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寛政重修諸家譜巻第七十八

清和源氏 義家流(足利流)
喜連川
 左兵衛督国朝が時、下野国喜連川に住せしより代々称号とす。
持氏
幸王丸、左馬頭、左兵衛督(寛永系図、左兵衛佐。今の呈譜をよび尊卑分脈に従ふ)従三位。
父が封を襲、応永十七年十二月二十三日左馬頭に任じ二十七年十二月従三位左兵衛督に叙任す。永享十年普広院義教と不快の事おこり京軍と合戦し十一年二月十日鎌倉の永安寺にをいて生害す。年四十二(今の呈譜四十四)陽山純公(今の呈譜継公)長春院と号す。墓地の別願寺に葬る。

女子 昌泰 安積和尚 尼となり鎌倉大平寺の住職たり。

義久 賢王丸
永享十年十一月朔日満直寺と共に自殺す。年十二。

某 春王丸
父生害の時、弟安王丸と共に鎌倉を遁れ結城中務大輔氏朝を頼みて其居城に楯こもり嘉吉元年落城のとき、いけどられ五月十六日美濃国垂井道場金蓮寺にをいて害せらる。年十三。喜阿弥陀仏と号す。同寺に葬る。

某 安王丸
兄とおなじく金蓮寺に於て害せらる。年十一。独阿弥陀仏と号す。葬地上におなじ。

成氏 永寿王 左馬頭 左兵衛督 従五位下 従四位下
鎌倉没落のとき信濃国に至り後兄と倶に結城城にこもり落城のとき虜となり兄二人は垂井にをいて誅せらるといへども幼稚なるを以て助命せられ文安二年関東の諸士等京都に申こふにより赦免ありて鎌倉の主となる。宝徳元年八月二十七日従五位下左馬頭に叙任し三年二月二十八日従四位下左兵衛督に叙任す。後鎌倉を退去し下総古河に移り住し属国これを称して古河公方といふ(諸記録を案ずるに享徳三年成氏執事上杉右京亮憲忠を殺せしより其族徒いかりて兵を起し成氏をせむ。これより鎌倉兵乱やまず。康正四年今川上総介範忠京都将軍の命をうけ東海道の軍勢を率ゐ鎌倉に乱入す。成氏防戦かなはず下総国古河にうつると見えたり。これによれば成氏このとき鎌倉を没落し古河に移り義氏に至るまで、その地に居住せしなるべし)。
明応六年九月晦日卒す。年六十四(今の呈譜六十七)久山昌公。乾亨院と号す。
今の呈譜に成氏が葬地を詳にせず。或は伝ふ、下総国古河の長谷に葬り寺を建て乾亨院と称す。しかれども旧記にのせずといふ。

成潤 勝長寿院 大御堂と称す。

周ム 初守実 長春院 道号天心 熊野御堂と称す。

尊■伸にノブン/ 蓮花王院 雪下と称す 若宮の別当たり。

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寛永諸家譜(清和源氏乙五冊之内義家流之内足利流)
寛永諸家系図伝
清和源氏 乙一
義家流
足利流
喜連川 宮原
……中略……
持氏
左兵衛佐、従三位
永享十一年二月十日、四十二歳のとき永安寺におゐて自害。長春院殿陽山純公と号す。
……中略……
成氏
左馬頭、従四位下
明応六年九月晦日逝去。行年六十四。
乾亨院久山昌公と号す。
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