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■仏鬼軍と八犬伝の引き延ばし■
 

 一休は人気者であったから、後世、彼に仮託した文物がモノされた。足利持氏と敵対し結城合戦で春王・安王を殺した挙げ句に自分も幕臣に殺された足利義教の墓を擁する京都十念寺に伝わる、仏鬼軍も其の一つだ。原作は十六世紀に成立したといわれており、其れを元に元禄十年、京都の書肆が絵本として刊行した。内容は、釈迦如来を始め観音菩薩や何やら彼にやら顕教の諸仏のみならず大日如来ら密教諸仏も挙って、いきなり地獄へ攻め込み鬼どもと堕ちた衆生を根こそぎ捕虜にする、というものだ。何のことはない。地獄に堕ちた者たちさえ、仏が極楽へと掬い取ってくれるとの説法を、通俗に徹し、仏と鬼の戦争仕立てにしただけのことだ。
 作中、阿弥陀如来など主立った仏が地獄を攻める理由を挙げるが、釈迦如来の宣言は「一切衆生は皆我子也。然に十分が一だにも浄土へは参らせず。しかしながら鹿鳥を殺し鯉鮒を取たればとて毛を吹て疵をもとめて地獄へ落す事、第一の遺恨也。五百の大願も衆生のため也」であった。一方で地獄の獄卒らの言い分は、「仏は正直の物かとおもへば、とんよく第一の人也。衆生ほしがる欲の深さ、自業自得果の憲法の大矢うけとり給へ」だ。
 抑も諸仏は衆生を救済する誓願を立てている。誓願とは何かに執着した挙げ句、其の執着を確立する行為だ。衆生救済の誓願を立て地獄を攻める諸仏も、衆生を「鹿鳥を殺し鯉鮒を取たればとて毛を吹て疵をもとめて地獄へ落す」地獄側から言えば、「とんよく{/貪欲}第一の人也。衆生ほしがる欲の深さ」となる。
 煩悩/執着が人を苦しめる元凶であることは論を俟たないが、論理を余りに純化・尖鋭化し、衆生を救済することに執着し苦悩することまで【悪】だとすれば、仏教は抑も成り立たない。なるほど、「毛を吹て疵をもとめて地獄へ落す」は仏の本意ではなく、地獄の論理なのかもしれない。凍土に立って人への愛を喪った老婆焼庵公庵の僧侶の如きだ。勿論、だからといって、積極的に【悪】を行うよう促しているのではなく、些細なことまで悪として罪するべきではない、と仏鬼軍は主張しているのだ。浄土宗の寺に伝わっているから当然だが、仏鬼軍は極めて浄土教っぽい絵巻である。一休は臨済宗の禅僧だが、浄土教側から見て親和性があるからこそ、仏鬼軍が仮託されたのだろう。
 


 但し仮託の対象として一休が選ばれた背景には、此の他の場合と同様に、後小松院落胤説もあるかもしれない。仏鬼軍は本文を終え、序文に続く。「其かみ名におふ紫野の一休和尚(大徳寺一休和尚ハ俗姓ハ仁王百一代ノ帝後小松院第二ノ王子也)の自画自賛の仏鬼軍、世にもてはやすことなく閑窓にうづもれて世々を経るに見るものなし。こゝに十八世の何かし巻をひらくに経文まなこにさへぎり表示掌にあり。禅心をうつして見るに其詞たへなる事、心詞にいたりてはいふにさらなり。霊奇と云つべし」とあり、後小松帝落胤説を採っている。因みに仏鬼軍では後小松帝が「仁王百一代」となっているけれども、明治政府が勝手に北朝より一代少ない南朝を正統天皇としてカウントしたため現在では百代とする場合が多い。
 十六世紀、現世は室町幕府なり戦国大名なりに支配されていた。将軍や大名が、実際の【法】であった。但し、仏鬼軍の伝わった京にあっては、天皇も一応は存在していた。将軍なり大名なりが実力行使を以て京をも支配していたが、無力化していたものの、天皇なる権威者だって存在していた。京都の住人は特権的に、現実の権力とは別の権威が存在しているという奇妙な感覚をもつことが出来た。古代から中世にかけて、王法/天皇権力と仏法/仏教権威は両輪と云われていた。権力と宗教権威が両輪の如く均衡してこそ現世が巧く治まるとの謂いだ。そして南北朝期を経て久しく十六世紀ともなれば、将軍・戦国大名こそが現世の権力/王法となり、天皇の機能は権威の源泉であることに限定されるが、それでも一応、表面上は尊重されていた。こうした状況を目の当たりにしていた僧侶を含む京都の住人からすれば、自分たちを実際に拘束し支配している将軍・大名権力を、唯一掣肘できる存在があるとすれば、天皇だけであっただろう。此の状況は、将軍・大名の権力に対し不満があれば、天皇に【良心】を期待してしまう勘違いの温床たり得る。
 実際の高僧には皇族も多いわけだが、大刹名山の住職だったり門跡だったりして一般に、自由に説教して回る立場にはない。民衆の親近感が届く相手ではない。その中で一休は例外的に庶民の人気を集めた高僧だ。紫野大徳寺の住職となったのは八十歳ぐらいの時であって、壮年まで市中を徘徊していた。
 現実の権力へ対抗する良心を期待する相手として、天皇の落胤たる高僧は、如何にも相応しい。戒律の本質を教えず、教条主義を以て信者を罪し脅し上げ、喜捨を強い祈祷を願わせる眼前の僧侶に対抗する者として、天皇の落胤たる高僧は、如何にも相応しい。元より一休は、偽悪を以て戒律の本質を語る逆説上手だ。例えば、不邪淫戒は性/生への指向を肯定した上にこそ立っている、と論断する知性と勇気をもっていた。戒律/眼前の権力を、本質/権力の源泉/権威/正当な良心により否定し得る一休には、天皇落胤説が、如何にも似合うのだ。
 


 八犬伝も、後小松帝落胤説を紹介している。正当な良心を期待される天皇の落胤として一休は、社会的良心を象徴する画虎を使い、自由濫望なる現実の権力である放蕩大御所足利義政を戒める。
 


 ところで、八犬伝に於ける足利義政と一休の対決を、徳川将軍に対する天皇の優位性を主張するためだとし、大御所義政と大御所家斉を重ね合わせる論者もあるか。
 なるほど、天保七年の第九輯下帙之上付言で馬琴は、「是より下にも尚物語多かれば亦復十巻を両箇に釐て下帙の中、下帙の下として明年二度に続出すべし」と書いている。即ち、此の段階で馬琴は、百四十五回辺りに大団円を置くよう考えていたようだ。しかし実際には百八十回を超えている。四十回近くも膨張している。あと二十回で終わると云っておきながら、六十回を費やしたのだから、物語が三倍に膨れている。京都での物語は当初から馬琴の腹案にあったとはいえ、何か想定外の物語を付け足したと考えたくもなる。第百三十二回に犬江親兵衛が京都へ修学旅行へ出掛け、第百五十回辺りで安房に帰ってくる。二十回ばかり費やしている。出発時には、結局は第百五十五回見当であった。
 


 親兵衛第一次上洛が始まる第九輯下帙中巻簡端贅言は天保八年八月二十六日付である。一休が登場する第百四十九回は第九輯下帙之下乙号上套の巻之二十九簡端或説贅弁は天保十年三月二十八日付だ。そして、徳川家斉が将軍から退き大御所となったのは、大坂で大塩平八郎が乱を起こした二カ月後の天保八年四月である。家斉は数えで六十五歳であった。新将軍家慶は四十五歳、新たな将軍世継家定は十四歳。現代の歴史名辞として大御所時代といえば、寛政の改革を主導した松平定信の影響が薄らいだ文政年間から、家斉の卒した天保十二年閏一月頃までの三十年ばかりを指すのだが、コンテンポラリィには天保八年四月まで家斉は将軍であって大御所ではなかった。
 家斉が大御所になって馬琴が一休の登場する巻を書き上げる迄、ほぼ二年が経過している。元からの構想に一休登場譚を接ぎ木するには十分な時間があったと云える。但し、八犬伝に於いて大御所足利義政が奢侈に流れ幕府財政を困窮させていることは、第百三十二回、第百三十五回に記されている。ってぇか義政の奢侈もしくは非政治的態度が室町幕府の滅びる原因になったことなぞ、新井白石の読史余論でも指摘されている所であって、謂はば馬琴時代の常識であったろう。
 


 親兵衛の上洛は以前からの腹稿だったのだから、徳川家斉が大御所となる前からの既定路線であった。また、徳川家斉が大御所となった四カ月後の天保八年八月段階までに馬琴は、親兵衛が赴き新たな舞台となる京都に、暗愚な大御所が存在していることを明記している。更に云えば、実のところ足利義政は宝徳元年から文明五年まで将軍職にあったが、五十五歳となった延徳二年に死ぬまで大御所として影響力を保持した。八犬伝では犬塚番作さんが登場したとき既に「常徳院足利義尚公将軍たりし寛正文明の間」{第十五回}であった。実は義政は文明五年まで将軍職にあったわけだが、此れは馬琴の錯誤か。とにかく八犬伝に於いては、番作さんが登場したとき、既に義政は大御所となっているのだ。長禄二年に里見義実が隠居し義成に家督を譲ったとき、京都の足利義政が将軍として裁許している{第九十七回}。馬琴の脳内では、此の数年後には義政が義尚に将軍職を譲り大御所になっていることになる。八犬伝物語が大きく動く文明年間、義政は大御所であり続けた。更に里見義実の二年後、延徳二年に死ぬまで大御所だった。結局、義実が生きているうちに親兵衛が上洛すれば、登場させるか否かは別として、京都には大御所義政がいたのだ。
 


 尤も、細川政元は当初から親兵衛の敵役として想定されていただろう。彼は少年期、政争に巻き込まれて丹波に拉致監禁され里見義通の如く辱められた体験を有するが、まだ二十歳前で管領に就任していなかったにも拘わらず、八犬伝では変態管領として暗躍し、親兵衛を監禁し肉体を求めている。二十歳前だからウケで通用する筈だが、親兵衛を夜毎に愛し手馴づけ忠臣に仕立て上げようとしていた。「他は武勇と表裏にて女にして見まほしき美少年なるものを、■ニンベンに尚/我臥房の友と做さば、恩愛是より濃にて年闌ずとも我股肱の家臣にならまく願ふべし、我は愛宕の行者にあなれば敢女色に親しまず、男色も亦今までは然ばかり掛念せざりしかども、只是他が与ならば、多年の行法空になるとも、惜むに足らず悔もせじ、艶簡をや遣らん、媒妁をもて、思ふ心を知せん歟、否、それよりもうちつけに口説てこそ」{第百四十回}である。明らかに政元は親兵衛を、性欲の対象、陵辱すべき獲物として見詰めている。こうなることは既に代四郎は予測していた。「京師は殊に男色の行はるゝこと女色に勝れり、且政元主は夙くより稍地に外法を行ふ故に正室側室あることなし、と予聞けども、弘法以降、竜陽調戯は法師すら許すといへば、木犀花をのみ政元主も忌ざるべし」{第百三十九回}。そして第百四十一回、うるわしの稚児が登場し、竹林巽が於兎子から男色疑惑を受ける。八犬伝は如何やら男色に対し否定的だ。但し、善玉ながら親兵衛を強姦しようとした枝独鈷素手吉の存在から、さほど責めるべき悪ではないことも明らかだ。政元の悪は、権を弄んだ点に求められる。だいたい史実を無視して政元を中年っぽく描き管領に就任させている馬琴は、兎に角、親兵衛と政元を対立させたかったに違いない。其れは恐らく、安房里見家との対称であろう。細川家は阿波にも勢力を張っていた。安房が阿波から忌部を移して成立した国であることは、馬琴が八犬伝で云っていることだ。江戸の南東に当たる安房には仁君里見家がおり、京の南西に当たる阿波には権を弄ぶ細川政元が勢力を及ぼしていた。里見家と政元は、同じくアハに拠り、且つ、親兵衛を軸に対称している。安房産の神馬青海波は、阿波産の龍馬走帆に変換されている。里見家を裏返せば、政元となる。だからこそ政元は、本来なら未だ紅顔の年頃、男色といってもウケさえ似合う年頃のうち、実際には就任していない管領に無理遣り就けられ、且つ美少年を弄ぶバリタチなオッサンを演じさせられているのだ。アハの縁で政元が悪役に設定されているのならば、親兵衛の上洛が以前からの構想にあったとするならば、天保七年より早い段階で、其れは決定していたのだろう。
 


 しかし八犬伝の直接的表記に於いて、足利義政が悪役として引っ張り出される事が明らかになるのは、第百三十二回、義政が暗愚であることを八犬伝が初めて表記した時点である。暗愚と明らかにしたとき、何等かの形で義政に筆誅を加える方針は固まっていたと思しい。確定出来ることは此処までである。
 細川政元が悪役と設定されたとき、既に義政も同時いや其れ以前に悪役と設定されていたとも考えられる。政元は将軍ではなく管領として八犬伝に登場する。そして「アワ」をキーワードに里見家と対称となる。しかし里見家は、新田流徳川将軍家の虚花である。本来なら将軍と対称となるべきなのだ。関東では古河公方と対称である。足利将軍家と対称となってよい。だとすれば当然、足利幕府の暗愚なる大御所/義政は、安房里見家の仁義篤い大御所/義実と対称たり得る。細川政元と犬江親兵衛は、義政と義実の対称性により、謂はば代理戦争を行っているのだ。
 抑も親兵衛自身は変態管領細川政元と対決するに留まる。義政を直接に詰ったり犯したり出来る筈がない。足利家は一応、天皇から大政を委任されている。里見家は徳川将軍家の虚花であり天皇と隠微に直接な関係を結ぶに至るが、親兵衛は里見家臣に過ぎない。流石に前職とはいえ【将軍】を叱責したりしてはマヅイ。将軍を叱責するとなれば、里見義実・義成を叱責するに等しいからだ。しかし足利義政が暗愚である以上、親兵衛以外の者を通じてでも筆誅を加える必要がある。本来なら里見義実が直接に京へ出向いて義政を詰るなり泣こうが喚こうが構わずグッチャングッチャンに陵辱したって良いだろう。しかし、義実が実際に出向くわけにもいくまい。そこで、後土御門帝でも誰でもなく、俗世の権力ラインから逸脱し、しかも既に尸解しており人間ですらない一休を登場させ、暗愚なくせに制度上は権力の頂点にある足利義政を【穏便】に叱責させたと考える方が素直な解釈となる。結論として、徳川家斉が大御所になる以前、既に「大御所」足利義政が悪役に設定されていたと考える方が、順当であろう。
 


 但し、大御所/元将軍を叱責する一休が、後小松帝の落胤であるとの設定は、無意味とも思えない。確かに、無力であるが故にマダシモ人様に迷惑を掛け得ない天皇の方に、より多く良心を期待すること自体は、ありがちだ。八犬伝解釈に於いて一休を天皇なる者と置換することは、或いは可能だ。しかし、あくまで八犬伝で理想的な支配者として描かれている者は里見家であり、里見家は徳川将軍家の虚花である。一休を天皇と置換したとしても、一休天皇は理想的な支配者としては描かれておらず、大政を委任した相手/足利将軍家が誤った場合、叱責し矯正しようとするに留まる。しかも一休天皇は、八犬伝に於いて尸解している。実存していない。霊的な存在なのである。尸解とは、既に死んだ筈であるのに、時に応じて世に現れ人々を感化する存在だ。八犬伝が一休を隠微に天皇と置換しているとすれば、天皇とは常時死に体であって、大政委任を受けた現職の権力者が誤った場合にのみ立ち現れて叱責し、最大限には罷免し、他の者に改めて大政を委任し、再び宮中奥深くで死に体となる、存在であろう。八犬伝が天皇親政を望んでいたとは、決して思えない。如斯き八犬伝を有ちながら、何故に日本は天皇絶対親政という間違った道を歩み、元も子もなくす結果に陥ったのか。何故に天皇を宮中の奥深くに匿い続けなかったのか……。
 


 ついでに此処で、何故に八犬伝がズルズルと延長され百八十有余回にまで書き続けられたかを簡単に考えてみる。馬琴は天保八年八月二十六日付の第九輯下帙中巻第十九簡端贅言で「憶ずも一百四五十回の長物語に做りにけり」と、天保七年に第九輯下帙之上付言で示した、結局が百二十五回+十巻/百四十五回見当であるとの姿勢を崩していない。第九輯下帙中巻は犬江親兵衛が京都に到着したところで終わる。言い換えれば、既に天保七年段階、親兵衛が上洛することが確定していたと思しい。馬琴は此処まで予定を変更する気がなかったのだ。しかし、最終となるべき続巻は「第九輯下帙之下甲号」となる。末尾に「作者云。是よりの下、犬江親兵衛が虎を退治の段までは、又意思楮筆を費して十数頁綴るにあらねば其域に至りかたかり。既に佳境に入らまくすなる、こゝに其段に及ざりしは作者の本意ならねども、開板の書肆に定例ありて前板より楮数の多かるを厭るれば、這五巻を下帙の下の甲として則上梓発販すと云。書肆の好に儘したり。余巻結局、続て出べし。予水滸の顰に做ふて皇国にはなき虎をしも出す者三たび也(所謂傾城水滸伝・新編金瓶梅及本伝是己)。趣向孰も異にして相犯す事なからん歟。看官先是を査しね」{第百四十五回}とあり、次巻で結局に至ると宣言している。次回刊行分を五巻十回と考えていたなら、大団円は百五十五回見当である。天保七年に示した予定と大きくは違わない。
 しかし天保十年三月二十八日付の第九輯之二十九簡端或説贅弁で馬琴は、第百三十一回に於いて里見家に八犬士全員が揃った点で大団円を迎えるべきだったとの批評に対し、「京師の事を説く十数回は是始よりの腹稿なり……中略……八犬士倶に安房に到りて里見の家臣になるのみにて犬江親兵衛を除くの外七犬士皆一介の功なくは是尸位素■サンズイに食/の人なるべし。犬士等かくの如くにして可ならんか。且京師の話説微りせば俗に云田舎芝居に似て始より説く所、東八州の事に過ぎず。然では話説広からで大部の物の本に足ざる所あり」としている。即ち、第九輯下帙中編を書き終えた天保八年八月二十六日以前迄に、親兵衛の上洛は決まっており、且つ他七犬士の活躍場面も構想されていたことになる。
 続けて馬琴は、「水滸伝百二十回は羅貫中が一筆なるに疑ひなし。然るを又彼金瑞は七十回以下を誣て続水滸伝として反て酷く■ゴンベンに山/りたり。他が如きは水滸の皮肉を知れるのみ、骨髄を得たる者にあらず。然ば有人の臆断に本伝百三十一回を団円にせば宜しからむといひしと又金瑞が水滸七十回を強て結局にしたると日を同くして論ずべし。そも吾惷寿桑楡の暮景に至るをもて看官なべて本伝の結局をいそぐ故にこそありけめ。予もいそがざるにあらねども腹稿尚余りあるを芟遣捨んはさすがにてこの九輯下帙の下乙編十巻を分巻十五冊にして稍大団円に至る者なり」と突如、第九輯下帙之下乙号は十五冊になると宣言する。続く目録で「本輯下帙の下、所云下套の乙号編は五巻にていまだ足らず。因て十巻にして局を結べり。この内、中巻の三十一と三十四五六は楮数いと多かり。こゝをもて釐て上下各二冊とす。共に是十五冊なり。其十五冊の中五冊、夙く彫果るを先出せり。右の第百五十三回以下も必続て出すと云。看官亦復僂待つべし」{同套目録}。
 此処で初めて馬琴は第百八十勝回下編大団円までの荒削りな下書きを完成させていたと解る。第百五十三回を書き上げ、あと三十回ほどで結局を迎えると予告し、如何にか実現した。即ち馬琴は、天保八年八月段階、予め温めていた京師の物語と親兵衛を除く七犬士活躍の場面も書いた上で、結局を百五十五回辺りに設定していた。七犬士の活躍場面とは、一人一人を詳述する余裕はないから、纏めて南関東大戦に投入し概略を記す積もりだったのだろう。天保九年段階、第百四十五回を書き上げた時には、大きな変更は予定していなかった。あと十回ほどで終える積もりだった。それが天保十年、第百五十三回を書き上げた時点では、「結局は、あと三十回ほどになる」と宣言し直した。また、第九輯巻之二十九簡端或説贅弁に続き九輯巻之三十六簡端附言でも金聖歎が水滸伝を七十回で切ったことに不満がましく言及している。如何やら第百五十三回を書き上げた時点で、あと三十回分ほどの構想もしくは下書きを完成させたと思しいのだが、其れは即ち、南関東大戦の記述でしかあり得ない。裏返せば、馬琴は当初、八犬士の里見家参集で話を終える積もりはなく南関東大戦まで記述し恐らくは八犬士の仙化まで書き続ける積もりであったが、現行のものより遙かに簡略な形を想定していたのだ。増松なんて活躍する余地はなかっただろう。
 此の辺りで馬琴は、百二十回の水滸伝を七十回で切った金聖歎を非難する。直接には第百三十一回の八犬士総見参で話を終えた方が良かったという批評に対する反論として持ち出した話だ。梁山泊に百八好漢が結集する段で済ませた金聖歎を非難する馬琴が、八犬士全員が里見家に参集することで話を終えるわけにはいかない。百二十回本水滸伝で主立った好漢が次々殺されたり自然死したり隠遁したり国外に出て行ったりして姿を消し宋への絶望感が漂うように、馬琴は八犬伝で犬士が姿を消し里見家に対する絶望感が漂うところまで書き続けなければならなかった。だが、しかし、小姓や武将同士のアレなら別だが、戦争描写に男女間の色恋が挿入される余地はない。切った張ったと単調になりがちだ。だから馬琴も簡略に済ませようとしたに違いない。何たって百四十五回まで書いた時点で、あと十回程度で南関東大戦や犬士の消滅まで書き上げようとしていたのだから。
 しかし恐らく馬琴は、羅漢中が水滸伝で七十回までの因果を百二十回までかけて説明したと解釈していた。其れが稗史の完成型だと信じた。第百三十一回で八犬伝を閉じなかった理由は、犬士の因果を説明・確認するためであった。犬士の多くは、因縁ある武将と対戦し打ち破っていった{同時に親兵衛の第一次上洛は親兵衛が大八……ではなかった代八車よろしく一人で八人分の因果に決着を付け、且つ独りで戦った八百比丘尼妙椿との因縁を決着させるために行ったのだと知れる}。しかし、それを十回や二十回で書けば、簡略に過ぎて説明臭くなり文学としては劣等となる。結局、馬琴は、犬士たちの因果に文学的な決着をつけさせるため、当初の予定を大きく引き延ばし、百八十有余回もの超大作にしてしまったのではないか。七十回を百二十回にするなら七割増しだが、百三十回を百八十回にするなら四割増しに過ぎない。水滸伝を七十回で切った金聖歎を非難し百二十回まで書き続け因果に決着をつけた羅貫中を是とするならば、八犬伝百三十一回までの因縁を十回や其処等で書き飛ばして良いものか。元より自分への批判に敏感な馬琴のことだ。第百三十一回までで良いよ、と無責任に批評する知人に対し、金聖歎を持ち出して熱く反論するうち、自縄自縛、八犬伝も百五十五回見当で終えることが出来なくなったのではないか。まぁ、御蔭で、現代の我々は、より佳い八犬伝を読めるわけだ。例えば、洲崎沖海戦に於ける増松の活躍が省略されていたら、アテズッポウのレベルを脱して、親兵衛と山林房八の関係を確定することなぞ全く不可能となっていただろう。
{お粗末様}

 

 

 

 
 

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