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■足利成氏を捜せ■
 
 永享の乱で、持氏は永安寺、嫡子義久は報国寺で詰め腹を切らされた。続く結城合戦に於いて次男春王・三男安王が捕らえられ、京への護送途中、美濃国垂井金蓮寺で殺された。寺の名に疑問が残るが、概ね馬琴の記述通りである。そして成氏に就いて八犬伝は、以下の如く語る。
 
     ◆
嘉吉三年の比かとよ、前管領持氏朝臣の季のおん子永寿王と申せしは、鎌倉滅亡のとき乳母に抱れ信濃の山中に脱れ給へば、郡の安養寺の住僧は乳母が兄なるをもて精悍しくとりかくし、譜第の近臣大井扶光と心を合して年来養育し奉る、と鎌倉に風聞せしかば、{関東}管領憲忠の老臣長尾判官昌賢これを東国の諸将と相謀り遂に鎌倉へ迎とりて八州の連帥と仰ぎ奉り則元服させまゐらせて左兵衛督成氏とぞまうしける。されば結城にて討死せし家臣の子孫を召出させ給ふよし聞えしかば{第十六回}
     ◆
 
 現代の読者は、現行の通説に近いため当たり前のように読み飛ばすだろうが、馬琴が八犬伝を執筆した当時、互いにチグハグな各種史資料が併存した。にも拘わらず、馬琴は極めて穏当に整理できている。例えば、鎌倉大草紙は、八犬伝記述と全く異なるストーリーを採用した。成氏/永寿丸は結城合戦終了時、二人の兄と共に捕らえられ京へ護送されていたが、まだ幼かったため助命され、美濃国守護土岐左京大夫持益に預けられたとしている{→▼}。
 
 しかも面倒なことに、東福寺仏照派書記正徹{紀清巌、号招月}の遺作を弟子の正広が文明五年ごろまでに編纂した歌集「草根集」巻七、宝徳元年八月十日および同十八日条には以下の如くある。
 
     ◆
草根集巻之七
宝徳元年正月朔日試筆とて三首よめる。
……中略……
八月四日刑部大輔の家の会に
……中略……
十日藤原利永沙汰せし月次にまかり出たりし頃、土岐左京大夫持益家に故鎌倉の持氏息来。十九日関東還入のよし聞えし。幼稚の御時見まゐらせし。今一度見奉らんとて会衆外に参る程に、今年九かへりまてむなしく在京の御事、無為に又かへし申さるゝ。ありかたく侍る。対面ありて歌の事なと承を当座におもひつゝけて三首の歌を書てまゐらせし。
九とせ君こゝのへのうちをたに見すともなれし月なわすれそ{九年/ここのとせ/君九重の内をだに見ずとも馴れし月な忘れそ}
あやふきをあまかけりてや守りけん雲ゐの鶴か岡のへの神
いにしへの契たかへす栄なん都をあふけきみかゆくすゑ
その次に五歳の御とし自鎌倉上洛の御時、祈祷申僧の夢にみえける歌とてかたらせたまひし歌。
つみの身をよそにさなから引かへてつけにきた野の悦としれ
此歌をみつからかきて給はりし。只今和てとうけたまはりしに書付し。
よろこひと思ひあはせき此歌を告にきた野の夢のしるしは
……中略……
十八日彼関東下向の御かたより天神の御影に歌一首賛にかきてとうけ給はるを、あすは夜中に進発あるへきなれは、やかて只今書付てまゐらせしうた。
梅か香の東風吹かたに旅たちて君を守りの神やそはまし
     ◆
 
 正徹は江戸期の貴族歌人に「巧いけど品がない」と云われたんだが、東福寺繋がりか、草根集の序文は当時最大の碩学と謳われた一条兼良が書いている。個人集ではあるが二万余の歌を収めており、とにかく多作な才人であった。
 草根集の記述は鎌倉大草紙と対応している。鎌倉大草紙には「正徹書記」なる語句があり、間接的にでも草根集の影響下にあることが解る。草根集{日次本}は、正徹の【歌日記】を同時代の弟子正広が編纂したものだ。歌が主体だが、日記の要素も持っている。其の記述には一定の信憑性がある。そこで、何となく鎌倉大草紙が本当のことを云っているようにも思えてくる。が、草根集の記述は「持氏息」であって永寿王/万寿王とも成氏とも書いていない。実のところ、誰だか判らないのだ。関東下向と云っても、持氏の息子は少なくとも三人が生存していた。場合によっては六・七人生き残っていたかもしれない。
 
 鎌倉大草紙は、成氏が命を助けられたとき祈祷僧が夢に見た歌を「罪の身をよそにさなから引かへてつけに聞つゝ喜ひとしれ」と記している。草根集は、宝徳元年八月十日に土岐持益邸に来た持氏息は歌を「罪の身を他処にさながら引き替えて告げに来たの/北野の悦と知れ」としている。若干の異同があるが兎に角、正徹は「悦びと思い合わせき此の秋を告げに来たの/北野の夢の験は」と答えた。幼児が助けられたのは天神様の加護だったと云いたいらしい。但し事情を知らなかった段階で正徹は「危うきを天翔りてや守りけん雲居の鶴が岡の辺の神」と歌っている。まずは、少年を源氏の守護神鶴岡八幡大菩薩が救ったのだ、と御愛想を言っている。また正徹が持氏息に贈った歌「九年君九重の内をだに見ずとも馴れし月な忘れそ」からは、少年が貴公子でありながら朝廷に出入りしていなかったことが判り、軟禁状態だったことを示しているか。
 
 ほんの少しだけ深読みをする。本来なら関東公方{当時は関東管領}の嫡子は上洛し京都将軍を烏帽子親として名前の一字を与えられる慣例であった。しかし持氏は嫡子義久の元服を鶴ヶ岡八幡で行い、八幡大菩薩を烏帽子親とした。八幡太郎源義家に倣った、との言い訳を用いたが、イケズ将軍足利義教が認める筈がない。悶着が起きる。此も関東足利家と幕府の対立を煽る一因となった。
 如斯き背景をもとに正徹は「お兄ちゃんの烏帽子親八幡様が助けてくれたんだね」と少年に語りかけた。しかし少年は俯いて答えた。「八幡様ぢゃない。天神様が助けてくれたんだ」。天神とは菅原道真、巨大なる怨霊である。足利持氏の仇であった将軍義教は嘉吉元年に無関係の赤松満祐に暗殺され、息子で次代将軍の義勝は就任後一年にして病死した。持氏らの怨霊に殺されたという。そして少年は、自分を助けた神が、八幡ではなく、崇徳院と並ぶ怨霊の親玉菅原道真だと云っているのだ。此の場合の怨霊神は父持氏及び兄の義久・春王・安王を意味していたかもしれない。
 
 鎌倉大草紙は、成氏が二月十九日に都を出発、上野国府に暫く滞在し、八月二十七日鎌倉に入った、とする。半年ばかり上野国府でグズグズして鎌倉に到着したと云うのだ。……しかし、鎌倉大草紙が間接的にでも依拠したと思しい草根集では京都出発は八月十九日夜だ。関東から京までなら当時、陸海併用で往来したと思われる。建内記では、下総結城から京までの連絡に十日ばかり掛かっていた。八月十九日に京を出発し途中から海路を行けば、八月二十七日到着は穏当な線だろう。穏当な線だが、鎌倉大草紙の、成氏が二月十九日に出発したとする記事は、極めて疑わしくなってくる。
 鎌倉大草紙は、結城で捕らえられた四歳もしくは五歳児が成氏だと主張している。一方で同時代の歌集は、当該少年が八月十九日に京を出発して関東に向かった、としている。ならば半年間、上野国府で越後守護上杉房定に可愛がられていた「成氏」は、何者だったのか。鎌倉大草紙は「正徹書記」を持ち出して二月十九日に成氏が京を出発したのだと言い募るが、「正徹書記」の歌集草根集が出発日を八月十九日に指定しているのである。鎌倉大草紙の此の部分は、かなり疑わしい。ってぇか、八月十日に正徹から歌を贈られ十八日には天神画像の賛を書いてもらい同十九日に京を出発予定だった十三四歳の少年は、成氏ではなかったんぢゃないか。此の子は鎌倉で捕らえられ美濃国垂井辺りで春王・安王と合流したが二人の兄が殺されたとき生き残り上洛した四歳児であり、嘉吉の乱でテンヤワンヤになっている京都幕府は、此の子に持氏の家督を継がせ、せめて関東の不穏分子だけでも黙らせようと模索したところまでは、事実だったかもしれない。しかし、此の子は、成氏ではなさそうなのだ。
 
 成氏を従五位下左馬頭に叙任する後花園天皇口宣案の日付は、宝徳元年八月廿七日である。鎌倉大草紙に於いて成氏は、京都で天皇口宣案が書かれた日付ピッタリに鎌倉へと入っている。現代なら可能だ。ケータイで成氏に連絡すれば良い。「シゲちゃん? ヒコヒトだよ」「ひこひこ?」「ヒ・コ・ヒ・ト!」「あぁー、キンジョウちゃん?」「うん、さっきシゲちゃん、左馬頭にしといたから」「ありがとー、じゃぁ鎌倉に行くね」とか何とか、今なら前橋辺りから鎌倉まで三時間もあれば行けるだろう。しかし当時は、京・関東間の通信は十日ばかりかかった。偶然? そうかもしれない。
 しかし鎌倉大草紙は、恐らく草根集を元に、持氏息の出発を二月十九日だと云っている。草根集{日次本}は、全体では叙述の日付がバラバラだが、当該箇所前後は綺麗に月日順に並んでいる。宝徳元年元日から、飛び飛びではあるが、順序よく叙述月日が流れている。但し月は初出の日にだけ記され、後は「同●日」と省略される。うっかり読み飛ばせば、月を誤る。鎌倉大草紙作者が参照した草根集写本が誤っていたか、他文書を経由するとき間違ったか、作者が読み誤ったか。もしくは、暫くの間、成氏は上野国府に滞在した事実があり、本当は別人である少年を成氏だと思い込んだ鎌倉大草紙作者が、矛盾する二つの事実を無理に整合するため、草根集の表記を【修正】したのかもしれない。如斯き【自分の誤解に事実を無理にでも嵌め込もうとする】者を筆者は多く見てきたが、鎌倉大草紙作者も同じ穴の狢であるとすれば、彼は成氏の左馬頭任官すなわち関東公方就任が八月二十七日であったことを知り、だからこそ当日に成氏が鎌倉入りしたのだと妄想した可能性が立ち上がる。手近にある事実を、テキトーに拡大解釈して当て嵌めていったのではないか。
 鎌倉大草紙ほどのものを叙述できる人物なら、なかなか優秀だと認めるが、優秀でも疲れたら手を抜くだろう。こんなもん、別に仕事で書いてたわけぢゃない。書きたいから、書いただけのものだ。史料は制約され、十分な材料が揃っていたとは思えない。書きたいことを書くとき、云いたいことを云うとき、人は事実の方をストーリーに合わせて【修正】しがちだ。推測が事実と混淆している。そもそも、軍記なんだから。「絶対だな! 絶対に本当なんだな!」とギュウギュウ締め上げながら読むなんて、却って作者が可哀相である。傲岸な態度で軍記に責任をなすりつけるより、別の史料に当たった方が真実への近道だ。
 
 例えば、大日本古記録版「建内記」は、結城合戦で春王・安王が殺された後、持氏の四歳になる息子が京に連れてこられた、と云っている。此の子に家督を継がせる計画があったらしい。実現したかは不明だ。此の四歳児が草根集の所謂「五歳」児と同一人物かもしれない、とまでは云える。
 
 建内記の関連条を見てみよう。永享十一年二月、都は所謂「永享の乱」で捕らえた足利持氏の処分を廻り、高僧が介入したりしてドタバタしていた。張本人の上杉憲実は、持氏が出家したこともあり助命を願ったらしいが、容れられなかった。二月十五日には「持氏切腹」の報告がもたらされた。翌年三月十七日条には「故鎌倉左兵衛督持氏卿末子等悉死去之由先度有其沙汰之処、近日称子息両人於常陸国挙旗云々」とある。当初は持氏の子息らが全滅したとの報告があったらしいけれども、子息と称する者両人/二人が常陸国で挙兵したとの報せが届いた。建内記を書いた万里小路時房は朝廷中枢にあったが、彼にして永享の乱後一年ほど、持氏の遺族が存在していないと思い込んでいたのだ{京都の学者貴族中原師郷の日記「師郷記」永享十一年二月十日条では持氏が子息・娘七人を殺してから自害したと記している→▼「師郷記」関連条}。
 嘉吉元年四月二十三日条で、結城側の城が一つ落ちたとの報告があった。同二十五日条、「結城敵陣没落」。多くの史料が語る如く十六日に落城したとすれば、九日後にして漸く、時房のもとに第一報が届いたことになる。
 持氏の子息に就いて、深刻な情報錯綜が同二十八日条から始まる。同日条で持氏子息が、三人登場する。「一人十余歳切腹、其首可京着也。二人猶少年、被擒可入京也」。此の情報は先日届いていたが、時房は聞いた直後に書き記さず、此の日に行われた逆賊討伐成功の参賀にまつわる関連情報として漸く記述したのだ。個人的な日記であるから、ややイーカゲンでも仕方がない。其れは措き、当該記述で時房は、持氏子息三人のうち十余歳の者が切腹したが「残る二人は年端もないため生きたまま京へ護送されるだろう」との推測を記している。
 因みに五月四日条で万里小路時房は、「上総結城首」と書いているが、勿論、結城は下総だ。関東に対する上級貴族の意識なんて、こんなもんだ。【なんか遠くの方で荒くたい連中が暴れ回っているらしいけど怖いなぁ】ぐらいだったのではないか{「師郷記」嘉吉元年四月廿五日条では「常陸結城城」とあり、やはり下総であるとの意識はない。或いは春王・安王が当初、常陸で旗揚げした事情が反映されているのかもしれない}。伝言ゲームに厳密な精確さを求めても仕方がない。同日条には「次賊首御実検也。於門外(四足門外也)有此事、主人門下御佇立也。侍所参此辺申行歟。上(下カ)総国結城首(并関東一色首已下済々焉)後聞、其(数五十一、或三十余、或二十余云々)悉有実検(云々。仍経其程也。次入御之)後、面々参中門辺、申次中山宰相中将也」ともある。
 結城からの上洛首の数さえ掴めない。もう暑い季節だし塩漬けだっただろうから正視に耐えぬとはいえ、二十余と五十一では倍以上だ{「師郷記」五月四日条では「廿九」}。里見修理亮の首級が含まれていたかも判らない。情報が錯綜している。此の段階では「伝聞、鎌倉故武衛子息両人首未京着。近日京着之時又可有参賀云々」とあり、まだ持氏子息の首級は到着していないのだが、夜になって廷臣に参賀の指令が下った。大人の都合で擁立された幼い子どもらの生首が到着したからといって「参賀」もないものだが、時房は「鎌倉故持氏卿子息首帰京歟」と色めき立っている。しかし夜のこととて参賀は七日に行った。実は此の参賀、持氏子息の京着ゆえではなかったことが、九日条の「鎌倉故持氏卿子息等首近日可京着。於彼首等者可被懸獄門(近衛)之由風聞云々」から判る{「師郷記」では五月十九日暁に京着}。だいたい、まだ五月九日である。美濃国垂井金蓮寺で春王・安王が殺されたのは、五月十六日とする史料が多い。九日の段階で死んでたら困る。但し、恐らく五月四日条段階までに幕府は、二人を殺す意思を固めていたのだろう。時房は幕府の意向を知っていたからこそ、持氏子息の生首二つを待ち構えていたと思しい。
 さて、五月四日条に後で書き込んだ註部分、「後聞、両人已自殺、一人生捕今一人者事注進先了、今一人四歳、不見之処、已尋出之捕了、此注進珎重之由也云々」は難解だ。持氏子息のうち、「両人/二人は既に自殺した」。春王・安王のことであろう。「一人は生捕り、いま一人の者の事は注進、先に了んぬ」。一人は生け捕り、もう一人の事は前に報告済み。「いま一人四歳、見えざるのところ、すでに之を尋ね出し捕らえ了んぬ。此の注進、珍重の由なりと云々」。もう一人、四歳の者が見つからなかったのだが、尋ね出して捕らえた。この報告は喜ぶべきものだ、という話である。
 後半の「今一人四歳」が、冒頭にある殺された{/自殺した}「両人」と別であることは明らかだ。四歳児が捕らえられた事が、時房にとって新たな情報であることも判る。では冒頭の「両人」と、続いて表記される「一人生捕今一人者事注進先了」は、同一人物か否か。此処だけ切り取れば、文法上、「両人」を説明する並列の関係だとも思えるし、別の新たな登場人物にも感じられる。即ち、「両人」のうち「一人は生け捕った者であり、もう一人の事は前に報告した通りである」と書いているのかもしれない。
 此処まで時房は、持氏子息を「両人」としたり「三人」としたり一定していなかった。四月二十八日条では三人だったが、一人が自殺したとの事実を伝え、残る二人は幼いため京に護送されるだろうとの予測があった。しかし何時しか「両人首」に変わっている。死んだ「一人」と助けられた「二人」とを取り違えていたようだ。ならば五月四日条の「注進先了」が、四月二十八日条の「一人十余歳切腹、其首可京着也。二人猶少年、被擒可入京也」とならねばならない。しかし四月二十八日条の登場人物は三人だ。五月四日条「両人」の説明としても、一人余る。余った一人が、新たに生け捕った四歳児とならざるを得ないが、そうなると文脈が破綻する。五月四日条で【新たに生け捕られた四歳児】が、四月二十八日段階で擒にされていては、如何にもマヅイ。よって、殺された「両人」と続く文節の二人は別人であり、五月四日条で新たに一人が加わる。則ち此の段階で登場する持氏子息は、五人と考えるべきだ。二人は既に死んでおり、一人は生け捕られ、いま一人は「注進先了」、そして、もう一人も新たに捕らえた。残念ながら、「注進先了」に該当する情報は、建内記に残っていない。
 
 なお贅言ながら付け加えると、喜連川判鑑などの系図類は、長男を義久、次男を春王、三男を安王、四男を成氏としている。そして、成氏の後に、成潤(大御堂殿早世)周ム(長春院主道号天心早世)尊■伸のみぎノブン/(雪下殿蓮華光院若宮別当)と三人ぐらいは記されている。結城終戦時に四歳ってこたぁ、持氏自害のとき数えで二歳だ。自害の前年に成氏が生まれている。義久から安王まで三人の年齢差は、それぞれ一両年しかない。成氏が捕縛時四歳であれば、同じ母から生まれた安王と成氏との年齢差が、かなり空く。しかも持氏自害の前年に生まれた成氏に、弟が三人もいる。偶々七年間ほどは忙しくて子作りが出来なかったものの、でも京との戦を想定して側室とかに種をバラ撒き、文字通り死ぬ気で励んだとすれば、或いは如斯き出産も可能かもしれない。ただ、如何にも不自然である。四歳児は、成氏本人ではなく弟である方が、シックリくる。因みに九代記は、明応六年に成氏が六十四歳で死んだとしている{八犬伝でも成氏は六十四歳で死んだことになっている}。これだと永享六年生まれとなり、結城終戦時に七歳、安王とは数年差に収まる。勿論、事実は小説より奇なり、天然素材は化繊より生成り、死ぬ直前になって急に成氏がポコポコ子どもを儲けなかったと迄は断言出来ない。
 
 建内記七月の記事に「伝聞、鎌倉故持氏卿子息於両人者其比被誅了。所残今一人已擒之、美濃州垂井辺於路次可誅歟之由注進之時分、普広院殿薨御了、仍沙汰付鎌倉、以彼可聴相続之由治定事了、以上杉房忠如元可為鎌倉管領(執事事也)之由同評定了。仍自垂井下向鎌倉由風聞之処、今日彼小生京着(非管領)直御渡管領宿所云々。是今時分於鎌倉万一隠反之輩有悪張行者不可然之間、播州落居之間、先可置申京都之由思案歟」とある。
 此が曲者だ。二人は既に誅されている。しかし「所残今一人已擒之」、もう一人の捕虜である持氏子息は、殺されなかった。護送隊が垂井あたりで殺すか否かの指示を京へ仰いだところ、ちょうど将軍義教が殺される大事件が起こった。嘉吉の乱である。
 幕府では、持氏子息のうち誰かを温存して、鎌倉管領/関東公方の相続を許す順撫策への模索が始まった。結城合戦で幕府側が勝利したとはいえ、関東には不穏な空気が残っていた。持氏子息に関東公方を継承させることで、不満を抑え込み、再叛を防ごうというのだ。京都幕府に忠実な関東管領上杉家が、持氏子息をガッチリ抱き込んでしまえば、持氏恩顧の不満分子は沈黙せざるを得ない。理念なく単に人間関係とやらのみで戦争している連中には、有効な対策である。
 しかも関東に向け強硬な態度をとっていた将軍義教は京都で殺され、下手人の赤松満祐が逃げ込んだ播磨へ軍勢を向けねばならなかった。関東と播磨への両面作戦が可能なほど、幕府は強大ではなかった。持氏子息を温存もしくは人質として囲い込み、まずは関東静謐化を目指す政治的必要性があったのだ
{持氏自害時に子息・娘七人も道連れになったと伝える「師郷記」は永享十一年七月二日条で「若公一所可奉下関東之由被害仰下之処、関東各承伏之由申之故云々」と記し永享乱の事後処理段階では、京都将軍家の子息一人を関東に下す計画があったことを窺わせる。恐らく鎌倉公方とするためだ。義勝は長男で後に将軍となるため弟の義政あたりが候補か。一応は、関東側は承伏の意向だとするが、同四日条に上杉憲実自害/実は失敗し未遂に終わる/の報が伝えられている。京都に対する関東の不満を感じさせただろう}。
 
 また、京の街には、持氏に対する後ろめたさを感ずる空気が、あったかもしれない。有名な話だが、持氏と烈しく対立した足利義教は、籤で征夷大将軍に当選した。先代の義持には適当な嫡子がいなかった。義教は出家していたのだが、籤で指名され還俗した。本来なら、将軍位継承の枠外にあった人物だ。一方で、親戚筋に当たる持氏は、自分が将軍になることを望んでいたという。喜連川判鑑なんかでは、将軍になる約束まであったが管領が反対し反古になったと云っている。
 文安四年あたり、成氏が関東公方になる方向が決まっていたであろう段階で、京都政権は関東管領として、自分たちに忠実な上杉憲実を宛てようと考えた。綸旨まで振り翳して、嫌がる憲実を説得しようとした。建内記には、綸旨の案文が残っている。説得は失敗し、憲実の子息である憲忠が関東管領に就任する。綸旨/天皇の意思をチラつかせられても憲実が関東管領就任を固辞したことは、或いは当然だったかもしれない。自分が怨念の標的になっていることは明らかなのだから、関東管領に返り咲いたら、それだけで反抗する者が続出する。関東の治安は乱れる。実際には関東管領職と共に怨念をも継承した息子の憲忠が成氏に殺され、やはり関東は、乱れてしまった。
 怨念は上杉家の頭上にのみ蟠っていたわけではない。京都室町、花の御所もドス黒い怨念に包まれていた。文安四年七月条に「旧院御代被成院宣於関東、与普広院殿(于時御在世)御別心之由、有謳哥之説、旧院不被知食之由、以予并故三宝院被仰之、普広院殿被悦申之」とある。旧院が義教とは別の意思を関東に向け発表したとの風聞があり、時房が義教に対して釈明し納得させた、との記事である。旧院は後小松あたりだろうが、ならば永享五年ぐらいまでの話題である。まだしも京都と関東との対立が決定的な所にまでは至っていない。義教と後小松が対立しているとの風聞は、関東側が流したものか、京の反義教派が流したものか、または真に院宣が発給されたものかは、判然としない。時房と共に義教の説得に当たった「故三宝院」は、将軍就任に関わった満済であろうか。ならば義教が簡単に納得することも頷ける。とにかく、京都で如斯き風聞が流れる素地として、朝廷内にも義教に対する不満が存在したと想定できる。怨念が世間に現象する場合、対象に向けた否定的な風聞として現れる場合がある。
 実際、結城合戦が終結し春王・安王が殺された後、義教も赤松満祐に弑逆された。満祐自身の都合で将軍を殺したわけだが、こういった思い切った歴史的事件を起こす場合、時代に見合った【自己への弁解】が必要だ。満祐の場合、春王・安王ら幼い親族さえ殺す恐怖政治への反発、といった側面もあっただろう。還俗するまで義教は、青蓮院門跡まで務めた高僧だったわけだが、俗世の権力者となり、恐怖政治を行った。義教も、自分を「還俗将軍」と軽視し慣例を破って好き放題に振る舞う関東公方持氏を抑圧せねば幕府権威が失墜するとでも妄想したのだろう。また、持氏も、将軍就任の約束が実際に成されていたかは別として、期待を寄せる立場にはあった。持氏・義教・満祐ともに、己の心象のうちにはイーワケを掲げ自らを正当化した挙げ句、足を踏み外したが故、悲劇に陥ったのだろう。裏返せば、三者三様に、同情を向ける余地が無くもない。怨霊は当該者により発生するというよりは、当該者が死んだ後、第三者のココロにこそ発生する。同情を向ける余地は、取りも直さず、怨霊の温床に外ならない。義教の横死が、春王・安王斬首の報いとする物語群もある{「呪いが歴史を動かす」参照}。
 現職将軍惨殺なる大事件の後、擁立された七代義勝は、まだ数えで九歳であった。一年も経たずに死ぬ。嘉吉三年七月十九日条に「室町殿御痢気御減御邪気未散歟云々。一色故義貫并鎌倉故武衛等云々」、同二十一日条には「(卯刻)室町殿(征夷大将軍左中将従四位下十歳御名義勝普広院殿御長子)御事切云々。自十二日御痢気、十三日興盛及十度許、温気以外、自十四日供御薬、件日母堂知給、御医療遅々希代事也。邪気怨霊非一、鎌倉故武衛、一色故義貫、赤松故性具等云々」とあって、義勝を祟り殺した「邪気怨霊」として持氏の名が挙がっている。
 
 さて、建内記嘉吉元年七月条に戻る。二人が殺され、グズグズするうち一人が助かる場面は、生き残った一人が、殺された二人と同時には捕まらなかったことも想定させる。何故ならば、二人を殺す命令が届いていたのに、もう一人の処分が決まっていなかったからだ。って云ぅか、予め命じられていた通り二人を殺した報告と残る一人の処遇に関する問い合わせが同時に京へ届いたのだろう。そして、幕府が幼い一人を助けた理由は、嘉吉の乱に関連して関東慰撫の必要性が持ち上がったためだ。各種史資料で義教暗殺は六月二十四日だから、残る一人の助命を決定した時点は、其れ以後となる。
 また、七月条の記事は、春王・安王の首と共に、「今一人」の持氏子息が上洛したことを伝えている。ただ、五月四日条で「後聞」として時房が記した情報には、持氏子息が五人登場している可能性が高い。七月条で生きている唯一の子どもは「所残今一人已擒之」と表記されているので、五月四日条情報で、それまで行方不明だった「今一人四歳、不見之処、已尋出之捕了」であろう。則ち、七月条で「所残今一人」と書かれた者は、三人目の子息ではなく、【五人目】なのだ。五月四日条では、二人が殺され、一人は生け捕られ、いま一人は現在の我々にとって所在不明だが、幕府・朝廷には既に注進/報告済み、そして更に残りの一人を最近生け捕った。五月四日条から七月条までの間に、{京都政権は把握していた筈だが}我々にとって二人が行方不明になってしまっている。生け捕られた一人は七月時点では、既に処置済みで収監されているか殺されたかしたのだろう。恐らく助けられ、何処かの寺に放り込まれて監視を受けていたのではないか。成氏の弟には何人か僧侶がいる。そして五月四日条で「今一人者事注進先了」とされている子どもこそ、成氏だろうと筆者は思っている。残念ながら建内記に件の「注進」が残っていないのだが、生け捕ったとか自殺したとか殺したとか一言では言えずに、「報告済みの例の子」と云われている以上、やや複雑な状況にあったのだろう。いやまぁ、複雑と云っても、実は然ほど複雑ではなく、単に、信濃で大井持光に匿われていただけだ。戦国遺文古河公方編{→抄▼}にも載す「岩松持国副状」に興味深い記述がある。
 岩松持国から石川中務少輔に向けた軍勢催促の文書で、発行が嘉吉二年に比定されている。副状であるから「若君」の文書も別にあり、そちらの署名は「万寿王丸」だ。成氏は永寿丸とも呼ばれていたが、万寿王丸も成氏の名である{→▼万寿王丸書状}。
 嘉吉二年正月段階で、岩松持国は足利成氏が信濃の大井方にいると述べている。結城落城の翌年、成氏は、生け捕りにもされず、もちろん殺されもせず、京都にもおらず、信濃にいたのだ。「注進先了」の内容は、信濃の大井持光が成氏を匿っているとのものだっただろう。
 ただ実は、此の両文書は謀書とされている。嘘っぽ文書なのだ。何故と云うに、文書の趣旨が、「成氏は綸旨と錦御旗を賜ったので近々鎌倉に帰還する。ついては、出陣し忠節を尽くせ」だからである。本シリーズでも紹介してきた如く、結城合戦に対しては、治罰綸旨が降っていたと思しい。日本国の治安を回復するため天皇の命により、結城の乱は鎮圧された。成氏は、余類である。いきなり錦御旗は、ないだろう。建内記に拠れば、朝廷は幕府側に立って関東の乱れに心を砕き、関東管領人事を廻って天皇の命令書草案まで作っていた。此は恐らく、岩松持国が、石川中務少輔を味方に引っ張り込む為に吐いた嘘だ。「こっちの後ろ盾は天皇だ」と与太をかましているのである。また建内記に拠れば、永享年間までに、院が将軍足利義教とは別の意思を持っているとの院宣が、関東……恐らく足利持氏に対し降ったという噂が立った。事を構えるに当たって、天皇や院や皇太子などが自分の味方についたと言い触らすことは常套である。岩松持国も、常套手段をとったに過ぎない。
 が、文書の趣旨は謀略であり綸旨も錦御旗も虚偽に過ぎないだろうが、成氏の所在に就いてまで嘘を吐く必要は、全くない。成氏が信州大井方に匿われていることは、公然周知の情報であっただろう。嘘吐きが嘘だけで嘘を構成することはない。必ず相手も知っている真実を紛れ込ませる。説得力をもたせるためだ。虚偽ばかりでは荒唐無稽となり、リアリティーが失せる。嘘が人を信じさせるために吐かれるものならば、リアリティーがなければならない。よって、「若君/成氏」が「信濃大井方」にいたことは、が広く知られた事実であったと類推できる。勿論、幕府も知っていたに違いない。恐らく嘉吉元年五月四日以降、同七月までには、「注進先了」であっただろう。
 
 結局、建内記は、京の雰囲気を大まかに伝えてはいるが、結城合戦に於ける足利成氏の処遇に就いては具体性が乏しい。上洛し土岐持益邸で保護された四歳児{草根集の五歳児?}を廻って当初、関東を静謐化する必要から持氏の家督を継がせる計画があった。しかし此の子は名前も判らず、しかも家督を継がせる計画が実現したかも不明なのだ。同時代に成立した歌集「草根集」は、五歳で鎌倉から上洛した持氏の子息が宝徳元年八月十九日夜に関東へ出発予定だと伝えている。草根集は、五歳児が結城ではなく鎌倉で捕縛されたように云っている。此の子は、九年を虚しく過ごしたものの、無事である有り難さを噛み締めている。家督を継ぐとも何とも書いていない。此等の記述から、結城合戦時に生け捕られた四歳児を成氏だと断定するには、かなりの蛮勇が必要だ。
 
 前述の如く、結城合戦時に捕らえられた四歳児が後の成氏であって京都から鎌倉へと下向し関東公方になった、とする鎌倉大草紙などの記述は、依拠したと思しい草根集とさえ矛盾しており、疑いの目を向けられても仕方がない。そして八犬伝は、成氏が結城合戦に関わったとはせず、大井扶光{/持光}に匿われ信濃に潜んでいたと表記している。此は、永享記などに載す所を元にしていると思しい。また此の箇所は、馬琴も八犬伝で言及している「九代記」{鎌倉管領九代記}の書き様に極めて近い{→▼九代記当該部分}。九代記の詳細は後述する如く疑わしいし、かなり問題を孕んでいるのだけれども、此の部分に限っては現在の通説にさえ近い。馬琴は各種の資史料から要素を取捨選択して繋ぎ合わせているが、アヤシイ九代記から此の部分を切り取っている慧眼には、恐れ入る。
 実を云えば、建内記などの記述から永らく史学に於いて、成氏は春王・安王と共に京へと護送されたが途中の美濃国垂井金蓮寺で二人の兄が殺されたとき幼いからと助けられ公方就任まで京に抑留されたことになっていた。鎌倉大草紙などが提出しているストーリーだ。しかし、此処三十年ばかりの研究により成氏は信濃に潜んでおり結城合戦に参加すらしなかったとの声が強くなっている。鎌倉管領九代記などにある筋立てだ。馬琴は結果的に、現代水準の見方を示している。
 勿論、馬琴が岩松持国文書などを周到に閲覧し、嘉吉の乱後に持氏が信濃にいたと判断したとかスットンキョーを強弁する気は毫もない。ただ喜連川判鑑ぐらいは閲覧したか、伝聞か、成氏を悪人にしつつも、喜連川家公認の歴史を尊重する態度ぐらいは見せたのであろう。まぁ寛政重修諸家譜は、喜連川家からの提出資料を基に叙述している筈だが、何やら永享乱後は信濃にいたが合戦時に結城に籠もっていたかの如き内容となっている。鎌倉大草紙などのストーリーと折衷した印象で、当時の見解が振動していたことが窺える{→▼寛政重修諸家譜}。馬琴は、かなり微妙な選択をしたと思しい。
{お粗末様}

 
 
 

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