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■隠微の筆致■
 
 「第四輯序を廻る若干の問題点」に於いて、「君雖不君臣不可以不臣」{古文孝経孔安国序}について少しく解説した。諫争を忠の極致とした孝経の序文である限り、此の章句は、「君主が道を誤り君主としての資格を喪っても、同様に臣下が臣下としての要件、君主を正道に引き戻す諫争努力義務を怠ってはならない」としか読めない。片務的に唯々諾々と君主に従うことでは決してないことは明らかだ。葉隠聞書などでも、君主を正道に引き戻す諫言を大忠として称揚し、後輩武士たちに奨励している。正当かつ正統な、儒学理解だ。
 八犬伝の第四輯序でも、殷の三賢{/三仁}を引き合いに出していることから、同様の文脈で、此のフレーズを使用していることが解る。当然ながら、馬琴も正当な儒学理解をしている。また、そうでなくて、足利成氏のもとから犬飼現八が出奔することはあり得ないし、扇谷上杉定正を見捨てて河鯉孝継が里見家のもとへ走るわけもない。しかし八犬伝の愛読者で馬琴の知己でもあった大身旗本・石川左金吾などは、如何やら「君雖不君臣不可以不臣」を一方的な服従の勧めと捉えていたようだ。実を云えば、現在でも如斯き頓珍漢は散見せられる。何処かで捻じ曲がったのだ。
 八犬伝では第四輯序だけでなく、本文でも「君雖不君臣不可以不臣」が登場する。第百六十四回、犬田小文吾が相馬郡領将常の家臣・渋谷柿八郎足脱に投げ付けた言葉の中にある。南関東大戦での一齣だ。今一度、本文での用例を検証し、以て筆者の説を補強したい。
 
 その前に、八犬伝でも引用されたり換骨奪胎の元になっている、平家物語と太平記に於ける「君雖不君臣不可以不臣」の用例を見る。恐らく馬琴は此の章句を、孝経序からも知り得た。正当な理解をしているのだから、其れで良いのだが、馬琴の場合、平家物語や太平記を初めとする先行文学にも造詣が深かった。これら先行文学を窓口に、中国古典文学に接したと思われる部分が散見せられる。よって、平家物語や太平記に「君雖不君臣不可以不臣」が登場していれば、其れ等の用例からも影響を受けた可能性がある。まず、平家物語から見てみよう。
 
     ◆
烽火之沙汰
「是は君の御理にて候へば、かなはざらむまでも、院御所法住寺殿を守護し参らせ候べし。其故は重盛叙爵より、今 大臣の大将にいたるまで、併しながら君の御恩ならずと云ふ事なし。其恩の重き事を思へば、千顆万顆の玉にもこえ、其恩の深き色を案ずれば、一入再入の紅にも猶過ぎたらん。しかれば院中に参りこもり候べし。其儀にて候はば、重盛が身にかはり、命にかはらんと契りたる侍共、少々候らん。これらを召しぐして、院御所法住寺殿を守護し参らせ候はば、さすが以ての外の御大事でこそ候はんずらめ。悲しき哉君の御ために、奉公の忠をいたさんとすれば、迷盧八万の頂より猶たかき、父の恩忽ちに忘れんとす。痛ましき哉不孝の罪をのがれんと思へば、君の御ために既に不忠の逆臣となりぬべし。進退惟谷れり。是非いかにも弁へがたし。申しうくるところ詮はただ重盛が頸を召され候へ。さ候はば、院中をも 守護し参らすべからず、院参の御供をも仕るべからず。かの蕭何は大功かたへにこえたるによツて、官太相国に至り、剣を帯びし沓をはきながら、殿上にのぼる事をゆるされしかども、叡慮にそむく事あれば、高祖おもう警めて、ふかう罪せられにき。か様の先蹤を思ふにも、富貴といひ栄花といひ、朝恩といひ重職といひ、旁きはめさせ給ひぬれば、御運のつきんこともかたかるべきにあらず。『富貴の家には禄位重畳せり。ふたたび実なる木は、其根必ずいたむ』と見えて候。心ぼそうこそおぼえ候へ。いつまでか命いきて、乱れむ世をも見候べき。只末代に生をうけて、かかるうき目にあひ候、重盛が果報の程こそ拙う候へ。ただ今侍一人に仰せ付けて、御坪のうちに引き出されて、重盛が首のはねられん事は 、安い程の事でこそ候へ。是をおの/\聞き給へ」とて、直衣の袖もしぼるばかりに涙をながし、かきくどかれければ、一門の人々、心あるも心なきも、皆鎧の袖をぞぬらされける。
 太政入道も、たのみきつたる内府はかやうに宣ふ、力もなげにて、「いや/\これまでは思ひもよりさうず。悪党共が申す事につかせ給ひて、僻事なンどやいでこむずらんと、思ふばかりでこそ候へ」と宣へば、大臣、「縦ひいかなるひが事出でき候とも、君をば何とかし参らせ給ふべき」とて、ついたツて中門に出でて、侍共に仰せられけるは、「只今重盛が申しつる事共をば、汝等承らずや。今朝よりこれに候うて、かやうの事共申ししづめむと存じつれども、あまりにひたさわぎに見えつる間、帰りたりつるなり。院参の御 供においては、重盛が頸の召されむを見て仕れ。さらば人参れ」とて、小松殿へぞ帰られける。
 主馬判官盛国を召して、「重盛こそ天下の大事を、別して聞き出したれ。『我を我と思はん者共は、皆物具して馳せ参れ』と、披露せよ」と宣へば、此由披露す。おぼろけにてはさわがせ給はぬ人のかかる披露のあるは、別の子細のあるにこそとて、皆物具して我も/\と馳せ参る。淀、羽束師、宇治、岡の屋、日野、勧修寺、醍醐、小黒栖、梅津、桂、大原、しづ原、芹生の里にあぶれゐたる兵共、或は鎧着ていまだ甲を着ぬもあり、或は矢おうていまだ弓をもたぬもあり。片鐙ふむやふまずにてあわてさわいで馳せ参る。
 小松殿にさわぐ事ありと聞えしかば、西八条に数千騎ありける兵共、入道にかうとも申 しも入れず、ざざめきつれて、皆小松殿へぞ馳せたりける。すこしも弓箭に携る程の者、一人も残らず。其時入道大きに驚き、貞能を召して、「内府は何と思ひてこれらをばよびとるやらん。是でいひつる様に、入道が許へ討手なンどやむかへんずらん」と宣へば、貞能涙をはら/\とながいて、「人もにんいこそよらせ給ひ候へ。争でかさる御事候べき。今朝是にて申させ給ひつる事共も、みな御後悔ぞ候らん」と申しければ、入道、内府に中たがうては、あしかりなんとや思はれけん、法皇むかへ参らせんずる事も、はや思ひとどまり、腹巻ぬぎおき、素絹の衣に袈裟うちかけて、いと心にもおこらぬ念珠してこそおはしけれ。
 小松殿には、盛国承ツて、着到つけけり。馳せ参りたる勢ども、一万余騎とぞ記 いたる。着到披見の後、おとど中門に出でて、侍共に宣ひけるは、「日来の契約をたがへず、参りたるこそ神妙なれ。異国にさるためしあり。周の幽王、褒■女以/と云ふ最愛の后をもち給へり、天下第一の美人なり。されども幽王の心にかなはざりける事は、褒■女以/咲をふくまずとて、すべて此后わらふ事をし給はず。異国の習には、天下に兵革おこる時、所々に火をあげ、太鼓をうツて兵を召すはかり事あり。是を烽火と名づけたり。或時天下に兵乱おこツて、烽火をあげたりければ、后これを見給ひて、『あなふしぎ、火もあれ程おほかりけるな』とて、其時初めてわらひ給へり。この后、一たびゑめば、百の媚ありけり。幽王うれしき事にして、其事となう、常に烽火をあげ給ふ。諸侯来るにあたなし。 あたなければ則ちさんむ。かやうにする事度々に及べば、参る者もなかりけり。或時隣国より凶賊おこツて、幽王の都をせめけるに、烽火をあぐれども、例の后の火にならツて、兵も参らず。其時都かたむいて、幽王終に亡びにき。さてこの后は、野干となツてはしりうせけるにぞおそろしき。か様の事がある時は、自今以後もこれより召さんには、かくのごとく参るべし。重盛不思議の事を聞き出して、召しつるなり。されども其事聞きなほしつ、僻事にてありけり。とう/\帰れ」とて、皆帰されけり。実にはさせる事をも聞き出されざりけれども、父をいさめ申されつる詞にしたがひ、我身に勢のつくかつかぬかの程をも知り、又父子軍をせんとにはあらねども、かうして入道相国の、謀反の心をもややはらげ 給ふとの策なり。
 君君たらずと云ふとも、臣もツて臣たらずンばあるべからず。父父たらずと云ふとも、子もツて子たらずンばあるべからず。君のためには忠あツて、父のためには孝ありと文宣王の宣ひけるにたがはず。君も此よしきこしめして、「今にはじめぬ事なれども、内府が心のうちこそ恥づかしけれ。怨をば恩をもツて報ぜられたり」とぞ仰せける。果報こそめでたうて、大臣が大将にいたらめ、容儀体はい人に勝れ、才智才学さへ世にこえたるべしやはとぞ、時の人々感じあはれける。「国に諫むる臣あれば、其国必ずやすく、家に諫むる子あれば、其家必ずただし」といへり。上古にも末代にもありがたかりし大臣なり。{平家物語・巻二}
     ◆
 
 平家物語で描かれる平重盛像は、 わがまま勝手で横暴な父の清盛と対照的に、温厚篤実で思慮深い。平時の宰相としては最高の人材であるが、父より早く病没した。
 此の段で重盛は、前段{教訓状}から引き続き、後白河法皇を幽閉しようと謀む清盛を諫止する。実は平家を滅ぼそうとする鹿ケ谷陰謀が暴露され、清盛は背後に後白河法皇がいると睨んだのだ。重盛は、法皇には引き立てて貰った恩、父には育てて貰った恩、法皇を守護するため兵を率いれば父への不孝、父に従って法住寺院を攻めれば不忠、いっそ殺して下しゃんせ、のぉ、とばかりに泣き崩れる。鹿ケ谷事件のみならず、清盛への不満が朝廷・貴族間に募りつつある空気を、馬鹿ぢゃないんだから、重盛も気付いていただろう。清盛が平家一門を率いて後白河法皇と軍事衝突 すれば、如何な大乱に発展するやも判らない。当然、思い止まらせなければならない。しかし、理があるとしても、居丈高に清盛の非を詰ることは、上策ではない。そんなことをしたら、只でさえイキリ立っている清盛は意固地になって、無理にでも院に攻め入る。重盛の巧い点は、理で責めることをせず、忠孝に引き裂かれる苦悩を大袈裟に表すことで、情に訴えたところだ。【篤い信頼を得ている嫡男】である自分が、泣きじゃくってまで苦悩し身悶える。感情に左右されがちな清盛に対し、有効な手段である。案の定、清盛は、重盛の苦悩を見て、「しょーがねぇなぁ」と白けてしまう。法皇への軍事圧力を思い止まる。
 とは言え重盛は、【情】だけの漢ではない。自邸に戻ると、「事あり」とて恩顧の武士を招集する。人望厚い重盛の指令だけに、一万騎の武士が即座に参集する。周幽王の烽火故事を引き、濫りに軍兵の招集をかけることは亡国のわざではあるが、今回は有事の情報があったものの解決した、速やかに帰れ、と命じる。何のことはない、重盛は自分の集兵能力を清盛に見せつけたのだ。諫止のダメ押しだ。
 要するに、法皇を拉致監禁しようと殺気立っている清盛を、まずは情で絆して白けさせ、熱を冷ます。冷ましたところに、自分の集兵能力を見せつけ、軽々に乱を起こそうとするなら、平家の嫡男として黙っちゃいないぞ、と示威したのだ。一連の言動によって、重盛は、清盛の「謀反」を諫止した。
 また、重盛の言動は、単に清盛を牽制するためだけではなかった。院も「今にはじめぬ事な れども、内府が心のうちこそ恥づかしけれ。怨をば恩をもツて報ぜられたり」と漏らす。此の言葉から明らかなように、鹿ケ谷事件など一連の反平氏運動の背後には、確かに法皇がいた。本来ならば遠流なり何なり、処分されるところなのに、不問に付してくれた重盛に、羞恥を感じている。恥じらいは、いつしか恋心に……なるワケもないが、何かと清盛とは対立してしまう後白河院ではあるが、重盛が棟梁となった後の平氏となら上手く遣っていけるかもしれない、と希望を抱いたことだろう。
 結局、重盛は、父・清盛に対しては情と示威を以て、後白河法皇に対しては温情による和を以て、二人とも制御下に置き、争いを治めた。かなり高等な諫止テクニックである。そして平家物語は、如斯き重盛の言動を、「君君たらずと云ふとも、臣もツて臣たらずンばあるべからず。父父たらずと云ふとも、子もツて子たらずンばあるべからず。君のためには忠あツて、父のためには孝ありと文宣王の宣ひけるにたがはず」「国に諫むる臣あれば、其国必ずやすく、家に諫むる子あれば、其家必ずただし」と高く評価している。此の部分は、正当かつ正統な儒学理解をバックボーンとしている。では、太平記は如何であろうか。
 
     ◆
   長崎新左衛門尉意見の事
 当今御謀叛の事露見の後、御位はやがて持明院殿へぞまゐらんずらんと、近習の人々、青女房に至るまでよろこびあへるところに、土岐が討たれし後も、かつてその沙汰もなし。今また俊基召し下されぬれども、御位の事については、いかなる沙汰 ありとも聞えざりければ、持明院殿方の人々、案に相違して、五噫を謳ふ者のみ多かりけり。
  されば、とかく申し進むる人のありけるにや、持明院殿より、内内関東へ御使ひを下されて、「当今の御謀叛の企て、近日事すでに急なり。武家すみやかに糾明の沙汰なくば、天下の乱れ近きに有べし」と仰せられたりければ、相模入道げにもと驚いて、むねとの一族ならびに頭人・評定衆を集めて、この事いかが有るべきと、各所存を問はる。しかれども、あるいは他に譲りて口を閉ぢ、あるいはおのれを顧みて、言を出ださざるところに、執事長崎入道が子息、新左衛門尉高資、進み出でて申しけるは、「先年土岐十郎が討たれし時、当今の御位を改め申さるべかりしを、朝憲に憚つて御沙汰緩かりしによつて、この事なほいまだ休まず。乱ををさめて治を致すは、武の一徳なり。すみやかに当今を遠国に遷しま ゐらせ、大塔宮を不返の遠流に処したてまつり、資朝・俊基以下の乱臣を、一々に誅せらるるより外は、別儀あるべしとも存じ候はず」と、憚るところなく申しけるを、二階堂出羽入道道蘊、暫く思案して申しけるは、「この儀もつともしかるべく聞え候へども、退いて愚案を回らすに、武家権を執つてすでに百六十余年、威四海に及び、運累葉をかかやかすこと、更に他事なし、ただ上には一人を仰ぎたてまつて、忠貞に私なく、下は百姓を撫でて、仁政に施しある故なり。しかるに、今、君の寵臣一両人召し置かれ、御帰依の高僧両三人流罪に処せらるる事も、武臣悪行の専一と言つつべし。この上にまた主上を遠所へ遷しまゐらせ、天台座主を流罪に行はれん事、天道奢りをにくむのみならず、山門いかでか憤 りを含まざるべき。神怒り人背かば、武運危ふきに近かるべし。『君君たらずといへども、臣以つて臣たらざるずんばあるべからず』と言へり。御謀叛のこと、君たとへおぼしめし立つとも、武威盛んならん程は、与し申す者有るべからず。これにつけても、武家いよいよ慎んで勅命に応ぜば、君もなどかおぼしめし直す事無からん。かくてぞ国家も太平、武運の長久にて候はんと存ずるは、面々いかがおぼしめし候ふ」と申しけるを、長崎新左衛門尉、また自余の意見をも待たず、以つての外に気色を損じて、重ねて申しけるは、「文武おもむき一つなりといへども、用捨時異なるべし。静かなる世には、文を以つていよいよ治め、乱れたる時には、武を以つて急に静む。故に戦国の時には、孔孟用ふるに足らず、 太平の世には干戈用ふること無きに似たり。事すでに急に当たりたり。武を以つて治むべきなり。されば、異朝には、 文王・武王、臣として無道の君を討ちし例あり。わが朝には、義時・泰時、下として不善の主を流す例あり。世みなこれを以つて当たれりとす。されば古典にも、『君臣を見ること土芥のごとくするときは、すなわち臣君を見ること寇讎のごとし』と言へり。事停滞して、武家追罰の宣旨を下されなば、後悔すとも益有るべからず。ただすみやかに君を遠国に遷しまゐらせ、大塔宮を硫黄が島へ流したてまつり、陰謀の逆臣資朝・俊基を誅せらるる事有るべからず。武家の安泰万世に及ぶべしとじょそ存じ候へ」と、ゐたけだかに申しけるあひだ、当座の頭人・評定衆も、権勢にやおもねりけん、ま た愚案にや落ちけん、皆この義に同じければ、道蘊、再往の忠言に及ばず、眉をひそめて退出す。
     ◆
 
 さて、日野資朝・俊基らの倒幕計画が露見したときの、鎌倉幕府側/北条執権家主催の重臣会議である。会議を強引な発言でリードしているのは、北条得宗家の内管領となるべき長崎家の嫡男・新左衛門尉高資だ。幕府重臣会議で何故に執権の秘書/陪臣筋がデカい面しているかなんて細かい事は気にしないように。室町幕府でも管領の被官が権勢を誇っていた。鎌倉幕府も、執権を世襲する得宗家が権力の中核となり、得宗家を牛耳る内管領の力が強まった。会議では、まず高資が、後醍醐帝や大塔宮を厳罰に処するよう主張する{別本では大塔宮を死罪に処すよう要求}。対して将軍直参 御家人・二階堂道蘊が、穏便に済ますよう執り成す。此の時、用いられる論理が「君君たらずといへども、臣以つて 臣たらざるずんばあるべからず」だ。が、不当にも、本来の【諫止】の意味では用いられず、後醍醐帝の「御謀叛」を罰せぬための論理として使われている。即ち、【君が君として欠格していても、臣は臣の分を超えず反抗しない】との、原典/古文孝経序と真っ向から対立する、まったく馬鹿馬鹿しい勘違い解釈に堕している。
 そういえば、太平記がモノされた時期には宋学が流行ってないこともなかった。捻ね媚び流の朱子学ってヤツだ。後醍醐帝も朱子学を熱心に学んだというが、こういう捻ね媚び流を天皇の立場で都合良く解釈したら、無限大に自我を肥大化させ独善に陥るは、自然の流れだ。やはり低俗な朱子学流により、「君雖不君臣不可以不臣」の文字面だけが孝経の文脈から乖離して独り歩きした 結果 、君主に対する臣下の無批判な服従とのトンデモ解釈が発生した疑いが浮上する。あだしごとはさておきつ。
 長崎高資の反論は明快である。武家は乱世に於ける秩序の維持を任されている。また、君主が無道であれば、臣として討つ場合もある。「君之視臣如土芥、則臣視君如寇讎」{孟子・離婁篇下}を引き合いに出している。此の論理は、承久乱でも鎌倉幕府/北条政子が掲げたものと相似である{「尻軽もしくはSillyGirl」参照:吾妻鏡・承久三年五月十九日条}。しかし、此の段では、此の当然理が「君雖不君、臣不可以不臣」との当然理と、真っ向対立しているよう書かれている。則ち、儒学/孔孟の学として正当な「君主が臣下をゴミのように扱えば、臣下は君主を敵視する」と逆の立場、 「君主が欠格していても、臣下は絶対服従しなければならない」という、孝経のコの字も知らぬ無知蒙昧な気違いにしか思いつけない珍妙な論理が、浮かび上がってくる。此の箇所を書いた者は、気違いだったに違いない。
 「君之視臣如土芥、則臣視君如寇讎」と「君雖不君、臣不可以不臣」は、何連も正統儒者の言葉であって、互いに補完するフレーズだ。共に「斉景公問政於孔子。孔子対曰、君君、臣臣、父父、子子」{論語・顔淵}理想状態を実現する政治哲学の根本へと繋がっている。それを、あろうことか、互いに対立する内包だと思い付くなんて、非常識極まりない。そんな奴原は、儒学が本質としてもつ個人尊重の哲理を否定したがる、悪魔主義者だと断じて良い。
 但し、同じ太平記でも系統によって、此の一文が欠落したものもある。実は筆者の手元にある新潮日本古典集成本{底本:慶長八年古活字版}にはあるが、愛媛県立図書館で閲覧した小学館の新編日本古典文学全集本{底本:天正本}には無い。天正本成立には、婆娑羅武将・佐々木道誉や摂政・関白・太政大臣を歴任した二条良基が関与したとの説もあり、此の二人なら「君雖不君、臣不可以不臣」の正確な意味を理解していたと期待され、此の文脈で採用しなかったも当然だ。なお天正本は、道誉や良基ら高度な情報アクセスが可能な有力貴族・武将が関わったためか、従来のものより史実に近い。更に美文調であることから、教養ある階級が関与していたと推定されている。慶長古活字本は、切支丹版を基にした可能性も指摘されており、 より通俗である。まぁ無教養な気違いでなければ、「君雖不君、臣不可以不臣」を一方的服従を勧める言葉として理解できやしない。もしくは日本語能力の低い南蛮人切支丹が関与したか。
 
 馬琴が八犬伝を書くに当たって参照した平家物語や太平記にも、「君雖不君臣不可以不臣」が登場する場合がある。互いに真逆な文脈で使われている。古典として影響の大きい両書で使われ、互いに真逆の意味で使われているのだ。此の深刻な状況により、当該の太平記のみを窓口に中国古典に触れた少なからざる読者は、恐らく深く考えもせず、此の章句が、臣下に一方的かつ絶対的な服従、君主に全く疑問も批判も向けないイエスマンになるよう勧めていると、誤解してしまったかもしれない。石川左金吾の如き 頓珍漢が発生してしまうことも、故無しとしない。
 しかし両書を参照していたことが明らかな馬琴は、もしスットンキョー部分を有する版の太平記を読んでいたらの話だが、両書の齟齬に気付いていた筈だ。そして孝経そのものも読んでいたし、{いやまぁ石川左金吾も孝経ぐらいは読んでいた筈なのだが…}、正当理解をしていた各種文物も読んでいただろう。だからこそ馬琴は、正当な理解が出来ている。
 
 以上は、当たり前すぎて大きな御友達には退屈であっただろう。気違いの悪魔主義者を、気違いの悪魔主義者だと断じたところで、同義語反復に過ぎず、新たな発見はない。抑も筆者の関心は、「君雖不君、臣不可以不臣」を片務的絶対服従を教える章句なんぞと真逆のトンデモ解釈を撒き散らす、気違いの悪魔主義者ではなく、八犬伝にこそ在る。
 
 第百六十三回、犬田小文吾が陣取る今井河原に、猿嶋郡司将衡と其の兄・相馬郡領将常の一隊が夜襲を仕掛ける。水鳥が急に飛び立ったことから夜襲を予測していた小文吾は、難なく返り討ちにした。猿嶋将衡は囚われる。相馬将常は辛くも逃げ延びるが、血気に逸る主将・千葉自胤や総大将・扇谷上杉朝良の元へと戻れば、敗軍の責めを負わされ何をされるか分からない、と考え直し、千葉孝胤のもとへと走る。孝胤は関東管領等から軍催促を受けたにも拘わらず、実際には出兵しない。やや善玉側に寄っているか。但し、千葉一族の内紛{当主僭称}などにより、山内・扇谷上杉家と対立していた。こういった史実から馬琴は八犬伝でも、【反関 東管領派】として扱った可能性もある。同じく南関東大戦出兵を見合わせた結城一族は、里見季基の盟友であったから、明確に善玉なのだが、千葉孝胤に関しては記述が少ないため、判断が難しい。
 
 小文吾は、将衡らに、捕虜になるも自陣へ戻るも自由だと告げる。将衡は、兄と同じ理由で里見方で働くことにする。共に囚われていた将常の家臣・渋谷柿八郎足脱は、当然ながら将常が孝胤のもとへ走ったことを知らず、主君と戦うわけにはいかないからとて、放免を願う。此処迄は一応、【忠】といえる。登桐山八郎良于は、将衡らは裏切るかもしれないし、自陣の情況が敵に漏れるからと放免にも反対する。此処で小文吾に代わって犬川荘介が反論、降参した者を部隊に組み込み、願う者を放免する。 心配とは裏腹に、却って降参した者たちが扇谷・千葉の軍勢に就いて重要な情報を提供する。翌朝、満呂復五郎重時と荘介は、頭に血の上りやすい扇谷上杉朝良・千葉自胤が早くも来襲すると予想、迎撃の準備に入る。
 足脱が自軍に戻ると、既に将衡が里見方に属いたとの情報がもたらされていた。朝良・自胤は怒り狂い、いまだ帰らぬ将常も里見方に属いたと疑い、足脱は刺客として戻ってきたのだと思い込む。捕らえて殺そうとする。まさに「君臣を見ること土芥のごとくするとき」である。千葉の家老・原播磨介胤久が如何にか取り成し、足脱は殺されずに済むが、獄に繋がれる。
 腹の冷えない朝良・自胤は、二万五千の多勢を恃んで、一気に今井柵を揉み潰そうとする。緒戦から里見側の大勝となるが、将衡と家臣の比田鳴子介村禽は、「本朝の呂布と負れたる、武蔵千束の野武士の長、上水和四郎束三」に討たれてしまう。いま一人の猛者・赤熊如牛太猛勢と束三が二人で小文吾に挑むが、軽く捻られる。
 翌朝、足脱らは獄舎から出され、戦線に投入される。里見側が石浜の城を狙っているとの情報を得た自胤は、朝良から兵を借りて石浜へと向かう。一万数千ずつに分割された管領側部隊は、犬士らの武略によって各個撃破される。総敗軍となった自胤が切腹しようとしているところに、足脱と五人の仲間が行き会う。足脱らは自胤に襲い掛かって緊縛、小文吾に差し出す。小文吾は激怒する。
 「若們は、相馬郡領将常の従兵ならずや。我聞相馬将常は、自胤主の親族にて、則千葉の家臣也。若們是に仕へ なば、自胤主の陪臣也。縦自胤主不仁にして、恨しく思ふとも、この戦場より身を免れて、故主将常の往方を尋ねなば、そは切てもの事ならんに、今其軍敗るゝに及びて、情なくも這君を、犯して功を売まくしぬるは、是弑逆に異ならず。伝に云ずや、君は君たらずといへども、臣は以臣たらずはあるべからず。父は父たらずといふとも、子は以子たらずはあるべからず」{第百六十四回}
 
 小文吾の論理は明瞭だ。陪臣に当たる足脱は、自胤を見捨て主人の将常を探すため戦場を離脱することは許されても、自胤を敵に差し出すことは許されない。即ち、自胤に対する絶対服従は要請していない。如斯き文脈に於いて、「君は君たらずといへども、臣は以臣たらずはあるべからず」と言っている。よって、此の言葉は、本来としての、諫言による忠の発露を求める内包から大きく逸脱してしまうものの、絶対服従ではなく、より緩やかな、関係性を求めている。則ち、単に「今其軍敗るゝに及びて、情なくも這君を、犯して功を売まくしぬるは、是弑逆に異ならず」が足脱の違反要件だ。自胤を見捨てて戦場を離脱することも【裏切り】といえなくもないのだが、このような消極的な裏切りは許容される。敗軍に至ったからといって、自胤を犯して敵に売ることは許されない。違反の構成要件は「情けなくも這君を、犯して功を売まくしぬる」であって、【積極的な裏切り】を責められたに過ぎない。偶々自胤が君筋だったから小難しい言い回しをしているものの、戦況が悪化したからといって友軍を裏切るな、と言うと、ほぼ同義だ。
 更に云えば、「君臣を見ること土芥のごとくするときは、すなわち臣君を見ること寇讎のごとし」の前半部分を、自胤はキッチリと実践した。自胤は悪役として描かれており、八犬伝でも、章句の前半が暗君の属性規定となっていることは明らかだ。そして章句後半も、否定されているわけではない。諄いようだが、自胤を見捨てて戦線を離脱すること迄は、許容されている。君を見ること寇讎の如きであっても、戦場で裏切って敵に主君を差し出すこと迄は許されない。其れだけのことだ。抑も此の章句は、暗君を戒めるためのもので、臣下に積極的な謀叛を勧めるものではない。此の理解は、実のところ、太平記ではなく、太平記秘伝理尽鈔に庶{ちか}かったりする。
 
     ◆
持明院殿より 御使に依つて、高時、評定を加ふる事、行ひに怠る。何ぞいそがざると也。
○長崎高資異見、爾時に当たつて可也。一家を栄へんには、
○評云、義時、承久の兵乱の時、此行ひを成して、天下を奪ひ、治まる事、百余年也。急ぎ是如くすべき也。二階堂(道蘊)が異見、不可也。道を行はんと云はば<謂はば>総追補(捕)使を公家へ還し奉るべし。然らずんば、君、忠臣に<と>思し召すべからず。時政・義時より已来、不義にて百余年栄へし家也。今更、何ぞ直からん。又、上一人を仰ぎ奉り、忠貞に私なしと云事、大きに異也。後鳥羽院を流し奉る、何ぞ上を仰ぎ奉ると云はんや。国土皆我有とせり、何ぞ忠貞に私無しとせんや。前如く家を栄へんとならば、君を遠島に遷し奉るべし。若し、道を立てん とならば、頼朝より以前の如く、政道を公家へ還し奉るべし。然らば道蘊が云いしは非也。君をも立て、武家をも立てんとならば、武家を亡ぼさんとし給ふ君をば流し奉るべし。然らば道蘊が云いしは非也。又、道蘊が云、「君の寵臣誡め置き給悪行」と云。弥君悪しと思召さんか。何ぞ御在位にて、武家穏やかならんや。又、君君為らずと雖も<臣以て臣為らずんば:大橋本>有べからずと云百余年以前に出て、義時を諫むべき也。当時に相応せず。
長崎、戦国の時には孔孟も用ゆるに足らず、最も可也。又、文王・武王と云。周武の不義を誅して天下を理せしと、北条が一家を栄へんが為に天下を奪ひしと、何ぞ同じからん。又、君、臣を視ること讎のごとしと云云。君を諫めて謂へる成べし。臣として君を亡 ぼせ、とには非ず。最も悪しし。又、後悔すともと云いしは可なり{巻第二:東洋文庫}。
     ◆
 
 「君、臣を視ること讎のごとしと云云。君を諫めて謂へる成べし。臣として君を亡ぼせ、とには非ず」である。理尽鈔は太平記の批評・解説書であって、近世には博く行われた。近世人にとって太平記は、其の表記を絶対化すべきものではなく、抑も批判的に読む素地があったのである。よって、太平記が幾ら「君君為らずと雖も」を一方的服従の勧めとして語っていても、真に受けなくとも良いわけだ。因みに理尽鈔、此の段を見ても明らかなように、なかなか現実的な処世を根底に敷いている。忠とか義とか云いながら、「前如く家を栄へんとならば、君を遠島に遷し奉るべし。若し、道を立てんとならば、頼朝より以前の如く、政道を公家へ還し奉るべし」と云っている。なんたって、此の部分は、江戸幕府の存立にも関わってくる。道を行うことを絶対化していない。百余年も公家から権力を奪っておいて、今更に綺麗事を云うな、ってことだ。鎌倉政権の存続のため、後醍醐帝を遠島に処することまで是認している。「当時に相応せず」。時の流れという現実に於ける制約の中での、信義であり仁である、との立場のようだ。メティスである。
 
 ただ、八犬伝の当該箇所を不注意に読み飛ばすならば、「君は君たらずといへども……」を、或いは絶対服従の勧めのように感じるムキもあるやもしれぬ。実際、馬琴の周囲にも、「君は君たらずといへども……」を絶対服従の勧めだと勘違いしている者もいた{八犬伝畳翠君評}。捻ね媚び朱子学が蔓延る中では、此の勘違いこそ歓迎されたかもしれない。敢えて誤読を許容しているようにも読める。
 勿論、馬琴本人が、そんな勘違いをする筈もない。第四輯序で「何者、殷三賢不忠於西伯。然周不敢罪之。故孔子曰、君雖不君、臣不可以不臣、父雖不父、子不可以不子。蓋此比干箕子等之謂歟」と書いている{「第四輯序を廻る若干の問題点」参照}。此処で云う「孔子」は古文孝経序文を書いた孔安国のことであって孔丘ではないけれども、其れは措き、殷三賢を引き合いに出している点が、秀逸なんである。まず引用部分の口語訳は、【殷の遺臣である三賢は新たな王朝である周の西伯に対しては不忠であったけれども、周は敢えて彼等を罪しなかった。 故に孔子は、君が君たらずと雖も臣は以て臣たらざるべからず、と云った。恐らく、比干や箕子のことを云っているのだろう】。
 注意すべきは、「殷三賢」である。実をいえば、一般に「殷三仁」と呼ばれるが、仁も賢も、此の場合は似たよぉなもんだから、気にしない。殷三仁とは、比干・箕子・微子だ。箕子は、暴君化した紂王を何度も諫めたが容れられず、発狂したふりをして獄へ下った。殷の滅亡後に解放され、優秀さを認められ、臣下の扱いを受けず朝鮮の地に封ぜられた、ともいう。比干は、箕子と同じく紂王の叔父であったが、やはり暴君化した紂王を度々諫め、逆ギレした紂王に殺された。微子は、紂王の兄であったが、穏やかな人物であった。紂王を度々諫めたが容れられず、封地に引き籠もっ た。武王は微子を宋公に封じた。
 よって、既に紂王によって殺されている比干は、周に不忠を働くも何も、そもそも存在しない。だから「比干箕子等」ではなく「箕子微子等」と云うべきだが、細かいことだから気にしない。三人が殷の賢人と呼ばれる所以は当然、暴君と化した紂王を諫めまくった点にある。心臓を抉り出されて殺された比干に至っては、「比干曰、為人臣者、不得不以死争」{史記・殷本紀}と決意を語っており、宣言通りに死んでしまった。「人臣たる者は以て死争せざるを得ず」、語句を置き換えれば、「不可以不臣」となる。臣の責務/忠の本質は、争/諫で表される。第四輯序で「君雖不君、臣不可以不臣」と「殷三賢」/三仁すなわち「比干箕子等」を結び付けていることから、馬琴 も臣の責 務/忠の中核を【諫】だと順当に理解していたことが明らかとなる。且つ、付言すれば、「殷三賢不忠於西伯。然周不敢罪之」とあるので、紂王の生前は命まで懸けて其の意思を否定し争った忠の権化である「三賢」のうち2人は、周でも重用されたというが、不忠であっても周は罰さなかった、即ち最大限の諫言を行ったことで殷への忠を証明した三人に就いては、周は其の故主への忠の存在ゆえ、自分たちへの不忠を不問に付したことになる。
 此のことは、以下の如き倫理観を想定させる。則ち、忠は【関係性】そのものに対する規範ではなく、飽くまで其れを抱く人間の質を示す。もしも「君臣という関係性」そのもののみによる規範であれば、故主への忠は其れとして、新主にも忠を抱かねばならない。 周への不忠は、断罪さるべきである。しかし周は三賢を咎めなかった。何故なら三賢は既に、忠/真心をもつことを証明していた。
 仁義礼智信や忠孝悌は、対人関係の中で発揮さるべきものではあるが、あくまで個人の資質を謂う。謂はば円満な対人関係という【結果】を得るための原因/資質だ。其れを真逆に勘違いして、関係性のみに着眼、イエスマンこそ忠臣と思い込めば、漏れなく組織を弱体化させる。忠犬士・道節を見るが良い。主君・里見義成の過剰とも思える仁を非難、無礼に亘ることさえある。主家の安泰を真剣に願うからこその、必死懸命である。忠犬士の面目躍如だ。忠の本義は、関係性ではない。あくまで個人の資質である。故に、資質として最高度の忠を見せ付けた殷三賢を、現在の関係性に於いては忠に悖るとはいえ、周は責めなかった。いや、責められなかったのだ。
 また、但し、比干は逆ギレした紂王に殺されたのだが、箕子と微子は紂王を見限り見捨て、領地に引き籠もったり精神異常のフリをして獄に下ったりしている。唯々諾々と最後まで属き従ってはいない。とにかく紂王を正道に引きずり戻そうとギリギリまで諫言した。そして彼等こそ、最高度の忠を体現した人物と認識されていた。ギリギリまで頑張って諫言すれば、見捨てても、【忠】としてはオッケーなんである。馬琴も彼等の言動を指して、「君雖不君、臣不可以不臣」を使っている。まことに順当、正当かつ正統な儒学理解をしていたことが判る。結果としての関係性ではなく、其の原因となる資質こそが問題なのだ。
 
 さて此処で、足脱の話題に立ち返る。足脱は、自胤を諫言する立場にはなかった。また、小文吾は、足脱が自胤を見捨てて直接の主君・将常のもとへ走ることは許容していた。敗軍に於いて主君を見捨てて逃げ延びることは、全然オッケーなんである。全軍が主君に殉じなければならないなら、結城合戦で落ち延びた里見義実も大塚番作も断罪されねばならない。いやさ、「忠」の犬士・犬山道節さえ、不忠者になってしまう{但し三人とも父親は主君に殉じており其の過剰分が息子へと相続され幸となったと見ることは可能だ}。結局、忠の定義は、最高度が諫言であり、最低限が【従属している期間中に裏切らない】ことなんである。既に縁を切って従属していなければ、元の敵側へ下っても構わない。 南朝方だった里見家が、何時しか関東足利家に従うようになったことも、其の関東足利家と{消極的ではあるが}南関東大戦で敵対することも、馬琴は許容している、と考えられる。足脱の場合は、まさに従属期間中に裏切って自胤を捕らえ里見方に差し出した故に、断罪された。だいたい名前からして足脱{あしぬけ}/離脱/裏切りだ。本来は「足脱け」だが、アシヌケなんて間抜けな名前は想定が難しい。そこで、渋柿を焼酎などの樽に漬けて灰汁を抜いて甘く加工する「たるぬき」に変読したのだろう。
 
 しかし只、注意せねばならぬ点は、馬琴の書きぶりだ。足脱は、馬琴の基準でも猿島郡司将衡と家臣の比田鳴子介村禽は、里見方に寝返った直後、上水和四郎束三に討ち取られてしまう。束三の 名は、「上見ぬ鷲」との言い回しからきているだろう。鷲は、日本での通念上、最強の実在猛禽である。ビクビク上/背後を気にする必要がない。但し、其れは飽くまで「通念上」であって、常識外れに強い小文吾にはアッサリ捻られてしまう。よって此の場合、「上見ぬ鷲」は、【自分より強い者がいるとは認識できず向こう見ずな】の意味となる。鷲だから、小動物などを鷲掴みする。よって、上水和四郎束三/上見ず鷲郎掴みつ、となる。掴まれたのは、村禽である。比田鳴子介村禽は、抑も小文吾が群鳥{むらとり}の羽ばたきにより村禽らの夜襲計画を察知したことに縁がある。小文吾にとって水辺の群鳥は、まさに危険を知らせる鳴子となった。「比田鳴子介」には、ひた鳴りに鳴る鳴子の意味を含ませ ていよう。よって、比田鳴子介村禽の名が成立し、其の群鳥に勝ち誇って襲い掛かる向こう見ずな上水和四郎束三が登場する。二人の名前は一セットであり、役柄配置は事前に決まっていたに違いない。
 また、だとすれば、比田鳴子介村禽には負のニュアンスが明らかではない。寧ろ、小文吾に夜襲計画を察知させる、都合の良いものだ。マイナスの意味{裏切り}を込められた足脱とは印象が違う。よって、村禽は束三に「反賊」呼ばわりされて呆気なく討たれたが、馬琴にとって、少なくとも足脱ほど積極的に断罪された形跡が見あたらない。武士でありながら足脱は罪人として斬首され、村禽は強敵と渡り合った挙げ句に名誉の戦死を遂げた。しかも村禽には、浅羽麻二原弘を討ち取った軍功もある。死んだ ら同じ、と言う勿れ。近世に於いて、此の差は決定的である。しかも「反賊/裏切り者」呼ばわりした者は、悪玉側で向こう見ずな野武士の大将である。其の言「反賊」が正当なものか判断を留保せねばならない。
 とはいえ、村禽が、悪玉側で居丈高な野武士の大将に「反賊」呼ばわりされ呆気なく討たれたことは、紛れもない作中事実である。せっかく主君に従って善玉側に与したにも拘わらず、少なくとも果報は得ていないようにも見える。何やら、反忠したことを引責したようにも見える。村禽と行動を同じくしている主君の猿島郡司将衡も、村禽と同じ扱いを受けている、と考えられる。
 恐らく三国演義の雰囲気を醸すため、呂布の名を出し、上水に相応の武勇を示させるためには、ヤラレ役が必要だった。とは云え、こんな蛮勇の将に里見方の名のある武士がヤラレるわけにもいかない。使い捨てするなら、降参してきたばかりの将衡・村禽が適任だ。且つ、「君雖不君、臣不可以不臣」を絶対的服従の勧めだと勘違いしている無知蒙昧の徒に、反忠への罰の如く誤読させ得るよう書いた。
 此の微妙な筆あしらいが、馬琴の真骨頂か。村禽・将衡は、馬琴個人の基準からすれば、何等、断罪すべき者ではなかった。 しかし八犬伝読者全員が、馬琴と同様に正当かつ正統な儒学を理解しているわけではなかった。愛読者で、しかも教養あるべき大身旗本であっても、「君雖不君、臣不可以不臣」を、片務的な絶対服従を勧める章句だと勘違いしている者もいた。商業作家である馬琴としては、こうした無理解な読者層に顕然と真っ向対立するは下策だ。飽くまで自らの倫理観を墨守しつつ、実は真っ向対立しているのだけれども、何やら【迎合】しているが如く見えるよう、隠微な筆致に気を遣っている。
 孔孟の学は古来、悪辣卑劣な権力を打破する原動力となってきた。被支配層に、権力批判の根拠を与えてきた。しかし其の点を前面に出すと、幼稚な支配者の出版統制に引っ掛かる。「君雖不君、臣不可以不臣」。孔孟の学を 端的に表現する、古文孝経序の一句を真逆に解釈する通俗{というより低俗}理解でも文脈が通るように書いている。書きたいことを書きつつも、商業作家として諸方面へ配慮し隠微を究めている。{お粗末様}

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