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■「あぁん、御髯が擽ったぁぁい」■
 
 三国演義では、嘗て曹操に命を助けられた関羽が、赤壁戦で敗れ落ちる曹操を見逃してやる。曹操追撃の伏兵として関羽を配した者こそ孔明であるが、当然、義に篤い関羽が曹操を見逃すことを孔明は見越していた。見越していたが、三分均衡させることで天下を安定させようとする孔明にとっては、曹操の勢力を殺げばよく、殺したりする必要はない。捕らえれば、三国演義の部将たちは恨み重なる曹操を殺すよう主張せねば済むまい。史実から 大きく乖離してしまう。よって孔明は、関羽が曹操を見逃すことを想定したが故に、関羽を曹操追撃の伏兵に任じたのである。関羽が義に篤く、孔明は全てを御見通し、そして物語は史実から大きく懸け離れてはならない。其れが物語・三国演義に対する要請である。
 三国演義の性格は、諸葛孔明に集約されている。三国演義の孔明は、人間ではない。何も彼も御見通しで、全くの劣勢さえ逆転してしまう。赤壁の戦いに於いては、七星壇を祭って風を起こす。はっきり言って、反則だろう。
 三国演義は、後漢の乱れから三国時代に至る時の流れを、通俗に説明しようとしたものだ。論者の史観を表明したものである。其れ以上でも、以下でもない。そして偶々論者の立場が漸進主義/急な変化を嫌うものであったため、蜀漢を漢の最後っ屁として美化している。徳は徐々に衰えるものだとの立場だ。其の意味で劉備玄徳は、劉姓漢朝の玄{くら}き徳、徳の終末である。信義を重んじ仁もある。
 しかし世の中、綺麗事では済まないことも多い。戦になれば、裏切り上等、残酷当然である。人は、穢れきる。冷徹な智は時として、【徳】を否定しなければならない。よって劉備玄徳は、間抜けなくらいが丁度良い。代わって軍師・孔明が、冷徹さを引き受ける。また、赤壁の軍功は、周瑜ら呉軍に帰すべきであるが、さすれば蜀漢が無能に過ぎる。蜀にも功を分け与えて上げ底するために、是非とも孔明は人間離れしなければならない。周瑜や魯粛、劉備らの功績を移譲してまで、孔明は超人的とならねばならない。
 後 漢の乱れから三国時代への流れは、大枠が決まっている。荒唐無稽にならぬため、逸脱は許されない。しかし正史に載す所のものには、満足できない。歴史のパーツである個々の登場人物を変形し、大枠では辻褄を合わせる。劉備を間抜けな御仁にせねばならないが、いくら何でも間抜けに天下は取れぬ。其の辻褄合わせに都合良くデフォルメされた者こそが、神智を弄ぶ軍師・孔明であった。また、劉備の信義を強調するために、悪辣さを強調された曹操もいる。だいたい三国演義の孔明なら、司馬懿よりも賢いんだから当然、曹操率いる後漢や魏を圧倒できた筈だ。しかし流石に三国演義も、其処迄は逸脱できない。稗史の作法である。
 
 さて、南関東大戦が勃発せんとしているとき、京都では親兵衛が関羽の行動を撫ぞっている。赤兎馬ならぬ走帆以外の贈り物を、突っ返す積もりで封印したりしている。親兵衛が関羽に擬せられていることは、「雲長在厄、豈忘漢。千里独行、虚五関」{第百三十五回}等から明らかだ。
 しかし親兵衛は、変態管領・細川政元の命を助けたりはしない。せいぜい白く豊満な肉体を自由にさせ、政元の変態性欲を満たしてやるのみである。まぁ京の治安に責任を負うべき政元の代わりに虎を退治したのだから、恩を着せたとは云えなくもないが、後に政元が暗殺されたとき安房で知らん顔をしていた。親兵衛の場合は、政元に命を助けられたわけではないので、政元の命を救う必要もないわけだ。
 
 ところで、第七十九回、箙大刀自に捕らえられた犬川荘助と犬田小文吾は、稲戸由充に救われる。此のとき荘助は、戦場で相まみえた時には三舎を避ける{春秋左氏伝僖公二十三年}と約束する。南関東大戦で由充と相まみえた荘助は、約束通り一時撤退する{第百六十二回}。更に、敗軍の将・扇谷上杉朝良に具して落ちる由充の懇願を容れ、小文吾は二人を見逃す。見逃すが満呂復五郎重時が追っていく、ところへ正体不明の船団が現れ、朝良・由充を守って何処{いずこ}へか連れて行く。実は犬江屋依介の協力を得た東峰萌三・鱆舩貝六郎の一隊で、其の儘、朝良と由充を安房洲崎に連行する。由充と対峙した荘助と小文吾が、相手を逃すと見越した犬坂毛野の差配であった{第百六十四回}。血塗られた復讐の美少女・毛野は、三国演義の孔明より遙かに冷徹なのだ。そして親兵衛の伯父・小文吾は、由充を助け{ようとす}ることを以て、関羽に重ね合わされている。とは言え勿論、小文吾に助けられたからといって、仁慈の人・由充が曹操に擬せられているわけではない。悪玉・曹操に重ね合わされているのは、扇谷上杉定正だ。敗軍後、小湊目竪宗・鮠内葉四郎・猿岡猿八らに追い詰められた定正は、憲儀の提案で頭髻を差し出し逃れようとする。猿岡・鮠内は捕らえようとするが、小湊は憲儀を人質にする条件で、定正を逃す。実は毛野、卑怯で小心者の定正が、頭髻を差し出す屈辱に甘んじても逃れようとすると見通していた。予め小湊に、条件付きで定正を逃すよう指示していた{第百七十七回}。
 
 此処で三国演義第四十九回から五十一回冒頭、赤壁で一敗地に塗れた曹操を関羽が逃がす段を復習しておこうか。名場面である。まずは、曹操の大艦隊を紅蓮の炎が焼き尽くす、第四十九回、赤壁の戦いから始めねばならない。
 
     ◆
七星壇諸葛祭風三江口周瑜縱火
卻説周瑜立於山頂観望良久、忽然望後而倒、口吐鮮血、不省人事。左右救回帳中。諸将皆来動問、尽皆愕然、相顧曰、江北百万之衆、虎踞鯨呑、不争{料}都督如此、■ニンベン尚/曹兵一至、如之奈何。慌忙差人申報呉侯、一面求医調治。
卻説魯肅見周瑜臥病、心中憂悶、来見孔明、言周瑜卒病之事。孔明曰、公以為何如。肅曰、此乃曹操之福、江東之禍也。孔明笑曰、公瑾之病、亮亦能医。肅曰、誠如此、則国家万幸。即請孔明同去看病。肅先入見周瑜。瑜以被蒙頭而臥。肅曰、都督病勢若何。周瑜曰、心 腹攪痛、時復昏迷。肅曰、曾服何藥餌。瑜曰、心中嘔逆、藥不能下。肅曰、適来去望孔明、言能医都督之病、見在帳外、煩来医治、何如。瑜命請入、教左右扶起、坐於牀上。孔明曰、連日不晤君顏、何期貴体不安。瑜曰、人有旦夕禍福、豈能自保。孔明笑曰、天有不測風雲、人又豈能料乎。瑜聞失色、乃作呻吟之声。孔明曰、都督心中似覚煩積否。瑜曰、然。孔明曰、必須用涼薬以解之。瑜曰、已服涼薬、全然無效。孔明曰、須先理其氣、氣若順、則呼吸之間、自然痊可。瑜料孔明必知其意、乃以言挑之曰、欲得順氣、当服何薬。孔明笑曰、亮有一方、便教都督氣順。瑜曰、願先生賜教。孔明索紙筆、屏退左右、密書十六字曰、
欲破曹公、宜用火攻、万事倶備、只欠東風
写畢、遞与周瑜曰、此都督病源也。瑜見 了大驚、暗思、孔明真神人也、早已我心事、只索以実情告之。乃笑曰、先生已知我病源、将用何薬治之、事在危急、望即賜教。孔明曰、亮雖不才、曾遇異人、伝授奇門遁甲天書、可以呼風喚雨、都督若要東南風時、可於南屏山建一台、名曰、七星壇、高九尺、作三層、用一百二十人、手執旗囲遶、亮於台上作法、借三日三夜東南大風、助都督用兵、何如。瑜曰、休道三日三夜、只一夜大風、大事可成矣、只是事在目前、不可遅遲緩。孔明曰、十一月二十日甲子祭風、至二十二日丙寅風息、如何。瑜聞言大喜、矍然而起。便伝令差五百精壯軍士、往南屏山築壇、撥一百二十人、執旗守壇、聴候使令。
孔明辞別出帳、与魯肅上馬、来南屏山相度地勢、令軍士取東南方赤土築壇。方圓二十四丈、毎一層高三尺、共是九尺。 下一層插二十八宿旗、東方七面青旗、按角・亢・■抵の旁/・房・心・尾・箕布蒼龍之形、北方七面p旗、按斗・牛・女・虚・危・室・壁、作玄武之勢、西方七面白旗、按奎・婁・胃・昴・畢・觜・参、踞白虎之威、南方七面紅旗、按井・鬼・柳・星・張・翼・軫、成朱雀之状。第二層周囲黄旗六十面、按六十四卦、分八位而立、上一層用四人、各人戴束髮冠、穿p羅袍、鳳衣博帯、朱履方裾。前左立一人、手執長竿、竿尖上用鶏羽為葆、以招風信、前右立一人、手執長竿、竿上繋七星號帯、以表風色、後左立一人、捧宝剣、後右立一人、捧香爐。壇下二十四人、各持旌旗・宝蓋・大戟・長戈・黄鉞・白旄・朱旛・p縣、環遶四面。孔明於十一月二十日甲子吉辰、沐浴斎戒、身披道衣、跣足散髮、来到壇前。分付魯肅 曰、子敬自往軍中相助公瑾調兵、■ニンベン尚/亮所祈無応、不可有怪。魯肅別去。孔明嘱付守壇将士、不許擅離方位、不許交頭接耳、不許失口乱言、不許失驚打怪、如違令者斬。衆皆領命。孔明緩歩登壇、観瞻方位已定、焚香於爐、注水於盂、仰天暗祝。下壇入帳中少歇、令軍士更替吃飯。孔明一日上壇三次、下壇三次──卻不見有東風。
且説周瑜請程普、魯肅一班軍官、在帳中伺侯、只等東南風起、便調兵出、一面関報孫権接応。黄蓋已自準備火船二十隻、船頭密布大釘、船内装載蘆葦乾柴、灌以魚油、上鋪硫黄・■餡の旁に炎/硝引火之物、各用青布油単遮蓋、船頭上插青龍牙旗、船尾各繋走舸。在帳下聴侯、只等周瑜號令。甘寧・■門敢/沢窩盤蔡和・蔡中、在水寨中、毎日飲酒、不放一卒登岸。周囲尽是 東呉軍馬、把得水泄不通。只等帳上號令下来。周瑜正在帳中坐議、探子来報、呉侯船隻離寨八十五里停泊、只等都督好音。瑜即差魯肅遍告各部下官兵将士、倶各收拾船隻、軍器・帆櫓等物。號令一出、時刻休違。■ニンベン尚/有違誤、即按軍法。衆兵将得令、一個個磨拳擦掌、準備廝殺。是日看看近夜、天色清明、微風不動。瑜謂魯肅曰拈、孔明之言謬矣、隆冬之時、怎得東南風乎。肅曰、吾料孔明必不謬談。将近三更時分、忽聴風声響、旗旛転動。瑜出帳看時、旗帯竟飄西北、霎時間東南風大起。
瑜駭然曰、此人有奪天地造化法、鬼神不測之術、若留此人、乃東呉禍根也、及早殺却、免生他日之憂。急喚帳前護軍校尉丁奉・徐盛二将、各帯一百人、徐盛従江内去、丁奉従旱路去、都到南屏山七星壇前、休問長短 、拏住諸葛亮便行斬首、将首級来請功。
二将領命、徐盛下船、一百刀斧手、蕩開棹■将した木/、丁奉上馬、一百弓拏手、各跨征駒、往南屏山来。於路正迎着南風起。後人有詩曰、
七星壇上臥龍登、一夜東風江水騰、不是孔明施妙計、周郎安得逞才能
丁奉馬軍先到、見壇上執旗将士、当風而立。丁奉下馬提剣上壇、不見孔明、慌問守壇将士。答曰、恰纔下壇去了。丁奉忙下壇尋時、徐盛船已到。二人聚於江辺。小卒報曰、昨一隻快船停在前灘口、適間却見孔明髮下船、那船望上水去了。丁奉・徐盛、便分水陸両路追襲。徐盛教■洩のサンズイがテヘン/起満帆、搶風而使。遙望前船不遠、徐盛在船頭高声大叫、軍師休去、都督有請。只見孔明立於船尾大笑、上覆都督、好好用兵、諸葛亮暫回夏口、異日再容相 見。徐盛曰、請暫少住、有緊話説。孔明曰、吾已料定都督不能容我、必来加害、預先教趙子龍来相接、将軍不必追■走旱。徐盛見前船無篷、只顧■走旱/去。看看至近、趙雲拈弓搭箭、立於船尾大叫曰、吾乃常山趙子龍也、奉令特来接軍師、■ニンベン尓/如何来追■走旱/、本待一箭死■ニンベン尓/来、顕得失両家失了和氣、教■ニンベン尓/知我手段。言訖、箭到処、射断徐盛船篷索。那篷墮落下水、其船便。趙雲却教自己船上■洩のサンズイがテヘン/満帆、乗順風而去。其船如飛、追之不及。岸上丁奉喚徐盛船近岸、言曰、諸葛亮神機妙算、人不可及、更兼趙雲有万夫不当之勇、汝知他当陽長坂時否、吾等只索回報便了。於是二人回見周瑜、言孔明預先約趙雲迎接去了。周瑜大驚曰、此人如此多謀、使我 曉夜不安矣。魯肅曰、且待破曹之後、却再図之。
瑜従其言、喚集諸将聴令。先教甘寧帯了蔡中並降卒沿南岸而走、只打北軍旗號、直取烏林地面、正当曹操屯糧之所。深入軍中、挙火為號、只留下蔡和一人在帳下、我有処。第二喚太史慈分付、■ニンベン尓/可領三千兵、直奔黄州地界、断曹操合■サンズイ肥/接応之兵、就逼曹兵、放火為號。只看紅旗、便是呉侯接応兵到。這両隊兵最遠、先発。第三喚呂蒙領三千兵去烏林接応甘寧、焚焼曹操寨柵。第四喚凌統領三千兵、直截彝接界陵首、只看烏林火起、以兵応之。五喚董襲領三千兵、直取漢陽、従漢川殺奔曹操寨中、看白旗接応。第六喚潘璋領三千兵、尽打白旗往漢陽接応董襲。六隊船隻各自分路去了。却令黄蓋安排火船、使卒馳書約曹操、令夜来降。一面撥戦 船四隻、隨於黄蓋船接応。第一隊領兵軍官韓当、第二隊兵軍官周泰、第三隊領兵軍官蒋欽、第四隊領兵軍官陳武、四隊各引戦船三百隻、前面各排列火船二十隻。周瑜自与程普在大艨艟上督戦、徐盛・丁奉為左右護衞、只留魯肅共■門敢/沢衆謀士守寨。程普見周瑜調軍有法、甚相敬服。
却説孫権差使命持兵符至、説已差陸遜為先鋒、直抵■クサカンムリ單斤/黄地面進兵、呉侯自為後応。瑜又差人西山放火■石駮/、南屏山挙旗號。各各準備停当、只等黄昏挙動。
話分両頭。且説劉玄徳在夏口專候孔明回来、忽見一隊船到、乃是公子劉g自来探聴消息。玄徳請上敵樓坐定、説、東南風起多時、子龍去接孔明、至今不見到、吾心甚憂。小校遙指樊口港上、一帆風送扁舟到、必軍師也。玄徳与劉g下樓迎接。須臾船 到、孔明・子龍登岸。玄徳大喜。問候畢、孔明曰、且無暇告訴事、前者所約軍馬戦船、皆已■辮の糸が方/否。玄徳曰、收拾久矣、只候軍師調用。孔明便与玄徳、劉g升帳坐定、謂趙雲曰、子龍可帯三千軍馬、渡江逕取烏林小路、揀樹木蘆葦密処埋伏、今夜四更已後、曹操必然従那條路奔走、等他軍馬過、就半中間放起火来、雖然不殺他尽絶、也殺一半。雲曰、烏林有両條路、一條通南郡、一條取荊州、不知向那條路来。孔明曰、南郡勢迫、曹操不敢往、必来荊州、然後大軍投許昌而去。雲領計去了。又喚張飛曰、翼徳可領三千兵渡江、截断彝陵這條路、去葫蘆谷口埋伏、曹操不敢走南彝陵、必望北彝陵去、来日雨過、必然来埋鍋造飯、只看煙起、便就山辺放起火来、雖然不捉得曹操、翼徳這場功料也不小。飛領計去 了。又喚糜竺・糜芳・劉封三人、各駕船隻、遶江剿擒敗軍、奪取器械。三人領計去了。孔明起身、謂公子劉g曰、武昌一望之地、最為緊要、公子便請回、率領所部之兵、陳於岸口、操一敗必有逃来者、就而擒之、却不可軽離城郭。劉g便辞玄徳、孔明去了。孔明謂玄徳曰、主公可於樊口屯兵、凭高而望、坐看今夜周郎成大功也。
時雲長在側、孔明全然不■目采/。雲長忍耐不住、乃高声曰、関某自隨兄長征戦、許多年来、未嘗落後、今日逢大敵、軍師却不委用、此是何意。孔明笑曰、雲長勿怪、某本欲煩足下把一個最緊要的隘口、怎奈有些礙処、不敢教去。雲長曰、有何違礙、願即見諭。孔明曰、昔日曹操待足下甚厚、足下当有以報之、今日操兵敗、必走華容道、若令足下去時、必然放他過去、因此不敢教去。雲長 曰、軍師好多心、当日曹操果是重待某、某已斬顏良、誅文醜、解白馬之囲、報過他了、今日撞見、豈肯軽放。孔明曰、■ニンベン尚/若放了時、却如何。雲長曰、願依軍法。孔明曰、如此,立下文書。雲長便与了軍令状。雲長曰、若曹操不従那條路上来、如何。孔明曰、我与■ニンベン尓/軍令状。雲長大喜。孔明曰、雲長可於華容小路高山之処、堆積柴草、放起一把火煙、引曹操来。雲長曰、曹操望見煙、知有埋伏、如何肯来。孔明笑曰、豈不聞兵法虚虚実実之論。操雖能用兵、只此可以瞞過他也、他見煙起、将謂虚張声勢、必然投這條路来、将軍休得容情。雲長領了将令、引關平・周倉並五百校刀手、投華容道埋伏了。玄徳曰、吾弟義氣深重、若曹操果然投華容道去時、只恐端的放了。孔明曰、亮夜観乾象、操賊 未合身亡、留這人情、教雲長做了、亦是美事。玄徳曰、先生神算、世所罕及。孔明遂与玄徳往樊口、看周瑜用兵、留孫乾・簡雍守城。
却説曹操在大寨中、与衆将商議、只等黄蓋消息。当日東南風起甚緊。程c入告曹操曰、今日南風起、宜預■コザト是/防。操笑曰、冬一陽生、来復之時、安得無東南風、何足為怪。軍士忽報江東一隻小船来到、説有黄蓋密書。操急喚入。其人呈上書。書中訴説、周瑜關防得緊、因此無計脱身、今有■番オオザト/陽湖新運到糧、周瑜差蓋巡哨、已有方便、好歹殺江東名将、献首来降、只在今晩二更、船上插青龍牙旗者、即糧船也。操大喜、遂与衆来到寨中大船上、観黄蓋船到。
且説江東、天色向晩、周瑜喚出蔡和、令軍士縛倒。和叫、無罪。瑜曰、汝是何等人、敢来詐降、吾今 缺少福物祭旗、願借■ニンベン尓/首級。和抵頼不過、大叫曰、家■門敢/沢・甘寧亦曾与謀。瑜曰、此乃吾之所使也。蔡和悔之無及。瑜令捉至江辺p纛旗下、奠酒燒紙、一刀斬了蔡和、用血祭旗畢、便令開船。黄蓋在第三隻火船上、独披掩心、甲手提利刃、旗上大書、先鋒黄蓋。蓋乗一天順風、望赤壁進発。是時東風大作、波浪洶湧。操在中軍遙望隔江、看看月上、準耀江水、如万道金蛇、翻波戲浪。操迎風大笑、自以為得志。忽一軍指説、江南隠隠一簇帆幔、使風而来。操凭高望之。報称、皆插青龍牙旗、内中有大旗、大書先鋒黄名字。操笑曰、公覆来降、此天助我也。来船漸近。程c観望良久、謂操曰、来船必詐、且休教近寨。操曰、何以知之。程c曰、糧在船中、船必隠重、今観来船、軽而且浮、更兼今夜東 南風甚緊、■ニンベン尚/有詐謀、何以当之。操省悟、便問、誰去止之。文聘曰、某在水上頗熟、願請一往。言畢、跳下小船、用手一指、十数隻巡船、隨文聘船出。聘立在船頭、大叫、丞相鈞旨、南船且休近寨、就江心■抛住。衆軍斉喝、快下了篷。言未絶、弓弦響処、文聘被箭射中左臂、倒在船中。船上大乱、各自奔回。南船距操寨止隔二里水面。黄蓋刀一招、前船一斉発火。火趁風威、風助火勢、船如箭発、煙■餡の旁に炎/障天。二十隻火船、撞入水寨。曹寨中船隻一時尽着、又被鉄環銷住、無処逃避。隔江■石駮/響、四下火船斉到、但見三江面上、火逐風飛、一派通紅、漫天徹地。
曹操回観岸上営寨、幾処煙火。黄蓋跳小船上、背後数人駕舟、冒煙突火、来尋曹操、操見勢急、方欲跳上岸、忽張遼駕一小 ■月卻/船、扶操下得船時、那隻大船、已自着了。張遼与十数人保護曹操、飛奔岸口。黄蓋望見絳紅袍者下船、料是曹操、乃催船速進、手提利刃、高声大叫、曹賊休走、黄蓋在此。操叫苦連声。張遼拈弓搭箭、■戯の戈が見/着黄蓋較近、一箭射去。此時風声正大、黄蓋在火光中、那裏聴得弓弦響、正中肩窩、翻身落水。正是、
火厄盛時遭水厄、捧瘡愈後患金瘡
未知黄蓋性命如何、且看下文分解{「三国演義」第四十九回「七星諸葛祭風 三江口周瑜縦火」}。
     ◆
 
 赤壁から逃げ出した曹操は烏林を目指す。すると背後から呂蒙、行手に凌統が現れる。其処に駆け付けた徐晃の奮戦で、曹操は漸く北へと逃れる。袁紹の許から降ってきた馬延・張と合流したが、甘寧の一隊と遭遇。馬延 と張は討ち取られてしまう。合■サンズイに肥/を目指した曹操に、陸遜と太史慈が襲い掛かる。曹操は彝陵へと進路を変え、途中で張■合オオザト/と合流した。五更の頃、烏林の北、宜都の北に辿り着く。
 
操見樹木叢雑、山川険峻、乃於馬上仰面大笑不止。諸将問曰、丞相何故大笑。操曰、吾不笑別人、単笑周瑜無謀、諸葛亮少智、若是吾用兵之時、預先在這裏伏下一軍、如之奈何。説猶未了、両辺鼓声震響、火光竟天而起、驚得曹操幾乎墜馬。刺斜裏一彪軍殺出、大叫、我趙子龍奉軍師将令、在此等候多時了。操教徐晃、張コウ双敵趙雲、自己冒煙突火而去。子龍不来追■走旱/、只顧搶奪旗幟。曹操得脱{羅貫中「三国演義」第五十回「諸葛亮智算華容 関雲長義釈曹操」聯経・台北}。

 伏兵を置く絶好地に敵が見えないからと曹操は周瑜・諸葛亮を嘲笑する。惨敗した屈辱を無理に返上しようとしている。其処へ勇将・趙雲が登場し、軍師/孔明の命で待ち構えていたと云う。曹操は慌てて逃げ出す。不思議と趙雲は、旗を奪うだけで追撃しない。恐らく孔明から、曹操を逃がすように言い含められていたのだろう。趙雲が本気を出したら、洒落にならない。
 夜が明けると大雨。李典と許■コロモヘン者/が追い付く。道は二股に分かれている。一方は南彝陵への大路、一方は北彝陵への山路。軍士の進言で大路を進む。葫蘆口で食事を摂る。また此処で曹操は大笑いし、「吾笑諸葛亮・周瑜畢竟智謀不足、若是我用兵時、就這個去処、也埋伏一彪軍馬、以逸待労、我等縦然脱得性命、也不免 重傷矣、彼見不到此、我是以笑之」。此の言葉を待っていたかのように、張飛の一軍が現れる。張遼・徐晃が応戦する間に、曹操は逃げ出す。
 またしても岐路。大路は平穏な眺め、小路には煙が上がっており軍馬の気配。曹操は平穏に見える大路にこそ孔明が伏兵を置いていると疑い、小路へと進む。華容に入ると、飢えて疲れ切った兵士が次々に脱落していく。しかも泥濘、進軍もママならない。路傍の木竹を刈って舗装させる。兵士は次々に倒れていく。少し進んだところで曹操は、またもや大笑する。「人皆言周瑜・諸葛亮足智多謀、以吾観之、到底是無能之輩、若使此処伏一旅之師、吾等皆束手受縛矣」。

言未畢、一声■石馬交/響、両辺五百校刀手擺開、為首大将関雲長、提青龍刀、跨赤兎馬、截住 去路。操軍見了、亡魂喪膽、面面相■戲の戈が見/。操曰、既到此処、只得決一死戦。衆将曰、人縦然不怯、馬力已乏、安能復戦。程c曰、某素知雲長傲上而不忍下、欺強而不凌弱、恩怨分明、信義素著、丞相旧日有恩於彼、今只親自告之、可脱此難。操従其説、即縦馬向前、欠身謂雲長曰、将軍別来無恙。雲長亦欠身答曰、関某奉軍師将令、等候丞相多時。操曰、曹操兵敗勢危、到此無路、望将軍以昔日之情為重。雲長曰、昔日関某雖蒙丞相厚恩、然已斬顔良、誅文醜、解白馬之危、以奉報矣、今日之事、豈敢以私廃公。操曰、五関斬将之時、還能記否、大丈夫以信義為重、将軍深明春秋、豈不知■マダレ叟/公之斯追子濯孺子之事乎。雲長是個義重如山之人、想起当日曹操許多恩義、与後来五関斬将之事、如何不 動心、又見曹軍惶惶皆欲垂涙、一発心中不忍。於是把馬頭勒囘、謂衆軍曰、四散擺開。這個分明是放曹操的意思。操見雲長囘馬、便和衆将一斉衝将過去。雲長囘身時、曹操已与衆将過去了。雲長大喝一声、衆軍皆下馬、哭拝於地。雲長愈如不忍。正猶予間、張遼驟馬而至。雲長見了、又動故旧之情、長歎一声、並皆放去。後人有詩曰、
曹瞞兵敗走華容、正与関公狭路逢、只為当初恩義重、放開金鎖走蛟龍
曹操既脱華容之難、行至谷口、囘顧所随軍兵、止有二十七騎。比及天晩、已近南郡、火把斉明曹、一簇人馬■爛の火がテヘン/路。身猶大驚曰、吾命休矣。只見一群哨馬衝到、方認得是曹仁軍馬。操纔心安。曹仁接着、言、雖知兵敗、不敢遠離、只得在附近迎接。操曰、幾与汝不相見也。於是引衆入南郡安歇 。随後張遼也到、説雲長之徳。操點将校、中傷者極多、操皆令将息。曹仁置酒与操解悶。衆謀士倶在座。操忽仰天慟。衆謀士曰、丞相於虎窟中逃難之時、全無懼怯、今到城中、人已得食、馬已得料、正須整頓軍馬復讐、何反痛哭。操曰、吾哭郭奉孝耳、若奉孝在、決不使吾有此大失也。遂■テヘン追/胸大哭曰、哀哉、奉孝、痛哉、奉孝、惜哉、奉孝。衆謀士皆黙然自慚。次日、操喚曹仁曰、吾今暫囘許都、収拾軍馬、必来報讐、汝可保全南郡、吾有一計、密留在此、非急休開、急則開之、依計而行、使東呉不敢正視南郡。仁曰、合■サンズイ肥/・襄陽、誰可保守。操曰、荊州託汝管領、襄陽吾已撥夏候惇守把、合■サンズイ肥/最為緊要之地、吾命張遼為主将、楽進・李典為副将、保守此地、但有緩急、飛報将来 。操分撥已然定、遂上馬引衆奔囘許昌。荊州原降文武各官、依旧帯囘許昌調用。曹仁自遣曹洪據守彝陵・南郡、以防周瑜。
却説関雲長放了曹操、引軍自囘。此時諸路軍馬、皆得馬匹・器械・銭糧・已囘夏口、独雲長不獲一人一騎、空身囘見玄徳。孔明正与玄徳徳作賀、忽報雲長至。孔明忙離坐席、執盃相迎曰、且喜将軍立此蓋世之功、与普天下除大害、合宜遠接慶賀。雲長黙然。孔明曰、将軍莫非因吾等不曾遠接、故而不楽。囘顧左右曰、汝等縁何不先報。雲長曰、関某特来請死。孔明曰、莫非曹操不曾投華容道上来。雲長曰、是従那裏来、関某無能、因此被他走脱。孔明曰、拏得甚将士来。雲長曰、皆不曾拏。孔明曰、此是雲長想曹操昔日之恩、故意放了、但既有軍令状在此、不得不按軍法。遂叱武士推出斬之。 正是、
■テヘン弁/将一死酬知己、致令千秋仰義名
未知雲長性命如何、且看下文分解。
 
第五十一回 曹仁大戦東呉兵 孔明一気周公瑾
却説孔明欲斬雲長、玄徳曰、昔吾三人結義時、誓同生死、今雲長雖犯法、不忍違却前盟、望権記過、容将功贖罪。孔明方纔饒了。
……後略
 
 以前から諄々言ってきたように、八犬伝と先行文物とは、スッパリと一対一で対応しているわけではない。非常に有機的に結合した上で、初めて対応する。京都で親兵衛が関羽に擬せられているとき、南関東では小文吾と荘助{更には外形的行為のみでいえば小湊目}が関羽の行動を撫ぞっている。共に義人である。京都での政元は明らかに曹操と絡み合っているが、同じ頃、定正も曹操として扱われている。共 に自由濫望な悪玉だ。また、京で親兵衞が関羽に擬せられていることは明らかだけど、五虎を名乗る秋篠将曹広当にも其の資格がありそうだ。
 「抑この時に当て京師にて武芸をもて五虎の称を得たりしは、秋篠広当をもて第一とす。シカるに広当は素是温順の君子にて己に勝るを仇とし憎む那小人們に同じからねば機変破滅の田地に入らず。造化易るに紀内平五景紀をもて充しに時の人は旧に因て猶是をしも五虎といふめり。蓋広当が賢にして五虎の称に数まへられしは、瓦礫の中なる片玉なりき、と心ある者はいひけり」(第百四十五回)。
 京の五虎は、「秋篠広当をもて第一とす」。劉備配下の五猛将を五虎と呼ぶ。関羽が筆頭であろう。しかし此処で秋篠広当を関羽と重ねたものの、画虎が実体化した後 、広当は「五虎」から離脱、代わりに投石術の紀内鬼平五景紀が加わる。元々五虎のうち四人は悪人であり、広当は「瓦礫の中なる片玉」とされていた。馬琴が離脱させた理由は、「広当は素是温順の君子にて己に勝るを仇とし憎む那小人們に同じからねば機変破滅の田地に入らず。造化易るに紀内平五景紀をもて充しに時の人は旧に因て猶是をしも五虎といふめり」であった。これで「五虎」は完全に反社会集団となる。広当が「片玉」と称されるのは、【準犬士】であるとの謂いであろう。親兵衛と広当は、同じ善玉側の義人として、共に関羽と結ばれることで、繋がる。また、画虎が実体化した途端に五虎から広当が離脱する意味は、画虎と五虎の対称性による。京童を震撼させた画虎は、実の所、悪人しか啄まない。一方で新・五虎は、画虎の標的になるような集団となった。旧・五虎は広当を随一とし、広当を関羽と関連づける為にのみ設定されていた単なる数合わせ集団だったのだが、広当が抜け反社会集団となった途端に、画虎との対称性を帯びることになる。虎のイメージ上の属性である強烈な暴力性により共に恐れられる存在ではあるが、画虎は陰善{竊かなる善}、五虎は陽悪{あからさまな悪}だ。
 一方、南関東大戦では、荘助・小文吾・小湊目が、関羽の働きを分割している。小文吾が見逃した扇谷上杉朝良が、満呂重時に追われ、次いで東峰萌三に捕らえられる筋書きは、曹操が何度も危難を潜り抜け最後に関羽が見逃す様を、裏返したものだろう。因みに、関羽と云えば【義人】だが、義の犬士・荘 助は関帝廟の籤によって未来を予言されていた{第二十回}。申し子と迄は云えなくとも、義で繋がる連想から、関帝廟籤が登場したのだろう。
 
 また、関羽といえば、音音を忘れてはならない。洲崎沖海戦で女子挺身隊として火攻めを実行した音音は勿論、三国演義・黄蓋の役回りだ。曹操に襲い掛かった黄蓋は張遼の箭に射られ河へと落ちる。三国演義は思い入れタップリに「未知黄蓋性命如何、且看下文分解」と引っ張る。まぁ次の回で助かるんだが、「原来黄蓋深知水性、故大寒之時、和甲堕江、也逃得性命」と説明されている。八犬伝第百七十二回で、火攻めに成功するものの「水に遁れし音音すら、恙はなしや、あり磯潟、測り得かたき死活の、海には水澪の建られぬ、迹しら波とぞなりにける」と、三国演義の黄蓋よろしく生死不明であった。百七十七回で音音は元気な姿を見せるのだが、そのときの記述が「この日十二月八日の暁天に、烈婦音音は料らずも、那大茂林の澳辺にて、仁田山晋六武佐の、柴薪舩を燔撃せし時、那身は蚤く大洋に、跳入りつゝ燬を免れて、浮つ沈つ泅ぐ程に、音音は武蔵の川畔にて、成長たる甲斐ありて、水戯自得の老婦にあなれば、約莫一里有余なる、波瀾を凌ぎつ辛くして、大茂林浜に就しかど、大寒の日に潮水に没て、且風波に揉しかば、身は冷、手脚疲労果て、我にもあらず做りにけん、嵒に携りつ身を起して、ゆくこと僅に両三歩、憶ず撲地と転輾びて、其が侭息は絶にけり」であった。要するに、通常なら大寒十二月八日に水に落ちて生きてるなんて化け物じみた情況は、水練達者の一言で説明され得るのだ{善い子は真似しないように}。音音は見事に黄蓋に重ねられている。
 
 しかし、音音は黄蓋であるだけではなく、関羽でもある。第百七十九回下で、窮地を救った河堀殿から衣服を被{かず}けられたとき、音音は故意と里見義実から授かった古い衣服を上に着た。里見家への忠を鮮明にしたのだ。折角ここまで領分を越えた女同士の紐帯が描かれていたのに、この挿話が、やや水を差す。しかし馬琴は書かざるを得なかった。則ち、三国演義第二十五回、曹操に降った関羽が、新品の戦袍を貰ったとき、故意と劉備に賜った古ぼけた戦袍を上に着た。此の挿話を八犬伝に導入したかったのだ。余程、気に入っていたのだろう。対する反応も、曹操は「歎曰、真義士也。 然口雖称羨、心実不悦」、「河堀殿は興醒て、又いふよしもなかりしかば」と共通していている。
 
     ◆
一日、操見関公所穿緑錦戦袍已旧、即度其身品、取異錦作戦袍一領相贈。関公受之、穿於衣底、上仍用旧袍罩之。操笑曰、雲長何如此之倹乎。公曰、某非倹也、旧袍乃劉皇叔所賜、某穿之如見兄面、不敢以丞相之新賜而忘兄長之旧賜、故穿於上。操歎曰、真義士也。然口雖称羨、心実不悦{三国演義第二十五回「屯土山関公約三事 救白馬曹操解重囲」}。
 
妙真音音、曳手単節は、辞去まく欲する程に、河堀殿も貌姑姫も、他等が日属正首に、仕へたりける好意を感て、別を惜み給ふ事、大かたならず、金銀をもて鏤たる、手匣玳瑁の櫛釵児などを、手自許多取出て、餞別にとて与 へ給ふを、妙真音音、曳手単節は、推辞て敢一箇も受ず、「奴四人は数ならぬ、原は賤婦人にて侍れども、里見殿の御恩にて、犬江親兵衛仁が大母、姥雪代四郎與保が渾家よ、嫁婦よと人に知られて、東西匱しくは侍らぬに、是賜りて何にせん、畏うは侍れども、是は這儘措せ給へ、と異口同様に辞ふのみ、敢受べき意なければ、河堀殿は因じ果て、後方に侍る女房に、恁々と吩付て、唐織の夾衣の、蘭奢の薫得もえならぬを、四襲許出させて、広蓋にうち載しを、妙真等四箇の婦女子に、みづから薦めて宣やう、「汝等の硬直なる、東西受られねば、術もなけれど、時は今四月の下浣にて、今日は殊更温暖なるに、去歳の儘なる小袖では、汗に堪ずやあらんずらん。切て是をば受てよ」、と言叮寧に諭給へば、妙真 音音、曳手単節は、貴人の恁までに、理り迫て云々と、宣するを、猶幾番も、固辞んはさすがにて、只得倶に受戴きて、被ぎて軈て退きて、各うち被て出て来つ、皆席末に居並びて、其歓びを稟にぞ、河堀殿は本意ありとて、徐に其方を見かへり給へば、他等は今給はりたる、夾衣を下にして、今までなる旧衣を、各胡意上に被たれば、河堀殿訝りて、先其所以を問給へば、妙真音音等答ていふやう、「這旧衣は去歳の冬、我滝田の老侯の被けさせ給ひたる、恩賜の東西で侍るかし。今給はりたる夾衣は、則是時服にて、且綺羅やかに侍れども、いかにして這新賜を、那旧恩に思ひ易んや。こゝをもて旧衣を、今も猶上に被たるは、余馨を拝して、本を忘れぬ、愚意にこそ侍れ」と、解れて、「さては」、とばかりに 、河堀殿は興醒て、又いふよしもなかりしかば、妙真音音、曳手単節は、共侶に別を告て、「既に和睦整て、今日は城を返さるべし。這故に奴毎は、身の暇を賜りて、舩出して安房へ還り侍らん。玉椿の八千歳まで、恙なく在さんことを、祈りまつり侍るのみ。館(定正をいふ)程なく還らせ給はゞ、憂を転して御歓びは、八入ならん、と査まつりぬ。今はしも御別になり侍りぬ」、といひ果て倶に身を起せば、河堀殿も貌姑姫も、禁難つゝ云々、と詞寡く労ひ給ふ。当下侍坐せし女房が、一両個こゝろ得て、鈴鐸の間までぞ送りける{第百七十九回下}。
     ◆
 
 荘助・小文吾・小湊目、更に音音まで動員して馬琴は八犬伝に関羽を導入した。かなりの御気に入りだったことが分かる。換骨奪胎、 得意の稗史技術を見せ付けている。元より関羽は江戸人士にも人気があったから、商業的な意味合いもあったかもしれない。
 
 「信乃と親兵衛の貸借対照表」で指摘した如く、南関東大戦に於ける七犬士の戦いと、親兵衛の第一次上洛はパラレルである。そして、親兵衛を味方に取り込もうと次々に贈り物をする政元は、其の意味に於いて、三国演義の悪役・曹操に重ね合わされている。京都の管領と、関東管領は、パラレルである。但しパラレルであるのは、親兵衛と小文吾・荘助、政元と定正であって、京都と南関東が、世界としてパラレルだと言いたいのではない。室町将軍足利義尚は、義尚は新井白石にさえ明君の資質があったと云わしめた将軍だが、各種史料が示す如く立派な男色家であった。八犬伝では{無力ながら}善玉将軍として描かれている。別に親兵衛と姦ったとは書いていない{書いていないからと言って致していないとの証明にはならない}。政元は各種史料でも男色家呼ばわりされているし事実でもあっただろう。八犬伝に男色家として登場することは、順当かつ正当である。親兵衛の第一次上洛は、桃色だか橙色だか、とにかく暖色……いや、男色に彩られている。但し実際に京の男色家は、政元ぐらいのもので、寅稚児に至っては腐女子の先駆・於兎子の妄想の中でだけアンナことやコンナことや此処では書けないほど凄まじい同性愛行為を繰り広げているに過ぎない。ただ、姥雪代四郎が会話に於いて、京都で男色が蔓延していると語るのみである。しかし、其れでも京都には濃厚な男色 の空気が漂う。
 
 京都の男色を一人で背負ってる【男の中の男】は、変態管領・細川政元だ。が、本当に、そうなのだろうか。確かに八犬伝の政元は左京兆{左京大夫}であった。左京の行政長官だから、京都を代表する人物ではある。しかし小物臭漂う政元に、京都の男色を背負って立つ資格が、抑もあるのだろうか。このとき政元は十九歳ぐらいで職にも就いているから、青少年保護条例にも引っ掛からず、不純同姓交遊に耽ることが出来る{親兵衛は引っ掛かる}。しかし性格面で思い切りも悪く小物っぽいのだ。しかも所詮は、管領である。親兵衛でも誰でも、美少年に入れ上げて刃傷沙汰に及ぶとか、逃避行を決め込むとか、なんか思い切った行動をとらねば、如何しても「所詮は管領」でもあるし、強烈な小物臭が漂うのだ。
 いや抑も、我々の前にいる変態管領・政元は、本当に政元なのであろうか。八犬伝は時の流れが大枠で定まっており、其のため若干の無理が生じていると、「犬の賞味期限」などで縷々述べてきた。親兵衛第一次上洛時に、政元が管領職に在ることも史実とは違う。史実は此の際、関係ないと割り切らねばならぬ。史実どころか、政元が政元であることさえ疑いたくなる。こんな奴に京都の男色を背負って立たせて良いのであろうか。しかし、まさか、いや……将軍なら、話は変わるかもしれない。義尚は男色家であり故に世を乱した可能性もある。
 
 今でこそ情報操作や権力の幼稚な恣意的行使は、当たり前のように蔓延し、其れへの批判さえ憚られる御時勢だが、前近代には否定的に捉えられてきた。そして現在でも頻繁に見られる如く、組織内で性関係により権力行使が歪められることがある。だからこそ江戸城大奥では将軍の寝所に、同衾する女性以外の女中も侍る。いや別に3Pや、見られることで更なる欲情の炎を燃やすことが、目的ではない{と思う}。不適切な密談が行われないよう監視するためだ。権力者/公人の性行為にプライバシーなんぞ認めるなんてなぁ、トンチンカンだ。甘やかし過ぎである。権力側がプライバシーなぞ主張するなんて、馬鹿にしか見えない。金と色は犯罪の重要な動機となる。政治でも、厳しく規制しなければならない。嫌なら政治家にならなければ良いだけだ。プライバシーを認めろなんて、主権者の代行者に過ぎない身の程を、全く弁えていない。アメリカとか北朝鮮の別嬪もしくはイケメンに誑し込まれたら如何する。権力者は【天】の代行者であって、監視は天体観測と同一の扱いで良い。則ち無制限だ。権力の在り方として、まだしも江戸幕府には一定の自浄能力があった。現在の幼稚なスイーツどもとは格が違う。何より儒学は諫言こそ忠の発露だと規定していたから、君主が誤ったとき権力体総体が自浄能力を発揮できた。そうでなくて二百六十年も保てやしない。「評云、男子の佞すら政道の為に寇なり。况んや女をや。是傾国の端也と云々」{理尽鈔・巻一・立后事付三位殿御局事}である。【性】というより【佞】が問題なのだ。
 
 八犬伝は当初、神余光弘が玉梓に誑し込まれ、其の玉梓が山下定包に誑し込まれ、忠臣を遠ざけ結局、神余家は滅亡の道を転げ落ちた。男性権力者が女性に誑し込まれ其の女性に実権を握らせた。実権を握った女性がイケメンに誑し込まれ、政権の転覆に手を貸した 。男女は共に愚かなんである。
 一方で、バカな定正を支える良妻・蟹目上がいる。血気に逸る夫に隠れて犬士を助ける重戸がいる。敵である扇谷上杉家の女達を戦乱の狂気から守ろうと長刀を振るう音音がいる。傾城水滸伝ほどではないが、八犬伝の主要登場女性は、とにかく恰好良いんである。進歩的文化人すなわち気違いどもは、八犬伝を女性蔑視の書と断ずるらしいが、気違いの戯言に付き合う気は全く無い。閑話休題。
 
 馬琴が此の時代の京都を描けば当然、史書に通じた読者は足利義尚の挿話も思い出すだろう。美少年犬士・親兵衛は政元邸に拉致され、於兎子は夫と美少年の性交を妄想し、代四郎は「京師は殊に男色の行はるゝこと女色に勝れり」{第百三十九回}と極め付けた。
 いくら政元が左京兆とはいえ、京都の主宰者は、本来ならば天皇なんだけども、残念ながら室町将軍・足利義尚だ。代四郎に「京師は殊に男色の行はるゝこと女色に勝れり」と言わせたとき、馬琴の脳裏には義尚の挿話があった筈だ。しかし八犬伝で馬琴は、義尚から男色を抜いて、単なる明君とした。
 
 考えられる第一の理由は、話の単純化だ。男色家が善悪ともゾロゾロ出てきたら、ワケが解らなくなる。将軍と管領が、親兵衛を奪い合って喧嘩を始めても困る。善玉側の素手吉が親兵衛に対し発情したことから、八犬伝では必ずしも男色は【悪】ではない、と断じて良い。が、結果として、さほど肯定的に描かれているわけでもない。どちらかと云えば、否定的だ。
 
 八犬伝で其の気を見せる者は、相摸小猴子{実は毛野}に戯れかかる鎌倉蹇児、親兵衛に向けて欲情を抱く細川政元と枝独鈷素手吉、そして斎藤兵衛太郎盛実を小姓としていた山内上杉顕定がいる。このうち鎌倉蹇児・政元・素手吉は、八犬伝の中では【欲情を抱く】のみであり、実際に「龍陽の寵」を施した者は顕定のみだ。
 鎌倉蹇児は嘗て道楽者であったから、田舎者に対し「貴所は田夫野人ぢや。さだめていままで、若衆のおこないやうをも知るまい」{きのふはけふの物語}とか厭味を云うほどの軽々しい感覚で、売笑少年を犯していた疑いは濃厚だ。例えば好色一代男の世之介は、五十四歳までに「たはふれし女」三千七百四十二人、「もてあそ」んだ「少子(男の子)」七百二十五人と数えている。また彼を愛した念者と再会していることから、若い頃は男どもに弄ばれていたことが明らかだ。相手の人数は分からない。念者には深く愛されていたようだから案外、自分では若者たちを性処理具として弄びつつ、自分はチャッカリ濃やかに愛されていたのかもしれない。ならば念者の人数は、さほど多くない可能性もある。何連にせよ世之介はイメージとして、平日は女性を抱き、土曜日には男を犯し、日曜日は安息日、そして偶に男に抱かれる、そんな感じだ。少なくとも念者としては真摯な衆道追求者ではなく、遊戯の選択肢に男色が入っていただけの遊び人である。但し彼が最も濃密かつ誠実に対するのは上記の念者と目されるので、実のところ本性はウケの同性愛者であるとの疑いも生じる。
 政元は、女色よりも男色が盛ん{?}だった京都を治める担当者だったから、人並みに嗜んでいただろう。実際、彼が暗殺されたとき、「波々伯部ト云ケル小姓ノ童」も怪我を負うのだが、後に暗殺者を討ち取ったとの情報もあり、此の小姓にも夜の玩具疑惑が掛かっている{「今日もホリホリ明日もホリホリ」}。
 贅言すれば、親兵衞が関羽なら、政元は曹操だ。そして政元が親兵衞に欲望を向けていたとならば、三国演義の曹操も関羽に懸想して言い寄ったであろうか。一応、筆者の版に、そんな記述はない。ただ関羽を取り込もうと、贈り物攻勢に血道を上げるだけだ。また、関羽は、預かっていた劉備の妻たちを守るためにこそ、曹操に降参した。三国演義で人妻好きと噂を立てられた好色漢・曹操だ。曹操が人妻好きだと信じたからこそ、周瑜は戦いを決断したのではなかったか。しかし三国演義には曹操が、劉備の妻達に手を出したとの記述はない。 好色漢が、好物{?}の人妻に見向きもしないなら、より美味しい獲物を手に入れたと考えねばならない。嘗て戦場で自分を翻弄した関羽を、弄び蹂躙したか。これほど厚遇されたら、義人である関羽も少しは絆されたかもしれない。また、曹操の毒牙から劉備の妻達を守るには、自分が陵辱されるしか、選択肢がなかったか。義人・関羽なら、後者の理由がシックリくる。桃尻の契り……いや、桃園の契りを結んだ義兄の妻たちを守るため、関羽は曹操に肉体を差し出さねばならなかったか。勿論、「曹操に体はあずけても、心は劉備のもの」ではあろう。
 ……いや、待てよ、筆者は何の検証もなく、ただ年齢の上下だけで、政元が男役、親兵衛を少女役と決め付けてきた。しかし政元は、親兵衛を取り込みたいがため、肉体を求めた。「取り込みたい」は「挿入られたい」に通じるのではないか。
 水戸光圀は「玄桐筆記」で以下の如く語った。「一高田御邸に御座の年暮に広木代衛門参て今年は殿様御倉入宜敷御座候て目出度奉存る由申上けれハ、誠に珍重なる御事也、但御年貢を納むるは、いつとても女を御するやうにすへし、小童を御するやうにセぬもの也と打ゑまセ給ひなから被仰ける。代衛門御意を心得かねてためらひけれハ、重而被仰けるハ女を御するハ双方よろこひ男色ハ我ハ歓へとも、かれハ苦痛す、公儀百姓両方ともによきやうにセん事干要なりと御戯言に取なして被仰けれハ、代衛門かしこまりて退ぬ。後に被仰けるハかやうの事、屹度云聞すれハ迷惑致すもの也、それゆえわさと戯に托して被仰聞けると也 」{「渇食の頃」参照}。筆者は此の一文に接する迄、男色家各位も男女と同様、双方が悦んで姦っているのだとばかり思っていた。しかし如何やら、挿入られる方は痛いだけで気持ちよくないようだ。政元も、親兵衛を味方にしたいなら、痛めつける筈がない。自らの密壷に親兵衛を招き入れ、以て快楽に溺れさせようとしたに違いない。幼少期、政元は播磨で拉致られ人質にされた。男色横行の時代、囚われた政元が、此の手の行為を叩き込まれなかった保証は、何処にもない。いや江戸芳町は陰間茶屋では、十歳くらいから器具を挿入して馴らして訓練を積んだ。少年期に此の種の経験をしたとすれば、政元が親兵衛を受け入れる肉体的抵抗は軽減する。だいたい女々しい政元には、女役が適任だ{筆者は別に 「女々しい」を以て女性蔑視の語彙と考えてはいない。女性に向かって「女々しい」と言えば女性蔑視の可能性はあろう。病気である性同一性障害でもないのに男でありながら女性らしさを強調する者は広義の社会的責任を果たしていないのだから蔑視しても差し支えはない}。
 ならば当然、曹操が女役となって、関羽に犯されたと想定せねばならぬ。曹操の祖父は宦官であった。曹操が女性役の方が、読者に受け容れ易いかもしれない。献帝に「美髯公」と呼ばれた関羽だから行為の時、曹操に「あぁん、御髯が擽ったぁぁい」とか云われたかもしれない。曹操は関羽に美女を与えたから、関羽と姦る気はなかった、とか言う勿れ。熟女が自分の愛人に若い女を斡旋し、以て愛人を自分のもとへ繋ぎ止めようとするは、常套である。利益供与を以て、関係を維持しようとする。上司に媚びる女性中間管理職が、女衒みたいなことをすしていたりするではないか。だから筆者から見れば、曹操が美女を与えることは、曹操が関羽と姦らないことの証明にはならない。曹操は、関羽との関係を維持するため、美女を与えた可能性だって皆無ではないのだ。しかし義人・関羽は、「曹操、俺はオマエだけで良い」とばかりに美女を振り切る。やはり関羽こそ、男の中の漢だ。女性役をするに、関羽は余りにゴツ過ぎる。……あ、いや待てよ、案外、アリかもしれない。馬琴は三国演義を必ずしも其の侭に取り込んでおらず、寧ろ逆転したり裏返したりしている場合がある。だから八犬伝で政元が女役でも、三国演義の曹操が女役だとは限らない。ゴツい漢を犯したい男だって、世界中探せば一人や二人はいるかもしれない。例えば、明代の小咄集「笑府」に次の如き一節がある。
 
     ◆
有於郊外見遺骸暴露、憐而■ヤマイダレ夾土/之。夜聞叩門声、問之。応曰、妃。再問。曰、妾楊妃也、遭馬嵬之難、遺骨未收、感君掩覆、來奉枕席。因与極歓而去。鄰人聞而慕焉、因遍覓郊外、亦得遺骸、■ヤマイダレ夾土/之。夜有叩門者、問之、応曰、飛。曰、汝楊妃乎。曰、俺張飛也。其人懼甚、強応曰、張将軍何為下顧。曰、俺遭■門良/中之難、遺骨未収、感君掩覆、特以粗臀奉献{「笑府 」巻八刺俗部・学様}
     ◆
 
 或る人が野晒しになった骸骨を憐れんで葬った。其の骸骨、実は楊貴妃のものだった。其の晩、楊貴妃が訪ねてきて、「お礼に」とセックスした。隣の者が羨ましがって、何処かに骸骨はないものかと探し回った。幸い見つけて葬る。夜に誰かが訪ねて来て「ヒです」と名乗る。喜んだ男は「楊貴ヒさんですか」。すると返答「張ヒだ」。男は恐れ縮こまったが、勇気と声を振り絞って「張飛将軍が何の用ですか」「いやさ、配下の者に殺され骨は野晒し、貴殿に埋葬していただいた。お礼に粗臀を献じようと……」。落語の元ネタだ。
 中国人の妄想の中では、ゴツい武将でも女役になる。張飛にして此の義理堅さだ{嬉しくないけど}。更なる義人、関羽ならば 、凄まじいサービスをしてくれるのではないかと期待できる{嬉しくないけど}。勿論、此の笑話では、楊貴妃との対称性、肉体を差し出されても男なら決して誰も喜ばないであろうからこそ、張飛が登場している。しかし義に厚く不器用な張飛ならばこそ、此のトンチンカンな申し出も似つかわしい……かもしれない。
 結論として、政元は自らの肉体に親兵衛を誘い入れようとしたとまでは断定できるが、曹操が関羽を犯ったのか曹操は関羽に犯られたのかは、今後の真摯な研究に委ねなければならない。っていぅか筆者としては、如何でも良い。閑話休題。
 
 次いで素手吉である。素手吉は、両 国西岸を仕切る地回りの侠豪・向水五十三太の弟だ。此の場合、素手吉も「地回りの侠豪」だろう。要するに、善玉側の破落戸であって、山林房八や犬田小文吾の類だ。余り上品な部類ではない。考えてみれば、房八・小文吾とも二十歳過ぎて前髪を残していた。前髪は若衆の象徴であって、未成年というだけではなく、男に対し性愛の対象/Desiredたり得ることを示している。まぁ恐らく、房八・小文吾の場合は、社会の一般秩序内に取り込まれていないことを示す為の、前髪ではあっただろう。しかし前髪という共通項により、決して異性愛者と同数ではない、せいぜい【五分の一】マイノリティー衆道と、前髪を落とさない秩序からの逸脱者/マイノリティー房八・小文吾との、見分けは難しい。義侠を 標榜すれば、男らしさとか兄弟のような紐帯とかが漏れなく付いてくる。女性とナヨナヨ遊び回ることを潔くせず、しかも義兄弟間に濃密な空気を醸成する。実際、犬士の隊に男色の匂いを嗅ぎ取る者も、いるらしい。いわば素手吉は、蛮カラ男子校で育ったため、男色を容認するようになった漢であろうか。非常に女々しい男というのが存在するが、同じ男でも各個の男性性とアニマは幅広く且つ繊細なグラデーションを見せる。アニマが強く滲み出る美少年と、強烈な男性性を発散する野郎には、雲泥の差が生じる。本物の女性がいない男子校では、同じく男子でありながら、女性のような嫋々たる美少年と、男らし過ぎる野郎が、分化する。恥じらいながら咲いた【男の娘】の肉体を引き裂く、危険な牡プレイ 、いやOspreyが危険であるとは当然だが、素手吉は硬派すぎて男色を容認するに至った男子校の不良生徒ってイメージなのだ。レイプ願望という、越えてはならぬ一線を越えているから非難すべきではあるが、親兵衛のレイプは実現しなかったのだから大目に見てやろう。元より素手吉は善玉側だ。当然、八犬伝に於いて、男色嗜好は本質として【悪】ではない。
 
 さて、関東にも公方と管領がいるが、此方の公方は「副将」{第一回}であり、将軍ではない。幾らでも悪辣に造形できる。且つ関東管領・山内上杉顕定は、立派に男色家であった。此奴は、元々の家臣を犯った。痛がろうと泣こうと喚こうと、知ったことではない。そんな暗君である。同じく暗君たる室町管領・細川政元は、まだ二十歳前の青い肉体を親兵衛に差し出して、歓心を買おうとした。まぁ一応は、京でも関東でも、「管領」は男色家であり、対称性は認められる。対して関東公方・足利成氏は、龍陽の寵を施してはいない。ただ人格を否定され情けなくウロウロするだけだ。対して室町将軍は、徳川将軍に擬し得る存在であって、取り扱いには注意が必要である。しかも義尚は後土御門帝の落とし胤……いや、何でもない、名君の側面もあったとされる将軍だ。
 
 当時の風俗として、男色家だったからといって悪人とは断定できない。善玉側の枝独鈷素手吉だって、親兵衛に欲情した。但し、純粋に牡として対等な立場での欲情だ。一方的である点に問題があるが、相手を偉大な犬士だと悟らなかった素手吉にとっては、広義の純愛と言って良い。
 しかし性愛に立場が絡むと厄介だ。上記の如く、権力者の濫りで淫らな欲望は、集団内の秩序を乱す。神余光弘が然り、玉梓も然り、山下定包も然り。細川政元は親兵衛を純粋に牡として愛したのではなく、優秀さを見込んで身内に引き入れようとしたのだ。根底に権勢欲がある。悪の関東管領・山内上杉顕定も、斎藤兵衛太郎盛実に龍陽の寵を施した。且つ其の関係故に盛実を重用した。馬鹿同士舐め合う御仲間成果主義は、現在でも其処此処で散見せられる一般的現象だが、根が性愛関係であることもママある。要するに、「男色」は必ずしも【悪の指標】ではなく、其の性愛の質が問題なのだ。例えば前浜路の純愛は、寧ろ称揚されている。八犬伝は石部金吉小説ではない。
 広沢彦次郎尚正という立派な愛人がいた男色家・足利義尚が、澄まし込んで単なる明君として登場する理由は、将軍である義尚が男色に染まっていると、八犬伝では如何しても悪役じみてくるからだろう。男色そのものが問題なのではなく、{京都限定かもしれないが}将軍という最高権力者が、後継者を残すための生殖目的以外の性愛に関われば、其れだけで秩序を乱す虞が生じる{五雑俎では男同士で何故だか繁殖しているけれども}。八犬伝の倫理は、そんなヤツを「明君」としては描けない。その分、細川政元が一身に男色を引き受けているのだ。男女とも、人間は愚かなのだ。女色・男色とも、其れだけで【悪】とはならないが、各種の欲に塗れて歪めば、秩序を乱す基となる。
 実のところ、細川政元が史実より数年早く管領に就任する無理を冒す主な理由は、オカルト好きで空中浮遊なんかしたため史料でも変人扱いされていることから、悪玉として馬琴に引っ張り出されたって所だろう。しかし其処に、男色を絡ませる必然性は無い。上で曹操と関羽が性交した可能性を、悪乗りして長々と論じたが、三国演義には何も書いていない。よって曹操と関羽の関係を八犬伝に持ち込むとき、男色に触れる必要性は無いのだ。且つ政元は、当時にあって別段、【男色家の代表】とは認め難い。政元の養子{三人目}高国の男色ならば、近世説美少年録でも重要な挿話となってはいるが……。
 対して、足利義尚の広沢彦次郎に向けた愛は有名だ。「名君? 足利義尚」で、やや詳しく語ったが、要約すれば、猿楽大夫の息子・彦次郎を愛した義尚は、彦次郎を広沢と名乗らせ、剰さえ、自分の一字を与えて「尚正」とした。足利将軍家の一族並の扱いで、元服の儀式を行った。有力大名やら貴族らが土産持参で祝福せねばならない。財政上も迷惑だが、虚栄心も傷付いただろう。細川政元さえ怒って、播磨に引っ込んでしまった。更には藤原正親町三条家の娘に求婚、流石に成立しなかったが、足利義政でさえ此の求婚には否定的だった。権力者の濫りな性欲が、混乱を招く好例だ。義尚は二十五歳で若死にし、彦次郎は歴史の陰間に消えていった。実は、義尚こそ、「殊に男色の行はるゝこと女色に勝れ」る京で、男色を主宰すべき【男の中の男】なのだ 。少なくとも政元より、其の資格はある。馬琴が知らぬ筈もない。
 傾城水滸伝や近世説美少年録を書いた若しくは書きかけた馬琴にとって、権力者が濫りに女色や男色に溺れたら、秩序が喪われ社会が混乱する。其の好例として存在する義尚の男色を、脱色し、まだ未成年で本来なら管領に就任していない細川政元を無理遣りに引っ張り出した。謂はば、義尚の明君である側面と男色家の側面を分割し、後者を偶々男色家でもあった細川政元に押し付けた。複雑な人間という存在を分割し単純化したのだ。
 
 江戸随筆なんかでも、例えば気高く美しい名古屋山三郎なんかが、純情武士の余りに熱烈な求愛に絆され一夜を共にする話があるわけで、枝独鈷素手吉だって激烈執拗に求愛すれば、或いは親兵衛の豊満な肉体に欲望を注入できたかもしれない。何たって親兵衛は山林房八の息子であり、房八は犬塚信乃と瓜二つなのだ。即ち、伏姫と紛うばかりに美しい……筈だ。馬琴が、枝独鈷素手吉に親兵衛の肉体を許さなかった理由は唯、素手吉が親兵衛より遙かに格下で釣り合わなかったからだろう。里見義実・義成・義通ならば釣り合うが、権力者は生殖以外の性行為をしてはならない。家中/藩組織が乱れる基となる。また恐らく七犬士も、家を乱すとの理由で、生殖以外の性交を禁じられていると思しい。だいたい主君の娘と結婚するのだから、殆ど入り婿同然だ。実生活で馬琴も入り婿だったわけだが、正妻以外と性交することは憚られたであろう。静峯姫を早く亡くした親兵衛は、周囲から再婚を勧められたが、断っている。浜路姫は前浜路と同値の存在だから、信乃が他の相手と性交することは考え難い。犬村大角も同様だ 。唯一、冷徹な犬坂毛野だけは、策略の為なら馬加大記だろうが誰だろうが姦っただろうけれども、南関東大戦以後は、其の必要もなくなる。
 但し、実のところ親兵衛は、第一次上洛時、秋篠将曹となら姦った疑いが浮上する。二人の間に漂う空気は、甚だ濃密だ。とはいえ、秋篠は、秋信乃であり、秋は五行で西に配当されるから、実は【西の信乃】と読める。走帆が青海波の代理なら、秋篠広当は信乃の代理として親兵衛を見守る立場だ。いやまぁ信乃が親兵衛と姦ってはいけない法はないが{現代なら青少年保護条例違反となるけれども}、信乃は房八への恩義により戦場で親兵衛を後見しようとしていた。そして親兵衛の上洛は、他七犬士にとっての南関東大戦とパラレルである。だからこそ、{信乃の代理である}秋篠広当は、親兵衛を陰に陽に庇護すべ きなのだ。いわば信乃/秋篠は、房八の代理であるから、親兵衛とアカラサマに性交できない。八犬伝で男色は必ずしも悪役の要件ではないが、流石に近親相姦はマヅイだろう。結局、親兵衛は釣り合う男色相手がいないため、孤閨を託つことになる。それだけのことだ。
 
 結論である。三国演義の関羽を共通項の一つとして、親兵衞の第一次上洛と南関東大戦がパラレルであること、秋篠将曹広当と犬塚信乃が同値であることから矢張り親兵衞の第一次上洛と南関東大戦がパラレルであることを再論し、自説を補強した。また、本来ならば男色家である足利義尚が単なる明君に脱色されている理由として、江戸幕府への遠慮だけでなく、八犬伝の倫理からすれば秩序を乱す虞が生ずる権力者/足利義尚の性愛関係を無化したことがある。逆に言えば、権力者の性愛には絶えず秩序紊乱の可能性が潜んでおり、江戸幕府は防止策として、将軍の性交監視までしていた。裏返せば、それだけ性愛とは厄介なモノなのであろう。性愛/リビドーの強烈さに於いて、前浜路は特筆に値する。ついでに云えば、素手吉も相当なものだ。其のこと自体を馬琴は決して非難していない。性愛の存在は元より否定できない。しかし其れだけに、何処でも何時の時代でも、混乱を胚胎する危険性も否定できない。恐らく人類が社会を構成してから数十万年・数百万年、解決できなかった課題でもある。現在、動もすれば性の自由化こそが進歩であると語られがちだが、実の所は逆で、せっかく長年掛けて構築した常識規範を破壊することは 、寧ろ退化でしかない。人間は同じ過ちを繰り返す動物だ。しかし時には先人の知恵を思い起こすことで、現在の課題に解決の糸口が見えるかもしれない。前に進むためにこそ、振り返る必要がある。{お粗末様}

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