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■歴史からの離陸■
 
 細かい差異は当然として、八犬伝世界と、史実と思われるものとの決定的な違いは、まず、安房里見家と関東足利氏との関係である。八犬伝で安房里見家と足利成氏は、敵対するに至る。しかし、史実と思われる所の者では、安房里見家こそ関東足利家にとって最も親密な藩塀の一つであった。
 
 史実と思える世界で里見家は、成氏のため関東足利家のために働き、多くの血を流した。馬琴も当然、知っていた筈だ。八犬伝第百七十九回下、捕らえた成氏を義成が慰問し、所領が少なくて不如意だろうと「御弓の荘」を譲ろうとした。成氏は断ったが、御弓の荘は何時の間にか関東足利家の所領となっており、古河公方の分家に当たる足利義明が拠って御弓御所と呼ばれた。「里見義堯の時に至りて、許我より足利義明を招きよせて上総の御弓に在しめて北条氏と力戦の後盾にしたりしかば、時の人義明を御弓の御所とぞ称ける」。此の結果、足利義明と里見義堯は後北条家と戦った。第一次国府台合戦である。
 ところで国府台合戦は二次に亘って行われた。第一次で御弓御所が討たれ、第二次で里見家が甚大なダメージを受ける。近世に流布した軍記類には二つの合戦を混同し、御弓御所を守ろうとして里見家に深刻な被害が生じているものもある。しかし馬琴は精確に二次に分けて記述している。領内を巡見した河鯉孝嗣が国府台城の弱点を見抜いた。しかし里見義弘はバカだったので折角の機密情報を受け継いでおらず、却って後北条家に城の弱点を見抜かれ大敗した{第百八十勝回上}。第二次国府台合戦である。
 御弓の荘を持ち出した馬琴の意図は当然、史実に見られる関東足利家と里見家との強い紐帯を暗示する所にある。馬琴は、こう云いたいのだ。「絵空事を書いてはいるが、歴史を知らないわけじゃない」と。虚構の空を飛翔し続けてきた八犬伝が、そろそろ現世/史実の世界に着陸しようとするサインかもしれない。
 
 だいたい馬琴は回外剰筆で、以下の如く語る。
 
     ◆
只是のみならず、三国志演義なる、落鳳坡、又水滸伝なる史家村の如く、作者の作設けたる地名なきことを得ず。蓋稗史小説の自由なる有恁ること尠からぬを、土人は今の称呼と違へりとて笑ふもあらん。其は小説の小説たるを知ざるなれば辨するに足らず。又人名なども胡意称呼を異にして実に据らざるも、間是あり。譬ば足利成氏は読て是をシゲウヂといふべし。何とならば、当時足利学校なる一老僧の随筆に成氏を重氏と書たるあり。是に由てこれを観ば、成氏の和訓シゲウヂなる事疑ひなし。この義は、近曽南畝莠言、其他の随筆にも載たれば、吾辨を俟ずして知る人は知るべけれ。因て憶ふに結城成朝は、持氏重氏の余党也。重氏の一字を授けられたる歟。然ば成朝の成も、字の如くにはあらで、読てシゲトモとこそいふべけれ。この例をもて推すときは、里見義成も、当時の称謂はヨシシゲなりし歟。是も亦知るべからず。しかれども本伝には、胡意其実に由らず、則世俗の訛れる随に、ナリウヂ、ナリトモと傍訓せしは、実録ならぬを諦す也{回外剰筆}。
     ◆
 
 馬琴の論理構成は、「成氏」を「重氏」と書いた例を挙げ、「成」と「重」との訓みで共通する「しげ」に着目、「成氏」を「シゲウジ」と断じており、成氏と仲の良かった結城成朝が「成」字を与えられた可能性を指摘して、「シゲトモ」と訓んでいる。如斯く考える馬琴ならば、成氏に一字を与えて元服せしめ関東公方に据えた張本人たる京都将軍足利「義成」を、「よししげ」と訓むに至ったと思しい。足利義成……またの名は、足利義政である{まぁ関東筋から成氏を関東公方に据える誓願が行われたわけだが、決定を下したのだから、将軍としての結果責任を問われよう}。閑話休題。
 則ち馬琴は、関係が深い者同士の場合、立場の強い側が自分の名前の一字を相手に与えることがあり、其の場合は、字のみならず訓みも共通する、と考えている。こうした前提に立って、里見義成の「成」も「シゲ」と訓ずるのではないかと推定している。年齢は恐らく、成氏>成朝>義成であるし立場を勘案して、成氏が義成に「成」字を与えたと考えているのだろう。里見家と親しい間柄だった結城成朝が里見義成の烏帽子親となっても構わない。結果は同じで、とにかく成氏・成朝・義成の仲良し三人組は名前の一字と其の訓み方が共通していると云っているに外ならない。結局、里見義成が、足利成氏もしくは其の眷属たる結城成朝と{少なくとも元服時には}親密な関係にあったと云っているのだ。八犬伝でこそ足利成氏に里見義成を攻めさせたが、馬琴の歴史認識は極めて穏当であり、成氏と義成との間に、蜜月関係を感じているらしい。八犬伝では、里見義成を「ヨシナリ」と訓ませており、同様に足利成氏も「ナリウジ」と訓んでいる。即ち架空の物語であることを示すため「成氏/シゲウジ」を採用せず「ナリウジ」と変読しているのだが、里見義成も仲良く平行移動させ、「ヨシナリ」としている。結局、馬琴は、当然ながら関東足利家と里見家が良好な関係にあったことを熟知しつつ、敢えて両者を敵対させるに至ったのである。
 
 軍記などから浮かび上がる八犬伝当該期の関東像に於いて、戦国時代の萌芽は、永享の乱ごろから見られる。いや、「軍記などから浮かび上がる」関東像は、ハナっから戦乱続きなんだが、そりゃぁ「軍記」が戦闘を中心に記述するから其の様に見えるだけだし、抑も「戦国時代」とは単なる戦乱期ではない。少々戦闘があっても、確固たる秩序維持者が存在し治安を回復できる状態であれば、「戦国時代」とは呼べない。「戦国時代」には、秩序を維持していた体制が瓦解もしくは無能化していなければならぬ。簡単に言えば、覇権が分立して互いに敵対している状態だ。
 永享の乱の原因は、鎌倉管領/関東公方である足利持氏本人が、京都将軍を蔑ろにする態度を見せた点に求められる。京都と鎌倉の緊張関係は以前からのものであったし、鎌倉府の成敗下にある関東にも将軍方の京都扶持衆が入り込んで鎌倉方武士らと紛争を繰り返していた。持氏の祖父氏満は将軍義満に戦いを挑もうとしたし、父満兼は義満と対立した大内義弘と通じて挙兵に至ったが関東を出る前に義弘敗死の報を聞いて引き返した{共に有耶無耶の裡、処罰されずに済んでいる}。
 関東足利氏は将軍の分家筋であったから、京都に事が有れば、将軍就任の資格があると考えられていた。謂はば、関東足利氏は将軍の、臣下のような臣下でないような、微妙な位置にあった。但し、氏満・満兼ともに、将軍になりたかっただろうが、それだけに将軍の権威を蔑ろには出来なかった筈だ。否定していないからこそ、権威を欲しがるのだ。持氏も、将軍の座には色気ムンムンであった。一部の軍記などには、六代将軍の座を約束されていたが反対勢力に阻止されたと書いている。実際に約束が交わされたかは判らないが、持氏は将軍位を期待して良い立場にあった。
 四代将軍義持は十六歳の息子義量に跡を継がせたが、義量は子を成さぬうち十九歳で死んでしまった。嗣子はいなかった。義持には他の息子が、いるにはいたが、出家していた。武家の棟梁が、お坊さんってのはマヅイ。なるほど順当に行けば、持氏に御鉢が回ってきそうである。が、当時の管領らが仏教界の権威であった青蓮院門跡を還俗させ、将軍にしてしまった。イーワケは、「厳正なる抽選の結果」である。しかし、一般に公職を籤で決めていたギリシア古代民主制でも、流石に軍指揮官/将軍は専門職であった。征夷大将軍を籤引きで決めちゃイカンだろう、とは思うが、当事者たちはインシャラー、「神の御心の儘に」と大真面目を装っていた。
 結果として六代将軍となった義教が、高僧らしく人格者で政治的能力も高ければ良かったのだが、此奴はトンデモナイ野郎であった。幼くして寺に入れられたため就任当初こそ、幕府・朝廷間の実務に疎い点を衝かれて公家側に対し劣勢であったようだが、そのうち権力を確立すると、少年警察官漫画{一九七〇年代のギャグ漫画?}の主人公の如くに「死刑!」を連発、【万人恐怖】の世となった。かなり嫌われ者だったらしい。鎌倉に下向して「いやぁ、持氏さん、アンタが将軍になった方が良かったっすよ」とオベンチャラを言う者もいたのではないか。オベンチャラは増長の温床である。
 増長した挙げ句、持氏は自らを将軍と対等だと感じたのではないか。関東公方は関東と甲斐・伊豆・陸奥・羽州を支配する守護大名{を統括する者}との側面もある。分国数は少ないが、精強な兵士と軍馬を産する土地柄であった。江戸の天才歴史学者新井白石は関東公方の軍事力を【日本全国の半分】と見積もっている。即ち関東公方の実力は、日本を敵に回せるんである{将軍の側からすれば、日本の半分に背かれることになる}。
 ……ただ、やはり此の計算には無理がある。管轄下の軍事力は、白石の分析通り日本の半分を占めていたとしても、関東管領上杉一族の存在が問題となる。上杉家の分国で有名どころは越後だが、然り気なく上野・伊豆も支配下であり、武蔵に対する影響力も強かった。そして関東管領の任免権は、関東公方ではなく幕府が握っていた。前に「関東足利氏は将軍の、臣下のような臣下でないような、微妙な位置」と書いたが、上杉家も、関東公方の、臣下のような臣下でないような、微妙な位置にあった。将軍に反旗を翻そうとする関東公方足利氏満を、諫死して諫止したのは関東管領上杉憲春であった。一方、持氏が管轄外の信濃で守護に敵対する在地領主を支援しようとしたとき将軍への反逆行為になるからと止めた関東管領上杉憲実の行状を鑑みるに、如何やら関東管領とは、関東公方が暴走したとき体を張って食い止めるストッパー役を、自ら以て任じていたように思われる。
 諫止とは忠の極めて高度な形態でもあり、諫死が最上であった。織田信長のウツケ振りを諫めて割腹した平手政秀の事例が有名だろう。だから何だか、上杉家が関東公方に臣下として忠を尽くしていたようにも見えるのだけれども、憲実は持氏と幕府の何連をとるか迫られたとき幕府をとっている。永享の乱に於いて、彼は幕府の発した持氏追討命令を忠実に履行した。持氏の助命を幕府に願ったが容れられなかった。持氏の肖像画の前で自殺を図り、家臣に刀を奪われ未遂に終わった。出家し関東を離れ、中国の雄大内氏に匿われ、長門で死んだ。
 幕府・朝廷は、憲実を関東の重鎮として評価していたので、関東管領に留任させようと努めたし、足利成氏を関東公方に据えるときにも、補佐役として引っ張り出そうとした。成氏も、後々まで憲実の補佐を望んでいた。しかし憲実は、宣旨案まで起草されたというのに頑なに関東管領就任を拒んだ。天皇の意向さえ無視したのだ。憲実は、隠棲したまま生涯を終えた。持氏を、春王・安王を、死に至らしめた責任を感じたか……はたまた自分が関東管領に返り咲くことで、怨みを含んだ持氏恩顧の武士たちが蜂起することを怖れたか。何連にせよ、憲実が隠棲し続けたため、結果として関東の戦国期突入が早まったと考えられる。閑話休題。
 
 永享乱が終結し、持氏遺児の春王・安王が結城に籠もった。安房里見家に続くものかは別として、「里見」も若君のもとに参じた。此の結城合戦で、関東戦国期への準備が整った。但し此処までは、京都幕府に反抗の姿勢を見せた足利持氏および遺児の討伐である。幕府側からすれば、治安回復のための行動であり、一応は鎮圧できている。関東にあっても、京都幕府が秩序維持者として君臨し得ている。即ち両大乱は結果として、京都幕府が関東支配を確認する作業だったと言い換えることが出来る。
 そして、永享の乱と結城合戦の怨恨だと主張し、関東公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺するに至る。永享乱の張本人である上杉憲実の補佐を望んでおいて今更に憲忠を敵呼ばわりしちゃっているのである。成氏の不満は、元々は憲忠に対して向けられていたのではない。成氏が関東公方になっても、山内・扇谷の両上杉家家宰すなわち長尾景仲・太田資清が関東府を牛耳っていた。二人の家宰は突如として挙兵し成氏を江之島に追っ払ったが、この時は成氏側の逆襲で、両執事が惨敗した。有耶無耶の裡に二人は赦免された。
 此の事件に至るまで成氏のもとに持氏恩顧の武士が結集しつつあった。結城の遺児である成朝さえ、関東府に出仕することになった。先学の研究に拠ると、成朝の出仕には、長尾・太田両執事が抵抗したらしい。幕府から結城成朝を赦免するよう指示した憲忠宛て書状が、放置されていたという。結城合戦の張本といえる結城家を赦免することは、持氏時代の秩序が復活することを意味する。長尾・太田両執事の相対的位置は低下せざるを得ない。持氏恩顧の武士たち即ち上杉家に怨念を抱く者たちが、次々出仕し成氏の回りを固め始めた。八犬伝にある「結城にて討死せし家臣の子孫を召出させ給ふよし聞えしかば」{第十六回}である。軍記類に拠れば、里見義実も此の時あたりまでには、成氏に侍っている。関東府の中で、公方と管領という二つの核が鬩ぎ合うことになる。危機感を抱いた長尾・太田の両家宰が大事に至らぬうちにと、結城残党の排除を試みたのが前述の江之島合戦である。両家宰の蜂起は失敗したが、今度は上杉家が中心になってクーデター計画が進められた。
 成氏が先手を打った。関東管領上杉憲忠を騙して呼び出し、殺したのである。二十数人に三百騎ほどで襲いかかったのだから、一溜まりもない。此処で歴史は、上杉一族と関東足利家との関東内部抗争へと局面が移る。即ち、関東戦国時代である。幕府が関東公方として派遣した足利政知は、伊豆国堀越で足止めを喰らい、関東支配どころではなかった。即ち現実として幕府は、関東に於ける分家/副次的王権を確立することが出来なかった。幕府から関東までの距離が伸びたのだ。京都では管領やら何やらが互いに争い合い始めていた。足下に火が点いたのだから、幕府も関東のことになんか手が回らない。また、関東では、両上杉家が優位に立っていたものの、関東足利家の抵抗は根強かった。特に成氏は、武将としての才能があったらしく、善戦した。やがて対立軸は山内・扇谷の両上杉氏間にシフトし、勢力を殺ぎ合った。伊豆に興った後北条家が成長し、徐々に支配域を広げた。そのなかで安房里見家は、一貫して関東足利家に寄り添っていた。
 
 関東戦国時代の開幕メルクマールは、成氏による憲忠暗殺事件であった。八犬伝でも「享徳三年十二月、鎌倉には成氏朝臣、亡父の怨敵なればとて、管領憲忠を、忻よせて誅せらる。是より東国再び乱れて、次の年康正元年(義実籠城、安西景連、滅亡の年なり)には、成氏の軍敗れて、憲忠の弟房顕その臣長尾昌賢等が為に鎌倉を追落され、下総許我の城に籠りて合戦亦複数年に及べり」{第十六回}と記述している。成氏による憲忠暗殺を「亡父の怨敵ならばとて」と感情的な理由に帰しているものの、軍記類も同様の理解を示している近世水準では、極めて穏当な、歴史理解といえる。
 憲忠暗殺事件に関しては、首謀者が足利成氏、実行犯は結城成朝ら成氏側近であったとの理解で間違いなかろう。ただ、ちょうど八犬伝時代を描いた鎌倉大草紙もしくは太平後記では、「結城中務大輔成朝・武田右馬助信長・里見民部少輔義実・印東式部少輔等、三百騎相催し享徳三年十二月廿七日の夜鎌倉西御門館へ押寄て時をつくる。憲忠も俄の事にて用意の兵もなかりければ無左右乱入ける程に憲忠主従廿二人切先をそろへて切て出、防戦しけれども、かなはずして一人も不残討死す」とあり、里見義実も「民部少輔」として実行犯に名を連ねている。
 しかも翌享徳四年一月廿一日、復讐の念に燃える上杉勢二千騎が攻めてきて、成氏率いる五百騎と武蔵国分倍河原で激突した。此処で成氏は奮戦し過ぎた。一応は勝利をおさめるものの、上杉勢の新手が攻めてきたとき、「成氏勝に乗て責入ける間、里見世良田深入して討死しける」。「里見」なる者が討ち死にしてしまっている。素直に読めば、直近に登場した「義実」が討ち死にしたように読める。
 里見討死の後、結城などの兵が入れ替わって戦い、扇谷上杉顕房を自殺に追い込んでいる。顕房は、定正の兄だ。同年六月、「上総介範忠京都の御教書を帯し御旗給り東海道の御勢を引率、鎌倉へ発向す。鎌倉には木戸大森印東里見等、離山に待懸防戦ひけれども悉打負ければ成氏重て新手の勢二百余騎を指向防けれども敵勢雲霞のごとく重りければ終に不叶打負、武州府中へ落行」と、敗れたものの再び「里見」が登場し、成氏側に立って戦っている。分倍河原で里見家は全滅していなかった。「討死」した「里見」は前に登場した義実ではなかったかもしれない。ただ建内記は此の時、上洛した里見の首級を「朝敵」とまで云っているから、「里見」のうちでも代表的で名のある者が分倍河原で討死したことは確かだ。即ち成氏に絡んだ「里見」には複数の代表者が存在、換言すれば「里見」には複数の流れ/一族があったと想定し得る。元より安房で戦国大名にまで育った「里見」だけが、「里見」ではない。更に云えば、建内記の当該記述から、関東の内乱状態に対し朝廷も関心を寄せており、討伐の意思を幕府と共有していたことも解る。以後、一貫して「里見」家は成氏の味方として上杉家と戦っているが、それぞれの合戦で登場する「里見」が、どの「里見」であるかは闇の中だ。
 
 実際に於いて里見家は足利成氏に、かなり肩入れしていたわけだが、八犬伝では敵対するに至る。いや、八犬伝でも、安房里見家総体としては関東足利家に対し悪意は抱いていなかった。但し既に第一回、里見季基は自らの命と引き替えに、里見家が関東足利家から自由であることを宣言してもいる。「だいたいウチは、元々南朝方だったんだしぃ」と。成氏だって当初は、美しい犬塚信乃や野蛮な犬飼現八を逆恨みしていたかもしれないが、里見家に対して悪感情を持ってはいなかった。自分の兄である春王・安王に季基が殉じたことも知っていた。関東公方就任当初は、里見義実を治部少輔に推挙している{→▼}。横堀在村の口車に乗って、父と兄の仇である上杉家に荷担し、里見家と敵対する。尤も里見家は関東足利氏の支配から独立したけれども、義実は冷淡な男ではなかったから初めのうちは、中元や歳暮、もしくは年頭八朔の贈答ぐらいしていただろう。
 
 また、在村に許我から叩き出された信乃に対し、蜑崎照文は、以下の如く説明する。
 
     ◆
わが主君里見殿は、おん父季基朝臣共侶に、結城籠城の折、忠戦の義によりて、成氏朝臣の御方たれども、近き比は、滸我の執権、横堀史在村が、奸佞非法の聞えあれば、おのづからに疎遠にして、交はじめの如くならず。されば犬塚難義に及ばゝ、われ亦一臂の力を勠して、追手の兵を殺ちらし、相伴ふて本国へ、還らんとこそ思ふなれ。人々心安かるべし{第三十七回}
     ◆
 
 里見・結城氏が関東足利家の「御方/味方」だったと説明しつつも疎遠であるとのフィクションを設定し、原因として奸佞非法な横堀在村の存在を挙げている。即ち、在村の存在もしくは言動がフィクションならば、足利成氏と里見家の疎遠さもフィクションとなる。在村は未生の人物すなわち架空の人物と考えられるので、成氏と里見家の敵対も八犬伝中のみの虚構である、との逃げ道が見える。
 里見義実が龍の股間を見詰めたとか何とか、杉倉・堀内両臣との逃避行も、フィクションではあるけれども、義実が結城合戦で敗残し安房に落ちたという戦国大名里見家に於ける伝承を、基盤に据えている。歴史の空白を埋める類のフィクションであり、歴史と対立しようとするものではない。あくまでフィクションであるとの前提に立つ限りに於いて、稗史作者の自由な妄想が許される。「いや歴史の動きの裏には、こんな事情があったんじゃないかって、私は思うわけですよ」……思うだけなら何だって自由だ。ただ、それだけでは史たり得ない。
 対して里見義成が足利成氏と戦って打ち破り生け捕りにしたとの八犬伝ストーリーは、歴史の流れを無視した創造としてのフィクションであり、歴史と対立せざるを得ない。里見義実が上杉憲忠暗殺の実行犯として手を汚す軍記まであるのだ。里見家は成氏ベッタリな印象を近世人に与えていただろう。馬琴が知らぬわけがない。通説に反する関係を書くに当たって馬琴は、「里見家は元々成氏の味方だが、横堀在村なる悪人によって疎遠になったのであった」と書かねばならぬ性分を有していた。歴史を知らずに書いてるんじゃないぞ、との気持ちが働いたのかもしれない。とにかく、此の類のエクスキューズは結果として、【歴史からの離陸】を宣言している。
{お粗末様}

 
 
 

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