×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。

 

  

 

 

■馬琴のラブレター■

 筆者の出自は近現代史なので先人の知見に拠るしかないのだが、近世の経済とは以下の如きものであった。
 もともと近世の石高制は、人口の殆どが従事する農業の成果を収奪することを基礎にしていたが、人間は米だけ食って生きていける筈もなく、日本内で比較的安定した流通物/米を、暗黙裏に本位貨幣{みたいなもの}として設定した。農民が生産した米を年貢として収奪した武士階級が、此れまた食糧余剰分を貴金属貨幣と交換する。武士は此処で得た貴金属貨幣を使い、古代から徐々に発達してきた雑多な商品を扱う市場に於いて、必要な財やサービスを購買した。
 非農業人が増加し、且つ経済全体に於ける実際の本位貨幣/米の比重が減じた。多様な商品が豊かに流通するようになって、以前なら村落内で自給していた雨具なんかも、商品として購入されるようになった。農産物のうち、米以外の商品作物の生産が盛んとなった。宿命として貨幣の延べ流通量が増加した。貨幣経済の進展により武士階級は苦境に陥った。
 此の現象は、取りも直さず、日本経済流通総体の中で、ほぼ武士が独占していた実際の本位貨幣/米が支配できる割合が減じたことを、意味している。諸色に対する相対米価は下落した。武家が独占していた貨幣/米の価値が減じたのだ。当然、武士の経済的地位は下落する。米以外の商品作物の生産が盛んとなり、米の絶対的地位が崩壊した。社会に流通する商品のうち、現在でも米は重要なものであり続けているが、相対的地位は下落し続けている。

 さて、近世初期に於いて実質的な本位貨幣として機能した米は、幕末期までに地位を低下させた。武士の収入は、米が中心であった。価値の下がり続ける「貨幣」が俸給であり、且つ俸給は近世初期から原則として据え置かれていた。当然、生活は苦しくなる。云ってみれば、ハイパーインフレの中で、俸給額面/石高が上がらない。楽になる筈がない。
 先人の調査に拠れば、慶長五{一六〇〇}年から嘉永二{一八五〇}年までの間に、人口は千二百万人から三千二百二十八万人{約二・七倍}、耕地は二百六万五千町から三百十七万町{約一・五倍}、実収石高は千九百七十三万千石から四千百十六万石{約二・一倍}になったという。耕地より実収石高の増加率が上回っているが、肥料の使用など農法の改良により生産性が上がったためだ。更に、農家では商品作物の生産が増加し、伴って収入も増加した。収入増は購買意欲を促進する。貨幣経済下の商品市場は膨張する。
 また更に云えば、武士階級が収奪できる米の量は、検地/測量によって定まる。しかし検地は膨大な労力が必要であるため、頻繁には出来ない。豊かになった実態を把握させたくない農民の反発もある。農地は広がる傾向で且つ生産性が向上した。武士階級が把握できる収穫量は宿命として、実際の収穫量より低い場合が多くなる。即ち農家に蓄積される余剰分は増える。相対的に武士階級の取り分割合は減る傾向となる。元来は武士を中心とした支配階級が、食糧としての米以外の需要物を購入するために在った商品市場に於いて、被支配者である町人が増加し且つ農民が参入を始めた。商品市場に於いて武士の支配する割合が減る傾向が決定づけられた。武士の経済的地位は低下した。しかし近世の米価は乱高下を繰り返しながらも概ね緩やかな上昇傾向を見せつつ、開国後の狂騰までは、よく抑制されていた。米価の安定は、将軍の御膝元/江戸や各地城下町の町人が暴動を起こさないための治安維持政策でもあった。武士階級に属する者で、安易に米価の高騰を望む者もいたが、余りに一面的な考え方だ。
 米の価値が減じているのに価格が「緩やかな上昇傾向」を示したことを、不可思議と感じる読者もあるか。貨幣量が増えたためだ。本来なら米は暴落傾向を示さなければならないが、緩やかに上昇した。貨幣量の増加によるインフレーションや、武士とともに貨幣経済に組み込まれた非農業民の増加しか、この現象を説明できない。金銀貨幣は元禄八{一六五九}年に千三百九十六万両であったが、安政六(一八五九)年には五千二百七十五万三千両。約三・八倍となった。但し、通貨量が三・八倍になったのに、長期的には米の値上がりが追い付いていない。即ち、他商品に対する米の相対価値は減じ続けたことが、明らかとなる。武士の浮かぶ瀬はない。

 しかし、武士階級の多くは、上記の簡単な理屈が解っていなかった。町人が意地悪で諸商品の値段を吊り上げている……ぐらいに思ってたりした。が、流石に偶には理屈の解る武士もいて、米が主たる本位貨幣の座から転落したとの現実を把握し、商品作物への目配りをする藩もあった。藩は各種産物を専売化し、米以外の経済市場から利潤を得ようとした。
 話が複雑になるので今まで黙っていたが、農民の貢納は、実のところ米だけではなかった。「石高」には屋敷地やら畑も塗し込まれていた。年貢とは、使用する土地面積にかかるものであった。それを、一応の本位貨幣と見なされた米に換算したものが「石高」であった。石高制の前身は八犬伝回外剰筆にも言及のある「貫高制」であったが、「貫」とは銅貨の単位である。皇朝十二銭以降、日本では公式銅貨は鋳造されず、専ら中国の銅貨が輸入されて使われた。しかし中国が銅貨を使わなくなって以降、日本でも銅貨が流通しにくくなった。貫高制は破綻し、石高制へと移行した。
 しかし近世後期になって、米の価値が下落し、本位貨幣の代替物とはなりにくくなった。貴金属貨幣の重要性が増した。だからこそ近世、 貴金属貨幣を手っ取り早く得るため、密貿易に励んだ藩もあった。専売制や密貿易により貴金属貨幣を積極的に得ようとした藩は多い。成功した藩もあれば、失敗した藩もある。大きく成功した外様藩のうち、四つが倒幕に動いた。薩摩・長州・土佐・肥前である。

 さて、何故に筆者が、当然みなさま御存知の経済史を初等教育レベルで長々反復したかと云えば、馬琴の経済感覚を検証するためである。だが、その前に、美熟女/只野真葛と馬琴の交流に就いて語らねばなるまい。

 馬琴と仙台藩子女/只野真葛の交流はドラマチックなものであった。老いた女学生/真葛の「独考」に対し、ほぼ逐条的にネチネチネチネチ反論した老いた篤学者/馬琴の「独考論」は、正当ではあるが、其処まで云わんでもと思わせる、偏執的な記述に満ちている。末尾には、「君子は鐘の如し。敲ざれば鳴らず、敲くこと大きなれば鳴ることも大きなり」「論ぜしよしは、すべて聖賢の言に本づきて、いさゝかも私ごゝろをもてせず」「良薬は口に苦く、諫言は耳に逆ふ。これを譏ると見られなば、おのがまこともあだ事ならん。これより外にすべもなく」と書き連ねている。酷いことを云ったってのは自覚しているのだ。筆者にはラブレターにも読めるが、馬琴の不器用な、紳士的では決してないが極めて真摯な誠意が、真葛に伝わったや否や……。

 筆者から見ても、真葛の論考は幼稚だ。しかし、モノには言い様ってものがある。もっと優しく云えば良いのに、馬琴は殆ど幼稚と云って良いほど、ムキになって反論している。如何しても手加減してしまう筆者より馬琴は、恐らく女性を平等視している。

 真葛は、仙台藩医/工藤平助の娘だ。露西亜の事情に詳しい平助は、田沼意次政権で注目され蝦夷地経営を任されるかもしれないって所で、意次が失脚したため結局、晩年は困窮し不遇であった。真葛は江戸での生活を捨て、三十代半ばで仙台に下り大身藩士の妻となった。実家の工藤家を盛り立てようとしたのだ。三十代半ばで再婚できたのだから多分、美熟女であっただろう。実のところ真葛は極度のファザコンに違いないが、二年後、平助は死んだ。当然、死に目にも会えなかった。しかし、姑が生きているうちはアレだが、大身藩士の奥方だから、不自由はなかっただろうし、和歌の師匠として藩内の子女を集め、幼い頃からの志願「我ぞ世の女の本{教育者}とならばや」を実現、それなりに幸せな生活を送っていた。
 五十代で独考を、全く見知らぬ馬琴に送りつけ、「添削して出版しろ」と命じた。余りの無礼さに馬琴は怒り狂った。礼を尽くしても怒る馬琴に、無礼を働いたのだから、当然である。工藤平助の長女として高名な文人や諸侯と交流があった真葛からすれば、馬琴なぞ【戯作者風情】だったかもしれぬ。しかし相手が悪かった。真葛は素直に謝罪し、文通が始まった。暫く文通した挙げ句、真葛が再び独考の添削出版を願った。馬琴は逐条的に問題点を列挙して送りつけた。完膚無きまで叩きのめされ、恐らく真葛は出版を諦めた。そのうち文通も途絶えた。

 女性が思う存分、自由闊達に信義を表し活躍する傾城水滸伝を書き始めた馬琴は、何故だか真葛を懐かしんだ。偶々真葛の消息を知る機会があった。既に前年、亡くなっていた。馬琴は慙愧した。何を慙愧したかは詳しく明かさないが、とにかく慙愧した。独考への批判が手厳し過ぎたことを後悔したのかもしれない。

 独考の論理は甚だ稚拙だ。が、当時、女性にあって自分の頭で考えよう、積極的に発言しようとする姿勢そのものは貴重であった。男性と同じ土俵に立とうとした。それ故に馬琴は、男性に対すると同様、厳しい態度で反論した。打ちのめされた真葛は、再び発言しようとはしなかった。稚拙ではあっても真葛は、確かに知性ある女性であったし、論理的思考法を学べば、或いは父/工藤平助レベルの理論家たり得たかもしれない。しかし所詮、甘やかされた上級武家の子女であった。男性に対すると同様に厳しい批判を向けてきた馬琴に対し、沈黙するしかなかった。
 この経験が馬琴に如何な影響を与えたか、現時点では不明である。真葛との文通は文政二年二月に始まり、恐らく数年内に立ち消えた。文政八年、馬琴は、女性が自立し自律して能動的に行為する物語/傾城水滸伝を刊行し始めた。同年十月一日、馬琴は兎園会で真葛を「才女」と称賛し懐かしんでいる{→▼兎園小説}。また、馬琴が真葛を評価した理由は「只この真葛の刀自のみ、婦女子にはいとにげなき経済のうへを論ぜしは、紫女・清氏にも立まさりて、男だましいあるのみならず、世の人はえぞしらぬ、予をよくしれるもあやしからずや。されば予が陽にしりぞけて陰に愛づるは、このゆゑのみ」であった。則ち馬琴は、男の専権事項とされた【公】の領分、「経済」を真葛が論じたこと自体を称賛しているのだ。当時にあっては極めてラディカルな男女平等論者であると評価せねばなるまい。また馬琴は、世人が全く知らない「予/馬琴」の隠された一側面を真葛が透視したからこそ、経世済民を論じた随筆を送り付けてきたと理解し、「あやしからずや」と驚いている。此の部分は、馬琴が独考論で、庶民が政治を語ることを禁じた幕府の禁忌に触れぬよう注意を促した部分と、能く呼応する。元はといえば黄表紙作家である読本作家の馬琴に、真葛が経世済民の随筆を送り付け添削・出版を願った事実は、真葛が馬琴を経世済民にも通じた識者であると認めていることを、前提とせねばならぬ。しかし馬琴の看板は稗史作家であって経世家ではない。勿論、馬琴は独考論で披露した如く、経世済民にも一家言をもっていた。しかし其れは秘匿してきた一面であって、何故に真葛に見抜かれたかが「あやし」いのである。「陰に愛づる」、真葛に対する最高級の評価は、秘匿した一面を見抜く【知己】を得た歓びに伴うものであったか。

 しかし真葛は、馬琴が「愛」を表明した三カ月ほど前の某日{文政八年六月二十六日}、既に亡くなっていた。友人を通じて真葛の訃報を馬琴が知ったのは翌文政九年四月であったか、兎園小説に追記している。

 傾城水滸伝は、徹底して女言葉を使おうとしている。主要登場人物が殆ど女性だから仕方のない話ではあるが、此の行為は即ち、馬琴が、己の持つ女性像をフルに稼働し没入して執筆したことを示すだろう。
 人は生い立ちや環境により、根底に同じモノを抱いていても、表現が異なってくる場合がある。傾城水滸伝で、女性も男性と同じ性根{/男だましひ}を持ち得ると仮定した馬琴は、しかし執筆するうち、其の表現が男女間で微妙に異なってくることに気付いただろう。
 独考を、男性に対すると同じ手法で批判した過去を、後悔せざるを得ない。己の過失を詫び、いま一度、真葛と対話したかっただろう。しかし既に真葛は死んでいた。荒削りの貴重な原石を、馬琴は磨き上げることなく打ち砕いてしまったのだ。馬琴は深く、慙愧したのではないか。{お粗末様}

 

→ Next
 
← Prev

↑ 犬の曠野Index ↓ 旧版・犬の曠野Index