■辞世を廻る若干の問題点■

 馬琴畢生の大作、八犬伝に於いて、まず目立つものは儒学思想である。しかし序盤、即ち全体を定義すべき部分で、【物語を背後から宿命的に動かす力】は仏教系の民俗信仰であった。伏姫観音や役行者が、八犬伝を主宰している。また、終盤に於いては、仏教系の民俗信仰に加えて、道家思想が絡んでくる。八犬士消滅の条は、仙化したと思わせる書きぶりだ。道家思想が仏教民俗と混淆し、犬士{の気}は四天王になり、犬士{の肉体}は仙化する。道家と仏教の混淆は、或いは中国小説の影響かもしれない。
 此処では「大団円末尾を廻る若干の問題点」から引き続き、儒学と道家/老荘思想との混淆した側面を切り取り考察してみたい。
 馬琴の辞世「世の中の役をのがれてもとのまゝ かへすぞあめとつちの人形」{天保十四年六月朔日付・桂窓宛書翰:辞世を詠んだのは二月}中、「役」の字義に就いては、「生ハ役也、と荘子に見えたるごとく実ニ生路艱難、寸楮ニ尽しがたし」{天保六年九月十六日・桂窓宛書翰}や「荘子にいへるごとく苦しきものは世わたりニ候」{文政七年八月七日・小泉蒼軒宛}が参考となる。
 荘子に於いて、「役」は【あくせく働いている状態】を意味する場合がある。其処から【辛く苦しい務め】ほどの意味も立ち上がる。馬琴が云う所の「生ハ役」も、【人生は辛く苦しい務め】と解せられよう。荘子で、如斯き内容の箇所があるかといえば、実は、いっぱいある。が、特に以下の条と、最も親近性が高いだろう。

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一受其成形、不化以待尽、与物相刃相靡、其行尽如馳、而莫之能止、不亦悲乎、終身役役而不見其成功、■クサカンムリに爾/然疲役而不知其所帰、可不哀邪、人謂之不死、奚益、其形化其心与之然、可不謂大哀乎、人之生也、固若是芒乎、其我独芒而人亦有不芒者乎{荘子・斉物論篇第二}
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 此の部分は、霞喰う仙人ならず、物質存在としての人間が、役役/あくせくと働くも真に価値ある業績を残せないまま、まるで死んでいるような状態で生き、そして死んでいく態を、深く哀しんでいる。荘子は、万物を等しく平準化して観ずる。また、中国人は自然の中に存在している気が凝集すれば肉体を持って生命体となり死すれば気が散ずる、と考える。ギリシャ神話でも聖書でも人間、所詮は生命を持つ泥人形に過ぎない。死して【土に返る】よう見えることは、有機物たる人間の逃れがたい特徴だ。よって「あめとつちの人形」は常套句と言えるが、馬琴の辞世では、人間存在に対する自嘲が感じられる。
 また、少なくとも辞世には、役役とした自分の人生に未練らしきものは感じられない。「かえさん」ではなく「かえすぞ」と叩き付けるような語調を選択した点に、早く返して役/苦から逃れたい、との願望さえ感じられる。馬琴にとっては、生は「役」であり「艱難」であった。

 とはいえ馬琴は、役からも艱難からも、逃げなかった。がっぷり四つに組み、一歩も退かなかった。「今に至て五十二年、刊行の雑書物の本共に二百九十余筆に及べり。這他刊布せざる筆記雑纂、或は二三葉の小紙子多かるを、数へ尽すべうもあらず」{回外剰筆}。一年に五、六作のペースで単行本を執筆すること五十余年に及んだ。超人的な多作、もしくは濫作だ。「役役」どころではない。【反・老荘的】ですらある。
 儒学は元来、現実主義である。現実を如何に理想的なものへと変えていくかが、課題だ。だからこそ、官僚登用試験に採用された{採用後に単なる大政翼賛朱子学に堕したか否かは意見が分かれるかもしれないが}。朱熹だって一応は官僚だし、王陽明なんて極めて有能な軍務官僚であった。日本でも大塩中斎は、官僚とは言えないけれども、大坂町奉行所与力として多くの功績を挙げている。田原藩家老格として財政再建に当たった渡辺崋山も、蘭学者として処罰されはしたが、元々は朱子学者であり、しかも甚だ優秀であった。

 「大団円末尾を廻る若干の問題点」で、八犬伝に於いて、物語そのものの【下部構造】すなわち、【物語を背後から宿命的に動かす力】は民俗仏教であったと断じた。ほぼ一貫して儒学が【上部構造】であるが、末尾に至って其処へ道家思想が混入する。技術面から見れば、読者が眼前の【現実】として強く深く感情移入してきた稗史世界/虚構を無価値化し、以て実社会へ送り届ける手続きと云える。しかし其れは、稗史作法すなわち技術上のスタンスに留まるか。
 馬琴の辞世を読めば、老荘思想の境地から自分の人生を辛苦の連続と捉え、価値あるものと看做さない態度が窺える。死を覚悟した人間が、己の信条を偽るとも思えない。回外剰筆で馬琴は、四十代の頃、若者達に老子荘子を講じた、と語っている。馬琴の性根は、儒学ではなく老荘にこそ下りていたのではないか。上述の如く「ほぼ一貫して儒学が【上部構造】であるが、末尾に至って其処へ道家思想が混入」したのではなく、【ほぼ一貫して儒学が上部構造として表出しているが、末尾になって漸く地金としての老荘思想が露わになった】のではないか。

 八犬伝の下部構造は民俗仏教だが、其れは馬琴が迷信家であることを意味しない。彼は「作者なりとて仏を好みて佞媚て冥福を求むる輩にはあらねど、その好不好とは暫く擱きて、稗史には亦この物なくばあるべからず」{八犬伝篠斎評九輯上帙}と言っている。八犬伝で最も目立つ思想的傾向は儒学であるが、其れは馬琴の立脚点が儒学であることを、必ずしも意味しない。極限まで濃厚に凝縮した稗史世界を霧散させるためにも、八犬伝は老荘の境地へ逃避していく。其れは恰も、凝縮した意識が、死に臨んで霧散していくが如きだ。物語の終焉は、即ち世界の消滅であり、死である。

 但し、馬琴の地金が老荘思想だったとして、其れが馬琴の日常生活を支配していたとは思わない。馬琴にとって、生は役であり艱難であったが、彼は其れへ真正面から取り組んだ。逃げたりしていない。儒学は、現実の人間社会に働き掛け、自らの理想へ近付けようとする。老荘は現実を其のままに受け取ろうとする。馬琴は攻撃的な性格だったと言われるが、だとすれば、彼は、「現実に対し働き掛け、自らの理想へ近付けようとする」性向の人間であった。批判や論難は、自らの理想へ相手を嵌め込もうとする行為である。如何でも良ければ、文句も言うまい。

 生きているうちは、現実に向かって働き掛け自分に合わせようとしても、無意味ではない。儒学も有効なツールとなる。しかし、死は絶対である。従容として受け入れる外ない。儒学は無力だ。いま自分の手から失われようとしている生、命が無価値なものだと思い込まねば、未練も残るだろう。死に当たっては、老荘の方が便利なツールとなる。
 役役/あくせくとした日常を、老荘の立場から心の何処かで冷笑しつつも、一家を養うため、辛苦に悶えねばならなかった馬琴、師匠に当たる山東京伝らを情熱的に非難攻撃してしまう馬琴は、老荘の境地に耽りきることはなかっただろう。老荘の境地から辞世を詠む者も馬琴であれば、儒学の立場で厳しい現実に対処する犬士を描く者も馬琴であった。
 言い換えれば、生きているうちは厳しい現実を受け入れ悪戦苦闘する儒学の立場を貫き、死に当たっては、辛苦に満ちた生を無価値だと達観し未練なく捨て去る。矛盾した二重基準ではあるが、互いに隔絶した生と死という現象に対処するのだから、仕方がない。前に筆者は、老荘思想を馬琴の「地金」と表現したが、恐らく儒学の鍍金はブ厚く、本人も地金を常には意識していなかっただろう。彼の本質/老荘思想は、八犬伝の終焉や、自身の死に直面して漸く顕在化するものであったかもしれない。しかし、とにかく、馬琴の思想は、儒学もしくは朱子学で割り切れる単純簡明なものではなかった。

 儒学は現世対応の学である。孔子は社会を、愛に満ちたものにしようとした。別に何等かの高き理念を掲げたわけではない。既存の体制内に流通するコミュニケーションを改善することで、万人が生き易い社会を追究した。対人関係の基本を親子の情愛{孝}とし、親近の度合いによって濃度は決まるが、対人関係を、君臣{忠}、兄弟{悌}、友人{信}に整理した{孝経}。しかも此等は双務関係であって、何連かが一方に甘えくさる片務関係では決して無い。愛/真心/思い遣り{仁}を、コミュニケーションの根幹に置く。儒学の基本は、此だけだ。生命の存在を悦ぶ生命の在り方が、仁である。

 にも拘わらず、例えば古文孝経孔安国序の「君難不君、臣不可以不臣」を、スットンキョーに、君臣の片務関係を表すものだと考えるトーヘンボクが、馬琴の知音にもいた。大身旗本石川左金吾{畳翠}である。去勢され閉塞した儒学しか知らなかったのだろう。
 しかし馬琴は「君難不君、臣不可以不臣」を正統かつ正当に、君が無道に陥った場合に臣下は全力を挙げて矯正を強制し諫言する、と理解している。八犬伝第四輯序である。道/社会共有の理念を守ることを君主の義務としている点で、君臣は双務関係である。本来の儒学を馬琴は知っていたし、だからこそ、大衆小説家として成功した。大衆を抑圧するしか能のない去勢儒学に染まった稗史を、大衆が喜んで読むわけがないではないか。馬琴の正統儒学は正当に、大衆に寄り添っている。
 ことほど左様に、{根幹に於いては}体制に媚びない馬琴の感性は、恐らく老荘思想に関係している。新自由主義者とか我利我利亡者とか、余りに現世利益に執着し過ぎている。其れが総てだと信じて疑わない。あの世に持って行けるわけでもないのに、過大な利益を追求して已まない。しかし老荘思想は、現世の虚しさ儚さを指摘する。馬琴とて一家を養うため、役役/あくせくと執筆活動に耽らなければならなかったわけだが、死ぬと思った瞬間には、重荷からの解放感を表出した。馬琴にとって一家を養うことは責務であった。責務は果たさなければならないが、其れ以上の執着は感じられない。
 老荘思想と儒学は対立する、と繁く言われる。実際に中国で両学閥は対立し抗争を繰り広げたし、内容も対立している部分が目立つ。しかし、正統儒学が語る【綺麗事】は、現世利益の価値を矮小化しなけば、実践が難しい。正統儒学は、現実の価値を大いに認めているが故に、現実を理想に近付けようとするものだ。が、現実の価値を認めるなら、現世利益の最も効率的な取得方法は、今も昔も窃盗や詐欺であるから、綺麗事なんて糞喰らえ、となる。簒奪者/王莽が、最も優れた人間ということになる。現世利益を眼前にブラ下げられても、正統儒学の綺麗事を貫徹するためには、現世利益の価値を減ぜねばならぬ。儒学は、聖人君子を持ち上げ、相対的に現世利益を貶め、理念の価値向上を図る。だからこそ、体制公認の学となってからは、去勢され、眼前の体制を翼賛するが如き糞下らぬ文字列に堕したのだろう。一方で老荘思想は端的に、現世利益を無価値化する。孔子の思想を受け容れる権力者は、殆どいなかった。儒学とは本来、そういうものだ。本来の儒学は、現世利益を無視しても理念を以て現実の改善を求めるものであった。
 馬琴の時代にあっても、論語も孝経も恐らくは読んだことがあろう大身旗本でさえ、「君難不君、臣不可以不臣」を君臣の片務関係を表すものだと誤解していた。そのように刷り込まれたのだろう。馬琴の周囲にあっても、俗流儒学は正統儒学から乖離し、現実の権力に擦り寄っていたと思しい。
 馬琴の抱いた正統儒学は、ほぼ同義語反復なほど当たり前ではあるが、悪しき君主は亡びる、との正当な社会理論、革命の論理を孕む者であった。現世利益を配分する眼前の権力に、背を向けている。勿論、あからさまなプロテストはしない。そんなことをしたら出版統制に引っ掛かり、八犬伝も未完に終わっただろう。馬琴は、当時の常識であった儒学の、権力に擦り寄った俗流解釈ではなく、正統を語ることしかしない。出版統制の手も及びにくい。

 寛政異学の禁、即ち幕府官僚に取り立てられたければ朱子学を学べ、との政令を発した松平越中褌担ぎ定信が、自分では大学の「君親民」を「君は民としたしうす」と訓み、スットンキョー朱子学の「君は民をあたらしうす」を採用していなかったとか、幕府朱子学の中核/昌平坂学問所の学頭を務め渡辺崋山らを教えた佐藤一斎は実は陽朱陰王と称されるほど陽明学派でも巨頭であったが大塩中斎に対し渡世のため朱子学を教えているが学派なんて如何でも良いのだとの卓見を披露してたり{→▼応答書翰}と、当時の日本朱子学は実のところ、現世利益を得るための方便に過ぎず、学問ではなく処世の為の知識であった。
 稗史は、現実ではなく理念を語るものだ。現実なら眼前にある。稗史を読むまでもない。理念を語るに、現実に癒着し全肯定する俗流儒学は必要ない。儒学は、あくまで現実を理想に近付けようとするものだ。また、闘争的な性格であった馬琴には、現実を全肯定する俗流儒学より、理念を掲げ現実と闘おうとする正統儒学が肌に合っただろう。そして、現実と闘うためには、例えば権力の差し出す現世利益を無価値化し冷笑する老荘思想の素養が発動したと考えられる。

 現実を愛し理念に近付くことを願うからこそ、馬琴は春秋の筆法を以て勧善懲悪小説を書き続けた。いや、精確に言い直そう。人間を理念的に愛し社会を理想に近付けるため、馬琴は春秋の筆法を以て、勧善懲悪小説を書き続けた。現実を変えたいと思う背景は当然、眼前の現実に対する不満である。且つ、不備な現実社会を変えたいと思う背景は、人間への理念的な愛である。現実社会を形作っているものは、実在の人間の欲望もしくは行為だ。眼前の現実社会に対する不満は、取りも直さず、実在の人間に対する不満でもある。しかし、より善く社会を変えたいと思う動機は、其処に生きる人間が、より良い状態になることを願うココロであって、其れは【人間に対する理念的な愛】と言わざるを得ない。馬琴は恐らく、【人間嫌い】であったが、人間を愛してもいた。日常的な通交の必要ない、大身旗本や伊勢松坂の住人とこそ深く交流し得た点は、そうした馬琴の性向に依るのかもしれない。

 結論である。八犬伝の下部構造は民俗仏教であった。上部構造は概ね儒学であるけれども、近世後期の日本朱子学より原初の形に近い、例えば論語や孝経のテキストに忠実な正統派であった。其れが故に、去勢儒学の蔓延する世に在って、現実に対し批判的たり得た。批判する眼前の現実を無価値化する老荘思想も、馬琴の思想の一部を形成していた。民俗仏教は、稗史ストーリーを都合良く転がすためのツールに過ぎないだろうが、眼前の現実を理想に近付ける思想として、馬琴は正統儒学と老荘を組み合わせている。もしくは老荘思想によって眼前の現実を一旦無価値化することで、眼前の現実に囚われることなく、躊躇なく理念を以て理想的な世界/八犬伝物語を構築できたのであろう。{お粗末様}


 

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