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■足利成氏は何故に信濃で匿われたか■
 
 足利成氏が幼少時、永享の乱後に何処へ逃げたか。往年の史学は、鎌倉大草紙のストーリー通り、結城落城時に現地で捕らえられ春王・安王と共に護送されたが、幼さを理由に独り助けられ美濃国守護土岐氏の京宅で囚われの身であった、と考えていた。近年の史学では、馬琴が八犬伝で語る如く、信濃国守護代大井氏に匿われていた、との声が強い。大井持光も結城合戦に参じようとしたらしいが、途中で妨げられ行き着けなかったというのだ。因みに新井白石の読史余論も、信濃隠匿説を採用していた。勿論、馬琴が各種史資料を検討し十五世紀の謀略書簡まで周到に閲覧して判断を下した、なぞと云う積もりは毫もない。八犬伝が成氏幼少時の状況を描いた第十六回の当該部分は、鎌倉管領九代記に酷似している。同書は、信濃隠匿説を採用していたし、大井持光を八犬伝と同様に「大井扶光」と表記している。何より馬琴は第九回で「成氏の事九代記に見えたり」と云っている。同書を馬琴が閲覧していたことは確実である。よって、成氏幼少時の記述は、まずは鎌倉管領九代記を下敷きにしていると思しい。しかし馬琴がアクセスし得た情報は鎌倉管領九代記だけではなかったから、各種情報が流通する中で、何故に鎌倉管領九代記系の信濃隠匿説を採用したかが問題となる。幕府監修の寛政重修諸家譜さえ、幼少期の足利成氏が結城合戦に参加していたかの如く記述しているのである。
 八犬伝は稗史であるから当然、史から乖離している。目くじらを立てることはない。と云っても、足利成氏側からすれば面白くあるまい。馬琴は八犬伝で、「成氏の如きは皆暴悪暗愚の君ならぬも酷く貶して作り做しし」{南総里見八犬伝第九輯巻之三十三簡端附録作者総自評}と告白している。此の矛盾した発言には、後述の如く、裏があるのだけれども、差し当たっては、馬琴が、成氏を貶めていることが確認できれば良い。成氏の子孫たる関東足利家は喜連川と名を変え、国持大名格の大身旗本として存続していた。本来なら「シゲウジ」と訓むべき成氏を「ナリウジ」とすることで現実からの乖離を宣言した馬琴であったが、乖離するには、まず史実{と思われること}を踏まえる必要がある。相手が如何な人間か無知の侭、貶めるわけにはいかない。そうでなければ単に、自ら勝手に空想した悪人に、実在の人物から名前表記のみ借用して貶めたことになる。全く接点がないのに名前を使われた本人は堪るまい。但し、善悪を縦軸にとった場合、史実にない悪事でも、史実で犯している悪事と同値の行為ならば、平行移動であって、殊更に【貶める】ことにはならない、との反論が、或いは可能かもしれない。八犬伝の筆法である。
 
 前掲「成氏の如きは皆暴悪暗愚の君ならぬも酷く貶して作り做しし」に続けて馬琴は、理由を挙げて成氏を「暴悪暗愚の君」だと決めつけている。即ち、「成氏の如きは冤家の為に立られながら時務を知ず、叨に憲忠を誅して鎌倉を追出され滸我に移りて其城をも顕定に攻破られて千葉に寓居したれども仁義をもて家を興すことを知ず。先父持氏の弑逆に逢るは乃祖尊氏の下剋上の余殃なるを悟らざりしは不賢なり」{成氏については、関東支配の政治的必要によって父や兄の仇敵に擁立されたのであるが、自分に与えられた政治的役割、個人的な怨恨を超えた次元での任務に思い至らず、自分を擁立した管領家の上杉憲忠を暗殺して鎌倉を追い出され、滸我さえ上杉顕定に奪われ千葉に居候する苦い経験がありながら、徳義を発露することにより人を集め家を興そうとはしなかった。持氏が上杉家のため殺された原因は、そもそも祖先の足利尊氏が、後醍醐帝を追い落とすという下剋上に手を染めたことの結果であるのに、其れを覚らなかったとは、馬鹿としか云いようがない}。
 軍記などを読んだ結果として馬琴の脳裏に結ぶ足利成氏像は、悪人なのだ。よって、「暴悪暗愚の君ならぬも酷く貶して作り做しし」の現代語訳は、以下の如くなろうか。「公的には暴悪暗愚の君とは評価されていない成氏らについて、八犬伝で酷い悪人として描いた理由は、軍記などから見て成氏の行動原理は暴悪暗愚とせねばならないからである。暴悪暗愚な行動原理をもつ成氏を八犬伝世界に置けば、個々の場面で如何な言動となって具体化するかを虚構し描いている」。関東足利家とベッタリ睦まじかった里見家が、成氏と全面戦争したなんて史実は、筆者の管見にはない。馬琴も何やら言い訳がましく、成氏と里見・結城氏が近しかったことを仄めかしつつ、横堀在村の存在ゆえに疎遠になったのだと、ゴニョゴニョ云ってる。結局、馬琴は種々史資料から浮かび上がった成氏の行動原理から演繹し、個々の場面/フィクションを描いているのだ。
 成氏としては反論もあろうし、今ごろ黄泉で馬琴と掴み合いの喧嘩でもしてるかもしれないが、稗史を勧善懲悪のテキストとして定義する馬琴なら、既に死んでいる歴史上の人物より生きている読者の福祉を優先するだろう。馬琴は、成氏の反論を受け付けない。フィクションとは、そういうものなのだ。稗史は史ではない。
 
 歴史上の人物、実在した人物であっても、当該人物の行動原理を各種史資料により借定し、史実とは違った世界に放り込んで活動させる。馬琴一流の成氏像/キャラクターを確定し、独り歩きさせるのだ。此のキャラクターを読者に、特に多少は史を知る者に対し、生き生きとした説得力/リアリティーを感ぜしむることが、稗史作者の手柄である。勿論、軍記などを通じて感得した歴史キャラクターに就いて、馬琴なりの確信が背景にあったことだろう。馬琴は八犬伝に於いて、【史実と厳密な事実関係で結び付くのではなく、イメージのレベルで淡く繋がろうとしている】のだ。
 
 馬琴としては実のところ、八犬伝で成氏を「暴悪暗愚の君ならぬも酷く貶して作り做し」た積もりは全く無かったに違いない。馬琴は成氏を、正当に評価しただけだ。史実{と思われたもの}を踏まえて当該人物の人品を借定し、其の範囲で悪事を働かせる。稗史とは元々絵空事であるから、史実に寄り添い続ける必要はない。しかし、「孝子順孫忠臣貞女を誣て悪人に作り易べからず。其善悪を転倒せば縦新奇といふといへども勧懲に甚害あり」{第九輯巻之三十三簡端附録作者総自評}と語る馬琴にとって、足利成氏の本質は、如何にも八犬伝で演じた如き悪人であるのだ。
 馬琴にとって足利成氏を悪人と断定する根拠は、「成氏の如きは冤家の為に立られながら時務を知ず、叨に憲忠を誅して鎌倉を追出され滸我に移りて其城をも顕定に攻破られて千葉に寓居したれども仁義をもて家を興すことを知ず。先父持氏の弑逆に逢るは乃祖尊氏の下剋上の余殃なるを悟らざりしは不賢なり」{同}である。
 「冤家の為に立られ」「憲忠を誅し」「鎌倉を追出され滸我に移りて其城をも顕定に攻破られて千葉に寓居し」「尊氏の下剋上」「持氏の弑逆に逢る」は何連も、近世に流布した軍記群の示す事実であった。
 「仁義をもて家を興すことを知ず」は、合戦ばかり描いている軍記に現れるものではなく、反証が困難である。また、儒教に影響を受けた道徳主義史観/勧善懲悪史観が支配的だった近世に於いて、仁義を以てすれば当該家筋は興っていた筈なのだから、家が興らず成氏が尻貧となり関東足利家が凋落した事実から、成氏は仁義を以て家を興さなかったと、逆から証明されてしまう。「尊氏の下剋上の余殃なる」は事実関係でなく史観の問題であって意見の分かれる所ではあろうが、歴史の因果を個人の枠に収めず家筋全体に及ぼしていた近世水準であれば、子孫に「下剋上」の「余殃」が発生することは、認めざるを得ない。足利尊氏が後醍醐天皇に対し下剋上を犯した事実を以て、子孫の不幸は総て「余殃」だと強弁されても、反論が難しい。第九輯巻之三十三簡端附録作者総自評を一読すれば、上記の如き馬琴の論理構成は明らかだ。足利成氏の子孫は獰猛な馬琴の前に、泣き寝入りせざるを得ない。
 
 凶暴な論理構成であるが、特殊な立場の大身旗本として存続していた関東足利家/喜連川家の祖先、成氏に就いて、暴悪暗愚と決めつける作品を書く以上、理論武装は必要であったろう。また、此の理論闘争の橋頭堡は史実であるから、史実を弁えていることを仮想敵に示す必要がある。もしも仮想敵が成氏の子孫たる喜連川氏であったならば、喜連川氏公認の史実を認知していることを示せば効果的だ。成氏幼少期の状況を描くに、喜連川氏公認の史実、信濃隠匿説を採用する意味が、馬琴にはあった。少なくとも信濃隠匿説を採用していることで、結果的に上記の如き理論闘争が可能となる。則ち筆者は、八犬伝が第十六回で成氏信濃隠匿説を採用した理由として、史実から離れた世界で成氏を悪役に仕立てたが故に惹起し得る理論闘争への準備である可能性を指摘しておきたい。
{ただ、「歴史上の善人を悪人に作り替えたりはしない」と宣言する馬琴は続けて、「自分の創作した善玉を、悪玉に書き換えることは許さない」とも宣言している。文脈の流れからすれば、歴史の登場人物を悪人に書き換えないことよりも、何だか八犬伝の悪質パロディを禁じる所に重点があるようにも読める。即ち馬琴にとって喜連川家も、一応は関東管領の系図を伝える米沢上杉家も全く眼中にはなく、八犬伝の悪質なパロディを禁じているだけなのかもしれない。自ら創造した近世説美少年録の淫乱美少年/朱之介は悪ゆえに淫乱だそうなので、例えば犬塚信乃をエロエロな美女に置き換えたパロディは禁止らしい……ちっ}
 
 また、成氏信濃隠匿説を馬琴が採用した第二の可能性ある理由は、或いは信濃国の有するイメージだったかもしれない。成氏が結城合戦以降ずっと京都にいるより信濃に縁のある存在として描いた方が、馬琴にとって都合が良かったのではないか。信濃は、云わずもがな、成氏と絡む水気の犬士犬塚信乃の受領国である。また美少女から水も滴る美少年へと変態した毛野は、信濃国諏訪社辺りで鮮烈な再登場を果たし、小文吾の胸に飛び込んだ。筆者は八犬士のうち、信乃・毛野・小文吾を水気、荘介を金気に比定してきた。荘介は金生水の理に拠り、少年期の信乃を見守り育む。水気犬士と相性が良いのだ{最後には土生金の理に拠り土気犬士現八と一体化する}。水気犬士信乃の象徴ともなる村雨は水気の聖剣であった。そして元々一応は関東足利家の所有にかかる。上杉家に擁立された段階で成氏は持氏・春王・安王の仇を討つ正統な資格を喪うが、血脈は否定できない。水気の剣を持つ資格は一応のところ保持していると考えられる。八犬伝末尾で信乃は、成氏に村雨を渡す。成氏だって多少なりとも水気に関わる存在なのであろう。
 
 信濃一宮諏訪大社の祭神は、建御名方命だが、彼は大国主の子息であって蛇神と目せる。天照大神の派遣した神から逃れ信濃に行き着き此の国から出ないことを条件に助命された。だから此の神が約束を破って出雲に赴くときは、とてつもなく長大な蛇の姿を現す。頭が出雲に到着しても尻尾は信濃に残していて、「出てないもん」と云っていたらしい。其れは措き、元々関東足利家の重宝であった村雨を、天叢雲剣に置き換えれば、元々の所有者である関東足利家は八岐大蛇、剣の移動先である大塚匠作・番作・信乃は素盞嗚尊、就中、足利成氏が八岐大蛇であり信乃が素盞嗚尊と淡く繋がろう。信乃と絡む成氏が、水気/蛇神の剣を通じて信濃と繋がれば、物語上、据わりが良い。即ち、結城合戦以降、成氏が京都に抑留されていたとする鎌倉大草紙など軍記や資料があるにも拘わらず、信濃にいたとの鎌倉管領九代記の説を採用した馬琴の脳裏には、或いは信濃/蛇神/水神国との連想が働いたのではないか。
 因みに付け加えれば、諏訪社は蟇田素藤による里見義通掠奪事件の現場になるが、此は諏訪神が蛇神/水神であり、素藤が「蟇/土気」である故に、土克水の理により、素藤が優位に立って事が進んだ。此は水気の信乃が「蟇」六に抑圧されていたことにも通じる理である。附言すれば、土生金の理に拠り、まだ生み出されていない金/荘介は土/蟇六に蔵されていたのも同様に、五行説に則っている。イメージとしては、蟇六を強大な蛇神たる簸上宮六が切り裂き、それまで【蔵】されていた荘介が世に出る契機を得るのだ。閑話休題。
 
 整理しよう。成氏が京で幕府に抑留されていたのではなく信濃で忠臣大「井」氏に匿われていたとの説を採用した馬琴は、一応は流布されていた鎌倉管領九代記の記述に拠ったと見られる。ただ当時は鎌倉大草紙など、京都抑留説を支持する文物もあった。その中で馬琴が積極的に信濃説を採用した背景として、喜連川判鑑に載す関東足利家公認の歴史を尊重する姿勢{を見せようとしたこと}、そして、村雨/天叢雲剣を廻って信濃と成氏を繋ごうとする意識が働いた可能性を指摘しておきたい。
{お粗末様}

 
 
 
 

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