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■隣尾判官の発言を廻る若干の問題点■

 隣尾判官は、自己紹介しつつ里見家との因縁を述べ、更に親兵衛らへ感状を与えようとした。其の時の発話は以下の通りである。

 「烏滸の旧話に似たれども、我曽祖渥美の郡領隣尾大夫信近は、南朝の忠臣にて、将軍の宮宗尊親王、遠江なる井の城に御坐しし時、無二のおん身方也ければ、新田里見の人々と然しも旧交なきにあらず、しかるに南北両朝廷御和親の後、已ことを得ず足利家に随従して本領安堵の今に至れり、然れば今日各に料らずも対面は有繋に昔を偲れて空谷跫音の思ひあり、いかで我各へ感状を餽らまく欲す、他家の臣子へ然る賞書を取らするは無礼なれども、旧好あれば饒れやせん、後の証据になりぬべし」{第百三十四回}。

 しかし此の発言には問題がある。

 いや別に、「将軍の宮宗尊親王」が問題だと殊更に言い募る積もりはない。宗尊親王は確かに征夷大将軍であったから「将軍の宮」なんだけれども、単に馬琴の記憶違いか、典拠とした文書の誤記に過ぎない。正しくは恐らく「宗良親王」だ。「宗尊親王」は鎌倉幕府の第六代将軍である。

 鎌倉幕府の源家将軍は三代で途絶え、北条執権家の都合で四代・五代目の将軍位は摂関家にシフト、後嵯峨上皇の都合が混淆したため、六代目鎌倉将軍として迎えられた親王こそ、宗尊である。宗尊は十三世紀の有名人だ。それが十四世紀の南北朝動乱時代に登場したら、不自然だろう。誰でも気がつくケアレスミスだ。よって筆者が此処で殊更に指摘するまでもない。

 宗尊親王は後嵯峨帝の寵愛を受けていたが、母が受領層であったため皇位を嗣ぐ可能性は低かった。後嵯峨帝としては、親王の身を立てるため、新天地へ旅立たせた積もりだったのかもしれない。当時は北条執権家が幕府を牛耳っており、宗尊が武士に号令を下す体制ではなかった。宗尊は、和歌詠みに専念する。しかし或る日、北条家の都合で将軍位から引き摺り下ろされ、京都へと突っ返された。一応は謀叛の容疑であったが、和歌ぐらいしか能のない将軍の宮が、そんな大それたことをしでかす筈もない。恐らく北条家に対し、口答えでもしたんだろう。
 摂家将軍・親王将軍を通して、四代目から八代目までが事実上、北条執権家により解任された。唯一解任されなかった将軍は九代目の守邦親王だが、解任される前に幕府が滅亡しちゃっただけの話だ。滅亡後、辞任した。

 一方、恐らくは馬琴が表記しようとした「宗良親王」は、後醍醐帝の息子である。一応、征夷大将軍/将軍の宮だった。足利尊氏は南朝方に敗北し一時期、将軍職を解かれた。代わって就任したのが宗良親王であった。また親王は、通算半世紀近く遠江や信濃・上野などを転々としながら、北朝勢と戦い続けた。こう書くと、何やら武略に優れた猛将のイメージも湧こうが、実のところ、武人としての実力は不詳である。歌が巧く南朝準勅撰「新葉和歌集」を編したが、太平記{→▼関連部分抄}や信濃宮伝{→▼抄}など各種歴史物語{→▼関連史料抄}に於いて、戦場での活躍は表記されていない。何等かの奇策を立案したとか先頭に立って敵を蹴散らしたとかの、華々しい活躍は見えない。ただ、大将として名前が挙がっているだけだ。しかし数十年に亘って各地を転戦し、戦場での経験は積んでいたであろう。晩年近くになっても東国への出陣を命じられているから、傑出した武将ではないにせよ、一軍の足を引っ張るような無能の武将でもなかったようだ。恐らく、配下の部将が気兼ねなく戦う環境を整えられる、凡庸ではあるが気配りの出来る大将らしい大将だったのだろう。結論としては、【有能な大将】と云って良い。

 宗良のほか「将軍の宮」として有名な南北朝期の親王には、護良親王/大塔宮もいたが、馬琴にとって流石に此れは間違いようがないだろう。太平記の重要部分で主役を張った親王だ。「宗」の字に惹かれて、宗良とすべきなのに、同じく和歌の道に通じていた宗尊って文字列が、馬琴の脳裏に浮かんでしまったか。

 また更に云えば、南北朝期の「将軍の宮」には尊良親王もいる。尊良が一時期、遠江にいたとする情報もあるようだ。宗良と尊良、「良」は後醍醐帝皇子の通名だから省略し、二人合わせると「宗尊」になる、かもしれない。

 尊良も上将軍として各地で足利勢と戦ったが、南北朝期初頭、越前国金崎城で呆気なく自害した{建武四年三月}。尊良は後醍醐帝一の宮{普通に考えれば長男}だったけれども、皇太子には選ばれていない。大塔宮ほどの武名なく、宗良ほど歌の道でも評価されていない。何と云っても、若くして死んだ。恐らく凡庸な人物で、言うなれば惣領の甚六だったのだろう。しかし太平記に拠れば、最期の場面は、読者に紅涙を絞らせる。

     ◆
新田越後守義顕は一宮の御前に参つて、合戦のやう今はこれまでと覚え候ふわれ等力無く弓箭の名を惜しむ家にて候ふあひだ自害つかまつらんづるにて候ふ上様の御事はたとひ敵の中へ御出で候ふとも失ひまゐらするまでの事はよも候はじただかやうにて御座あるべしとこそ存じ候へ、と申されければ一宮いつよりも御快げにうち笑ませたまひて、主上帝都へ還幸成りし時われを以つて元首の将としなんぢを以つて股肱の臣たらしむそれ股肱無くして元首たもつ事をえんやさればわれ命を白刃の上に縮めて怨を黄泉のもとにむくはんと思ふなりそもそも自害をばいかやうにしたるがよきものぞ、と仰せられければ義顕感涙をおさへて、かやうにつかまつるものにて候ふ、と申しもはてず刀を抜いて逆手に取りなほし左の脇に突き立てて右の小脇のあばら骨二三枚懸けて掻き破り、その刀を抜いて宮の御前に差し置いて、うつぶしに成つてぞ死ににける。一宮やがてその刀を召され御覧ずるに柄口に血余りすべりければ御衣の袖にて刀の柄をきりきりと押し巻かせたまひて雪の如くなる御膚を顕し御むねの辺に突き立て義顕が枕の上に臥させたまふ。
     ◆

 尊良を押し立て戦い抜いた新田越後守顕義は、足利勢の猛攻に最早これ迄と自害を決意した。尊良には足利方への降参を勧める。しかし尊良は此れまで見せたこともないような朗らかな笑顔で、「自分は元首の将であり汝は股肱の臣、手足を喪って首だけ如何して生き延びられようか。共に黄泉へと下り、朝敵に怨を返そう。私も自害する」。
 此れだけなら、単に武張った皇子の潔い最期に過ぎないが、尊良は続けて無邪気に言い放った。「……ところで、自害って如何やんの?」。
 天皇の長男として傅かれたボンボンだから、自害なんて想定外だったのである。知らなくて当然だ。世が世であれば、和歌でも詠じて何不自由なく遊んで暮らした筈の皇子が、忠義の武士に寄り添って死のうというのだ。
 顕義の心中は如何であったか。こんな無邪気な皇子を守りきれなかった慙愧、全幅の信頼を受けていたとの誇りと喜びが、交錯しただろう。高ぶる心の侭に割腹した。顕義の血に塗れた刃を取り上げ、尊良は自分の胸に突き立てた。顕義に身を重ねて果てた。殆ど同性愛心中である。ちなみに此の時、里見大炊助時義も尊良の後を追って自刃している。
 尊良は凡庸の親王だが、顕義の愚直な忠節に対し、愚直な愛を以て応じた。天皇と皇子では立場が違うものの、次男坊のくせに皇統を我が物とする身勝手な野望を実現せんがため臣下を犠牲にしまくり消費続けた後醍醐帝とは対照的だ。臣下に寄り添い運命を共にしようとした尊良こそ、「惟聖罔念作狂。惟狂克念作聖」{書経・多方}とのフレーズが似合う。君主の器である。馬琴にも深い印象を残した親王であっただろう。「良」は後醍醐帝親王の通字であるから省略し、宗良・尊良の両親王を併せて「宗尊親王」と表記した、との疑いを筆者が抱く所以である。

 

 更に復た、筆者が問題視する点は、「いかで我各へ感状を餽らまく欲す、他家の臣子へ然る賞書を取らするは無礼なれども、旧好あれば饒れやせん」でもない。
 此の発言直後、姥雪与四郎が進み出て、他家から感状なんて貰える筈がないと、殊更に言い募る。単に音音が南関東大戦後、河堀殿から与えられた衣を故意に里見家から授かった衣の下に纏った事件と、同根である。親兵衛の保護者ではあるが、忠犬士/道節の眷属たる与四郎・音音夫婦ならではのエピソードである。且つ、石薬師堂で二人きりになった途端に秋篠将曹が舌で親兵衛を責め立て泣きじゃくらせたが、此のとき親兵衛は自分は飽くまで里見家臣であり同僚犬士への憚りもあって官位を勝手に受け取れない、と明言する。三人ともが似たような事をしているのだ。
 が、隣尾判官の言葉に隙はない。「失礼だとは解っているけれども」と予め断っている。「解ってはいるけれども、記念として感状を渡すぐらいは許されるだろう」と云っているのだ。分別を感じさせる。こんな常識人の申し出を普通なら断るべきではない。善玉である隣尾は当然、悪くないのだ。
 ってぇか、寧ろ与四郎の態度こそ、無礼だと云える。でも、与四郎が悪いとも、筆者には云えない。常識として隣尾判官の感状は受け取るべきだが、馬琴は敢えて受け取らせなかった。失礼に当たっても、道節の眷属として、忠を優先させただけの話だ。
 御本尊の忠犬士/道節だって、やや冷笑的な態度とも思える主君/里見義成への反論とか、動もすれば不忠に亘る恐れがある綱渡りをしている。八犬伝に於ける「忠」とは、如斯きものなのだ。忠とは自らの良心を貫くことであり、必ずしも主君の意思と関係ないことは、重耳の重臣たちを例に挙げ縷々述べてきた{栗鼠の頬袋など}。道節は、率直さ/バカさ/朴訥さによって、非礼に亘る君主への言動をも許容されている。別に君主でも何でもない隣尾判官へ無礼を働く与四郎は、其の率直さ/忠心ゆえに、許容さるべきだ。
 結局、八犬伝に於ける「忠」には幾種類かあって、確かに【主君に尽くす】ことも「忠」なのだが、道節の如く、里見義成/主君と意見が対立したとき、取り合えず自分の意見を優先してしまうことも「忠」の範疇なんである。勿論、道節の場合、単に馬鹿なだけで【悪気】は無い。主君が非常識で自分が正しいと勘違いして凝り固まっているだけの話だ。言い換えれば、「忠」とは自分の主観的「善」を、主君の意思を無視してまで貫くものなのだ。

 と此処まで書けば既に御解りであろう。八犬伝に於いて「主君に尽くす」なんてのは「忠」の枝葉末節に過ぎない。道節の「忠」は、元来の字義通り、【燃え盛る心の真ん中から滾り出す誠】ぐらいの内包なのだ。そして、如斯き火気犬士/道節の忠こそ、八犬伝に於ける【忠の本義】でなければならない。「燃え盛る心の真ん中から滾り出す誠」即ち積極的な真心の行動化である。場合によっては自分を可愛がってくれた旧主に尽くすことにより発露しようし、現在の主君に異論を申し立て命令を無視する場合もあろうし、また、盟友たちの暮らす敵地内の穂北に手を出さぬよう白石重勝に迫る{第百七十九回下}場合にも発揮される。道節の忠は、単に【唯々諾々と主君に従い尽くす】ものでは決して、ない。道節の忠とは即ち、真っ赤に燃える【誠】である。

 さて、隣尾判官と与四郎の対立は、隣尾判官側が大きな器量を以て包み込むことで、角が立たずに収拾している。兵卒/与四郎の実直さ可憐さと、武将/隣尾判官の器量。立場の差により真っ向勝負にはならず、巧く両立している。兵卒と大将では、抑も論理が違うのだ。互いに反発したとして、一方が悪で一方が善と、西洋流の如く単純に割り切れたりはしない。流石に【善悪流動性】を八犬伝の根底に据えた、馬琴の叙述らしい部分だ。これぞ【和風】である。よって、此処も問題とするには足らない。

 筆者が此処で提起すべき問題は即ち、宗良親王が拠った「井の城」だ。或る時、宗良親王は、北畠勢と共に伊勢を経由して、東北方面へと向かおうとしていた。しかし途中で難破しドンブラコッコ、遠江へと流れ付いた。漂着した宗良親王は、井伊氏の拠点たる井伊{/井伊谷}城に転がり込んだ。此の井伊城を八犬伝は「井の城」と表記する。此処で「麗しき秋篠の人」に掲げた玄同放言の一節を再掲しよう。

     ◆
余が通家、真中氏は彼郷の旧家にして、猪隼太が後なりといふ。その口碑に傳ふるよしを聞くに、高倉院の治承四年五月廿六日、宇治川の軍破れて、三位頼政入道父子、平等院にて自刃し給ひしとき、猪隼太は遠江にあり(老後本国へ退隠せしなるべし)。遙に義兵のよしを傳へ聞きて走せて京へ赴く折、三河路にて下河辺藤三郎が三位入道の首に倶して下総へと落ちて来つるに逢ひけり。こ丶にはじめて猪隼太は主家の凶音を聞きて遺恨に堪へざれどもすべなし、せめて和殿もろ共に主のおん首に倶し奉り墳墓せん処をも見果侍らんといふ。藤三郎聞きて、げに遠江はなほ都のかた近かり。誘給へと打ちつれ立ちて下総へ落ちて行けり。かくて頼政公の首を下総の猿島なる古河の里に埋葬つ丶隼太は其処にて頭顱を剃りまろめ、塚のほとりに菴を結びて亡君の菩提を吊ひぬ。是年八月、前武衛木曾冠者、東北に起りつ丶合戦年を累ねて平家は西海の波濤に沈没し、源氏一統の世となりにけれども、隼太入道は旧里へかへることを思はず。終に古河にて身まかりけり。隼太が妻子も其処に集合て子孫真中村(古河を去ること一里許にあり。今は間中に作るといふ。その故をしらず)にをり。これ真中氏の祖なり。是より十あまりの世を累ねし比、頼政卿の曾孫、左衛門の尉国綱ぬしの後たる武士某氏、武蔵国埼玉軍太田荘の地頭たるにより旧縁あればにや、真中氏も太田荘へ移住してけり。
     ◆

 遠江は猪隼人の「本国」であり、猪隼人は真中氏の祖である。更に馬琴は、知音宛の書翰で次の如く云う。

     ◆
一、参考{源平}盛衰記之事……中略……当地輪池翁は蔵去{異体字/棄}のよし先年及承候間、借用之義申入候処、其節会読被致候間かしがたきよしにて其後沙汰なし。彼翁は人に書をかす事を厭れ候様子に付、其の後さいそくもいたし不申候。窃に渇望いたし候のみ。右翁のものがたりには参考太平記にはいたく劣り候よし被申候キ。写本なれば誤写も多るべし。いづれまれ、ぬえの段・猪早人の条々見度事有之候へども不被貸候へば、せんかたなし{馬琴書翰・天保三年八月十一日・篠斎宛}。
     ◆

 参考源平盛衰記は、単なる源平盛衰記ではない。水戸彰考館が総力を挙げて編纂した盛衰記である。即ち関係各書を突き合わせ割注だらけになった甚だ読みにくい代物だが、頼りにはなる。昔の人は盛衰記や平家物語を史料として扱っていたので、当時にあっては【厳密で詳細な歴史叙述】だったと云える。
 馬琴は、参考源平盛衰記、就中、鵺や猪早人が登場する条を読みたがっていた。自分の祖先筋に当たる英雄/猪隼人の情報を「渇望」していたのだ。

 今回、冒頭に掲げた条から筆者が提起すべき「問題」は、南朝方に対する馬琴の距離感/パースペクティブである。
 八犬伝全体から、馬琴の南朝方武将へのシンパシィが強く漂ってくる。楠木正成・正行、新田一族、北畠卿ら太平記などで御馴染みの南朝忠臣群に言及している。抑も主人公の里見家が、南朝忠臣であった。また、此れまで縷々述べてきたように、信乃の祖父/井丹三直秀は、結城合戦で春王・安王に殉じただけではなく、南朝方として有名な遠江井伊家と同じ一族だ。そして八犬伝第百三十四回、馬琴は宗尊/宗良親王を奉じた遠江井伊家の居城を通例の「井伊谷城」とは表記せず、「井の城」とした。井/井伊氏の城だから「井の城」と云っても可だ。馬琴にとって井伊は、「井」なんである。八犬伝には、井丹三直秀を南朝に直接結ぶ記述こそないが、此処で馬琴は「井」を南朝方に関わるキーワードとして使っている。

 しかも新田義貞の庶子でありながら一族の期待を集めた義興が江戸一族らに謀殺された折、殉死した側近の一人に井直秀がいる。此の井直秀は、信乃の祖父/井丹三直秀より半世紀ばかり先行する人物だ。しかし「直」が遠江井伊家の通字の一つであることから、八犬伝に登場する信濃の井氏も遠江井伊氏に、イメージとして重ね合わされていることが明らかとなる。
 加えて、太平記で新田義興に殉じた井直秀は弾正忠を名乗ったりもするのだけれども、この場合の「忠」は弾正台三等官「じょう」だが、弾正忠は「だんじょうちゅう」で宜しかろう。でなけりゃ「だんじょうじょう」になっちまう。舌を噛みそうだ。
 其れは措き、「弾正だんじょう」と「丹三たんぞう」は、通じていなくもない。「丹三」を例えば丹後三郎と解すれば、何となく二階堂丹後三郎左衛門執蓋/盛高なんていう足利方を思い出すが、無関係だろう。やはり「丹三」は「弾正」の類音語と考えておく。

 遠江井伊氏は実のところ永享年間、今川氏に従って白河結城氏と戦ったりもしているようだ。今川氏は足利幕府の主要な藩塀であるから、此の時点で井伊氏も南朝の事なんて忘れ、新時代を生きていた。まぁ隣尾や里見、結城家と同様な運命を辿ったといえる。とはいえ、結城家は徳川家康の二男すなわち豊臣秀康が養子に入って越前松平家もしくは其の分家の前橋松平家へと繋がり何となく消滅したとも存続したともいえるし{一応の祭祀は存続した}、井伊家は幕府の譜代筆頭として幕末まで栄える。里見家は忠義の代に断絶したとは云えるが、大多喜正木家に枝分かれした部分は万/家康側室となって、紀州徳川家の源流となる。紀州徳川家から宗家に入った八代吉宗以降、十四代まで征夷大将軍位を襲う血脈である{十五代は水戸徳川家から吉宗分家/御三卿/一橋家に入ったが、実のところ万は水戸藩祖頼房も産んでいるので八代以降十五代まで万の血統といえる←但し十五代は馬琴死後の就任だから考える必要はない}。

 筆者は「日光神領猿牽」に於いて「東照宮大権現縁起」などを引き、徳川家康が天下を取った遠因を新田義貞の誓言に求める言説空間を紹介した。新田一族/分家の里見家は、徳川宗家の虚花たる資格を有する。
 いや、里見家は徳川家康に対しては確かに「虚花」だが、一族の正木万が家康と結ばれたことで、十五代のうち【八】代以降の将軍位を襲い独占する。馬琴が満喫した太平の世は、まさに江戸幕府後半期であり、紀州徳川王朝の全盛期であった。

 勿論、徳川将軍家は男系相続なのだが、真実、母系より優れた形質が受け継がれるか、少なくとも当時の水準では不明であっただろうし、何連にせよ恐らく其れは単に、思い込みに依る。例えば天孫は、天孫の侭では天皇たり得ず、二世代に亘って一人の龍王の娘を娶らねばならなかった。里見義実に結実した天然ボケ……ではなく、天然の仁義は伏姫と義成に受け継がれたが、伏姫は八犬士を、義成は義通・義堯と八女子を儲けた。義堯は論外として、嫡子義通と犬士を比べれば、ってぇか馬琴は義通と親兵衛を執拗に比較して読者に差し出すけれども、義通は引き立て役に過ぎない。伏姫の息子たちの方が、デキが良いのだ。
 抑も日本神話からして、少なくとも確立した国史/日本書紀の段階では、天の主宰神/天照皇太神は女性であった。馬琴も随筆では天照を女性神として扱っている。神話からして、重要なポイントは女性が握っている。皇統は天照から発し、木之花開耶・岩長で寿命の限界と栄花という運命を決定づけられ、「天孫」と豊玉・玉依姫との配偶を経て、神武に至る。「天孫」は、国津神、そして二世代に亘り一箇の龍王/海神の血脈と混淆し、漸く皇位に即く。馬琴が母系社会を構想したとは思わないが、女性の不可思議で強力な霊性には注目していたのではないか。其れが、伏姫をして八犬伝を懐胎せしめた所以ではないか。神話からの逆流もしくは反復である。

 さて、次なる「問題」は三河国渥美郡を支配する隣尾家そのものだ。少なくとも此の表記の侭では実在の大名家とはならない。
 「隣尾」と同家兵頭「錦織」なる名字は現時点で根拠が不明である。少なくとも南朝方の実在有名武将に「隣尾」はいない。南北朝期を描いた歴史物語に「錦織」なる武士は登場するけれども、無理な付会は止めておこう。其れと云うのも、錦織の相方が「田作」なんて出来過ぎの名前だからだ。錦織/機織りと田作/耕作は、農村社会で代表的な労務である。三河国渥美郡が、仁義に富む隣尾家の支配下、理想的な農村社会であるとの表現に思えるのだ。しかも「隣尾」を【尾州の隣/三河】だとすれば、隣尾・錦織・田作とも馬琴が創造した名前だと考えられる。但し勿論、「錦織」「田作」何連かに根拠があり、一方に引かれて、もう一方の名字が創作された可能性は残る。あくまで現段階では、筆者の考察が届いていないだけの話だ。

 「将軍の宮宗尊親王、遠江なる井の城に御坐しし時、無二のおん身方」が誇張でないなら、隣尾家は井伊家か、せいぜい一族の奥山家に外ならない。しかし井伊一族は遠江の土豪であって、三河の住人ではない。恐らく隣尾家は、井伊家の暗喩ではない。井伊は、あくまで信濃の井丹三直秀によって象徴されている。
 ところで、隣尾家は八犬伝当時の当主が判官伊近、十四世紀半ばごろの当主が信近であった。「近」が隣尾家の通字と考えられる。「近」は「親」に通じるが、「信」とか「親」とか、徳川家の祖先に繁く使われる字でもあった。三河武士の徳川/松平家は江戸期、新田一族を僭称していたから、イメージとしては南朝方であろう。
 当然、近世出版統制下で、読本如きに徳川家を登場させ、徳川家が公認していない【歴史】を語るわけにはいかない。語れば即時に絶版となり、馬琴の生命も危うくなる。語るなら、類推することさえ困難な程にデフォルメせねばならぬ。通常は、徳川家のネームヴァリューをこそ使用して作品に箔を付けたりしたいものだが、八犬伝の場合は、馬琴の理想世界を構築する為のものであるから、隠微な登場でも可だろう。実のところ筆者は、隣尾家を徳川家の隠喩ではないかと疑っている。
 また、苛子崎一件は、仁/木気/少陽ゆえに水/太陰が苦手だった親兵衛が、水泳に目覚める契機となった試練である。苛子崎は【子を苛める】ことで、子を成長させる場だ。

 因みに他犬士に就いては、「水戯水馬は、犬阪毛野・犬塚信乃・犬田小文吾・犬飼現八、特に勝れて人の視を驚かさずといふことなし。又犬山道節・犬川荘介も亦拙からず。独犬村大角は下野にて成長りしかば水戦には疎かりしを、この時勉て習得て敏く其技を能しけり」{第百五十一回}であった。智・孝・悌を筆者は水気に比定してきた。水泳上手でなければならない。特に信乃は神宮河原で、偽って溺れる蟇六を救助、挿絵で褌一丁の半ケツを曝して読者を悦ばせた実績がある{第二十四回}。小文吾も、愛する毛野を追って波高き隅田川に飛び込んだ{第五十七回}。「抜手を切て」とあるので泳法は恐らく、犬掻き、ではない。現八は信犬士で土気だが、土克水の理により、水を制する。水気と土気に配当すべき四犬士が揃って水泳上手なんである。対して、義/金気/少陰の荘助は、水気/太陰への対応が「拙からず」。
 犬士ではないが、音音は荒芽山で紅蓮の炎に巻かれても死ななかった鉄火肌の姐御であり、丙午生まれの火気烈女であるけれども、酷寒の十二月八日早朝に五キロほども泳ぎ抜いた化け物……もとい、水煉上手であったが、其の理由を馬琴は「武蔵の川畔にて成長たる甲斐ありて、水戯自得の老婦にあなれば」{第百七十七回}としている。音音の水煉上手は有名であったらしく、毛野も「音音の刀自は早くより水戯を得たり、と聞ぬ」{第百五十八回}と語っていた。
 火気の烈女であり、洲崎沖大海戦に於いて火計の実行犯に抜擢された音音も、生まれ育った環境によって水煉上手となったのだ。
 いやまぁ、初めて水に入ったときは、火気烈女なんだから音音も溺れたかもしれない。溺れた時に少年時の姥雪世四郎に助けられ人工呼吸なんかされちゃったりして、まだ幼く青い肢体に恋情の炎を点さなかったとは断言できない。世四郎がイケメンだった証拠はないが、少なくとも正義感溢れる精悍な少年だったに違いはなく、一部の女性には受けが良かったであろう。三枚目とて懸命に自分を助けてくれた同年配の少年を憎からず思うことは甚だ自然な成り行きだ。一方の音音は美少女……と迄は云えずとも、凛とした風情の御転婆スレンダー少女だったかもしれず、これまた一部の男性には受けが良かったであろう。音音・世四郎は密通するに至るのだから、なかなか捨てたものではなかった筈だ。閑話休題。
 火気烈女が、生まれ育った環境により水煉上手になるならば、火気犬士/道節が「拙からず」の状態になることも、不自然ではない。何故なら道節は、音音と同じ地域で生まれ育ったのだから。
 但し、同じく火気犬士の大角は、生まれ育った環境が、水煉上手になることを要請しなかった。「下野にて成長りしかば」が、大角がカナヅチに育った理由である。だいたい大角は、千住河原で現八が小船に飛び移り正体不明の二人と格闘した折、「這方の岸には大角が、うち見て驚く再度の窮阨、いかで力を犬飼に勠して仇を拉ん、と思ふもかひなき陸と水、浅瀬を索て彼此と走入らまくしつれども、不知案内なる夜川の深浅、測難つゝ村胆の、心ばかりは惴るのみ、よるべの便りなかりけり。{第八十四回}と無様に立ち尽くしていた。八犬伝評答で知音が此の箇所を以て大角を貶め、馬琴が弁護に苦戦、「別に大角が臆病とか身体能力が低いってワケぢゃない。現八が凄過ぎるんだよ! ……毛野の方が凄いけど」と言い募っている{天保三年黙翁評答}。
 とにかく此の時点で既に、大角は水が苦手であるとの設定が確固としている。筆者は以前から、大角がカナヅチである理由を、礼が火気である点に求めてきた。しかし苦手と云えど流石は犬士、訓練次第で克服する。火気犬士たるが故、先天的に水煉の能力が欠落していただけの話である。

 また更に云えば、苛子崎は三河国渥美半島にあるが、馬琴の時代、三宅氏の所領であった。三宅氏は、備後三郎高徳を祖とする。
 高徳は、気の好い奴だった。ただチョッと早とちりな面もあった。親族を掻き集め、隠岐に流される後醍醐帝を奪還しようとしたは良いが、何時まで待っても帝は来ない。当たり前だ。護送ルートを思いっ切り間違っていたのである。高徳は親族にも呆れられ、独りぽっちになってしまった。執念深く尋ね廻り漸く帝の所在を突き止めたが、多勢に無勢、手を出すことは叶わなかった。そこで行きがけの駄賃とばかり、帝の御座所近くまで忍び込み、負け惜しみの歌を桜樹に彫り付け逃げ去った{「栗鼠の頬袋」参照}。
 云う迄もなく、三宅高徳とは、児島高徳のことだ。上記は、太平記に載すエピソードであり、八犬伝で直塚紀二六が語っている{第百三十八回}。

 徳川家康の近臣であった三宅家は、康信の代から苛子崎辺りを治める藩主となった。通常なら陣屋住いとなる筈の一万数千石のくせして、城主である。馬琴当時の藩主には十一代康直もいるが、此奴は岡山藩主池田家から養子に入った。池田家は猪早人の主君であった源三位頼政……の弟泰政を祖とする{系図では源泰政を祖とするが本人達は楠木正成の子孫だと信じ込んでいた節もある}。

 実のところ田原十一代藩主三宅康直は暗君であったらしく、藩財政の立て直しを図る家老格の渡辺定静を困らせまくっていた。定静は馬琴とも交流があった……と云ぅか馬琴の息子琴嶺の親友であった。号は崋山だ。
 渡辺崋山は絵が巧いだけではなく、当時の有名知識人であり、漢学は勿論、西洋事情にも通じていた。欧州列強の亜細亜侵略を憂慮し、海防政策を練っていた。藩の財政および軍事改革を目指したが、諸般の事情で頓挫した。挙げ句の果て、鳥居耀蔵らの私怨・妬みによって蕃社の獄に繋がれた。自害に追い込まれた。
 各種制約により崋山にとって全く望む形ではなかったものの、それでも田原藩の軍事改革は当時、注目された。同藩では従来より春秋二度、猪狩を行い士気の錬成を行っていたらしいのだが、天保八年、此れを、甲冑着用のうえ海辺で行い大筒まで用いた。勿論、西洋列強が太平洋沿岸を江戸へと侵攻する有事を想定した訓練だろう。
 先学の知見に拠れば、此の訓練を水戸藩主徳川斉昭は「三宅土佐守儀小大名には候えども、家中へ達しおき、不時に夜八ツ時(午前二時)ごろ城内にて烽火を上候と、みなみなかけ集まり、甲冑にて海岸へおし出し、それより原へ参り調練いたし候よし。さてさて外ながら面白きことと存ぜられ候。こののち国へ下り申し候わば、猪狩等も甲冑にていたし申したきことに候。三宅の儀、委細の儀承り申し候て、あとより申し聞けるべく候。さてさて外々にはよき家老これあり、うらやましきことに候」{佐藤昌介『渡辺崋山』吉川弘文館より孫引き「水戸藩史料別記」}と絶賛した。
 崋山の思い描いた近代戦術とは懸け離れた、旧態依然たる調練だが、当時の大名には解り易かったのだろう。斉昭も三年後、天保十一年春、武者三千を含む一万二千人規模の軍装狩猟を行う。

 実は軍装狩猟の概念自体は珍しいものではない。所謂、追鳥狩{おうとがり}だ。軍事面の充実を図る意欲的な藩にとって恰好のイベントであった。治民だ何だと奇麗事を言ってみたところで、幕藩体制の本質は、軍事政権である。武辺こそ武士の職能であった。
 しかし馬琴と交流のあった渡辺崋山が天保八年段階で軍事力強化を目指した調練を具体化した点こそ、筆者には甚だ興味深いのだ。しかも、徳川斉昭には全く理解されていないようだが、崋山の本来目的は海防にあった。里見家の水陸軍事演習は、斉昭よりは崋山の意を汲んだものとなっている。里見家の農閑期軍事調練は、源頼朝の富士牧狩り以降続く単なる【武士だらけの大運動会】の範疇を超えて、沿岸防備を射程に入れているからだ。馬琴は八犬伝で、安房は海国だと強調している。日本も海国である。

 里見家の水陸軍事調練を描く第百五十一回は天保十一年の発行だが、「第九輯巻之二十九簡端或説贅弁」の日付は天保十年二月になっている。また前巻の巻頭語は天保九年一月だ。当然、本文執筆は此れ迄に終了している。崋山が海辺で軍装軍事教練の実施許可を幕府に申請したのは天保八年十一月であった。流石に速筆の馬琴も二カ月内では、予め定めた長編物語に大きな改変は加えられないだろう。水陸両面武装軍事訓練の直前巻/第九輯下帙之下甲号は、変態管領細川政元が親兵衛の豊満な肉体を弄ぶため姥雪与四郎らを隔離した条から悪僧徳用の捕縛までだ。途中で、竹林巽・於兎子夫婦が登場し、玉面嬢妙椿の後身/画虎が発生する。安房での水陸軍事演習は挿入が難しい。筆者は、渡辺崋山が実行した水陸両面武装軍事訓練と、里見家の水陸両面武装軍事訓練との間に、何等かの密接な関係があると強く疑っている。
{お粗末様}
 

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