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■地に降りた天■
 
 八犬伝で基準点として描かれる天皇が、馬琴の時代に如何な動きを見せたか、先学の研究群を繋ぎ合わせたりしながら略記する。近世に於いて天皇は学問漬けにされた。「天子諸芸能ノ事、第一御学問也」{禁中並公家諸法度}である。要するに、「おうちに籠もってろ。出てきて要らん事するな」であった。治世は幕府の専権事項であって、容喙が許される余地はない筈だった。しかし天明大飢饉に当たって、ついに封印が解けた。先学の研究に依れば、天明七{一七八七}年、天皇兼仁はオズオズと「飢饉への対応は、ちゃんと遣ってる? 御救米とかぁ……」と幕府に問い合わせた。此の一言は重い。幕府は天皇から大政を委任されているのみ、との議論はあったが、実態として幕府は天皇の行為さえ拘束していたのであり、大政奪取の語彙が適当だし、委任にしても白紙委任であった。天皇が将軍の治世に注文をつけるなんて青天の霹靂だ。が、幕府は妙に落ち着いて対処した。天皇の意を酌む形で備蓄米を放出した。幕府建前上の施政方針に合致しているから、反論しにくい面もあっただろう。
 天明八年、御所が焼けた。天皇もしくは朝廷は、古代と同規模の広大な内裏として再建するよう幕府に求めた。しかも、設計図を添えて要請したんである。図々しいにも程がある。幕府は構想の縮小を申し入れた。しかも締まり屋の老中、松平定信は「先年、天皇は民衆の生活を心配していたが、内裏拡大再建の負担は民衆に転嫁されるんだぞ」と書き足すことを忘れなかった。……せっかく御上が壮麗な内裏を夢見ているのに妨害しようとする定信を、ケツの穴の小さい野郎だ、とウザがる向きもあるかもしれない。しかし、「ケツの穴の小さい締まり屋」なんて具合が良さそうで歓迎すべきだと思うけれども、いや、吉宗の孫なら美青年とは思えず筆者としては如何でも良いんだが、其れは措き、民衆の負担なんぞ糞くらえ、大御心もて天皇兼仁は、内裏の拡大再建を押し通した。幕府は当初の設計図を認め建築に取り掛かった。せいぜい細部をケチって、いじましく経費削減に努めた。
 そうこうするうち寛政元(一七八九)年、尊号一件が勃発した。まだ内裏は建設中であった。天皇兼仁は実父の閑院宮典仁親王の宮中序列が大臣より下であることに不満を持ち、太上天皇号を贈ろうとした。内裏拡大で自我も肥大化したか。個人的感情で秩序を乱す暗愚であるが、本人は「孝道」の発露だと勘違いしていたらしい。忠だ孝だと云ったところで、遣って良いことと悪いことがある。云う迄もなく忠孝は、無条件で賞賛されるべきものではなく、条件付きで是認さるべきものである。八犬伝の足利成氏も、関東を平和裡に治める自分の責任を放棄して、父の仇{の息子}だからとか騒ぎ立て関東管領上杉憲忠を暗殺した。ために関東は戦国修羅の世に陥った。公の領域に私的な論理を持ち込んでは、公儀が立たない。近世天皇は幕府に【擁立】された状態であり、私的に秩序を調整できる筋合いではない。勿論、幕府老中の松平定信は反対した。定信は馬琴ばりに名分論を好んだ。太上天皇号は、天皇経験者にのみ許すべきだと主張した。当たり前だ。しかし朝廷側は、後崇光上皇{伏見宮貞成/後花園帝父}らの先例を挙げていた。
 因みに後花園帝は、称光帝が嗣子のないまま死んで北朝が途絶え南朝が復活しそうになったとき、京都幕府が慌てて北朝傍系の伏見宮家から抜き取って、天皇に据えた人物だ。親王にも皇太子にもならないまま、いきなり天皇になった例外的存在であった{明正天皇も立太子せず内親王宣下と同時に皇位を継承した}。せめて父に太上天皇号を贈って権威付けせねばならぬ政治的必要性があったのだろう。
 先例さえあれば何を遣っても良いとの発想は現代でも根強いが、定信は、【悪しき先例は採らない】と突っぱねた。天皇は諦めなかった。二年後、公卿群議を興し幕府に再び贈号承認を要求した。定信は、朝廷側贈号運動の中心人物として武家伝奏正親町公明・議奏中山愛親を江戸に呼びつけた。【文句があるなら江戸城に来て俺の前で云ってみろ】。恫喝である。両卿を江戸に送り出した時点で、天皇兼仁は敗北していた。両卿は定信に論破され、有罪とされた。正中の変で日野資朝・俊基に謀叛の責任をおっ被せ、自分は知らなかったと鎌倉幕府に偽証して逃げ延びた後醍醐帝を思い出す。
 さて、尊号一件時、幕閣内には処分を朝廷に任せようとの穏健論もあったが、定信は幕府側で処分を決定するよう主張した。幕府は当然ながら過去に、官位官職を得た大名・旗本を朝廷の裁許を経ずに処分してきたのだから、両卿の処分でも朝廷の許可は必要ない、との理屈であった。定信の戦術は正当かつ強力であった。上級公家でさえ幕府の裁判権により処分できることを見せつけた。定信は、内裏拡大再建の失地を挽回した。
 が、一方で、其れ迄なんとなく別だった公家と武家のラインが、接近してしまっている。武家のラインが将軍で行き止まりになるのではなく、理念上は天皇にまで行き着くことを、定信は確認してしまっている。将軍を含めて武家も天皇の臣下であることを強調し得る結果となったけれども、果たして定信の意図が那辺にあったかは解らない。
 ところで「天皇」なる語彙は、中世から近世にかけては、極めて特殊な場合にしか使われなかった。近代以降は一世一元制と相俟って、崩御すれば使用年号を冠した天皇号を諡される。年号自体がオメデタイ漢語を使うことになっているから、天皇諡号は自動的に美称となる。諡{おくりな}とは美称であり尊号である。また、現代では在位中から天皇と呼ばれる。此は法的な地位である。が、中世から近世にかけて天皇が天皇と呼ばれるのは、即位礼時ぐらいにものであり、だいたいは「主上」ぐらいであろうか。死後は「院」である。しかも諡はなく、住所を冠している。後土御門とか後花園なんて尊称でも何でもない。単なる地名に「後」を付けているだけだ。
 しかも中世{/古代末}から近世にかけ、天皇も火葬された。いや別に現代の如く公衆衛生上の必要から、ほぼ義務的に火葬せねばならぬのと違って、仏式で葬儀をしていただけの話だ。天皇は漏れなく熱心な仏教徒であるべきであった。流石に天皇在位中には出家できないが、上皇になった途端に髪を剃り法体となった者は多い。
 そんでもって、天皇死後の追号「院」であるが、仏式の最上位ではあるけれども厳密な制限はなく、近世だと将軍や大名も死後は院号を名乗った。八犬伝でも里見季基は「義烈院忠慈賢山大禅定門」、義実が「献珠院殿建宝興公居士」、義成は「庁月院殿大憧勝公居士」である。何連も住所に「院」を付けただけの天皇より偉そうである。後土御門院より義烈院の方が恰好いい。天皇も不満だったのか、恵仁{仁孝}天皇は上皇だった父で元天皇だった兼仁死後、諡すると言い出した。幕府の許しを貰って、光格天皇と諡した。天保十二{一八四二}年のことである。
 
 異色の天皇兼仁が即位してから死ぬまでの期間、安永期から天明十一年は、即ち八犬伝刊行期{文化十一年から天保十三年}を、ほぼスッポリ包み込む。兼仁/光格天皇は、自身が古代以来初めて正式な漢風諡号を与えられたことに象徴される如く、天皇権威の復古に執念を燃やし続けた。光格天皇は、尊号一件では敗北しつつも、将軍が天皇の臣下であるとの確認を引き出した。松平定信という名分が大好きな漢を向こうに回してこその、成果であった。其れまで何となく幕府が曖昧なうち優位に立っていた朝幕関係を、定信が論理的に整理してしまった。将軍が天皇の臣下であるとの、原理だが現実的でない綱領/テーゼを、殊更に明確化してしまった。定信は、恐らく無意識のうち、光格天皇の共犯者となっていた。実のところ朝廷は、民衆のために立つという真の大義名分を放棄し内裏拡大再建なる愚かで解りやすい権威発揚を狙う下劣な性根しか持ち合わせていなかったと思しい。しかし、内裏再建に続く尊号一件で、論争相手である定信の方が、朝廷側が思ってもみない見事な論理で、天皇の至尊性を証明してしまった。定信は、尊号一件で天皇兼仁が抱いた眼前の矮小な野望を打ち砕き、返す刀で、将軍家斉が目論む実父一橋治斉への大御所号贈与を潰えさせた。名分を明らかにした定信は、しかし天皇と将軍に憎まれ、幕政の場から退くことになる。寛政五{一七九三}年、八犬伝刊行開始から二十一年前のことであった。馬琴は二十七歳である。
 
 馬琴より年上だが同時代と云っても良い柳間詰の外様大名、平戸藩主松浦清{/雲州・静山}は著書の中で、天皇および将軍に対する微妙な感情を吐露している。
 
     ◆
去年(庚子)の秋のことにて大御所公俄に御不例と聞たれば、何かゞやと蔭ながら心配せしに、隠者為べきことも無く茲よ彼翁ぞ手寄りと文通せしが、猶も心元なく彼荘の近所なる稽花が宅に往て云云せしを、子孫の為とて赤心の状を貽す。世の人は何にして斯翁に阿諛し己が出身をのみ祷り苞苴を携て吾が栄達を求るは君子の道とや云はん聖賢を学とや云はん、彼翁が文通。
御直披奉願候  中野石翁
(上略)然ば段々御細々と御書之趣恐入奉存候。西丸様此間は御不例之儀御伺有之、御案事も被為仰上候段、御尤之御儀に奉存候。此節は最早聊御案事被為上候御儀には不被為有、追日御順快に被為成候。乍恐難有安心も仕候。決而御案事無之、御安心有之候様奉存候。今日は近所え御参詣も被為有候由、毎度(下略)九月廿六日(上略)然ば西丸様御容体も被遊御窺度、嘸々御案事被為上候御事と奉存上候。必々御案事不被為上候様奉存上候。益追々御順快に被為首、日々に御様子も御宜、御上り等も御平食位に罷成、御座敷向も御歩行も有之、最早聊御案事奉申上候御儀には無之、呉々御安心被為有候様奉存候。最早私儀も無程定式詰番にも相直候義に御坐候。呉々御安心心被為有候様奉存候。昨日は白髭之御参詣には不被為有、平作方へ不時に御出有之、御機嫌も御伺被遊度之思召に被為有候由、私早朝より罷出、御目通不奉申上、彼是御案事も被為入候御儀、此段御内々奉申上候。呉々も御安心被遊候様奉存候。誠以恐悦難有儀に奉存候。猶又委敷は御目通可奉申上候(下略)九月廿八日 当賀
是に就て過にしことの憶浮たれば茲に述ぬ。嘗林内記と屡々交語せし折から、林、我は幕府の臣なりと云しゆゑ、予云、吾は然らず。林云、さらば何ん。予曰、朝の臣なり、と云より互に彼是と争ひ言しが、予竟に曰ふ、我、何大事有りとも幕府へ御敵対すること毛頭有べからず、されども万一、官、朝と敵し給ふこと有らば、官へも対し奉るべし、然れども幕府自ら御出有らば於予は跪伏弓を偃矢を関ること無けん、是神祖より代々衣食住の三厚恩に報ひ奉る故也。此時若君幕臣と云なれば、此時君と対せば忽水魚の友交を捨て幡然弓矢に及ばん、如かじ、夫ゆゑ微力を竭しても相共に官を善道に進め参らせ永く国家長久を保ち奉らんことを御奉公と為べし抔云争て正語して伏せざりし。
又憶ひ出すは、先年飛鳥井雅光卿、日光御神忌にて其御祭の列人に下向、次でに東府へも出られ彼家の蹴鞠御覧有り。予も鞠道にては師家のことなれば、対晤も為たく思たれど、官制卿の宿所へは往がたく帰京のとき品川の旅次に追送り駅舎に於て面会す。此とき初見なれど父雅威卿以来の故事を話合ひて旧交の如く覚へし。其ときの話中に、蹴鞠に因て登城も両度せしが城内も広きことに見うけぬ、又陪臣衆も饒しきことに覚ゆ抔申されし。予思ふ、なるほど井伊・本多・榊原、其外の歴々実に卿の眼より見ては陪臣に違なし、されども大城を城内と云はれしことは我等が朝臣の身分に取ても頼奉る将軍様へ対し不礼なりと胸悪く思ゐしに、卿又問はるゝは、其住処は何れと云はるゝゆゑ、某は聞及給ふ隅田川の近き辺なり、と答たれば、卿、さては聞及し名所、定めし都鳥も見たまはん、と有たれば、我返報は茲ならんと、都鳥てふことは久しく聞及たれど関東へ従ふ武夫等は其弁別などが定かならず唯弓槍の沙汰のみ専に候、卿には和歌の御家、還て卿へぞ問参らせんと、伸たれば卿も流石にや思はれけん黙笑してゐられし。林内史が幕臣と云しと言争へども又京紳に対しては将軍様へ聊の御恥をも掛奉ることを為ぬこそ男なれ。聞者何ん。
又憶ふ、是も先年のことにて阿部閣老(備中守、福山城主)は未だ部屋住にて主計頭と云しとき松平弾正忠(大喜田城主)も閣老豆州の本宗、此余御譜代の輩、別懇の人々と膠漆の会を為て時々言論せしとき、予言けるは、公等は御譜代、神君御幼年の時より附添ひ奉られしの後、云にも及ばず、某等は将軍武関の先々より随従せし武夫の家なれど、公等は万一故有て御旗に向て進まるゝとも拙夫に於ては外様の中一人、御旗を背にして公等と対せんと云たれば、座中の人々容を改め、公言を吐たる哉迚、乾笑してゐたりし。予が胸中は今尚他無し{甲子夜話三篇巻六十一}。
     ◆
 
 議論の第一点{林内記/述斎との論戦}は、解り易い。天皇と将軍が戦うに至ったとき、六万石の外様大名松浦清は、天皇に属くと明言している。第三点{阿部主計頭正精/共和三年に家督を相続し備中守、後に老中/らとの議論}も解り易い。松浦清は譜代大名群に向かって、お前らと違って外様の俺はイザとなったら天皇に属くからな、と言い放っている。即ち、有事に当たって親藩譜代は当然、将軍に属かねばならないが、外様である自分は其処までの義理はないから天皇に属く、と言っているのだ。しかし松浦静山、第二点{飛鳥井雅光との口喧嘩}では、「井伊・本多・榊原・其外の歴々実に卿の眼より見ては陪臣に違なし」と譜代大名を「陪臣{天皇の臣下である将軍の臣下であるから陪臣}」と規定することを許容しつつ、「我等が朝臣」と外様である自分を「朝臣」であって陪臣ではないと主張している。静山は、親藩・譜代大名と外様との間に境界線を引いている。両者には将軍との関係に親疎があるが、静山にとって、より将軍と親密な譜代を将軍の臣下{/天皇の陪臣}、将軍と疎遠な外様は臣下ではなく天皇の朝臣なんである。「朝臣」の実体は恐らく、彼が帯びている従五位下壱岐守との官位官職であろう。「歴々{/譜代大名}」は天皇の陪臣に過ぎず外様大名である自分は朝臣だとの前提を設定しつつも静山は、「{飛鳥井雅光の言が}頼奉る将軍様へ対し不礼なりと胸悪く思ゐし」と、いはば義憤を感じている。則ち静山にとって、外様大名は将軍の純然たる臣下ではないのだが「頼奉る」存在であり、将軍が馬鹿にされたら、そりゃ家斉だから実は馬鹿だとしても、怒らねばならないのだ。
 因みに家康二百回忌で臨時奉幣使として飛鳥井宰相が下向したのは文化十二年四月辺りであったろう。京都の上級貴族にしてみれば、出自の曖昧な三河の田舎大名が神号を勅許され、あろうことか朝廷から奉幣使が送られること自体、不愉快の極みであったかもしれない。尊皇発言をしていたとはいえ、大名である松浦清に対し、アカラサマな将軍侮辱の言葉を発したこと自体、当時の京都貴族の雰囲気を伝えている可能性がある一方、家康ごときに頭を下げねばならぬ奉幣使に任じられた彼個人特殊の不愉快を表現しているかもしれない。また、「阿部閣老」が家督を継ぐのは享和三年であり、第二点の議論が其れ以前に行われたことが判る。第一点の林述斎との論争は時期比定不能だが、第三点と同時期もしくは其れ以前かとも思われる。なんか青臭いし。
 こう書くと松浦清も白石や徂徠のように喧嘩っ早い変態オヤジかと思われるだろうが、多分そぉなんだろぉけども、清くんの場合は、述斎とも親睦が続いているし、阿部備中守らとの仲も険悪になったとは思えない。過激な事を云っても、「また言ってらぁ」と笑って済ませてもらっている。人好きのする漢だったのだろう。甲子夜話でも河童が如何たら書いているから多分、サンタクロースが実在すると信じて疑わぬような、純真な面があったに違いない。まぁ松浦氏は近世初頭に棄教して切支丹から離脱したのだが。閑話休題。
 
 勿論、二者択一で天皇を採る考え方は江戸初期からあった。外様ではなく御三家筆頭尾張大納言徳川義直も天皇の命で兵を動かす覚悟があった。但し義直は、甥で三代将軍の家光と対立しており、単に彼の学問好きが嵩じて王臣論に行き着いたのではあるまい。よって義直は特殊な例であろうが、江戸初期から、将軍より天皇を優先する考え方は理論上、成立し得た。征夷大将軍でさえ官職のラインに乗った段階で天皇の臣下となる建前上、自然な発想だ。天皇の存在を温存した上で権を執るなら、大政委任論に陥らざるを得ない。徳川義直と松浦清との間に、天皇を行政ラインから切り離し人民を将軍の臣下に置き換えねばヤバイと焦っていた新井白石・荻生徂徠を挟み込んで見れば、江戸期にあっても幕末を待たずして、将軍との二者択一で天皇を選ぶ論理は広範に発生し得たと思えてくる。
 
 天皇権威を復古の方向で振興しようとした天皇兼仁{元の名は師仁}は、安永六{一七七九}年に即位、文化十四{一八一七}年に退位するが、太上天皇として天保十一{一八四〇}年まで生きて、翌年、古代以来の漢風諡号「光格天皇」を与えられた。古代もしくは原始からの存続を強調しつつ近代的絶対主義を標榜した、奇妙奇天烈グロテスクな近代天皇制発生の端緒を、光格天皇朝に見ることは可能だ。民衆の辛苦を思わず、古式に則った壮麗な内裏を夢見た形式的名分論者どもが、ヒステリックに天皇の聖性/虚構を言い募った者どもの祖先である。民を包み込もうとしない空虚な天が、膨張していく。
 そんな空気のなか、享和三{一八〇三}年より以前に外様大名松浦清は、有事の際は天皇に属し、将軍本人へ弓を向けることはないが、幕臣とは刃を交えると豪語していた。また、清は文化十二年には、譜代大名は天皇から見て陪臣すなわち将軍の臣下だが、外様である自分は天皇の朝臣すなわち将軍の臣下ではないとの自意識を持つ一方で、将軍の居城である江戸城を馬鹿にする日光奉幣使飛鳥井宰相に憤りを感じている。
 八犬伝は文化十一年から天保十三年にかけ刊行された。馬琴が構想の発端を得た時期を筆者は知らないが、上記の如く、天皇自身が天皇権威発揚に執念を燃やした時期に包含されることは間違いなかろう。また、正徳二{一七一二}年までに新井白石は読史余論を完成させていたし、続く荻生徂徠も共に、天皇が名目上のみでも行政ラインの頂点に存在することを危ぶんでいた。実際に、中流程度とはいえ大名である松浦清は享和三年より早い段階から、自らを王臣だと公言して憚らなかった。即ち、天皇に対し肯定的な関心が高まり得る空気のなかで、八犬伝は構想され執筆され刊行されたのである。
{お粗末様}

 
 
 

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