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信濃宮伝
延元元年の冬主上(後醍醐天皇)にいひて都を出させたまひ楠正成か一族なと召具し吉野山に入らせまし/\ける一品宮は(後醍醐天皇第三皇子御母は贈従二位藤原為子権大納言為世卿の女也始は妙法院へ御入室有て一品法親王尊隆と申ける天皇隠岐国へ遷幸の時讃岐の宅間へ移されさせたまひける元弘三年御帰京後に御還俗ありて宗良親王と称せし一品中務卿に任し征東将軍に補して東国にまし/\ける信濃宮と申又は上野宮とも称しける始遠江にもまし/\けれは伊井の谷宮とも申ける)井伊遠江介道政に具されさせまし/\て近江国井山の浜より御舟にめされ美濃路を過らせたまひて尾張国犬山といふ所へ渡らせまし/\ける(犬山は宮の御領也)かゝりし程に同国中島の堀田修理亮之(元カ)盛(一作正盛)海部の大橋三河守定高等参り集り遠江国へ送りまいらせける井伊介道政かひ/\しく御供つかうまつりて己か領内奥山の城に入奉り新介高顕をして国中の親族に触て招集けるほどに秋葉の天野一党をはしめ奥山乾二俣入野等の兵われも/\と参りける当国の守護今川五郎国範軍を率して攻まいらせけれ共御方度々勝利を得て御勢もいやましに付にけり同二年の冬鎮守府将軍顕家新田徳寿丸なと数万の軍を以て鎌倉を攻破りし(左馬頭教詮逃亡せり)三年正月顕家宮を具し奉りて許多の兵を率ひ上洛せられける尾張国熱田社へ奉幣の御事有しに大宮司昌能侍加りて軍兵を添まいらせける美濃国の住人堀口美濃守貞満を御路志るへとして黒血川まて上らせたまひける所に高師泰桃井直常等大軍を備へて支へ戦ひしかは御方利を失ひて多は散失ける宮は伊勢国へわたらせまし/\けるか又安濃の雲出川に凶徒等待請奉りて打留まいらせんとひしめきけれ共御方の兵打破伊賀路を経て芳野に入せまし/\ける其五月宮々東国に御下向あるへきとて伊勢国より御船を出しけり海中にて風あらく御船とも方々へ吹付にせられまし/\ける(陸奥大守の御船は伊勢国篠島といふ所へ吹還し奉りしかは芳野へかへらせまし/\けるか幾程なく帝位を践せ給ひける後村上院是也)北畠親房卿の船は常陸国内海浦につきぬ一品宮と西応寺宮との御船は遠江国白羽の湊に漂ひ着せまし/\て匹馬の宿より井伊谷へ入給ひけるに今川か手者共相支へて散々に射けるされとも相模左馬頭時行等馳合せて敵を四方へ追散し重て井伊の城へ入らせ奉りける井伊高顕天野乾奥山等二心なく迎へ参らせけれ共御方勢少かりしかは三河国足助の城(足助重春か居城也)え移し奉るへきよし議せられしか駿河の国に興良親王(宗良御子)兼てよりおはしまして御方仕る者も多きと聞し召されけれは彼国へそ下らせまし/\ける狩野介興家を始入江蒲原富士宇津峯の兵とも仰き奉りて志はし御心安くそ御座ありけり四年八月甲斐国白淵を過りて信濃国諏訪へ入らせたまひける高坂四郎高宗無二の忠を尽して渋谷の一族並に上松の者共を招集ける(今年八月十六日天皇崩御後村上院即位)興国三年北方の御方宮を迎奉るへきよし申けれはひそかに越中国石黒か名子の家に入せたまふ其冬宮常陸国小田城に遷らせまし/\けるはる日中将顕時(親房連枝持房の孫持定の男なり)一条少将具信唐橋修理亮(或は越後守といふ)等供奉す(此時奥州の宮方伊達宮内少輔行朝石川石橋河村田村南部滴石等一味し斯波岩手両郡へ攻入り■クサカンムリに稗/貫出羽守をうちとると云々)五年三月佐竹結城相馬小田の城に寄来る顕時具信を初小田治久以下防き戦ふ大将結城直朝其外佐竹か一族等多亡ひうせにきかゝりしかは鎌倉より高三河守発向し方穂庄に至り三村山に陣をとる御方遮りて戦しかは賊千余人打れて師冬引退きける七月武蔵国吉見彦三郎頼武軍士を率て御方に参りぬ又陸奥の白川結城親朝日比忠義を励しけれは修理太夫に任すへき由令旨賜りける師冬帥を進めて責来りしか小田の一族宍戸田野等命を捨て戦ひしかは北郡新城の戦に打まけて駒楯の城へ引退く御方頓て追ひ打て師冬か陣所を焼払ひけるされ共長治忽心変し小田少将治久と共に師冬に与し敵となりしかは御方の軍兵も心々に見へし親房顕時具信秀仲等宮を奉して関の城に移し入奉りける其後身やひそかに顕時を具し給ひて下妻の城に御座を遷さる十一月師冬小田佐竹を催し村山の庄に着陣し関城を攻む一手は大室の城の北守山におしよせ一手は三戸七郎大将として大平高橋等数百騎を率し城の南長峰に陣しける顕時具信軍を進て打出戦あり信遠両州の兵共御方に参りてやかて凶徒を追退けゝる村田の庄四条駿河守長子因幡守は敵におしへたてられて散り/\に成にける六年宮は越中国へ渡らせまし/\て明る年のはる信濃へ帰らせ給ふ此間結城親朝等そむき奉りて師冬に与しける正平四年上野国新田庄寺尾城を築きて宮を居参らせける程に近国の者共多く参りぬ七年新田左兵衛佐義興武蔵守義宗左衛門佐義治大江田式部大輔氏経等と議し義兵を起し大軍を率して宮を奉し武蔵国に打出足利尊氏と所々に戦ひける一戦に御方打勝しかは頓て鎌倉をも攻略して基氏を追出し御方入替りける義宗か尊氏を追打へしとて宮を大将軍になし奉り信濃国碓氷峠にて大に戦ひしに数万の敵横はりて御方多く討れけり御軍志きりに危かりしかは宮をは義宗はかりて世良田修理進親季等に託し士卒を添まいらせて信州諏訪へ送らせ奉り義宗は越後国へ遁れて時を伺ひける宮の御子興良親王は近年遠江国秋葉山に隠れまし/\けるか今川志きりに害心を企て打取まいらすへしとてよせ来りけれは秋葉城主天野周防守景顕無勢にして力なく君の御命をたすけ奉るへき為はかりに一旦降人となり親王をは擒のことくにして自御供つかうまつり都に上り三条大納言為定の館に入まいらせける扨こそつゝかなく渡らせまし/\ける一品の宮は十余年の春秋を上野信濃の間に送りむかへさせ給ひ正平廿四年の夏民部卿光資を信濃に留置給ひて尾張国犬山へ出させまし/\同し国羽豆崎より御船にめされ伊勢路を経て芳野に御上りあり故院(後村上院正平廿四年三月崩御)の御墓に参らせ給ひ御仏事なと執行はせまし/\ける同し冬信濃へ下らせ給ふ文中三年九月興良王北京にてかくれさせ給ひける其冬宮は又芳野へまいり給ふ(後亀山院の行宮にて千首の和歌を奏せまし/\けるとかや)天授三年の冬信濃へ御下向の時和州長谷寺にて御飾を落させ給ひし信濃の宮方皆背き奉りて高坂か外は頼ましますへき者なかりしほとに五年芳野に遁れ入らせまし/\それより河内国山田庄に御閑居ありける弘和元年十二月新葉集を撰ひて奏せ給ひける其後重て遠江国に下り有て終に井伊谷にて隠れさせ給ふ御年七十三と聞へし方広寺の無文和尚(宮の御弟)御葬送の事なと執行はせ給ひける冷范(ママ)寺殿と申せしは此宮の御事なり御子尹良親王(始は南都に事へ給ひける或記に正二位権中納言といふ)井伊介道政か女の腹に生れさせたまひしかは始は遠江国にまし/\けるか正平の比上野国へ移らせまし/\天授五年によしのへ上らせたまひて二品親王の宣下を蒙らせたまひぬ主上北朝と御合体の後も猶南方に隠れ留せたまひしか応永四年二月伊勢国へ出させたまひそれより駿河国富士谷宇津峰へ移り田貫左京亮か家へ入らせたまひける東国の宮の御子にてまし/\けれは彼方さまの残卒もあまたつき従ひまひらせける東国の宮の御子にてまし/\けれは彼方さまの残卒もあまたつき従ひまひらせける(宇津峯宮と称し又田貫の長者と号す)七年正月遠江駿河なとの兵を召つれさせまし/\て上野国新田の庄寺尾郷へ移らせたまふ其折から所々の武士等支へ奉りて爰かしこにて御軍ありけり(富七合戦白淵合戦)十年四月御方一方の大将とも頼たまひける新田相模守義隆(義治の男一作義則)富士の戦ひに打まけし後は相模国山中木賀彦六入道秀澄か在所に隠れて時を伺れしに秀澄いつしか心変りし鎌倉にかくと告志らせけれは管領より安藤隼人佐重基を打手に向はせける秀澄義隆を欺て底倉の温湯に入れあへなく殺害しけるほとに宮は世良田右京亮有親等に具せられさせたまひて急に寺尾を御発きあり下野国に妙福院宮まし/\けれは落合の城に御座を移されけれはり信濃国諏訪の千野頼憲か島崎城に遁れさせまし/\ける桃井大膳亮満昌堀田尾張守正重大橋修理亮貞元平野主水正業忠天野民部少輔遠幹等旧功者共百余騎供奉して高崎安中碓氷等の敵を衝てやう/\に信濃に入らせたまひける三十一年四月後亀山院太上天皇山城の嵯峨に崩御ありしかは御子小倉宮は伊勢国へ忍ひて御下りありけりとなん其八月宮は三河国足助へ移らせたまふへしとて諏訪より伊奈路へかゝり出させ給ひしに飯田太郎駒場小二郎伊奈四郎右衛門等二百余騎にて待請まいらせ並合の北の山の麓大河原にて散々に支へ留奉りける御方にも八拾余騎命をおしますふせき戦ひ飯田伊奈を始め十二三人打取けるされとも敵大勢とりまきて世良田大炊助義秋を始羽河安芸守景庸熊谷弥三郎直近等以下二拾五人討れけれは宮はとてもかくても遁れさせ給まはぬ御運を志ろしめし御子良王主を二心なき武士共に託し三河国へつゝがなく送り入れまいらせよと御はからひ有て大河原の在家へ入らせ給ひて火を放て御自害ありし爰にて義に徇ひ奉りし者又多かりし明の日聖光寺の僧御死骸を尋出し奉りけるとかや御法号を大龍寺殿と称せし此時妙福院宮も信濃より美濃へ移らせたまひしか可児の錦織辺にてとらへられさせ給ひしとなん扨良王主は三河国設楽郡作手の正行寺といふ所へ残卒等御供申てふかく隠せしを聞つけまいらせ打取へしとて国兵を催すよし聞へけれは其年十二月尾張国明知山を経て海部郡門間庄対馬大橋三河守貞省か奴野城pへひそかに移しまいらせ横江一党と一味して守り奉りけるとそ葬送の後瑞泉寺殿と号せしとかや(良王主の御弟良新は津島の神主家となり給へし○王主御子を神王丸と称す大橋貞元か女を妾とし男子生すこれ大橋中務少輔貞広なり)応永三十一年甲辰八月十五日信濃国伊奈郡並合合戦同年三河へ入し諸家は皆宇津峰の宮方の兵士也
……後略

浪合記
前略……
同{応永}五年ノ春宇津野を出御アリテ上野国ニ赴キ給フニ鎌倉ノ兵共宮ヲ襲奉ル十二郷ノ兵柏坂ニテ防戦フ尹良ハ越後守カ館丸山ニ入給ヲ桃井和泉守四家七党守護シ奉ル敵数館ヲ取巻テ攻ケレ共宮方四方ヨリ起テ鈴木ニ加勢ノ兵多カリシ和泉守丸山ヲ出テ鎌倉ノ大将上杉三郎重方島崎大炊亮カ陣ニ懸テ主従百五十騎上杉カ備タル真中ヘ切テ掛ル上杉カ兵五千余騎桃井ニ追立ラル上杉カ郎等長野安房守モ討レ兵共戦疲レテ引退ク和泉守追討テ往ヲ島崎ハ桃井カ追往其跡ヲ取切レト備ヲ右ニナス桃井是ヲ見テ我勢ヲ二手ニナシ一手ヲ島崎カ三百騎ニ指向残ル勢ヲ以テ上杉追大橋岡本堀田平野天野都合三百騎島崎ニ向テ戦ケル島崎モ前後ヲ取巻レテハ悪カリナントヤ思ケン勢ヲ段々ニ引テ一騎モ討レス山浪迄引ニケル上杉ハ二百余騎討レ其夜ハ上一色ニ陣ス桃井モ勢を引テ皈ル井出弾正少弼越後守ニ語曰新田ノ一族ノ御働珍シカラス候ヘ共今日ノ御合戦某ヲ始十二郷ノ兵共目ヲヲトロカシ候ト云鈴木云ク老テハ何事ヲ申モ御赦免ヲ蒙リ申ニテ候大事ノ前ノ小事ニテ候君ノ御供ニテ候ヘハ必道スカラ御合戦ニ危御働ハ御無用トコソ覚ヘ候今日ノ御合戦モ長追ニテ候ヒシト云貞誠曰鈴木殿ノ仰肝ニ入候君ノ御供申ニ合戦ハ無益ニテ候ヘトモ鎌倉ノ者トモ桃井カ供奉ニテ候ニ何ノ沙汰ナシト存ル所モ無念ニ存其上迯ルカ面白サニ追候ヒシト笑々語クル鈴木モ路次ノ警固ノタメニ宇津越中守下方三郎鈴木左京高橋太郎此ノ四人二百八十騎ヲサシ添テ送リ奉ケル尹良ハ丸山ヨリ甲斐国ヘ入給フ武田右馬助信長我館ニ入レ奉テ数日御滞留有リ八月十三日上野国寺尾ノ城ニ移セマシマス新田世良田其外ノ一族寺尾ノ城ニ馳集ル同十九年四月二十日上杉憲定兵ヲ上野寺尾ニ発シ世良田太郎左衛門尉政親ヲ攻政親ハ戦数回ノ後疵ヲ蒙今ハイカニモ叶マシト覚ヘケレハ長楽寺ニ入テ自害ス法名俊山ト号ス二郎三郎親氏勇力ヲ励シ敵陣ヲ切リステ新田ニ赴ク同六月七日木加彦六左衛門尉入道秀澄カ兵二十五騎ヲ農人ニ出立セ新田相模守義則底倉ニ蟄居セシヲ夜ニマキレ彦六カ兵新田カ家ヲ取巻時ノ声ヲ上ケ義則進ミ出戦疲レテ終ニ討死セリ同二十三年八月十五日名月ニ事寄セテ上杉入道禅秀鎌倉ノ新御堂満隆ヘ行キ謀叛ヲ勧メ廻文ヲ以テ武蔵上野下野ニ触レニケル新田世良田千葉岩松小田等ノ一族時ヲ待ケル兵共思々ンイ旗ヲ挙ル桃井宗綱禅秀ニ加テ鎌倉ヲ攻メテ江戸近江守ヲ国清寺ニテ討取リヌ宗綱軈テ近江守カ首ヲ武蔵国旧郡矢口村川端ニ梟シ高札ヲ立ツ

 今度攻相州鎌倉於国清寺討捕江戸近江守奉為 新田義興主仍如件
  応永廿三年丙申十月十日 桃井右京亮源宗綱

トソ書ニケリ近江守ハ義興ヲ矢口ノ渡ニテ船ノノミヲ抜テ河ニ溺ラシ殺シケル江戸遠江守カ子ナリ
……後略
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