■あやしいロングセラー■
 
 八犬伝は、結城合戦後の足利成氏が信濃にいたとの説を採用した根拠として、鎌倉管領九代記を挙げた。とはいえ馬琴が、鎌倉管領九代記に全面的に依拠した筈はない。九代記では永享の乱で幕府軍を待ち受ける持氏側軍勢に「安房国里見」が紛れ込んでいる。他の軍記にはない記述だ。フライングである。此の段階で「安房国」に「里見」がいると、話がヤヤコシくなる。
 更に結城合戦では、「安房の里見」が幕府軍に参加し、城内の「里見修理亮」と対峙してたりする。永享の乱では足利持氏の側に立って幕府軍と戦った「安房国里見」が、敗戦後に上杉側の手に属したのかもしれない。しかし、結城合戦で「里見」が二つに割れていると、現実には、そうであったとしても、八犬伝を読む上では、具合が悪い。結城合戦の頃までにウロチョロし始めた「安房国里見」を、馬琴は無視したに違いない。
 
{いや、実際には持氏に何連かの「里見」が密接に繋がっていたことは各種軍記から窺え、京幕府の息がかかった在地武士と抗争を繰り広げる中で鎌倉管領/関東公方が早くから安房に「里見」を配置していたとしても、さほど不自然ではない。ただし、永享乱時点で「安房国里見」が存在したとしても、近世大名となる件の里見家と同じ流れであるかは別問題である。「里見」なんて武士は、何人もいただろう。贅言すれば、同じ流れでなくとも一応は関係ある里見一族が先に入っていたとすれば、それが故に結城で敗残した里見義実は安房を志したのかもしれない}。
{中世だから所属をコロコロ変えるのは仕方がないし、一族を二つに割って互いに敵となって戦い、どちらが勝っても負けても、とにかく一族の名迹が残った例は枚挙に遑がない。有名な例では、真田家は幸村と信之に別れ、幸村は大阪陣で徳川家康を苦しめたが、信之は譜代大名となって家筋は幕末まで続いた。長男信之が強い者に就いて存続し、次男幸村が好き放題に暴れ回ったようにも見える}。
 
 だいたい九代記は、詳し過ぎる。此の書は江戸前期の寛文年間から幕末まで出版された超ロングセラーであって、それなりに権威のあったものだけれども、「お前、見てたのか?」と言いたくなるような記述に溢れている。詳し過ぎて、却って信憑性が低い。ワイドショーテレビの事件再現ビデオみたいなもんだ。例えば結城勢全滅の瞬間は、凄まじい。
 二万騎といわれた結城勢は十万余騎の幕府軍に蹂躙され次々に屠殺されていく。最後に結城七郎以下四百騎ばかりが残った。土岐刑部少輔・北条駿河守の率いる三千余騎が現れ、七郎に降伏を勧告する。七郎の答えは、「今更降人になる程ならば、始より世を諂うて先祖の面を地下に恥かしむべし」であった。四百騎が決死の勢いで三千騎に打って懸かった。土岐・北条は溜まらず退いた。代わりに上杉修理大夫持朝率いる六千余騎が近付いてきた。七郎らは再び敵の大群を駆け抜けた。このとき、結城中務父子さえ討ち取られた。残るは七郎はじめ五十三騎。籠城した二万人のうち五十三人である。腕が立つか運が良くなければ、この確率では生き残らない。勝利など望むべくもない、ただ駆け抜けるのみ、とばかりに、五十三騎は敵の大群へと向かって行った。名のある勇士が相次いで討たれていく。気が付けば、味方は三騎のみ。鬼神というほかない。結城七郎・宇都宮弥五八、そして、里見修理亮であった{→▼九代記当該部分}。
 
 何だか或る種の漫画劇画を見ているようなのだ。死を覚悟した四百騎が、三千騎を浮き足立たせることはあろう。華厳経でもあるまいし、「五十三」に如何な意味があるかは知らぬけれども、四百騎が突撃を敢行して、五十三騎まで激減したとの記述は、さほど珍しく感じない。五十三騎は再び敵の大群に飛び込み、離脱できた武者は三騎だけであった。此処までは、まぁ良い。しかし、かなり眉唾な英雄譚であっても、三騎にまでなったら、切腹するか敵中に飛び込んで討ち死にするのみだろう。しかし件の三人は、敵の大群に駆け込み好き放題に暴れ回り、日も暮れて疲れたから自害した。余りに人間離れしている。AT(Armored Trooper)か何かだったのか。とにかく、リアリティーを感じない。八犬伝第一回に於ける里見季基最期の場面の方が、稗史的リアリティーに裏打ちされた名文であった。
 
     ◆
季基は落てゆくわが子を霎時目送りつ、今はしも心やすし、さらば最期をいそがん、とて、かい繰り馬騎かへして、十騎に足らぬ残兵を鶴翼に備つゝ群り来つる大軍へ会釈もなく突て入る。勇将の下に弱卒なければ主も家隷も二騎三騎敵を撃ざるものはなく、願ふ所は義実を後やすく落さんと思ふ外又他事なければ、目にあまる大軍を一足も進せず躬方の死骸を踏踰て引組では刺ちがへおなじ枕に臥ほどに、大将季基はいふもさらなり八騎の従卒一人も残らず僉乱軍の中に撃れて鮮血は野逕の草葉を染、躯は彼此に算を紊して馬の塵に埋む……後略
     ◆
 
 筆者からすれば、九代記の此の部分は余りに荒唐無稽であって、稗史か講談としても大袈裟に過ぎる。が、此のような劇画タッチの描写ゆえにこそ、同書は近世を通じて刊行され続けたのかもしれない。面白いからである。真実なんざクソ喰らえ、退廃の世に生きる者は、信じたいものを信ずるのみだ。馬琴は八犬伝で、史と稗史を峻別するよう強く呼びかけていた。……しかし、史と稗史との淫らな混淆は、現代人の意識をこそ、深く蝕んでいるのではないか。馬琴の憂慮は、現代に於いても、決して杞憂ではない。閑話休題。
 結城合戦の規模と凄惨さは、関東戦国史に於いて特筆すべきものだ。九代記は、誰もが知っている結城合戦のラストシーンで、里見修理亮をスーパーヒーローとして描き出した。永享記でも、里見修理亮は結城方として登場しており、詳細は不明だが、首級は結城中務大輔や結城右馬助らと共に京へ送られている。結城方の主立った武将として扱われているのだ。他の軍記でも、修理亮に限らず「里見」は関東公方側に立って行動している。修理亮は持氏の重臣もしくは側近であったろうし、九代記は大袈裟としても、かなりの武勇を発揮して幕府軍の耳目を集めたと考えられる。
 
 八犬伝第十六回に於いて、永享の乱後に幼い足利成氏が信濃で匿われたと記述するに当たって、馬琴は、鎌倉管領九代記を下敷きにしたと思しい。しかし、鎌倉管領九代記はアヤシイ記述で満ちている。結城合戦以前から「安房の里見」が其処等を彷徨き、合戦では結城方の里見修理亮と対峙している。馬琴が同書を全面的に信頼したとは考えにくい。即ち馬琴は同書に記されているから成氏信濃隠匿説を信じたのではなく、他に理由があって採用したと考える余地が生じる。筆者は、馬琴が信濃隠匿説を採用した理由として、成氏の子孫に対する警戒と、成氏と信濃を結びつけたい物語上の必要を想定した。
 但し同書は江戸のロングセラーであって、それなりの読者を獲得していた。同書のハイライトの一つ結城合戦の最終場面で、里見修理亮が人間離れした武勇を発揮している。里見家伝が祖とする里見刑部少輔家基が里見修理亮と同一人物だとは、近世水準でも考え難かっただろう。だいたい、家祖とする家基を嘘でも派手に飾りたいであろう里見家伝からして、其処までは欲張っていない。飽くまで結城方として戦ったと迄しか書いてはいない。せいぜい里見修理亮の親戚かも、とまでしか読者に思わせない書き方だ。
 
 現在では家基、実在からして疑われているから「里見修理亮と別人」と云えば実在していたかの如く聞こえるだろうから語弊がある。よって「里見修理亮と同一人物ではない」としか云えずに歯痒いのだが、本シリーズで述べてきた如く、更に馬琴は、里見刑部少輔家基を「里見治部少輔季基」と変換している。馬琴は史実から乖離している事を示すため、足利シゲウジを足利ナリウジに変え、古河を許我と表記した。
 「家」を「季」に変えた馬琴の下心を問題とするには準備不足であるから、差し当たっては、変えたこと自体に就いてのみ考える。現代では里見刑部少輔家基そのものが架空の人物と考えるむきもあるが其れは措き、系図類に載す刑部少輔家基を治部少輔季基への変換したことは、まず以って季基の存在が架空であるとの前提により、実在の里見家と「いっさい関係ありません」との宣言になっていよう。既に冒頭から八犬伝は、歴史から離陸していることが判る。また、実在の里見家基は、ほぼ明らかに「里見修理亮と同一人物ではない」のだが、架空の人物である里見季基は、里見修理亮のイメージを吸収することが可能となる。何故なら季基は家基そのものではなく、外部から何かを吸収して変貌した結果である可能性を含み込むからだ。ロングセラー鎌倉管領九代記で描かれたスーパーヒーロー里見修理亮のモノスゴサが、八犬伝の里見治部少輔季基に振り掛けられる。
 
 元より馬琴は、軍記などに載す史実と思われるものを利用しつつも変換して、独自の世界を構築した。馬琴は八犬伝に於いて、【史実と厳密な事実関係で結び付くのではなく、イメージのレベルで淡く繋がろうとしている】のだ。事実は、イメージの便{よすが}に過ぎない。
 
 馬琴当時の水準でも、系図などが里見家の祖とする「刑部少輔家基」を永享記や九代記に載す「里見修理亮」と同一視することは難しかっただろう。しかし馬琴が八犬伝序盤で里見義実の父に設定した「治部少輔季基」の死を「その名は朽ず、華洛まで、立のぼりたる丈夫の、最もはげしき最期也」と書いたとき、脳裏にあったイメージは、九代記や永享記に載す「里見修理亮」像であったと、筆者は感じている。
 結局、馬琴は、自分の都合の良い「事実」だけを各書から摘み食いしたのではないか。九代記の場合は、永享の乱時から安房を里見家が彷徨いているなど不都合な部分もあり全面的に依拠するワケはないが、幼い足利成氏が信濃で匿われていたとの記述に限れば、馬琴にとって有用であった。全面的に依拠せずピンポイントで引き写していること自体、九代記への史料的信頼ゆえの依拠ではなく、自分の構想に都合が良いからこそ参照したことを裏付けていよう。例えば、龍の一族に連なる幼い足利成氏が龍王の眷属が統べる信濃に匿われていたなら、都合が良い。元より勧善懲悪稗史/儒教道徳主義史学は、構想/儒教道徳に当て嵌まるよう叙述する。各書から都合の良い事実のみ摘み食いするのは、習い性だろう。また、九代記に於けるスーパーヒーロー「里見」修理亮の活躍により、里見治部少輔季基の武勇がスンナリと受け容れられることも期待できただろう。あやしいロングセラー鎌倉管領九代記は、馬琴にとって、かなり都合の良い書であったと思われる。
{お粗末様}

 
 
 

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