■江戸から汨羅へ■
 

 太田道灌が実際のところ傲慢なイケズであったか否かは知らないが、分家筋の扇谷上杉家を本家筋の山内上杉家に対抗せしめた有能な戦術家であり外交戦略家であったことは確かであろう。また、最期まで主君を裏切らなかった律儀さを否定する確かな材料もない。暗愚の主君/定正に殺されたことも事実であろう。細かな局面で傲慢さを発揮したとしても、主家に大きく貢献し最期まで裏切らなかったのだから、立派な人物として評価せねばならぬ。道灌の悲劇を顧みるとき、筆者は「七重八重 花は咲けども山吹の みのひとつだになきぞあやしき/かなしき{後拾遺集/常山紀談}」と詠った兼明親王を思い出す。親王は殺されこそしなかったものの、暗愚の君と執政者により大臣の座から引きずり下ろされ鬱屈した日々を送った。「兎裘賦」と題する作品で、遣り場のない怒りを抱え込み煩悶する姿を自ら晒しまくっている。
 


     ◆
幽隠

兎裘賦 并序   前中書王
余亀山之下、聊卜幽居、欲辞官休身、終老於此。逮草堂之漸成、為執政者、枉被陥矣。君昏臣諛、無処于愬。命矣天矣。後代俗士、必罪吾以不遂其宿志。然魯隠欲営兎裘之地而老、為公子■羽のした軍/被害。春秋之義、賛成其志、以為賢君。後来君子、若有知吾者、無隠之焉。因擬賈生■服に鳥/賦、作兎裘賦、以自広。其詞曰、

赤奮若歳清和之月、陟彼西山、言採其蕨。吟■服に鳥/賦而夕タ、顧莵裘而朝発。昔隠公之遭害也、誠在天之棄魯。今我之不肖也、何遭世之顛越。天其何言乎、四時行百物成、問之不言、請対以情。惟夫天高而地広、上無始下無極。万物云生、或消或息。風雨陶冶、寒暑廻薄。千変万化、有何常則。禍福相須、憂喜不定、栄枯同枝、歌哭同径、下学人事、上達天命。不憂不喜、其唯上聖歟。伯夷得仁而飢、彼無奈其。盗跖以寿而終、是亦若為。箕子囚繋、比干傷夷。天之与善、其信未知。故柳下三黜而不悔、子仲長往而無帰。況今趙高指鹿之日、梁冀跋扈之日(後漢書注曰、跋扈、猶強梁也。或書云、扈者梟字也)。虎而冠兮、匪常理之可謂。梟也鏡兮、寧彝倫之所資。夫剣戟者、嫌於柔不嫌剛而摧折。梁棟者取於直、不取撓而傾危。往哲挙措、無有■隣のコザトが石/緇。不■又よっつの下に酉で右に欠/其■酉に離の旁/。雖孤漁父之誨、不容何病。可祖顔子之詞。亦夫世有治乱、時有否泰、命有通塞、迹有顕晦。扶桑豈無影乎、浮雲掩而乍昏。叢蘭豈不芳乎、秋風吹而先敗。彼尼父之一望也、歎亀山之蔽魯。霊均之五顧也、繞■サンズイに元/湘而傷楚。欲問明訓於先賢、以鑑幽致於万古。唐風雖移、猶依■ニンベンに希/於旧(見毛詩)。漢徳縦厭、安諂諛於新。殊恨王風之不競、直道之已湮。聞淫蛙而長歎。悲屈蠖之不伸。俟河清日、浮雲幾者。凡人之在世也、殆花上之露、如空中之雲。去留無常、生滅不定、聚散相紛、■サンズイに勿/穆糺錯。何可勝云。不語靡言、便是浄名翁之病。知者黙也、寧非玄元氏之文。喪馬之老、委倚伏於秋草。夢蝶之翁、任是非於春叢。冥々之理、無適無莫。如々之義、非有非空。嗟乎、文王早没、吾何之随。已矣已矣、命之衰也。吾将入亀緒之巌隅。帰兎裘而去来(亀緒便亀山也、猶如亀尾之読之故云)
{本朝文粋 巻第一 賦}
………………▼意訳▼…………………
兎裘賦 并序   前中書王
私は亀山の麓に隠居の地を見つけた。このまま無事に勤めあげ官を辞したら、身を休め余生を送ろうと思っていた。粗末な隠居所が漸く完成したころ、執政者に陥れられ私は官を免ぜられた。君は暗愚、他の臣下は執政者に阿っており、反論しようにも訴え出る先がない。これも運命であろうか、天の意思であろうか。後代の俗士は、私が希望通り無事に隠居できなかったことを取り上げ、罪を犯したからだと論うだろう。併し思い出してほしい、魯の隠公が、兎裘に隠居の地を設け余生を送ろうとした矢先、羽父のため害された、あの悲劇を。
抑も隠公は、恵公が後継指名した完が幼いため中継ぎとして魯の君主となった。だからこそ春秋には、元年に即位の記述がない。自ら中継ぎと認識し、成人後は完に国を継承させる考えであったのだ。にも拘わらず、羽父は、隠公に完を殺すよう進言した。次の君主に予定されていた完の周りに取り巻きが集まり、隠公の一元支配が揺らいでいたのかもしれない。凡庸な君主なら不安を感じる状況だ。凡夫ならば持っているだろう権力欲に付け込み、羽父は完を排除するよう進言し、以て隠公の寵愛を得て大宰/最高官に昇進しようとしたのだ。しかし、理に義に礼に優れた隠公は、取り合わなかった。元より公位を譲るつもりの相手を殺す筈がない。隠公は云った「私が公位を継いだのは、完が幼少で、此の春秋時代を乗り切ることが出来ないと考えたからだ。そろそろ完に公位を譲ろうと思っている。私は莵裘に隠居所を設けて、余生を送るよ」。隠公は、権力欲によって公位に就いたわけではない。だからこそ、公位に相応しい行動をとることが出来た。権力は、権力に執着する者に掌握されたとき、公正に行使されない性質をもっている。公位に執着しない隠だからこそ、理想的な公として振る舞えた。権力欲の権化/羽父は、其れと気付けなかったからこそ、公子完の成長に隠公が不安を抱いていると決め付け、殺害を唆したのだ。羽父は焦った。次の公として完が即位することは明白である。その完を殺せと唆したことがバレたら、羽父の未来はない。命さえ危うい。羽父は急いで公子完のもとへと参じ、隠公を殺すよう讒言した。恐らく、隠公が完を殺そうとしているとか何とか、偽りを言い立てたのだろう。ときに隠公は大夫の屋敷に宿泊していた。羽父は賊を使って隠公を殺した。羽父は完を桓公として擁立し、大夫が隠公を殺したのだと言い立て、屋敷を攻撃した。何者かを犯人に仕立て、処刑した。以上が左氏伝に載す隠公暗殺の顛末である。さて、春秋は「{隠公十有一年}冬、十有一月壬辰、公薨」としか書いていない。自然死したかの如き書き様だ。実際には羽父の偽計により暗殺された。表面上は桓公を殺そうとしたため殺されたよう取り繕われていた筈だ。何連にせよ、父である{暗愚な}恵公の思いを尊重して桓公に位を譲ろうとする隠公の意思は、踏みにじられ実現しなかった。隠公は羽父に殺され、桓公は羽父に擁立された。継承ではなく、簒奪の形となってしまっている。しかし、春秋は「{隠公十有一年}冬、十有一月壬辰、公薨」としか書かず、続けて「{桓公}元年春王正月、公即位」と記す。隠公の葬礼記述がない点は不自然だが、平穏裡に公位が継承されたかの如き叙述となっている。簒奪の隠蔽とも云えるが、同時に、隠公の志、自分は中継ぎに徹して桓公に継承させるとの清廉な意思が、貫徹されたように偽装している、とも云える。隠公は真実、桓公に公位を譲るつもりであった。志を果たし得なかったのは、あくまで羽父の偽計に依ってである。悪辣な小人のため、隠公が一生涯守った志が抹消されるなぞ到底、許されるべきことではない。史は詩であり、ココロの真実をこそ伝える。隠公から桓公へ正常な継承が行われたかの如く春秋が記述した理由は、簒奪を隠蔽しようとしたのではなく、隠公の清廉な志/良心を隠蔽したくなかったからだろう。春秋は、孔子の手が加わった史書であるという。簒奪を許す筈がない。謂はば春秋は、桓公への継承、果たせなかった隠公の志を、「賛{たす}け成した」ことになろう。春秋は、隠公を賢君として描いている。其の志に賛成しているのだ。
後の君子たちよ、もし私を理解してくれる者がいるならば、私が罪を犯したなぞとは考えず、私の抱いていた良心を隠さず明らかにしてほしい。……左遷の憂き目にあった前漢賈誼の梟賦に擬して兎裘賦を作り、鬱屈し凝り固まった心を解してしまいたい。

太歳在丑{貞元二}年四月、西山に登って伯夷叔斉を気取り蕨を採る。故なく左遷された自分を納得させるため梟賦を吟じて夕まで憂い、隠居の地を顧みて朝に発つ。昔、隠公が全く何の罪もなく暗殺された事件は実際、天が魯国を見棄てる契機となった。隠公殺害の張本/羽父に擁立された桓公は、義兄と近親相姦に耽り続ける妻を叱ったところ、却って義兄に殺されてしまった。人倫は頽廃し、乱世へと移っていった。今、賢君隠公に比ぶべくもなく取るに足らぬ私ではあるが、何故に全く何の罪もなく左大臣位から引き摺り降ろされねばならなかったのか。天は何を言うか……何も言わない。時は廻り行き、万物は生い育つ。天然自然に我が身の不幸を導いた法則を問うても、言葉としての返事はない。言葉を語ることができないのならば、心に直接語りかけてきてほしい。
考えてみれば、天は高く地は広い、時は何処から始まったということもなく限りなく続いていく。万物が発生し、或いは消え或いは増える。風雨は陶冶し、寒暑は廻り来て薄らいでいく。千変万化、天然自然は単純な法則で固定できるものではない。寵辱は相招き禍福は入れ替わり、憂いと喜びは定まらない。同じ枝にも咲き誇るものあり枯れるものあり、喜びの歌も悲痛な哭声も同じ喉を通る。身近には人間の為すことを学び、理念を観じて天命をさとる。然るによって、憂えず喜ばずに生きるべきだ……が、んなこたぁ唯、上聖のみ為し得ることだろう。
伯夷叔斉は仁であることを堅持して、餓え死にした。何故だ。悪逆非道の賊であった盗跖は天寿を全うした。何故だ。殷の箕子は紂王に諫言した挙げ句に発狂して獄に繋がれ、同じく諫言した比干は心臓を抉り取られて殺された。だから、天が善の味方をする、とのテーゼは積極的には肯定出来ぬ……が、かといって、完全には否定も出来ない。ただ只管に、善なる天を信じて、身を投げ出す者は絶えない。故に、魯の柳下恵は三度引きずり下ろされても悔いることなく、斉の陳子仲は楚王から宰相にすると言われても断り却って逃げ出し農家の雇われ人となって長く過ごした。ましてや今は、鹿を連れてきて馬と言い張り鹿だと指摘した者を片っ端から殺戮した秦の趙高、いやさ、自ら擁立した幼帝に跋扈将軍と指摘されたことを恨んで弑逆するなど後漢で権勢を恣にした梁冀みたいな奴がのさばっている時代だ。冠を被って官人らしく見せている虎だらけだから、常識など通用しない。母を喰う梟や父を喰う鏡みたいな奴らばかりだから、人倫の維持に資するどころではないのだ。剣戟に於いては柔らかいものを嫌い、剛直なため摧け折れることを嫌わない。梁棟は真っ直ぐなものを使うべきで撓んで傾き危ういものを採用してはならない。往時の哲人の言動は磨り減ったり汚れてしまったりはしない。酒粕を薄めただけの、まずい酒なんて飲めやしない。楚辞に登場する漁夫は、孤立しないよう俗世に塗れろと教えるが、朱に交って赤くなるより、疎外の道を選んだ方が良い。顔回は孔子を「夫子之道至大、故天下莫能容。雖然夫子推而行之、不容何病、不容然後見君子。夫道之不修也、是吾醜也。夫道既已大修而不用、是有国者之醜也。不容何病、不容然後見君子」{史記巻四十七孔子世家第十七}と慰めた。私も顔回を見倣おう。
社会状況には治乱がある。安泰なる時もあれば、そうでない秋もある。運命は通じる場合と塞がっている場合がある。業績には顕われるものと隠れるものがある。太陽には形がなかろうか、いや、ある。しかし浮き雲に掩われれば、たちまち隠されてしまう。叢蘭が芳しくない筈があろうか、いや、芳しい。しかし秋風が吹けば、芳香は消え去ってしまう。孔子は一顧して、故郷の魯国が亀山に遮られて見えなくなったことを歎いた。楚の現実に絶望した霊均は、追放刑に処せられた屈原の通った河を繞って五たび顧みて、故郷を思い感傷に耽った。確固たる教訓を先賢に問い、真理を万古に求めたい。帝堯の遺風は過ぎ去ったとはいえ、旧きを手本とすべきである。漢の徳が厭われているとしても、どうして漢を簒奪した新に阿ることができようか。
殊に恨むべきは、王の威風振るわず、正直の道が廃れたことだ。ゲーゲー五月蠅い蛙の声を聞いては長歎し、尺取り虫が体を曲げたまま伸ばせないような悲しみを感じる。閉塞感だ。河の清まる日を待ってはいるが、太陽を覆う浮雲が空に満ち、幾らの年月が経ったであろうか。凡人が世にある有様は、花に結んだ露ほどに危うく、太陽を覆いつつ空に流れる雲ほどに儚い。立ち去る者も留まる者も絶えず移り変わり、生滅不定、離合集散入り乱れ、深く密かに纏まり交わる……人の動きは複雑に過ぎ、言い表すことなぞ出来そうもない。語らず言うこともなし、これは浄名翁が病床で見せた態度だ。いや、知る者は黙す、とは寧ろ老子こと大道玄元皇帝の文にあったか。馬を喪った塞翁は倚伏を秋草に委ね、夢に蝶となった荘周は是非を春叢に任す。冥々の理は厚くも薄くもなく、如々の義は有でなく無でもない。あぁ、周文王のような君子は早く没し今や存在しない。私は誰に従ったら良いのか。
やんぬるかな、やんぬるかな、運命が衰えたのだ。いまや私は、亀の尾に形が似た亀山の巌の隅に入り込もうとしている。隠居の地に骨を埋めるため、帰りなん、いざ……
     ◆
 


 「為執政者、枉被陥矣。君昏臣諛、無処于愬。命矣天矣」。執政者のため枉{ま}げて陥いれらる。君昏{くら}くして臣諛し、愬{うった}えるに処なし。命かな、天かな。
 千数十年前に成立して以来、膨大な共感を集めてきたフレーズだ。人間である以上、暗愚への誘惑は強力であるし実際に各種暗愚の見本市みたいなもんだが、仲々万乗の君の暗愚は指摘できない。兼明は、親王のくせに偶々優秀な教養人であったし、親王だからこそ甥っ子である天皇の暗愚を公言できたのだとも思う。則ち、兎裘賦は偶々の上に偶々を重ね、実用上、無に等しい確率で発生した。此れ程に率直な賦が存在すること自体、日本の幸せである。

 此の賦は、賈生の■服に鳥{以下「梟」}/賦に擬して作ったという。賈生は前漢の人で、左遷されたとき、鬱屈してしまった心を解そうとして梟賦を詠んだ。老荘っぽい達観に逃げ込んで、「徳人無累、知命不憂。細故帯芥、何足以疑{幸せになったり不幸せになったり、流転する世では当たり前のこと。別に、大したことぢゃないよ}」と嘯き、自らを慰めている。こう書くと賈生が泰然とした大人だったかの如く聞こえるだろうが、かなり真面目で神経質っぽい人物ではなかったかと、筆者なぞは疑っている。彼は或る人物の太傅として属けられたが、其の人物が落馬して死亡したのを気に病んで死んでしまった程に、真面目であった。そんな彼が「大したことぢゃないよ」か……無理に強がっていることが明らかであって、余計に哀しさが胸に迫ってくる。
 ところで賈生といえば、屈原である。五月五日、端午の節句、憂国の志を抱いて汨羅の淵に身を投げた、あの屈原である。いや別に、賈生と屈原は親戚でも何でもない。赤の他人だ。しかし史記に於いて、二人は一つの列伝に纏められている。史記第八十四巻屈原賈生列伝第二十四は、屈原が投身自殺した悲劇を語り数十年後に楚が秦に滅ぼされたと書く。腐敗した故に国力が低下したかの如き叙述である。続けて「自屈原沈汨羅后百有余年、漢有賈生。為長沙王太傅、過湘水、投書以弔屈原」と書き、徐に、「賈生名誼、■各に隹/陽人也。年十八、以能誦詩属書聞於郡中。呉廷尉為河南守、聞其秀才、召置門下、甚幸愛……」と賈生列伝に繋いでいる。賈生は二十歳ぐらいで最年少の博士/顧問官となり、帝の質問に即答して更に重用された。秦と同じ土徳の礼制を採用するよう建言したりした。しかし青年賈生の出世を快く思わぬ一派がおり、讒言した。賈生は長沙へ左遷された。このとき賈生は、湘水を過ぎり、屈原を悼む賦を捧げた。不遇な憂国の士/屈原に自らの境遇を重ね合わせたのだろう。弔屈原文である。史記から引用する。
 


     ◆
共承嘉恵兮、俟罪長沙。側聞屈原兮、自沈汨羅。造託湘流兮、敬弔先生。遭世罔極兮、乃隕厥身。嗚呼哀哉、逢時不祥。鸞鳳伏竄兮、鴟梟■皐に羽/翔。■門ガマエに搨の旁/茸尊顕兮、讒諛得志。賢■経の旁/逆曳兮、方正倒植。世謂伯夷貪兮、謂盜跖廉。莫邪為頓兮、鉛刀為銛。于嗟■口に墨/■口に墨/兮、生之無故。斡棄周鼎兮宝康瓠、騰駕罷牛兮驂蹇驢、驥垂両耳兮服塩車。章甫薦■尸のなかに螻の虫がギョウニンベン/兮、漸不可久。嗟苦先生兮、独離此咎。
・・・・・・・・・・・
共に恭しく嘉惠を承け、罪を長沙に俟つ。側聞す、屈原、自ら汨羅に沈めりと。造{いた}りて湘流に託して敬みて先生を弔う。世の極まり罔{な}きに遭いて、迺ち厥の身を隕せり。嗚呼、哀しいかな、時の不祥に逢えること。鸞鳳伏竄して、鴟■皐に羽/翔す。■門ガマエに搨の旁/茸尊顕にして、讒諛志を得たり。賢聖逆曳せられて、方正倒植す。世に、伯夷は貪ると謂い、盗跖は廉なりと謂う。莫邪を鈍しとし、鉛刀を銛{するど}しと爲す。于嗟、黙黙たり、生の故なきこと。周の鼎を斡棄して康瓠を宝とす。罷牛に騰駕し蹇驢を驂とす。驥両耳を垂れ塩車に服けらる。章甫を履に薦{し}くは漸く久しかる可からず。嗟苦、先生、独り此の咎に離{あ}えり。
     ◆
 


 かなり直截な屈原へのシンパシィである。伯夷と盗跖が引き合いに出されている。善悪逆転評価は濁世であることの常套表現だ。馬琴なら「釣竿のいとも直きを上げてみて曲がれるを置く針はしたかへ」{第五輯口絵}とでも嘯くか。さて、賈生が湘水を経て長沙に赴任してから三年、梟みたいな鳥が家に集まってきた。暢気な顔をしているものの、梟は母を食うとされる不吉な鳥でもある。賈生は凶兆かと不安を感じ、書物を紐解き調べてみた。野鳥が家に集まれば、主人が何処かへ行く予兆となる。「いったい、私は何処へ行くのか」。鳥に尋ねてみた。かなり精神が参っていたらしい。梟に訊いたところで、答えられた方が困るだろう。梟は顔を上げ翼をバタつかせただけで、何も言わなかった。当たり前だ。そこで梟賦を作った。まぁ演出の類であって、実際に梟が集まってきたや否やは問題ではない。とにかく、賈生は、「何が起ころうと大したことぢゃないよ」、老荘っぽい達観に行き着き、自分を納得させた。或いは、達観に至っているから左遷した暗愚なる者たちを恨んでいないとアピールし、小賢しく復権を求めているのかもしれない。此の梟賦を作って一年ほどして、賈生は長安に召され、文帝の愛児/懐王の太傅となった。やや復権した賈生は国の再建策を奏上したが、無視された。懐王が落馬して死亡した。賈生は泣き暮らし、憂い死にした。懐王が締まり屋{←何処が?}の美少年だった故かもしれないが{←妄想}、とにかく賈生は真面目で純粋な漢だったやに思える。享年三十三歳。
 


 司馬遷が賈生と鬱屈大魔王の屈原を一つの列伝に纏めた理由は、表記上、「弔屈原文」による繋がりである。且つ、史記は二人を対称的な人物として扱っている。則ち、同列伝末尾の太史公序に曰く、「余読離騷・天問・招魂・哀郢・悲其志、適長沙、観屈原所自沈淵、未嘗不垂涕、想見其為人、及見賈生弔之、又怪屈原以彼其材游諸侯何国不容、而自令若是、読■服に鳥/賦、同死生、軽去就、又爽然自失矣」。明らかに司馬遷は屈原へこそ強烈なシンパシィを覚えている。対して賈生の梟賦に就いては「死と生を同じうし、去就を軽んず。又、爽然自失たるか{死と生を同一視し去就を軽く見ている。或いは、ショックの余りに頭の中が真っ白になって茫然たるが故に、人間として堅持すべき価値観を喪失してしまっているのであろうか}」と不審がっている。確かに梟賦そのものは、老荘っぽい達観に逃げ込み、自分が失ったものを無価値なものだと思い込むことで、心の傷を癒そうとしているに過ぎない。伊曽保物語に載す、穫れぬ葡萄を酸っぱいと思い込む狐よりも遙かに哀しい。太史公が指摘する「爽然自失」を現代語訳すれば、【防衛機制】となる。各種関係を断ち切り自閉することで、現実からの遊離を試みているに過ぎない。逃避である。尤も、逃避が必要な場合もある。撤退を知らぬ軍は、そのうち全滅する。しかし一時は撤退しても、再び一歩を踏み出すことが必要となるだろう。退嬰的な自閉は、仙人ぐらいしか産み出さない。
 屈原に言及したついでに、兎裘賦にも言及されていた「漁夫」{楚辞}を引こう。
 


     ◆
屈原既放、遊於江潭、行吟沢畔、顏色憔悴、形容枯槁。漁父見而問之曰、子非三閭大夫与、何故至於斯。屈原曰、挙世皆濁我独清、衆人皆酔我独醒、是以見放。漁父曰、聖人不凝滞於物、而能与世推移、世人皆濁、何不■サンズイに屈/其泥而揚其波、衆人皆酔、何不餔其糟而■又よっつのした酉みぎに欠/其■酉に麗/、何故深思高挙、自令放為。屈原曰、吾聞之、新沐者必弾冠、新浴者必振衣、安能以身之察察、受物之■サンズイに文/■サンズイに文/者乎、寧赴湘流、葬於江魚之腹中、安能以皓皓之白、而蒙世俗之塵埃乎。漁父莞爾而笑、鼓竡ァ去。乃歌曰、滄浪之水清兮、可以濯吾纓、滄浪之水濁兮、可以濯吾足。遂去不復与言。
・・・・・・・・・
屈原、既に放たれて江潭に遊び、行きて沢畔に吟ず。顏色憔悴し形容枯槁たり。漁父見て之に問いて曰く、子は三閭大夫にあらざるや、何故にか斯に至る。屈原曰く、世を挙げて皆濁り、我独り清し、衆人皆酔いて、我独り醒む、是を以て放たる。漁父曰く、聖人は物に凝滞せずして能{よ}く世と推移す、世人皆濁らば何ぞ其の泥をみだし其の波を揚げざるや、衆人皆酔わば何ぞ不其の糟を餔し其のカスザケをすすらざるや、何故に深く思い高く挙するや、自ら放たれるを為すや。屈原曰く、吾之を聞かん、新たに沐する者は必ず冠を弾き、新たに浴する者は必ず衣を振る、安ぞ能く身の察察たるを以て物のモンモンたる者を受けんや、寧ろ湘流に赴きて江魚の腹中に葬られん、安ぞ能く皓皓の白きを以て、世俗の塵埃を蒙らんや。漁父、莞爾として笑み、竄鼓して去る。乃ち歌いて曰く、滄浪の水清し、以て吾が纓を濯がん、滄浪の水濁りたり、以て吾が足を濯がん。遂に去りて復た与に言わず。
     ◆
 


 身を清く堅持したが故に追放された屈原を、訳知りの漁夫が窘める。聖人は世情に合わせて行為する。世が濁っているのならば自ら泥を掻き混ぜ波を立て、世人が酔っているならば酒粕を喰い且つ薄めて啜るものだ。まともにモノを考え気位を高く構えて追放されるようなことを、何故にしたのか。屈原は答える。頭を洗った者は帽子の埃を払ってから被るし、風呂に入った者は衣の塵を払ってから着る。清い肉体に汚れたものを纏うことは出来ない。いっそ、湘水に身を投じて魚腹に収まろう。漁夫はニッコリと笑い、謡った。水が清ければ冠の紐を洗う、水が濁れば足を洗う。二人は二度と言葉を交わすことがなかった。
 


 筆者は、此の漁夫が好きだ。なんだか姥雪世四郎みたいな苦労人を思い浮かべてしまう。漁夫は、まず世智を用いて屈原の説得に当たる。漁夫から見れば、屈原は純粋すぎて危なっかしいのだ。頭デッカチの青二才野郎、とでも思ったんだろう。周囲に合わせることも大事だぞ、と漁夫は屈原を諭す。「聖人」が世人に阿って一緒に騒ぐかは甚だ疑問だが、【大人】ぐらいに書き換えれば、現代でも説得力だけはありそうな論理だ。しかし屈原は答えた。濁った水に身を任せるぐらいなら、いっそ水に沈んで魚に食われる方が良い。漁夫は、屈原が単なる頭デッカチの気取り屋でないことを悟った。元より漁夫は、屈原の生き様を否定しようとしていたわけではない。倫理の価値を、恐らくは屈原と同等なまでに認める者であった。漁夫の真意は「滄浪之水清兮、可以濯吾纓、滄浪之水濁兮、可以濯吾足」、二十二字に凝縮されている。昔に限って云えば、一般に、足は卑しく頭は貴い、とされていた。ヒトが人間たる所以の一つは二足歩行とも言われるけれども、其れは措き、思考や人情の機微こそ、ヒトが人たる所以だろう。頭の領分である。足は活動一般を表徴していると見る。獣にも足はある。獣にも頭はあるが、取り敢えず、人間らしい思考は、人間だけのものだ、とする。纓/冠の紐は、礼制により頭を飾るためのものだ。現代流に言えば、纓は、人間らしく平和裡に最大数の幸福を追求する態度の象徴である。対して足は、別に人間らしくなくとも必要な生理の欲求を求めるだけの態度を象徴している。足/獣を洗うには、現在の如き泥水で十分なのだが、泥水は、人間らしく生きようとする者/纓を疎外し排除する。漁夫が見たところ、屈原は「纓」の如き者であって、現在の泥水のような世では生きられない種族だったのだ。屈原も自覚しており、故に自死を企てている。漁夫は完爾と笑い、歌う。聊か先行しているが、鎮魂歌だ。屈原は漁夫が理解してくれていると悟っただろう。最期にあたって漸く知己を得た屈原は爽然と、茫然としてではなく爽やかな気持ちで、汨羅に沈んだ……と思いたい。
 人間、死んではならない……いや、人間みな死ぬのだが、自殺なんてしちゃぁイケナイ。でも、死んでしまったものは仕方がない。せめて其の死を、生きている者に価値を与えるものとして規定し直し昇華したって、別に悪くはないだろう。屈原の死が、後世多くの人々を鼓舞し、不正に立ち向かう勇気を与えてきたとも思う。
 


 前置きが長くなったが、漸く本論に入る。兼明親王/前中書王は兎裘賦を、賈生の梟賦に倣って作った、と言っている。確かに語彙や途中までの論法が共通している。巧みに書き換えており、技術面から見ても傑作だと思う。但し、趣たるや、かなり違う。兎裘賦は、梟賦を撫ぞりつつも、途中から決別して、反論を試みている。梟賦が、「徳人無累、知命不憂。細故帯芥、何足以疑」と自らを「徳人」と規定し自閉の殻に籠もって退嬰するに対し、兎裘賦は、「そんな境地に至り得る者は上聖だけだ」と言い放つ。当然、自分が「上聖」ではないとの開き直りが前提にある。兎裘賦は、梟賦の退嬰を乗り越え、更に悲憤慷慨する。伯夷叔斉と盗跖の対比は常套に類するけれども、賈生繋がりで、梟賦ではなく弔屈原文をこそ思い出させる。兎裘賦の表記を見れば、賈生よりも屈原へ強いシンパシィを抱いていることが諒解せられるだろう。「雖孤漁父之誨、不容何病」せっかく漁夫が心配し、周りに合わせろと諭したにも拘わらず背を向ける者、「霊均」なる人物を創造し腐敗せる楚に背を向ける者は、外ならぬ屈原である。悪しき空気は公害だ。空気を読んだ上で悪しき空気と断じたならば、反発してもよかろう。和は確かに尊いが、KYとか何とか、不正さえ容認して其の場を取り繕う「和」には、聖徳太子が先陣を切って闘いを挑むだろう{「どんでん返し」参照}。其れが故に聖徳太子は偉大{なイメージを付与されているの}だ。聖徳太子の結果的イメージのみ悪用し、我が儘に都合の良い「和」のみ振り翳せば、太子に祟られるに違いない。
{お粗末様}

 

 

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