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■大団円末尾を廻る若干の問題点■

 八犬伝回外剰筆は、井田法やら上総四十八城やらの蘊蓄を披露しつつ、八犬伝を軸とした馬琴の後半生を振り返る【物語】だ{→抄出}。井田法と云えば、孟子であるし、安房九万石を里見家と八犬士で等分した設定を思い出すが、其れは措き、話は八犬伝を書き始めようとする馬琴のもとを廻国頭陀が訪ねる所から始まる。尋ねられるまま馬琴が井田法やら上総四十八城やらに就いて語る。月日は流れ、馬琴が八犬伝本文を書き終えた頃、再び廻国頭陀が訪ねてくる。問われるともなく馬琴は、出板元を幾度か替えた八犬伝の刊行事情や、執筆終盤には目が不自由となり口述した苦労、妻などの肉親や知音、同好の士が次々と亡くなっていく寂しさを語る。話し込むうちに夜が更け、慌てて帰ろうとした頭陀が行灯を蹴倒す。驚いた拍子、正気に返る。頭陀との会見は、一睡の夢であった。
 云う迄もなく{だったら云うな……とは思うが、云いたかないが云はな解るまい}、「物語」の構成自体は、唐代小説「枕中記」{→▼原文}いわゆる「邯鄲の夢」と一般である。夢が覚めた後、「盧生の栄華は五十年、本伝作者の筆労は、正に是二十八年」と語っている所からも明らかだ。が、枕中記は立身出世を虚しいと見る老荘思想の影響下にある。
 荘子・斉物論篇第二{→▼原文}は、卑小なる人間に対する天の圧倒的な存在感から説き起こし、あくせくと利己を目指して俗事にかまける愚かさを嗤い、更には何等かの固定した統一性を以て自らを規定するアイデンティティーなるものを否定、千変万化する環境に逆らわず流され行くが如く生きることを勧め、「昔者、荘周、夢為胡蝶、栩栩然胡蝶也、自喩適志与、不知周也、俄然覚、則■クサに遽/■クサに遽/然周也、不知、周之夢為胡蝶与、胡蝶之夢為周与、周与胡蝶、則必有分矣、此之謂物化」との言葉で終わる。所謂「胡蝶の夢」だ。枕中記は、荘子斉物論末尾部分の小説化と見てよい。
 また、回外剰筆末尾の五言絶句に「学仙」とあるから、仙人思想/道家思想を八犬伝の背景にしていることも明瞭となる。道家思想は、老荘思想と相性がよい。
 回外剰筆には、「文化文政年間、生狂才ある壮俊等が、吾弟子にならまくほりして、由縁に就き紹介の人を求めて漸次に訪来ぬる者八九名ありしかど、吾一人も是を許さず……中略……各望を失ひながら猶懲ずまに折々訪来ぬるもありしかば、其壮佼等のこゝろ得の為に身を脩め家をとゝのふべきことを説示し、又暇ある折は老子荘子などを講するに、打眠を催さゞるは稀なりき……中略……或は琴雅、又琴梧或は琴川又琴魚など告る者、五六名ありしかども、それも一両稔の程にして、夙く胡越の如くになりけり……中略……是等の内中に、礫亭琴魚は同じからず」とある。
 文化文政年間、即ち八犬伝が世に行われ馬琴の声望いやが上にも高まった頃、若者八九人が弟子入りを願って訪れたが、馬琴は拒んだ。懲りずに折々訪ねてくる者に、身を修め家をととのえるよう説教したり、「老子荘子などを講」じた。琴魚を除き若者達は馬琴から遠離っていった。
 身を修め家をととのえることは、まぁ一般的な常識とも云えるが、馬琴の場合、【儒学】系の教養蘊蓄を若者相手に語ったのだろう。遣りそうなことだ。但し馬琴は儒学のみを講じたのではない。老子荘子をこそ「講」じている。抑も草双紙や洒落本など、近世庶民文学は、まずはギャグ漫画レベルの文物からスタートした。無責任かつ無邪気に、俗世の矛盾を嘲笑し、からかう。川柳も、かろみ/ノンシャランと現実を相対化する視座に拠る。これらの近世文芸は、老荘思想と相性がよい。
 馬琴だって人間だ。儒学だけで割り切れるものではない。抑も馬琴は、洒落本作家からスタートしている。「夢想兵衛胡蝶物語」なる作品は、もろに老荘思想の影響下にある。回外剰筆の書きぶりからすれば、儒教系はオジサンの御説教程度で、老子荘子こそを真面目に講義したように読める。少なくとも老子・荘子を深く読み込んでいたことは確かだ。ってぇか、馬琴は中国小説を広く深く読んでいたが、中国小説ってのが、老荘思想や其れと親近性の高い道家思想の影響が濃い。厭でも老荘の影響を受けただろう。
 しかし、其処は流石に、我等が馬琴。「老子荘子こそを真面目に講義」したのだったら面白い。老荘は元来、無為を理想とする{後には学閥維持のためか有為を肯定する}。真面目に講ずるものではあるまい。とはいえ実のところ、儒学も同様の矛盾を孕む。孟子以後の儒学は、【天】を絶対とし人間には善なる知性が刷り込まれている筈なのだが常には曇り隠されているため、天の理を知るためには森羅万象の物理を究め尽くさなければならない……朱子学なんかで謂う格物致知である。生来として持っている良知を発掘するだけなのに、気の遠くなるほど膨大な学習を要請する。殆ど、無から「良知」を創造するが如きである。しかも読書まで学習のうちに数えているから、朱子ってのは余程、本の虫だったのだろう。閑話休題。

 馬琴は一応、武家の出だから、幼少期に刷り込まれた常識・教養は、儒学系であっただろう。長じては、本格的に儒学を究めようとしたり医術を学ぼうとしたりした挙げ句、洒落本を経て、読本作家となった{薬屋さん兼務}。若い頃から和歌に親しんでいたし、四十代あたりで若者に老子荘子を講じたりもしていた。付言すれば、当時の医術は内科中心だから薬学と謂って宜しかろうが、当時は化学式をイヂくるのではなく、動植物を薬として用いた。だから薬学と謂っても、内容は博物学{+診療法}であった。また、和歌の道は国学と重なる。しかも馬琴は、中国小説に造詣が深かった。中国小説には、儒学思想や道家思想、老荘思想、中国仏教思想……及び民俗が盛り込まれていた。云う迄もなく中国仏教は、印度仏教を極東民俗に合わせてデフォルメしたものだ。例えば、印度仏教には祖先崇拝の要素がないのだが、極東に入って暫くすると、何故だか祖先崇拝の側面を持つようになる。此の部分は日本仏教に、引き継がれている。「葬式仏教」の原型は中国で生まれたんである。
 儒学・道家・老荘・国学・博物学・仏教・和漢故事民俗……此等の思想・情報コングロマリットが、馬琴だ。馬琴の脳髄は、極彩色に輝く思想・情報複合体なのだ{実際に想像すると気色悪い}。

 八犬伝の物語をツラツラ思い起こすと、序盤、里見義実の孝や金碗八郎の忠や義など儒学の影響と、役行者の存在によって色濃く漂う修験道のイメージが、目立っている。修験道の要素は、密教と山岳系民俗信仰だ。玉梓の断罪と伏姫の出奔には儒学道徳が作用しているが、玉梓から八房への転生は仏教の因果応報および輪廻転生であるし、玉梓の成仏や八房の発菩提心、伏姫の法華経読誦は、仏教説話として読める。もとより序盤から、和漢の故事は豊かに引用されているし、義実の口を借りた例の龍に関する蘊蓄や、漆カブレに対する蟹の効用などは博物学の成果といえる。八犬伝は序盤から、儒学・仏教など多彩な思想・情報が満載だ。
 特に重要な点は、儒学と仏教の使い方である。序盤だけ見ても、儒学で謂う所の、忠孝信義が善玉の指標であり、其の欠落が悪の目印だ。言い換えれば、主人公側は必ず儒学道徳を身に付けており、敵対する側は其の欠落を{登場人物同士では隠蔽するが読者に対しては}隠さない。但し、敵対する者の側に逃れがたく従属している者には、善玉もあり得る{例えば前浜路や犬飼現八など}。敵側に従属している善玉は、前浜路なら貞、現八なら信を発揮して、悪玉を裏切ってでも主人公側に寄り添い、善玉であることが明示される。儒学道徳が、物語上の善悪を分ける指標となっている。
 しかし、【物語を背後から宿命的に動かす力】は、没後の伏姫や役行者、すなわち民族仏教が握っている。また、終盤、伏姫の本体が観音であったと明かされ、八犬伝物語全体の【下部構造】が一貫して民俗仏教だったと確定する。「伏姫神」とも表記され日本の土着神っぽくも見えるが、神仏が習合されていた前近代日本に於いては、余り問題とはならない。印度哲学としての仏教ではなく、八犬伝に採用されている所の者は、あくまで日本の【民俗仏教】なんである。元より修験道や「民俗仏教」には、日本土着古来の信仰が紛れ込んでいる。
 理由は簡単だ。儒学は所詮、人は如何に生きるべきか、即ち処世しか教えない。儒学は、怪力乱神を語らない{否定しているわけではない}。しかし、紂王みたいな暴君に、儒学道徳を発揮してみたところで、せいぜい比干みたいに心臓を抉り出されて殺されたりと、手酷い仕打ちを受けるだけだ。此れが有史以来連綿と続く現実である。其れでも、理想とする自己を実現しようと努めることまでしか、儒学は語らない。但し儒学を裏返して悪用し、王莽みたいに、儒学道徳を身に付けている如くに振る舞い人望を集め実は背後で裏切り行為を働いて出世する、ってのなら解る。善人面した悪人は、現在でもウヂャウヂャいる。正統儒学は、表面上、何等、現世利益を生み出さない。譬えるなら、宇宙人が現れ攻撃してきたとき、論語を講ずれば退散してくれるか、との問題である。悪人は宇宙人と一般で、常識が通用しない相手なのだ。悪人は、善人の振りをしつつ善人を食い物にすることしか考えていない。
 仏教側なら、例えば弘法大師こと佐伯の真魚{まお}ちゃんならば、ムニャムニャ読経もしくは真言を唱えれば、怪光線が発せられ山を吹っ飛ばしてしまう。宇宙人ごとき粉砕してしまうだろう。いやさ能因法師でも、旱魃時に雨を降らせてくれる。キョンシーが現れたら、道士が対処してくれる。
 ……キョンシーといえば昔、香港映画で林小龍{李ではない}なるアクション女優がおり、新桃太郎シリーズとか少女戦士とか主演しており密かにファンであったのだが、今更にして思えば濃眉なあたりとかフックリした頬の加減とか台湾偶像組合S.H.EのEllaに少し似てなくもない……といぅのは全く本題と関係がないのだが、ふと語りたくなったので、言っておく。
 とにかく妖しい力が発動したとき、儒者は無力なのだ{勿論、だからと言って、馬琴が法力の存在を実際に信じていたと主張しているのではない}。

 要するに、儒学は、稗史に於いて【物語を背後から宿命的に動かす力】とは、なり得ない。「物語を背後から宿命的に動かす力」とは即ち、稗史/ファンタジー小説に於ける【下部構造】だ。翻って儒学道徳は、主人公側と反主人公側に分ける指標もしくは記号に過ぎない。【上部構造】なのだ。

 抑も、文化十一年九月十九日付の八犬伝序からして、「有客自南総来、語次及八犬士事実、其説与軍記所伝者不同、敲之則曰、曾出于里老口碑、敢請主人識之、予曰諾、吾将広異聞、客喜而退、予送之于柴門下、有臥狗在門傍、予忙乎踏其尾、苦声倏発于足下、愕然覚来、則南柯一夢也、回頭覧四下、茅茨無客、柴門無狗吠」と書いている。回外剰筆と正しく対応している。此処では、南総から来た客から八犬士伝を書くよう勧められた馬琴が客を門まで送ったところ寝そべっていた犬の尻尾を踏み付け鳴き声で正気に戻る。やはり夢オチだ。回外剰筆とは異同があるけれども、八犬伝序の「客自南総」は、回外剰筆の廻国頭陀に対応しているだろう。但し、同じ夢オチでも、回外剰筆に於いて引かれた言葉は「盧生の夢」だったが、此方は「南柯一夢」を挙げている。云う迄もなく、やはり唐代小説「南柯太守伝」{→▼原文&書き下し}を典拠にしている。思えば馬琴は、八犬伝に先立つこと六年、「三七全伝南柯夢」を上梓している。ラブ・ロマンス風味の忠臣譚である。
 八犬伝本文の末尾、第百八十勝回下編大団円は言う。「【A】蓋八犬士一世の功名、貴介を娶て大禄に飽るも、覚れば倶に南柯の一睡、長安飯店の枕に異ならず。【B】抑人世の果敢なき、慾を禁め情を裂きて、善を蘊み悪を做さじと其行ひを慎ば、生ては天地に恥ることなく、死しては子孫の後栄ある、古の人の跡を見て善を択みて、もて異世の師と做さば、人皆八犬士たらん事も、かたきに似て難かるべからず。【C】約莫人に君たる者は、只良臣を択むに在り。庶人は良友を択むべし。良臣ありて、治らざる国なく、良友ありて、不善の人なし。何ぞ兄弟なきを憂んや。【D】当時落魄たる浮浪の身をもて、鶏が鳴く関の東にて、基を開き、地を啓きて、竟に大諸侯に做り登しは、里見氏と北条氏のみ。北条は里見に倍して、多く国を獲たれども、早雲氏綱氏康氏政氏直五世にして後絶たり。里見は房総二国なれども、子孫十世に伝へしは、義実義成二世の俊徳、仁義善政の余馨にて、民の是を思ふこと、深長なりし所以なるべし。議に是美談ならずや。【略】詩あり歌あり証とす」。

 便宜上、論理の流れに従って四つの部分に分けた。即ち、【A】八犬士の功名・栄華も、犬士の生/物語が終わってみれば、南柯の夢/邯鄲の夢と同じものだ。【B】この世は儚いものだ。情欲を抑え、善を心掛け悪を行わないよう慎めば、己の良心に恥じることなく堂々と生きていけるし死後には子孫の栄華へと繋がる、其のような昔の人の生き様を学び、其のような昔の人々の行いから、自己の良心に照らして善と信じられることを選んで現在に対応すれば、人たる者、皆が八犬士{と同じレベルの人間}になることも、困難ではない。【C】君主の責務は、良臣を選んで現場実務を執行させることに尽きる。君主ではない人にとっては、良い友と親交を深めることに当たる。良臣が能力を発揮できる国が治まらない筈はない。良友に恵まれた人が悪事を為すこともない。良友さえいれば、どうして兄弟がいないことを歎く必要があろうか。【D】関東に於いて、浮浪人から身を起こし大諸侯にまで上り詰めた者は、里見と後北条のみである。版図は後北条の方が広大であったが、わずか五代で滅んだ。里見の版図は二国だけであったが、十代まで続いた。これは、里見家最初の二代、義実と義成が領域に徳を及ぼし仁政を行ったことを、民衆が評価したからである。なんと美談ではないか。

 表面上の結論部Dは、極めて解り易い。儒学の徳治主義が表出されている。裏返せば、善政を行わねば今は羽振りが良くとも長くは続かない、との権力に対する脅し/掣肘となる。
 Cも解り易い。「八犬伝第四輯序を廻る若干の問題点」で取り上げた論理、諫争を忠の最高形態とする儒学本流の立場だ。君主への戒めである。また同じく、真心を込めて忠告してくれる争友を得るよう、読者に勧めている。即ち、君への「忠」、友への「信」は、発露する側から真心/誠を表現する謂いだが、此処では忠・信を受け取る立場の者への言い回しとなっている。実のところ、忠臣や争友になることは難しくない。真心なんてものは、誰だって持っている。しかし、其れを君主が、自分の為を思っての事だと得心し素直に従うことは甚だ難しい。常識の範疇だ。
 Bも論理としては容易だ。此の世は儚いものだ。だから、日々思い悩んでいる事ども、アレをしたいコレもほしい、との欲求や、最近の若者は言葉遣いがなっとらん挨拶もできん舐めとんのか、なんどという糞下らぬ虚栄心に基づく感情なぞ、実は大した問題ではない。抑制できない方が如何かしている。感動を以て語り継がれてきた古人の善行から時代に合ったものを採用して自分も行い、悪事を働かないよう心掛けさえすれば、誰でも八犬士と同様の人間になることは難しくない。言い換えれば、犬士は内面動機のレベルで上記のことしかしていない{行為として実現するためには犬士同等の武力や伏姫の擁護が必要となる}。論理は極めて当たり前レベルであって理解は容易である。が、恐らく実践は難しい。日常生活は、情欲に支配されがちだからだ。糞下らぬものだと頭では解っていても、其の糞下らぬ情欲に引き摺り回されるこそ、凡人である。凡人は、眼前の現実だけが【絶対】だと感じる。だからこそ馬琴は、Bの冒頭に「この世は儚い」と書いた。眼前現実の絶対化を否定している。眼前の現実を相対化することで初めて、凝り固まった情欲を解きほぐし、より柔軟な態度をとるようになる。
 Aは、Bの前提となっている。八犬士は、ほぼ浮浪の身から大諸侯/里見家の重臣にまで成り上がる。しかし、犬士たちは徳を失った里見家から未練なく離れ、仙境/富山に隠棲する。此の時点で犬士たちは、世の儚さを熟知し俗世の功名・財産を無価値としていると思しい。長安で栄辱を繰り返す盧生が邯鄲で眠る盧生を夢見たのか、それとも逆か……。【絶対】としか感じられない眼前の現実も、ひとたびコギト・エルゴ・スムの確信が足下をすくわれた途端、怪しくなってくる。即ち、自分が認知している眼前の「現実」は、果たして真に、「現実」か。
 喩え話をしよう。朝鮮半島が日本の植民地だった頃、彼地で或る噂が流れた。日本人が井戸に毒を入れて回っているらしい。日本人への憎悪は増幅した。虚偽であった。特高月報に載ってる有名な史実だ。一方で関東大震災時、被災地で或る噂が流れた。朝鮮人が井戸に毒を入れて回っているらしい。朝鮮人への憎悪は増幅した。此も虚偽であった。
 要するに、民族間に緊張が高まり憎悪が漂うと、とにかく両者間の線引きを強く意識し、且つ相手を【人類最悪の存在】と思い込みたがるだけの話だ。虚偽でも何でも良い。ヒトは、信じたいことしか信じないし、思いたいようにしか思わない。別に民族間に限らない。宗教、政治、いやさ、向こう三軒両隣やら中小企業内でも、日常的に起きている一般的事象に外ならない。故事を知り、己の経験を照らせば、人間、誰しも納得できることだ{筆者の表記でヒトと人間は違う}。
 さて、眼前で此方を睨む男が立っている。故なき憎悪を感じるか、バカガキだと思うか、自分が何か悪いことをしたかと恐縮するか、単に視力が弱くて懸命に見ようとしていると考えるか、それとも実は両者の間に彼にしか見えぬ悪魔が降臨しており正義の味方である所の彼は人類を守るため孤独な戦いを挑もうとしているのか……。仮説は自由である。
 実のところ、眼前の「現実」には【推論】による色づけが為されていることが多々ある。予め悪い状況を予測し以て状況に素早く対応するためヒトに備わった能力だろう。それだけなら罪が軽いが、横合いから腹黒い者に、歪んだ解釈を囁かれたら、主観的状況は更に悪化し、眼前の「現実」を憎悪の対象としてしてしまう、なんてことは日常茶飯事だ。主観や情報操作により心像に掛かったバイアスを正すため、正しい情報を求め思考し判断することこそ、儒学の立場である。

 結局するところ、八犬伝大団円末尾で、南柯の夢という道家っぽい立場と儒学の立場が混淆している。枕中記で、盧生は、立身出世に汲々とする虚しさを実感する。しかし八犬伝は、立身出世すること自体は否定していない。犬士たちの善行に裏打ちされた努力、苦心に対する報酬として、肯定されている{独力・苦心しても悪を為すためなら評価されない}。そうでなくては「勧善」はできない。また、私情を挟まず公正な態度を保ってきた犬士たちが、それぞれ一万石の領主となることにより、それだけの領民が善政の恩恵を受けることになる{善っぽいことを行っていても領主になってから暴政に耽ると蟇田素藤の如く滅ぶ}。犬士が領主にまでなることは、善行への報酬でもあるが、其れ自体が善行となっている。
 更に云えば、大団円末尾の論理は、【悪を避け善を行うは本人の為ではなく子孫の為だ】に帰着している。個人レベルで、犬士は報酬を喜んでいる風ではない。未練なく富山に隠遁する。よって馬琴の主張は、善に与しても個人レベルで報酬を期待すべきではない、となろう。ってぇか通常、善に与しても、損こそすれ得はしない。悪を批判すれば、必ず損をする。それでも善に与することを勧めるならば、せめて予測不可能な未来に於いて、子孫が繁栄する、と空手形を切らねばならぬだろう。ただ、八犬伝読者が一人でも、馬琴の言葉を真に受け善に与すれば、本人も得をしないし子孫も繁栄しないだろうが、此の世界が六十億分の一だけでも、善{よ}くなるかもしれない。しかし其れは、モノスゴイことではないか。
 馬琴は、大団円大尾を書くに当たって、「南柯の夢」と宣言した。俗世の栄辱を、【結果的に無価値化】する宣言だ。物語が終了したからこそ発せられる、無価値化宣言である。物語の途中では、作中事実/現実は、【絶対】である。読者は、登場人物にココロを載せて、怒り哀しみ喜ぶ。しかし物語/人生が終わってみれば、其処にあるのは八犬伝の冊子/白骨しか残っていない。無限と思えた動態/感覚は霧散し、残滓だけが残る。無常観だ。稗史に描かれた栄辱は、もとより虚構である。それこそ邯鄲の夢、南柯の夢……の後の感覚を、読者は体感する。此の感覚を、人生にまで広げようとする試みが、大団円末尾である。八犬伝物語本文で、厭というほど善が勧められた。悪も懲らしめられたが、読者が感情移入してきた相手は当然、主人公側/善玉である。本文のみでは、勧善の面だけが強く読者の意識に残る。悪を避けることを説くには不十分だ。
 孟子を俟つ迄もなく、人の本性は善である。不利益があっても、人は善を為すことがある。一方で、人が何故、悪に陥るかといえば、利益を得られるからだ。南柯夢宣言は、現世利益を無価値化するものであった。善で得られた利益さえ無価値なのだ。况んや悪で得た利益をや。いやまぁ、利益は善悪によらないのだけれども、とにかく、悪へと誘惑される原因となっている利益を、無価値化することで、馬琴は読者に、悪を避けるよう呼び掛けている。
 八犬伝読者の圧倒的大多数は、臣下と庶民である。大身旗本だって、家内では君主だが、征夷大将軍の家臣でもある。悪を為さないよう呼び掛けるなら、臣下に不忠へと陥らないよう語れば良い筈だ。にも拘わらず馬琴は、君主の臣下に対する義務と、庶民の友人に対する心構えを説く。忠・信を受け取る側の態度を殊更に問題としているのだ。君臣・友が双務関係であることを端的に主張している。忠やら孝やらは、明確な行動や犠牲を伴うため、物語上、とても解り易い。しかし明君の善、即ち良臣を適正に配置している点は、見逃されがちだ。良臣だって勝手に家老職に居座っているわけではない。家職は奪取したものではなく、当然ながら君主から【与えられた】ものだ。荒川清澄だって、里見家に帰参し抜擢されて家老を務めている。善悪・能力を見極めて臣下を適正配置する、実のところ極めて難しいマネジメントなのだが、其れが出来るからこそ明君なんである。しかも良臣の諫争を聴き容れる器量まで求められている。そして八犬伝末尾で、{まぁ少数の大名はアレとして}読んでもいないだろう君主の義務を殊更に書き立てれば当然、臣下や民衆の側に、「君主、斯くあれかし」との主張を抱かせることなる。君主が道から外れたら、「孔子曰、君難不君臣、不可以不臣」{第四輯序}と、厳しく諫争しなければならない。場合によっては、放伐も肯定し得る論理だ。庶民に対する呼びかけは、忠告してくれる友達を選んで交わり、争友の忠告は虚心坦懐に聴き容れるよう求められているのみだが、此の日常的に確認でき広く肯定されるであろう言葉は、庶民にとって、君主も良臣を選び忠告/諫言を聴き容れなければならぬとのテーゼに説得力をもたせるよう機能する。
 八犬伝大団円末尾は、正しく、儒学倫理を以て、支配層の恣意的権力行使を批判・否定する一方、庶民に対しては、道家思想を使って現世利益を無価値化、利益による悪への誘惑を排除し善を勧める内容となっている。人生を無価値化しつつ、悪に染まらず善に彩らせようとする。無価値であるなら、善でも悪でも構わないようなもんだが、此の一種、倒錯した境地が、馬琴の到達した勧善懲悪小説のスタンスであったか。

 結論である。八犬伝は民俗仏教を下部構造としている。上部構造は、儒学であるが、末尾に急展開して、道家思想が混淆してくる。ほぼ一貫して、やや暑苦しい儒学論理が優勢であるのだが、末尾に至ってスルリと道家思想が混入する。技術面から見れば、馬琴の稗史作法は現実から離陸し虚構に遊び再び現実に戻ってくるものだから、それまで【現実】として語られた物語世界を無価値化しなければならない。現実を無価値化する道家思想/老荘思想は、便利だ。読者が深く強く感情移入してきた物語世界をキャンセルするため、敢えて末尾で道家思想を引いたと、見えなくもない。{お粗末様}


 

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