■虚より出て実ニ帰す■

 書物の分類には幾らも軸がある。例えば八犬伝を、時代小説とするは可であり、大衆小説、読本、伝奇ロマン、ファンタジーと呼んでも差し支えない。更に云えば、筆者は、マルキ・ド・サドの小説を、或いは啓蒙系思想書と見て不都合はない。八犬伝は十分に思想書の資格を有する、と考えるも可だろう。勿論、馬琴が八犬伝を思想書として書いたとの意味ではなく、馬琴が己の理想を描こうとした点に於いて、結果として一種の思想書たらざるを得ない、との意味だ。

 さて、八犬伝では「伏姫神霊の擁護」として、数多の不可思議が現象する。親兵衛が持ち歩く蘇生薬なんて現在でさえ実現していないし、荒芽山で紅蓮の炎に呑み込まれた音音・世四郎が富山で元気に暮らしていたなんて、通常はあり得ない。また、伏姫神霊から独立した霊獣/政木狐も、箙大刀自に化けたり昇天して龍となり三年後に石と化す奇異を見せた。だいたい狐が喋るだけで驚きなのだが、其れは措き、斯かる珍現象を馬琴が説明した条がある。

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登時義成主は、狐龍化石の一奇談に、感嘆愈浅からず、戍孝仁孝嗣と、礼儀等にうち向ひて、「物の化石は珍しからず、狐の化して石に做りしは、近曽奈須野なる、殺生石の事をいふ者あり。又人の化して石に做りしは、大伴左手彦が妻、松浦佐用暖、又秩父重保が妻の如きは、共に其古蹟ありて、望夫石の名を遺したり。唐山にもこの事ある歟、漢の張良が師也といふ、黄石公是也。しかれども、虚実いまだ詳ならず。就中狐の龍に化したるすら、思ひがけなき事なるに、其が亦石に做りたるは、一大奇事といふべきのみ。大学は和漢の学に富り。必意見あるならん。這義怎麼」と問給へば、礼儀答て、「然ン候、愚按には候へども、化石は多く水土によれり。譬ば那化石谷の如き、鼻紙まれ手拭まれ、其渓水に浸すこと、三四十日に及ぶ時は、化して石に做るを見て知るべし。又那望夫石の如きは、万葉集に、遠つ人松浦佐用媛夫恋に、領巾振りしより負る山の名、といふ歌あれども、恐らく古俗附会の事にて、海辺に立たる天然石の、偶人形に似たるを見て、望夫石の名を負せしにもや候はむ。唐山にも望夫石あり。和漢同日の談なるべし。又那張良が下丕の渭橋にて、六韜三略を、伝授せられしといふ黄石公は、未生の人にて寓言のみ。其実は張良、己が術を神にせんとて、黄石公といふ異人を作設て、後十三年を歴て、其師の化して、黄なる石に做りしに逢にきなどいひしを、時の人悟ずして、伝へて故事に做りたるにもや候はむ。縦是等の事ありとても、求めて得べき事ならねば、必とすべからず。這故に聖人は、怪力乱神を語ず候也。其は左まれ右もあれ、狐龍化石の事を憶ふに、他命終るに及びて、必石に做らんと思ひて、石に做りたるにはあるべからず。譬ば雷神の墜たる迹に、小斧に似たる石あり、小鎚に似たる石あるを、雷斧雷鎚と喚做したり。或は又奥羽北越下野などにて、大風雨の時、鏃に似たる小石の、墜る事あるを、土人名けて、神軍の矢の根石とぞいふなる。是等は風に吹揚られし沙礫の、雲雷の気に蒸れて、凝りて形を做せるのみ、別に其石あるにあらず。是に由りて之を観れば、狐龍の化石もこの理に等しく、他既に数尽て、命終らんとする時に、雲雷の気に蒸れて、石に做りて墜たるならん、と思へば疑ひもなく候歟。こは只愚按の及ぶ所を、稟し上るのみ」といふ、答詳なりければ、義成主の歓びはさら也、犬塚犬江政木等の、三士も倶に感服す{第百八十勝回中編}
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 儒仏両道に造詣が深そうな犬村大角は、政木狐の石化を、あり得る自然現象として片付けている。当時の一般社会に於ける自然科学水準からすれば、穏当なものだろう{但し、大角が云う鼻紙の石化は恐らく炭酸カルシウムか何かに依るコーティングに過ぎず鼻紙そのものが石化するわけではなかろう}。
 折角、政木狐を廻る感動的なファンタジー奇譚を書いておいて、自分で現実に引き戻しているように見える。馬琴の知音/殿村篠斎も此のギャップに不満を表明したが、馬琴は{かなり偉そうに}反論している。

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犬村か論ハ犬村の心也狐龍の遺言ハ狐龍の古ゝろ也虚より出て実ニ帰す是他の稗史にいハさる処是ヲ作者の真面目とす世の蒙昧を醒さん為なり評翁早く悟られしハ幸といふへし{八犬伝篠斎評結局下編上}
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 世人の蒙昧を醒ませば革命起こりまくりになるのでアレなんだが、馬琴の立場が如実に顕れている言葉として興味深い。
 則ち、物質の上に起こる総ての現象は物理法則に従っているとの啓蒙主義が馬琴の土台にある。理知を磨き、森羅万象の人間にとって意味/関わりを正しく把握することで、現象を明鏡止水の境地で理解する。朱子学っぽく云えば、格物致知だ。元より儒学は、怪力乱神を語る事を嫌う。しかし、政木狐の石化は、作中事実として厳然と現象している。一方で、霊的な「伏姫神の擁護」は八犬伝全編を通じて何度も起こる。
 但し八犬伝で人間は、あくまで人間らしい。超人ではないのだ。親兵衛は富山で暮らしている間こそ、伏姫神に森羅万象を教えてもらえたが、下山後は、子どものくせに怪力だとか妙に分別臭いとかを除けば、水泳も下手だし、至って普通の人間で、情報不足に悩むことさえある。他犬士も、超人的な資質は精神面に限られており、信乃なんか破傷風に罹り、汗ばんだ美しい横顔を仰け反らせ喘ぎ悶えて、一部の読者を悦ばせた。終盤の富山籠居まで、犬士とて{優れてはいるが}普通の肉体をもつ人間であった。
 道節が一時期、火遁の術を使うが、術書を捨てることで使わなくなるので、道節自身の身に付いた術ではなく、術書/アイテムを用いて初めて発動する術であったようだ。犬士は妖しい術を身に付けていない。南関東大戦で風を吹かせたのは、ヽ大ではなく、玉面嬢の甕襲玉であった。八犬伝の登場人物で妖しい術を使う者は、知雨老師だけだ{妙椿や政木狐は「人物」ではない}。伏姫さえ生前は、何の術も使わない。

 要するに、八犬伝はファンタジー小説のくせして、妙に現実主義的なのだ。水滸伝の公孫勝や三国志演義の孔明みたいな善側の妖術師が登場しない。八犬伝世界に超常現象は存在するが、其れを犬士は自ら求めない。超常とは理から外れたことであるから、所詮は理不尽なのだ。善玉であっても、私{わたくし}の欲望を理不尽に求めることは禁じられている。唯一、順逆の理を弁えないまま復讐心を募らせた道節の敵討ちは結局、{恐らくは伏姫神によって}阻止された。况んや正義の味方だからと云って、安易かつ理不尽に空を飛んだりしてはならない。せいぜい猛り狂った牛を素手で止めるぐらいが関の山だ。理不尽なる力の行使が許される者は本来、【私】を超えた絶対善としての伏姫神/観音や役行者/神変大菩薩だけなのだ。

 上記の如く考えて漸く、「犬村か論ハ犬村の心也狐龍の遺言ハ狐龍の古ゝろ也虚より出て実ニ帰す」に就いて考えることが許される。
 政木狐は狐龍へと変ずる時、三年後には命数が尽きて石化すると自ら予言した。大角は、政木狐の石化が物理法則の支配下にあると解き明かす。二人の言葉は全く矛盾していないどころか補完関係にあるとも云える。則ち、政木狐は自らの石化を予言するが、其のメカニズムを説明していない。大角は石化のメカニズムを説明しているが、何故に狐龍が石化せねばならなかったかまでは説明することを避けている。大角は、怪力乱神を語らないのだ。それどころか黄石公に就いては石化したとの事実自体を否定し、ペテンだと言い切る。松浦佐用姫も石化したのではなく、偶々あった人型の石を人々が勝手に佐用姫が石化したものだと決め付けたに過ぎない、と断定する。
 が、作中事実に於いて、狐龍は厳然と石化している。よって大角は、あくまで一般論として、黄石公や佐用姫の石化を否定しているに過ぎず、霊力をもつ狐龍が石化したこと自体は否定し得ない。よって大角の説明は、石化が、不可思議で説明不能な現象ではなく何等かの物理法則に従って起きたのだと主張するのみだ。実際、狐龍だろうと何だろうと、石化の過程は物理法則に従うのだろう。例えば、四十三回、荘介たちを狙う火縄銃が伏姫神霊の降らせた雷雨によって使用不能となった。雨が降って火縄銃が使用不能になったこと自体は、物理法則に従っている、といぅより当たり前の現象である。ただ、荘介たちが狙われているときに【都合よく】雨が降ったことが、不可思議なのだ。流石に暴風舵九郎の股裂き{四十回}は現象としても不可思議だが、大角ならば、突風に吹き上げられた舵九郎に雷が落ちただけ、とでも説明するかもしれない。経験上、雷が高い所に落ちることは知っていたであろうから、高みに吹き上げられた舵九郎に落ちる確率は高まる、とまで云うかもしれない。
 政木狐の石化も、石化そのものは何等かの物理法則に従った現象である筈だと大角は説明するが、何故に其のとき其の場所で政木狐が石化したかの分析は避けている。そして正に「其のとき其の場所」で起きた所以が、【玄妙の理】なのだ。単一の現象に就いて、大角は物理法則の側面のみから説明し、政木狐は玄妙の理を明かしている。
 政木狐の石化は、物理法則に従った当然の現象ではあるだろうけれども、極めて不自然なほど珍しい現象であるに違いはない。極めて珍しい現象が【都合よく】発生したこと自体が「玄妙の理」であり、其処に伏姫神霊が関与したと考えるべきなのだ。突風に体が吹き上げられ雷が直撃すれば、人は死ぬ。此の現象自体は、物理の必然である。しかし、舵九郎が、親兵衛を殺そうと石を振り上げた瞬間にこそ、体が中空に持ち上げられ股を裂かれて惨死するとの【偶然】は、実用上の確率をゼロと見て良い。
 確率ほぼゼロの現象が発生し、大きな効果を挙げた場合、其れを【奇蹟】と謂う。とある偶像の目の部分から水滴が流れ落ちることも、或いは、あるだろう。偶像と外気の比熱差などにより水滴が発生することなんざ、別に珍しいことではない。五行説だって、金生水を説く。外気に比べ比熱の小さい金属の表面上に水滴が生じることは、日常の範疇だ。水滴が発生する部位が、偶像の目の辺りに限られることも、何等かの組成もしくは環境の都合で、あり得ぬことではない。しかし、其れを、何者かの意思により外ならぬ偶像が【涙を流す】と見れば、たちまち「奇蹟」となる。まぁ低レベル宗教/迷信の類だ。
 親兵衛が用いる蘇生薬にしたって、現在でも発明に至っていない高度な物ではあるが、総ての死者を蘇生させるものではなく、使用に時間制限が設けられている。闇雲に死者を蘇生させるものではない。現在の科学が追い付いていないだけであって、何等かの物理・化学法則に従っている薬だと、読者に感じさせるためにこそ、儲けられた制限事項だろう。薬屋さんでもあった馬琴は、{当時の水準との制限はあるが}物理法則、モノノコトワリを重視している。

 霊獣である政木狐が、自らの石化を運命という玄妙な側面から説明し、怪力乱神を語るべきではない儒者/大角は、石化の物理法則のみを説明する。八犬伝物語内の整合性は、とれている。
 しかし結局やはり馬琴は、物理法則を優先する表記をとっている。実のところ、黄石公や佐用姫を持ち出し、石化譚には眉唾な場合があることを強調している。馬琴は、政木狐の不可思議な石化現象を綴りつつも、【現実には有り得ない】と考えているようなのだ。政木狐の石化は、あくまで稗史の中でのみ許される象徴的表現法のようである。

 如斯きダブル・スタンダード表記が辛うじて許される隘路とは則ち、霊的な擁護/奇蹟を期待せず只管努めよ、との通俗道徳であろうか。奇蹟の存在を信ずれば、苦境にあって【期待】してしまう。善への意思/努力が疎かになってしまう。また、奇蹟を信じた挙げ句に裏切られると、善なる霊的存在に対し疑念を生じてしまうかもしれない。極めて脆弱な人間性なら、ニヒリズムにも陥ろう。善なる霊的存在は存在として信じ、しかして擁護はないと【信じる】。ただ前だけを向いて進めば、期待せずとも擁護はある、かもしれない。あれば、メッケ物だ。どうせ真の意味での「擁護」なぞないんだが、単なる偶然の結果として難局が打開されることはある。神も仏もない末世だが、偶然の産物として救いがあれば、擁護と誤解して有り難がれば良い。得した気分になるだろう。これこそ、宗教と現実社会の折り合い、ってヤツだ。宗教を狂信せずして哲理のみ淡く掬い取る。「作者也とて仏を好ミて佞媚て冥福を求るともからにハあらね{篠斎八犬伝九輯上帙拙評・八犬伝第九輯上帙篠評々答}である。

 則ち、勧善小説を志す馬琴にとって神仏の擁護やら政木狐の石化なぞという不可思議な霊的現象は、【有りて無き】ものだ。有ると云えば有るし、無いと云えば無い。倫理とは、画虎である{「破戒の倫理」参照}。心の裡に棲息する猛虎のごときものであって、破戒すれば心を傷つけ食い破らんとする者だが、無視して其の倫理/虎を放棄しても、実のところ痛くも痒くもない。人は物喰う物理的存在ではあるが、パンのみにて生くるにあらず、心の滋養も必要だ。淡々と喰うてセックスして糞して寝る……だけで良いのなら、抑も文物なぞ発生しなかっただろう。心/虚を抱く物理的存在/実が、人というものだ。「犬村か論ハ犬村の心也狐龍の遺言ハ狐龍の古ゝろ也虚より出て実ニ帰す」である。{お粗末様}

 

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