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■不確かな江戸■
 

 例えば地名は、時代によって変遷する。「香川」なる地名が登場したとして一般に、どの範囲を示すか、ここ百五十年の間で変化した。現在、香川県外の者にとって、香川といえば、香川県を指すだろう。しかし近代以前には当然、県ではなく国/州であるから、讃岐国/讃州であった。但し、讃岐国には、香川郡があった。前近代に於いて、香川といえば、香川郡であろう。香川郡は、現在も在る。高松藩の城下町である高松町が高松市となったわけだが、県庁が香川郡高松町に置かれたから、香川県になったのだ。そして暫く前まで、五十年ほどの間だけであったが、香川郡には香川町が在った。即ち、香川県香川郡香川町なる行政区域が存在していたのである。残念ながら現在は、遣らずもがなの平成大合併で、高松市と合併してしまっているため、香川県高松市香川町となっている。どうせなら、高松市が香川市に変名した方が良かったのではないか。閑話休題。


 現在、東京と呼ばれている区域の中核は近世、江戸と呼ばれた。八百八町どころか町数は二千を超し人口が百万という世界有数の大都市であった。まぁデカけりゃ良いというものではないが、とにかく巨大な町であった。しかし、江戸が広大な町となったのは、徳川家康の関東入府以後のことだ。其れ以前は日本橋辺りまで隅田川河口に続く入り江であって、銀座も京橋もなかった。浅草が、隅田川河口に近い地域であった。領域としては、少なくとも古代末から八犬伝の舞台となった時代まで、江戸といえば、後の江戸城本丸周辺の江戸郷とでも謂うべき限定された地域に過ぎない。八犬伝の舞台となった時代以降、後北条家が支配するようになってからは、江戸期の大江戸より広い領域を「江戸分」と呼んでいた可能性はあるのだけれども、あくまで「江戸分」すなわち江戸を中心とした複数領域の集合であろう。例えば、伊予国松山藩の城下町は松山だから藩領全域を「松山分」とは云えるけれども、「松山」と云えば、語弊がある。石井村も道後村もあった。町もしくは単一領域としての江戸と、複合領域としての江戸分は、「分」だけに、分けて考えるべきだろう。よって筆者は、「江戸」としては江戸期の大江戸が、歴史上、最大規模であったと疑っている。

 地名等に関しては、例えば第四回の「千騎橋」は房総志料から引いたのであろうし、第八輯巻第五附録となっている狸穴に関する考証は博引旁証で読み応えがある。例えば第八十二回でも馬琴は、地名考証に姦して悦に入っている。
 

     ◆
看官まづよく思ふべし。当時の千住河は河の瀬今と同じからず。這河は是、墨田河の枝川なれども素よりして小流にあらず。千住は河の東にありけり。昔は鎌倉より陸奥のかたに到るに、田畑在より川ふたつばかり渡して千住に到り石浜に到り、又石浜より墨田河を渡して須田村に到り柳嶋に到れり(長禄の江戸地図には、阿佐谷ありて、千住はなし、阿佐谷は今の浅茅原なるベし、長享の江戸図には、千住ありて阿佐谷なし)。これ三四百年前の鎌倉街道なるよしなれども、いづれの川にも橋はなし。千住以西は本街道にあらず、無下の村落なりしを知るべし。今をもて古の地理を論ぜば舷に契して剣を求る如くなるべし{第八十二回}
     ◆
 

 ことほどさように地名考証に姦する馬琴であるが、八犬伝に於ける「江戸」の用法には疑問がある。地名考証に拘る馬琴が八犬伝で「江戸」と表記する場合には本来、中世に於ける意味で用いていなければならない筈だ。前述の如く、八犬伝の舞台となっている時代に於ける「江戸」は、近世の江戸城本丸辺りを中心とした、限定された区域に過ぎない。
 

 八犬伝では何度か「江戸」が表記されている。雑と通覧してみよう。A「葛飾の行徳浜より便船して江戸の津に赴きつ、聊相識る人あれば、この大塚に流れ来て」{第二十三回}、B「信乃は額蔵を送らんとて、江戸のかたへ還らんとす」{第二十六回}、C「其処より南は安房上総、北は武蔵の江戸・芝浜、或は水戸浦銚子口、半は御方の地にしあれば」{第三十一回}、D「われは武蔵の江戸にちかき大塚村に由緒ある郷士犬塚信乃戍孝といふもの也」{第三十一回}、E「小文吾はかの両友を送りて江戸へ赴きたらん」{第三十九回}、F「きのふ江戸まで船を出せし依介といふ小厮のみ只一個かへり来つ」{第四十回}、G「その宵の出船に便り求めて終夜漕れて江戸に赴き、なほも心は遺りたる、信濃路投て日に歩み夜に宿りつゝ草まくら」{第五十九回}、H「江戸より庚申山へ行程は熊谷へ十六里」{第五十九回}、I「是より江戸へ赴きて、更に又行徳に到るべしとて共侶にゆくこと又只一チ日ならず」{第八十二回}、J「長禄の江戸地図・長享の江戸図」{第八十二回}、K「上野は北条分限帳に江戸廻り北ノ方上野と見えたれば」{第八十八回}、L「今番は思ふよしもあり、先江戸へ赴きて湯嶋妻恋を歴覧し」{第百十五回}、M「江戸より結城へ十六里あり」{第百二十二回}、N「依介は荷船の上乗して江戸へ赴き」{第百二十三回}、O「正路は関宿より木下風行徳に到るべく、其が岐路は江戸へゆくべし」{第百二十五回}、P「今大江戸に、著作堂てふ僻児あり」{回外剰筆}、Q「只江戸京摂のみならず、県田舎間漁浦樵山、約莫足跡の至る処」{同}、R「意ふに今江戸に戯作者多かれども、他吾をのみ論じて這悪言を出しぬるは」{同}、S「江戸伯楽町なる書肆永寿堂」{同}、T「書賈、江戸に僑居してありし時」{同}、U「江戸に蒲生秀実あり」{同}、V「有恁れば広き大江戸に智音の友は地を払て今は一人もあらずなりぬ」{同}、W「江戸深川なる洲崎と同称にす」{同}。
 

 ほかにも「江戸」表記はあるかもしれないが、差し当たり上記二十三箇所を検討対象とする。P以降の八箇所は総て「回外剰筆」での記述だ。八犬伝物語そのものではなく、刊行当時の楽屋裏話めかした後書きに過ぎないので、除外する。刊行当時の話として書いているから、総て近世の大都市「江戸」を指していることが自明である。J・Kも資料名および中世史料内の語句であって【馬琴の言葉】ではないから、除外。此処では物語に関する十三箇所の「江戸」に就いて考える。
 

 Aは、糠助の会話文中にある。中世人の「江戸」に就いての意識を語っていることになるが、内包は微妙だ。行徳から便船すれば、なるほど、江戸郷付近の岸に行けるだろう。「江戸の津」は、江戸郷付近、「江戸湊」と考えることが許されよう。よって、此の場合、近世の広域江戸を指していない可能性がある。
 Bは、古河へ向かう信乃と荘助が栗原宿で別れる条だ。二人は一夜を共にして別れるが、名残惜しそうな二人の描写が印象的である。実は、さほど時を移さず再会するのであるけれども、互いに長い別離を想定してイチャイチャするのだ。因みに此の頃、円塚山の麓では、遠く去った信乃を慕いつつ浜路が死んでいく。惟えば栗橋は、陸奥へ去った源義経を慕って悶死した静御前のもの……と伝える墓のある場所だ。さて、此の条にある「江戸」は多分、近世の広域な江戸である。近世後期に於いて大塚は恐らく、町奉行所支配の境界付近であって、十分に御府内に比定できよう。則ち、下町を本来の近世江戸とすれば、拡張した江戸/新江戸とでも謂うべき場所だと、当時の読者はイメージしただろう。殊更に「大塚村」と表記されているので、江戸近郊っぽい印象が立ち上がる。しかし、中世の江戸郷からは離れている。大塚は、かなり内陸部だ。栗原から江戸郷に向かって行ったら、大塚を通り過ぎるか逸れてしまう。よって、此処で馬琴が言う「江戸」は、広大な領域としての近世大江戸を想定すべきだ。
 Cも微妙だが、中世に於ける意味での「江戸」である可能性が生じている。横堀在村が敵地だと言っている。扇谷上杉家の太田道灌が拠る江戸城を指していたかもしれない。但し、可能性があるだけであって、広域な近世の大江戸も、ほぼ上杉家側の勢力範囲であった。
 Dは、信乃の言葉であるから江戸郷を指す……かと思えば、大塚村を江戸の近くだとしているから、近世に於ける広域な江戸を指している可能性が大きい。Eは文五兵衛の言葉だが、やはり近世に於ける広域な江戸を指しているだろう。小文吾の目的地は大塚であるから、江戸郷を通過して遙か遠い。則ち、近世にあって江戸郊外の大塚へ赴くことを「江戸へ」と表現したと思しい。信乃も文五兵衛も、まだ存在しない広域な江戸を念頭に語っている。
 Fは地の文だが、市川犬江屋の依介が出先{江戸}から帰ってきた場面だ。何の用があったのか知らぬが、Aと同じく江戸郷の津/湊/河岸を指しているようにも思えるし、近世に於ける広域な江戸を指しているようにも見える。江戸郷の意味が無いとは言えない用法である。因みに、行徳と近世江戸を結ぶ水路は、家康入府以降に整備された。八犬伝の登場人物は、安易に行徳・市川と「江戸」を船で行き来するが、此の感覚自体が、近世のものである可能性は大きい。
 Gは、荒芽山危難から逃れ、小文吾の豊満な肉体を思い浮かべつつ行徳に赴いた現八が、不在を確認して江戸経由で信濃へ向かう段である。現八は荒芽山を逃れた後、元々信濃を志していたが、もしや小文吾に会えるかもしれないからと、行徳を回ったのだ。信濃を志す理由は書かれていないが、信濃は信乃の縁地であり後の受領国だから、スレンダーな信乃の肢体を思い浮かべてのことかもしれない。しかし、脳髄まで筋肉繊維で構成されていると思しい現八であるから、信濃を突き抜け近江をも通過し、京都に落ち着いた。元気いっぱいズンズン歩くうち、歩くこと自体が目的化したのかもしれない。まぁ一応、京都は全国の情報が集まるからとイーワケーしているが。さて、此処に登場する「江戸」は、行徳から武蔵・信濃へ向かう通過点であるから、A・Fと同様に、江戸郷もしくは江戸湊{/江戸の津}を指している可能性が皆無ではない。
 Hは、中山道を想定すれば、なるほど、近世江戸の日本橋から熊谷宿まで十六里余りだ。近世に入って整備された街道が、馬琴の念頭にあったとも思える。但し、面倒なことに、家康の関東入府まで後の日本橋付近まで海であった。此の辺りを馬琴が「江戸の津」と考えていたとすれば、日本橋起点の里程と江戸郷起点の里程には、若干の隔たりしか生じない。江戸郷から熊谷まで「十六里」と表現しているとしても、分別は困難だ。が、常識的に見て、江戸郷を里程の起点とする理由は、無い。十五世紀後半に於いて関東の【中心】は、江戸ではない。しかも八犬伝では、江戸に城があるやら無いやらさえ、言及されていない。よって、八犬伝で如斯き表現があれば、大江戸日本橋を起点にした里程であると考えるべきだろう。則ち、八犬伝が舞台とする十五世紀後半ではなく、刊行当時の観念で、「江戸」なる語彙が使用されていると断じておく。即ち、MもHと同様であって、大江戸日本橋から結城までの里程を語っていると理解して良かろう。
 Iは、偽一角を退治した犬村大角・犬飼現八が赤岩を出発し行徳へ向かう途中に通過する場所として「江戸」が持ち出されている。よって、近世大江戸で意味が通じると同時に、A・F・Gの場合と同様、中世の江戸湊を馬琴が想定していた可能性も否定できない。Lは、犬江親兵衛が行徳で懐旧の情を慰めながら、穂北へ向かおうかと考えたとき、通過点としての「江戸」に思い及んでいる条だ。A・F・G・Iと同様である。但し、親兵衛は湯嶋妻恋{稲荷}を経由して行こうと殊更に考えており、直後に政木狐扮する茶屋の婆と巡り会う点にも注意を要する。狐は稲荷社の使者である。水運業者犬江屋依介に関する記述であるNも、A・F・G・I・Lと同様だ。
 Oは、結城大法会を営んでいる丶大らを襲おうとする徳用の言葉だ。近世、関宿と行徳は江戸川で結ばれていたが、或いは関宿に出ず小山宿や古河宿に向かい日光街道を回って「江戸」を目指す可能性を指摘したか。また、徳用は、内水路すなわち川を使って丶大らが移動すると考えた。前近代に於いて水路は、簡易な鉄道網に擬するべき交通路であった。但し、丶大らは関宿から陸路で安房に向かった。徳用は、丶大らが逃走すると勝手に決め付けて、経路を想定したから、より速く移動できる水路を考えたけれども、丶大らは徳用らを打ち破り堂々と歩行で帰途に就いた。さて、此処でも「江戸」は、水路を行く場合の通過点として言及されている。A・F・G・I・L・Nの場合と同様である。近世の江戸は、水都であった。
 

上記、八犬伝に見えたる十三箇所の「江戸」を簡単に検討した。中世に於ける意味での「江戸」と解釈し得るものはあるが、其れとて必ずしも確かではなく、却って近世の大江戸と見るべき用例は確かに存した。八犬伝の「江戸」は、近世的内包に傾いている。地名考証に蘊蓄を垂れる馬琴にしては、「江戸」の用法が混乱しているとも言える。勿論、此の一事を以て、馬琴の記述が不完全だと言い募り貶めようというワケでは決してない。筆者は元よりイーカゲンである。概ね文意が通れば、些末な事を云々する趣味は持ち合わせない。馬琴が、八犬伝刊行当時の「江戸」イメージを、物語世界に取り込んでいるだけのことだ。
 

 馬琴は八犬伝で、色々と地名の蘊蓄を傾けている。ってぇか、此のオッチャンは、脳髄に膨大な情報を詰め込み過ぎているから、何かの拍子に溢れ出てしまうのであろう。馬琴は八犬伝第九十回、船虫が芝浜で辻君となって愚かな男どもの舌を噛み切り殺して財物を奪う場面で、廻国雑記の浅草条を引く。浅茅原の石枕説話、即ち、老婆が若い娘を遊女に仕立て、咥え込んだ旅人の頭を打ち砕き財物を奪う伝説を引いている。何故に芝浜の話で浅草浅茅原の説話を持ち出しているかといえば当然、船虫の出身地が浅芽原だからだ。船虫は、「阿佐谷」の出身であった。阿佐谷は、現行の阿佐谷/阿佐ヶ谷ではない。「浅草寺に程近き高屋阿佐谷」{第五十二回}「阿佐谷は今の浅茅原なるベし、長享の江戸図には千住ありて阿佐谷なし」{第八十二回}とある。浅草寺近くとは漠然と「浅草」界隈とイメージし得る。馬琴は此処で芝浜に就いて解説しようとしているのではなく、船虫の出身地が浅草/浅芽原であると強調している。此の事自体は取り立てて言うほどもないぐらい自明である。問題は、馬琴が何故に浅草と船虫を結びつけようとしたか、である。そして、石枕説話は安達原伝説と同趣向であって、最期に主人公は懺悔する。八犬伝の船虫は、最期まで悔い改めることなく、怨念を象徴していると思しい牛鬼に劈かれ無残に殺される。船虫は、安達原の鬼女よりも、かなり罪深い。先祖が余程非道い悪事を働いたのだろう。閑話休題。
 

 十五世紀前半から、山内・扇谷の両上杉家は、古河に拠る足利成氏と敵対していた。ほぼ利根川を境に、対峙していた。扇谷上杉家は成氏方の千葉氏に対応するため、利根川の河口付近に位置する江戸に、城を構えた。名城と謳われる、{前期}江戸城である。ちょうど八犬伝で安西景連が里見領に攻め寄せた頃だ。
 江戸城を築いた者が誰かといえば……、誰かは知らぬが、とにかく大工である。いやまぁ石工も働いた。人足もいた。江戸城は外ならぬ大工が築いたが、築城を計画し指揮した者は、扇谷上杉家の家宰、太田備中守道灌資長であろう。よく太田持資とも呼ばれるが、筆者としてはドチラでも良い{但し、資長は確実視されているが持資との名乗りを本人がしていたかには異論もある}。
 中世江戸城の存在は秘密でも何でもなく、近世に於いて、周知のことであった。しかも、八犬伝第八十八回には、「話表、武蔵州豊嶋郡湯嶋の郷に祭られ給ふ天満天神の神社は、いぬる文明十年に扇谷の内管領持資入道建立したり」とあるけれども、永享記等に載す所……まぁ、俗説でも、元々道灌は居城である江戸城北方に天神社を勧請している{但し、湯島天神は道灌の「再建」にかかるともいう}。道灌に依る湯島天神の創建もしくは再建は、江戸築城が前提になっており、両者は、ひと纏まりの情報だ。「湯嶋の郷に祭られ給ふ天満天神の神社」と「扇谷の内管領持資入道」がセットで登場する以上、八犬伝刊行当時の読者にとって、{前期}江戸城の存在が前提となっていて然るべきなのだ。
 にも拘わらず、八犬伝に{前期}江戸城は登場しない。関東戦国史に舞台を借り、物語の重要な要素として足利成氏と山内・扇谷両上杉家との対立を引いているにも拘わらず、其の抗争に於いて重要拠点であった江戸城が、何故だか八犬伝には登場しないのだ。八犬伝表記で太田道灌は、一貫して、糟谷/糟屋に居を構えている。実際、道灌は相模国糟屋で生まれ糟屋で暗殺されたが、一生を糟屋で送ったわけではない。品川とか江戸城とかでも過ごした。しかし、八犬伝は、太田道灌と江戸城を、決して明確に結びつけはしない。但し、江戸城が存在する隠微な兆候はある。第百三十六回、八犬伝は、道灌が江戸城で詠んだともいわれる歌、「我宿は松原つゞき海近く 富士の高峰を軒端にぞ見る」を引いている。富士を遠景とする雄大な自然描写が秀逸である。近世江戸城にも富士見櫓があるぐらいだから、此の景色は江戸っ子の自慢であっただろう。即ち、八犬伝は、前期江戸城の存在を、消極的ながらも、読者に伝えようとしていると思しい。刊行当時の江戸人士にとって、「我宿は……」の歌こそ、道灌が江戸城で詠ったものだからだ。八犬伝は、江戸城が存在することを密かに伝えつつ、江戸城そのものが存在することを明記しない。在る物を、在るとは書かない。此を隠慝と謂う。
 

 八犬伝が、道灌と江戸城を明確に結び付けない理由は当然、近世に於いて江戸が、徳川将軍家の居城だったからだろう。八犬伝の主人公は八犬士と云えるが、八犬士は理想化した里見家を翼賛・説明する存在でもある。そして、里見家が徳川将軍家の虚花であるならば、後に徳川将軍家の居城たる江戸に、里見家以外の者がいればヤヤコシくなる。また逆に、江戸から里見家以外の者を排除することによって、里見家が、後に江戸を居城とする徳川将軍家の虚花であることを、より明確に示し得る。
 

 八犬伝には、巨田左衞門太夫持資入道道寛・薪六郎助友といった父子が登場する。注目に値する描かれ方をしている。父子とも文武に亘り高い資質を有ち、奸臣・佞人が取り巻く暗君扇谷上杉定正のもとで、孤忠を尽くす。犬山道節の仇役だが、何故だか命を狙われない。善玉なのだ。巨田持資は勿論、太田道灌のことだ。
 

 道灌は、近世人士にとって歌人のイメージもある武将であった。いや、別に、「七重八重、花は咲けども山吹の、実の/蓑一つだに無きぞ悲しき」{後拾遺和歌集・中務卿兼明親王}が如何たらとか、言いたいわけではない。だいたい、兼明親王といえば、本朝文粋に載す「莵裘賦」が八犬伝っぽくって気になるが、其れは後述するとして、歌人太田道灌に就いて、以下の如き情報もある。
 


     ◆
太田道灌は文武の将たるよし。最愛の美童弐人ありて其寵甲乙なかりしに、或日両童側に有りしに、風来りて落葉の美童の袖に止りしを、道灌扇をもつて是を払ひけるに、壱人の童聊寵を妬める色のありしかば、道灌一首を詠じける。
ひとりには塵をもをかじひとりをばあらき風にもあてじとぞ思ふ
かく詠じけるとや。おもしろき歌故爰に留ぬ。(耳嚢巻三・道灌歌の事)
     ◆
 


或る美童には落ち葉さえ降り懸からないよう気を遣い、いま一人の美童には落ち葉を払う扇の風さえ当てたくはない……けっ、なに言ってやがんだ! こぉいぅのをプレイボーイと謂うのだ。まぁ、道灌は、劣勢にあった扇谷上杉家を盛り立て、山内上杉家とタメを張らせた外交戦術家であったから、此の程度の二枚舌は朝飯前であっただろう。此の後きっと、三人で仲良くしたに違いない。3Pである。
 


 いやまぁ、其れは措き、中世に於いて名城と謳われた江戸城は、道灌主導で構築された。道灌は正に八犬伝時代、江戸城を拠点とした。有名な事実である。にも拘わらず八犬伝は、道灌の居所としての江戸を無視する。近世に流通していた鎌倉管領九代記はじめ戦国期関東を描く軍記物には、江戸城が太田道灌の居城であると明記されている。そりゃ近世江戸城の設計図やら間取りやら提示すれば軍事機密漏洩に当たるかもしれないが、中世江戸城と太田道灌を結びつけること自体には、全く問題がない。出版統制上の問題がないにも拘わらず、八犬伝は中世江戸城に言及しない。馬琴自身の必要性から、中世江戸城を八犬伝から排除したと考えるべきだろう。
 また、実のところ、八犬伝で太田道灌は、読者に顔を見せない。終盤の後日談で暗殺されたと伝えるが、馬琴の蘊蓄としての記述であって、物語の枠外だ。道灌の有能さや善性および悲劇性は、地の文での伝聞や、息子助友の毅然とした言動のうちに見え隠れするのみである。
 八犬伝を媒介として、里見家ならず里見家と血統を合一する政木/正木家、其の正木家へ道灌が投影されているとするならば、実のところ江戸城の主たる道灌の存在は、注目されねばならない。即ち道灌が、河鯉/政木家に投影されているならば、政木/正木家の娘/万が紀州徳川家の血の源泉なのだから、結局、八代以降十四代迄、徳川将軍家は、イメージ上の先祖である道灌の居城を継承したことになるのだ。

 
 馬琴は、第九輯巻之三十三簡端附録作者総自評で、定正を悪役に仕立てた理由として、上杉一族が足利持氏を追い詰め実質的に弑虐したこと、文武の名将道灌を殺したことを、挙げている。八犬伝の悪玉三巨頭である足利成氏・山内上杉顕定・扇谷上杉定正は、三人ともに先祖の下剋上を贖わねばならなかった。加えて成氏には、自らの立場を弁えず戦乱の火蓋を切った暗愚の罪がある。また、京都将軍からすれば、成氏は反逆者に外ならず、下剋上を犯そうとしていることにもなる。一方、定正には、善玉太田道灌を殺した罪が指摘されている。先祖と自分が犯した下剋上の罪だけ贖えばよい顕定よりも、成氏と定正は手酷い筆誅を受けている。ってぇか、顕定は南関東大戦で殆ど初めて登場する。其れ迄、悪玉としての行為が描写されていない。より悪玉に設定されていると思しい定正によって行われた余計な悪事は、道灌暗殺である。馬琴にとって、道灌暗殺は極めて重大な事柄であったことが解る。
 道灌が顔を見せると、如何しても江戸城と結び付ける読者が発生するだろうし、全く言及せず存在しないよう振る舞えば、定正を悪役に設定した甲斐がない。八犬伝の中に道灌は隠然とでも存在していなければならず、且つ、存在感は隠然としていなければならない。

 
 道灌に代わって、読者の前に顔を出し、暗君扇谷上杉定正に孤忠を尽くす者こそ、河鯉守如であった。まさに定正が暗愚であるが故に自死に至った守如は、道灌の悲劇を思い出させる存在だ。但し、守如独りが道灌の悲劇性を引き受けているのではない。守如も定正に鞭打たれたりするが、迫害は息子の孝嗣に及ぶ。孝嗣は、刑死寸前まで追い詰められた。
 そして、政木大全家は「孝嗣より四世の孫、政木大全時綱は一人当千の勇士にて里見義弘に仕ふ……中略……義弘の世を去りし比、政木時綱は吐血して、暴に死けり。嗣べき児子なかりしかば、大田木の政木は絶たり。這故に義頼の弟里見箭九郎を政木氏の名跡にして政木大全義嗣と名告せて安房の館山の城、并に采邑一万貫文を賜ふ」{百八十勝回下編大団円}。八犬伝に於いて、里見家と政木家の血は統合している。里見家の神話と政木家の神話は統合されている。本シリーズで嘗て述べた如く、実は里見家関係の軍記類などにも、里見家と正木家の血筋が統合したことが伝えられているが、但し、正木家が三浦一族であったとの情報もある。
 道灌は里見家の仁義を認め、南関東大戦に於ける敵対を避ける。更に嫡男巨田助友は、「浮浪既に年を歴て北条氏綱に従ひしに思ふにも似ず人並にて徒に光陰を過すのみ。重用せらるべくもあらざれば、辞し去りて安房に赴きて里見氏に仕しより、北条氏と闘戦に屡武勇を顕して其名高く聞えけり」{百八十勝回下編大団円}。八犬伝に於いて巨田氏は、里見家と合流している。巨田/太田家の神話は、里見家の神話と合流したのだ。

 
 八犬伝に於ける太田道灌が、御多聞に洩れず善玉であることは、江戸人士一般に見られる傾向を反映しているものであろうが、馬琴の特殊事情によって強調されたとも思える。
 「麗しき秋篠の人」で玄同放言から下集第十一地理・武蔵太田荘を引いた。馬琴が、祖父の実家である真中家を猪隼人の子孫だと比定している条だ。文中に、源三位頼政の末裔/国綱ってのが登場する。国綱の子孫が武蔵国埼玉郡太田荘の地頭となる。此れが太田道灌の祖先である。真中家は古河から太田に移住した。馬琴によると、猪隼人は宇治で討たれた主君頼政の首級を抱えて古河に走り定住、子孫が真中氏を称していたのだ。頼政の子孫を慕って猪隼人の子孫が太田荘に移住したとのストーリーを、馬琴は思い浮かべていたのだろう。馬琴から太田道灌への強いシンパシィは、祖父の実家/真中氏を介したものだとも思えてくるのだ。
{お粗末様}

 

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