■歴史の改竄とキャラクター抽出■
 
 八犬伝に於ける史実からの顕著な乖離は、足利成氏と里見家の関係だけではない。結城・千葉氏も成氏と密接に繋がっていたのだが、八犬伝では千葉氏こそ成氏を庇護するが、最も親しい支援者であった筈の結城氏が至って冷淡だ。南関東大戦で両家は、成氏と結んだ関東管領の軍勢催促を断っている。
 
 長尾景春は山内上杉家の家宰になれなかった番狂わせを怨んで飛び出し、成氏や扇谷上杉に属して山内上杉家に嫌がらせを続けた。八犬伝でも当初は、「管領山内家の老臣長尾判官平景春、越後上野両国を伐靡て既に自立の志あり」{第二十二回}とされていた。しかし中盤になると、「扇谷定正ぬしは近曽上毛白井の城を、わが主君長尾景春殿に責落されて今は武蔵なる五十子の城に在り」{第六十七回}などと一体、誰の味方なのか判然としなくなり、ついには「越後の長尾景春は原是当家{扇谷上杉家}の冢臣なりしに、その■ニンベンに至/修理介の事より起りて主君を怨み奉り山内家(顕定)と諜じ合せて、をさ/\独立の勢ひ猛かり」{第八十九回}と出自が扇谷上杉家に変わってしまっている。
 二十二回の記述からして問題がある。長尾一族には複数の家筋があり、越後守護代の家筋と上野や武蔵の守護代を務めた家は別だ。景春は上野に根を張った白井長尾家である。更に景春が望んだ山内上杉家の家宰職を顕定から授かった長尾修理介忠景も、また別の家筋だ。「越後上野両国を伐靡て」との表記には無理がある。
 第八十九回の記述は、山内上杉家の家宰職云々まで言及していないが、「修理介」なる語彙が惣社長尾修理介忠景に同職を攫われた話を暗示している。にも拘わらず、景春は何故だか扇谷上杉家の家臣に異動してしまっている。かなり強引だ。馬琴は史実を知っており主家からの離反理由まで提示もしくは暗示しつつ、其の上で扇谷家の重臣だったと云っているのだ。則ち馬琴は史実から乖離し景春を、【期待した役職が与えられなかったことで離反する自己中心的な人間】であるとの軍記から窺える性格を借用しつつも、扇谷上杉家の元重臣だと、設定している。
 また、八犬伝に於いて、長尾景春の嫡子は太郎為景だが、恐らく越後長尾家の梟雄、下剋上のプロフェッショナル、長尾太郎為景を宛てているだろう。為景は越後守護代の身で守護の上杉能房を攻め殺した。越後上杉家は関東管領顕定の実家で、能房は実弟であった。顕定は為景を攻めたが返り討ちに遭い敗死した{八犬伝で顕定は敵対していた扇谷上杉朝良と和睦し後北条家との戦で没した}。為景は既に戦乱期となった十六世紀前半を生きた。彼の息子が上杉謙信である。結局、八犬伝では白井長尾家と越後長尾家を一つに統合してしまっている。統合したからこそ景春は越後・上野両国を支配しているし、白井長尾景春の嫡子が越後長尾為景になっちゃうのだ。
 
 大石憲重・憲儀に就いて八犬伝は当初、「大石氏も早晩に鎌倉へ出仕して両管領に従給へり」{第十八回}と、元々は関東足利家に直属していたが成氏が鎌倉を追い出されて以降、両上杉家に従ったように書いていた。それが第三十八回では「大塚には管領扇谷麾下の軍将大石兵衛尉が城■ツチヘンに郭/あり」と、定正の家臣になっている。しかし軍記類で大石家は元々、山内上杉の家人である。
 
 しかも、後北条氏が史実より早く成長しつつあり、既に相模小田原城を奪取している。八犬伝に於いては、地域によって時間座標がズレているのだ。後北条家が小田原に拠点を置いている以上、当然、伊豆も支配下にある筈だ。即ち、嘗て京都から関東公方として下向した堀越足利家が、既に存在しない歴史段階まで進んでいるよう思わせる仕掛けである。
 実際、女運が悪いというか女王様タイプに服従を強いられることで意外にも性的興奮を覚えているかもしれぬマゾヒスト稲戸津守由充は若い頃、堀越公方足利政知に仕えていた。然り気なく堀越足利家が滅亡していることを、文明十四年段階で、犬川荘介に語った。また、同十五年には赤岩百中{実は犬村大角}が政知の旧臣と偽り、やはり主家の滅亡を語りダメ押ししている。
 「歎弥倍す君家の断絶、政知亡させ給ひしかば、某們も亦流浪しつ」{第七十九回}「某甲は伊豆の堀越の御所(足利政知)の旧臣なりき。爾るに先君(政知)卒去の折、伊勢新九郎長氏に襲れて城地を失ひ給ひしかば」{第百五十四回}からすれば、足利政知は後北条家に襲われ敗死し、堀越公方家が断絶したことになっている。断絶後に由充は、長尾家に再就職して箙大刀自側近まで出世している。犬川則任が自殺した寛正六{一四六五}年頃、政知は健在であった筈だ。しかし由充が大刀自の側近になるまで五年はかかるとして、文明十年ごろまでには堀越公方家が滅亡していなければ辻褄が合いにくい。
 実際には文明十四年段階で足利政知はピンピンしており、九年後の延徳三年に漸く死ぬ。虐待されていた息子の茶々丸が義母と異母弟を殺し家督を奪取したものの、明応年間には伊勢新九郎によって伊豆を追われた。馬琴だって「知ってはいるけど稗史だから」とかゴニョゴニョ云っている。
 後北条家は関東を席巻し、戦国後期に婚姻関係を結ぶまで、関東足利家や里見家の仇敵であった{里見家に入った嫁が死んで再び敵対する}。しかし八犬伝に於いて、此と云った活躍を見せない。ただ、既に文明十四年段階で北条家は小田原まで進出しており、関東管領扇谷上杉定正を鎌倉から追い出している。実際に後北条家が進出すると上杉一族は鎌倉を引き払うのだが、八犬伝では兎に角、定正は五十子に行かねばならぬ。五十子に行って、信乃・毛野が攻略する表面上の理由を作っておかねばならなかったのだ。
 そして八犬伝の定正は、憎い裏切り者の長尾景春を討つため、仇敵ではあるが後北条家と和睦しようと考えた。籠山逸東太を使いに出す。犬阪毛野が鈴ヶ森で逸東太を討つ条だ。毛野が仇討ちを果たすためには、逸東太が外出することが望ましい。但し、行き先が後北条家の小田原である必然性は、余りない。小田原でなくとも、五十子から出発し鈴ヶ森を通る延長線上にあれば何処でも良かった筈だ。ただ敵を討つため別の敵と結ぶという、義を忘れ利害だけで合体し離反する態度こそを描ければ、相手は誰でも良かった筈だ。如何やら山内上杉顕定は、後北条家の小田原進出にも拘わらず鎌倉に居座っている。顕定に使者を送れば済むが、此の段階で山内・扇谷間の確執は深刻ではなさそうなので、「敵」とまでは云えない。後北条家が既に成長し小田原にいれば、馬琴にとって確かに都合が良かっただろう。扇谷上杉家と堀越足利家が仲良しだったとは決して云えないが、八犬伝では一応、定正も関東管領である{実際には山内上杉家のみが関東管領である。軍記類には扇谷も含めて「両管領」との表記はあるが実体はない}。堀越足利家とは親密であるべきだ。和睦の使者なぞ必要ない。やはり既に堀越足利家が滅び、後北条氏が小田原に進出していた方が、馬琴にとって都合が良い。結局、定正・顕定・成氏の三者関係を軸に、後北条家は、史実のイメージを纏った侭、八犬伝に都合よく配置されたのだ。
 後北条家は南関東大戦に直接参加しないが、消極的ながら、関東管領側の武田・三浦両氏を所領に釘付けにした。武田・三浦は後北条家への抑えであったから、動かせなかったのだ。うち甲斐源氏武田氏は名君の家とされ、ヽ大はじめ信乃・道節らと交流する。一族に連なる元庁南城主の武田信隆に三百人を授けて出兵させるのみだ。城を奪還する下心をもつ信隆は関東管領のために戦う積もりは全くない。何等かの理由によって馬琴は甲斐武田氏を優遇し、里見家と敵対させたくなかったのではないか。
 また、後北条家に仕えていた稲戸津守が越後まで流れてくる前提として、堀越足利家が亡んでいれば都合が良かっただろう。堀越足利家が滅んでいるとは即ち、後北条家が成長していることを意味する。結局、八犬伝のメインストーリーが流れる文明後期段階で、後北条家が既に成長し堀越足利家が消滅している方が、都合が良い。後北条家が八犬伝に必要だったのではなく、堀越足利家の存在が邪魔だったのだ。実際、幕府公認の関東公方は堀越足利家だが、鎌倉五山住職の推挙やら何やら事務仕事が関東公方本来の機能ではない。武威の面でいえば、古河公方政氏の方が関東公方らしいだろう。
 八犬伝で関東公方は二人もいらない。政知の存在は、史実に於いてもヤヤコシい。早めに退場して貰った方が、スッキリする。八犬伝において関東「公方」は、成氏だけで良いのだ。南関東大戦に於いて、関東公方である成氏が関東管領である山内・扇谷両上杉に凌辱されつつ里見家と敵対する構図、内部で下剋上が起きており正当性を失っている関東府なる政治体制が殊更に大義なき侵略戦争を里見家に対して仕掛けるとの構図を、馬琴が欲したのだろう。
 また堀越足利家が存続しておれば、「何故に公方が二人もいるのか」との問題を避けることが出来ず、成氏と幕府との関係が注目されてしまう。馬琴は、成氏と両上杉家との戦いを、結城合戦を源とする怨恨から発した私闘として描いている。幕府の関与に全く言及しない。故に、成氏と幕府の和睦/都鄙合体に就いても触れることがない。あくまで和睦は文明十年段階に於いて、成氏と両上杉家との間で成立しており、顕在的な戦闘状態は其れで完結しているのだ。幕府は全く関係ない。
 
 実際に関東で成氏と戦う者は両上杉家であった。一族の長である関東管領山内上杉憲忠を殺されたから当然だ。が、関東管領は幕府が任命した者であった。其の管領を「父の敵」という私事の論理で暗殺した成氏は、幕府に逆らったことになる。成氏と憲忠のカップリングは、{第一希望は成氏と憲実だったんだけれども}とにかく幕府が朝廷を巻き込んで定立したものであった。
 
 さて、軍記などから浮かび上がる足利成氏による上杉家への復讐、憲忠暗殺の顛末を大雑把に復習しておこう。偶々の巡り合わせもあろうが、足利義教・持氏といった強烈な個性が激突し、永享の乱に至った。持氏が自害し、遺児が擁立されて結城合戦が起こった。鎮圧後、上杉家と家宰長尾氏の画策で、更に生き残っていた足利成氏が擁立され、関東公方におさまった。上杉側としては、持氏恩顧の武士たちの不満を吸収する部品として、成氏を関東公方の位置に嵌め込んだのだ。しかし上杉家は、成氏を確実には掌握しきれなかった。結城合戦に参加した結城・里見などの一族が、成氏の周囲を固めた。怨みを抱く敗者側が、権威としては上位に置かれたのである。上杉一族が勢力を揮う関東の一般常識が通用しない、特殊で濃密な空間が御所の一部に形成されたであろう。一応は所謂「関東執務事」の看板を廻って抗争が起きたわけだが、抑も上杉家に引っ張り出されて公方に据えられた成氏が、実権を握ろうと考える方が、奇妙だ。里見・結城など旧臣たちと密室に引き籠もることで、当然として感ずべき上杉家への負い目を否定し、若しくは忘却したか。仲間内で舐め合うことにより正当化された怨恨が、独り歩きを始めたとしても、不思議ではない。成氏は、関東管領上杉憲忠暗殺を決行した。成氏を中心とした結城残党の密室づくりを許した上杉家は脇が甘かったし、成氏は自己の世界に閉じ籠もり過ぎた。両者の共犯関係が、関東を戦国時代に突き落とした。
 憲忠暗殺事件後、成氏は鎌倉管領の正当な後継者と見做されなくなった。幕府は新たな公方として、政知を派遣した。伊豆で足止めを喰らい、関東中央部に入れなかった。但し名目上は幕府公認の公方であったから、名目的な公方の仕事は行ったらしい。鎌倉五山人事への推挙などだが、どうせ京都の意向を伝達するだけだろう。また、公方に求められるものは武威であって、事務仕事ではない。
 文明十四年十一月二十七日付け足利義政書状などから、此の日を以て都鄙合体、すなわち京都幕府と関東の足利成氏との和睦が成立したことが判る。因みに此の数年前、成氏は細川政元宛てに和睦斡旋を求める書状を送った。丁度その頃、政元は一宮宮内に掠奪され丹波で拉致監禁されていたことは、既に本シリーズで述べている。政元が実は一宮宮内と合体したや否やは知らないが、成氏と京都幕府の都鄙合体によって、古河公方足利成氏は存在を認められ朝敵ではなくなった。京都の足利義政は、成氏への書状で、政知が身の立つようにしてくれと依頼している。政知は伊豆を安堵された。元々公方としての実権はなかったので、さほど変わったものではなかっただろう。周囲に振り回された政知の一生であったが、息子の義澄は十一代将軍に就任する。異母兄の茶々丸は政知の死後、義母と異母弟を殺し家督を奪取するが、義澄が将軍に就任したため、此の義母ってのが自動的に将軍の実母となってしまった。茶々丸は伊勢新九郎に追われ、堀越足利家は消滅した。関東足利家の家督は成氏から政氏に移っていたが、対した「実」は無いものの、名実共に関東公方家としての立場を回復した。
 しかし、実のところ、幕府公認の関東公方になれば、関東管領上杉一族が洩れなく付いてくる。……って云ぅか、実は関東管領が主体で、公方がオマケである。父兄の仇敵とか云う前に、強大な上杉一族と同じ側に立てば下風に置かれる。支配される……との言葉は語弊があるけれども、強い影響力を受け掣肘される。敵対してこそ、劣勢であっても、成氏は独立していられたのだ。実際、関東の戦乱は、「成氏対両上杉」から「山内上杉対扇谷上杉」へと軸を移す。古河公方の存在感は、都鄙合体によって、小さくなる。
 例えば史実では、都鄙合体以降、足利成氏は往年の威風を喪うが、八犬伝でも南関東大戦に於いて両上杉家の下風に立つ屈辱を受け身悶えている。また、馬琴は両上杉家が潜在的な闘争状態にあったよう描いており、河鯉家の悲劇に重ね合わせた太田道灌暗殺事件に繋げている。史実から離れても、関東足利家・山内上杉家・扇谷上杉家といった関東に於ける主要勢力間の相対関係は、幕府を切り離した上で、八犬伝世界に持ち込まれている。幕府から切り離されることで、関東は日本から分離し、不完全ながら閉じられた一個の世界となる。
 
 近世、馬琴が閲覧可能な軍記群から再構成できる十五世紀の関東像は、八犬伝から大きく乖離している。但し、八犬伝で描かれる山内上杉・扇谷上杉・関東足利家といった、三大勢力間の関係と、強調されている太田道灌の悲劇的立場は、各種軍記類と酷似している。関東足利家は両上杉に対し善戦するものの劣勢を強いられ、そのうち対立軸は両上杉間に移る。忠臣太田道灌を自ら抹殺した扇谷上杉家は、山内上杉家に圧倒されてしまう。南関東大戦という絵空事を除き、極めて大雑把な流れだけ見れば、八犬伝の描く世界は、さほどスットンキョーでもない。
 ただ、馬琴は扇谷上杉定正も関東管領にしているが、実際には山内上杉顕定のみが関東管領だ。軍記に「両管領」と表記するものもあるけれども、馬琴が鵜呑みにしたのか何等かの意図を以て定正を格上げしたのかは、不明である。また、上記の如く山内上杉家から長尾・大石の重臣両家が扇谷上杉家に異動している。って云ぅか、名のある登場人物には、定正の家臣が多い。八犬伝でも山内上杉家の方が大勢力として設定されているにも拘わらず、影が薄い。南関東大戦に至るまで、殆ど山内上杉家の出番はない。山内上杉家は里見家と敵対するに至る悪役だから、影が薄いからには、扇谷上杉家より酷い悪でない。毎度お馴染み巻之三十三簡端附録作者総自評に拠れば、定正・顕定を悪人と認定した理由は以下である。
 
     ◆
定正顕定は其先世に主君持氏を弑し且乱世の蔽に乗して京都将軍の命令をもて持氏の幼息春王安王を生拘り害して且故君の職を横領しける不義逆悪の行ひあり。定正顕定は其児孫として大職を承続ぎながら徳を脩めて先世の罪を償まく欲せず屡成氏を攻伐走して君臣順逆の義を見かへらず剰扇谷定正は最後に仇の誣言を信容れて持資入道道灌を誅ししより兵権いよいよ衰へて子孫凋落せざるを得ざりき。こ丶をもて本伝には貶してもて愚将とす。
     ◆
 
 定正・顕定の二人に共通する罪状は、先祖が持氏を弑逆したこと、また先祖が世の乱れに乗じて情報操作して持氏の幼息春王・安王まで殺害し、且つ持氏の鎌倉管領職を奪ったこと、定正・顕定本人も重職にありながら徳を修め平和裡に統治するどころか、「君臣順逆の義」を無視して主筋である成氏を度々攻撃し追い落としたこと、であった。言い換えれば、顕定には、平和に対する罪と下剋上の罪しかない。定正には上記に加えて、敵の誣告を信じ「文武の達人、当家の軍師、忠誠稀なる良臣」{第百五十二回}の太田道灌を殺した。自ら滅亡の道を転げ落ちたのだ。
 
 かなり酷い云われようだが、八犬伝では長禄三年あたり、里見義実の勢力を侮りがたく思った定正と顕定は相談して、義実を治部少輔から大輔に昇進させ懐柔を図った。此の部分だけでも、筆者は二人の政治的能力を{少しは}評価している。仲々老獪な遣り口ではないか。時に定正十七歳、顕定六歳であった筈だ。年齢の割に頑張っている。……ってぇか、顕定は十四歳のとき越後から引っ張り出されて関東管領に就任する。馬琴とて、大雑把には二人の世代を知っていた筈だが、稗史なんだし、二人のキャラクターを設定し、戌年になる年など睨みながら物語の時間軸を決定したんだから、多少の無理は目を瞑らねばならぬ。閑話休題。
 
 「子曰、十室之邑、必有忠信如丘者焉、不如丘之好学也」{論語・公治長第五}。孔子ほど学問がなくとも、孔子ほどの忠信をもつ者は、ワンルーム・マンション十戸も捜せば必ず見つかる。孔子の忠信が大したことなかったってだけの話としか思えぬが、其れは措き、暗愚の将といえど、何千何万も領民を有し多くの家臣を抱えている。忠信の士は必ずいる。成氏の下河辺家、顕定の小幡東良・東震父子、定正の河鯉守如・孝嗣・巨田道灌・助友などの名が、すぐに思い浮かぶだろう。
 そして、顕定は八犬伝で良臣を虐待していない。対して定正は、とにかく良臣を虐待する。緊縛こそしなかったが定正は、守如を鞭打つ。義実が泣きながら、甲冑姿の堀内・木曽を鞭打つのとは、ワケが違う。定正は、孝嗣を疎んじ遠ざける。道灌を殺す。孝嗣と助友に見棄てられる。成氏も犬飼現八を虐待するが、現八が牢奉行の職を返上しようとしたことへの罰であった。暗愚ではあるが、定正よりイーワケが立ち易い。
 顕定と比べ定正に対する馬琴の扱いが酷い理由は、まさに良臣を虐待した点にこそ求められよう。また河鯉家に対する冷遇は馬琴の創造であろうけれども、太田道灌への無理解と虐殺が反映されている。馬琴が良将と認定した太田道灌さえも虐待した定正ならば、河鯉孝嗣のような人物は必ず虐待するだろう、との思い込みが、馬琴にあったか。史実の登場人物は、史実で行った悪事と同程度の悪事を、八犬伝世界で新たに働く。裏返せば、里見家と徳川家を隠微に繋ぐ重要人物として設定した文武の良将河鯉孝嗣のイメージは、部分的に太田道灌から借用したものと知れる。
 また、長尾景春や大石憲儀が山内上杉家から定正のもとに異動している作中事実は、定正関係の悪者数を確保するためでもあろう。読者にとって登場人物や其の行為および場面の数こそ、叙述の長さこそ、【時間】である。叙述が濃厚かつ多ければ、其れだけ読者の時間を拘束できる。「百年」の二字は読者の記憶にすれば一瞬であり、百丁に及び叙述される一瞬の出来事は、読者にとって膨大な時間の記憶となる。八犬伝の定正は悪の元締めとして、多くの悪人達を抱え込んでいる。山内上杉家から長尾景春や大石憲儀といったビッグ・ネームまでヘッド・ハンティングしている。景春は、定正を手酷く裏切るため異動したのだろうし、主君を逃がすため命を張るわけでなく髻を切らせ却って生き恥を晒させる重臣として馬琴が憲儀を選んだということだろう。定正は、重用しなかった重臣に裏切られ、重用した重臣にも恥を掻かされる。そして良臣を虐待し、良妻を苦悩させ死に至らしめ、結局は自滅の坂を転げ落ちていく。そして下剋上と平和に対する罪しかない顕定と比較すれば、量刑は甚だ重い。良臣良妻を排除してしまう暗愚は、下剋上なぞ問題にならぬほど、罪が重いようだ。下々たる者の務めと、人を率いる者の責任では、後者が遙かに重い。八犬伝を俟たずとも、当たり前の話だ。
 
 関東三大勢力である成氏・定正・顕定の相互関係は、極めて大雑把に言えば、概ね史実通りであり、三人のキャラクターは馬琴なりに史実から抽出したもの、就中、定正のキャラクターにより景春・憲儀が山内上杉家から異動してくる。よって八犬伝世界の人物設定および配置は、史実から遠く乖離したものではあるが、馬琴なりに史実と思える所から成氏・定正・顕定三人のキャラクターを抽出し、相互の関係を軸に、独自の戦国期関東像を構築していったのだ。
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