●伊井暇幻読本「八玉四散」●
八犬伝は終盤、宗教的な世界へと没入していく。より精確に云えば、既存宗教の語彙や物語を踏まえ混交させて独自の幻想世界へと逃避していくのだ。今回は安房の四隅に配された四天王に就いて考えたい。犬士の玉を玉眼とした四天王は、明らかに犬士に代わって里見領国(安房)を守護する者である。極めて呪術的だが、だからと云って馬鹿にはできない。四天王による護国は、古代日本国家にとって安全保障上の重要政策であった。根拠となった経典が金光明最勝王経
(▼→)である。
金光明経は、まず第一章たる序品で本経が極めて重要なものであると宣言する。多くの菩薩やら天人やら何やら彼にやらがウジャウジャ群れてきて、世尊を礼拝し、本経の教えを聞きたがる。如斯き描写は、多くの経で採用されている常套であって、意味はない。読み飛ばそう。
第二章の如来寿量品からが本論だが、本論のうちでも前提部分に当たる。品名から解るように、釈迦の寿命「如来寿量」を論ずる(ことが不可能だと論ずる)。
本経の主人公の一人、妙幢菩薩が疑問を生ずる。仏教では不害すなわち殺生をしないことと、他者に施しをすることにより、寿命が延びると教えている。にも拘わらず、此の二つの功徳を徹底して積んできた釈迦の寿命は、そう珍しくもなく八十歳に過ぎなかった。本経には書いていないが、当然、釈迦が贋物の聖人であったか、仏の教えが嘘で不殺生も施行も寿命を延ばす効果がないか、の何連かが合理的推論として浮かび上がる。しかし本経にかかっては、上記の合理的推論は、不動(東方)宝相(南方)無量寿(西方)天鼓音(北方)の四如来によって、反則っぽく一蹴される。簡単に云えば、釈迦の寿命は八十歳ではなく無限大である、と極め付けているのだ。だって八十歳で死んだやん? との抗議は無効だ。とにかく、釈迦の寿命は無限大なんである。YouSee? ……結構、話を続けよう。
現世に釈迦として現れたときの肉体は、人に真理の道を気づかせるための【教育用マリオネット】に過ぎない。マリオネットを操る者こそ、真理そのものである釈迦の本体(法身)だ。此のマリオネットは、人民教化のため徹底した不殺生と施行の必要を説き、説教の方便だったか真理なのか、寿命が延びるとまで教えた。不殺生と施行という二つの教えは、如何やら人民の心の深いところに響いたようで、信者は増えていった。二つの教えを徹底して実践する釈迦は、人々が崇拝し渇仰する宗教者となった。が、八十歳でポックリ逝った。最期の情景を描く涅槃図では、回りを取り囲んだ弟子や動物たちが泣き悲しんでいる。ただし一般に猫は描かれていないのだが、まぁそりゃ措いといて、人をはじめ、あらゆる動物(有情)が、釈迦の死を惜しんで泣いている。
人は、無いもの強請りをする。当たり前に其処にあるモノの有り難みは、なかなか解らない。例えば空気がなければ人は死ぬが、空気の有り難さが、なかなか解らない。だいたい「有り難い」とは、「なかなか無い」との意味だ。なかなか無い希少性こそ、有り難さの原因となる。此の広大な宇宙で、こんなに旨い空気が潤沢かつ濃厚にある場所は、恐らく太陽系内広しと雖も、地球の周囲数キロの範囲のみだろう。空気は、実はとても「有り難い」ものなのだが、空気の中で暮らしていると、其の希少性に気付かない。同様に、偶々生き会わせた人々にとって釈迦は、当たり前に目前にいる、泥鰌髭を生やしたスケベそうな目の爺さんに過ぎない(言い過ぎか?)。釈迦の本体は無限の寿命を持つが、釈迦として此の世に姿を現したのは八十年に過ぎない。釈迦と偶々生行き会わすことは、確率ゼロに限りなく近い幸運だ。空気は、然るべき理に基づいて、地球の周囲に溜まっている。物の理(ことわり)である。同様に、然るべき理そのものたる釈迦の本体によって、或る限られた八十年間のみ、此の世向けマリオネットとしての釈迦が人類の前に現れ、呆気なく消えた。
ただ此処が己の全世界だと信じつつ太平洋をボンヤリたゆたっていた者が、いきなり数の子を貼り詰めた天井に押し潰されそうになったり、千匹の蚯蚓に絡み付かれたりすれば、其の強烈な体験は忘れがたいものとなろう。……いや、そうではない。疲れ切って乗った帰宅のための阪急電車、途中で肉感的な、正直に言えば、やや肥満気味ではあるが肌艶よい三十前後の女性が誘うような目を向け降りようとした金曜の晩、ナンパしようかとも思ったが土曜日も早朝から仕事だしなぁとか思ううち扉が閉まって諦めざるを得なくなったとき、彼女の眼差しが三分ぐらいは記憶に残ってしまうことなんざ、皆さんも繁くあるに違いないが(←ねぇよ)、現世への釈迦の降臨は、思わせぶりな秋波と同じことで、チラッと真理を垣間見せて気を惹く【誘惑の手管】だったのである。釈迦の寿命は無限であるのに、たったの八十年だけ、チラッと人の目の前に姿を現し、余計に気を惹いたのだ。
則ち、八十年とは、釈迦の教育的チラリズム戦術であって、本来の寿命ではないし、抑も釈迦の本体は此の世で物質として現れず、人の身として記述しようとして嘗て完成したことのない【自然のうちに厳然として在る完全な真理とか法則の総体そのもの】なのだから、寿命を云々しても始まらない。ついでに云うと、鎮護国家仏教成立に大きな役割を果たした行基は八十歳で死んだことになっているが、此だって当てにはならない。単なる数合わせの可能性だってある。
こういった議論を経た後、何を聞いてやがったのか、婆羅門A(JIS外漢字のため名は省略)が、芥子粒ほどでよいから仏舎利が欲しいと願い出る。対するに梨車毘少年が進み出て、願いを叶えてやると答える。
梨車毘とは貴族とか王子・王孫を示す梵語だから「梨車毘童子」は【小公子】ぐらいの意味である。文脈からすれば、本経中最も尊い存在は世尊であるから、単純直裁に考えれば梨車毘童子、世尊の親族である。そして少年の名前が「一切衆生喜見」、訳せば皆美(みなみ)ちゃんか魅皆(みみな)ちゃんだが、平たく云えば「一切衆生発獣欲」かもしれず、きっと、健康そうな褐色の膚に白く澄んだ目が印象的、小動物っぽくよく動く瞳は黒く深く烏眼がち、フックリとした頬が檸檬程度の尖り加減の顎に収斂し、細めの首筋がスンナリと華奢な肩へと続く、滑らかな膚に覆われた胸はまだ薄いが、線の細い脇腹のラインは程良く引き締まったヒップに繋がっている、ってな十七歳……と云えば青少年保護条例に引っ掛かるので十八歳といぅことにしておこうか。あ、いやいや、そんな事を言おうとしたのではなく、此の「小公子」は、或る【小公女】を連想させる仕掛けになっている。実は「一切喜見」とは、釈迦の叔母を示す場合もあるのだ(一切喜見如来)。当然、女性であり貴女である。彼女は釈迦の実母である摩耶夫人の妹、間違いなく釈迦の親族だったが、摩耶夫人が釈迦の生後七日目に死んだため、釈迦の父・浄飯王の後妻となって釈迦を育てた。世界最初の仏教尼僧になった人物でもある。後に仏性として最上位の如来号を以て語られるようになった以上、【成仏】している筈だ。何たって昔の仏教に於いて女性は成仏できないから、彼女(?)も女性ではなくなっている。故に本経で「童子/少年」として登場することは、極めて自然だ。彼女とすれば、本経で再び姿を変えて登場する。
さて、仏舎利が欲しいなどと間抜けな願いを申し出た婆羅門Aに対して一切喜見少年は、金光明経を教えてやると答え、「亀の毛で綺麗で丈夫な服が作れたら」とか「酒に酔った蠅が人の住める立派な家を建てられるのなら」とか、不可能なことばかり挙げて、そうでなければ仏舎利は得られないと言い添える。約めると「仏舎利を得ることは絶対に出来ない」だ。此処で注意せねばならぬことは、現在残っている殆どの「仏舎利」は、ガラス質だったりして、必ずしもカルシウムたっぷりの人骨ではない点だ。これが切支丹だったら、ザビエルの腕だとかキリストの血で塗れた布だとか、本物か否かは知らぬが、とにかく本物っぽくオドロオドロしいものを仕立て上げている。逆に仏舎利の場合は、それっぽく見えなくても、全然オッケーなんである。ってぇっか、紀に於いては仏舎利なんて金槌でブッ叩いても割れないから有り難いと判ったなんて、野蛮な話も載っている(敏達天皇十三年条)。釈迦は通常の人間ではなく、真理たる釈迦の本体が仮に此の世に現れただけだから、即ちマリオネット木偶なんだから、骨格がカルシウム以外で出来てても、誰も困らない。
少年は、仏舎利が釈迦の骨を謂うのなら、釈迦の本体は概念たる真理そのものなのだから、骨も肉もないので結局、その意味での「仏舎利」は存在しない、と喝破しているのだ。無いものは「絶対に得られない」。対して、現世で釈迦なる者が生きた痕跡としての「仏舎利」ならば、経が其れに当たるし、釈迦の本体たる真理そのもののカケラを「仏舎利」と呼ぶならば、経が其れに当たるって立場を、少年は採る。だからこそ「仏舎利をくれ」への答えが「金光明経を教えてやる」になるのだ。
せっかく婆羅門Aが納得したのに、妙幢菩薩がしゃしゃり出て疑問を呈する。経典には仏舎利の効験が説かれていると訝しがるのだ。仏は「云般涅槃有舎利者、是密意説」とし、「或時見有般涅槃者、是権方便、及留舎利令諸有情恭敬供養、皆是如来慈善根力。若供養者、於未来世遠離八難逢値諸仏遇善知識不失善心福報無辺速当出離不為生死之所纏縛」と答える。釈迦が現世に現れて見せ、挙げ句の果てに死んだり火葬されたりまでしちゃったのは、釈迦一流のチラリズム、人々を真理に感化させるため採った権(かり)の方便であり、舎利を遺したのは、「慈善根力」。この四文字を我流に訳せば、それまで眼前にいた信仰もしくは信頼感の対象がイキナリ全く痕跡も留めずに無くなることによる信者の喪失感を軽減する温情の表れであり偶像崇拝はレベルが低いというものの信仰の縁(よすが)を必要とする者をも救うためには方便としての利用価値はある、ぐらいになろうか。また仏の云うには、仏舎利を供養すれば、生きることに依る苦しみや悩みを離れ、真実を語る者に出会え、よいことがいっぱい起こる、但し、来世に於いて。則ち、現在に生きる自分の知らない過去の現世に釈迦が生きた痕跡(とされる仏舎利)を供養することは、過去の現世に現れた釈迦の教えを現在の自分が信じることであり、信じることに依り現在の自分は死んだ後に良い報いを受ける、とのストーリーだ。実際の所、善行を積もうと個人が幸せになる保証は全く無いのだが、せめて過去の現世に釈迦が生きた物質的な痕跡(とされる仏舎利)の存在を確認できれば、まだしも全く暗黒で無保証の未来にも、勝手に希望がもてるってもんだろう。まぁ此の段、仏舎利そのものに、より呪術的なパワーを認める解釈も可能だと思うが、差し当たっては、上記の如くに読んでおく。
第三章は、分別三身品だ。虚空蔵菩薩と世尊の掛け合いで、仏の三身、三つの段階を説く。或る時期以降の仏教で広く語られる説だから、或いは御存知むきの読者もおられよう。ただ、繁く謂われるのは、「法身・報身・応化身」の三身だが、本経に限れば「法身・応身・化身」となっている。読んでみると差別はないので、単に用語の違いだけだろう。本経が此処で三身説を持ち出したのは、第二章の補強って側面もありそうだ。
即ち、三段階のうち最高形態である法身、第二章の「釈迦の本体」に当たるけれども、此が理想世界を構築するため其の時その場所で最も適格な人物の形に化して現実世界に出現する。原初形態の化身である。法身の作用に依って出現したものの、現実世界に於いては単なる一般個人の資格しか有していない。ただ、仏の境地に至ろうとの甚だしい努力を積む。このうち、ほぼ完成した仏性を確立した者には、肉体的な特徴が現れる。伏姫なんかの描写でも用いられる「三十二相」とかである。足がデカくなり、しかもベタ足になる。併せて細長くなった指の股には水掻きのようなものが出来、しかも腕は立ったときに膝より下にまで伸びてしまう。肩のラインは丸くなり、膚はスベスベヌメヌメ。また舌も大きく長くなるから、まるで蛙だ。蛙と違うのは、例えば頭に巨大なタンコブが出来る所などだが、こう書くと、余り有り難そうではない(いやワザと其ぉ書いてるんだが)。此の【祝福された】蛙体型となった仏/応身は、やがて形も滅して真理そのものとなる。法身である。則ち、法身から発した化身が、最期を迎えた時点での釈迦の如く、応身/三十二相を備えたフリークスとなって有余涅槃の存在となり、更に肉体を滅して無余涅槃、法身に帰っていく。ただ、此等の論理の前提となるのが「生死涅槃是一味」って一句だ。生死と涅槃は是、一味。「油を飲め」と云われたら厭だし、「酢を飲め」と云われても困る。「胡椒を舐めろ」って強要されたら苦しいし、「キャベツを囓れ」と押し込まれても迷惑だ。それぞれ不快であるが、キャベツを刻んで適量の油・酢・胡椒を混ぜて振りかけ、一味に頬張れば、或いは美味だったりする。
生死には様々な種々相があり、殆どが苦痛/苦悩の種でしかない。苦痛/苦悩は起伏に依る。起から伏へと転落するとき、或いは伏に留まるとき、人は苦痛/苦悩を感ずる。しかし、其等すべてを一口に頬張り咀嚼すれば、一つの味に混ざり合い平均化される。起伏がフラットとなる。或いは写真撮影の世界では、現世に溢れる様々の色は、平均化すれば反射率十八パーセントの無彩色グレーになるのだけれども、同様に、赤だ青だ黄色だと騒いでみたところで、押し総べれば十八パーセントのグレーに落ち着いてしまう。また逆に十八パーセントグレーは、無彩色ではあるけれども、実は全ての色を含蔵している。色即是空、空即是色。陰も陽も、混沌から生まれたのだ。
また、此の第三章では、法身を喩えるに金を使う。「譬如有人願欲得金。処処求覓。遂得金礦。既得礦已。即便碎之。擇取精者爐中銷錬。得清浄金。隨意迴転。作諸鐶釧種種厳具。雖有諸用。金性不改」。要するに、金鉱石を砕き精錬した結果として純金を得て装飾品を作ったとしても、元々金鉱石に含有されていた金の組成が変わるわけではないって言い方だ。金鉱石が化身で含まれている金粒子が仏性、装身具が法身、金の組成式の背景にある真理が法に当たろうけれども、どの段階が応身なのかは判らない。また、続いて、「譬如真金鎔銷治錬。既燒打已無復塵垢。爲顕金性本清浄故。金体清浄。非謂無金」。大乗仏教の行位に当たる十地を述べ、最高の状態である第十段階「如来地」を説明するに当たって、またもや「金」が登場する。不純物だらけの金鉱石に色々手を加えて精錬し無垢の純金を得たとする、此を以て、屑にしか見えなかった金鉱石から金粒子による仏性のみを取り出せば、全く無垢清浄な純金となる。即ち俗塵を濾過していけば、無垢清浄な仏性が上澄みとして残る。此の上澄みが、法身だと云っている。結局、法身の如来地とは、全く清浄な状態であることを示している。且つ、「清浄」の代表を「金」としている点には、注意を要する(もう一つ清浄の代表として純水が挙げられているけども)。また、清浄は【空】の境地とも云われることはあるけれども、空が【無】ではないのは、金が清浄だからといって、金を無とはいえないことと同じだと語っている。
人は皆、仏性を備えている(ことになっている)。此を、真理そのものである法身の現世への出現ゆえと考えてもよかろう。ただ濁世に生まれたからには、如何しても俗塵に塗れ、人は汚れてしまっている。此の必然たる汚穢を、努力によって浄化していく作業、本性たる清浄心を取り戻す行為に邁進すれば、化身・応身を経て、最も清浄なる状態、法身となるって寸法だ。濁世に於ける必然たる汚れは、「殺せ、施すな」とばかりにリヴァイアサン、万人の万人に対する闘争ってイカニモ勇ましいイメージとなるが、こりゃぁ単なる臆病者、易きに流れる人の性。対して、敢えて「殺すな、施せ」って逆説を叫んだ釈迦ほど喧嘩腰の強い漢は、そぉはおるまい。まことに痛快である。
しかも此の喧嘩腰が、単なる蛮勇でなく熟慮の末だとも思えるから、尚更だ。「殺せ、施すな」と闘争に明け暮れる場合、クローズアップされた成功者個人は確かに一時的な成長は果たせるのだが、社会全体として、これほど生産性の低い非合理なものはない。何たって、資源を無駄にしている。無邪気に資源を無限と考えるならば、まだしも上記の様な社会は【停滞】するに止まる。しかし若し、資源が有限である世界を論ずるならば、闘争状態は滅亡の近道に過ぎない。例えば、或る組織内が闘争状態に陥っている場合、とにかく人様の足を引っ張る、情報を操作し個人の評価を実際とは逆転させる、おいしそうな仕事に群がりダブルブッキング……こうした自分だけ楽しければ良いという不真面目お遊戯は、組織のポテンシャルと比べて、甚だしく低いパフォーマンスしか引き出せない原因となっている。組織を蝕み滅亡を早めているのだ。回避のためには、「殺すな、施せ」の理念を掲げ、例えば韓非子の「八姦」を排する常識に立ち戻るも効果的だろうけれども、既に常識は忘れ去られて久しいから、もぉ駄目だろうな。
金光明経は三身説を論じ終わり、虚空蔵菩薩らが本経を信ずれば国家安寧となり、仏教守護神群に守護されると宣言する。まぁ二品・三品の教えだけでも守れば、何たって「殺すな、施せ」を徹底するんだから、平和な時代が到来することは間違いない。ただ、そのためには人々が涅槃に入る如き達観を得ねばならないんだから、これほど困難な道もない。
本経が四天王による国土領域の守護を宣言したものである以上、八犬伝とは無関係ではいられない。問題は、如何な関係かであるが、それはまだ筆者にも解らない。(お粗末様)