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却説。熊谷直親は義成にうち向ひて、房州将軍家の御諚あり、といへば義成「阿」と応て膝を找めて拝聴す。直親大紋の袖掻合せて、抑旧冬兵乱の事、其基本を原ぬるに、扇谷定正が聊なる怨によりて、山内顕定と近国雷同の兵を連ねて、安房上総を伐まくす。其闘戦破れしより、東国いまだ静ならず。這義既に京師に聞えて、上の御心安からず、因て詮議を遂らるゝ所、定正顕定の非理分明也。この故に我直親を御使に做されて、御譴責あり。直親則、上野沼田白井及河鯉の城に発向して上意を伝へて其罪を責るに、定正顕定、長尾景春に至るまで各其非を後悔して稟し解くに詞なく、罪過を恩免あるならば里見義成と和睦して東国太平の功を奏すべし。但定正顕定の児子及合戦の諸将の敵に生拘られて今猶稲村の城に在る者主僕十二人なるべし。義成速に和議を容れて其敗将等を返し候はゞ両国是より好みを結びて唇歯の思ひを做すべきのみ。這義に叛き候はゞ天誅国罰両ながら身に受て子孫断絶せん。言佯りなき照据にとて、則連署誓文に血を濺ぎ各征箭を折添てまゐらせたり。人過ちて改るに憚りなし。両管領かくの如くなる上は荷担の諸将孰か違ん。房州は忠義孝順の人也。其義は室町殿も知し召ぬ。速に御承ありて捕所の敵城を返すべく、虜にしたる敗将等を速に放還さば公私の幸甚しからん。這義は諚意のみならず、最も畏き天朝も叡慮安からざる所あり。且房州再三貢献の忠誠と其家臣八犬と唱ふる者の戦功を叡聞ありて連りに御感のあまり、勅使代秋篠主を添られたり。無異の御承しかるべし、と説れて義成喜悦に堪ず、謹答るやう、御諚承り候ひぬ。曩には義成、水陸三路の大敵に当るといへども只防ぐを旨として殺伐を好とせざりしに諸隊の壮佼八犬士等が北るを逐ふて敵の棄たる城に据りたるも是あり。或は又殺さで生拘候ひし敵将も多かるは、只其暴を懲さん為のみ。久しくむべきにあらざりしを、いかにせん、大敵遠く跡を埋めて和を講ずる者なかりしかば、今に至り候ひぬ。然るを天威御武徳の過分き恩命を辱くす。何をか違背仕らん。速に那城を返し敗将を送り遣ん事、臣が情願に候へども、いまだ両管領より和睦の使者なし。この義誰何と請問へば、外廂に羅列れたる京家の雑掌両三個遽しく膝を找めつ恭しく義成にうち向ひて、賢侯其義は御こゝろ休かれ。臣等は京家の人ならず、実は扇谷山内滸我三将の老党なる巨田薪六郎助友斎藤左兵衛佐高実下河辺荘司行包等で候也。又只我們のみならず千葉の老党原胤久の弟なる原赤石介胤輔長尾の老党直江荘司三浦の兵頭水崎蜑人等も這里に侍り。寡君定正顕定は将軍家の御譴責に畏みて和睦の御承を仕るといへども、いまだ賢侯の同意あるべきや否を知ず。この故に京家の御使に請まつりて、我們其伴当に打扮て倶して推参仕りぬ。事機変に似て機変にあらず。いかで海容を願奉る、と異口同様に陳謝して携来たる素朴の三方托に定正顕定の折て和睦の誓にしたる白羽の征箭二条載たるを、助友高実拿揚て義成主に晋呈す。当下下河辺原直江水崎等四老党も倶に義成にうち向ひて額を衝き拝謝して和親の使者の礼を尽せば、熊谷直親執合て、房州疎略をな咎め給ひそ。両管領諸敗将は只管和議をいそぐの故に我其使を将て来れりと陪話れば義成異議もなく、其義こゝろ得候ひぬと応て傍を見かへりて件の使者に答るやう、憶ざりける亟の通交、義成も亦歓び思へり。和睦の事は別議なし。余事は後刻談ずべし。倶に客の間に退きて俟こそ便宜なるべけれ、と亟の応に助友等は相歓びて言承しつ{第百七十九回}

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