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■三途の川を矢口で渡る■

 船虫が刑戮された辺りの状況を顧みる。小文吾が因縁ある船虫を捕らえたとき、何故に其の場に行き会わせたかと云えば、道中で不思議な声に導かれたからだ。甲斐から四谷へ向かっていたから、本来なら芝浜は通過しない筈だった。

     ◆
指月院を出しより殊さらに路次をいそぎて昨夜は八王寺に宿を求め今朝も未明に立出て石原駅まで来つる折、後に人の相譚ふ声して、四谷のかたへゆくは益なし、矢口より高畷を投て司馬浜に赴かば宜しからん、といひけるを俺們四名皆うち聞て倶に後方を見かへりしに迹より来ぬる人はなかりき、若是神の示させ給ふ十字占なる歟、と思ひしかば、路の遠きを厭ふことなく矢口まで来て日は暮れたり{第九十回}。
     ◆

 此処では犬川荘介・犬飼現八・犬村大学の三人も「十字占」の声を聞いている。が、惟えば「十字占」と小文吾は縁が深い。第四十二回でも小文吾は、鋏が落ちていたのを「十字占」に見立て、少年の表象である前髪を漸く落とした。十字占は、大袈裟に言えば、異世界からの告知/助言である。鋏が落ちているなんてのは単なる偶然であって、落とした者がいるから落ちていただけのことだ。しかし、話し声が聞こえて振り返ったら誰もいなかった、なんてのは尋常ではない。ちょいと薄ら寒くなる。【異世界からの声】、此の世の者ではない何かが、小文吾に情報を与えようとしている。第七十五回、目の見えないふりをして按摩に化けた船虫が目の見えない小文吾を襲ったときにも、何処からともなく「吭を\/」という声が聞こえてきた。此の不可思議な言葉で、小文吾は警戒心を起こし難を逃れた。まるで小文吾が、半ば異世界と繋がっているかの如きだ。悌の犬士であり、肇輯口絵で犬士中、最も幼く描かれ、しかも弟姫を娶る小文吾は、本質として八犬士の末弟であろう{実年齢では犬江親兵衛が最も若いが、あんな糞生意気な野郎が末弟であろう筈がないではないか}。人は皆、異世界から来て、暫くの間だけ現世に止まり、異世界/彼岸へと戻っていく。小文吾は、本質が最も幼いからこそ、異世界に近い存在なのだ。故にこそ、異世界の声は小文吾に届きやすいのだろう。閑話休題。

 異世界からの声/十字占は、石原駅付近で聞こえた。甲斐から武蔵に向かっていて、此の辺りで方向転換をしたとなれば恐らく、八犬伝刊行当時に於ける読者のイメージとしては、江戸期の甲州街道から東海道に乗り換えたことになるだろう。

 甲斐から四谷方面に向かっていた小文吾たちは、十字占の声に導かれ遠きを厭わず芝浜へと転進した。矢口まで来て日が暮れた。夜行バスなぞないから、昔の旅は日が暮れたら宿る。しかし小文吾らは休むことなく宵を徹して先を急いだ。矢口に於いて小文吾らは、日が暮れているにも拘わらず渡し舟を探したのだ。当然、渡し守は嫌がったに違いない。犬士が脅迫なんぞするわけないから、謝礼を弾んだのだろうか。
 信乃か毛野さえいれば色仕掛けで誑し込んだろうけれども、生憎に二人とも同行していなかった……いや、待てよ、一行には、お相撲さん小文吾がいた。お相撲さんは江戸期、肉体美を以て売るアイドルでもあった。しかも小文吾は、形こそデカいが、悌犬士であって、理念上は末弟である。商売人に化けるなど、愛嬌があるところを見せた。熊だから実は力も強いけども見た目は可愛い大熊猫みたいな印象がある。信乃・現八に裸身を晒し肉のギッチリ詰まった張りのある臀部を差し出したとき、膚の美しさをも見せつけた。或る種の嗜好をもつ方々にとって、実の所なかなかソソルと思われる。

 あだしごとは、さておきつ。とにかく小文吾たちは、{かなり難しいと思うのだが}夜に渡し守を捕まえて、多摩川を越えた。十字占を聞いたとて、此処まで無理をせねばならなかった物語上の必然性は、とりあえず、扇谷上杉定正個人および五十子城への奇襲に先立ち夜間に行動している道節・信乃と【偶々出会うため】、とも言える。言えるのだが、十字占に急かされたとはいえ、「矢口」に至ったとき宿を求め、朝一番に出発する選択肢もあった筈であり、其の方が自然であった。ってぇか、この日の出発点を石原辺りに設定しておけば、日暮れ前に矢口を通過でき、其処から強行軍を続けて夜に芝浜へと到着するだろう。夜間渡河よりは、自然な流れだ。
 実のところ、「矢口」で如何したとかワザワザ書いているから話が解りにくいのだ。しかし、馬琴は殊更に、短い紙幅で「矢口」を二回表記している。しかも、困難なはずの夜間渡河を矢口で犬士に行わせている。犬士が、外ならぬ矢口で、何者かに急かされた、と筆者は夢想する。ならば、何者が、矢口で犬士を急き立てたのか。

 ところで、船虫の祖先は十四世紀後半から十五世紀序盤にかけ、村長から水呑百姓へ転落した。村長になる以前、北条得宗家支配の時代には、「名ある武士」であった。関西の電車メーカーにアルナってのがあるが、此処で取り上げようとする者は「名ある武士」である。中世のことだから男色武士もいたであろうが、アナル武士でもない。いや、船虫の淫らさを思えば、先祖はウケ男色の売り専カマ野郎だったかもしれないのだが、取り敢えず「名ある武士」として考える。ちなみに、法制史が社会の枠組みを正面から扱うとすれば、搦め手から社会背景を追究するのがアナール学派であるけれども、其れも措き、問題は「名ある武士」である。

 船虫の祖先は「名ある武士」であり、且つ、浅草辺りに土着した一族であった。即ち、船虫は、江戸一族に連なる。江戸一族は、十三世紀後半ごろまで、吾妻鏡に鎌倉幕府の御家人として登場している。南北朝期船虫家の没落に先立ち、江戸一族に何が起きたのか。
 太平記などに拠ると、江戸一族は康安元/正平十六{一三六一}年、鎌倉公方足利基氏と関東管領畠山国清の争いに巻き込まれている。敗者である国清の関係者として江戸修理亮が斬られた。一族全体として、勢力を削がれざるを得ない状況に陥っている。また、実は三年前の延文三/正平十三年、当時の江戸氏代表と思しい江戸遠江守が、或る陰謀事件の実行犯として活躍したが、変死している……ってぇか、陰謀被害者の怨霊によって祟り殺された、と太平記は云っている。巻三十三、新田義興暗殺事件である。

 太平記に拠れば、義興は義貞の庶子であったが器量武勇に優れ、父に代わり南朝を背負って立つ大将軍になるかと嘱望されていた。正平十三{一三五八}年、江戸遠江守に仲間になるよう求められ、応じて鎌倉へ向かった。郎等十三人を引き連れ矢口渡を船で渡っていたところ、江戸の伏兵に襲われた{ちなみに「十三」は五行数理に於いて「三」と置換でき、三は木の生数だが、木の成数は「八」である}。義興は敵わずと見て取り、自害して果てた。新田明神として、矢口渡あたりで現在も頑張っている。当然、江戸人士の常識であった。

 新田義貞の跡を継ぎ、南朝の期待を一身に集めた義興……彼を卑怯にも謀殺した実行犯が江戸氏であったのだ。「矢口」との地名に注目しつつ、船虫を江戸一族に比定すれば、新田義興の悲劇が、如何したって気に懸かる。源姓新田流里見氏を中核に据え、南朝方であったと殊更に強調する八犬伝に於いて、とにかく残虐に刑戮された船虫には、其れなりの事情がなければならない。

 新田義興謀殺事件を、やや詳しく紹介しよう。まず、義興のもとへ義貞恩顧の武士が集まっていることを危惧した畠山国清は、竹沢右京亮を呼び、義興と親しくなり隙を見て討ち取れと命じた。右京亮は元々義貞恩顧の武士であったから、義興に油断が生じるとの計算があった。翌日から右京亮は、傾城数十人を邸に招き遊興三昧。しかも友人二三十人を呼んで博打に興じること十余日に及んだ。報告を受けた国清は、法度を破ったと怒ってみせ、鎌倉にあった右京亮の恩賞の地を没収し追放に処した。右京亮は「足利基氏に仕えねば生きていけないとでも云うのか/仕えなくとも生きていける」と公言し、所領に帰った。
 右京亮は新田左衛門佐義興のもとへと赴き、父や自分が過去に尽くした忠義を言い募り、帰参を願った。義興は信じず面会もしなかった。右京亮は京の都で少将殿と呼ばれていた十六七歳の美女を調達し、義興に宛がった。義興は「元来好色の心深かりければ」少将殿の肉体に溺れた。見計らった右京亮が再び出向くと、義興は面会を許した。右京亮は、義興に馬や鎧を献上したばかりではなく、配下の兵にも何くれとなく与え酒を振る舞った。誠実めかして仕えるうち、半年ほども経つと、義興は何でも右京亮に打ち明けるようになった。右京亮は九月十三日に月見の宴へ義興を招いて暗殺するよう目論んだ。裏切りそうにない者だけ三百人を集め、館に隠し置いた。右京亮が宴に誘うと、義興のみならず主立った郎等も喜んで承知した。少将殿から義興に手紙が届いた。夢見が悪かったから義興に七日間謹慎するようにと、求めていた。義興は風邪を引いたと偽り、宴に行かなかった。右京亮は、少将殿が自分の謀略を見抜き義興へ警告を発したのだと邪推した。少将殿を呼び出し刺し殺し、堀に沈めた。不安を感じた右京亮は、江戸遠江守と江戸下野守を支援に寄越すよう、国清に要請した。国清は喜んで二人を送り出すことにしたが、今度も二人に罪を着せ所領を没収したと発表した。
 江戸遠江守・下野守は稲毛城に籠もり、国清に敵対する擬勢を見せた。右京亮を通じて義興に仲間になるよう求めた。鎌倉を攻めるに当たって、義興を大将に仰ぎたいと云うのだ。右京亮に唆されて其の気になった義興は、鎌倉へと向かった。供は信頼する十三人の郎等のみであった。江戸遠江守らは矢口渡の船に細工をした。船底二カ所に穴を空け鑿で塞いで置いた。江戸遠江守・下野守は三百騎で待ち構え、右京亮は後辺に百五十人の射手を置いた。
 義興と井弾正忠ら十三人の郎等が矢口渡で船に乗り込んだ。船が河の半ばに差し掛かったとき、渡し守は船底の穴を塞いだ鑿を引き抜いて、河に飛び込んだ。填められたと悟った義興は「七生まで汝等が為に恨を可報者を」と叫び、二度までも腹を切り回して死んだ。十三人の郎等は刺し違え、或いは岸まで泳ぎ着いて討ち死にした。中でも井丹三……ではなかった、井弾正忠の死は壮絶であった。「腸を引切て河中へかはと投入れ己が喉笛二所さし切て自らかうづかを掴み己が頚を後ろへ折り付る音、二町許ぞ聞へける」。
 江戸遠江守・下野守、竹沢右京亮は義興らの首級を携え、武蔵国入間川の陣に在る足利基氏のもとへ走った。首実検が終わり、三人は褒美として各々数カ所の荘園を与えられた。「弓矢の面目哉、と是を羨む人もあり、又、涜き男の振舞哉、と爪弾をする人もあり」。非難の声なぞ意に介さず、江戸遠江守は喜び勇んで所領へ帰ろうとした。

     ◆
十月二十三日の暮程に矢口の渡りに下ゐて渡しの船を待ちゐたるに、兵衛佐殿を渡したてまつりし時、江戸がかたらひをえて、のみを抜いて船を沈めたりし渡守が、江戸が恩賞賜つて下ると聞きて、種々の酒肴を用意して迎への船をぞ漕ぎ出しける。この船すでに川中を過ぎける時、にはかに天かき曇りて雷鳴り水嵐烈しく吹きみなぎりて白波船をただよはす。渡守あわて騒いで漕ぎもどさと艪を押して船をなほしけるが、逆巻く波にうち返されて、水手・梶取一人も残らず皆水底に沈みけり。天の怒りただ事にあらず、これはいかさま義興の怨霊なり、と江戸遠江守おぢをののきて川端より引き返し、余の所をこそ渡さめとて、これより二十余町ある上の瀬へ馬を早めて打けるほどに、いなびかり先にひらめいて雷大きに鳴りはためく。在家は遠し日は暮ぬ。ただ今雷神に蹴殺されぬと思ひければ、御助け候へ兵衛佐、と手を合はせ虚空を拝して逃げたりけるが、とある山の麓なる辻堂を目に懸けて、あれまでと馬をあふりけるところに、黒雲一むら江戸が頭の上に落ちさがりて、雷電耳の辺に鳴りひらめきけるあひだ、あまりの恐ろしさに後をきつと顧みたれば、新田左兵衛佐義興、火威しの鎧に龍頭の五枚冑の緒をしめて白栗毛なる馬の額に角の生ひたるに乗り、あひの鞭をしとと打つて、江戸を弓手の物になし鐙の鼻に落ちさがりて、わたり七寸ばかりなる雁俣を以つて、かひがねより乳の下へかけ、ずふつと射とほさるると思ひて、江戸、馬よりさかさまに落ちたりけるが、やがて血を吐き悶絶僻地しけるを、輿に乗せて江戸が門へ舁きつけたれば、七日が間、足手をあがき水に溺れたる真似をして、あら堪へがたや、これ助けよ、と叫び死に死にけり。
     ◆

 江戸遠江守が矢口渡に差し掛かると、義興謀殺に協力した渡し守が、酒肴を携え歓迎しようと出迎えた。恩賞のオコボレに与ろうとしたのだろう。が、突如として空は曇り河は逆巻いた。渡し守は溺死した。義興の怨念ゆえだと感じた遠江守は恐れ戦き、馬を飛ばして逃げ出した。二キロばかり上流の瀬に向かった。周囲に幾度も雷が落ちた。遠江守は「雷神に蹴殺されぬ」と思い募り、我知らず「御助け候へ{新田左}兵衛佐{義興}」と祈り続けていた。ふと目の端に入った山麓の辻堂へ逃げ込もうとした。黒雲が遠江守の頭上へ舞い降りた。耳元で雷鳴が轟いた。恐怖の余り振り返った遠江守の目に、緋威鎧で重武装した義興の姿が見えた。義興は角の生えた白栗毛の馬で遠江守を追ってきた。二十センチ以上もある雁俣の矢で射た。肩胛骨の辺りから乳の下まで射貫かれ、遠江守は馬から落ちた……血を吐き悶絶しているところを見つけられ、館まで担がれていった。遠江守は正気を取り戻さぬまま七日の間、手足をバタつかせ溺れる素振りを見せた。「あら堪へがたや、これ助けよ、と叫び死に死ににけり」。勿論、新田義興の船を沈め死に至らしめた応報である。そして義興への犠牲は江戸遠江守に止まらなかった。
 「またそのあけの夜の夢に、畠山大夫入道殿の見たまひけるは、黒雲の上に大鼓を打つ鬨を作る声しけるあひだ、何者の寄せ来るやらんと怪しくて、音する方を遥かに見やりたるに、新田左兵衛佐義興、たけ二丈ばかりなる鬼に成つて、牛頭・馬頭・阿放・羅刹ども十余人前後に従へ、火車を引きて、左馬頭殿のおはする陣中へ入ると覚えて、胸うち騒ぎて夢醒めぬ。禅門つとに起きて、かかる不思議の夢をこそ見て候へ、と語りたまひける言葉のいまだはてざるに、にはかに雷火落ち懸かり、入間川の在家三百余宇、堂舎・仏閣数十箇所、一時に灰燼と成りにけり」。
 いや、まだ序の口だ。太平記巻三十四は、新田義興を「殊更嗔恚強盛の大魔王」と表現しており、畠山国清の眷属を屠ると宣言させている。「中に江戸下野守・同じき遠江守二人は殊更に悪い奴にて候へば龍の口に引きすゑて、わが手に懸けて切り候べし」と云わせている。預言には若干の誤差が生じ、龍の口で斬られたのは江戸修理亮であった。足利基氏と対立した畠山国清が追討され、腰巾着の江戸修理亮は捕らえられ斬首された。国清は楠木正儀に助けを求めたが当然の如く無視され、結局は死んだ。以上が太平記に載す、江戸一族らによる新田義興暗殺事件の顛末だ。

 元より北条得宗時代に浅草界隈で勢力を張っていた「名ある武士」とは江戸氏であろう。船虫は、江戸一族に連なる。船虫の祖先が辿った盛衰は、江戸氏の其れと齟齬はしない。また、江戸一族は、南朝方の期待を一身に集めた新田義興を謀殺した実行犯であった。
 馬琴は、太平記を、とにかく多用している。八犬伝冒頭からして、主人公たる里見家を南朝方だと強調している。里見家は元より新田一族であり、里見家の本花たる徳川将軍家は{僭称だとはいえ}新田一族だ。江戸氏に謀殺された新田義興は、南朝方の期待を一身に集めた英雄……の卵であった。潜在的に、かなり重要人物なんである。八犬伝が、数多のジュブネイルと同様に、何等かの理想を掲げているとするならば、其の一つは太平記に於ける新田氏の行動原理かもしれず、新田なる者が里見と結び付けられ更には徳川将軍家まで延長しているならば、新田一族ひいては南朝方の期待を集めた義興を騙し討ちした江戸氏は、極悪人でなければならない{但し、諄いようだが太平記の掲げる理想は、暗愚の後醍醐帝を無駄に翼賛するとの事実レベルではなく、正しいと信じた者に殉ずる南朝側武将の行動原理/理念/浪漫レベルであって、其処を混同すれば馬琴の意図と対極に至ろう}。
 江戸一族は、新田氏の仇敵である。大魔王となった義興は、江戸一族への復讐を宣言した。八犬伝に於いて里見家は、源姓新田流の代表として振る舞う。八犬伝で江戸氏が冷遇されても仕方がない。船虫は、本人が犯した数々の悪事のみならず、先祖が新田義興を騙し討ちにした罪をも負っている。執行した犬士たちでさえ余りの凄惨さに後悔する程の酷たらしい刑罰を、船虫が与えられる所以だろう。

 筆者は船虫を、江戸氏庶流だと考えた。では、何故に江戸庶流の船虫が、先祖の罪を贖わねばならぬのか。江戸氏本流が登場し、堂々と惨殺されたらよいのではないのか。しかし、そもそも馬琴は、足利尊氏の罪悪を、庶流である持氏に負っ被せて断罪した。新田義興を騙し討ちした江戸氏の罪も、庶流に負わせて酷たらしく刑戮している。何故に庶流ではなく本流を持ち出さないか? 馬琴の真意は解らない。但し、表現テクニック上の問題として、考えてみる。
 酷たらしい描写には限界がある。日本では竹鋸でジワジワ首を曳き殺す刑罰があり、中国には市に晒して通行人に少しずつ肉体を削ぎ落とさせる惨刑もあるが、所詮は現実のものに過ぎず、人間の想像力の限界までには至っていない……筈だ。何故なら、現実に於いて【最悪】の刑罰が存在したとして、人間の想像力は漠然とでも、其の先が存在すると感じてしまうからだ。張本人ではなく眷属に対して、考え得る最悪の刑を行うことを以て、張本人には其れを上回る、即ち、【想像を絶する】待遇を与えることを、何となく約束できる。善なる者を謀殺した張本人は、生きながら牛にハラワタを繰り返し抉り廻されて殺される、なんぞといぅ甘い刑罰では済まない……ことが、暗黙に表現し得る。誰も実際には見たことがない、【地獄】への想像力を掻き立てている。だからこそ、此の場面では、地蔵・閻魔が登場するのだろう。地蔵も閻魔も、地獄に纏わる仏格なのだ。

 また此処で、六犬士が熱狂のうちに惨刑を執行し直後に悔やむ、との不自然に着目すれば、何者かが憑依したが故に熱狂し酷刑に至ったようにも思える。提案者は、死にゆく異母妹/前浜路の願いを無視した冷酷なる道節であった。が、「六犬士も這光景に粛然と、思はずも目を合しけり」{第九十一回}。彼とて執行後には後悔の表情を見せた。船虫刑戮に当たって六犬士は、常時とは全く異なり、残虐に偏った。彼ら生来の資質から発した意思とは、如何も思えない。六犬士は【特殊な状態】にあったと見なければならぬ。ならば此の時、六犬士は何者かの干渉に曝されていたのではないか。
 筆者の抱く疑惑は即ち、新田義興の怨霊が矢口で小文吾に憑依し芝浜まで来て、他の五犬士にも影響を及ぼした可能性である。仁義の勇士は悪霊に表意されない、と規定するとしても、義興は怨霊ではあっても、悪霊ではなさそうだ。霊媒体質の小文吾に義興が憑依したとて、何等不都合はない。直前まで大人しかったにも拘わらず急に凶暴化した鬼四郎牛も、復讐大魔王義興の影響を受けたと思しい。小文吾は十字占を聞き易い体質もしくは幼さをもっている。恐ろしい形相をした血塗れの武人が小文吾におぶさっている姿が筆者の目には浮かぶし、小文吾におぶさった義興が「こいつ、いい乳してるよな」とか呟く声が聞こえてくる……とは冗談半分だが、とにかく、小文吾が矢口で義興に憑依されたが故に急いて川を渡り芝浜で江戸一族に連なる船虫を捕らえ精神を乗っ取られているが故に自分たちでも後悔するような惨刑を加えてしまった、と疑っているのは本当だ。

 ところで、狭い範囲で生活していると、通常なら、光の世界から闇の世界への移行は、空間内の移動ではなく、時間の動きによる、と思い込みがちだ。しかし和漢三才図会も、天動説ではあったが、空間内の太陽なり何なりが動いて、互いの相対位置関係によって、光の世界から闇の世界へと移行すると説明している。一日もしくは一年周期で太陽が明滅しているわけではない。宇宙は闇で覆われているが、光が移動しながら世界を一部ずつ照らしているのだ。そして、実生活上、移動距離は速度と時間を掛け合わせたものだから、空間移動は時間の進捗を必然として含む。

 八犬伝に於いて、理想的な小宇宙/空間とは、里見家を太陽/中核とする南総である。此処で徳川将軍家の御膝元たる近世江戸を、【徳川将軍家を太陽/中核とする小宇宙/空間】と書き換える。八犬伝が里見家を【太陽/中核】とする物語ならば、徳川将軍家を太陽とする小宇宙/江戸と通ずる。元より、物語とは、叙述事実の羅列に止まらず、読者の脳内に発生する小宇宙/空間でもある。そして、都市も単なる一定領域内の地区ではなく、其処で発生する事象をも内包するならば、物語と都市の【次元】は等しい。結局、八犬伝と近世都市江戸は、同じ次元の存在である。里見家を太陽とする八犬伝が、徳川将軍家を中核とする近世都市江戸と重なるならば、当然ながら、里見家と徳川将軍家も重なる。
 八犬伝は、里見家/徳川将軍家を太陽とする小宇宙であるが故に江戸そのものと繋がり、其れが為に八犬伝は、「江戸」を漠然とした形でしか表記できない。何故なら、八犬伝は、此の議論の範疇に限って云えば、江戸そのものだからだ。特に、「江戸」に城主が居ては不都合だ。混乱してしまう。巨田/太田道灌を「江戸」から排除することで、里見家が徳川将軍家の虚花であることを、明確にしているのだ。
 言い換えると、徳川将軍家の虚花/里見家が統治する南総もしくは安房が、八犬伝刊行当時の江戸を理想的に投影しているのであって、故に、江戸は厳然と存在しているにも拘わらず、少なくとも太田道灌の居所として明確には言及され得ない。

 河鯉守如は忍岡城代であったが、当然、政木狐と絡めるための設定だろう。忍岡には稲荷社があった。また、此処は近世江戸城の鬼門に当たるため、寛永寺が置かれて霊的防衛線を張った。近世江戸城を守護する場所/忍岡に縁ある霊狐が愛した河鯉孝嗣/政木大全/正木大膳の血脈は、里見家と重なり、紀州徳川家へと繋がる。即ち、八代吉宗から八犬伝刊行当時の将軍までを独占する血脈だ。

 近世江戸城の鬼門は寛永寺だが、裏鬼門は芝の増上寺である。芝浜といえば船虫だが、最期に悪事を働く場面、光明寺たら聖聡上人たらいう名辞が登場する。

     ◆
時に文明十五年正月二十日の事かとよ。船虫はけふも亦点燭時候より宿所を出て、浜辺に立て客を俟つ。左右には方九尺なる茅茸の仏堂の二座並びて建りける。そが左には地蔵菩薩、右には閻魔の木像あり。いぬる至徳の年間(後小松院御宇)にやありけん、貝塚なる光明寺の聖聡上人、這地を過り給ひし折、網引釣漁る浦人們に輪回応報の理りを叮寧に説諭してをさ/\冥福を薦め給ひしかば、浦人們月毎に銭を集め年を歴て竟に二座の仏堂を浜辺に建立したる也。地蔵と閻魔は一仏二体、慈愛粛殺異なれども、供に能化の教主なり。世に罪障多かるものは死して堕獄の苦みあり。閻魔の庁に呵責を受て永劫浮む瀬あることなし。又旧悪あるものも、先非を怕れ懺悔して心を慈善に転せば、一旦地獄に堕るといふとも、地蔵菩薩に救れて竟に天堂の快楽あり。些小也とても悪事をすな。小悪も稍蘊れば大悪となりて、免るゝ路なし。些小也とても善事をな怠りそ。小善も良積れば大善となりて果報あり。然ば地獄も天堂も、閻魔も地蔵もおのも/\皆その心の致す所、これを他に求ずして、よくその心に求れば、仏ともなり餓鬼ともならん。世に釣漁を做すものも、宮戸河なる浜成弟兄、近くは淀に弥陀二郎あり。こゝろ仏意に叶ふものは、日毎に江河に網を卸して殺生の罪消滅す。手足に暇なきものも、口に仏名は唱易かり。這義を忘れざる与にとて那上人の説薦めて建させ給ひし仏堂なれば、誰か疎鹵に思ふべき。然るを船虫と媼内のみ一毫も忌憚らず。地方もあらんを両仏堂の間に立在み客を引て、邪淫に汚穢すのみならず、人を害して財を奪ふ。罪悪越に極れり{第九十回}。
     ◆

 聖聡は真言宗の僧侶であったが、浄土宗に寝返った裏切り者である。馬琴は「光明寺の聖聡上人」と惚けているけれども、聖聡は、浄土宗に転んだ挙げ句に光明寺を増上寺と改称した。「貝塚なる光明寺」が増上寺に改称し、徳川幕府によって芝に移転させられたのである。

 増上寺は近世江戸城の裏鬼門を守護する霊的防衛線を張っていた。将軍の菩提寺であって、木乃伊が何体か保存されている。将軍の木乃伊が置かれた理由は恐らく、将軍としての武威を期待してのことだろう。江戸/現役将軍を守護するためだ。そして鬼門には、上野寛永寺が置かれた。

 筆者は、船虫が殊更に残酷な手段で殺される理由を、彼女が江戸一族に連なる点に求めた。では、何故に、船虫刑戮は、矢口で行われず、芝浜にまでズレて行われているのか。そりゃ当然、八犬伝が江戸期に刊行されたからだ。
 新田氏は既に、徳川将軍家/里見家に変換されている。だからこそ、場所も移動する。新田義興の殺害現場は矢口だが、徳川将軍家の結界は芝であった。浄土宗芝増上寺の開山である聖聡を、わざわざ船虫殺戮条で持ち出している以上、芝に張られた徳川将軍家の結界と、虚花である里見家の結界を重ね合わせていると解さねばならない。鬼門/光の世界を守る結界/境界で、魔なる者は滅ぼされる。
 江戸一族は、滅び行く南朝にとって最後の希望/新田義興を騙し討ちにした。江戸一族は、新田氏の仇敵となった。徳川将軍家は新田一族を詐称していたし、虚花の里見家は新田一族である。船虫は江戸一族を代表している。よって、船虫は悪玉だし、虐殺されなければならない。
 また、江戸氏は、徳川将軍居城の名称を名乗っている。「江戸」を称する者は元より八犬伝に存在しないし、太田道灌さえ江戸城建築の主導者かつ城主としての側面を隠し通した。江戸の【主】は不在だ。そもそも八犬伝に於ける「江戸」の用例は、中世までの江戸郷を指している可能性を秘めたものもあるけれども、明らかに近世の江戸を指すものが混じり込んでいる。近世江戸の主は、徳川将軍家である。但し、八犬伝の舞台となった時代、徳川氏の祖先は、三河国で御手軽に藤原姓を名乗る豪士レベルの格だったであろう。代わりに存在している者は、虚花である里見家だが、里見家は安房に根を張っていた。八犬伝に謂う所の「江戸」は、主人を明記されない場所となっている。にも拘わらず、近世江戸城を守護する鬼門/忍岡、裏鬼門/芝は、重要な事件の起きる場所として特筆されている。付け加えるならば、赤岩庚申山は日光へと連なる山塊の一つである。徳川将軍家の三大聖地を{少しズラして}取り上げた八犬伝は、徳川城下町としての近世江戸を、朦朧と浮かび上がらせている。

 近世江戸城の裏鬼門/芝で行われる船虫刑戮は、閻魔王による悪鬼断罪の側面と、鬼門で悪鬼を退治し侵入を阻止する側面を併せ持っているのかもしれない。そもそも船虫が多摩川より西でウロウロする理由は、物語上この場に限って、多摩川以東を陽の世界、以西を陰の世界と仮定しているからだろう。船虫は、多摩川付近に張られた結界内部/近世江戸に再び侵入することが出来ずに、殺される。鬼の世界とは、太陽が隠された【闇の世界】である。だからこそ八犬伝では、三途の川を渡り闇の世界に入った辺りに、閻魔と地蔵が配置されているのだ。
{お粗末様}

 

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