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■新田贔屓と南北朝観■
 

 歴史にIfは禁物と云われることもあるが、Ifなくして歴史は【現実批判の学】たりえないのも、また、事実だ。歴史から、現在に生きる人々の理想的福祉を抽出し、以て現実と対比することで、歴史学は現世に価値を生む。過去の事実なぞ、叙述しきれぬ程に、多い。実用上、無数と云って良い。書き残された「歴史」を、現在に生きる者にとって価値ある形に再構成することこそが、歴史学であろう。故に歴史は政治に悪用され続けてきたし、現在も「修正」され悪用されており、恐らくは未来に於いても悪用され続けるだろう。此処で謂う「人」とは、人であって、権力に擦り寄る寄生虫のことではない。ありゃぁ、「虫」に過ぎない。とはいえ、虫の都合を無視する歴史家は、不遇たらざるを得ない。
 

 筆者は実のところ、新田義貞を好きではない。楠木正成の言を容れ、後醍醐帝が足利尊氏を取り込めたら、歴史は変わっていた。即ち、後醍醐/正統帝が、社会矛盾を呑み込んで御仲間成果主義に陥らず人心を結集させることが可能であっただろう。ならば、正統帝が勝利する、との歴史事実を残せたし、其れを理論として確立する機縁となった。しかし、正統帝は敗北し、断絶した。正統なる者のもとに、正当なものが結集せねばならぬとの原理背景は、決定的に喪われた。自らを正当と信ずる者たちでさえ、正統に背を向けることが出来るようになった。抑も、無駄な正統論議をしてしまったため、純粋な万世一系の理論基盤が永遠に消滅した。南北朝ともに正統だと考えなかったために、「正統」王朝が消滅したことを認めざるを得なくなったのだ。消滅した正統王朝の復活は不可能だ。実のところ早くも前近代のうち日本は、万世一系の論理を、放棄してしまっていた。純化/尖鋭化した万世一系論なる珍説の蔓延りは、幕末から勢いづいた異端派儒学/後期水戸学の罪である。
 

 馬琴は八犬伝のみならず幾つかの作品で、南朝側の代表とも言える新田氏関係者を主人公/善玉に据えている。馬琴が南朝側武将なかんづく新田氏へシンパシィを捧げていたことは明らかだ。が、其れを以て、馬琴が政治的に南朝帝を芯から支持していたと考えるとすれば、単純に過ぎるだろう。何より、ヽ大の存在がある。ヽ大は、万里小路藤房が出奔の折に詠った歌を引いて、伏姫石窟へと姿を消す。里見家の徳が衰えた頃、姿を現し樵夫に警句を託して去った。藤房は、建武新政に於いて、御仲間成果主義に陥り人心を喪った後醍醐帝を諫め、容れられず絶望して、出奔した忠臣である。ヽ大が藤房と重ね合わされていることは明らかであって、後醍醐帝の暗愚を指摘して已まぬ太平記に、馬琴は寄り添っていると云わねばならぬ。南朝側武将へのシンパシィと南朝への翼賛は、全くの別物だ。また、馬琴が生きた時代、新田氏の末裔を詐称する徳川将軍家が日本を支配していた。八犬伝の里見家は、新田一族であった。南朝帝への翼賛を経ずして、八犬伝は南朝方武将/新田義貞へシンパシィを捧げ得た。
 南朝側武将へのシンパシィは、或いは【判官贔屓】を媒介とし得る。判官贔屓の要件は、敗者側の倫理が前提となる。いくら無残な敗者でも、悪辣なる者は、判官贔屓の対象にはならない。滅びつつある南朝のため戦うとは、現実的利害を無視して倫理のみに従ったことを、結果論として主張し得る。それだけ【純粋】な良心を抱いていたのだと、{あくまで結果論として}認定し得るのだ。「殉じた」事実のみが重要なのである。それだけのことだ。故に南朝側武将へのシンパシィは、南朝帝まで到達しなくとも良い。太平記が、南朝側武将の悲劇性を吟遊詩人ばりに謳い上げたが故に、余慶で南朝帝までシンパシィを向けられることは仕方ないが、あくまで余計な余慶であって、オマケに過ぎない。
 

 とにかく、南朝は滅んだ。厳然たる事実である。厳然たる事実を基に、人は因果律を透かし見ようとする。史観である。南朝が何故に滅んだかと云えば、滅びる理由があったからだ。筆者が太平記など読むと、後醍醐帝が御仲間成果主義に陥り人心を喪ったからこそに滅んだ、としか言い様がない。しかし、馬琴は、そんな当たり前で確実な因果に満足できなかったようだ。筆者の如く社会変動の原因を社会に求めるのではなく、馬琴は何やら霊的な理由を欲したのだ。
 まぁ、気持ちは解らないでもない。帝は、十善の君である。現実に於いて、完璧なる善……の筈なんである。其の帝を否定するためには、現実を超越した何か、多分は、霊的な存在に、依らねばならない。即ち、神・怨霊もしくは呪い、である。
 南朝は北朝に凌駕された。いや、実の所、足利尊氏に陵辱された。下剋上ってヤツだ。では何故に、正統たる南朝が、尊氏風情に犯し尽くされたのか。正しい者こそ、強者ではないのか。……残念ながら、そうではない。時代の文脈を取り違えた者こそ、敗者となる。後醍醐帝は誤っていたからこそ、滅びの道を駆け下りた。政治は絶対ではなく、相対位置関係に依って動く。尊氏は正しくはないけれども、後醍醐は完全に間違っていた。だからこそ、消去法で、尊氏が生き残った。
 霊的な存在により聖別されている筈の後醍醐帝が何故に「間違った」のか。筆者なら「甘え腐った馬鹿ボンだったから」と答えるところだが、馬琴は更に文学的な回答を求め、霊的な存在に行き着いている。
 

 椿説弓張月は、まぁ主人公は源為朝だが、為朝を擁護する存在として天狗やら何やら出てくるのだけれども、天狗の親玉みたいな格で、崇徳院が登場する。「日本国の大魔縁」{保元物語}である。魔縁とは天狗をも意味する。そして天狗とは、生来の悪ではなく、途中までは仏教やら神道やら修験道やらで、超自然的な力を得て、増長慢などの故に道を踏み外し、力を悪用する者である。崇徳院だって一時期は十善の君であったわけだが、父の我が儘ゆえ退位を余儀なくされ子どもも皇位に即けず挙げ句の果てに拗ねて道を踏み外し、日本最大の怨霊となってしまった。こりゃぁ大天使がサタンになったってケチな話ではない。全知全能の神そのものが、悪魔に変体しちゃったのだ。天皇は、前代までの天皇霊を受け継ぐものだ。皇統譜に載らぬ者を含め凡そ百三十人分の天皇霊がある筈だが、其のうちの数人が天皇を憎む怨霊であり、崇徳院は其の代表なんである。よって、天皇は、自らの裡に自分を呪う者を含み込んだ存在だ。
 

 何故に南朝は、足利氏に滅ぼされたのか。恐らく馬琴は、崇徳院の怨霊こそが、南朝を滅ぼしたと考えたのだろう。足利尊氏は、道具に過ぎない。極めて簡単な話だ。椿説弓張月の残編末尾すなわち本文大尾{→▼}に、足利尊氏の祖先は源為朝であり、尊氏は為朝の擁護によって天下を盗った、との叙述がある。正統王朝/南朝が滅び、足利尊氏に簒奪された原因は、源為朝に帰せられる。為朝の黒幕は、崇徳院だ。崇徳院の呪いが成就し正統王朝が滅んだ。崇徳院の呪いは、正統王朝内の権力闘争による。よって、正統王朝の滅亡は、正統王朝に於ける政争の愚{ママ}に依る。最近流行の、自己責任ってヤツだ。正統王朝が自滅したってだけである。簡単明瞭なストーリーに過ぎない。正統王朝は、既に正当性/天命を保持していなかったのだ。
 

 上記の如き因果律に影響を与えたものとして、例えば新井白石の史観があっただろう。白石の史観は、【政権交代は天命の移動によるとは限らない】である。天命は無意味ではないが、簡単に降下するものではない。神武には降ったが、平安時代の外戚政治辺り迄には消失した。其の後、徳川家康に降るまで、日本には天命が存在していなかった。天命は衰えるものであり、永遠に保証されてはいない。また、天命なんざなくとも、「時勢」に乗れば、政権は樹立し得る{「天命と時勢」参照}。白石によれば、尊氏は盗人に過ぎないが、それでも室町幕府を開いた。天命はなくとも政権は存立するのであるが、あった方が正当であり、強固な政権となる。こうした事情を椿説弓張月は、以下の如く云う。即ち、
 「{足利尊氏が}度々の危難を脱れて竟に海内を掌握したまふ事は、全く八郎明神の衛獲給へるならん。惜いかな、尊氏兄弟のおん行状は、為朝に似たまはざること多かり、と識者は眉を顰たるなるべし。されば後々に至りては、八郎の神霊も衛獲たまはざりけるにや、十三代の間、世の静なる年は稀なりき」「しかれば祖先の遺徳も憑むべからず」。
 

 足利尊氏は為朝のおかげで即ち「先祖の遺徳」によって、「海内を掌握」したのだ。しかし、掌握した後、為朝の擁護は「憑むべから」ざるものとなる。権力の行使は、其れ迄に蓄積した徳の消費であるから、徳を絶えず再生産しなければ、権力は維持できない。「坐して食へば箱も空し」{第九十九回など}である。足利氏は為朝の徳を消費するのみであり再生産をしなかった。故に、「十三代の間、世の静なる年は稀」であり、滅び去ってしまう。尊氏は個人の都合で政権を奪ったのであるが、実の所それは源為朝の徳に依る。為朝としては、子孫に佳い目を見せてやっただけのことかもしれない。しかし、為朝の黒幕が崇徳院ならば、尊氏が正統王朝を滅ぼしたのは、実の所それは崇徳院の呪いを成就するためであった、とも云える。八犬伝と弓張月を併せ読めば、尊氏は、崇徳院の掌で踊ったに過ぎないことが解る。天皇を否定できる者は、天皇のみである。崇徳院が否定せずして何者が能く後醍醐帝を否定し得るや。椿説弓張月で既に馬琴は、南朝滅亡すなわち足利尊氏による簒奪の理由を、説明してしまっている。崇徳院の怨霊により、南朝は、滅ぶべくして滅んだ。
 崇徳院怨霊の発生は院政を背景にしている。院政に対しても、馬琴の態度は否定的だと思われる。院政の乱脈により皇位は上皇の恣意に委ねられ、為に崇徳院が怨霊となり、源為朝を経由して、足利尊氏に下剋上/政権簒奪を成就させた。南朝滅亡の原因を院政まで辿ることが出来るのだから、王朝の自己責任に依るのである。足利尊氏は、崇徳院の傀儡に過ぎない。
 しかし、さて、南朝を「正統」だとか何とか強調せず、常識的に見れば、実は北朝も血統としては前代と断絶しているわけではないから、正統だと主張し得る。以前にも、皇統が分かれ皇位を争奪し合った挙げ句、鎌倉幕府の裁定で両統が迭立した時期もあった。持明院・大覚寺の両統である。此れも復た、院政の産物であった。
 色々あって大覚寺統からの皇太子選出がグズつき、仕方なく二男坊の尊治が立てられた。此れが後醍醐帝である。後醍醐帝本人は即位したものの、皇太子には後醍醐帝の甥/兄の長男が立った。即ち後醍醐帝は、ワン・ポイント・リリーフに過ぎなかった。皇族・貴族の話し合いで定まった形であり、鎌倉幕府が後見していた。後醍醐帝は倒幕計画を練ったがバレた。正中の変である。日野資朝に責任を負っ被せ素知らぬ顔をしていた。そうこうするうち甥である皇太子が若死にした。ドサクサに紛れて後醍醐帝は自分の息子を皇太子にしようとしたが、幕府は持明院統の皇子を選んだ。両統は迭立すべきであったのだ。七年後に再び後醍醐帝は倒幕を企て、やっぱりバレた。流石に誤魔化し切れないと思ったか、京都から逃げ出した。幕府は後醍醐帝を廃位し、皇太子に嗣がせた。光厳帝である。しかし、後醍醐帝は「俺、辞めてないもん。まだ天皇だもん」と言い張り続けた。が、捕らえられ隠岐に流された。光厳帝の皇太子は、後醍醐帝系以外の大覚寺統から選ばれた。二年後、後醍醐前帝は隠岐を脱出した。幕府軍を率いて近畿に急派された足利尊氏は、アッサリ寝返り、前帝のもとに走った。関東では新田義貞が幕府を倒した。勢いづいた前帝は「俺、辞めてないもん。まだ天皇だもん」と、光厳帝を否定し、翌年に漸く自分の息子を皇太子に据えた。後醍醐帝の血統が連続しないことは皇族・貴族一般の了解事項であったようなのだが、クーデターでルールを覆したのである。更に二年後、足利尊氏が後醍醐帝を見限った。京都にいられなくなった後醍醐帝は吉野に下り、「俺、辞めてないもん。まだ天皇だもん」と主張したが、尊氏は無視して光厳帝の弟/光明を即位させた。南北朝時代の始まりである。
 

 簡単に言えば、皇族・貴族内の了解事項に逆らい自分の直系子孫への皇位継承を強引に実現しようとした後醍醐帝にこそ問題があった。二男坊でありながら、兄の血統から皇位を奪い続けようとした後醍醐帝こそ、世を修羅地獄に叩き込んだ元凶であった。崇徳院も自分の息子が皇位を継承できないからこそ、乱を起こした。後醍醐帝と崇徳院は、実のところ同じ穴の狢であって、崇徳院の怨霊に南朝を滅ぼさせるストーリーは、なかなか気が利いている。皇位への妄執が、「正統」王朝を滅ぼしたのだ。
 

 足利尊氏が臣下の立場で皇位を左右したから、馬琴に下剋上だとか非難されているのだけれども、だからと云って、馬琴が後醍醐帝の主張を鵜呑みにしたとは思えない。尊氏への非難と、後醍醐帝への翼賛は、一体ではない。余りに南朝を「正統」だと強調し過ぎたら、現在に続く北朝系の天皇は全員【偽物】ってことになる。十四世紀半ばに、天皇は絶滅したことになるのだ。近世ならば、南朝の「正統」性を強調し現職天皇を無価値化、以て、徳川将軍を日本国王とする戦略もあり得たが、馬琴は其処まで過激な思想を抱いていただろうか。それよりも、南朝側武将への賛美は賛美として、さほど南朝正当論を突き詰める真意なぞなかったと考える方が、穏当である。そうでなければ、馬琴は、弓張月を自ら否定しなければならない。八犬伝にも、思いっ切り北朝系である後土御門帝を否定する如き記述は見られない{まぁ、そんな事を書いたら、確実に絶版だが}。里見家の南総支配を安房守・上総介という官職を通じて天皇が認める体裁をとっているのだから、馬琴が天皇制を否定していたとは、決して思えない。故に、南朝を、{より}「正統」だと認識していたとしても、絶対的で排他的な価値を認めていたとは思えないのだ。後土御門帝と賢君将軍足利義尚の共存に否定的な視線を向けない馬琴は、大らかな立場を採っている。
{お粗末様}

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