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▼過剰なるヒロイン▼

 

 金碗八郎は、本シリーズで縷々述べてきた如く、【過剰】な男だ。「金碗八郎切腹の理由」で、彼は過剰なまでに義士であった故にこそ切腹せねばならなかったと考えた。山下定包の部将、萎毛酷六を討ち取ることは戦争だから許容され得るが、其の妻子まで無惨に死んでいる。八郎は直接に手を下していないものの、酷六の妻子は慌てて谷沿いの道を逃げたため転落死したのだ。毛野の復讐による馬加大記一家の族滅を思い起こさせるが、毛野の場合は、一家を惨殺されている。喪われた命の均衡はとれている。しかし八郎の場合、従僕二人は山下定包を殺そうとして誤って神余光弘を殺したから殺されても仕方ない面があるし、両親は自然死である。個人的な復讐の形が許される事情はない。結局、酷六の罪状は、光弘殺害の黒幕が山下定包、実行犯が洲崎無垢三・杣木朴平として、事情を知っていた{消極的かもしれない}共犯である一点に尽きる{酷六が光弘殺害の裏事情を知っていたことは第五回の鈍平の言葉にある}。無論、消極的であるやに拘わらず、主君殺害の共犯者である時点で、死罪たり得るし、族滅もあり得た。毛野の父も讒言によって裏切り者とされ、一家皆殺しとされた。

 よって酷六の妻子は、物語上、殺されても仕方ないのであるが、馬琴が金碗八郎に手を下させず事故死を装った点から、実際に妻子まで刑戮するは【過剰】だと感じていたことを示していよう。喪われた命の均衡をとるため、対牛楼に於ける毛野の復讐劇は、馬加大記の妻娘まで死に至らしめた。アレも事故死の形をとっていた。死なねばならぬ、との因果律と、殺さねばならぬ、との意思との間には、間隙がある。其の間隙を意識して、主人公側に対する読者のシンパシィを損なうことなく、物語の因果律を維持するために馬琴が採った、苦肉の策であろう。結局、読者の感覚としては過剰に思えるであろうからこそ、馬琴が直接に手を下させなかった酷六妻子の死亡事故そのものが、其れに絡んだ八郎の、過剰さを表現していると、筆者は見ている。殺そうと殺すまいと、死なせたことに変わりはない。ただ、言い訳が出来るか否か、だけの話である。{読者の感覚としては}殺す必要まではなかった酷六妻子の実質的な殺害は、死ぬ必要がないように思える八郎の切腹と、対応している。たかが変装するために漆に塗れた八郎は、一貫して、【過剰】なんである。そして過剰であるが故にこそ、山下定包による簒奪から、仁君里見義実の登場へと事態を動かせた。「まぁいぃか」と適当に流せば、事件は起こらない。過剰こそが事態を動かす動因となるのだ。故にこそ、ヒーロー・ヒロインは何か過剰な部分を持っていなければならない。過剰であるが故に、八郎は英雄たり得たのである。

 

 八郎の見せた過剰さは、伏姫にも見られる。【普通】なら犬相手の婚約なんて必ずしも守らなくともよい。誰だって冗談だと思うだろう。しかし伏姫は、履行した。義実だって仁君だから、【普通】よりは民を尊重し約束を守るだろうが、それでも犬相手にまで婚約を果たそうとはしなかった{ただし無視するのではなく気に懸ける程には犬である八房の人権……犬権? を考慮している}。父の【常識的】な意思を否定してまで伏姫は、犬と配偶した。過剰もしくは【異常】である。伏姫の異常な過剰さは、八郎と共通である。また、伏姫は切腹時、以下のように云っている。

 

     ◆

火宅を出て煩悩の犬も菩提の友なれば、この身は絶て穢されず犯されねども、山菅の実ならぬ身さへ結びては、有無の二ッをわれからに決めかねてぞ侍るかし。又父うへの御こゝろに、そを壻がねにと予より思食たるものありとも、この期になりて云云と聞えさせ給ひては、人も得しらぬおん愆をかさねさせ給ふならずや。譬ば金碗大輔と■ニンベンに未/■ニンベンに夫/の因なしといふとも、親のこゝろに許させ給ひし夫に負きて八房に伴れなば、をんなのうへにこよなき不義に侍るべし。素よりわらはに壻がねのありとしるべきよしもなし。わらはもしらず渠もしらず君只ひとり知召は、墳に剣を掛るもよしなし。又八房を夫とせば、大輔はわらはが為にこよなき讐に侍るめり。八房もわが夫に侍らず、大輔も亦わが良人ならず。この身はひとり生れ来て、ひとりぞ帰る■木に親/出の旅、留め給ふはおん慈み過てあまりに情なし……中略……その父なくてあやしくも宿れる胤をひらかずは、おのが惑ひも人々の疑ひも又いつか解べき。これ見給へ{第十三回}

     ◆

 

 伏姫の切腹は、胎児がいないことを以て八房との関係が潔白であると証明するためのものであった。が、伏姫は何やら前段で、グジャグジャ言っている。

 菩提の友となった八房は伏姫を犯さなかった。そして「山菅の実ならぬ身さえ結びては」と云う。やや難解だが、「妹為 菅実採 行吾 山路惑 此日暮/妹がため菅の実摘みに行きし我れ山道に惑ひこの日暮らしつ」{万葉集・巻七・一二五〇}などからも菅の実を女性に贈ると喜ばれたようだが、「山菅之実不成事乎 吾尓所依 言礼師君者 与孰可宿良牟山/菅の実ならぬことを我れに寄せ言はれし君は誰れとか寝らむ」{万葉集・巻四・五六四}などからすれば、如何も此処で云う「山菅」は実をつけぬ植物のようだ。

 

 「山菅 乱恋耳 令為乍 不相妹鴨 年経乍/山菅の乱れ恋のみせしめつつ逢はぬ妹かも年は経につつ」では狂おしい恋心を「山菅の乱れ」としているので、ゴチャゴチャ密生するものでもあるらしい。そして「足引 名負山菅 押伏 君結 不相有哉/あしひきの名負ふ山菅押し伏せて君し結ばば逢はぜらめやも/」{万葉集・巻十一・二四七七}に至っては、山菅は、強引なIntercourseの舞台である。何たって山菅を押し伏せ屋外で君と「結ばば」、「逢わないわけにはいかなくなってしまう」。強引なほど情熱的に愛されたいと願う心情を歌っているか。此処で「結」はIntercourseである。

 

 しかし、やはり、伏姫の云う「山菅の実ならぬ身さへ結びては」は、【実のつかぬ山菅ならぬ人間の私が妊娠してしまったのだから】となる。そして、続く「有無の二ッをわれからに決めかねてぞ侍るかし」は、【憶えはないが、実体のある子どもが出来ているか否かを自分でも判別しかねている】と解するべきだろう。

 

 此処までは問題がない。そして、伏姫は、義実に対し、大輔を婿にしようと考えていたと口に出すことは、今まで誰も知らなかった義実の過ちを明かすことになる、と窘める{第十回で既に義実は、五十子・伏姫の前で大輔を婿にする積もりだったと云っているのだが、伏姫は絶望の故か馬鹿親父の言葉なぞ聞いていなかったらしい}。さすがに娘だけあって、父の欠点【云わずもがなのことを云う】を熟知している。大輔を婿にしようと考えていたのに、義実は八房に、条件付きで婿にすると云ったのだ。冗談とか戯れ言ではなく、全くの空手形、嘘である。二枚舌にもなろう。

 伏姫は、大輔が婿予定者であった事を知らされ、自分が不義を犯したと考える。義実が大輔を婿として{密かに}決めていた以上、反対する父を振り切り自分の意思で八房と共に家を出た伏姫は、不義を行ったことになるからだ。伏姫は、父に言の過ち/守ろうとする意思のない契約を八房にだけ履行させた詐欺の罪から引き離すため、自らすすんで八房を婿とする契約を履行した。しかし、父の望んだ婿予定者がいた以上、理由は如何あれ、伏姫は婿予定者以外の男{牡?}を選んだことになってしまった。不義である。則ち、八房は、条件付きで伏姫との婚姻を許され且つ条件を満たしたのだが、実のところ義実が婿として想定した相手ではないので、伏姫の夫とはなり得ない、との論理である。伏姫は八房と、私通、野合を犯したのだ。畜生道である。

 まさに義実の言葉そのものにより、伏姫は、畜生道に堕とされたのだ。既に玉梓怨霊は解脱している。良将……であるとは認めたくはないが、良将である義実に玉梓怨霊は元々憑依できない。玉梓怨霊は単に、義実の行く手に先回りして、義実が勝手に犯す過ちを待ってさえいればよかったのだ。八房を飼い始めた理由は、狸が八房に授乳したからだ。狸を里見の犬だと絶賛した義実は、安西景連に、棲息してもいない鯉を釣ってこいと云われ、鯉は龍に縁がある吉兆だと喜んだ前科もある。

 

 但し、伏姫・大輔の婚姻は、義実が肚の裡に思っただけだから、伏姫が八房と家出をしたときには、伏姫と大輔の婚姻も成立していなかったと断言する。此の言葉は裏返せば、義実が宣言し伏姫・大輔が聞いた瞬間に{拒否することは想定できないので}婚姻関係が成立する、との意味になり得る。また、八房を夫とすれば大輔は最悪の仇となってしまう、とも云う。政治的もしくは文学的結論として伏姫は、八房も大輔も、夫ではないとする。「この身はひとり生れ来て、ひとりぞ帰る」は、【人間は一人で生まれて途中で色々な関係を結ぶにせよ結局は一人ずつで死んでいく】ぐらいの慣用表現だろうが、此処では、夫をもたず処女の侭で死ぬ、との意味を込めていよう。則ち伏姫は、八房も大輔も夫としては認めない、謂はば処女の立場を堅持し、且つ、処女として実体のある胎内に子を成していない証明のため、割腹する。二夫にまみえないどころか、一夫にもまみえない。此が、伏姫の結論であったのだ。

 

 伏姫の論理は、詭弁にも庶い。「あやしくも宿れる胤」を自覚していた。実体があるや否やは判断できなかったが、とにかく何かの気が宿っていることは自覚しており、牛飼童の言により、八房と相感した結果だとも知っていた。霊的な相姦である。是は伏姫も許容する所であった。気の次元に於いて、伏姫は既に処女ではない。ならば伏姫は、相感しても八房を夫と認めないということになる。妊娠しても、相手を夫と認知してやらないってことである。親兵衛を富山に引き取って養育したことから明らかなように、伏姫は事実上、犬士を自分の子として認知している。……こんな奴は他にもいた。八郎である。濃萩に手を出したが、少なくとも其の時点で妻として認めたくなかったからこそ、堕胎を勧めて姿をくらましたのだ。しかし最期のときに現れた加多三を八郎は、認知していると思しい。

 まぁ其れは措き、伏姫が証明しようとしたものは、犬と実際に肉体的なIntercourseをしなかったことだ。気の相姦も妊娠も、肯定していた。則ち、気の次元では八房を夫と認めていることになる。そして生き延びて大輔を夫とするならば、其れは気の次元での婚姻ではなく、実際に肉体的なIntercourseをすべき婚姻となる。よって伏姫の言葉は、八房は気の次元では夫だが、実際に肉体的なIntercourseを為しておらず、父が望んだものではないので正式には夫たりえない、ほどの意味だろう。精神と肉体を別次元のものとするパラダイム自体を逆手に取った二重基準の詭弁である。若しくは、精神・肉体両面の結合を以て初めて夫婦と考え、一方のみでは婚姻の成立を認めない立場であったか。

 

 伏姫と八房の気が相感して、犬士の精が生じた。此れは、恐らく役行者が正体である所の、牛飼童が語った話だ{→▼}。まず間違いないだろう。密通とか不義とかが、八犬伝で否定されていることは論を俟たない。しかし第百三十一回、丶大を犬士の義父にするや否やで揉めたとき、道節は、伏姫を「宿世の母」と言うのは良いのだけれども、丶大を「宿世の父」と言っている。此処が誤解を生ずる。義実は当然の如く認めたがらなかったが、伏姫は八房と配偶した。そして八犬士の精を宿した。犬士にとって「宿世の父」は八房である。限定せぬまま丶大をも八房と同じ意味で「宿世の父」とするならば、伏姫は二重婚もしくは不義密通を行ったと云っているに等しい。此れは馬琴の許容する所ではないだろう。もし八房・丶大ともに犬士の「宿世の父」であり、且つ伏姫が不義密通を行っていないとするならば、八房と丶大が「宿世の父」である期間が重なっていてはならない。更に、あくまで犬士の父は八房なのだから、丶大が「宿世の父」である期間は八房と伏姫の気が相感し始めた瞬間より後に始まったことになる。

 八房と伏姫の気が相感した瞬間は明確ではないものの、水面に映った伏姫の顔が犬に見えたときまでは遡ることが出来よう。牛飼童によれば、犬士精の妊娠期間は六カ月であった{犬の妊娠期間を六十日、人を十カ月としているので、足して二で割ったか}。

 比喩としても【丶大が伏姫の夫となる】瞬間は、伏姫・義実・大輔の三人が一堂に会する場面より以前ではあり得ない。丶大と伏姫の婚姻は、恐らく八房が死んだ後であり、里見義実が密かに企図していた二人の婚姻計画を富山で口に出した時刻であったろう。但し、八郎が出家した時点で、婚姻関係は解消された筈である。

 

 「八房もわが夫に侍らず、大輔も亦わが良人ならず」。此は上に書いた通り、伏姫の「政治的もしくは文学的結論」である。相感した相手の八房が実際上の夫であることは、否定できない。

 

 牛飼童の言に拠れば明らかに、八房は伏姫の「夫」であり、相感して八犬士の精を成した。そして大輔をも「夫」と云っている。牛飼童/役行者の言葉は、八犬伝に於ける確固たる規定である。義実がアサッテな事を云うのとはワケが違う。また一方で伏姫も、大輔を夫たるべき人物であるとまでは認めている。だからこそ不義云々と云うのだ。しかし事実上の夫である八房を、正式に夫と認めては、大輔を仇とせねばならない。だからこそ、八房を夫とは認知しない。実は伏姫の言葉は、上述の通り、極めて政治的もしくは文学的なんである。真実のところ伏姫は、八房も大輔も、共に夫と認めているのだ。しかし心に浮かんだ真実を、其の侭で発話すると、義実のように言の過を犯す。大輔を既定の夫とすれば、八房を婿にするとした義実の言葉は最初から全くの嘘となり、且つ伏姫を不義の罪に落とす。八房を夫と認めたら、大輔を仇にしてしまう。故に、八房・大輔とも夫と認めるわけにはいかない。観音の化生らしい、方便である。

 伏姫切腹の動機は、あくまでも、SexialIntercourseしていない証明のためだ。しかし現象として、潔白の証明も成ったが、八犬士を虚空に迸らせ関東に散らすための帝王切開であった。そして前段で、既に死んだ前夫である八房と新たな夫となる大輔を、共に夫と認めつつ、夫と認めない態度を見せる。時は恐らく、七夕であった。嘗ての七夕、切腹している八郎と対面した加多三は、大輔となり伏姫の切腹に立ち会ったのだ。

 

 ところで個人的にはアレだが、近世には「婦人には三従の道あり。凡そ婦人は、柔和にして、人に従ふを道とす。わが心にまかせて行なふべからず。故に三従の道と云事あり。是亦、女子に教ゆべし。父の家にありては父に従ひ、夫の家にゆきては夫に従ひ、夫死しては子に従ふを三従といふ」{和俗童子訓}なんて論理が横行していた。勿論、伏姫は、父の反対を押し切って八房と同棲したし、八房を正式な夫と認知せず、子どもの犬士にも従っていない。舵九郎は股裂にするわ、妙椿とキャットファイトするわ、大猪を暴走させるわと、所謂女大学とは無縁だ。が、近世通俗道徳に於いて、女性にとっての親や夫は、男にとっての主君に比すべきであろう。例えば、結婚した女性にとっての親は旧主君、夫は新主君に当たろう。

 

 伏姫が切腹した日から二十回ほど前の七夕、金碗八郎が切腹した。「金碗八郎切腹の理由」でも述べたが、八郎は、自らの潔白を証明しようとしたのだ。元従僕の洲崎無垢三・杣木朴平が旧主神余光弘を殺し、結果として里見義実が安房半国の領主となった後に半郡を領し城主に任じられたら、まるで元従僕が光弘を殺したため得をしたように思われ、且つ義実の命を受け容れない申し訳なさ故に、切腹したのだ。旧主への義理と新主への忠義を両立するための暴挙であった。惟えば伏姫は、旧主君とも謂うべき父の義実と、新主君とも謂うべき新郎の大輔双方を共に慮る発言をした。八郎と伏姫の思考法は、かなり似通っている。こういったキャラクターが、馬琴のお気に入りだったのだろうか。

 

 ところで、伏姫は、八犬士精を胎内から放ち、喜んだ。第一義には、自分が犬とSexialIntercourseしていなかったこと即ち清浄であることが証明されたからだ。勝佐備{古事記}である。しかし、それだけではない。

 伏姫切腹の段は、記紀に載す、天照太神・素盞嗚尊の誓約{うけい}場面を思い出させる。素盞嗚尊が亡き母を想って激しく泣くので、伊弉諾尊は素盞嗚尊を追放した。素盞嗚尊は姉に挨拶しようと高天原へ赴いた。天照は弟が高天原を奪うつもりだと疑い、真実を占うために、それぞれ二人が物実{ものざね}から神を生むよう提案する。

 古事記では、天照は素盞嗚尊の剣から三女神を、素盞嗚尊は天照の玉から五男神を生んだ。素盞嗚尊は、自分の所持していた剣から女神が生まれたことを以て、自分の心が「清明」であると主張し勝利宣言。

 日本書紀本文では古事記と現象が同じだが、素盞嗚尊が五男神を生んだ事を以て「清心」を証明した。一書第一では、天照が自分の剣から三女神を生んだ。素盞嗚尊が自分の玉から五男神を生み「明浄」な心を証明した。一書第二では、天照が自分の玉{高天原に行くとき羽明玉から貰った玉を素盞嗚尊が献上したもの}から三女神を生んだ。素盞嗚尊が自分の剣から五男神を生み「赤心」を証明した。一書第三では、天照は自分の剣から三女神を生んだ。素盞嗚尊が自分の玉から六男神を生み「不有奸賊之心」を証明した。

 古事記と日本書紀で主張するところが逆であるが、此処では正史の論を採り、日本書紀本文を最優先する。本稿は、神話の原初形態を探求するものではなく、馬琴に対して何が説得力を持ち得る史料かを考える。玄同放言などでも馬琴は、日月神と素盞嗚尊が伊弉諾・伊弉冉両尊から生まれたとしている。即ち、古事記ではなく日本書紀本文系神話を尊重していることが窺える{古事記などでは、伊弉諾単独で日月神と素盞嗚尊を生む}。

 記紀何連にせよ、素盞嗚尊が勝利しているが、男神が生まれたことを以て、心の明浄を証明できたと考える。また、記紀本文共通の三女五男神を正統とする。日本書紀一書第三のみ三女六男の九柱が生まれているが、此れは素盞嗚尊の左右対称の身体部位から子神を発生させるため後付けに作為したと考える。結局、両神で三女五男を生み、素盞嗚尊は自分が男神を生んだことを以て明浄心を証明したとする。

 八犬伝では伏姫から八人分の精が飛び出したが、相感の結果なので、伏姫・八房が共同して儲けたものだ。よって、誓約神話に於ける、天照皇太神・素盞嗚尊、二柱分八神と対応していると考える。八犬伝終盤で、犬士は「純陽」{第百八十勝回中編}とされる。全員が男子であるからだ。則ち、伏姫・八房ともに明浄心を持っていた故に、相感して天照・素盞嗚尊二神分の八男を儲けたのだ。玄同放言で馬琴は、素盞嗚尊を「房」星としていることから、八房が素盞嗚尊を投影されていることは、云わずもがなであろう。{お粗末様}

 

 

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