×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。

 

 

 

 


 
 
 
 
 

■船虫の正体はエロ……■

 船虫は、悪事を重ねる毎、魅力的になっていく。犠牲者の精気を吸っているかと思わせる程だ。

 犬阪毛野が残っていた仇/籠山縁連を討ち果たし、犬山道節が扇谷上杉定正の兜を射落とした頃と前後して、因縁ある犬田小文吾に捕らえられた船虫は、牛の角に劈かれる凄惨な最期を遂げた。売春婦となり、絡めてくる男の舌を食い千切って殺害する悪行を重ねた果てであった。場所は芝浜の地蔵・閻魔堂だ。
 此の地蔵・閻魔堂は、「いぬる至徳の年間(後小松院御宇)にやありけん、貝塚なる光明寺の聖聡上人、這地を過り給ひし折、網引釣漁る浦人們に輪回応報の理りを叮寧に説諭して、をさ\/冥福を薦め給ひしかば、浦人們月毎に銭を集め年を歴て、竟に二座の仏堂を浜辺に建立したる也」{第九十回}。元より閻魔堂は【輪廻応報】の理を教える場所である。此の場で輪廻を持ち出す以上、船虫は前世で何か悪いことをしたらしいのだが、八犬伝に其れらしき話は出てこない。

 船虫は、いったい何者なのか。いやまぁ、阿佐谷に住む鴎尻並四郎の妻だけれども、並四郎は入り婿らしい。女所帯の大塚家に蟇六が入り込んだが如きだ。並四郎自身は、「鴎」「尻」「並/波」「四郎/白う」だから、鴎が「尻」と「波」を縁語としており、波が「白」と繋がっている。並四郎は浪白であり、白浪は中国の故事から盗賊を隠喩している。恐らく馬琴は、盗賊と設定した時点で、白浪→浪白→並四郎、白浪→鴎→鴎尻の両連想から、白浪→鴎尻並四郎の名を思い付いたのだろう。白浪に浮かぶ鴎……海辺の情景か。海辺の情景には、打ち上げられた朽木や海草類、ゴミ、そして、船虫も含まれる……かもしれない。船虫の故郷/阿佐谷は、中世まで海辺であった浅草近辺だから、大雑把に言えば、海の近くで生まれ育ったことになる。途中は山間部で暮らすが、最期のときに当たっては、やはり海辺であった。「船虫」からして、水関係であるから、水気っぽい存在であることは確かだろうが、出自のヒントにはならぬ。

 船虫の所在は「阿佐谷」である。八犬伝で謂う所の阿佐谷は、現在の杉並区「阿佐ヶ谷/阿佐谷」ではなく、台東区浅草辺りにあった「阿佐谷」であろう。浅草は、観音の霊地だ。
 また、馬琴が八犬伝で注意を促しているように、廻国雑記の浅草条には、石枕の伝説が載る。安達原伝説の類話であって、娘を遊女に仕立て同衾した旅人の頭を石で砕き金品を奪っていた女の物語だ。海近くの浅草辺りに生まれた船虫は、転変を経て、海辺の芝浜で最期を迎えた。浅草辺りでは、旅人/小文吾の寝込みを並四郎が襲って金を奪おうとした。芝浜では船虫自身が売春婦となって、遊客を殺害して金品を奪っていた。最初と最期で、似たような悪事を行っている。廻国雑記の石枕伝説は、芝浜に於ける船虫の悪行と関係あるのだろう。或いは、石枕伝説に登場する一家こそ、船虫の先祖かもしれない。

 小文吾と出会ったとき、船虫は云った。「わらはが家はむかしより村長で侍りしを、三代前の祖の時、身上いたく衰て田地も過半沽却し、村の役義も人に譲りて水飲になり侍りしかども」「家の先祖は鎌倉の北条家のおん時に名ある武士で侍りしとぞ、その後子孫は零落て百姓になり侍りしかど、近き世まではこの地方の村長で侍りしに、血脈にあらぬ招壻の個の並四郎が故をもて先祖の名さへ汚されんは、いと朽をしく侍るかし」{第五十二回}。
 文明十{一四七八}年に於ける発話だ。一世代を本来の三十年とすれば、三世代は九十年となる。但し、此処で謂う一世代は、世帯主である者が二十歳で家督を継ぎ三十歳で子を産んで五十歳で死ぬほどのサイクルを想定しているのであって、話者である船虫は既に三十六七歳であった。則ち、船虫から三代前の曾祖父が当主の時代とは、七十六七年から百六七年の以前に当たる。まぁ、感覚上の言葉を厳密に積算することなぞ不可能だし無意味だが、三世代は九十年なので摺り合わせて一応、百年前の見当だ。船虫の家が水呑百姓へと没落した時期は、十四世紀後半から十五世紀序盤の間となる。
 船虫の謂う「北条家のおん時」を考える。「北条家」は、鎌倉幕府の執権を務めた北条得宗家を指すと見て間違いなかろう。ならば「北条家のおん時」は、最長で、承久元{一二一九}年の源家将軍三代実朝暗殺から倒幕の元弘三{一三三三}年までだ。此の間の或る時期、船虫の祖先は「名ある武士」であった。そして、馬琴は船虫の在所を浅草としている。また、石枕伝説に登場する一家の主人は「{浅草の}なまさぶらひ/生侍」であるから、下級武士と考える。此の段階で船虫の祖先は既に「名ある武士」から「なまさぶらひ」にまで没落していたのか。まぁ、石枕伝説の源となった事件は発生時が不明だから、此れ以上の穿鑿は無用である。

 浅草を支配する武士/領主は概ね、鎌倉期前半が江戸一族、後半が北条家であろう。北条家支配の時代に名ある武士であった北条家、との表記は不可能ではないが、婉曲に過ぎて変だ。端から「北条家」と云えば済む。故に、船虫の自己紹介を読む限り、彼女がエロ……ではなかった、江戸一族に連なる蓋然性は、かなり高い。

 中世前半、江戸郷を拠点としていた江戸氏に就いて、やや詳しく見てみよう。江戸氏は、豊嶋一族と同じく秩父平氏だ。古代末、源頼朝が挙兵し石橋山合戦で順当に敗れたとき、敵側の有力武士であった。頼朝方の三浦氏を打ち破った。しかし、数十日後には、頼朝に与して源氏方となった。「{治承四年十月}○五日甲申。武蔵国諸雑事等、仰在庁官人并諸郡司等、可令致沙汰之旨、所被仰付江戸太郎重長也」{吾妻鏡}。武蔵の在庁官人を統括するよう命じられているから、追い詰められて軍門に降ったのではなく、十分に勢力を保ったまま、頼朝に望まれて属したことが判る。在庁官人は古代以来、国司の指揮下で行政事務を掌った者だ。中世のうちに国司は無実化する。
 鎌倉幕府体制に於いて、各国の支配は守護を通じて行われた。最初期を除いて武蔵国守護は、北条家が独占した。在庁官人を統括する江戸氏は、当初こそ幕府体制を伝統秩序の側から翼賛することを期待されていたであろうが、鎌倉幕府の影響力が浸透するに従い、形式的な立場に置かれることになる。江戸氏は、守護である北条得宗家の被官となっていく。
 吾妻鏡{国史大系版}では、鎌倉時代の中盤に当たる弘長元{一二六一}年七月条まで、御家人江戸氏の存在が確認できる。但し、最後に登場した人物/江戸七郎太郎長光は、「老与病計会、於今者、着甲難叶進退之由申」、放生会行列への参加免除を願い、許されている。なお、前年の文応元年正月、幕府が「昼番{要するに昼間に御所で控えておき将軍の遊び相手になったりした者らしい}」として「哥道・蹴鞠・管弦・右筆・弓馬・郢曲以下、都以堪一芸之輩」百五十六人を選んだが、江戸長光も列している。芸能面で、何か取り柄があったらしい。この頃から、飢饉などもあって、江戸氏は勢力を縮小したと考えられている。

 南北朝期、江戸氏は当初、新田義貞に与したが、何時の間にやら北朝方となっていた。江戸遠江守は関東執事{/関東管領}畠山国清に近づき、或る陰謀事件に関与した。しかし権謀術数を尽くした腹黒オヤジ畠山国清は関東武士の糾弾一揆のため失脚した。何やら鎌倉幕府の梶原景時みたいな末路だが、此のとき国清に味方した江戸修理亮が捕らえられ、竜の口で斬られた{太平記}。以後、江戸氏がスポットライトを当てられることはない。頼朝挙兵以前から武蔵に勢力を張った江戸氏は、北条得宗家の支配時代辺りで絶頂期を迎えるが、得宗被官化し、南北朝期に没落したことになる。永享記や鎌倉大草紙では、足利持氏に属し、結城合戦では守備側として「江戸八郎」が討ち取られている。血縁関係故か、豊嶋氏と行動を共にする場面もある。因みに庶流は、江戸初期に小大名となるけれども、元禄年間に改易されたという。

 上記の如く、江戸氏は、馬琴の参考書である吾妻鏡に於いて、弘長元{一二六一}年七月条まで御家人としての活動が確認できる。また、先学の研究に拠れば、だいたい此の時期に、江戸氏は得宗被官化したようだ。馬琴が、江戸氏の得宗被官化した時期を厳密に推定していたとまでは言わぬが、吾妻鏡に記述が見えなくなる時期が、鎌倉期中盤であることに気付いていなかった、とも云えない。また、永享記などの室町時代を描いた軍記類に登場する江戸氏は、さほど重要な役割を担っていない。結城合戦で守備側として「江戸八郎」が討ち取られているが、首級の上洛には及んでいないようだ。義経記で「八箇国の大福長者」と呼ばれていた頃と比べ、大いに凋落していると云ってよい。軍記類から浮かび上がる江戸氏は、十三世紀後半から十五世紀初頭にかけて、勢力を減退させていったように見える。また、江戸氏は、中世のうちに全く消滅したわけでもない。関東に入った徳川家康は江戸氏を取り立てた。二万石の小大名にまでなったが、元禄年中に改易された。但し、此の頃までに江戸氏は、喜多見と改称している。船虫が江戸一族に連なるとして、喜多見系統ではなく、より早い時点で没落した別の庶流であると考えておく。江戸氏の代表者が十三世紀後半に御家人から得宗被官へと転落したことから、一族全体としても此の時期に地位を低下させたと考える。「名ある武士」から「なまさぶらひ」へと転落する過程である。

 また、一方、船虫の先祖が武士から水呑に転落する間に、村長/富農の時期が挟まっている筈だ。但し、足利成氏に認知された大塚家の当主たる蟇六は、武士になれず村長の地位に置かれたことからすれば、馬琴のイメージする中世世界に於いて、武士と富農の身分的境界は、やや曖昧だ。抑も八犬伝には、大領主に仕えない「郷士」なる身分が存在している。蟇六さえ「郷士」と表記する箇所{第百五十六回など}があるが、犬塚・赤岩・犬村・氷垣家などの例から概ね、【武人としての自覚がありながら上級領主に仕えない者】ほどの意味だと解る。若しくは【武装農民】とのフレーズも思い浮かぶが、犬塚はじめ上記四家は、より【武士】に庶い。また一方で郷士は、田地を所有もしくは特定の田地からの収穫による収入を約束されている{番作田}。氷垣家に至っては、殆ど開発領主である。蟇六の場合は匠作の婿だと申し出て、足利成氏に恩賞を願うが、「人となり武士になるべきものにあらねば、僅に村長を命ぜられ帯刀を許されて」{第十六回}いる。よって此の場合の「武士」は、成氏に仕える武士/侍を意味する狭義の語彙だと諒解できる。郷士の場合は、蟇六の如く村長を兼ねる場合もあり、経済的本質は、富農と変わりない。
 しかし、水呑{八犬伝表記では「水飲」}は、江戸期の語彙としては、年貢を納めない者だ。封建制の基本は土地支配関係であり、農作物/大地の恵みの収穫が、経済の土台にあった。よって、土地を主たる生産手段としていない者は、【生産者】の枠から外れる。主たる経済主体でないから、年貢を納める義務もない。土地を独占的に使用する権利{前近代的農地所有権}を有たない者を、水呑と謂う。よって農村にありながら商工業を営む者も、水呑という場合がある。水呑とは、農村に於いて自ら独占的に当該農地を耕作し収穫を得ていない者、である。且つ、船虫・並四郎は農業者のようなので、零細農民であろう{並四郎は鉄砲を所有し使用にも熟れているようだから狩猟も生業のうちだったかもしれない}。船虫家の転落に於いては、武士から村長への身分移動より、富農から水呑への転落の方が、決定的なものであった。

 船虫の家筋が水呑百姓に転落した時期は、十四世紀後半から十五世紀序盤の間と考えた。一族の援助もなかったからこその転落と考えれば、船虫家の転落に先んじて、一族全体が地位を低下させていたことになる。江戸一族と盛衰が重なる。船虫をエロ……ぢゃなかった、江戸一族と考えても、破綻は生じない。
{お粗末様}

 

→ Next

← Prev

↑ 犬の曠野Index

↓ 旧版・犬の曠野Index