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■四国の逆襲■
 

 八犬伝は関東および甲信越、せいぜい京都と東海道・中山道沿いを舞台にしている。ただし、犬田小文吾の受領国{名称のみ}は豊後だ。馬琴が元ネタにしたとされる「増補 合類大節用集」の表記も「犬田豊後」なので、八犬伝の「犬田豊後/小文吾」に、少なくとも当初には、独自の積極性は見られない。但し、竹林巽・於兎子の出身地も豊後だ。いきなり九州出身者が登場したのだから、此の時点では「豊後」に積極性があると見なければならない。東日本は言わずもがな、八犬伝に於いて、九州にまで意味を見出すべきとなれば、八犬伝は、なかなかに全国的規模の世界を取り込んでいる。しかし其の中で、四国は殆ど登場しない。除け者なんである。愛媛出身の筆者としては寂しい限りだ。
 八犬伝では一応、安房で富山と伯仲する高山として伊与嶽が指名されている。伊予の最高峰は標高千九百八十二メートルの石鎚山である。有名な阿波の剣山でも千九百五十五メートルだから、けっこう高いのだ。伊与嶽は三百四十メートル足らずだが、形が石鎚山に、似てなくもないかもしれない。美少女に誘惑され淫らな奉仕を受けた上でねだられたら、「似ているかも」ぐらいのリップサービスはしてもよい程には似ている。とはいえ、八犬伝表記に於いて、伊与嶽そのものは全く重要ではない。単に引き合いに出されているだけである。
 


 四国出身者が八犬伝にも登場する。細川讃岐守元勝・細川六郎澄元・三好長輝は、第百八十勝回下編大団円で後日談に名前だけ表記される。今純友査勘太は四国沿岸を荒らし回った海賊で、親兵衛と絡む立派な登場人物だ。手頃な海さえあれば海賊なぞ何処にでも湧く。瀬戸内海は島が多く、海賊稼業に手頃であった。が、村上とか忽那とかの名称を使っていないから、馬琴が読者に想起させようとした海賊は、中世なかんづく八犬伝の舞台となった十五世紀後半に活躍した実在の水軍ではなさそうだ。藤原純友から発想した名づけであっただろう。純友は京都から本人が下ってきた受領であって、土着人とは言い難い。土着人とは言い難いが、査勘太以外で名のある登場人物が、四国出身者にいないから仕方がない。他の海賊は、誰が四国出身者か判然としていない。

 但し、名前も表記されていないチョイ役だが、筆者が注目する四国出身者が八犬伝には登場する。上洛した直塚紀二六が、軟禁された親兵衛の様子を窺いに細川政元の屋敷へ行ったところ、応対に出た老人が、「四国訛は抜けねども」と表記されている。四国出身者だと判る。実は……と勿体ぶる程の話ではないが、細川家は四国と縁が深い。嫡流で管領を輩出する家は摂津・丹波の守護として京に君臨していたが、分家筆頭が阿波・讃岐を支配した。阿波が本拠だ。阿波細川家からこそ、政元は澄元を養子に貰った。細川家執事の香西家は、讃岐を本拠としていた筈だが、八犬伝では本貫が阿波になっている。もともと細川氏は東四国、就中、阿波と縁が深い。
 のみならず霊馬走帆は、細川家の領地である「阿波国」のうち「美馬郡剣峰より忽然と出し来れる」{第百四十四回}龍馬であった。走帆は云う迄もなく青海波の代用であるが、青海波は当然の如く安房産である。冒頭で然り気なく石鎚山が剣山より高いことを示したが、精確に測量できたのは昭和に入ってからだ。それまで剣山が四国最高峰だとされていた。即ち西日本一、である。今でも剣山周辺には平家の落人伝説が残っている。剣山の其れは、頂上付近で落人が馬術訓練をしていたというものだ。安徳帝が石の上に宝剣を置いたため剣山と呼ばれるようになった……との伝承もある。いやまぁ、石鎚山は尖った形だが、剣山は丸くなだらかな頂上で、周囲は「平家の馬場」と呼ばれているのだ。形状から「剣山」との名称は出てきそうにない。勿論、石鎚山も剣山も霊山であり、修験者が徘徊していた。
 


 そんなこんなで、京の細川家に四国出身者が紛れ込んでいることは、寧ろ当然であった。八犬伝刊行当時の読者は、細川氏が四国と縁の深い一族だと知っていただろう。
 


 犬士は荒芽山危難の後、互いに求め合い彷徨った。現八は、元気いっぱいズンズン歩いて京都にまで至った。三年をボンヤリと過ごす。しかし、京より西に行く気はなかった。「西国四国も見まほしけれど、おもふにわが友達は、みな関東にて生れたり、遠く京師をうち越て西に留るべくもあらず」{第五十九回}と決め付けている。いや、こんな筋肉脳をもつ狂犬は無視しよう。しかし、大角も同意見であった。「大角は又現八と商議するやう、その名をのみ知る犬塚犬山、犬田も東国の人なれば、京師よりして西のかた九州四国に杖を駐めて光陰を送るべうもあらず、今番も亦上野より武蔵下総を遍歴せん歟、和殿のこゝろいかにぞやに」{第八十二回}。結果として推論は正しかったわけだから、さすが大角である。但し、現八はマグレ当たりに違いない。
 しかし、四国の土を踏んだ犬士もいる。ズッコケ道節とカタブツ荘介のコンビだ。四国巡礼膝栗毛、此の組み合わせで珍道中にならぬ方がオカシイ。いやまぁ道節と現八の凶暴コンビならば、同気相和し琉球まで押し渡って王様になりそうだから、却って困る。別の話になってしまう。椿説八犬伝だ。
 道節と荘介の四国珍道中は是非とも読みたかったが、とにかく四年も西日本をウロついていたのだから、四国にも、いや伊予にも、相応の時間を配分したのではないか。きっと、「嘘も方便」と悪戯を重ねる道節を荘介が追っ掛け回す展開であろう。まぁ犬士きってのマゾヒスト荘介ならば、道節の尻拭いをさせられつつ密かに悦んでいたかもしれない。閑話休題。
 


 さて、八犬伝に於いて安房の成立は、「かくて総の南辺に居民鮮かりしかば、南海道阿波国なる民をこゝへ遷し給ひて、やがて安房とぞ呼せ給ひぬ」{第二回}とされている。国史の裏打ちもある説であって、馬琴の創作ではない。実際に伊与嶽{/伊予ガ岳}と富山は隣接した山であって、標高も近い。安房では高山の類だ。八犬伝に於いて、実在の四国は確かに殆ど無視されているのだが、一応は道節と荘介が珍道中を繰り広げたと思しい。孫の義通が蟇田素藤に掠奪され陵辱されているのに「無理はしなくていぃ」と暢気に構えていた里見義実は、京都で親兵衛が細川政元に抑留され夜の玩具にされているかもしれないとなれば妙に気を揉む。義実と政元は、一箇の豊満ムチムチ美少年を廻って、密かに対立している。安房の義実と、阿波を勢力圏にもつ政元が、対立しているのだ。阿波と安房は、陰陽/表裏の関係にあるのかもしれない。
 


 筆者は以前に、八犬伝の重要事件発生年は干支などの制約と、永享乱や結城合戦など動かしがたい史実の発生年の制約を受けた、と論じた。其の制約の中で、未だ室町幕府管領になっている筈もない細川政元を、犬江親兵衛の第一次上洛で管領とし且つ悪役に設定している所以は、細川家が【阿波】と関係していた点にも求められるのではないか。則ち、里見家の本拠である【安房】と対照するためだ。近世までに成立した歴史物語に於いて「邪行」したと語られる変態であり且つ「阿波」と縁がある点が、細川政元と親兵衛・里見義実が対立する理由ではなかったか。とにかく、細川家を四国と殊更に結び付け、就中、「阿波」との表記を鏤める馬琴には、何か下心があったとしか思えない。
 


 また、八犬伝は観音霊場である坂東三十余カ所の幾つかを重要ポイントに設定している。那古寺などだ。伏姫の菩提を弔いつつ犬士を捜索するヽ大の東日本遍歴も、安房に始まり安房に行き着く巡礼遍路の色彩が濃い。仮に、安房と阿波、坂東と四国が、対応しているとすれば、坂東巡礼は四国遍路に転換し得ようか。さて、四国産の筆者であるから、八犬伝に殆ど登場しない四国を強引に取り上げ、御国自慢をしてみよう。
 


 筆者は、馬琴百五十五忌を記念し、「伊井暇幻遍路八十八箇所千枚供養」なるサイトをヒッソリ開設したことがある{→▼:戻る時にはブラウザで。以下同}。本来は霊場と周辺の写真を千枚ほど撮って掲載する写真サイトだったのだが、徳島県立図書館で閲覧した「四国遍礼霊場記」「四国遍礼道指南」の内容が愉しかったので原文と口語訳をメインコンテンツとした。特に霊場記は元禄二年の序文があるけれども、現在に伝わる昔話の原型もしくは中間形態と目せるものが既に数多盛り込まれている。
 此処では愛媛県松山市の由緒正しい五十一番札所/熊野山石手寺に就いて紹介する{→▼}。現在流布している形、筆者が子供の頃から何度も{それぞれ違った話を}聞いてダイジェストすれば、以下の如きだ。
 伊予国荏原郷の豪族/衛門三郎なる者があった。豊かな身持ちだったが、極めて吝嗇であった。或る日、貧しい身形の汚らしい僧が門前に立ち、喜捨を乞うた。吝嗇な三郎には、元より喜捨の心なぞない。三郎は貧僧を邪慳に追い払った。貧僧は八度まで門前に立った。三郎は其の度に追い払った。最後に、手にした箒で貧僧の鉄鉢を打った。鉄鉢は八つに砕け、地に堕ちた。貧僧は姿を消した。
 翌日、三郎の長男が死んだ。八人の子供、五男三女が毎日、一人ずつ死んだ。皆、苦しみ悶え、のたうち回った挙げ句の死であった。泣き涸れ疲れ果てた三郎が、絶望の淵で微睡んでいると、枕元に貧僧の姿が見えた。三郎は、貧僧が実は弘法大師空海であると何故か覚った。後悔の波に揉まれるうち、空海は消えた。
 三郎は妻を残し、空海の姿を求めて旅に出た。八十八箇所の霊場を廻り、ひたすら空海を追った。会って詫びたい一心であった。四国を二十度廻っても、空海には出会えなかった。地元に辿り着くと、自分の家の辺りで煙が立っていた。火事ではなさそうだ。身近にいた老女に、なにゆえの煙か尋ねた。老女は答えた。衛門三郎の妻が死に、火葬しているのだと。更なる絶望に呑み込まれた三郎は、密やかに妻の墓に参り、ひと晩じゅう経を唱え続けた。空が白んでくる頃、ふと三郎は、大師が自分と同じ方向を同じ速度で進んでいるから出会えないのではないかと思った。
 朝が来ると三郎は、元来た道を戻り始めた。霊場を、これまでとは逆に回ることにしたのだ。逆打ち、である。阿波国焼山寺の近くまできたとき、三郎は力尽きて倒れた。巡礼を始め暫く経つと手持ちの金はなくなった。それから泥水を啜り草を咬んで歩き続けてきた。衰弱しきっていた。
 朦朧とする意識のなか三郎は、大師の姿を見た。泣いて詫びる三郎を大師は許し、願いを一つ叶えてやると云った。三郎は、伊予で最大の権力を持つ河野家の当主になりたいと願った。強い力をもてば、それだけ多くの不幸を救えると思ったからだ。大師は路傍の小石に「衛門三郎」と墨書して与えた。三郎は、小石を嬉しそうに握り締めて、死んだ。
 翌年の七月、河野家に世継ぎが生まれた。元気な赤子だったが、片方の手を握り締め決して開こうとしなかった。三年後の或る日、初めて開いた掌から「衛門三郎」と墨書した小石が現れた。
 

 勿論、筆者は、弘法大師空海が衛門三郎の子どもたちを次々虐殺したり、三郎の動向を窺いつつ四国内を逃げ回っていた、とは思っていない。あくまで御伽話として受け取っている。
 注目すべき要点は、空海を冷遇した煩悩の犬/衛門三郎が、八子の絶滅で発菩提心、巡礼を続けた挙げ句に野垂れ死に、善人として文字通り生まれ変わったとき小石を握りしめていたことだ。勿論、ヽ大の東日本遍歴や犬江親兵衛仁の出生などと、此の話を直截に結び付けようというのではない。ただ、石手寺に纏わる説話が、日本民俗仏教の発想としてあり得るものだと確認できれば良い。則ち、身分証明となる仁玉を握りしめて親兵衛が出生することは、さほど奇妙な話ではないのだ。
 更に云う。石手寺の衛門三郎説話の背景は、輪廻・因果応報という、見慣れた論理であることは自明だ。四国遍礼霊場記が語る如く、衛門三郎説話は、中国の三生石説話と親{ちか}い。三生石説話は、証拠となる石を持って生まれ変わるなぞという話ではないが、前生・今生・後生の三生で輪廻転生する話の代表例だ。ヴァリエーションとして禅僧が牛になったりする話もある。八犬伝でも紀二郎猫が直塚紀二六に生まれ変わる。
 輪廻転生・因果応報といえば余りにも耳に慣れ、皆さんも熟知しておられようが、残念ながら、身の回りに確かな実例がない方が殆どだろう{あって堪るか!}。今回は四国の片隅で、ささやかに語り継がれている説話を御紹介申し上げた。
{お粗末様}

 

 
 

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