が善き神の暴力/実力行使的側面かもしれぬと疑っている筈だが、それでも櫃に入れられ緊縛された女性の前に猛虎が現れたのだから一瞬、女性の凄惨なる運命を予見し首を竦める段取りだ。やはり不貞不貞しい悪僧より若い女性の方が、旨いに決まっているし。だが虎は、悪趣味にも悪僧に食らいついた。この変態虎は、吹雪姫を無視して姿を消す。ほんの少し「悪神退治」の雰囲気を漂わせた物語は、「悪神」が実は「善神」であったならば、当然【逆転】する。人身御供は救われ、人身御供を差し出した(格好の)悪僧が食いつかれる。
 ところで昔話といえば、史記巻百二十六、滑稽列伝第六十六、魏の西門豹に纏わる滑稽話である。ただ「滑稽」とはいえ人の命が散々弄ばれている上に、表現上、女性蔑視の容疑もあるのだが、昔話なんで御勘弁を。

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魏文侯時、西門豹為■(業にオオザト)令。豹往到■(業にオオザト)会長老、問之民所疾苦。長老曰、苦為河伯娶婦以故貧。豹問其故。対曰■(業にオオザト)三老廷掾、常歳賦斂百姓収取其銭得数百万、用其二三十万為河伯娶婦与祝巫共分其余銭持帰。当其時巫行視小家女好者、云是当為河伯婦即娉取。洗沐之為治新絵綺殻衣、闍渚ヨ戒為治斎宮河上張■(糸に是)■(イトヘンに降の旁)帷女居其中、為具牛酒飯食十余日、共粉飾之如嫁女床席令女居其上、浮之河中。始浮行数十里乃没。其人家有好女者、恐大巫祝為河伯取之、以故多持女遠逃亡、以故城中益空無人、又困貧所従来久遠矣。民人俗語曰、即不為河伯娶婦水来漂没溺其人民云。西門豹曰、至為河伯娶婦時願三老巫祝父老送女河上幸来告語之吾亦往送女。皆曰諾。至其時、西門豹往会之河上。三老官属豪長者里父老皆会、以人民往観之者三二千人。其巫、老女子也。已年七十。従弟子女十人所皆衣絵単衣立大巫後。西門豹曰、呼河伯帰来、視其好醜。即将女出帷中、来至前。豹視之、顧謂三老巫祝父老曰、是女子不好、煩大巫嫗為入報河伯、得更求好女、後日送之。即使吏卒共抱大巫嫗投之河中。有頃曰、巫嫗何久也、弟子趣之。復以弟子一人投河中。有頃曰、弟子何久也、復使一人趣之。復投一弟子河中。凡投三弟子。西門豹曰、巫嫗弟子是女子也、不能白事、煩三老為入白之。復投三老河中。西門豹簪筆磬折、嚮河立待良久。長老吏傍観者、皆驚恐。西門豹顧曰、巫嫗三老不来還、奈之何。欲復吏廷掾与豪長者一人入趣之。皆叩頭叩頭、且破額血流地、色如死灰。西門豹曰、諾、且留待之須臾。須臾、豹曰、廷掾起矣、状河伯留客之久、若皆罷去帰矣。■(業にオオザト)吏民大驚恐、従是以後、不敢復言為河伯娶婦……中略……傳曰、子産治鄭民不能欺、子賎治単父民不忍欺、西門豹治■(業にオオザト)民不敢欺……後略
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 簡単に言うと、シャーマンが河伯(日本では河童だったりするが、もっと偉い水神の印象)に美女を妻として差し出さないと水難に遭うと住民を脅し、女性を人身御供とし、加えて財物を搾取していた。当地の長官として赴任した西門豹は惚けて、人身御供となる女が其の資格があるか確かめてやると云った。女を見るや西門豹、「こんなブスじゃいかん。ちょっと巫女さん河伯に断って来てくれ。もっと好い女を後日差し出しますから、今日の所は御勘弁をってな」。兵に命じて巫女の親玉を河に放り込ませた。西門豹は更に惚けて云う。「遅いなぁ、あの婆さん。あんた、ちょっと行って様子を見てきてくれ」。兵に命じて巫女の弟子を放り込む。「遅いなぁ」。放り込む。「遅いなぁ」。放り込む。「やっぱ女じゃ埒が開かねぇな。今度は、あんたらが行ってきてくれ」。今度は巫女たちに勝手をさせていた三人の行政責任者を放り込んだ。西門豹「だぁれも帰って来ねぇなぁ〜」、振り返って地域の主立った者たちを嫌ぁぁな目つきで見回す。主立った者たちは真っ青になって、命乞い……。西門豹の辣腕により、河伯に纏わる迷信は滅びた。
 ミソは田舎シャーマンが振りかざす迷信を頭ごなしに否定はせず、逆に相手の論理に乗って追い詰めていく点だ。あんまり正直に迷信を否定したら、迷信を信じ込んでいた住民まで敵に回してしまう。類話は日本でも、弓張月の舞台となった琉球にも伝わっている。いかにも馬琴が好きそうな捻くれた話だし、呪術者の話に合わせておいて最後に否定するって所が、八犬伝に於ける知雨老師と知風道人(実は丶大)の対決を思い出させる。人民の素直さに乗ずる搾取者を、八犬伝は許さない。ただまぁ西門豹は、ちょっと遣り過ぎた。迷信を信じた側の住民責任者まで粛清している。史記も「民不敢欺」と、他の賢人と比べて西門豹に強権的なイメージを持っているようだ。迷信を信じた側を強く糾弾しなかった八犬伝の知風道人(実は丶大)とは、印象を異にする。
 唐突に何故、西門豹の逸話を取り上げたかといえば、此の話は紛う方なく広義の【悪神退治】説話の本質を暴き出しているからだ。悪神退治説話は、だいたいに於いて、【神】が人身御供など理不尽な要求をする、閉鎖された村落共同体の構成員は逆らえず泣く泣く女性を差し出す、あるとき偶々通りかかった山伏とか僧侶とか武士とか時々犬を連れていたりもするが兎に角ソトから来た旅人は理不尽なる搾取者【神】を呆気なく退治する、【神】の死骸を見れば猿とか狼だとか狸だとかの野生動物だったりする、【神】を退治した者は村落共同体の守護者として定着したり或いは立ち去ったりする。
 悪神は、村落共同体を恐怖で逆らえないように縛り付けた、支配者である。村人は悪神には逆らえないと信じ込んでいる。恐怖が恐怖を再生産し村人の心を抑圧するからだ。しかし或る日、そんな村落共同体の事情から自由な旅人が入ってくる。策略を使う場合もあるし法力を使う場合もあるが、単に連れていた犬をけしかけるだけだったり抜き打ちに斬りつけるだけの場合もある。ただし弘法大師空海なんかが圧倒的な法力を使って悪神を退治するのは【悪神退治】説話としては反則……いや、【偉人称揚】説話と理解した方が良いだろうが、まぁとにかく、悪神退治説話は、固定された村落共同体内部の体制構造を外部から来た者が変動させるとの側面がある。悪神退治説話は、何だか正体の分からない「神」が登場することが本質的特徴ではなく、上記の如きストーリーを共同体内部で共有するために語られ伝えられたと考える方が妥当だ。
 但し、こうした悪神退治説話には陥穽もある。固定された村落共同体で、理不尽なる支配者を退治する者は、外部から来なければならない、との教訓も導き出される点だ。悪神を退治する者は、共同体を超越した者でなければならぬ。この規定により、内部からの指弾の声は掻き消される。或は、村落共同体内部にありながら【外部の者】として排除され孤立する。西門豹は、悪神信仰そのものを潰滅した。巫女の代表者を殺しただけでなく、信じた側の住民代表まで殺した。これは、悪神に人身御供を捧げる側も、悪神信仰の共犯者であると見抜いていたからだろう。日本の悪神退治説話でも、悪神信仰を【常識化】していた被害者側の村落共同体内部からは、救済者が現れることが難しい。まるで外圧によってのみ失政が糺され得る何処かの村落共同体的近代国家だが、まぁ話を進めよう。則ち悪神退治説話は、支配の理不尽に泣きながらも、他力本願、来世願望に陥りがちな現実社会を肯定してしまう虞もある。
 八犬伝も話のテロップとしては、悪神退治説話を何度も使っている。しかし、単に泣く泣く現状肯定する物語ではない。カラクリは簡単。一般の悪神退治説話は、村落共同体内部の村人の視点から語られている。救済者は、あくまで外部から来る余所者だ。対して八犬伝は、その村落共同体を訪れた余所者(犬士や丶大)の視点に寄り添って書かれている。犬士らは、傍から見れば神懸かりしている時もあるだろうが、彼ら本人としては、資質には恵まれていただろうが、努力して武芸を磨き学識を育んだ。超人ではないのである。まぁ努力しようとする意志ってのが、実は最も得難い資質かもしれんが、そりゃ措いといて、彼らに対する伏姫の擁護は、彼ら本人もしくは尊属の不幸に因る。犠牲を支払った故に得た債権こそが、犬士としての立場であった。社会に一般化すれば、理不尽な支配を受けている者、理不尽な犯罪の犠牲になった者などこそが、其の理不尽と闘い否定し滅ぼし去る権利を持つってことだ。債権は取り立てねばならない。いや、「権利」と云ったが、犬士は好きで犬士になったわけでなし(なりたがったのは房八だけ、ほのめかしたのは正木大全だけか)恐らく伏姫が勝手に選んで押し付けたんだから、【義務】の側面が強い。しかも、単に自分を不幸にした者だけに報復するに止まらず、世の理不尽すべてと闘わされるのだから、お気の毒……いやまぁ、大変ですねぇ。えぇっと、すなわち八犬伝は、やはり、理不尽な犠牲を強いられる者は、理不尽と闘い、理不尽を滅ぼさねばならぬ、とのテーゼを掲げていることになる。
 則ち八犬伝は、村落共同体内部で理不尽にも忍従を強いるが如き【日本昔話】を、外からの視点に拠って描くことで逆転し、解放の文学、新たなる【日本昔話】へと昇華せしめている。権力主体の客体としての共同体構成員が、個々に主体として立ち上がるための逆転/転換である。抑も【権力】なる語を見つめていれば、其の本質的性格が見事に表現されていることに気付くだろう。「権」とは権現とか権大納言とかと云う如く、「権(かり)に/仮に」との意味だ。即ち権力とは、【何者かに仮に付託された力】に外ならない。付託する主体は、或る時には其れは仏であったり、天であったり、其の別名の神であった。しかし神も仏もない世、既に神は死んだと宣告された世に於いては、何者かに権力を付託する主体は、当該共同体の構成員しかないのだ。いや抑も、神だ仏だと云ってみたところで、内実としては、共同体構成員が、神とか仏とかの名のもとに、共有せるコモンセンスやら良心やらモラルやらを、ギッチリ捻じ込んでいるものに過ぎない。宗教とは本来なら、別に宗教法人が坊主丸儲けするためにデッチ上げた儀礼の体系ってだけのものではない筈だ。其れは集団内の規範枠となるべきものであって、嘘を言うな、みんな仲良くしろ、って程のものだろう。仏教となれば一般に、人を殺すなとか盗むなとかも加わる。また、キリスト旧教なら更に、離婚するなとかも加わり、大きな御世話だと思いはするが、まぁ他人事だから如何でもいい。
 結局する所、【権力】とは、其の権力主体そのもののパワーとは全く関係がない。如何ような力を如何ように付託するかは、共同体構成員の総意で決めるべきものである。しかし実際には一旦権力を付託された権力主体および腰巾着は、恣意に拠り力を振るえるようシステムを改竄したがり、実際に改竄しがちだ。前近代では、政府が社会の隅々まで深く浸透していたわけではなく、中世に至っては、徴税権すら何処まで貫徹していたか不明な部分もある。また徴税というよりも掠奪だったかもしれず、政府もしくは権力は、【歴史の華】ではあったが、人民史の極一部に過ぎぬ観があり、史料の制約に依り其の様な法制史・政治史が先行してしまった憾がある。
 此の様な事情で、社会の一部に過ぎない政府が政治闘争への対処を如何するだのいう政府の権力行使自体、さほど人民との関わりが大きくないため、国政参政権が普及していなくても深刻な問題ではなく、村人は村人の寄り合いで村政を合議で行っていたのだから、其れは其れで良かっただけの話だ。政府と人民は、フィールドが一部重なりはしていたものの、多くは互いに違う次元で動いていた。が、政府というものが社会全体をほぼ掌握して揺り籠から戦場を経て墓場まで関わってくる現代に於いては、勿論、人民が国政の決定権を確保していなければならぬ。自律できぬガキに力を付託してしまった愚の責めは、共同体構成員が結果的に負わねばならない。国家社会主義ドイツ労働者党だって、当時のワイマール共和制下の手続きに拠って権力を掌中にした。続いてチョビ髭小男が全権を掌握し、結果的にドイツ国民を塗炭の苦しみに落とした。
 此により是を見れば、民主政体とか云ってみたところで、非民主的な運営は可能だし、非民主的な政策を採用することは、もっと容易だ。非民主的な政体である筈の前近代と現在と、社会矛盾、葛藤、フラストレーションは、そう大きく違わないってぇか、構成員の主観に於いては、前近代の方が軽微であった可能性もある。近代に入って、政府は社会全体の征服を完成し、戦争は武人だけが行う国際競技ではなく全国民同士の殺し合いに変わった中、政府の決定が全人民に深刻密接に連動してしまう世の中に変わったにも拘わらず、制限選挙やら治安維持法やらで非民主的な政体を維持したからこそ、官民の軋轢が極大化したのであって、其のパースペクティブを過去に単純に延長して、前近代の方が社会矛盾が大きかったと考えるは、余りに幼稚な見方と云わざるを得ない。前近代でこそ、「国破山河在、城春草木深、感時花濺涙、恨別鳥驚心、烽火連三月、家書抵万金、白頭掻更短、渾欲不勝簪」なぁんて暢気な事を言っていられたのだ。近代戦は、国家国民を総動員して遂行される。山河なんて空爆なり何なりで姿を変える。鋼の戦車は辛うじて形を残すかも知れないが、灼熱に焼かれた戦車兵の名残として内部装甲には人型の何かが張り付いて剥がれない。
 前近代ならば城に拠った兵は負けと見れば逃げ出す。特に日本城郭は、住民居住地の内側にあって、官民は運命を共にしない。それどころか城に拠る兵が戦術上の必要から、あっさり城下町を焼き払ったりもする。だからこそか、我等が光輝ある帝国陸軍関東軍は住民を見捨ててスタコラサッサと逃げ出した。官軍は民を都合の良いときには「総動員」し一体化させるが、都合の悪いときはスッパリ見捨てた。また一方で、って云ぅか同根だろうけれども、近代になって、国民男子全体を供給源としていたにも拘わらず帝国陸軍は、江戸期で人口の一割程度だったマイノリティーたる武士の倫理を現実よりも極端に先鋭化して堅持しようとした。
 其の頭の悪いトンチンカンな愚劣さは、戦陣訓なる非常識な文書に集約されているので、読むだけ時間の無駄ではあるが、暇な人は読めばいい。一面では武士は、社会を指導すべきエリート階級だったわけだが、エリートだから当然、非エリートよりも重い責任と義務があった。其の義務を国民全体に押し広げることは即ち、非エリートに権利なきまま義務を押し付ける、卑怯愚劣稚拙な甘えに過ぎない。則ちエリートによる責任放棄、非エリートへの責任転嫁が、口先だけ勇ましい戦陣訓の土壌である。戦陣訓を書いた人物は、自決に失敗して虜囚の辱めに甘んじたという。八犬伝なら悪役にもなれないのだが、此の国では総理大臣にまでなれちゃうのだから、愉快だ。
 日本の昔話に就いて明るく楽しく語ろうと思っていたのに、何時の間にか、やや硬い話になってしまった。元来が堅物だから、仕方がない(おなかは最近ポニョポニョだが)。八犬伝に対する興味には、江戸期の民俗風俗や中世軍記物語の断片やら故事蘊蓄やらを楽しむ側面もあるし、血湧き肉躍る活劇、紅涙絞る純愛悲譚を切り取り鑑賞する分野もあろう。そして老いた馬琴が視力を喪った後にも苦闘して完成させねばならなかった物語に、現代に生きる者として何等かのメッセージを見出し、新たに位置づけ直すことも、筆者は無意味と思ってはいない。様々な八犬伝からは、様々な思いが立ち上る。滋味深い八犬伝を、骨の髄まで、しゃぶり尽くそう。(お粗末様)

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