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■危険な綱渡り■
 
 「足利成氏を捜せ」などに於いてチラと喜連川判鑑に言及したが、此は江戸期に成立した関東足利家の系図である。成氏から二百年を経ており、表記も雑然を極めケアレスミスもあるけれども、関東足利家自身が作った系図だから、侮れない。ちょっと言葉を足しながら、読み返してみる。
 まず、深刻な問題を孕む成氏の幼少時に就いては、「(乙丑)文安二。鎌倉没落ノ砌、信濃国ニ落下リ玉フ。大井持光、養立申、今年関東ノ諸家、京都ヘ訴申シ鎌倉ヘ請侍シ如元公方ト称ス。御元服有テ成氏ト号ス。憲実ガ子龍若ヲ任管領職。元服シテ上杉右京亮憲忠ト号ス」と明記している。此の書き様からすれば、永享の乱後に成氏は信濃に逃れ、大井持光に匿われていたが、諸将の要望によって関東公方として迎えられた。八犬伝の理解と重なる。そして成氏は、上杉家との抗争に明け暮れた割に、しぶとく生き残って自然死した。
 成氏から足利家督を継いだ政氏は、扇谷上杉定正と組んで山内上杉顕定を破ったりしているが、この頃、伊勢新九郎が小田原城を奪取、後北条氏は勢力を強め始めていた。続く足利高基は里見家などの支援で存続していたものの、後北条家に対する劣勢は明らかだった。北条氏綱の娘を嫡子晴氏の嫁として迎えた。簡単に言えば、関東足利家は、後北条家に吸収合併されちゃったんである。逆に言えば、後北条家は、関東公方を保護する位置に立った。一方で山内上杉憲房が死んだとき、高基の次男が養子となって憲広{/憲寛}と名乗り関東管領職を継ぐ。後北条家という強力な新勢力の台頭に対し、いがみ合っていた旧勢力が結集し始めたと見えなくもない。政氏と不和だった息子の足利義明が小弓城を奪って居城とし、生実{小弓}御所を名乗った。義明の指令で里見義弘が鎌倉を攻撃したりしている。吸収合併した筈の足利氏が不穏な動きを見せたため、後北条氏が小弓に来襲した。張本人の小弓御所足利義明が討たれたほか主立った武将が相次ぎ殺され、足利家残党は安房に逃げ込んだ。
{実際に於いて国府台合戦は四半世紀を隔て天文・永禄の二度行われたが軍記類は一度に起きたよう叙述しており此の辺りは時間軸が狂っている。義弘は第二次に登場する里見家当主。義明らの戦死は第一次。第一次で里見義堯は殆ど消耗することなく逸早く撤退、第二次で里見勢は多大な犠牲を蒙り義弘が敗走した}
 武勇で鳴った氏綱が死に、北条家の家督は氏康に移った。足利晴氏は関東管領上杉憲政と組んで北条家と戦ったが、敗北した。足利家と北条家の関係は断絶した。五年後、憲政は越後に逃亡する。判鑑には書いていないが更に五年後、憲政は養子にした越後長尾氏の景虎に上杉家の家督を譲った。関東管領上杉謙信である。その間に足利晴氏は北条氏に攻められ、掠奪され隠居している。北条氏綱の娘を母とする梅千代王丸が家督を継ぐ。旧来の慣例に従い将軍義輝の一字を貰って、義氏と名乗った。しかし足利体制に往年の輝きはない。七年後、義輝は松永弾正に攻められ自害している。北条氏当主の氏康は、甥である義氏を補佐……支配下に置く。天正二年、姫君が生まれた。氏女もしくは氏姫である。二年後には待望の若君が生まれ、梅千代丸と名付けられた。しかし、梅千代丸は早世した。この頃、里見家と北条家は縁組みし、敵対しなくなる。北条家は関東最大の勢力として、地位を安定化させた。
 天正十年十二月二十六日に義氏も死んだ。足利家には一人娘の氏女しか残っていなかった。一家を挙げて姫君を護り立てた。戦国の世に、九歳の少女が当主となったのである。完全に北条氏政の支配下に置かれただろう。
 そうこうするうち、十五代将軍として足利義昭が信長に擁立され、追放された。信長は、明智光秀に攻められ、森蘭丸を道連れとして死んだ。光秀は羽柴秀吉に討たれた。秀吉は豊臣姓を賜り関白にまで昇り詰めた。
 関東の雄/北条氏は、所詮、地方勢力に過ぎなかった。圧倒的な物量作戦の前に北条氏は、ついに降伏を決断する。天正十八年であった。足利家の姫君は、古河城を維持できず鴻巣に移っていた。姫君は数えで十七歳、十六{いろつき}を超え、十八{さかり}を控えた、生の横溢を謳歌する御年頃である。対する秀吉は、希代のエロ爺であった。「秀吉憐其家廃」。小弓国朝との婚姻を命じ、所領を与えた。国朝は足利義明の嫡孫である。父の頼淳は国府台合戦時に幼少であったため、敗北後は安房に逃げ込み、里見義弘の保護下にあった。姫君は、安房から国朝を聟に迎えたのだ。関東足利家は、再興した。
 文禄二年、姫君を再び哀しみが襲った。国朝が死んだのだ。秀吉が朝鮮出兵なんぞという余計なことを始めたばっかりに、国朝は九州に向かう途中、安芸で病死したのである。因みに此の時、最後の京都将軍{十五代}足利義昭も然り気なく名護屋まで進出し、無能化された前代の王として軍役奉仕している。
 国朝が病死した時、姫君は数えで二十歳、十代の頃とは、また違った美しさを備えていたに違いない。女性に対し秀吉は、面倒見が良い面もある。国朝の弟/頼氏と姫君に再婚を命じた。頼氏は六つほど年下だったから【新品】だったかもしれないが、考えても御覧なさい、中坊が高校卒業したての美しい御姉さん{文字通り御義姉さんだったわけだが}とイケナイ事といぅかイィ事が出来るのである。全国青少年の夢ではないか{未成年者の異性交遊は禁じられるべきなので夢でなければならない}。兄の死を乗り越えて、少年は御姉様と生きていく。特段の功績を挙げたわけでもなさそうだが、慶長六年、征夷大将軍徳川家康から千石を加増された。以後、関東足利家/喜連川氏は、国持大名格の旗本という特殊な地位を維持し、徳川家から当主を迎えたりしつつ幕末まで、何となく存続しちゃうのであった。
 
 筆者の関心に惹き付け、喜連川判鑑を抄訳した。いつもの事だが、やや言葉を補っている。後半は氏姫の話題が中心になってしまったが、此の姫君なくして、足利家の再興はなかったと思しい。男の当主が続き下手に総動員戦争へと雪崩込み後北条家相手に玉砕していたら、もしくは催促されて秀吉と戦わされていたら、足利家は断絶していた。ただ関東足利公方の血脈として、天然記念物の如く後北条家に保護されていた彼等は、武将としては無能化された女性当主故に、関東の王たることを積極的には主張し得なかった。実質的な関東の王である後北条家の保護下に置かれていた。北条氏滅亡に当たって、即ち日本の王たる豊臣秀吉が関東に来襲した折、姫君を奉戴する関東足利家は、【過去に於ける関東の王を幻視するヨスガ】/【京都幕府の幻影を映し出すスクリーン】として、ひっそりと佇んでいた。エロ爺/秀吉の下心は解ったものではないが、徳川家康の下心は、藤原姓の田舎大名のくせに源氏長者となって既存の権威を身に纏おうとした成り上がり根性であろう。実力を喪った名家は存続させ、例えば足利家に連なる吉良・今川などの旗本高家を設定した。彼は変態的なほど、征夷大将軍位なる前時代の権威に拘った人物だ。
 
 従来の権威に取って代わるといっても、凌駕し消滅するに任せるのではなく、力を喪った権威を保護し支配下に置くことで、旧来の権威を超越する戦略である。此の戦略は、既存勢力の抵抗を最小限に留める効果があるだけではなく、巧くすれば既存勢力を味方として取り込める。但し、旧権威がゾンビの如く蘇り盛り返すことも、想定しておかねばならない。言い換えれば、旧権威をも利用しつつ、社会矛盾のガス抜きを絶えず継続せねばならない。其れが出来なくなれば、差し当たって安易に旧権威が民意を集めて復活し、現政権が放棄されることも起こり得る。江戸幕府の関東足利家に対する態度は、天皇への態度と通底していよう。こんな危ない綱渡りを、二百六十年も続けた幕府は、政権として優秀な類だ。
 こうした幕府の政略は、八犬伝に於ける旧家存続の施策、就中、武将としては無能化された形で登場する上甘理弘世の保護を思い出させる。但し、こうした「綱渡り」を危惧する声もあった。江戸の天才歴史学者新井白石の読史余論である。
 
     ◆
(按ずるに……中略……義満……中略……大明の帝より日本国王に封崇せられ其名誉外国に及ぶ……中略……又太政大臣に上り日本国王に封ぜられし類も、たゞ人などの其勲労によりて官加階したらんこそ誠に光栄ともいふべけれ、当時此人の権勢を以て何を望てか其心の如くならざるべき。されば世に伝ふる如きも此人三十七歳の時、此官を望み申されしに平清盛が外、武家此官に任ぜられし例なし。いかにや有べきとありしを大に怒て、さらば公家の御領を押へ自ら国王と成て細川・畠山等を摂家精華に准ぜんと謀られしかば、やがて勅許有しなども申す也。孔子曰、名不正、則言不順。言不順、則事不成、と。又、名之必可言也。言之必可行也。君子於其言無所苟而巳矣、と見ゆ。夫所謂大臣とは人臣にして君に仕ふるの官なり。其官ある時は必其職掌あり。是を名之可言言之可行とは申す也。王朝既に衰へ武家天下をしろしめして天子を立て世の共主となされしより其名人臣なりといへども其実のある所は其名に反せり。我既に王官を受て王事に従はずして我に事ふる者には我事に従ふべしと令せんに下たる者、豈其心に服せんや。且我受る所は王官也、我臣の受る所も王官たり。君臣ともに王官を受る時は其実は君臣たりといへども其名は共に王臣たり。其臣豈我を尊ぶの実あらんや。義満の世、叛臣常に絶えざりしは其不徳の致す所と雖、且は又其君を敬ふの実なきによれり。其上身既人臣たり。然るに王朝の臣を召仕て是を名付て昵近とし御家礼とすといへ共、僭竊の罪、豈万代の譏をのがれんや。世態既に変じぬれば其変によりて一代の礼を制すべし。是既変に通ずるの義なるべし。もし此人をして不学無術ならざらましかば此時、漢家本朝古今事制を講究して其名号をたて天子に下る事一等にして王朝の公卿大夫士の外は六十余州の人民悉く其臣下たるべきの制あらば今代に至る共、遵用に便有べし……後略)
     ◆
 
 彼の主張は簡単にして明瞭だ。【足利義満は天皇を完全に抹殺するほど絶対的権勢を誇っていたのだから、天皇を中途半端な生殺しなどにせず天皇をスッパリ聖別してしまって現世の権力システムから切り離すなり何なり、とにかく人臣をすべて征夷大将軍の臣下にしてしまっていれば現在に至っても有用な政治体制であったのに……義満に俺ほどの頭があれば、いや俺に義満ほどの権力さえあれば理想的で安定した政体を創造してやるものを! うがああああああっ】。白石の主張は一種の象徴天皇制であって、天皇を下手に現世の政治ラインに繋げておく愚を糾弾しているのだ。
 彼は経費節減を目指した朝鮮通信使改革に当たって、通信使に渡す国書の署名を大君から日本国王に改めた。「日本国王」とは微妙な称号であって、白石の表だっての理屈は、大君が朝鮮の王子嫡子の称号であると指摘し、別号を使おうというものであった。が、此処には複雑な問題が胚胎する。「日本国王」を【日本国の最高位者】とすれば、制度上、それは天皇であった。征夷大将軍なんて云っても、天皇の臣下に過ぎない。抑も征夷大将軍は令外の官であるから、正式な官位が別にある。無位無官は、あり得ない。京都将軍の場合は五位ぐらいでも将軍に任官する。八犬伝でも「文明五年冬十二月、義尚童年九歳にて、征夷将軍正五位下左中将に做り給ひぬ」{第百三十五回}。尤も、此は「童年」であったからで、死ぬ前年には二十四歳で従一位内大臣兼右大将となっている。文明十五年段階では従一位権大納言だった{関東公方は従四位左馬頭などだが八犬伝に登場する里見義成の正四位左少将兼安房守兼上総介の方が偉い。因みに江戸期の正四位は国持ち大名もしくは有力親藩だから御三家に次ぐ}。徳川将軍の場合は、正二位内大臣{秀忠}とかだ。全く実態はないものの此が【本職】である。本シリーズでも既に述べた如く、官位は臣下として天皇からの距離、官職が臣下として天皇からの方向性を示す{義実が授かる治部卿は春官であるから天皇の東方に位置する}。征夷大将軍も所詮は【臣下】である。天皇を示すべき「日本国王」を将軍が名乗れば僭称ではないかとの議論は、十分にあり得た。但し、「大君」も「タイクン」なら意味不明で結構だが、「おおきみ{/大王}」と読むと、やはり天皇を意味してしまう点は忘れてはならない。
 また、一方で、「日本国王」は中国皇帝からの柵封称号とも云える。京都将軍は明王朝から「日本国王」なる称号を与えられた。即ち、「日本国王」は、中国からの位置付けでもある。しかし、日本の場合は、天皇や親王の子どもが「王{/女王}」であり、うち宣下を受けた者を親王{/内親王}と呼ぶ。「王」は国家を代表するに足る立場ではない割に、何となく偉そうに聞こえるらしく国家代表として認めてくれるってんだから御得だと思うが、中国に対し柵封の礼をとるのかとの反論もあり得た。
 手垢の付いた称号を使う以上、論者によって解釈が変わる。そして新井白石の底意は明らかに、天皇を政治ラインから切り離し将軍に全権を集中する所を目指している。白石は、天皇と将軍とを一旦は切り離しつつも、両者を如何な形で結び直す心算であったか。若しかしたら、社会を背後から抱き包み浸透する宗教的権威として期待したのかもしれないが、現在でも天皇神道に、そんな力は無い。
 結局、朝鮮通信使に渡す国書の署名は白石の提案によって「日本国王」となった。しかし、登場と同時に白石を排除した八代将軍吉宗が、「大君」に戻した。白石の提案による「日本国王」署名は一度限りとなった。此処で社会の思考は停止し、天皇と将軍の【中途半端な腐れ縁】が幕府を倒す原因となる。
{時勢は白石の警告を無視して天皇権威復活に流れていく。但し彼の警告を、まともに受け止めた漢もいた。白石と非難し合っていた仲の荻生徂徠である。徂徠は希代の篤学であったが、或る時点から急に神懸かってしまい、無理矢理自分の理想を記紀神話に投影しようとして奇妙な語呂合わせに陥っていった。南留別志なんか、コジツケ満載の奇書であり、当時の文人から集中砲火を浴びたとは、既に「富山は何故に富山でなく富山か」で書いた。が、神話論から離れ現実的な議論では徂徠、甚だ現実的かつ知性的である。彼は朱子学に批判的であったから、単純な徳治を否定し、道徳に依存することなく法家っぽく法制による統治を夢見た。政談では、白石を「文盲」お非難しつつも、実際の行政ラインを将軍のもとに構築し直そうとすること自体には賛同していた/→▼政談/。……白石も徂徠も、天才ではあったが、人好きせず、好戦的なトーヘンボクであった。天才と変態は音が通じているが、両者の間には紙が一枚あるだけなのだろう。「変態、変態を知る」からこそ、徂徠は白石の議論を理解できたのかもしれない}

{お粗末様}

 
 
 

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