×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。

 
 
 
 
     ◆

南山巡狩録首巻系図
前略……
尊良親王
(母冷泉為世卿の女贈三位為子)
応長元年誕生のち一品中務卿に叙し延元三年(北朝の暦応元年)三月六日越前国金ケ崎の城に於て新田越後守義顕とゝもに自害し給ふ御年二十世に一宮と称す(皇胤紹運録 増鏡 太平記)
……中略……
宗良親王
(母尊良と同し)
正和二年誕生諱を尊澄と申奉り天台座主に補し延元元年の比より還俗あり程なく一品中務卿に叙し諱をも宗良と改給ふ後征東将軍に任し給ふといへとも天授三年(北朝の永和三年)再ひ落飾あり元中二年(北朝の至徳二年)八月十日遠江国井伊谷に於て薨し給へり御年七十三此宮和歌の道に聞え於ハしまして新葉和歌集を撰ひ給へり世に信濃宮とも上野親王とも称し奉る(新葉集 太平記 天台座主記 信濃宮伝)
皇胤紹運録には第七宮にかく
……後略

南山巡狩録
巻一之上
前略……後醍醐天皇……中略……北条か一族をうしなひ給ハん御心いやまし給へともことの漏へきをはゝからせ給ひ近侍の人にさへ仰合さるゝ旨もなく只日野中納言資朝卿蔵人右少弁俊基朝臣四条中納言隆資卿尹大納言師賢卿平宰相成輔卿にのみ竊に仰示されける武士にハ錦織判官代俊政足助次郎重範ならひに南都北嶺の衆徒少々勅諚に応する計りなりける……中略……
{元弘二年三月}八日一宮中務卿親王を土佐国畑に妙法院宮をは讃岐国に流しまいらす其比児島備後三郎高徳は主上笠置山に御座の時義兵をあけ錦の御旗まて賜ひたりしに所々の官軍落去けるゆへ力を失ひ居たりしにこのとき宗徒の一族を相催し主上の御幸路次にて奪ひ奉らんと備前播磨のさかひ舟坂にまちたれとも御幸は播磨の今宿より山陰道にかゝらせ給へは道たかひけり……後略

巻之第一下
建武の乱の事
去程に主上都に還幸ありしによりのちハ二条の内裏に入らせ給ひける六波羅既に没落せしのち五月廿五日北条かたてまいらせける光厳院を廃し奉り去年より用ひし正慶の年号ハ廃帝の改元なれハとて是をとゝめられ本の元弘三年に復さる八月三日より軍勢恩賞の沙汰有へしとて洞院実世卿を上卿に定らる是により諸国の軍勢軍忠の支證を申状に記し是を捧て恩賞を望もの幾千人といふ数を志らす実に忠あるものハ功をたのみて諂ハす功なき者ハ媚を求て上聞を掠めしかハ数月に及てわつかに二十余人の恩賞を沙汰せられしのみなりそれも正路にあらすとて召返されけるさらは上卿を改めよとて万里小路中納言藤房卿にかへられ申状を藤房卿にわたさる彼卿忠否の浅深によりおの/\申あたへんとし給ひけるに内奏秘計により只今まてハ朝敵なりつるものも安堵を賜ハり更に忠なき輩も五ケ所十ケ所の所領を賜ハりける間藤房卿諫言を納かね病と称して奉行を辞せらる其後また九条民部卿を上卿にさためて沙汰ありける光経卿忠否を委細に尋究て申あたへんとし給ふ所に相模入道の一跡ハ内裏に入られ舎弟四郎左近大夫入道の跡をは兵部卿親王へ参らせられ大仏陸奥守かあとをは准后の御領になされ此ほかの闕所をもさせる事なき鄙曲妓女の輩蹴鞠伎芸の者とも乃至衛府諸司官女官僧迄一跡二跡を合せて内奏より賜りけれは軍勢にあたへらるへき地ハ
さらになかりけり光経卿こゝろはかりハ無偏に沙汰せんとおもハれけれとも詮かたなく月日を送られけるその外記録所決断所を置るといへとも近臣臨時の内奏をへて非義に申行ふ間綸言朝に変り夕に改りしかは恨を含むもの多かりける十二月七日光厳院を太上天皇と尊称し奉る又今上の御子成良親王を鎌倉に下向なし奉り足利直義執権となる四年正月十二日諸卿僉議ありて大内裡を造営有へしとて安芸周防を料国に寄られ日本国の地頭御家人の所領の得分廿分の一を役にかけられしかは心ある者ハ眉を顰む二十四日恒良親王を以て春宮とし二十九日改元あり建武と号す(太平記梅松論歴代皇記年代略記元弘日記保暦間記等を合考す)春の頃より筑紫に於て規矩掃部助高政(異本太平記に兵庫助時秋に作りまたあるひハ二人に作るもあり)絲田左近将監貞義(異本太平記或は右近将監に作りまた左京亮頼時ともかけり又別に貞義とかきたる異本も有)平氏の一族前亡の余類をあつめ乱を起さんとし河内国には佐々目の憲法僧正を(参考太平記に西室顕実僧正の事ならんといふ志からは高時の一族なり)大将とし飯盛山に城郭をかまへ伊豫国には赤橋駿河守宗時か子息駿河太郎重時立烏帽子の峰に城をかまへ四方の庄園をかすめ押領す是により竹内慈厳僧正を内裏にめされ天下安鎮の法を行ハる此法修行の時武士四門を警固する事ありしに三浦介高継と千葉介貞胤と左右の席をあらそひ終に出仕を止けるかくて新田菊池大友小弐松浦の人々上洛せられし程に京白河に充満して王城の富貴日比に百倍せり諸軍勢の恩賞ハ姑く延引なすとも大功の輩の抽賞ハ行ハるへしとて先足利治部大輔に武蔵常陸下総舎弟左馬頭直義に遠江新田左馬助義貞に(是よりまへ左馬助になりし月日詳ならす)上野播磨子息義顕に越後舎弟脇屋義助に駿河楠判官正行に摂津河内名和伯耆守に因幡伯耆其外公家武家の輩二ケ所三ケ所つゝ賜りけるさしも軍忠ありし赤松入道円心にハ播磨国佐用庄一所はかりを賜ハり播磨の守護職を召返されけりされはにや建武の乱に朝敵となりしも此うらみとそ聞えける其うへ五十余ケ所の守護職国司国々の闕所大庄をハこと/\く公家被官の人々拝領しける間俄に富貴に誇り奢侈法に越たりける間行すゑいかゝ有へしと思ハぬ人こそなかりける中にも千種頭中将忠顕朝臣文観僧正の振舞ハ其奢美見聞を驚かす今年天下に疫癘流行し其秋の比より紫宸殿の上に化鳥来りていつまて/\とそ啼たりける程に聞人忌恐れすといふ事なく誰か是を射落すへき者やあると仰ありしかとわれ奉らんといふ人なかりける二条関白殿の御内に隠岐守広義か子に隠岐次郎広有といふ者今ハ出家して居たりけるを其器に堪たるよし聞え申す程にやかて広有をめさる比ハ八月十七日の夜の事なるに月かけに彼化鳥をうかゝひ弓引志ほりて射落たるに其長さ一丈六尺ありける恐しき鳥なりける此賞として広有ハ五位に昇り大庄二ケ所を賜ひ面目を施しける(太平記并に系図を合考す)こゝにまた将軍宮兵部卿親王ハ足利尊氏を誅せられんと思し給ふ事ふかゝりしかはひそかに諸国の軍勢をめさる其ゆへをたつぬるに先年六波羅没落の刻殿法印良忠か手の者京中に徘徊して財宝を掠め取けれハ狼藉を志つめんか為尊氏か方より彼ともから廿余人を召捕り六条河原に於て誅しける其前に高札を建大塔宮の候人殿の法印良忠か手の者在々所々にてこと/\く強盗をいたす間誅する処なりと志るしたりける事を良忠ふかく憤り兵部卿親王をすゝめ申しける尊氏これを聞て継母准后に(新待賢門院の御事)属して宮の軍勢をめさるゝ令旨を奉り奏聞したりけれは主上大ひに逆鱗あり十月廿二日内裡におひて捕へ奉り馬場殿に押籠奉る(太平記梅松論)頃日諸国に於て北条か亡族旗をあくると雖とも程なく官軍の為にうち敗られ或は打死しまたは所在を知らさる者も多かりける程に天下また事なきか如く大内裡の造営も漸く落成し鳳闕の西に馬場殿とて俄に離宮をたてられ主上御幸ありて御遊ある事ひまなし或時佐々木塩治判官高貞か許より龍馬なりとて月毛なる馬の三寸はかりなるをひきまいらす其形尋常の馬に異にして今朝卯の刻に出雲の富田をたち酉の刻に京着す其道七十六里か程鞍の上に座せるかことし志かれとも旋風雨を撲かことしと奏し奉る当時天下一人と聞えける馬乗本間孫四郎資氏に是をのらしめ給ふに駿足たくひなかりしかは叡慮比類なかりけりある日また馬場殿に行幸ありかの龍馬を叡覧し給ひ諸卿に其吉凶を問ハせ給ふ人々みな吉祥にて侍るへしと勅答申されけるなかに万里小路藤房卿のみ此こと吉事にてハ候ましと漢文帝の故事を引て諫申されかつは今の時にあたり大内裏造営ある事及ひ赤松円心か忠功たくひなくして恩賞すくなかりける条まて言葉を尽して直諫し給ひけれは主上御気色快からすして其日の御遊は止にけりされとも主上は藤房卿の諫申されける旨をいさゝかも許容し給ハす叡慮は猶初のことくにわたらせ給ひける(太平記)その日の行幸も一日有て還幸事さんしけれは藤房卿其事となく参内し龍逢比干か諫に死せしたくひまて終夜申出給ひ御前より退出し玉ひける比は十月五日(十月五日公卿補任にしたかふ)の事なるに内裏より宿所へは帰り玉はす侍一人召くし北山の岩蔵といふ所にいたり不二房仁戒といふ僧を戒師に請し遂に出家の身にそなり給ひける此事叡聞に達しけれは君限なく驚思召てその在所を尋給ふに岩蔵におはするよし聞えしかは御使を下され召返さるゝよし仰つかハされしかとも思ひとゝまらせ給ふやうもなかりけれは父宣房卿また勅をうけてなく/\かの宿坊にいたり給ひけるに藤房卿いつちへかいたらせ給ひけんこゝにハはや居給はさりけるゆへ其あたりを見玉へは障子のうへに一首の歌と古き頌をかきとゝめられけるいと哀なる事ともなり……後略

巻之第二
後醍醐天皇(八月比叡山を皇居とし十月より花山院にうつり給ひ十二月吉野山に臨幸をとけ穴太及ひ金峯山を皇居とす)
 延元元年丙子 北朝建武三年
八月大 十五日 足利尊氏さきに筑紫より京師に攻上りけるころ後伏見院第一の御子豊仁親王武家の陣中に居給ひけるを光厳院の御猶子となし権大納言藤原良基の押小路烏丸の亭にうつしまいらせ御位につけ奉る宝算は十六にならせ給ふこれ光明院の御事とそ聞えし関白ハ左大臣藤原経忠なり是よりして両朝の御あらそひ五十七年の基ハひらかれし(皇年内略記 公卿補任 太平記○太平記に光厳院の重祚と志るせしは大に誤れり)……中略……
{延元元年十月九日}(武徳大成記に清康君近国をうちしたかへ給ふ時義貞此時日吉の神前にて御誓せし趣を仰出され天下に御旗をあけ給はんと思召たち給ひけるよし見え南光坊天海なともこの義貞祈願ありし納受によりかゝる太平の御代となれりといへりされは東照宮御入国のとき御城中に太田道灌入道兼て勧請せし山王の社のありけるを御覧しよろこはせ玉ひし御事を落葉集に志るせしはいはれある事なりと覚ゆ)……中略……
{延元元年十月}爰にまた一品宮は(妙法院宮宗良親王の御事成へし)井伊介道政を召具せられ打出の浜より御船にて美濃路にかゝり宮の御領なりしかは志はしハ尾張国犬山といふ所にわたらせまし/\けり(太平記并李花集詞書より推考して志るす○信濃宮伝に宮こゝにとゝまりたまへは堀田修理亮之盛大橋三河守定高はせ参りやかて井伊介か領内遠江国奥山の城に入れまいらせさまさまになくさめ参らす今川は当国にありて尊氏方なりしかは志はしハ合戦を遂るといへとも宮方にてもまた軍勢をかたらひ今川を防けるとなん是らを以て李花集にみゆる宮の事跡を按するにこの妙法院宗良親王の還俗し給狩野介貞長もおのか女を奉りける頃おひは今年なとにやあらんと覚ゆ)……後略
十一月大 朔日 故名和伯耆守長年の三男同左衛門尉高光西坂本にありて病死す(伯耆巻系図)
二日 北朝の光明院より後醍醐天皇に押て尊号をすゝめ申し三種神器を御渡あるへきよし奏せしかは兼て御用意ありける贋物をかの使にわたさせ給ひける……後略

{延元二年三月}
此比中務卿宗良親王遠江国井伊か城に居給ふ其折柄一首の御歌に「咲はまつ行てこそ見や我やとゝたのむ吉野の花の下かけ」と詠し給へり(李花集)
……中略……
{延元二年八月小四日}
爰にまた後醍醐天皇吉野山に臨幸ありしより後諸国の官軍ともに綸旨を下され義兵を起すへきよし勅命ありしかは新田義貞朝臣ハ越前国に打出大館左馬助氏明ハ土居得能か子ともと引合ひ四国に起り江田兵部大輔行義ハ丹波国におゐて足立本庄荻野波々伯部等をかたらひ高山寺に楯籠り金谷治部大輔経氏ハ播磨の東条よりうち出吉河高田(或は高円に作る)か勢を合せ丹生の山陰に城郭を構へ山陰の中道をさし塞き遠江井伊か城にハ宗良親王居給ひ井伊介道政等今川勢と相戦ふ宇都宮治部大輔入道は紀清両党五百余騎を率して吉野の行宮にはせ参りしかハ還俗せしめ給ひ四位左少将になさる(系図には昇殿とのみ志るせり或は宇都宮か行宮に来りしを七月の事となせり)……後略
{十月十五日}(宗良親王一代伝記に当月十八日宗良親王遠江国一瀬の奥の山より井伊介道政具し奉りて井伊谷の城につかせ給ふといふ)
……中略……
巻之第三
前略……
{延元三年三月大八日}
爰に宗良親王ハ奥州より上る勢に加はり今まてもなを北畠顕家卿とゝもに奈良天王寺の戦場に打のそみ給ひけるか官軍利なかりしかは伊賀路より行宮に帰らせ給ふ此よしを聞て北朝に仕へ給ひし御子左為定の許より「帰るさもはやいそかなん名にしおふ山の桜に(はイ)こゝろとむとも」と一首の歌を贈り申されしかは宮もまた御返しに「古郷ハ恋しくとてもみよしのゝ花の盛はいかゝ見すてむ」と遊はれけるとそ(李花集太平記合考するに李花集に宮の行宮に帰らせ給ひしを延元四年の事となせしは誤なり事は南山遺草に志るしぬ)
……中略……
{延元三年八月大}
十七日 奥州下向の宮々伊勢の大湊より纜{/糸が舟}をときておもひ/\に出帆し給ふ(元弘日記)
……中略……
{延元三年九月大}
十一日 去程に国々に下向し給ふ宮々をは兵船五百余艘の(異本によるに三十八艘に作りまた五十艘或は三百余艘と志るす)なかに守護し奉り遠江国の大洋天龍灘といふ所まて漕出給ひけるに俄に風吹出逆浪天を巻く日暮るゝに志たかひ風いよ/\あらくなり船ともちり/\になり行なかに義良親王の乗り給ひける御船ハ漫々たる海上にてすてに危く見えける折から赫奕たる日輪御船の舳前に現し風は俄に吹返し御船を伊勢の神風の浜によせ奉る(異本太平記には伊勢の岡崎又神風の浦なとゝ志るせり元弘日記新葉集等には篠島に作る)若干の船とものなかにこの御船はかり日輪の擁護にて伊勢に帰らせ給ひぬるはたゝ事にあらすいかさま此宮天位につかせ給ふへき程を大神宮のかねて示させ給ひける所なりと後にそ思ひ合奉りける此外北畠大納言入道親房卿の船は日立国東条の浦へ吹寄たりしかはやかて当国伊佐大室に城郭を構へ是に楯籠らる又妙法院五辻宮等の(案するに妙法院宮は中務卿宗良親王の御事にして此比ははや御還俗ありしかとも世には妙法院宮といひけるなるへし又品の宮伝によるに此時一品宮西応寺の宮は遠江につかせ給ふよしみゆ一品宮といへるは宗良親王をさし西応寺宮と志るせしは一宮尊良親王の●宮守永親王をいへるものか又五辻宮の事詳ならす越後守仲時か近江国番場にて討死する時に辻宮軍勢とともに打て出給ふ事みゆ今五辻宮と志るせる御かたも同し宮なるへし)御船ハ相模次郎時行とゝもに十三艘難風以前に遠江国疋馬宿より(疋馬宿は引間ともかけりはしめ浜松といひ中ころ疋馬とよひしを東照宮御在城の時再ひ古名に復さる)上り給ふ今川五郎入道心省か手の者是をきゝはせ集りて合戦ありしかと時行終に今川勢を退け井伊介か城に入れ参らすかゝりしかは天野乾奥山等の宮方二心なく守護し奉る是らに限らす新田義興朝臣ハ行方を志らす花園宮ハ不思議に四国に着給ひ牧宮ハ四国にいたらせ給ひしなとまち/\に聞江たり(太平記并異本元弘日記新葉集神皇正統記等を合考す○案するに難風に逢給ひし所諸書一ならす伊豆崎とも天龍灘ともいひていまた其正説を得す宗良親王の着かせ給へる湊もまたさたかならす一本に白羽の湊に作れり)
宗良親王疋間の宿に着かせ給ふ時「いかてほすものとも志らすとまやかたかたしく袖のよるの浦波」と打詠し井伊介か城に入らせ給へるのち「なれにけるふたゝひきても旅衣おなしあつまの嶺の嵐に」とよみ給ふかくてこの所に志はらく御座ありしかと御方少勢なれハいかゝあるへしとて三河国に移り足助重泰(春イ)か居城に住ませ給ふ行宮に於ても宮々難風にあひ給ひ義良親王の御船はかり恙なく伊勢国篠島といふ所に着かせ給ひぬるよしきこしめされ日野前大僧正頼意勅使として篠島にいたり事のよしを啓し参らす時に頼意「神風や御船よすらん沖津波たのみをかけし伊勢の浜辺に」と一首の歌をそ詠したりける(新葉集李花集)
……中略……
(塵塚物語に尼子伊予守といふ人は雲州の国守として武勇人にすくれ栄耀天下に並なき人にてそ有ける是はむかし執事高師直に讒せられ命を雲陽のちまたに落せし塩冶判官が五代の後胤なりとかや高貞生害の時其子三才の児を法師にし尼の弟子として養育せり成人のゝち還俗し師の名を尊み名字を尼子と名乗りけるとなん伊予守か許につねにとふらひくる人ありて雑談の序に所持の物を誉れは則其身もよろこひて其人にとらせけり是を志る人ハのち/\は伊予守所持のものを斟酌して誉さりけるとそ是は判官高貞か禍にかゝりける事をおもひての事ならんと人のいへり)
……中略……
六月小 山名時氏塩冶高貞をうちとりける賞として因幡伯耆二国の守護となる(諸家系図纂)
……中略……
巻之第四
後村上院(大和国吉野郡金剛山を以て皇居とす)
延元四年己卯 北朝暦応二年
八月大 十七日……中略……
先帝かくれさせ給ふよし遠江国に聞えけれは井伊介の許に居給ふ宗良親王御歎きのあまり四条隆資の許へ(李花集には別当資次卿とあり隆資卿の初名にもあらす考ふる所なし今新葉集による)此城の内に在けるもみちを一葉つゝみて「おもふにもなを色あさきもみちかなそなたの山はいかに志くるゝ」とありしかは其のち隆資卿の返しに「此秋の涙をそへて時雨にし山はいかなるもみちとか志る」とありけるとかや(李花集新葉集合考○李花集には延元五年の事となせり誤なるへし又大日本史に諸書を引て宗良親王此程にいたり髪をやしなひ給ふよし志るせともさきに興良親王生れ給へるか如くなれは是より前ならん)
……中略……
今年諸国に於て天下の恢復をはかるもの多しなかにも国々に下向ありて義兵を催し給ふ宮々には遠江国に征東将軍中務卿宗良親王筑紫に征西将軍式部卿懐良親王陸奥には鎮守府将軍顕信朝臣一品宮をともなひ奉り(案するに顕信朝臣伊勢の国司たるよし南方紀伝にみゆ是を諸家に蔵する古文書等に合考するに顕信朝臣ハ伊勢の国司たりしのち陸奥に下向の如くみゆれと確証を得す志はらく所見に志たかひて志るせり下是に傚ふへし又結城氏古文書等より考ふれは当時東国に一品宮居給ふ事うたかひなしよりて本文に補へり一品宮の事ハ紹運図に弁しぬ)故大塔宮護良親王の御子陸良親王(陸良親王の諱は紹運図より推考して補ふ)は征夷大将軍に任し給ひ河内大和の間に御座あり花園宮は四国にそおはしましける(太平記結城氏古文書土佐藩士佐伯杏仙蔵古文書等により花園宮の事跡は専ら杏仙蔵古文書によれり)
……中略……
興国元年庚辰 北朝暦応三年
……中略……
八月小 十五日 中務卿宗良親王遠江国に居給ひしかうかりける八月の空にめくり来りしとて「おもひいつるこその八月の秋の月またくもれとてぬるゝ袖かな」と打詠し給ふ(李花集)
……中略……
興国二年辛巳 北朝暦応四年
……中略……
七月大 中務卿宗良親王駿河国なりける狩野介貞氏か許におハしましけるか信濃国に越給ハんとありけりけれハあるし貞長もひたすら御名残を惜み奉りけりされともやむへき事ならねは此所を出させ給ふ其ときかの館の壁に一首の歌をかき付させ給ひて「身をいかにするかの海の沖津(の李花)なみよるへなし」とて立ハなれなハ其夜もまた夜ふかきにいほ崎の松はらを過給ふ袖しか浦の辺にて「東路の末まてゆかぬいほ崎の清見か関も秋風そふく」かくてうき島か原車返しより甲斐国にかゝり信濃へとこゝろさし給ふこの時富士の麓を過させ給ひ「北になし南になしてけふいくかふしの麓を行めくるらん(めくりきぬらん李花)」又白須といふ所にて「かりそめの行かひちとはきゝしかといさや志らすの待人もなし」程なくも諏訪に着かせ給へは御送の人々を返させ給ふとて「ふしのねの煙を見ても君とへよ浅間のたけハいかにもゆると」猶よみ給ひし御歌とも多かるへし(李花集新葉集○今前後の歌より考ふるに今年の事跡に似たりよりてこゝに志るすといへとも後の君子の一訂をまてり)
此秋のころ宗良親王諏訪の下宮に通夜し給ふ折から湖上の月くまなかりしかは「諏訪の海や神のちかひのいかなれは秋さへ月の氷志くらむ」とよみ給ひける(李花集○兵家茶話を案するにこのとき信濃の国司は堀川中納言光継卿なりといふ始終信濃国ハ宮方多かりしとみえたり)
……中略……
此秋新待賢院先帝の御廟にもふて給ひし折から山のもみちを一葉つゝみ御文の序に中務卿宗良親王の御許に参らせしに其もみちのなかりけれハ「その山ときくに涙も志くるゝは袖をもみちの色と見よとや」「こゝまてもふかはふきこてもみちはを誘ひ捨ける山風そうき」と仰つかハされけりかくて程過て後そのもみち葉を見出し給ひしかは「もみち葉に涙を添て見る色は手折しよりもふかきとをしれ」とよみてまいらせ給ひしとそ聞えける(李花集○南北紀伝に此比西応寺宮一品親王常陸国小田城に入らせ給ふ春日中将顕時朝臣一条少将具信朝臣唐橋肥後守経泰刑部大輔秀仲等供奉してこゝにいたる此時奥州の宮方伊達宮内少輔行朝石川石橋河村六郎田村庄司南部滴石の輩一味して斯波岩手両郡へ責め登り敵稗貫出羽守及ひかれか一族等をうちとるよしみえたり○菊池伝記に去る八月五日将軍宮懐良親王阿蘇大宮司か度々の戦功を賞し給ふかゝりしかは大宮司か勢ひ領内に振ひ山城に堀木戸坂梨松尾沼動目喜城桜尾比良鏡入江鳶尾小鴨松山西山楯車石櫃下城高城高森なんと二十余ケ所に城を構へて兵をこめ置けるとみゆ○南朝略史に当月廿八日伊勢の宮方田丸の城に籠りしかは高師秋兵を率して是を攻るといふ)
……中略……
十二月小 中務卿宗良親王は信濃国をたち出給ひ寺泊につかせ給ふ折しも千鳥の声を聞し召「あら磯のほかゆく千鳥さそなけにたちゐも波のくるしかるらん」程なく越中国につき給ひ羈中百首の歌をよみ給ひしなかに「かそふれハ七とせもへぬたのみこしなゝの社のかけをはなれて」(李花集○案するに七の社は山城国なり宗良親王京を出給ひて今年まて七年に及ふよし御歌の面にみゆ志かれともこれを七年以前に推す時は建武二年になりて乱いまた起らさる時なり李花集の誤字かあるひは又宗良親王の京を出給ひしは建武の乱いまた起らさる前にありしや詳ならす)
……後略

巻之第五
前略……
{興国三年壬午}
三月大 廿日 申刻はかり北白河より失火し余煙法勝寺醍醐寺等の塔を焼く(太平記如是院年代記)
頃日中務卿宗良親王は越中国石黒か館に赴かせ給名子の浦と云所にすませ給ひ折ふし帰雁をきゝ給ひて「おなしくはちるまてをみて帰る雁花の都の事かたらなん」と一首のうたを詠し給ふ(李花集○南朝編年記を案するに石黒左近太夫将監盛行といふもの宮方に属し貴船山に城を構へ宗良親王もこゝに居給ふといへり何の書によれるにや詳ならす)
同し頃宗良親王越中国より便宜につきて御子左為定の許へ御消息ありし序に「いたづらに行ては帰る雁はあれと都の人のことつてもなし」「今はまたとひくる人もなこの浦に志ほたれてすむあまと志らなん」とよみてつかハされしかは程へてのち為定の許より御返事ありて其奥に「ねになけハそれとはきかて行雁にことつてなしとなにおもふらん」「あゆの風はや吹かへせなこのあまの志ほたれ衣うらみのこさて」とありけるとそ(李花集○下野国都賀郡貴公か沢より得る所の鏡の裏彫によるに当月不二行者授翁といへる人下野国都賀郡見野といふ所に一字三礼の経を納め其鏡の裏に父祖の冥福をもとめ父宣房卿の福寿をいのり給ふの文ありこの授翁といふ人は則万里小路中納言藤房卿の事にして彼鏡の裏刻に興国四年壬午とみゆるうへは支干によるに延元より興国にうつりしは己卯の年たる事うたかひなしといふ人ありもとより彼鏡を掘出せしは明和四年正月廿八日の事にして鏡は今洛北妙心禅寺に蔵し同時に出たる所の虚空蔵の小像は江戸早稲田の済松禅寺にありといへとも好事の者の贋作なるか如しよりて是をとらす猶藤房卿の卒し給へる天授六年三月の条下を通し見るへし)
……中略……
正平元年丙戌 北朝貞和二年
……中略……
七月大 二日 足利尊氏の女三歳にして卒す(常楽記○浪合記に当月十三日堀田弥五郎正泰夢想の告によりて尾張国海部郡に左太彦宮をあかめ奉る是は武内宿祢と平定経と二座にして定経は地主の神なり後には弥五郎正泰の名をよひこの二座の神を里人は弥五郎殿とのみ称しけるとなり弥五郎正泰はのち従五位下左衛門佐に叙爵せし人なりと云)
十九日 嵯峨より京に往来する僧あり仁和寺の六本杉のあたりにて雨の晴間をまち居たりしに日すてに暮けれハ行さきのおそろしさに本堂の縁に心をすまし夜のあくるをそまち居たる折しも愛宕山比叡山の嶺より遙かに物の出くるやうにて四方輿に乗たるもの虚空に来会しぬ風に吹あけたる幔の内を見れは先帝の御外戚峰の僧正春雅を初とし南都の知教上人浄土寺の忠円僧正みな天狗の姿となり各座につけり又車にのりて来れる客もあり是は兵部卿親王のいまた御法体にてましますの形なり程なく御盃なと出けれハ各興ある様なりしにたちまち座中のもの呼ふ声して悶絶する事半時はかりやゝありて春雅苦し気なる息を継て扨もこの世のなかいかにして騒動なすへきと尋れハ忠円僧正其事こそいと安き事なり大塔宮ハ足利直義か内室の腹に男子となりて生れ給ふへし峰僧正は夢想か弟子妙吉か心に入り給へ知教上人は上杉重能畠山大蔵少輔か心に依託して師直兄弟を失はんとはかり給ふへし忠円は武蔵守越後守か心に入かはり事を計らん志かる時は大なる合戦出来て見物はたえましと申さるれは大塔宮をはしめ一同に興に入と見て夜明にけりこの僧京に出て施薬院師和気仲成に此事を語りける其のち四五日を歴て足利左兵衛督直義の北のかた相労る事ありて諸医をまねかれしかは仲成も参り合せ是はかならす御懐妊にて志かも御男子にて御渡り候らんと申たりける是をきくもの仲成か追従や女房の四十に余りて始て懐妊する事やあるとそしりたりしに月日をへて誠なりしかは仲成か申せし旨を感けるのみかのちに所領を直義か許より加へられ典薬頭に申なされたりける(太平記七月十九日といふもの天正本によれり○足利直義高師直と不和となりし事は是よりさきなるへし此条は文勢を工にせんとかく書けるものか)
……中略……
十一月大 九日 北朝にて萩原上皇みつから風雅和歌集を撰はれ青蓮院尊円法親王をして清書せしめ給ふ歌数二千百十首廿巻にわかたるといふ今日これか為に竟宴をひらかる(風雅集園大暦)
其比宗良親王北朝にて撰集ありし事をきゝ及ひ給ふ所にこのたひハあらぬ撰者にて御子左為定は撰者にもれ給ひぬるよしを歎き思召けれは「いかなれは身は志もならぬことの葉のうつもれてのみ聞えさらなん」「このたひはうきもらすとも藻塩草なか/\わかのうらみとはせし」と二首のうたをよみ彼卿の許に贈り給ひける(新葉集李花集)
……中略……
巻之第六
{正平四年乙丑}
今年畠山国清ハ高師泰と相替り石河川原に在陣し楠勢と相対し合戦やむひまなかりける(太平記○信濃宮伝に今年上野国新田庄寺尾城に宗良親王居給ひしかは近国の官兵はせあつまり義兵を起し給ふといへり)
……中略……
巻之第八
{正平六年辛卯 北朝観応二年}
{十二月大}
五日 足利義詮卿東国へ下向の事今日も延引す(同上{園大暦})
信濃国に於て宮方の者とも旗を挙るといへとも終に小笠原の一族等か為に打破らる(小笠原氏古文書○案するに当時信濃国に於て足利家と合戦に及ふ者は宗良親王に志たかひ居たる者とも成へし武蔵野合戦のとき宗良親王は信濃国より起り給ひ上野を歴て東国に打出給ふ如く見ゆれは今小笠原と合戦に及ひしものは彼宮に志たかひしものならん下二ケ条もまた是に同し)
十一日 蒲原河原に於て宮方小笠原の一族と合戦に及ふ(同上)
十二日 是よりさき富士川にも数ケ所の宮方を攻落さん為小笠原の一族由比山に陣をとる(同上)
……中略……
{正平七年壬辰 北朝観応三年}
閏二月小 此春勅使を武蔵上野信濃越後の間に忍ひ居給ひける故義貞朝臣の息男左兵衛佐義興朝臣三男少将義宗朝臣脇屋左衛門佐義治朝臣三人の許につかハされ去年足利尊氏父子と御合体ありしは志はしの智謀によらるゝ所なりいそき義兵を起して彼らを誅伐なすへきよし仰下されける間関東八ケ国にて故直義入道恵源に随かひ薩■土に垂/山の戦に打まけ時をまち居たりける石堂四郎入道義房三浦介高通葦名判官二階堂上野二郎政元小俟宮内少輔義弘等ハ忽ち新田の人々に同意し鎌倉の扇ケ谷に寄合て相談しけるは新田勢上野国に起り武蔵国に打入り旗を挙ると聞えなは尊氏はかならす関戸入間川の辺りまて寄来るへし其時相図を定めて我々か勢三千はかりハ不意に兵を起し尊氏を真中にとりこめ奉りなは一人も生ては帰すましきかねての合図をかため置石堂三浦小俟葦名事なき体にて鎌倉にそ居たりける(太平記○太平記にはこの勅使には由良新左衛門入道信阿まかりむかふよし見えたれとも信阿すてに金崎にて戦死せり志からは今太平記にいふ勅使はやはり前にいふ児島三郎入道ならんか)又同し比宗良親王の御許へも勅使を下され征東大将軍の宣旨を賜ひけるこのとき宮かくそ詠し給ふ「思ひきや手にふれさりし梓弓おきふし我になれん物とは」其比また寄海祝といふ題にて「四方の海のなかにもわきて志つかなれわかおさむへき浦の波風」とそ遊ハされける(李花集○案するに宗良親王この時まて何国に居給ひしや詳ならす太平記の文に上野親王と記せるを見れは信濃宮伝にいふことく正平四年信濃国より上野国寺尾城にうつらせ給ひ今度の勅命により新田の一族と共に旗を挙給ひしものか当月廿一日の条下と見合せ見るへし)
……中略……
{廿一日}
爰にまた武蔵国小手さし原の合戦に武蔵守義宗朝臣石浜にて尊氏卿を追ひ捨笛吹峠にうち登り信濃越後の勢を付くへしと此所に陣し給へは聞伝へてはせ集る人々まつ一番に大江田式部大輔上杉民部大輔子息兵庫助中条入道子息佐渡守田中修理亮堀口近江守(異本に堀河また遠江守にも作れり)羽川越中守萩野遠江守酒匂左衛門四郎屋沢八郎風間信濃入道舎弟村岡三郎(異本に村岡の二字なく悪三郎に作)堀兵庫助(異本に堀口)蒲屋美濃守長尾右衛門(或は左衛門に作る)舎弟弾正忠仁科兵庫助(異本に兵庫頭に作る)高梨越前守大田瀧口千屋左衛門太夫(或は千雁に作る)矢倉三郎藤崎四郎(異本に藤沢)瓶尻十郎同源五郎五十嵐文四同文五高橋大五郎友野(異本に伊野)十郎渋野八郎禰津小三郎舎弟修理亮神家の一族三十五人渋野の一族三十一人都合其勢二万余騎上野親王(上野親王といへるは宗良親王をさせるものならんあるひは又甲良親王をさせるにやいまた詳ならす)を大将にて笛吹峠に打出るまた足利尊氏の事故なく石浜に御座あるよしを聞て彼所に馳集る人々には千葉介小山判官小田少将(小田少将は治久をいふにや少将になりし事は治久いまた宮方に属せし頃南山の勅にて昇進せしならん)宇都宮伊豫守常陸大掾佐竹右馬助同刑部大輔白川権少輔結城判官長沼判官河越弾正少弼(異本に弾正忠に作る)高坂刑部大輔江戸豊島古尾谷兵部大輔三田常陸介土肥兵衛入道土屋備前前々司同修理亮同出雲守下条小三郎二(無イ)宮近江守(異本に近江五郎に作る)同河内守同但馬守同能登守同伊豆守(或は伊豫守に作る)曾我上野介海老名四郎左衛門本間左衛門渋谷右馬允曾我三河守同周防守同但馬守同石見守石浜上野介武田陸奥守子息安芸守同薩摩守同弾正少弼小笠原坂西一条三郎(異本に二郎)板垣三郎左衛門逸見美濃守白洲上野輔天野三河守同和泉守狩野介長峰堪ケ由左衛門(異本に長崎に作る)都合其勢八万余騎なり鎌倉には新田義興脇屋義治の両大将七千余騎にて陣し給ひぬ笛吹峠には義宗朝臣上杉民部大輔憲顕二万余騎にて控給ふと聞えしかは尊氏もまついつくにか向ふへしと評定をそせられける(太平記并異本)
去ほとに京師にても東国にても時刻をたかへす官兵蜂起にして戦争に及ひし始末をたつぬるに土岐(舟木以下廿字一本無)舟木兵庫介頼夏か故なり頼夏ハ初より武家にくみする事を心にまかせすといへとも時勢にひかされ暫く京方に属し居たりけるところ去年の冬より両朝御和睦の間にありて武家のはかりことをひそかに官兵につけたりし故新田の人々も便を得東西の国に於てかくハ時日をたかへす軍を起し給へるとそ聞えしまた今年の事なりしか頼夏か別腹の子に頼尚といふ者ありしを美濃国土岐の庄にうつし置終身行宮の御方に志たかはせ奉りけるされはいつそや周清(請イ)法師か武家の命にたかひしもみな頼夏等か申すゝめる事ありし故なるへし(土岐舟木系図并太平記推考)
……中略……
廿五日 鎌倉には新田義興脇屋義治両大将七千余騎にて陣し給ひ笛吹峠には義宗朝臣二万余騎にて控給ふよし聞えしかは尊氏評定してのちまつ勢のつかぬさきに大敵と聞えし笛吹峠の勢を打ちらしなは鎌倉の勢はおのつから退散すへしとて廿五日(異本に二月廿八日とするは非なり)石浜をうちたち武蔵の府に着給へは甲斐源氏武田陸奥守同刑部大輔子息修理亮其勢二千余騎にてはせ加ハる(太平記)
廿八日 笛吹峠に於ては大将義宗二万余騎にて錦の御旗を打たて陣し給ふ所に(此陣に宗良親王も居給ふ成へし)石浜より向ひし尊氏か前陣甲斐源氏三千余騎にてかけ寄たり義宗朝臣の手よりも越後勢三千余騎にてかけ合せいとみ戦ひたり是時寄手の宗徒とたのみける逸見入道討れけれは二番に千葉宇都宮小山佐竹七千余騎にて打出たり是よりのち敵御方入乱れ終日戦ひくらしたりけれともはか/\敷勝負もなし小勢を以て大敵に戦ふは心得あるへき事なるに義宗朝臣毎度かけ出て戦はれしかは敵をこと/\く破る事あたはす結句味方はたゝかひつかれ笛吹峠に引あけ給ふ上杉か兵の中に長尾弾正根津小次郎とて大剛の者ありしか敵陣に忍ひ入すてに尊氏のあたりちかくまてすゝみ寄たりしに尊氏運や強かりけん見知る人ありてかくと詈りたりけれは敵にかけ隔られけり二人は本意を遂る事あたはしと思ひけれは扨も運強き足利殿やと高らかによはゝり志つ/\と陣中に引返しける夜に入て寄手の陣を見れは篝火おひたゝしくたきつらねとても合戦はとけかたく見えたりけれは上杉か勢とも信濃路に落たりける義宗朝臣今はせんかたなく其暁越後の方に引退き給ひけれは今まて勝負をうかゝひ居たりし武士とも尊氏に馳加はり八十万余騎(異本に五十万余騎)に及ひける(太平記 松井助宗申状○信濃宮伝等に新田義宗朝臣笛吹嶺を落て越後国に趣給ひしかは宗良親王には世良田修理亮親季を添まいらせ信濃国諏訪に送りまいらするよし見ゆこの親季は伊豫守政義の子にして則親季の妹は宗良親王の妾となり御ゆかりもあるにより今度の御供せしものなるへし)
爰に又中務卿宗良親王の御子興良親王は遠江国に忍ひ居給ひけるか敵の擒となり終には北方に幽居し給ひける(李花集新葉集より推考○信濃宮伝及ひ天野信景所蔵古書残篇等によるに興良親王は延元興国の間駿河国にて狩野介貞長か許に居給ひのち遠江国にうつり給ひ天野周防守景顕かしつき申せしかと今年天野無勢なる折から今川か兵とも宮に迫りたりし故一時のはかりことに天野は降参し宮の御命をたすけ奉りしとや扨宮は擒の如くにて入洛し給ひ御ゆかりおはします御子左中納言為定の許に居給ふと云時勢によれはいかにも実を得たるか如し志かれとも他の正史にくハしき伝説なし后の識者考あるへし)
当月奥州の国司ハ宮方の武士ともを志たかへ白川の関まて到着し給ふ(園大暦にのする正平七年三月七日の文書による)
……中略……
{五月小十一日}
是日児島三郎入道か催促により勅命に応して北国に旗をあけ越後国より攻登りし新田義宗朝臣及ひ桃井か軍勢ともは能登のくにを発向す又石堂吉良か兵ともハさきに国を発し先陣美濃国迄発向し赤坂垂井に着陣す其外信濃国に居給ふ中務卿宗良親王ハ神家渋野友野(異本に伴野)上杉仁科禰津高梨板倉以下の軍勢を召具して同日に彼国をたゝせ給ふ伊豫国にハ土居得能兵船七百余艘に取乗て海上より攻上る志かのみならす東山北陸四国九州の官軍みな国/\をうつたちしかハたとひ五日三日の遅速ハありとも此勢とも後攻をなしたらんにハ八幡の寄手ハみな退散すへかりしをこらへすして主上八幡山を落させ給ひしこそせんかたなき事にて有けれ(太平記細々要記)
……後略
巻之第九
{正平十年乙未 北朝文和四年}
{三月大}
廿二日 尊氏父子入洛し尊氏ハ御子左為定の宿所義詮は宣明の宿所を居所と定められける(園大暦)
この頃の事にかありけん為定の許より中務卿宗良親王の御許に消息あり頃日は身ををく所なく迷ひ出たるやうにてあすをも知り難し心細く侍るなりとありて「いとゝ身のをき所なくなりしよりまちこそわふれたのむかけとて」とありしかは宗良親王の御返しに「袖ぬらす露なけるめやたのまれしむかしなからの木かけなりせは」と仰つかハされしとなん(李花集)
……中略……
{七月小}
是月征東将軍中務卿宗良親王官兵を信濃国に起したまふ諏訪祝某仁科某等是に従ひ奉る(園大暦)
……中略……
巻之第十
{正平十二年丁酉 北朝延文二年}
今年中務卿宗良親王百首歌をよみ給ひ北野社に(北野社はよしの山にある所なるへし)法楽し給ふ(李花集)
……中略……
{正平十三年戊戌 北朝延文三年}
十月大 十日 是よりさき東国志つかならす武蔵国の者とも宮方にこゝろをよせ大将を一人申賜はらんと連署を以て越後国に申贈り彼国に居給ふ新田殿の御一族に下向をすゝめたりける義宗義助二人の御方は思慮をめくらし給ひ許容なかりける所に義興朝臣は大はやりの人なりけるゆへ彼等か申むねにまかせ郎従わつかに百余人をしたかへ武蔵国にそ越られけるかゝりけれは足利基氏か執事畠山道誉にうらみある兵とも新田殿にしたかひ今は上野武蔵にて勢ひを振ハれける此よしを道誉聞及ひ討手をさし下さんとすれは国中其はかりことを内通し夜討になさんとすれは義興ことゝもし給ハさりしかはいかゝすへきとおもひけるかきと計策を案し出し先年彼朝臣の御手に志たかひ武蔵野合戦に出たりける竹沢右京亮(異本に右京太夫)良衡といふ者をちかつけ新田殿を討奉て基氏の見参に入へきよし語けれは竹沢欲心ふかき者にて是は莫大の恩賞ありなんとおもひ一義にも及はすこの旨を領掌しはかりことをめくらし討奉るへしとそ答ける扨竹沢ハ其翌日より酒宴にふけり宿々より傾城をあつめあるひは傍輩二三十人相招き博奕す此よし忽ち基氏に達しけれは道誉大にいかり竹沢か所帯を没収しけり竹沢是をいかりたる風情にて所領に幽居しけるかそのゝち兵衛佐殿の許へ人して申やう親にて候入道は元弘の鎌倉合戦に故義貞朝臣の御手に属し良衡もまた先年武蔵野のたゝかひに御方にはせ加りて戦功を励し候ひぬ志はらく御座所をたに存候はぬにより畠山道誉か手に属し候といへとも今また兵衛佐とのゝ御方に参り候はんする程に御ゆるしあれかしと申す義興朝臣もかれか申こと葉まことしからすとて志はしは見参にもいらさりけるかくては叶ふましとおもひけれは竹沢京へ人を昇せある宮の御所より少将殿と申女房の十六七はかりにて容色たくひなき方を召下しおのれか養女になし兵衛佐とのゝ許へ出したりける義興朝臣元来好色にふかき人にておはしけれはたくひなくそ思ひ通はれける此のちにいたり竹沢奉公のこゝろさしあるよし申たりけれは兵衛佐殿こゝろとけ給ひて見参し給ひし程に馬鎧なとを引まいらせ付従ふ人々にも一献を進め馬物具太刀刀のたくひそれ/\に引けるゆへ上下ともに竹沢を無二の者とそ思ひける九月十三夜の月名にをふ空なりけれは酒宴のみきりにうち奉らんと竹沢若党三百人を伏をき佐殿をまねき奉る志かる処に少将殿の御局より此ほとあしき夢見候程に夢ときに問ひ候へは七日か間ハふかき御慎にて候よしを申して候へはとゝめまいらすとなり佐殿執事井伊弾正左衛門直秀に(流布太平記に井の弾正とし異本には井伊に作る今系図を合考す)このこといかゝあらすんと問給へは凶を聞て出給ふことなしといさめまいらせけれは其夜竹沢か許に入らせ給ふへき催は止にけり竹沢おもふやういかさま是は少将殿よりもれたるなるへし打捨置なはあしかるへしと少将殿をハさし殺して棄たりける(畠山家譜に女房の名を笹田と志るす)今の体にては佐殿を討奉んこと叶ふましとおもひ畠山か許へ人を遣し一族の江戸遠江守堯実と下野守能登とをしたされなハかれらと心を合すへしと申程に又道誉もはかりことを案し出し江戸叔姪か所領稲毛庄十二郷を闕所になし給人をそ付られける江戸大にいかりたる真似をなし稲毛の庄にはせ下り城郭を構へ五百余騎にて楯籠り道誉にむかひ一矢射んとそ企けるそのゝち江戸は竹沢か縁により道誉にむかひかゝるうらみ候の間今より佐殿の御方にまいり畠山をうちとり基氏を追はらひ東国に旗をあけ候ひなん鎌倉に一族二三千も候はんに佐殿を大将とたのみ申間鎌倉に御こしあるへしと申越せしかは竹沢か執し申事なれは疑ふへきにあらすとて武蔵上野常陸下総の間に与力なす兵ともに子細を相触れ正平十三年十月十日の暁忍て鎌倉へと急かれける竹沢江戸両人は兼て支度なし矢口の渡の船の底を二所鐫抜てのみをさし向の岸には宵より江戸か手の者三百余騎木の陰にかくれ居また竹沢か兵百五十人は射手を志たかへ御後より射留申さんと合図をなして待たりけり佐殿是をは夢にも志り給はす郎従はぬけ/\に鎌倉へつかはし世良田右馬助井伊弾正左衛門大島周防守土肥三郎左衛門市河五郎(異本に五郎左衛門)由良兵庫助同新左衛門尉(太平記三十一新田義宗以下義兵を起す段に由良新左衛門入道信阿と云ものあり同人にや疑へし)南瀬口六郎(異本に大瀬口に作る)松田与一宍道孫七堺壹岐権守進藤孫六左衛門(異本に松田以下をのせす)等纔に十三人(異本に十二人)打つれ更に他人を雑へす矢口の渡へ漕出すこの渡は四町に余りて浪嶮しく底深し渡し守川の半にいたる時取はつしたる体にて櫓楫を河に落しいれ二ののみを同時にぬき二人は飛入たり是を見て向の岸に三百騎はかりの兵かけ出鬨をとつと作れはあとよりも鬨をあはせ愚なる人々かなと欺むき笑ひける去程に川水船の中に涌入て腰中はかりなりける時井伊弾正左衛門佐殿を抱き奉り中にさし上たれは佐殿安からぬ者かな日本一の不道人にたはかられつる事よ七生まて汝等か為に恨を報すへき者をと大にいかり給ひ腰の刀を抜自害し給へは井伊も同しく自害をとく世良田右馬助と大島周防守二人はさしちかへて川に飛入り由良兵庫助同新左衛門は互に首を掻落す土肥三郎左衛門南瀬口六郎市河五郎三人は川の底をくゝり向の岸にあかり敵五人をうちとり十三人に手負せ終には其身も討れけり(新田系図には正平十四年十月三日矢口に於て自害とし井伊系図には今年の十月にかく神明鏡には今年の九月十九日丹波川に於て自害といふ其詳なる事を志らす丹波川は今川越領のうちにあり)其後江戸竹沢は佐殿を始自害せし人々の首を酒に浸し足利基氏のかねて陣取申されける入間川にいたり此よし披露せしかは道誉大によろこひ佐殿を見知たりける小俣少輔次郎義弘松田大蔵少輔河村但馬守氏清を呼出し是を見せけるに仔細なき佐殿の御首なりとてこの三四年さきに数日相馴奉りし事とも申出て皆涙をそなかしける(案するに相模国の住人松田河村は正平七年武蔵野合戦のとき義興義治に志たかひまいらせて官軍たり武蔵野のいくさ破れしにより松田河村か所領相模川の川上に要害をかまへ両大将をおのか城に招き申せし事太平記等に見えたりそれよりのちも志はしは官軍たりしかと接戦終に叶ひかたく基氏に降参し彼手に属せしものならん)かゝりけれは竹沢江戸か忠功群に越たりしとて恩賞数ケ所をあたへられける是を見聞しこゝろあるものは爪弾をなしてそ居たりける竹沢は猶も兵衛佐殿与力の人を尋ねん為に基氏の陣中にとゝまり江戸は日を歴てのち新恩の地へとそ下りけるこの兵衛佐義興朝臣と聞えまいらせしは故義貞朝臣の二子なりしかとも庶子なりしかは越後守義顕自害のゝち嫡子にもたち給はす三男義宗は六歳と申時より昇殿し給ひ佐殿は徒らに上野国にとゝまり居ひける志かるに北畠顕家卿奥州の勢を催し上洛し給ふ時にあたり兵を起して鎌倉を攻落しやかて吉野の内裏へ参り給ひし所に先帝その器用を叡感あり義貞の家をも興すへきものなれはとて其時まて徳寿丸と申せしを御前にて元服させ新田左兵衛佐義興とめさる果してそのゝちの戦功人の耳目を驚かす事多かりけるに一朝の露と消させ給ひにしかは惜まぬ人こそなかりけれ(太平記○系図并に新井君美か三家考によりて考ふるに今矢口の渡にて新田義興朝臣川に沈み給ひし時世良田右馬助義周か弟義時といひしもの水中をくゝりからくしてこゝをのかれ後に藤沢の道場に入て僧となる遊行は第十二世の時なりこの遊行上人と申は大塔宮の御子にて尊観法親王と申せし方なれは宮方にゆかりもおはしまし終にかれを藤沢に居らしめ其後還俗させ又右馬助義時と名乗らせ給ひけるよし見ゆ私に案するに尊観法親王は大塔宮の御子にあらす亀山院の皇孫常盤井式部卿恒明親王の御子なるを後村上院御猶子になされ二品にすゝめまいらす世に此宮を南門跡と称することは南朝の宮なるゆへなりときけり又新葉集に此宮の御歌あまた載たれとも御名を探勝と志るし尊観とは見えすことに正平より弘和の比まて吉野の行宮に居給ふかことく見ゆる時は此時にあたり藤沢に居給ふといふともまた疑なきにあらすおもふに尊観法親王は自ら別人にましましぬへし竹口栄斎は探勝親王は元中の比遁世し給ふよし志るしたれともいかなる證ありし事にや其説の詳なるをは聞及ふ事なし)
廿三日 去程に江戸遠江守は兵衛佐殿をうしなひまいらせ今度恩賞の地に下向せんとこの日の暮程に矢口の渡に下居て渡し船をそ待居たるかゝる所に佐殿を沈めまいらせし水主迎の為に出来りて酒さかなを設け河中まて過けるころ雷鳴り出し水上風烈しくなりさかまく浪に打返され水主楫取一人ものこらす水底にそ沈みける江戸は兵衛佐殿の怨霊なりとおもひけれハ岸に引返し二十余町上の瀬へ馬をはやめてうちけるに雷の響夥しく馬より落て悶絶す家人にたすけ(家人にたすけ一本ニ輿にのせニ作ル)られ漸く宿所に帰りけるか兵衛佐殿の御事を申出し川水に溺るゝ真似をして死したりけるそ不思議なる是のみならす畠山か夢にも恐ろしき事多く又矢口の渡にて於てあやしき事ともたえさりけるゆへ村老かの霊を一社にあかめ奉り新田大明神とそ申ける(太平記)
……中略……
巻之第十一
{正平十五年庚子 北朝延文五年}
{十月小 朔日}
これよりまへ東国の畠山か勢なと河内国まて責入て吉野の行宮もあやしく見えさせ給ひけれハ宗良親王信濃国より打上らせ給ふへきよし御催ありけれとも其事も叶ハすして程過にける此ころハおもひの外に敵も引退き御入洛さへあるへきと主上よし野より行幸ありけれはなをも信濃より力を合せ申へきよし仰下されけるされとも秋より冬にいたりぬるまて其事おそなハりけるを主上より斯そ仰つかハされける「いつまてか我のみひとり住吉のとハぬうらみを君にのこさん」宗良親王御返しに「我か急くこゝろを志らハすみよしのまつひさしさをうらみさらまし」勅答の序にかくそ奏し給ひける(李花集より推考す○新葉集李花集によりて案するに東国の軍勢襲ひ来りし時天野の行宮より観心寺に遷幸ある其頃信濃国に御座ありし宗良親王にも勢をつけて■王に貝/上るへきよし仰つかはされしならん志かるにとかく宮の仰に志たかふ兵もすくなく上洛し給はん事遅はりけるうちにおもひのほかに敵は志りそき北方にて仁木畠山か乱起りしかは主上も都ちかき住吉まて行幸あり折にふれては京を襲ひ給ひん御はかりことをめくらされけると見えたり)
……中略……
十二月小 今年宗良親王軍勢を催し行宮に赴きたまハんとありけれとも道のほと雪氷いとふかゝりしかは其事やみにける此時一首の歌を詠して奉らせ給ふ「木曽路河あらしにさえて行浪のとゝこふるまを志はしまたなん」
この頃しも上杉民部大輔憲顕も信濃の方にて宮方となりけるとなり(李花集及ひ太平記三十九芳賀禅可合戦の条の文より志るす)
……中略……
巻之十二
{正平廿三年戊申 北朝応安元年}
{二月小 廿四日}
この頃宗良親王信濃国にすみわひ給ひける折しも住吉の行宮より御使あり此程打続き御脳にて御心くるしかりつるやうなとおほせられ「めくりあはん限そ志らぬ命たにあらハとたのむほとのはかなさ」と有し御返事に「めくり逢む頼みあるへき君か代に独り老ぬる身をいかにせん」とありけるとなん(李花集○桜雲記にこの御贈答の歌を以て後村上院崩御以前の事とするゆゑ爰に志るすまた同書に遍照光院入道前太政大臣より宗良親王の御許にふみの序に「日にむかひ月に忘れぬ心をハたゝなかそらに思ひやらなん」と有けれは御返事に「思ひやりなけきてくらす心をは月日も志らぬ時や有らん」とよみつかはされしとあり遍照光院ハ前年薨せられしか如しいまた其定説を志らされハ所見にまかせり猶のちの考をまつ)
……中略……
巻之十三
{正平廿三年戊申 北朝応安元年}
この年頃信濃国大河原に御座ありける中務卿宗良親王には香坂高宗ねんころにつかへまいらせけりかゝりしかハ宮も深く彼か志を感し給ひけれとも時いたらすして其志も空しくなりなん事をおもひめくらしたまひけれハある時一首の御歌を賜ふ「いハて思ふ谷のこゝろもくるしきは身を埋れ木とすくすなりけり」(李花集より推考し姑く今年にかく)
……中略……
{正平廿四年己酉 北朝応安二年}
十二月小 是月河野通直伊豫国を平均す(……中略……○南方紀伝桜雲記信濃宮伝等に十二月の末に宗良親王信濃国より行宮にいたらせ給ハんとありし時香坂高宗なと頻にとゝめ参らせしかは民部卿光資朝臣を信濃国に残し置尾張路にかゝり同国羽豆崎より御船にめされ伊勢路よりよしのに上らせ給ふと云志かれとも宗良親王よしのゝ行宮に帰らせ給ひしは文中三年の事にして今年仮初にも行宮に帰らせ給ふ事ハなし李花集を案するに信濃国大河原と申侍りしにそなたとおもひしかたもまたさうゐする事ありしかハ中空にたゝよひし頃よみ侍し「志はしたにふかぬ間もかな風の上にたつちりの身のありかさだめん」と見ゆ志からハもし今年冬の頃いつかたにや思たち給ふ方ありて親王香坂か許をたち出給ひしかともそれさへたかふ事ありて本意なくなりし成へし皇居迄帰らせ給ふにハあらねとも其御心にて信濃よりハ立出給ひし事ありしを拠として桜雲記
南方紀伝に書けるものか)
……中略……
{建徳二年辛亥 北朝応安四年}
{十二月大 廿八日}
此頃にや信濃国に居給ふ宗良親王の御許い鎮西の懐良親王よりの御消息便宜によりて届しかハ御返事をつかハされ御歌の返し「とにかくに道ある君か御代ならハ事志けくとも誰かまとハむ」「草も木も」なひくとそ聞この比のよを秋風となけかさらなん」(李花集)
……中略……
{文中三年甲寅 北朝応安七年}
{十二月大}
この冬中務卿宗良親王信濃の方より吉野の行宮に帰らせ給ふ延元の比東国へ下向し給ひしのち多くの年月を過し給ひけれハ見しむかしの人もなく万つにつけてむかし思ひ出られ給ひしかハ「おなしくハともに見し世の人もかな恋しきをたに語りあハせん」(新葉集○細々要記に此冬宗良親王信濃国より武士わつかに二(七イ)十騎はかりを志たかへ南都を過て東南院に入御し給ふそれより春日の社にもふて諸堂御巡礼のゝち三輪に御止宿ありそれより行宮に帰らせ給ふといふ)
……中略……
巻之第十四
後亀山院(吉野山賀名生を以て皇居とす)
天授元年乙卯 北朝永和元年
正月小 当月行宮に於て五十番の歌合を興業し給ふ時に宗良親王信濃国より吉野に帰り居給ひしハ判官となり給へり(新葉集)
……中略……
十二月大 当月九州に於て合戦あるのところ武家方勝利を得たり(神明鏡)
今年吉野の内裏にして五百番の歌合を催され宗良親王判者たり作者にハ左に女房弁内侍春宮大夫顕統権大納言公長権中納言実興無品仁誉法親王前関白大納言光有左衛門督長親藤原経高朝臣右にハ源資氏関白前大僧正頼意前中納言具氏源頼武朝臣大宰府帥惟成親王中納言光資権大納言実為春宮権大夫師為源成直等都て二十八人なりこの時判者より一首の歌を添て奏し給ふ「君か経む千年の数にとる玉のくもらぬかけを猶磨くかな(五百番歌合)
……中略……
{天授二年丙辰 北朝永和二年}
三月大 十一日 後村上院九回の法会に当らせ給ふにより如意輪寺にて御仏事を行ハれける此折しも中務卿宗良親王日野の頼意の許へ「いく春かちりて見すらんつらかりし花もむかしの別なからに」と仰つかハされしかハ御返しに「志たかへともみし世の春ハうつり来てあたなる花に残る面かけ」とありしいと哀にそ聞えける(新葉集)
この日御仏事ありけるゆゑ嘉喜門院如意輪寺にこもらせ給ひ御影堂の前なる花の枝に添て「こゝのへに色そへて見よむかし思ふみのりの庭の花の一枝」と遊ハされ奉らせ給ひしかハ今上「なきかけを花によそへて志のへともこれもあたなる色そ恋しき」「花にたにこゝろハそめし遠さかる春のわかれのうきにつけても」と御返しありけるとそ(嘉喜門院御集)
十二日 人々吉野の内裏に参り昨日中務卿宗良親王日野大僧正頼意なとの旧懐の歌よみ侍る事を奏し申せしかハ今上是をきこしめして「四の時こゝのかへりに成にけりきのふの夢もおとろかぬまに」と詠せさせ給へりとそ(新葉集)
……中略……
四月小 当月吉野の内裏に於て歌合を興行せらる作者にハ中務卿宗良親王関白左大臣民部卿光質朝臣従三位親文卿権中納言経高卿前内大臣顕統等なり(新葉集)
行宮に於て今度興行ありける百番歌合中務卿宗良親王判者たるへきよし勅諚ありけき竹といふ題にて今上「かきすつる言の葉なれと呉竹のそのふの風にまかせてそ見る」とよませ給ひける(新葉集)
……中略……
八月大 この秋吉野の行宮に於て今上春宮(長慶院の御事なるへし)宗良親王等千首の歌を詠し給ふ(新葉集宗良親王千首跋○花さく松にこの時春宮(長慶院)のよみ給ひし千首の歌を新葉集に載られさるハ初に弁する如く後亀山院と御中不和にまし/\太子より太上天皇をすゝめ申程の事なれハ新葉集に御歌を除かれしものなりといふ)
……中略……
{天授三年丁巳 北朝永和三年}
三月小 この春行宮にて中務卿宗良親王千首の歌をよみて奉らせ給ふ其包紙に一首の歌を書そへ給ふ「一枝の花をそへてそたてまつるこのことの葉に色のなけれは」(新葉集○細々要記に和田楠住吉に陣とりしにより十九日山名修理大夫義理同氏氏清千余騎を率ひ摂津国に発向し中島に陣とり合戦に及ふと云○底倉記に当月堀口四郎貞元ハ故堀口貞満か三男なりけるか忍ひて上野国にいたりこゝかしこに残り居給ふ新田殿の一族を相催し旗を挙んと企ける是により世良田大炊介政義桃井右京亮同和泉守貞識等をすゝむるといへとも当時武家の威に恐れて一味するものなしといへり)
……中略……
{八月小}
此頃中務卿宗良親王行宮に来り給ひて皇居ちかきあたりにすませ給ひけるか南山伺候の人々の歌をあつめ集になし給ハんと思召けれハ家々の集ともを請ハせ給ひける嘉喜門院の御歌をも求させ給ひけれと門院辞し申されけるを再三望ませ給へハやかて贈らせ給へり宗良親王見終り給ひしのち門院の仰ありし如く墨を加へて返させ給ひ其時の御消息の奥に二首の御歌を添給ふ「松風をそのふることゝ聞なして袖の時雨のひまもなきかな」「くもりなき半の月の影をこそたゝ君か代のためしにハひけ」(嘉喜門院御集奥書)
九月大 中務卿宗良親王の御子興良親王ハさきに北朝にとらハれ給ひて都に御座ありけるか病ひ重くならせ給ふころ吉野の行宮に居給へる宗良親王の御許へ「いかになを涙をそへてわけ侘ん親にさきたつ道芝の露」と一首の御歌を贈らせ給ひけれハ宗良親王是を見給ひ御返しに「我こそはあらき嵐をもふせきしにひとりや苔の露はらハまし」と仰つかハされけり此御返し京にいたり興良親王御覧ありし次の日終にむなしくならせ給へりとなん(新葉集○新葉集にハ此宮を以てよみ人志らすと志るせり今天野氏蔵古書およひ桜雲記等を合考して御名を補ふ大日本史にハ隆良親王と志るすこれ大塔宮の御子の伝を混同せしものと見ゆ抑この興良親王の御事ハはしめ駿河国秋葉の天野周防守か許に御座ありける志かるに北朝の武士とも襲ひ奉りけれハ天野周防守防戦の術なく一時のはかりことに北朝に降参し宮の御命をハ助け奉りしかと終に北朝の御子左大納言為定卿の許にてかくれ給ふと云これ桜雲記南朝紹運図等に見ゆる所にして他の史に證を得す)
……中略……
十月大 さきに宗良親王信濃国に下向ありて宮方を催し給ふへき勅をうけ給ひけり志かれとも故ありて年月を過し玉ひ今年ハ彼国に下り玉ふへしと治定し給ひける其比興良親王都にてうせ給ひけれハ悲歎いはんかたなしされともやむへきならねハ信濃国へと出立給ひ御旅行の序大和国長谷寺に登山あり爰にて御餝をおろし給ふこれ若宮京にてなくならせ給ひける御なけきの故とそ聞えし主上此よしを聞し召其際の事ともなにくれと仰られしかハ宮の御返事に「君になと我世はつせのかねの音かくなるとたに志らせさりけん」と一首の歌を志るして奏させ給ひけれハ主上もあハれと思召ける(新葉集)
関白左大臣中務卿入道宗良親王なけく事あるよしをきゝ時雨かちなる夕くれの程歌よみて宮の御許へ参らせらる「よそにきく我たにほさぬなみたかなおくるゝ袖ハ猶や志くるゝ」宮もまた御返しありて「時雨よりなを定めなくふるものハおくるゝ親の涙なりけり」(同上)
……中略……
{天授五年己未 北朝康暦元年}
{九月大}
十三日 何時の頃にか有けん中務卿入道宗良親王ふたゝひ信濃国をたち出河内国に帰り山田といふ所にすませ給ひける今よひハ月いとあかゝりけれハ関白左大臣の許より「面かけもみしにハいかにかハるらん姨捨ならぬ山の端の月」と仰つかハされしかハ宮の御返しに「身の行衛なくさめかねし心には姨捨山の月もうかりき」と詠せさせ給ひけり(新葉集○宗良親王信濃国より河内国山田に帰り給ひし月日詳ならす信濃宮伝にハ去年五月の事とせり○底倉記に新田義隆朝臣男子を設け給ひ御名を鶴寿と申すよし見ゆ)
……中略……
{天授六年庚申 北朝康暦二年}
三月小 廿八日 万里小路中納言藤房卿入道のゝち数年の星霜を歴薨し給ふ(六祖記六祖記異本書を見すと雖とも志はらくこゝに志るすこれハ臨済派の禅録なり○藤房卿の年齢公卿補任建武元年十月五日出家のとき三十九歳と見ゆる時は今年八十五歳となり給へりこの入道の事跡他に所見希なりといへとも其大略をこゝに注す南朝雑録にハ土佐国にて溺死し給ふといふよしの拾遺にハ其終を志らすといふ志かるに山城国正法山妙心寺に彼卿の事跡あり妙心寺第二世を授翁と号し又佩山子と号すこの人ハ縉紳家の出家せるよしいひ伝へて今寺中に天授院あるハかの入道の墓所に一寺を開基せし所なるよし云へりおもふに天授六年卒し給ふにより其年号を用ひて院号とせしものか是拠とするの一なり又近江志に近江国三雲村に妙感寺村といふ接せりこの村に妙感寺といへる禅院ありて是もまた授翁の開基し給ふ所なりといひ寺の説にハ開基勅謚神光寂照禅師ハ俗姓万里小路藤房卿の事にて本尊千手観音ハ後醍醐帝より藤房卿に賜ふ所なりと云又什宝に藤房卿の歌あり「世のうさをよそに三雲の山ふかくてる月影や山すみの友」妙感寺にて云伝ふる所近世の事にあらすと見えて旧来万里小路家より音問ありときく是拠の二也是らより合考する土岐ハ藤房卿ハ六祖記に見ゆる如く洛北妙心寺に遷化し給ふこと実を得たるかことし扨又南山にて新葉和歌集を撰はれける時南山随身の人のみをのせられ上元弘より下弘和まての歌をあつめ給ふ藤房卿ハ建武の頃後醍醐帝につかへまつり忠信第一の人なれハ此卿をもらせし一事ハ撰者の意あるか如しかの卿実に北朝にこゝろを通はし給へるにハあらねと都ちかき妙心禅寺に居給ふ故に南山にて主上の思召るゝ所よからすして新葉集の作者は加はり給はさりしか)
……中略……
巻之十五
{弘和元年辛酉 北朝永徳元年}
十月大 朔日 日蝕(後愚昧記)
 十三日 宗良親王去る天授五年のころよりみつからえらみ集め給へる歌の集あり其作者ハみな当朝につかへてふたこゝろなき人々なり今年の秋に及ひて彼集を奏覧に入給ひしかハ勅撰に擬し申へきよし日野右少弁資茂をして二条少将につき宗良親王にこのむねをつたへ申へきよし勅諚ありけり(新葉集奥書)
……中略……
十二月小 三日 新葉和歌集ハすてに勅撰に擬すへきよし仰下されなをもこゝかしこをあらため撰み給ひしうへ今日奏覧をとけらる(新葉集序○新葉集撰集の事を嘉喜門院御集の奥に書添し宗良親王の消息の文に合考するに宮いまた信濃国に居給ひける頃より少しつゝ歌ともをあつめ給ひ天授の初吉野に来り給ひしのち家々につき其集を求め再ひ信濃国に下向の時もこれを携へ給ひいく程なく河内国山田庄に帰りすませ給ひ彼山田にて草稿終り弘和元年奏覧ありけるものとおもはる其ゆゑをいかにといふに嘉喜門院集奥書に此歌とも再三見まいらせ給ぬさきにも関白のもとへ申つかはして候ことく御歌こと/\く殊勝に候程にいつれをもらし候へきにて候ほとに墨をつけまいらせ候これハみな/\集に入申候へきにて候とありこの文みな/\集に入申へきといへるハ新葉集をさしけるものにてこの嘉喜門院及ひ関白の集なとを請ひ給ひしハ撰集あるへき為の料と覚ゆ扨又同書に松風の御贈答ハまめやかに目を驚かし心をまとハし候ぬるといひまた其文の奥に此たひの御遊になとハたゝ大かたにのみひゝきわたり給へるに我身ひとつにかきりて候てたへかたく候とあり是を集の歌に照応するに松風の御贈答ハ天授三年七月七日の夜の事なりまた此度の御遊と消息にかゝれけるより見れハこの門院の集を親王より所望し給ひしハ天授三年の秋の事なるへし又志かしなから住よし玉津島の大明神の御道ひきにてかゝる事も思立せけるとまて覚候て今ハとひたつはかりにこそ候へかやうのことの葉ともひろひ置候ひぬれハこと/\に新葉の色ふかく行末まての跡となり候はんとすると覚て候消息に書し所の住よし玉津島の大明神の御道ひきにてかゝることも思立候けるとまて覚候て今ハとひたつはかりと見ゆるハ今新葉集を撰ひ給はんと企給ひし事のかしこくそ侍るといふこゝろ見え新葉の色ふかく行末まての跡となり候はんとあるよりおもへハ天授三年の秋此集を請ひ給ひし時はや新葉の文字見ゆされハ此以前よりはや新葉集と名つけし歌の集を書あつめ置かれしものを今年よりのち猶も広く家々の集によりえらひ給ひあるものか扨又天授の初吉野に帰り給ふといへとも程なく信濃へ下向あるへしとて其催ありし事ハ新葉集に所見あり天授三年の冬入道のゝち終に下向の事なれハ初にもいへる如く是よの集及ひ家々の集をとりあつめ信濃へ携へ給ひ彼国にて撰ひ給ひしならんともおもはるされとも信濃にも久しくハ居給はす再ひ河内国山田庄に来り給ひこゝにて草稿終り弘和にいたり奏覧をとけ給へりしなるへし今こゝに志はらく其案をうけ置けり又新葉集ハ南山伺候の人をのみ載られ年ハ弘和にいたるまての歌のみなり其体裁ハ新葉集の序に見ゆるによりこゝに注せす南山第一の忠臣と芳称する所の藤房卿の詠此集にもれ正行の歌なとも書もらせしハいかゝなるゆゑありしにや志らす藤房卿の論ハ天授三年三月卒年の条下に志るす合せ見るへし)
……中略……
{元中二年乙丑 北朝至徳二年}
八月大 十日 入道中務卿宗良親王此程ハ遠江国井伊谷に御座有り彼地にて薨し給へり御年ハ七十三ときこゆ御弟無文禅師もあたりちかくすませ給ふほとに葬事をとり行ひ御法号ハ冷湛寺と申奉る此宮当朝に勲労おはする事ハ時の人の知る所にして宮かくならせ給ふハ万民のかなしみなりと申あへりける(南朝紹運図無文禅師行状尊卑分脉及ひ信濃宮伝を合考して志るす冷湛寺の御法号ハ信濃宮伝によりて補ふ)
……中略……
{元中三年丙寅 北朝至徳三年}
十二月大 当年北朝に於て五山の仏刹をさたむ天龍相国建仁東福万寿の五ケ寺なり(和漢合運○浪合記及ひ兵家茶話等を案するに当年八月八日中務卿宗良親王の若宮兵部卿伊良親王吉野の行宮に居給ひしところ源姓を賜はり征夷大将軍兼右近衛大将正二位中納言になり給ふといふ又底倉記に八月十一日若林入道霊山に帰り来りて越後上野駿河の一族与力の人々義兵を挙へきよし許諾のむねをのふる其人々にハ上野に世良田大炊介政義桃井和泉守同右京亮田中丹後守堀口四郎越後に於てハ里見二郎同越前守鳥山左近蔵人仁科掃部介甘糟太郎駿河に於てハ鈴木越後守兄弟井出弾正少弼田貫二郎同左京亮宇津越中守を初として一同に旗を挙けんと企ける由を告たりける)
……中略……
{元中四年丁卯 北朝嘉慶元年}
二月小 十五日 無文元選禅師ハ去る元中元年天台山方広寺を経営しこゝにすみ給ひけるに学徒また志たかひ来れり此地より再ひ美濃国に赴き椿(精イ)洞といふ所に了義寺を建立し其のち終に方広寺に帰らせ給ふ志かるにこの国の住人にて禅師の弟子となりふかくつかへまいらせし奥山朝藤今日卒したりけれハ法号をも方広寺殿となつけさせ給ひける(無文禅師行状○底倉記に二月伊達信夫下山田村庄司岩城刑部大輔忠門相馬下野守以下霊山の城に会合し着到二万七千余騎をもつて義隆貞方両大将となり給ひ白河のかたに発向なす結城親朝是を聞て今度ハ宮方大軍なれハ難所に引籠り防くに志かしと白河の関をさしかため用心厳敷まちかけたり)
……中略……
{元中五年戊辰 北朝嘉慶二年}
三月大 十八日 鎮西懐良親王肥後に於て薨し給ふ尊骸ハ麓山といふ所に葬し奉る……後略


遠江国風土記伝巻第三
引佐郡(倭名鈔訓伊奈佐)○渭伊庄
……中略……
○奥山 高三百七拾壱石壱斗○四境山囲、中一水流、井伊川源是也
 ○方広寺、臨済宗一派祖師、吉野皇子法名無文禅師之御在所也
 ○奥山古城、奥山六郎曰、昔遠江介伊井之介族人、奥山藤原朝藤之城也、子孫世住而延元元年京師兵乱之時、後醍醐天皇御子宗良親王入御于此城也、慶安四年無文禅師入御之時、朝藤建立方広寺、嘉慶元年二月十五日朝藤卒去、子孫相続領知奥山地、足利将軍十三代之時、城主奥山因幡守不応台命而落城(軍陣事不伝)其子奥山源太郎住居于城下○城跡在村中高平、郭外三方構溝、郭中正南礎石存焉、中央地方凡三十歩、東北隅堀井(巾七尺深不知)西南隅造洲浜、立石崎石等七八於今存焉諸人曰奥山城、去井伊城一里
 冷湛寺記宗良親王伝曰
後醍醐天皇第二皇子宗良親王、御母贈従二位藤原為子、権大納言為世女也、始は妙法院へ御入室ありて一品法親王尊澄と申奉る、元弘二年(親王御年二十)三月八日、相州平高時か為に讃岐国宅間郷へ流されさせ給ふ
 南方紀伝云、元弘二年(関東元徳四年)春三月七日、主上隠岐国へ遷幸、おなしく八日一宮尊良親王ハ土佐国、妙法院宮は讃岐国、、大覚寺宮は越中国へ流し奉る云云
同三年(御年廿一)
、天皇大裏へ遷幸(アリ)同年尊澄法親王も御入洛ありて、御帰

関東正慶二年(ナリ)六月七日主上大内に遷幸、年号并に味方せし公
、先年配流の宮方国々より上洛云云


道政官軍に属て戦功あり延元元年十月、後醍醐天皇叡山より吉野へ遷幸の時、新田義貞は一宮尊良親王の供奉て北国へ赴き、井伊介道政は第二宮宗良親王の供奉で叡山より遠江国井伊谷城へ帰り同郷奥山に城郭を構て楯籠り、近辺を随て宮を守籠奉る
 太平記巻十七(延元元年十月十日)曰、東宮一之宮中務卿(尊良)親王北国へ行啓、妙法院宮ハ御舟ニ被召テ遠江国へ落サセ玉ヒ、阿曾宮ハ山臥姿ニ成テ吉野ノ奥ヘ忍ハセ給、同記巻十九(延元元年)遠江ノ井ノ介ハ妙法院宮ヲ取立テ奥山ニ楯籠○兵家茶話云、延元元年の冬、主上忍て都を出させ給ひ、楠正成か一族等召具して、芳野山ニ入せ給ひ、宗良親王は井伊介道政供奉て、近江国打出浜より御舟に召れ、美濃路を歴て尾張国犬山と云所へ渡らせ給、かゝりける程に同国中嶋の堀田修理亮之盛海部の大橋三河守定高等参りて、遠江国へ送り参らす、井伊介道政甲斐々々しく供奉りて、己か領内奥山の城に入レ奉りて、新助高顕をして国中の親族に触て招きける程に、秋葉の天野一党を始奥山乾二侯入野の兵等、我も我もと集けり云云
延元元年(御年廿六)正月、陸奥国司顕家卿上洛の時、宗良親王も井伊谷より御上ありしかと、此時の軍利あら受して顕家卿討死の後、宗良親王は吉野の皇居へ赴かせ給
 南方紀伝云、戊寅南朝延元三年、北朝暦応元年五月廿二日、和泉国堺の浦にて合戦、官軍やふれて顕家卿討死ス御年三十一(権中納言資朝卿のむこ)李花集云延元三年の頃かや、顕家をいさなひて、あつまよりはる/\とのほりて、今は都へといそき侍しに、奈良天王寺のいくさやふれしかは、思ひの外に吉野の行宮に参りて月日を送云云
同年九月、宮々伊勢国より御舟に召れ東国へ御下向ノ時遠江灘にて難風吹て、宗良親王の御舟は同国白羽の湊に漂着、再ひ井伊の城に入らせ給
 参考太平記ノ巻廿、元弘日記裏書云、延元三年閏七月廿五日、義良親王并一品親房顕信卿等率ヒテ東軍下向勢州、八月十七日解纜、九月十一日於伊豆崎遭大風、数船漂没ス矣、親王ト顕信卿等ノ船ハ皈勢州、上野入道道忠艤此船ヲ、入道ト一品ノ船ハ着常陸国訖、尊澄法親王ト尊良親王ノ第一宮、着御遠江国井伊城云云
 南方紀伝云、延元三年八月十七日、勢州より下向の官軍、纜をときて東国へ出船す、九月十日東国下向の船とも、伊豆の御崎にて難風にあひ、船ことことく漂没、親王顕信卿の御ふねは勢州の篠嶋の里に吹かへす、結城入道此船をとゝのふ、一品親房公の御船は、常陸国内海に着、尊澄親王并に尊良親王の御子一品の御船は、遠江国白波の湊に着、其時に親王の御詠歌
  いかてほす 物ちはしらす とまやかた かたしく袖の 夜の浦波
 李花集曰、井伊城にて
  なれにけり 二度きても旗衣 同し東の 峯の嵐に
延元四年八月後醍醐天皇(九十五代諱尊治寿五十五)吉野にて崩御、此時井伊城より吉野別当左大臣殿の御方へ、御使を遣さる
 李花集に云、延元四年八月十六日、先帝隠させ給ひぬよしほのかに聞えしかとも、更に猶誠にも覚え侍らて日数を送り侍りしに、何方よりの風の音つれも、同し悲しみの声のみ聞えしかは、一方に思ひ定め侍るにつけても、いとゝ夢の心地して、さらてたに淋しき山の奥の住居、いとゝ如何と覚束なけれは、長月の末つかた空も例通りかきくもりて、我々か中の時雨も隙なかりける頃、泪の色の紅も同し千入にやなと、思ひやられしかは、秋のもみちとちり/\にならぬ様に沙汰有へきよしなと、別当資次卿のもとへ申つかはしける、次に、井伊城に有し紅葉を一葉包みくして
  思ふにも 猶色浅き 紅葉かな そなたの山は いかゝしくるゝ
   返し
  此秋は 泪をそへて 時雨にし 山はいかなる 紅葉とかしる
かくて親王は井伊の城に御座有しかとも、諸国の宮方衰し故、遠江の人々も背く者多かりしかは、井伊城を出させ給ひ、駿河国へ赴かせ、御子興良親王の御座有し狩野介貞長か館へ入せ給
 李花集曰、駿河国貞長か本に、興良親王有よし聞て、しハし立より侍りしに、富士の煙も宿の朝気に立ならふ心地して、誠にめつらしけなきやうなれと、都の人はいかに見はやしなましと先思ひ出られて、山の姿なと絵に書て、為定卿の元へ遣すとて、
  みせはやな 語らはさらに 言のはも 及はぬ富士の 高ねなりけり
興国三年の秋まて、駿河国に御座有しかと、御方に参る者もなかりしかは、信濃国へ赴かせ給とて、浮嶋か原千本の松原を過て、車返と云所より、甲斐を経て、信濃国の大河原の高坂四郎高宗か館へ入せ給ひ、同年の冬越中の国へ赴給ひ、名古浦石黒越前守重之(今ノ御旗本長谷川庄五郎殿先祖也)か館に入せ給ふ、
 李花集曰、興国三年越中国名古浦に住侍し頃、都へ行人の便宜にやよひの頃にて、為定卿の本へ申遣し侍る、
  いたつらに 行ては帰る 雁はあれと 都の人の 言つてはなし
  今はまた 問くる人も 名古の浦に 汐たれて住 あまとしらなむ
   返し
  ねになけと うれとはきかて 行雁に 言伝なしと 何思ふらん
  あゆの風 速吹かへせ、名古の蜑の しほたれ衣 恨のこさて
同六年(真龍按ニ興国四年五年ノ頃ハ、信濃国更級ノ郡姥捨山ノ辺ニ住給歟)
 李花集云、さら科の里に住侍しかは、月いと面白くて、秋ことに思ひやられし事なと、思ひ出られけれは
  もろ共に 姥捨山を越ぬとは 宮古に語れ 更級の月
 同し頃信濃国姑捨山の麓に住居し、権小僧都成俊に万葉集を賜ひし事有、万葉集奥書に、文和二年乙巳中秋八月、僧都成俊曰、爰ニ逢元弘兼務間陵谷転変乱、面不能客於身寓居、云云於信州姑捨山之麓、結草為盧養余生、有佳客携此集来テ問余、余語曰僕有志願積年、云云行年已向七旬也、老眼有不堪筆之愁ハ巻而懐之、客聞之乃感余誠心、而此集全部廿巻書写之而投于余トイヘリ
春又信濃国大河原へ帰り給
 南方紀伝云、興国六年ハ北朝ノ康永三年ニ当、春宗良親王越州より信濃国へかへる云云
正平四年上野国新田荘寺尾城へ移り給ふ、此年征東将軍の令旨くたる
 真龍曰、李花集云、東夷を征へき将軍の宣旨下されて、東山東海のほとりに籌策をめくらし侍るひまに、題をさくりて
   寄海祝を
  四方の海の 中にも和きて静なれ 我おさむへき 浦の波風
武蔵の国において、足利尊氏と御合戦あり、冬の軍は信濃と上野の国堺にて、官軍やふれて、宮は諏訪へ落させ、夫より大河原に忍はせ給ふ(李花集の歌巻末に註)かくて十余年の春秋を上野信濃の間に送らせ給ふ、同廿四年夏(当慶安二年)大河原より吉野へ上らせ給ひ、先帝の御墓所を吊給て、同冬の頃信濃へ下らせ給ぬ処に、堺弾正并畠山入道等、軍勢をもよほし本田か陣より信濃に攻来る、此時宮は大海原におはしけるを、高坂等守護奉て防き戦
 兵家茶話云、正平廿四年夏、宗良親王は民部卿光資を信濃に留め置給ひて、尾張国犬山へ出させ、同国出羽伊豆崎より御船にめされて、伊勢盧を経て、芳野に御上り故院の御墓に参らせ給ひ、御仏事なと執行給ひて、同冬信濃へ下らせ給ふ
 南方紀伝云、正平廿四年十月十三日、関東勢信濃に発向、其頃大河原の城に将軍の宮籠らせ給ふ、渋谷か一族并高坂の高宗木曾の上杉等随ひ奉、関東勢と合戦して十月より十二月下旬に及ふ、此年大雪ふりて両軍たかひに戦をやめて、関東勢国に帰る
同十二月、親王又吉野へ上らせ給、同廿五年ノ春改元有て建中といふ、此年親王は越中国へ赴給ひ、翌二年冬又改元有て、年号を文中と云、文中二年の春、親王は越中国より信濃へ遷らせ給ひ、是より折々吉野の皇居へ通はせ給ひしか、天授元年の冬信濃へ御下向の折から長谷寺にて御薙髪給
 南方紀伝云、天授三年冬、南方の将軍の宮宗良親王信濃へ下向の時、長谷寺において御かさりを落させ給ひ、一首の歌を詠て、南帝へ奉らせ給ふ
  君になと 我をはつせの かねの音 かくなるとたに しらせさりけむ
かくて天授六年の夏の頃まて、伊那郡の山中大河原に御座有しか、信濃の宮方みなそむき奉りて、高宗より外は御頼みもなかりけれは、五月信濃を落給ひて、吉野に移らせ給ふ、夫より河内国山田と云所に閑居ありて、新葉集を撰ひ給ひて、南帝へ奏し給へり
 南方紀伝云、信州の宮方みな南帝をそむく、高坂高宗はかり残りて、宗良親王信州を落給ひ、南方に来り河内国に住せ給ふ、云云弘和元年冬十二月、南朝にて宗良親王新葉集を撰奏し給元弘元年より弘和元年の間、南朝三代并に月卿雲客男女諸官の和歌を此集にのせて、北朝の臣をのせ受云云
同年、伊勢国司顕泰卿のもとへ入らせられ、夫より重て遠江国に御下向ありて、終に井伊谷の城に隠れさせ給ふ、御齢七十三、御法号冷湛寺殿と申奉る
 兵家茶話云、宗良親王ハ弘和元年十二月新葉集を撰給ひて奏給ひ、其後遠江国に御下り有て、井伊城に薨逝のよし、御年七十三と聞えし(或説曰元中二年八月十日薨去、北朝至徳二年乙丑)方広寺の無文和尚(宮ノ御弟)御葬送の事を執行ひ給ひ、冷湛寺殿と申云云
 同書云、宗良親王香火之地、遠江国伊佐郡井伊谷冷湛寺也、云云
……中略……
井伊谷 倭名渭伊、郷名原井、庄園在于茲、高六百六拾七石八斗四升八合
○二之宮、所謂式内三宅神社、有朱符之神田、神主住(註式社、三宅ハ正倉所三宅郷ハ在麁玉郡
○井大明神、除地高壱石壱斗参升九合
○井(伊)、有田中清水涌出、并辺有橘樹、井伊氏之祖備中守共保生于茲、寛弘以来領此地、嘗聞毎年正元、汲井水折橘枝以奉井伊侯称之歌曰、(真龍)橘能下照道爾行通ヒ常世爾久麻牟井伊能真清水
○龍潭寺、朱符之寺田高八拾三石九斗四升九合、本字冷湛、又号地蔵寺又而浄院又龍泰寺、永禄三年以後改号龍潭寺○宗良親王香火之地、又井伊侯世々置霊牌(註寺部)
○明円、除地高壱石八斗
○西楽寺、除地高壱石五斗弐升
○光善庵、除地高八斗七升
○井伊川、南流
○井伊古城、今云城山、昔郡司之所住而正倉処置乎、三宅神社在于茲○井伊伝記曰、寛弘七年以来井伊氏之祖、藤原共資男共保知此地、其孫遠江介井伊介建武之時仕吉野朝廷、延元元年吉野皇子宗良親王入御于此城
○続太平記云、永享十一年井伊介八郎井伊弥四郎等属今川、攻結城朝満(結城塚在貴平村)
○大永六年丙戌、藤原朝臣直隆、献八幡宮洪鐘、於今掛神前鏡銘摩滅、永禄三年、井伊直盛於尾張国桶狭間戦死矣、其子直親永禄五年三月二日於掛河戦死矣、其子万千代目長名井伊直政、其子云い掃部頭直孝、天正以前住、慶長以来近藤家知此地
……中略……
龍潭寺 在井伊谷、朱符之寺田高八拾三石九斗四升九合、臨済宗京師妙心寺末、本字冷湛
○寺記曰、万松山龍潭寺者(旧号冷湛)後醍醐天皇第二皇子宗良親王香火之地也(陵在寺后)親王法号冷湛寺殿、牌背銘曰初開基大檀那一品中書王宗良(後醍醐帝皇子)王、元中二年乙丑八月十日薨井伊館、神儀是也、其後荒廃矣、天文年間領主井伊信濃守直盛、為賜紫默宗禅師、興旧基、而改龍泰寺以師為中興之開祖、定井伊氏香火之地、井伊氏祖宗香火之地、実ハ自浄院也(今在龍潭寺中、往古号地蔵寺、開基也、本尊地蔵菩薩行基作)井伊氏元祖共保号自浄院殿
○開山默宗禅師、始住正法寺、井伊氏直平同直宗同直盛、共敦請故移住井伊谷自浄院、院狭隘四来不安、依之草建龍泰寺、禅師伝法師ハ前妙心賜紫文叔禅師也(信濃国市田郷松源寺第一祖)默宗出所ハ久留米木村大倉殿子也
○井伊家伝記曰、龍潭寺中自浄院者、井伊氏祖共保出誕之時生湯の古跡なり、往古は地蔵寺と号く、改て自浄院と云、次龍泰寺と云、永禄三年炎上之後龍潭寺と改号
社 渭伊神社 井伊郷神宮司村正八幡宮也、御戸代高拾五石、祭被八月十五日、神主住、田中有井冷水出、別斎井大神
○三代実録曰、貞観八年十二月廿六日、授遠江国正六位上蟾渭神云云従五位下、按旧名蟾渭也、延喜式及倭名鈔書渭伊、渭ハ井之仮名伊ハ引音
○大永六年丙戌井伊藤原朝臣直盛、献洪鐘
三宅神社 井伊谷村二之宮大明神也、御戸代高四石五斗、祭日八月十日、神主住○昔正倉之地為社号乎、三宅郷ハ在麁珠郡
……中略……
井伊谷坐井大明神社 除地高弐石壱斗参升九合、郷名基井、所斎神号不伝、按座摩(井カズリ)ノ神乎、座摩摂津国西生郷地名、仁徳天皇之宮地也、井神社称八幡宮者合也(カナヘリ)
井小野坐八幡社 除地高壱石五斗
……中略……
寛政三年十二月考終
 興良親王伝
宗良親王第一御子、興国年間より駿河国狩野介貞長か館に御座ありしか、其之地遠江国秋葉山天野景顕か城に忍ひ給ひ、正平四年天野景顕供奉て都へ上り、御父宗良親王の御母方大納言為定卿の館に入せ給、天授三年の秋病し給て隠給ふ
 南方紀伝云、重き病を受て宗良親王
  いかに猶 泪をそへて わけ侘ぬ 親に先たつ 道芝の露
   御返し
  家こそは あらき風をも ふせきしに独や苔の露はらはまし
 尹良親王伝(出所右同)
宗良親王の御子尹良親王、御母井伊介道政女なり、遠江国井伊城にて御誕生(浪合記云井伊介道政女産尹良親王、正二位大納言、元正平四年春上野国へ移給(浪合記曰元中三年八月賜源姓)同十一年、一品上野大守の令旨降る(応永四年)天授四年、吉野へ上らせ給
元中三年八月八日、正二位中納言、征夷大将軍兵部卿親王の宣下あり
応永四年、世良田大炊助政義桃井右京亮宗綱等相諮て上野国へ迎奉、其時吉野より供奉の面面、武家は、大橋修理太夫定元岡本左近将監高家山川民部少輔重裕恒川左京太夫信矩已上四人也、公家の庶流には、堀田尾張守正重平野主水正業忠脇部伊賀守宗純鈴木右京亮重政真野少輔道資光賀大膳亮為長河村相模守秀清已上七人也、是を合て吉野十一党と云なり、駿河国富士谷の宇津(一本野)田貫次郎か館へ入らせ給、同五年戊寅八月十三日、上野国寺尾城に(世良田政義居城)移らせ給、斯て
応永(浪合記の応永五年以後の文に、世良田政義かむすめ御子を産、是を良王君と称す、応永十九年四月上杉憲定多勢を以寺尾城をぬく、親王は迯て信濃国に走り、諏訪の千野六郎頼憲か嶋崎の城に拠、廿一年上杉禅秀か乱起り小栗満重か事起て、関東擾乱やむ時なし、此虚に乗して旗を揚むと諸士相議して、良王君を再ひ下野国落合の城に還し入まゐらす、于時応永三十一年七月也)三十一甲辰年迄寺お城に座、同年四月信濃国諏訪住人千野か坂に入らせ給、同八月(浪合記十日)千野六郎頼憲か嶋崎の城を出て三河国へ趣給はむと有し時
 左遷の身にしありなは 住もはてん とまり定めぬ うき旅の空
と詠給て、千野某(一本伊豆守)に賜ひて出立給ける所に(浪合記八月十五日)同国飯田駒場より野武士共財宝に心をかけて、奪ひとらむと散々射奉る(浪合記飯田次郎駒場太郎)折しも未刻より雨風はけしく、ゝ路も暗夜の如くなれは、供奉の人々も防きかねつれ(浪合記云、桃井世良田羽川兄弟一宮酒井六郎同七郎熊谷大庭本多等、且戦且退、大井田一ノ井死、宮ハ御自害、下野入道以下廿五人自殺)宮は是迄と思召て、道筋なる賤か家に火をかけさせて御自害給へり、于時応永三十一年甲辰八月十五日、御法号
大龍寺殿一品征夷大将軍兵部卿尹良親王
 良王君伝(出所右同)
兵部卿尹良親王の御子良王君、御母世良田右馬助政義か女也、応永廿二己未年、上野国寺尾にて御誕生、正長元年四月、寺尾城を出下野落合城に移給(浪合記に落合城にて生長云云)桃居伊豆守基綱か居城也、此時、若宮十四歳、永享五癸丑年落合城より信濃に赴給、此時御歳十九○笛吹峠にて上杉か兵と戦ひ水戸河内守か城に入らせ給
同年五月十二日、木曾か所領金子か館へ入給、千久五郎金子より我館へ迎奉、
同七年乙卯十二月(浪合記朔日)三河国を越尾張国対馬へ移給、此時信濃国浪合にて先年尹良親王に討れし、飯田太郎駒場小次郎か一属共馳来り合戦す、桃井世良田等討て掛り賊卒百三拾余人を討取、其ひまに宮は平谷迄落給、宮方も多討死す、世良田政義も味方討死の死骸を浪合の町口の家に入、火をかけて(浪合記に、同十二月二日世良田桃井を始として廿四人自殺)自害すといふ其時辞世に(信濃記曰、以上の石碑浪合村聖光寺にあり)
  思ひきや いくせの淵をのかれきて 此浪合に し
其之宮は尾張国津嶋の(浪合記曰、津島の大橋三河守か野奴の城に移す)社中に御所を構て、是にて御一生を送り給、明応元壬子年三月五日薨、御齢七十八、御法号瑞泉寺殿と諡す、明応三甲寅年三月五日建祠廟、御前大明神と祭、子孫津嶋の大神主となる

李花集中抜書
  山深くこもりし頃よみ侍る
 鶯は谷より出る春なれと 猶山深きわかます居かな
  深き山里に住侍る頃、今は誰か尋へきなと心ほそく覚えしに、時鳥の鳴けれは
 ことゝはん人にはつけよ時鳥 我世の中にありとはかりは
  延元四年(御年廿七)の春頃、遠江国井伊城に住侍しに、浜名の橋霞わたりて、橋本の松原湊の波かけて、はる/\と見渡さるゝあした夕の気色、面白く覚え侍しかは、
 夕暮は湊もそことしらすけの 入海かけて霞むまつはら
 はる/\と朝みつ汐のみなと船 こえ出るかたハ猶かすみつゝ
  海辺霞
 いつくをか我住かたとかへるらむ かすめるまゝのまのつりふね
  延元四年の秋の頃にや、伊勢より船に乗て遠江へ心さし侍しに、天龍の灘とかやにて、波風なへてならすあらく成て、二三日まて沖にたゝよひ侍しに、友なる船共も皆爰かしこにしつみ侍しに辛してしろはの湊といふ処へ波に打上られて、我にもあらす船さしよせ侍しに、よもすから波にしほれていたくたへかたかりしかは、
 いかてほす物ともしらす笘やかた 片しく袖のよるの浦波
  延元四年(御年廿七)の春にや遠江よりはる/\のほりて、都へと心さし侍しも、みかたの事やふれにしかは、吉野の行宮に参て、しはらく侍しかとも、猶東方に勢たすへき事有て、まかり下るへきよし仰られしかは、その秋の頃かへりて、井伊の城にてよみ侍る
 なれにけり二たひきても旅衣 同し東の峰の嵐に
  かくてしは/\住たる所の、柱に書付侍し
 四阿のあさきの柱かりそめに 思ひなからや住なれにけむ
  あると所の障子に書付侍し
 旅衣へにける年をあハれとも なれぬる里の人はしらなむ
  延元五年(御年廿八)八月十六日に、先帝(御齢五十五)隠させ給ひぬるよしほのかに聞えしかとも、更に猶誠にも覚え侍らて日数を送り侍しに、何方よりの風の音つれも同し悲みの声のみ聞えしかは、一方に思ひ定め侍るにつけても、いとゝ夢の心ちして、さらてたに淋しき山の奥の住居ともゝ、いかゝとおほつかなけれは、長月の末つかた、空も例よりはかきくもりて、われらか中の時雨も隙なかりけるころ、泪の色の紅も同しちしほにやなと、思ひやられしかは、秋の紅葉と、ちりちりにならぬやうに申さた有へきよしなと、別当資次卿のもとへ申遣す次に、井伊の城に有し紅葉を一葉包みぐして、
 思ふにも猶色あさき紅葉哉 そなたの山はいかゝしくるゝ
  返し
 此秋の泪をそへて時雨にし 山はいかなる紅葉とかしる
  遠江国に侍りし頃、月の歌とて
 湊江や夕汐ふかくなるまゝに 月にそうかふ海の松原
  遠江に侍りし頃、三河の国より足助重泰しきりにさそひ侍しを、猶思ひ定めぬよし申遣して
 一筋に思ひ定めぬ八はしの くもてに身をもなひく頃かな
  山家を
 吹払ふ松の風たになかりせは 軒端も雲にうつもれなまし
  田家を
 あれにけり小田のかりいほ住人の あるを見したに淋しかりしを

此李花集中の御歌、奥書曰
 此本書、先師兵部卿帥成親王(出家号恵梵)筆跡筆跡也、教弘相伝之、
  時享徳改元中冬廿日 多々良朝臣印判
遠江風土記伝を撰侍時、宗良親王の御歌有ぬへしと、引佐郡人に尋しかは、彼親王の御歌集二巻を示さる、是を開き見るに、此国に忍はせ給ひしさまもつら/\おもひやらせて、年月地名しるきを、採出て引佐郡のおくに書載、
 みよし野の花もうき世としのはせし、昔をのこす言の葉そ是
  寛政七卯年七月十日 真龍
{此処で巻三終}
     ◆
 
 
 

← Back