◆「贋物御免 見所満載」
前回引いた「遠丶見ます」を書いた「夜雨庵白猿」は、馬琴の「戯子名所図絵巻之二」に載す「市川海老蔵」即ち七代目市川団十郎だ。歌舞伎十八番を纏めた名優だが、贅沢の科で江戸から追放された。歌舞伎俳優はファッション・リーダーだったから、本人が贅沢すること自体よりも、庶民への影響を懸念しての処罰だろう。
夜雨庵は馬琴が八犬伝を書き始めた頃、まだ名を成しておらず、引用文の「遠丶見ます」は天保三年の筆だ。が、此の天保三年段階で、【丹波の竹箆太郎が悪神たる狸を退治した】ことを「三ツ子もしってはいるが見るははじめて」と団十郎は云っている。則ち団十郎にとって、「丹波の竹箆太郎が悪神たる狸を退治した」ことは既知のことであり、三歳の頃から彼も知っていた可能性がある……いや精確に云えば、「三ツ子もしってはいる」とは【誰でも知っている】ことだと彼が思っていたことのみを証するのであって、実際に三歳児の頃から彼が知っていた証拠にはならないけれども、かなり以前から当たり前に知っていたことが解る。天保三年段階で彼は四十歳を過ぎている。しかも彼は江戸っ子だ。馬琴が八犬伝を刊行し始めた文化十一年段階では、既に二十歳を過ぎている。「丹波の国の竹箆太郎」の活躍を、八犬伝刊行開始当時の江戸に於いて、限られた知識階級ではなく、常識は身に付けていたであろうクラスの団十郎が、当たり前に知っていたと断じても良いだろう。近江長浜でも信濃光前寺でもなく土佐長岡でもなく、まさに丹波出身の竹箆太郎なる英雄犬が、
悪神たる狸悪神たる狸を退治するのだ。
では、抑も丹波国桑田郡とは、如何ような場所なのか。再び矢部さんに御登場願って「桑下漫録」である。
◆
丹波国
本書地球万国山海輿地全図 常州水戸赤水長玄珠所著本書五分七厘大〆記之
国名風土記 丹波の国は篠村の東大江山の西の麓に大なる池有彼の池に大蛇有て近辺の往来の人を多害し食す或時優なるいききまれの女彼の池のはたを通りけるに大蛇是を見付て則呑けり仍彼女の夫伊り忽に彼池に叫入大蛇又出合此男を呑入たり男腹中にして刀を以大蛇の五臓六腑を寸々に切割り大蛇こらへずして大血を吐間彼男も生ながら吐出されたり然るに其池の水江(本是紅か)にして土皆赤丹成て荒浪をた丶へたり去る間彼所を丹波と号す彼池の山際をば大江と云り二なる江まで血の波色満る也扨彼男の郎従其主の跡を尋行けるに主の男は蛇の口より血に染て吐出されながら猩々の面のごとくにして帰りけるが有野中にて行逢り郎従其主に向て何国に行玉ひけるぞやと問ば主此由をしかじかと語聞せけり郎従共言けるはされ共御身生き玉ひて別のことなしと云此所を生野と名付たり……後略
…………
頼政塚(浄法寺村 前二)
公姓源諱頼政其先出桃園天皇六伝至父諱仲正者世仕朝共武之服公性英毅善射又工倭歌屡有勤王事至被■(テヘンに欣)擢作倭歌以嘆某不遇帝見憫之優調焉仁平間射妖禁内乃栄賜既而平氏跋扈朝野仄目公従●高倉王謀撃諸平謀泄乃奉王東奔平知盛帥師従之于菟道王師敗績公死之実治承四年五月廿三日也年七十五丹州矢代者公之采地也民傷其暴露収葬骸於此云釈雷峰嘗疑其妄而発上中得石槨於是知其不誣懼而復●之然後公之宅兆顕然自完矣■(玄ふたつならび)歳安永己亥夏六月樹石邑民山梨和貴董其事 銘曰惟源公之墓骨朽名存千載安固
亀山司城 松平敏撰并書
(朱註・松平新祐敏房寛政十二年戌(申か)十月廿一日卒号東渓先生■(ゴンベンに益)嶺松院現誉東渓覚成居士)
頼政墓 中島 漁
藩国大夫松子求 立碑探得古墳丘
可憐埋木英雄恨 不朽花芬春又秋
同
あやめをは引わつらひしいにしへを苦の下まて思ひこそやれ
今月廿二日祭文
維安永八年歳次己亥八月癸酉亀山市井(臣)和貴以菲薄之儀謹奠三品源公之墓前其詞曰夫公将師之種軍鉾之冠顕誉于射于倭歌所謂有文則必有武鳴呼公也其人乎当時公欲制平相国縦横朝廷蔑如郡司奉以仁王而挙兵終自書于其役乃葬於斯尓来六百年矣宅兆荒廃其跡存里人之口碑耳(和貴)躬卑拙雖然感慨公之埋木之歌而修墳建碑公之氏族松井宗女善之助財力是月三十日墓碑全成請其銘于司城大夫松平君以欲伝之千古伏神霊在焉宜鑑之
和貴 頓首再拝以告
俳諧盥魚に云、浄法寺村に有。(是は古世村也)塚とは云へど山なり。七十六代近衛院御宇仁平二年四月、兵庫頭頼政鵺を射られし恩賞として此辺の地を給ふ。依て矢代の庄と名付、又矢田の庄とも云。此所を頼政塚と云事いかんる所謂やら推尋ど慥なる記録もなし。里俗の口号は、頼政宇治にて自殺の後遺骸を此所に納しと云。或鵺を埋し共云。又は入道の財宝を藏せりとも云。何を是と分ちがたし。然ども今考に鵺を埋て頼政塚といはん拠なし。入道の旧跡総州小河に有とは言ども。ここも又官領の地なれば、遺骸を納め遺骸を納財宝を埋に其便有。塚の頂五明の形に似たり。是平等院の芝をかたどり設たりと見ゆ。
其昔古世宗堅寺の住僧雷峯と云僧極たる拠の無をいぶかりて此塚に鋤を入て穿見るに大なる石櫃を得たり爰におゐて疑を散して其蓋を開く事を恐れて元のごとく補置しとなりと云々
今按に是等のごときは百年程已前には名斗にして徴たるに今は顕然たるは全公の余徳なるべし
年山記聞に言、玉海に曰、治承二年十二月十四日癸丑京官除目也今夜頼政叙三位第一之珍事也是入道相国奏請云々。源氏平氏者我国之固也而於平氏有朝恩也普一族威勢殆満四海是依勲功也源氏之勇士与逆徒当誅罰頼政独其性正直勇名被世未昇三品也余七旬尤有哀憐何覧近日身沈重病云々。不赴黄泉之前特授紫緩之恩者依此一言被叙三品云々。入道之状雖賢時人莫不驚耳目者歟云々
今按に此年皇子誕生(安徳帝清盛入道の外孫)ましましたれば入道相国何にても善根を修し行末の繁栄を期せらるよし心より彼成経康頼等をも島より召帰せり。頼政を三位に申なされしも此心底よりなるべし。されど当時入道の詞に其性正直勇名被世といふ八字は頼政の実事にして眉目を後世にひらくるなるべし云々
或記に云、伝称濃州山県郡蓮花寺源三位頼政之首先石河伊賀正光建碑詳記其事今■(玄ふたつならび)五月廿六日正当三位五百年忌旧友堀貞高感其心義気于今日奇納画像于彼寺求賛詞于余因贅数語
保元専君 宮威斯逞 平治竭止 自家豈省
椎実起嘆 三位々整 栄選遇逢 七旬身静
再射怪鳥 禁廷泡青 豈惜駿馬 海波不浄
快崇切歯 巨君逆横 耿韋守義 孟徳勢勁
窮達肖時 衆寡難競 釣殿雲愁 扇界風冷
芝生感懐 薤露唱詠 志決身殲 大乎命乎
整宇林 直民題
…………
菩提寺(地蔵院)大手ヨリ在戌五分六丁(北町 前三)
真言宗 京智積院末寺 如意山菩提寺 称地蔵院
本堂南向三間 本尊伽羅陀山地蔵尊 御長三尺
左り御手宝珠ノ中宇賀神有 興教大師作
開山円雅法印 当住快遵法印
地蔵院霊像記
亀山城下追分菩提寺地蔵堂霊像相伝中古之時大橋氏者当秋潦大降偶望見水中有異舟就之而獲霊像乃剏宇香火鳥多霊異云妊婦奉帯祷祈用以護肚極靡有産因称子安地蔵嘗寺或近市且発火像喚人救護厥声琅々聞者如盈耳不亦異哉初不審其何人刻平安造■(マゲアシに王)一見驚異曰有是哉遍照金剛手沢亡疑矣而吾未視若此之異也而後人信其霊異有據鳥寺故有地蔵記■(ニンベンに朱)離々語不可読今主僧本伊予松山人来住持于此地則恐其久異霊凶伝迺語余修其辞余嘉其生平崇奉之勤且耳像異霊孰則不敢辞此請択其異著而不誣者為記若此
寛政六年十一月 藩文学 中島漁謹撰
俳諧盥魚に言、如意山菩提寺本尊、亀城築れざる已前は今の城より北、追分と云所に安置しけるとや。北町へ移し奉りしはいつの比共知れる人なし。大江山子安地蔵と同木同作也。よつて是も産婦をあわれみ玉ふとぞ。されば延命地蔵経の中に十種の福をあたへ玉ふにも人養産の願を第一に説せられば殊更女子の渇仰し奉るとぞ、宜事なり。又一説行基菩薩の作とも云と云々
今按、養産を守らせ玉ふこと前の言ごとく于今異なることなし。満願之報恩に稲はき筵を奉る事なり。
…………
愛宕大権現・地蔵院(国分村 後二)
一、愛宕大権現 本社南向 拝殿 石鳥居壱丁斗下に有 西向 享保三戊戌年三月吉祥
末社 左方大明神一社
毘沙門天蛭子大黒天相殿
王子大明神一社
右方天照大神宮一社 太郎坊壱社
下段右に善女竜神一社 弁才天一社
一、真言宗 八幡祝坊末 白陽山 地蔵院
祈祷社一宇二間 弘法大師
盥魚 垂跡伊弉並尊火産霊尊也。社僧曰、廿七代継体天皇御宇に山城国乙訓郡北鷹峯の東に鎮座ましまししを四十九代光仁帝天応元年に釈慶俊僧都今の朝日嶽に移し奉り愛宕山白雲寺と号す。朝日嶽は往古丹波桑田郡の内なりしが今は山城の葛野郡となれり。暫愛宕郡にまします故に愛宕の神号有と見へたり。洛の北山大門村と云は愛宕の宮の旧跡也と和歌名所追考にも書り。然ば此宮居も乙訓より当国へ移り玉ふまでは愛宕の名は有べからずといへどはるか上代の事にして社式も無れば、それより上つかたの宮号はさとし明しがたし。神祇拾遺にも此事有といへども鷹峯東に鎮座已後のみ記て乙訓より丹波へ移り玉ふ事は不見。猶神道の長にたよりてしらまほしきのみ。社僧曰、此森の松は千歳をへたり心して見よとおしゆ。誠に樹半ながら半は白く朽たり。継体帝の元年より一千二百二十六年に及。
(朱註・斯有ども松も齢の尽しにや今はなし。地蔵院の庭に杉の千歳にも成ぬらんとおぼしき大樹有。右にいへるごとく今の白雲峯は元丹波に属たる山と思はる。皆正しき書に丹波の愛宕社と有。水尾村も丹波水尾と記せし物も有。奥の大悲山の仏具にも丹波の桑田郡と記有よし。是等を思へば都て山城国より戌亥に当る方桑田境は後に山城に属、境界の改りしにや)
◆
まず「丹波」の語源だが、此処では大蛇に呑み込まれた武士が腹中で刀を抜きメッタヤタラに振り回して切り刻んだ時、池は流れ出た血で紅に染まり、崩れ落ちる大蛇の巨体に荒波が立った。其の波が、「丹波」だという。「丹」は赤だから、「紅き波」である。凄まじい武勇談だが、噛み砕けば、大蛇退治物語だ。ちょっと一寸法師を思い出しもする。神話解釈の方便では、恐らく大蛇は先住民族を象徴し、一旦は中に取り込まれた異民族が蜂起して、逆に先住民族を征服した、ぐらいの話が出てくるのだろうが、先だって武士の妻が掠奪されている点が、後付なのか、それとも類する事象をズラしているのかは分からない。
抑も国史上初の大蛇退治、素盞嗚尊の事績からしても、先住民族が蛇に象徴されている。素盞嗚尊の映し身の如き日本武尊は、まつろわぬ民すなわち朝廷から見れば異民族/先住民族を征服するため各地を転戦するが、伊吹山大蛇によって最期を迎えた。大和朝廷最高の英雄が、個人名を持つ人間に殺されてはイケナイ。英雄は最高の人間だからだ。英雄を殺す者は、人間が及ばない何者かでなければならなかった。だからこそ、戦闘によってではなく毒気によって死んだとの結末にせねばならなかったのだろうし、罪もない大蛇のせいにしたのだろう。
大蛇の話だから、蛇足も許されよう。大蛇退治を国名語源とする丹波、日本武尊を死に追いやった大蛇の棲む伊吹山は近江。共に五畿に接した周辺・外部地域だ。出雲とは、やや趣を異にする。妄想を逞しうすれば、実際の征服過程を描写したというよりは、中央政権が或る程度は固まった後に、都や五畿の郊外とも言える地域、外部への通り道となる場所に、何か不気味な者が巣くっていると、改めてイメージしたのではないか。外部は外部で恐ろしいが、境界地域が最も恐ろしい。橋や辻、或る所と或る所を繋ぐ場所にこそ、魔なる者は吹き寄せられる。丹波は山陰道、近江は東山道への入り口/境界地域であった。素盞嗚尊が屠った異民族を象徴せる大蛇の姿を、五畿の周辺に改めて配置し、過去の恐怖を反芻しているようにも思える。
丹波に対し、都人が如何な恐怖を抱いても勝手だが、バランスを取るためか、桑田郡には、源頼政の墓まである。源三位頼政は、七十余歳で平家専横に楯突いた悲劇の老雄であるが、鵺退治の特技があり、魔を払う武人に列なっている。また、馬琴が先祖と信じた猪隼人が仕えた主君だけれども、宇治で敗れて自決した。此の時、主君の首を持って逃げた人物が、一説では猪隼人であった。逃げた先は、下総国古河とされている。頼政は馬琴にとって、自分の祖先と関わっていた特別な武人であったろう。一方、丹波国桑田郡にある墓には、「遺骸」が納められているという。首が古河、遺骸(首なし遺体)が桑田なら、両説は矛盾しないのだが、古河説が比較的博く支持されているに対し、桑田説はパッとしない。まぁ最後の本陣とした宇治平等院に立派な墓があるのだから、桑田郡は如何したって分が悪い。近世以前の高名な武人の墓なんて、複数あるのが普通かもしれない。此処だけの話だが、愛媛県にも源為朝の墓があったりするぐらいだから(水軍を率いていた伊予河野家が島流し先から救出したという尤もらしい解説付き)。頼政の墓も、何処にでもある、とは云わないが、複数あって然るべきものだ。
また、愛宕神社もある。いや、単なる末社ではなく、今でも「元愛宕神社」と名乗っているけれども、愛宕神社は元々丹波国桑田郡にあったというのだ。……有名な物を何でも取り込んだら良いってもんぢゃないだろ! 矢部さんも混乱してしまっている。現在の愛宕神社は元々丹波国桑田郡内であったが、国境が変わって山城国に編入された説を挙げる一方、社僧が樹齢千年以上の木に教えられたことを伝えている。此は、元々同地の「愛宕神社」があって分霊して現在の愛宕神社を祀ったという、今も伝わる話を載せている積もりなのだろうけれども、神社や寺院の由緒書ほど怪しいものもない(豊後両子山の縁起は作家である馬琴が書いた)、矢部さんも鵜呑みにはしていないらしく、極めて慎重な態度……が過ぎて、愛宕神社桑田郡本流説を明確には書いていないのだ。鵜呑みにして桑田郡の社を源流とした所で、当時は既に「愛宕神社」だったわけだから、現在地の「愛宕神社」に乗っ取られていたことになるんだし。
とはいえ、「愛宕神社」に対する筆者の関心は、八犬伝に基づいている。故に、愛宕神社の場合、火事消防の神とかではなく何より、細川政元に関わりのある神社として見ている。政元は管領であるより前に丹波国守護であって、何かといえば京都を逃げ出し丹波に籠もった。丹波に愛着を持っていたことは確かで、それ故、丹波国桑田郡に現存し鎌倉期の社殿を持つ「愛宕神社」に、筆者は無関心でいられないのだ。そんな筆者としては、丹波国桑田郡の愛宕神社も、政元の信仰対象であったと考えておきたい。
何だか丹波国桑田郡の観光案内になっているような気もするが、転勤中の筆者は京都府民なのだから、御宥恕戴きたい。(お粗末様)