◆「魔境! 丹波国桑田郡」

 英雄犬・竹箆太郎の産地、源三位頼政の墓、愛宕神社と、見所満載の丹波国桑田郡だが、次に紹介するのが本命。なんと酒呑童子のいた大江山まで、丹波国桑田郡なのだ。いや、丹波ではなく、丹後だったと云いたい読者の気持ちは解る。しかし此処は曲げて、矢部さんの言に耳を傾けていただきたい。

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大江山関・生野(王子村 前五)
或記 将軍家御上洛に付二条御城御守護面々
一、 東寺口 郡山城主 本多中務
一、淀摂州道 淀城主 石川主殿頭
一、山崎八幡口 高槻城主 永井市正
一、丹波道大江山 亀山城主 松平伊賀守
一、坂本道叡山口 福知山城主 朽木伊予守
一、近江道粟田口 膳所城主 本多下総守
一、丹波道千本口 笹山城主 松平又七郎
史徴(上略)天武天皇八年己卯紀曰、置龍田大江二山関
○通證曰、龍田ノ関屋跡在平郡立野村西、又曰、大江ノ山活板ニ作大枝山(和名抄)葛上郡大坂今属下郡所謂岩窟越也関屋大坂村里相隣可以
○漁按、活板作大枝者極是矣大江山ハ乃在山城丹波之境ニ者諸書或作大江山園大暦平家物語云於伊ノ山是也続日本紀以大枝為五関之一朝野群載為京城之四堺之一然者皆非天武時之事也
地理を見るに関を置べきの所也。京城大事之節守護を被置候もげにことはりと思はる
国名風土記(上略)主の男は蛇の口より血に染て吐出されながら猩々の面のごとくにして帰りけるが野中にて行逢り郎従其主に向て何国に行玉ひけるぞやと問ければ主此由をしかじかと語聞せり。郎従共云けるは、され共御身生給ひて別の事なしと云。此所を生野と名付たり。此説によりしや。或云、古は湖辺を巡りて奥へ行し由なれば王子村の南山際に道有て其辺を生野と云。仍之小式部内侍歌即其所をさしてよめる也と。
(朱註・近比村老に其辺を生野と云哉尋しにしらずと答。右の風土記の文面にては何か郎従が逢て悦をのべし所を生野といふは拠所有。舟井郡の内、丹後道筋にも生野村有共湖辺にははなれたる所成べし。村名に残りもせず、ただ其時名付斗の事ならば後世不残事ま丶有之。生野の事はしばらくさし置、右小式部の大江山と詠せしは此大江山に相違有まじ。両丹の境の大江山を過て生野と云所は無之由也。さすれば大江山生野の句のつづきがらにて此所に相違有まじ。此外大江山の古歌多見ゆれども、しかとこ丶ときこゆるも有、両丹境の大江山と聞ゆるも有之。少し左に記之)
新古今 大江山かたふく月のかけさへて鳥羽田の面に落る雁かね 慈円
玉明  大江山月も生野に末遠み玉ゆら満たる明る空哉 家隆
同   大江山生野の道は遠けれとまたふみも見う天橋立 小式部内侍
同   大江山いそき生野の道にしもことをかたらふ子規哉 小侍従
類聚  君か代にあふ嬉しさは大江山増井の水のたえしと思へは 顕昭
建保  大江山行末す丶しき袂哉生野のすへに秋のきぬらん 行意
同   宵なから明行夜半の名残さへ大江の山の月そかたふく 俊成卿女
同   藤草のしけみの本にましりても人にしらる丶蛍成けり 順徳院
同   藤衣ころもかはらぬ大江山秋にこたへる風の音哉 家衡
同   夕す丶み大江の山の玉かつら秋をかけたる露そこほる丶 定家
同   大江山かけ行道のやすらひにしはしなれぬるうつせみの声 内侍
同   藤草はしけりにけらし大江山こへて生野の道もなきまて 忠定
同   五月雨のはれぬ日数や大江山けさらたきつこけの下水 知家
同   大江山夕立すくる木の間より入日す丶しき日くらしの声 行能
同   大江山我よりさきに行人もやとやとふらん日くらしの声 康光
以上は建保名所百首題に大江山丹波桑田郡とあり。
…………
酒呑童子首塚(王子村 前五)
俚俗酒呑童子の首塚也と云、酒を供て頭痛祈
盥魚 正暦元年三月廿四日下野判官頼国千丈岳酒呑童子退治して首を京に為持。鉄の串にさして油小路を引渡し三条河原に晒されしが奇怪の者の首洛中に捨られんはいかがとてこ丶までかへして埋られしとぞ。童子が首引渡されし事、前太平記に見ゆ。
近世叢話 大江坂の西沓掛村端に酒呑童子が首塚と云ものは桓武天皇の御母高野氏贈后太皇の御しるしなり。
(朱註・右は何に拠て如是書るやしらねども或人も童子が首塚信難御陵ならんと言り。如何にも右書に出処信用せらる。則京に行右の方にて巡り百四五十間斗もあらん築上て上には古樹茂小き祠有。此祠は五十年斗已前には無之様覚。近年の事成べし。其様子御陵と見ゆ。久沓掛村の西に田の中に大石をつみしもの有。是を右の本には云哉と村老に尋しに童子の事は不言、昔よりただ塚とのみ云とかや。隣村塚原にも大石をつみし所有。是もただ塚と云、何の塚と云事不知)
     ◆

 矢部さんは、酒呑童子のいた大江山が、丹後ではなく、丹波国桑田郡にあったと自信たっぷりだ。但し、肝腎の酒呑童子の首塚首塚に就いては、全く自信がなさそうだ。桓武天皇の母・高野新笠の墓かもしれないとまで云っている。
 ……別に良いぢゃないか、大江山が幾つあったって、酒呑童子が何人いたって。いっそ竹箆太郎は百一匹くらいいた方が、賑やかで楽しそうだ(まぁ源三位頼政が何人もいたら困るけど)。いや、筆者は本気で、そう思っている。勿論、文学史の面からすれば、個々の伝説の発生順やら互いの関係性は確定するに超したことはない。しかし、例えば、同種の伝説の、最も早く成立したもののみが【本物】で、その他は【偽物】なのかってなぁ、ちょいと疑問だ。オリジンのみが【本物】ってなぁ、知的所有権云々のレベルでは正しい場合もあるが、昔話の場合は、如何に変わって伝わったか、其の展開の動きこそ興味深いかもしれない。
 鬼が実際に居たか否かに、筆者の興味は向いていない。現代に於ける酒呑童子物語の、物語としての味は、まず時間の隔たりに依る一種のエキゾシズム、即ち、十二単の美女たちが地獄絵図に登場するような凶悪な鬼に掠奪され大鎧を着込んだ源頼光はじめ屈強の武士たちに救出される、広い意味での風俗への趣味。そして、外連味、怪奇趣味、残虐趣味、活劇趣味などもあろう。
 では物語が文字化された中世に於いては、如何だったろう。語られる時代設定は、現在ほど隔絶していない。文字化され始めたのが南北朝・室町期ならば、甲冑武者は珍しくないし、貴女の風俗も略装になったぐらいで大きくは変わっていない。外連味は、当時でも十分あったろう。また現在のように「あるわけないけど見てみたい」ではなく、「あるかもしれなくて怖いけど見てみたい」と質の違うものではあったろうけれども、怪奇趣味もあっただろう。残虐趣味は、確かにあった。但し、美女が血を抜かれる切り刻まれる食われる、というのは地獄絵図でも鬼が行っていることであり、大江山だけの特殊事象ではなかった。現代とは違って、宗教的な背景があったことだろう。
 活劇趣味は、当然あった。同情に値する若く美しい女性たちが、凶悪な鬼に奪われ犯され傷つけられ殺される。人間業では倒せないような強大な敵に、少数の武士が立ち向かい策略を巡らせ超自然的な働きもあって、不思議に勝利を収めるカタルシス。宗教的な背景や、時間差による感覚の相違は確かにあるけれども、物語としての本質は、現代に於いて大量生産されている物と同様だろう。針小棒大、重箱の隅を擂り粉木で突き、「現代人には所詮、解るわけがないんだ」と悲劇を装う必要は全くない。そう思うなら、はなから読まねば良いだけだ。解る所だけでも解り合いたいとの信念なくて、過去の文物は語れないし、語る資格はない。
 此処で、時間差による感覚の差を埋める縁(よすが)に、若干、史料を引こう。伊予で藤原純友が海賊を率いて暴れ回っていた天慶、それに続く村上帝の治世、天暦年間の話だ。

     ◆
二十九日庚子卯剋諸卿参入被定京中盗人可捜嫌疑索下手者之由仍先召左右検非違使等密々仰可固会坂龍花道大枝(←大江/筆者註)山々崎淀等道之由次召諸衛仰之巳剋東西各分手率随兵随差文罷出捜索京中又有勅蔵人所小舎人左右近番長已下等捜求宮中司々申剋使々申返事京条宮中无殊事又外記於春華門前左右并大臣已下諸家馬等宛行諸衛了条里差文手々次第委見記(「本朝世紀」天慶二年四月二十九日条)
…………
右弁官下 山城国
和邇堺
使蔭子橘兼舒 従三人 陰陽允中原善益 従三人
  祝少属秦春連 従三人 奉礼陰陽師布留満樹 従二人
  祭郎学生四人 従一人 左衛門府生美努定信 従二人
   看督長一人 火長一人
 会坂堺 同前 大枝堺 同前 山崎堺 同前
右今月廿七日為祭治郊外四所鬼気 差件等人宛使発遣者国宜承知依例供給官符追下
   天暦六年六月廿三日 大史阿蘇宿祢
右大弁藤原朝臣(「朝野群載」巻十五陰陽道)
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 純友が暴れ回っていた天慶の史料は、京を荒らし回った盗賊を捕らえるため検非違使が派遣された場所の一つが、山城国境周辺の大枝山であったことを示す。即ち丹波国桑田郡の大江山だ。村上帝が治めた天暦期の史料は、京に「鬼気」が入ってこないよう祀るべき場所の一つが、大枝境すなわち丹波国桑田郡の大江山であったことを示す。因みに、天暦の二十年後ぐらいが、妖怪退治請負人・源頼光の活躍期だ。
 これらの文字列から、十世紀半ばから後半にかけての、大江山のイメージが浮かび上がろうではないか。悪しき者、秩序を乱す者が、京へ入り込んでくる境目に、大江山はあった。【境界】は、外なる世界への窓であり門である。其の窓には外なる悪しき者の像が集約し投影されている。如何にか秩序を保っている門の内側、結界たる門には【外なる悪しき者】が吹き寄せられて群れ、蟠っている。時折、破れた窓から隙間風のように洛中を席巻し、美女を掠奪して境界に戻る。丹波国桑田郡の大江山には、そういう類の酒呑童子が居たのだろう。京から見れば、丹後は異界との境界というよりも、異界の奥座敷だ。それは其れで、異界の深淵たる大江山としての価値を持とうけれども、京に住む者にとって、より大きな脅威となり得る、即ち、より物語としての刺激の強いものとするためには、やはり丹波国桑田郡に酒呑童子がいた方が具合が良い。所詮、何連が【本物】の酒呑童子が居た大江山か、なる問題に、文学的な意味を筆者は感じていない(前に言った如く、何連がオリジンであるかは文学史的に大問題だが)。
 悪しき外なる者。此は言い換えれば、まつろわぬ民、中央政権から見た異物/異民族であるが、前に筆者は、異民族の象徴は時として【大蛇】であり、素盞嗚尊も日本武尊にも敵として現れた、ってなことを述べた。ならば、酒呑童子は大蛇と関係があるのか無いのか。……結論を言えば、【酒呑童子が只一人だけ存在していたと一神教的に狂信すれば保留せざるを得ないが、同時多発的に発生すべき悪しき外なる者のイメージを酒呑童子と呼ぶとすれば、大蛇との関わり無きにしもあらず】だ。酒呑童子は、日本武尊を死に追いやった存在、即ち日本というものの総体的パワーさえ打ち倒すほどの、即ち天照皇大神を唯一陵辱し尽くし去る素盞嗚尊と置換可能な八岐大蛇にも関わりつつ、クルンと回ってニャンコの眼、日本武尊を死に追いやった大蛇の棲む、伊吹山を産地としている酒呑童子もいるのだ。所謂、伊吹童子である。
 親の因果が子に報い……。余りに哀れな伊吹童子である。此の物語の作者は、素盞嗚尊に滅ぼされた八岐大蛇と、日本武尊を死に追いやった伊吹山の大蛇を関連づけ、其の子孫を酒呑童子としている。如斯き発想は、筆者だけではないのだ。史上あり得る、人として、よく・ある話、なんである。只まぁ酒呑童子なら哀れも催そうが、何だか身に摘まされる筆者は酒呑爺、誰も哀れんでくれないから、独り慰めつつ酒でも呑むか……(と堂々巡り)。落ち込んだので、伊吹童子に就いては後回しにしよう。
 とにかく、丹波国桑田郡にも酒呑童子はいる、八岐大蛇から続く天皇に仇なす系譜は蟇田素藤が住んでいた伊吹山に連なる、酒呑童子のうち少なくとも一人は伊吹山で生まれ育った、……此処までは、史料から、そういう発想もあろうかと認めていただけることと思う。
 しかし本稿の興味は、ただ八犬伝に対してのみ存している。此まで挙げた史料・文物は中世のものであり、馬琴と同時代的リンクをしていない。また、此まで挙げた史料の解釈は、近代以後の諸学に影響を受けているようにも感じられるだろう。即ち、酒呑童子が実在個有の何者かではなく、或る種のイメージを表現するほどに拡張された語彙であるとの、一見すれば民俗学っぽい解釈を、馬琴に背を向けて、筆者が語っているように感じる読者がいても、筆者は不自然とは思わない。極めて尤もなことだ。
 が、筆者がヒケラカス解釈は、実は近世の文物にこそ影響を受けている。例えば、近松門左衛門の「酒呑童子枕言葉」やら「傾城酒呑童子」だ。此の戯曲で感心するのは、或る種の人間が泥酔した時の状況を、正しく描写している点である。酔っ払い歴四半世紀の筆者が云うのだから、間違いない。……いや、其れが問題ではなかった。「酒呑童子」なる語彙が、何処まで拡張し得るかとの問に答えるべきは、筆者にあらず、近松翁であろう。
 「酒呑童子枕言葉」(宝永七年)は酒呑童子に就いて、だいたい一般受けする要素を網羅しているようだ。何処かで聞いたような、酒呑童子物語となっている。勿論、戯曲であるから、昔話にはないような、細かく心裡を穿った描写も見られる。また此の作品は享保三年までに「傾城酒呑童子」としてリライトされている。
 前者は御伽草子の酒呑童子物語を下敷きにしており、其れに誘拐のうえ女郎屋に売られた美少女の悲劇(っていぅか分を過ぎた贅沢をしたため女郎屋が欠所となった実際の事件)を絡めているが、後者は美少女の悲劇を主題にしており、酒呑童子退治は割愛されている。割愛されてはいるが、あくまで「酒呑童子」の物語なんである。後者では女郎屋が酒呑童子よりも悪辣なキャラクターとして登場しており、最後は頼光四天王(&藤原保昌)に退治される。超自然的な化者よりも人間の方が始末に負えないって話であり、是を以てしても、「酒呑童子」とは必ずしも童髪で赤ら顔の鬼ではなく、悪しき者の象徴と捉えられている。画虎実体化事件を八犬伝に盛り込んだ馬琴と、感覚の底を通じているのだ。
 それはさて措き、近松の「枕言葉」に登場する酒呑童子は、越後で生まれ五歳で父を亡くし十一歳で母を喪った。如何やら天台宗系の山寺に稚児として入るが、近松作品に於いて密教系の寺小姓はセクシャルな存在だ。高野六十那智八十、であるが、童子は十歳まで母と添い寝し乳房を吸っていたため、其の味が忘れられず、師匠だろうが兄弟子僧侶だろうが何だろうが相手構わず閨房に忍び入って乳房を吸いまくった。そういった修行も積んでいたであろう僧侶たちは乳房もモロに感じるようなっていたに違いないのだが、初めのうちこそ喜んで受け入れていたものの、やがて空恐ろしくなり、童子を追い出した。恐らく僧侶たちは童子の肉体を使用して性欲を処理していたが、済んでも乳房に吸い付いてくる童子を邪魔に感じたのだろう。「邪魔」である。邪まなる魔に取り憑かれた、まるで性欲過多な夢魔の如くに感じたのであろう。積極的に挑んでくる童子を面白がって弄んでいたくせに、執拗すぎると面倒になって遠ざける。男とは、身勝手な生き物なのだ。っと、制限行数である。続きは次回。(お粗末様)

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