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■隠微な否定■
 
 巻之三十三簡端附録作者総自評は、上杉家が持氏から関東支配の重職を奪ったとし、定正・顕定が受け継いだ、と書いてある。しかし、幕府が成氏に持氏の職を継承させた、と八犬伝には書いてある。整合するためには、上杉家が持氏から関東府の実権を奪い定正・顕定が継承、成氏は関東公方となるが実権は上杉家が握り続けた、と読み替える必要がある。足利憲忠を殺して鎌倉から追い出される迄は、実権がないものの、里見義実を治部少輔に推挙するぐらいは出来た。持氏恩顧の武士を取り立てること迄は出来た。此の二点しか、成氏が関東公方として行った仕事は八犬伝に書いていない。そして、文明十五年段階で成氏は依然として鎌倉に入れず許我にいた。上杉家と和睦し堀越御所が滅亡した後、成氏の幕府に対する立場が如何なったかが、八犬伝には明記されていない。
 八犬伝に於いて康正元年、関東公方足利成氏が鎌倉から追い落とされ、山内上杉顕定と扇谷上杉定正が関東管領となった。寛正二年に足利政知が新たに関東公方として京都から下向、伊豆国堀越で足止めを喰らった。文明十年に成氏は両上杉家と和睦した。文明十四{一四八二}年段階で稲戸由充は既に堀越公方家は滅亡していると語っている。両上杉家は文明十五年段階でも幕府に臣従しており明らかに関東管領ではあるが、関東公方が不明だ。
 
 抑も、足利政知を関東に下向させて以後、里見義成の安房守叙任推挙まで、幕府は関東に介入していない。其の後、犬士の金碗宿祢姓継承勅許の窓口になり、南関東大戦の戦後処理以外、いるかいないか判らないぐらい、何もしない。関東だけで世界が、ほぼ成立してしまっている。長らく八犬伝読者にとって、関東が【全世界】であった。
 
 さて、南関東大戦が終結し、京都から勅使代秋篠広当と諚使熊谷直親が里見家を訪れた。直親は途中で沼田・白井・河鯉に寄って長尾景春・山内上杉顕定・扇谷上杉定正を譴責したと伝え、里見家が関東管領側と和睦するよう期待した。里見義成は、和睦に異存はないが敵側からの使者が来ないうちは無理だと答えた。直親は同行した雑色に発言を促した。雑色が進み出て、自分たちこそ和睦の使者だと明かした。「実は扇谷山内滸我三将の老党なる巨田薪六郎助友・斎藤左兵衛佐高実・下河辺荘司行包等で候也」。ほかに「千葉の老党原胤久の弟なる原赤石介胤輔・長尾の老党直江荘司・三浦の兵頭水崎蜑人」が後に控えていた。巨田助友・斎藤高実が両管領から託された、和睦の証である二本の折れた矢を差し出した。残る四人も同意の礼を示した。里見義成は和睦を承知した。
 非常に難解な場面だ。諚使熊谷直親は、安房に来る途中で両管領と長尾景春を譴責した。主立った武将のうち逃げ延びた本人だから、と考えておく。足利成氏はじめ捕まった武将の降伏は自明であるとの考えだろう。和睦の使者を待ち望む里見義成に対して、まず名乗りを上げた者は、両上杉と許我の三老臣であった。里見家に和睦の使者を出した六家のうち、三家は区別されている。なるほど、残る三家は関東管領両上杉家の催促によって出兵した。しかし山内上杉顕定と足利成氏は、扇谷上杉定正の、命令ではなく要請によって参戦した。三者の間に見かけ上の君臣関係はなく、勢力の強弱はあるものの、対等である。互いに独立した勢力として、自由意思に基づき出馬した。よって当事者として和睦の権限を有つ者は、厳密に言えば、両上杉家と関東公方家だけだろう。残りは連署で済む。
{但し、足利成氏は、里見家に捕らえられ、里見家に直接意思表示できる状況にあった。即ち成氏の意思は無視され、家臣団の判断こそが関東公方家の意思として表明されたことが判る。同様のことは、千葉家・原家・三浦家に就いても云える}。
 
 会盟の場に集まった諸将の代表は扇谷定正・山内顕定であった。十二虜囚のうち、千葉介自胤・三浦義同・義武・上杉憲房・扇谷朝良・朝寧・大石憲重・斎藤盛実・長尾為景・原胤久の十人は出席した。残る足利成氏は「先度に懲たり」と欠席、稲戸由充も「越路は遠ければ」欠席した。
 ほかには、和睦の使者に立った巨田助友{扇谷上杉}、斎藤高実{山内上杉}、下河辺行包{許我}、直江兼光{長尾}が顔を出している。助友は、全体の代表として誓書を、両関東管領の使者として謝書を、里見側に手渡す。和睦の使者として里見家を訪れた者のうち、原赤石介胤輔{千葉・原}、水崎蜑人{三浦}の姿が見えないが、虜囚となった主君や兄本人が出席しており問題はなさそうだ。
 両関東管領と同様に京都幕府の譴責を受けた長尾景春は「独立の志あれば」仮病を使って欠席、前に和睦の使者に立てた直江兼光に代理させたのだろう。但し、虜囚となった息子の為景本人は出席している。
 息子長尾景春の主君であるというよりも、恐らく娘蟹目前の夫である扇谷定正との関係によって、景春とは別に一軍を派遣した箙大刀自は「女流なれば」欠席。箙大刀自の代軍として虜囚になった稲戸由充は、大刀自の代理として適任であろうけれども、「遠ければ」欠席である。殆ど独立した勢力として描かれている割に、終戦処理に全く参加していない。しかし、箙大刀自は犬士から賞賛を受けた女傑だし、稲戸由充も善玉である。恐らく、何の問題もなかろう。抑も由充の場合、二犬士が三舎を避け義理堅いところを見せるため戦場に引っ張り出されただけかもしれない。犬士の為のゲスト参加だから物語上、わざわざ改めて和睦する必要はない。
 いきなり此の場面で初出した小幡東震は、定正の家老だった東良の息子である。東良は、総崩れとなり逃げ出す味方を尻目に踏み止まって奮戦、捕虜となった。犬阪毛野は東良の忠信武勇に感じて縄を解くが、東良は恩を謝しつつ武士として面目が立たないと云って、自害した。東震は会盟の贄使を見事に果たし里見家中から賞賛された。
 善玉とは思えないが、顕定の家老で一応は最後まで主君を逃がすため奮戦し逃げ延びた白石重勝と、定正の家老で虜囚となった大石憲重の息子憲儀が出席している。憲儀は定正と二人になるまで行動を共にし定正だけを逃がした。但し、自分も逃がして貰えると思って定正に髻まで切らせたのだが、逃がしてもらえなかっただけの話だ。毛野のもとに連行され、放免された。
 会盟冒頭の場面に登場する顔ぶれを見ると、やはり成氏の立場が不可解となる。全武将の連署による和睦の誓書はある。関東管領二人による謝書がある。出席者のうち代表者は明らかに二人の関東管領である。成氏は、「先途に懲たり」と欠席している。一人だけ里見家にイヤラシイことをされたとか苛められた風でもない。虜囚部屋の第一房を宛がわれており、十二敗将のうちでは、最高の格式を以て遇されたと思しい。よって、「先途」は南関東大戦であり、「初大石憲儀が総大将に仰ん、といひし言の憑しく且横堀在村に薦められて枉て五十子の城に来会しけるに、定正顕定は敢成氏を敬はず、動もすれば勢ひに乗して無礼なる挙動尠からねば、成氏これを憤りて、かへり去ばや、と思へども又世の人の嘲謔の有繋に影護ければ、独安からぬ胸を押へて黙然として在りける」{第百五十四回}であろう。則ち、本来なら両上杉家より高位者として扱われるべきであるのに、両管領の脇役に追い遣られることを警戒したと思しい。思しいのだが、欠席したことで、成氏の立場が明確には判らなくなっている。
 
 成氏は、十二敗将のうち、最も尊重さるべき立場にあった。自分としては二人の関東管領と「君臣」の関係にあり、現実によって即座に否定されたものの、里見領侵略軍の総大将は自分だとの思い込みも当初はあった。
 総大将であれば、関東管領二人と並んで里見家に謝罪すべきだ。いや、上杉一族は関東足利家を足蹴にしてきたが、里見家は結城合戦で春王・安王に殉じた家だ。謝罪せねばならぬ道義的責務は、成氏にこそある。しかも関東管領が臣下であるならば、成氏こそが最高権限をもつ代表であるべきだ。にも拘わらず現実は、成氏の脇を擦り抜け進んでいく。
 和睦の証として折れた矢を里見家に送って寄越す者は、両上杉家のみだ。直親に譴責されたものの格下の長尾景春は、矢を送る権限がない。戦争の真の当事者が両関東管領のみとも思えるけれども、二本の矢を二人の言質と考えれば、直接に和睦の意思を表明できる成氏に矢を差し出す必要はない。幕府による譴責も和睦命令も、逃げ延びて里見家と一応は交戦可能な三将のみに対して行われる、と差し当たっては考えておく。
 しかし、里見家に敵対した非を譴責する京都将軍の意思が明らかになった以上、残る武将も幕府に詫びを入れなければ済むまい。にも拘わらず和睦後、幕府に使者を送る家は、両関東管領のみであった。諚使直親は長尾景春も譴責し和睦を命じた。独立を指向する景春の場合バッくれただけかもしれないが、取り敢えずは、両管領が配下の武将を代表したと考えておく。いつも好き放題しておいて景春、こういう時だけ扇谷上杉家に責任をオッ被せるのだ。
 但し八犬伝で成氏は一応、関東管領から独立した勢力であり、決して家臣ではない。成氏も独立して意思表示せねば済まない筈であるのに、馬琴は成氏と幕府の間に何等の交渉も持たせない。成氏と幕府の交渉は、里見義実を治部少輔に推挙した時だけなんである。此の場面で成氏は、八犬伝から退場することになっていた。馬琴の気が変わって、第九回の後も居座り始めてから最後まで、成氏と幕府の関係は不明の侭だ。
 
 取り敢えず南関東大戦が始まるまで、関東最強の勢力とされている者は{隠微に内輪揉めしているとはいえ}上杉一族である。しかし上杉一族の定正でさえ、面と向かって話しているワケでもないのに、成氏に言及するとき敬語表現を用いる。
 
     ◆
又滸我の御所成氏主、上野の長尾景春へは、源左衛門(憲儀)廻勤して合戦の義を談ずべし。顕定合体したらんには、滸我の御所も恨を思はで必や従れん{第百五十二回}。
     ◆
 
 成氏には「主」敬称を付け「従れん」と敬語を使っている。馬琴が、上杉家を関東足利家の臣下と見ているからだ。常体ならば「従はん」である。勢力の面で定正は成氏を凌いでおり、馬鹿にしている筈なのだが、形式上、定正は成氏を格上とせねばならない。その上で定正は、自分と顕定が一致して号令すれば、成氏も逆らえずに出馬すると予測した。定正の下剋上ぶりを巧みに描く場面だ。「下剋上」である以上、足利成氏は扇谷上杉定正の上位にいなければならない。
 
 まだ文明十五年なのに何故だか既に伊豆や小田原を支配下に置いている後北条家は、新たに勃興した勢力であり両管領家と敵対していた。堀越公方は既にない。ならば成氏が関東公方に復帰し、諸国の成敗を司っているかといえば、そうとも思えない。関東公方は、京都幕府の出先機関であった。即ち関東公方となることは、幕府の影響力を受け指示に従うことを意味している。実態として、京都の紐が付いた関東管領の制御下に置かれる。成氏は足利尊氏の子孫であり、村雨を相承する龍の一族たる関東足利家の当主である。閉じられた関東という地域で、足利氏の代表であることが重要なのだ。公式の関東公方となり幕府の制御下に入れば話が、ややこしくなる。成氏は、足利将軍のダミーとして動いているのだ。傀儡である。勿論、彼等自身は意思を疎通していない。あくまで成氏は、足利一門として、関東に於いて足利将軍を象徴する存在に過ぎない。足利将軍が投影されている成氏を、徳川将軍が投影されている里見家が、正当性の上でも実力の面でも凌駕すれば、其れで良いのだ。だからこそ、八犬伝の成氏は、史実の成氏と繋がりつつも本人そのものではない。
 
 八犬伝に於いて幕府が成氏に譴責も和睦命令も行わない点に就いては、関東足利家の微妙な性格を反映したものと思える。足利一族であり関東・奥羽・伊豆・甲斐を分国とする巨大な守護大名との側面をもつのだが、補佐する関東管領の任免権は京都幕府が握っていた。幕府が関東の成敗を関東管領を通じて制御しようとしたこと自体が、関東足利家の京都幕府に対する或る程度の独立性を認めてしまっている。パイプを繋いでおかないと不安だったのだ。当然、微妙な位置づけってもなぁ立場によって解釈が変わる。成氏の父持氏に至っては恐らく自分を、室町将軍と、ほぼ同格の独立した存在だと思っていた。自分たちの家は足利尊氏から関東の成敗を任されたとの自負があり、幕府システムの一環である自覚はあっただろうが、歴代将軍個人の臣下とは思っていなかったのではないか。史書に拠れば、持氏は将軍義教を「還俗将軍」と揶揄した。持氏自身も将軍義持の「持」を貰って加冠した如く鎌倉管領は将軍を烏帽子親とする慣例があったが、持氏は京都将軍の存在を無視、「嫡子への加冠を頼むべきは天皇か有力な親王ぐらいだ」と嘯き結局、八幡大菩薩を息子の烏帽子親とした。天皇や有力親王が加冠するとは即ち、親王もしくは王であることを意味する。当時は室町将軍の元服も親王に準じていたから、持氏は鎌倉管領{/関東公方}を将軍に準じたものだと云いたかったらしい。また、「還俗将軍」とは口語訳すれば「元僧侶の将軍」であり、持氏は義教を、武家の棟梁として不適格だと云っているのだ。京都管領が義教の還俗という非常手段を講じなければ、持氏が将軍になっていたかもしれないので、尤もな罵詈雑言ではある。
 ただ、厳格な意味での臣下とは云えず一定の独立性を有した関東公方に対し幕府は、当然ながら、保護を与えたとも云い難い。関東には京都扶持衆と呼ばれる武士が入り込んでいた。文字通り京都幕府の息の掛かった連中である。彼等が、関東の土地を蚕食もしくは侵食していた。関東公方としては、自分や配下の収入を確保するため、京都扶持衆を排除せねばならない。持氏は、京都扶持衆を攻め滅ぼしたりしているし、逆に自分の管轄外である信濃では、守護小笠原家と自分と仲良しの村上家が争ったとき、村上家に援軍を送ろうとした。これは持氏に攻撃された関東の京都扶持衆に、室町将軍が援軍を送るに等しい。さすがに管領上杉憲実が反対して頓挫した。
 近世に通用した軍記などから窺ったところ、如斯く独立性の強かった関東公方の性格が、関東を独立王国のように見せかける。そして八犬伝では、諚使熊谷直親が、然り気なく気を回して{?}両管領の臣のみならず成氏の家臣も和睦の使者として同行するけれども、京都将軍は成氏に対し何の命令も伝えない。京都将軍から何も言われなかった成氏は当然、和睦を果たしても京都将軍に報告の使者を送らない。即ち成氏は、京都将軍から命令される筋合いが無く、何かを報告する義務なぞないのだ。現実には考え難い関係だが、八犬伝では成氏が京都将軍から完全に独立していることが判る。関東府のコントロールに就いて幕府は、独り関東管領を通じてのみ責任を負っていたのである。
 
 以上の事柄から、足利成氏は関東の欠格王であると考えられる。まず、里見家との関係で、扇谷上杉定正・山内上杉顕定と共に、A級戦犯に連なっている。和睦の使者のうち最初に名乗りを上げたのは、三家の老臣であった。十二敗将のうち、施設の第一房に収容されており、最も尊重されている。最大勢力の両上杉家は、山内上杉家が優位には立っていようが、八犬伝では共に関東管領であり同格と思しい。うち扇谷上杉定正が、成氏に言及するとき敬語を使っている。成氏は、形式上、関東管領の上位にある。よって形式上は関東での最高位者だ。王である。しかも此の王は、和睦の報告を京都将軍に送らない。京都将軍に臣従していないことを意味していよう。独立した王である。しかし実際には関東管領に下剋上を受け、凌辱されている。則ち、欠格王である。
 
 一方で、里見家攻撃を思い付いた扇谷上杉定正は「八犬氏は当家の怨敵刑余の乱賊、罪死を容ざる者なるに、里見義成是を扶持して敢隣国の好を思はず」{第百五十二回}としか云っていない。里見家が自分の支配下にはないと認識している。嘗ては里見義実を治部大輔に推挙していながら、関東管領上杉定正にとって、今や里見家は、対等な「隣国」に過ぎないのだ。関東管領から独立しており、且つ敵対もしていない奇妙な存在が、里見家なんである。後述する如く、此の時点で里見家は、京都将軍に直接繋がっていた。南総の里見領国は、地理上こそ関東の一部だが、関東府の支配下から外されている。
 
 若干の語句説明をする。「諚使{/上使}」と「御教書」である。前者は格下の者への使者であるが、近世語彙としては概ね将軍の使者を意味する。後者は三位以上の者が発する命令書だ。関白なんかが出すものだが、徳川将軍も三位以上だから発行出来る。ただ、八犬伝に於いては、「諚使」「御教書」とも、征夷大将軍以外の者も発している。
 「御教書」は京都将軍と関東管領、里見家が発給している。大塚蟇六は「管領の御教書」を与四郎犬が破ったと虚偽の申し立てを行った{第十九回}。架空の御教書ではあったが、蟇六は関東管領が御教書を発すると認識している。但し、関東管領の御教書は、此の一通だけだ。また、「管領の御教書」と表現されているが、管領は関東府の実質的な責任者であり、関東公方{/堀越公方足利政知}の行為を代行したか、見せかけだけでも公方の意を体して発行した筈だ。此の時点で足利政知は関東公方の初任位である従五位下左馬頭だった筈だが、将軍の名代であるから、御教書を発行しても見逃しといてやろう。
 里見義実は頻繁に「御教書」を発している。滝田城を攻略する以前、結城敗残の素浪人の分際で、御教書を発する。南総に勢力を広げた後も当然、里見義実も義成も御教書を発行する。
 「諚使」を発する者は、征夷大将軍と里見義実・義成のみである。関東管領山内顕定・扇谷定正は云うに及ばず、関東公方足利成氏でさえ、「諚使」を立てたことがない。南関東大戦に於ける軍勢催促でも何でも、関東公方・管領の使者を「諚使」とする表記はない。
 「諚使」「御教書」といった征夷大将軍の縁語が、里見家に関し頻用されている事実は極めて興味深い。
 ところで、関東管領の発した文書が蟇六により「御教書」と表現されたが、蟇六が武士身分ではないこと、自分の都合良く誇大表現をする性格であろうことを勘案すれば、誤用である可能性も否定できない。蟇六に与四郎犬の御教書破却を伝えられても犬塚番作は冷笑するのみであった。蟇六に敢えて誤用させ、番作が文書を抑も存在していなかったと見抜いているとの裏設定さえ感じさせる。まぁ其れは言い過ぎとしても、実質的に関東公方として振る舞っていた関東管領が「御教書」を発したとしても、さほど珍妙ではない。「諚使」は京都将軍と里見家に就いてしか使われない。京都管領細川政元でさえ、「諚使」を出さない。里見家と同格の大名、甲斐武田家や下総結城氏に関しても当然、「諚使」は使わない。もしかしたら本当に「御教書」を下し得たかもしれない関東管領でさえ、「諚使」は出さない。
 「諚使」と「御教書」の使用は極めて限定されている。登場時から里見家は、かなり格式の高い言葉を纏っていることになる。格式の問題だから、単に主人公だからではない。勿論、里見家関係者が自分たちの権威づけのため、常識より格上の言葉を敢えて使っていたのかもしれない。虚栄心の強い詰まらぬ奴等だったのかもしれないけれども、筆者は、そうは考えない。何故なら、より虚栄心の強そうな関東足利家や関東管領両上杉家でさえ、「諚使」を一度も使っていないからだ。「御教書」でさえ、恐らくは八犬伝の構想が固まっていない序盤で関東管領家の一通が言及されているだけだ。里見家に関しては、序盤から後半にかけて何度も「諚使」「御教書」表記がある。
 こうした格式を無視した珍妙な表記には、特別な理由がなければならない。逆転が起きているわけでもなく、言語の秩序が乱れているわけではなさそうだ。「諚使」と「御教書」二語が、唯一の例外を除き、征夷大将軍と里見家にだけ使用されていることから、寧ろ厳密に征夷大将軍と里見家だけを特別扱いすることで、両者が同等であるとのイメージを読者に抱かせる効果が期待されているのではないか。且つ、関東に於いて足利将軍家を象徴している成氏が「諚使」「御教書」を発せず、単なる南総の大名家に過ぎぬ里見家が殆ど専ら「諚使」と「御教書」を出している作中事実は、関東で里見家こそが、王たる要件を満たしていることを示していよう。但し、要件を満たす事と実際に王/征夷大将軍になる事は、全く別の問題だ。政木孝嗣の言葉を借りれば、「天也、命也」である。
 
 八犬伝表記に於いて関東公方足利成氏は、京都幕府との関係が不明なまま、「臣下」に凌辱された関東の欠格王として振る舞う。結城合戦に纏わる春王・安王の悲劇以来、金碗宿祢姓勅許申請のため犬江親兵衛が上洛するまで、京都将軍の存在は殆ど触れられないまま物語が進んできた。勅許申請も対象は飽くまで天皇であって、将軍/幕府は窓口に過ぎない。結城家再興の許可を下した一点のみ、関東に対し将軍が行使した実際的干渉であった。
 不完全ながら、関東は幕府から則ち日本から切り離されていた。一個の閉じられた世界/関東で、足利成氏は、臣下の関東管領に凌辱されつつも王として振る舞おうとする。其の閉じられた関東世界の東海の辺/南総で、更に里見家が独立した王として振る舞っている。里見家には関東公方や関東管領といった幕府紐付きの肩書きさえない。ただ天皇に認められた安房守・上総介なる領域支配の正当性のみを有していた。当初は関東府を通じて官職を得ていた里見家だったが、南関東大戦で関東府所属武将にトライアンフを収め、天皇の勅使を迎え官職を与えられた。且つ里見家は登場当初から、本来なら征夷大将軍に関連して使用される「諚使」「御教書」なる語彙を好き放題に使用していた。
 日本から切り離され一個の閉じられた世界となった関東は、【日本の一部】ではない。其れは日本全体を投影する鏡/パラレル・ワールドである。ならば関東府から独立した南総里見領域も、日本全体を理想的にデフォルメして投影したパラレル・ワールドであろう。そして関東を支配してきた関東府は既に内部で「君臣順逆の義」を崩壊させ理念上の正当性を失った体制に過ぎず、更に大義名分のない侵略戦争を里見家に仕掛け返り討ちに遭って実力の上でも支配者としての正当性を失った。名目上は足利成氏・山内上杉顕定・扇谷上杉定正で構成する関東府が、理念・実力の両面で正当性を全く失ったのである。此の時点の八犬伝に於いて、征夷大将軍は理想化された足利義尚だ。しかし日本から乖離した関東が、日本を投影した鏡だとすれば、関東公方足利成氏も、或る種の将軍を投影したものと思しい。下剋上の挙げ句、織田信長に潰された足利将軍家の象徴だろう。
 時折は綻びを見せ京都がチラチラ見えるものの、一個の完結した世界である関東に於いて公方/足利成氏は、日本に於ける京都将軍に対比可能だ。義尚ではなく、後に下剋上の対象となる足利将軍家一般を象徴し得ている。
 
     ◆
扇谷山内の両管領(定正顕定)里見と和睦整ひて会盟の義を果せしかば、諚使熊谷二郎左衛門尉直親は、既に帰京の聞えあり。是により定正顕定は使者を室町殿へまゐらせて罪過恩免を拝謝し奉らんとて定正の使者白石城介重勝、顕定の使者斎藤左兵衛佐高実、両家の伴当尠からず、随即直親に相倶して明日啓行を致すといふ。この日直親より快舩の使をもて勅使代秋篠広当に件の義を告しかど、広当は敢いそがず、先其使をかへし遣りて却犬江親兵衛と蜑崎照文を招きよせて告るに件の義をもてして声を低て又いふやう、熊谷帰京の告あれとも這回は自等、他と一路児に做るべからず、何とならば、他は両管領の使者を倶したり、我は是勅使代にて且各を伴ふべければ他が下風に立かたかり、こゝをもて四五日を歴て帰路に赴まく思ふ也
     ◆
 
 関東という一個の世界の外にいる天皇・将軍が、理念・実力の両面で里見家の正当性を認める。則ち里見家は、関東という閉じられた世界に於いて、真なる王の資格を与えられる。此の場合の天皇・将軍は、【世界の外】に存在しているから、関東に於いては、ただ調停者としてのみ振る舞う象徴的権威に過ぎない。現実の天皇・将軍というより、天皇霊・将軍霊とでも表現すべきものに昇華している。かと云って、「征夷大将軍」を否定するような記述は危険だ。お誂えにも義尚は、男色家ではあったが、あの口喧しい新井白石さえ名君と認めた将軍であり、父で大御所として振る舞った義政は暗愚の代表選手である。足利将軍家を褒めながら貶せる貴重な時期を、馬琴は精確に選んでいる。義尚は父と似ても似つかぬ名君であるが、個人の資質として名君であるに過ぎず、大御所である暗愚な義政が存在しているし、管領が実権を握っている。義尚は、征夷大将軍でありながら、足利家を統御できていない。名君であっても無駄なのだ。そして八犬伝は関東を主たる舞台にしている。関東公方足利成氏が足利尊氏の子孫であることを強調され、尊氏の子孫たる故に父の持氏が横死し復讐の連鎖に取り込まれていく。遠く京都にあって関東との関わりを殆ど断っている将軍義尚に代わり、成氏が足利一族を代表している。そして足利一族を代表する成氏が、上杉一族に凌辱され且つ人格面からも王たる資格を否定されている作中事実は、取りも直さず、足利王権そのものを否定しているに外ならない。否定された足利王権に代わり、将軍の縁語「諚使」「御教書」を多用する里見家こそ、王たる資格を有している。三種神器の一たる草薙剣に擬すべき村雨は関東足利家のもとから、犬塚信乃に渡る。「王佐器」{第九輯下帙之上口絵賛}と評される信乃は村雨を携え、里見家に参ずる。但し、事実レベルで里見家が関東/日本の王になるというのではなく、事実レベルの行為を理念に投影すれば、日本の王/征夷大将軍として幻視されるようになるのみである。
{お粗末様}

 
 
 

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