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■復讐の文化性■

 前回は長々とメタモルフォーゼスを紹介した。注目すべきは、粉屋一件である。不倫を罰するところは痛快だが、実は離縁された粉屋の妻は魔道の者であり、先輩魔女に「ヨリを戻すか、殺して」と依頼、結局、魔女に操られた女の幽霊に粉屋が殺されたってのは、古代ローマっぽい人間肯定っていぅか、勧善懲悪ではない部分だろう。
 いや、そんなことは如何でも良い。因みに前回掲げた横文字はネット上に転がっていたラテン語版{http://nodictionaries.com/}だが、当然ながら筆者はラテン語などカラッキシだ。だからネット上のノートルダム大学ラテン語辞書{http://archives.nd.edu/latgramm.htm}で単語を引き、無理遣り訳した。興味をそそられた此の部分だけは、読者に提供する以上、原文から訳さねば申し訳がないので、無理を承知で敢えて訳した。多少の間違いはあるかもしれないので、興味を持たれたムキは、御自分で訳出なさるように。

 さて、筆者は、粉屋が間男少年に強制猥褻を働いた翌朝、二人の「強蔵」を呼び出したと訳した。英語版{http://www.naderlibrary.com/goldenass.toc.htm}では「最も強い奴隷」と穏当に訳している。「強蔵」も、強い男のことだが、何が強いかってぇと、精力である。絶倫男のことを謂う。
 「ferula nates eius obverberans」は、「子どもを罰するときに使う棒で彼の尻を打った」であるが、あとは「adfatim plagis castigatum」{罰して苦しめた/傷付けた}と漠然としており、しかも不倫で有頂天にあった少年が粉屋に「nates candidas illas noctu diuque dirruptus」{その夜から素晴らしい尻をずっとズタズタにされ}、逃げ出した。美熟女を獲得し悦んでいた少年が、捕らわれ逆に陵辱される逆転/対比が、話の肝である。ズタズタにするっていっても、二つに割れている尻を棒で三つに割った、とかではなくって、強引な性交により裂傷を負わしめたと解しても良かろう。素直に読めば、夜も朝も一貫した虐待であって、日が昇ってからも少年は尻を棒で叩かれつつ性的虐待を受けたと考え得る。それを英語版は、朝の虐待を専ら鞭打ちだと決めて掛かっている。恐らく、アナルコイトスを嫌う基督教徒の心性が無意識裡に働いて、朝の虐待を専ら鞭打ちだと思い込みたがったんだろう。しかし残念ながら、アプレイウスは基督教徒ではない。その証拠に「黄金の驢馬」では、イシスが重要な役割を担っている。アプレイウスが活躍する少し前は、男色皇帝ハドリアヌスの治世であった。朝の虐待を無理に鞭打ちに限定する理由は、何処にもない。勿論、少年を吊し上げた直後、粉屋は棒で尻を叩いている。しかし例えば、男色家ではない筆者が少年を鞭打っても、単にサディスティックな悦びしか感じないだろうし、そもそも美少年を鞭打つ趣味はない。だいたい相手の尻を棒で叩いて楽しいか? 変態なんじゃないか? どうせだったら性交して埒を開けて貰った方が気持ちいいに決まっている。筆者の場合、美少女限定とは云わない。美熟女だって結構だ。ってぇかストライク・ゾーンは無闇に広いけれども、男色は埒外だ。大便道に挿入て、何とする。一方、粉屋には、前夜に少年を陵辱した前科がある。そういう性向なのだ。其の前科者の前で、棒で尻を叩かれ苦悶の表情を浮かべて汗ばんだ美少年がアンアン言ってる、と思いねぇ。そりゃぁ姦るだろう。姦らない方が不自然ってもんだ。それとも前夜にスッカリ搾り取られて、聖者モードになっていたとでもいうのだろうか。しかし粉屋が役に立たなくても、二人の強蔵がいる。また、本書には、以下の如き記述もある。

Videtis istum pigrum tardissimumque et nimis asinum?  Me post cetera flagitia nunc novis periculis etiam angit. Vt quemque enim viatorem prospexerit, sive illa scitura mulier seu virgo nubilis seu tener puellus est, ilico disturbato gestamine, non numquam etiam ipsis stramentis abiectis,  furens incurrit et homines amator talis appetit et humi prostrati illis inhians  illicitas atque incognitas temptat libidines et ferinas voluptates, aversaque Venere invitat ad nuptias. {BOOK7・21}

 見てくれ、如斯き甚だ怠惰で愚鈍な驢馬を。{此奴は}今まで俺に恥ずかしい思いをさせてきたが、今日は更に酷い新たな試みをしてくれた。{此奴は}通行人を眺めていたが、女・娘・柔弱美少年、いずれ嫌わず、急いで行く手を阻み、彼自身の身に負った荷物を投げ出して、走り狂い、その者をいたく愛し慕い、地べたに押し倒して貪り求め、そして禁忌かつ未知の獣じみた歓喜への欲望を其の者に求め、ヴィーナスが忌避するような婚姻を遂げようとした

 此れは、山寨に拠る盗賊の台詞であるから下卑ているとも思えるのだが、かと云って、作者アプレイウスの脳中から発したものであるには変わりない{ルキウス驢馬の名誉の為に言い添えると、上記は事実描写ではなく盗賊の虚偽報告である}。牡驢馬の性欲対象として、女・娘・柔弱美少年の三者が並列して挙げられている。ルキウス驢馬、というより当該の盗賊が想定した【怠惰で愚鈍だが性欲だけは旺盛な間抜け驢馬】の選択肢には、柔弱美少年も入っていた。とはいえ、驢馬に擬せられ得る最下層の者のみが、古代希臘から続く此の嗜好に耽ったわけでもなさそうだ。歴としたローマ帝国市民である粉屋も嗜んだ{いやまぁ皇帝の御稚児さんが二代後の皇帝だったりもしたんだが}。実は、此の虚偽報告の続きで、{架空の}犠牲者は娘なんだが、なるほど【優先順位】は娘がトップだったかもしれず、三者が同様の扱いを受けていたとは、筆者も思っていない。多分…といぅか、筆者の希望的観測では、柔弱美少年は最下位だ。西鶴の好色一代男でも、世之助が五十四歳までに「たはふれし女」は三千七百四十二人、「もてあそ」んだ「少子(男の子)」は七百二十五人であった。ほぼ五対一の割合だから、一週間のうち日曜日は安息日として、土曜日は美少年、平日が女性一般との計算になる。女と娘の比率は不詳である。更に古代羅馬の場合、といぅか本書の場合、獣姦にまで言及している。其の現象確率は極めて低かったと思いたいところだけれども、ルキウスは、貴婦人の嗜好として、そして刑罰としての獣姦を、続けざまに書いている。
 実のところ「TheGoldenAss」は、最初に「ソクラテス」と年増女との不倫および結果としての虐殺、続いてルキウス本人と美少女とのセックス三昧、ミロオの妻が美青年を狙う不倫、結婚当日の花嫁掠奪{陵辱なし}、新妻への横恋慕から新郎の殺害と殺人者の求婚、間にキューピッドとプシケーの恋愛譚が挟まり、洗濯屋の妻の不倫と間男殺害、おっ被さるように粉屋の妻の不倫と間男美少年への強制猥褻およびBonDageSadoMaso、権勢家による虐殺事件と復讐、獣姦二態……とエログロ醜聞が多くを占めている。最終巻{Book11}に至って、装飾語だらけのイシス・オシリス礼賛となる。独身かつ人間同士の異性恋愛記述は、主人公ルキウスとフォーティスとの間に繰り広げられる、筆者から見れば奔放に過ぎる性交描写のみだ。アプレイウスは本書を通じて、性の側面から各種の人間性とやらを炙り出そうとした、と一応は云っておこうか。
 一読すれば本書が、性を大きなテーマとしていることは明らかだ。それが故に、粉屋一件に於いても、陵辱翌朝の折檻場面には性的色彩が漂う。筆者も実物を見たことはない{と思うのだ}が、世には、相手に肉体的苦痛を与えることにより性的興奮を得る、サディストなる変態がいるらしい。粉屋には、其の容疑がかかっている。しかも粉屋は、暴力行為のみによって性的満足を得るストイックな人物ではない。彼には美少年をベッドに引き摺り込んだ前科がある。そして性的興奮は、最後のShootingを目指す。撃ちてし已まん、である。それが故に筆者は、朝の折檻場面が、単なる暴力に全面を覆われているものではなく、性の要素を多分にもち、且つ相応の行為も付随していたと考えるものである。特定一部宗教の狭量で幼稚な価値観に基づいて、過去の文物を読むことは不幸以外の何者でもないし、当該文物の価値を貶めることにもなる。

 閑話休題。実のところ、善良美少年がレイプされたら告発すべきだが、いい気になって間男をした不良美少年が陵辱されようと筆者の知ったことではない。日本近世にも「神国愚童随筆 可笑咄」中「贋比丘尼に宿をかし親子四人玉矛を更ける事」がある。旅先で美しい尼僧に欲情した男が自分の家に招待したは良いが、尼僧は男の家に宿泊したものの、男が帰宅する前に旅立ち、追っていった男が狼藉に及んだところ、「尼僧」とばかり思い込んでいた相手は「贋比丘尼」すなわち美しくはあったが男性僧侶、「アッーー」、男は逆に犯されて「毛尻一本取られたり」。因みに此の僧侶、男の妻と娘二人とも姦っていた{但し和姦}。人を呪わば穴二つ……どころか穴四つ、である。欲ボケ男を嘲笑する文化は、古今東西共通だ。性の秩序を乱した者は、性的虐待を以て復讐されねばならない。美少年に妻を犯された粉屋は、美少年を犯してバランスをとる必要がある。ふしだらな欲情を抱けば逆に犯されなければならないとの発想は、古代ローマ人に限ったものではない。ハムラビ法典でも、目には目を、と言っている。よって妻を寝取られたからといって、相手を殺害する必要まではなく、相手を犯せば良いぢゃんって理屈だ。近世日本でも、武士にとって女敵討ちは義務であったが、庶民は七両二分とか或いは、もっと安い首代で話をつけた。それだけの事だ。

 筆者の関心は、粉屋一件に向いてはいるが、美少年への強制猥褻事案は、実のところ如何でもいい。少なくとも古典の域に達したもののなかで、虐待された家畜による復讐の話は案外に少ないようで、筆者の記憶にあるものが、此の話だけだったのだ。そう、実は今回、【復讐】がテーマなんである。八犬伝でも人間に仇為す怪しい生物は頻出するが、別に虐待されたから復讐しているわけではなく、単に元々「人間に仇為す」存在なのだ。一応、玉面嬢や真猯の老夫婦そして政木狐は「復讐」をするが、彼等は「動物」というよりは霊獣であって、共に人間の姿をとることができ知能は「動物」レベルを遙かに超える。八房も伏姫を妻とすることで里見家に復讐する形になるが、実のところ、伏姫に執着しているだけだ。そもそも八房は玉梓の転生だから、一般通常の「動物」ではない。ただ、鬼四郎の牛は、犬山道節の発案で船虫と媼内を虐殺する。媼内が鬼四郎を殺したのだから、復讐する格好ではあるものの、それは鬼四郎への忠実さによるものであって、媼内に虐待されたからではない。自己の復讐心ではなく、あくまで飼い主である鬼四郎への忠誠心を動機とする行為であって、其れが偶々外形上、復讐になったまでの話だ。あくまで家畜の主人に対する忠実さを示す事例である。
 日本近世の家畜は主に食用で飼っていたのではないから、餌を遣る→懐く、との幸福な関係を築くことが容易であっただろう。いやさ西洋に於ける食うための家畜なんざ従容として殺されていたわけで、人間の側も別に復讐なんて思いもつかなかっただろう。虐待すれば動物だって怒るが、其の場で抵抗するだけだ。虐待を重ねれば【危険人物】と認定され、警戒されたり暴れられたりするだろうが、其れは【復讐】ではなく、単なる【敵対】だ。ルキウス驢馬は、粉屋の妻に虐待され、間男少年の存在を暴露することで、妻の立場をなくすことに成功した。こういう【回りくどい攻撃】こそ復讐なんである。怨みを抱き機会を待って、相手に打撃を与える。復讐は思考を必要とする、高度な文化的行為なのだ。敵対行為に対する、即時の条件反射による反応/敵対ではない。対して家畜の懐き/忠実さは、一般的な現象であり、自然に構築される関係だ。だからこそ、家畜には忠実な行為は似合うが、復讐は分不相応なんである。故に高度な思考をもたない家畜が、虐待されたからといって「復讐」する物語が少ないんだろう。上記の「黄金の驢馬」も、中身は人間である。だからこそ復讐が可能なのだ。粉屋の妻に噛み付いたりしたら殺されるだろうが、驢馬の身で可能な範囲に於いて、覆いの下に隠れた間男少年の指を知らぬ顔をして踏んづけ飛び上がらせ、以て妻の不倫を暴露した。計画通り妻は立場をなくし、離縁された{が粉屋も妻に殺されルキウス驢馬は農民に転売される}。

 しかし、本当に家畜は復讐心をもたないだろうか。哺乳類は子ども並の知能をもつという。ならば当然、復讐心もあるだろう。飼われているから、あからさまなことはできないにしても、大小便を捲き散らし、飼い主を困らせるぐらいのことはするのではないか。それを人間側は躾が失敗したとかで済ませて「復讐」と認めないだけではないか。動物側は一方的に懐くが、復讐なんて思いも寄らない、と勝手に思い込んでいるだけではないか。動物は「復讐」しないと決め付けているだけではないか。其の上で、人間が殺されたとき家畜が復讐してくれる物語を創作する。人間は、動物に幻想を求め、甘えているのだ。まぁ、動物にぐらい多少は甘えても良いと思うけれども。

 だが、しかし、日本に於ける教育は中高一貫であるべきであって……、もとい、忠孝一貫であるべきだ。先達ての話題、「孝経」が見事に「忠」を定義している如く、忠孝は感情として同根、【懐き】であって、家畜には飼い主に対する忠が期待された。それが故に、八犬伝でも家畜{鬼四郎牛}が復讐する格好で、媼内・船虫が虐殺される{まぁ厳密に「復讐」とするなら船虫はトバッチリを受けたわけだが、毛野だって馬加大記の妻子まで死に至らしめている←ただし妻と娘は事故死扱い}。故に、仇討ちは、あくまで主君や尊属に限られた。息子を殺されても、仇討ちはしない。此れが原則である。故に女敵討ちは、忠孝とは別枠のオプションであって、恥辱を雪ぐ方向性である。敢えて云えば、「礼」か。

 実のところ赤岩での山猫譚で、一角{本物}の死に様は、余り誉められたものではない。己の武芸を恃み、周囲の諫止も聴かず無鉄砲にも魔の山へと分け入り、山猫に喰い殺されちゃうんである。其れでも一応、角太郎{大角}が父の敵討ちを成就する……ような格好をつける。が、直前、読者が見守るうちに死に追い遣られるのは、雛衣だ。雛衣は割腹し、胎内から礼玉を発して山猫を撃つ。まさに死を賭して、夫の為に仇へ一太刀浴びせた格好だ。山猫は倒れ、現八が登場して一角{本物}の髑髏を差し出す。漸く山猫が偽一角だと悟る大角……。実質的に山猫を討ったのは雛衣/礼玉であって、大角ではない{山猫は一角の仇ではあるが、一角の死は【自己責任】の側面を含んでおり、敵討ちの正当性は低くなっているため、大角の義務不履行の罪は其の分だけ軽くなっている}。それどころか大角は、山猫を父だと思っているから、雛衣すら救えない。本物の一角は無鉄砲が過ぎて死ななくてもよい所で殺されて山猫を引き込み、赤岩家を不幸に陥れた。大角は孝心が篤すぎて、偽一角/山猫に対して何も出来ない。要するに一角と大角は、自ら不幸に陥り、もしくは不幸を克服できないでいる。其の閉塞を、雛衣の赤心が打開する。礼玉を胎内に秘めているからか、従容として割腹を受け容れる雛衣であったが、其れ故に激しく礼玉を仇/山猫へと撃ち込むことになる。馬琴の巧い所だ。此の段の物語は、大角による父の敵討ち……では決してなく、実際には、夫を虐待する偽一角を雛衣が差し違えで図らずも討ち果たす筋書きとなっている。大角は、読者に孝心を見せびらかしつつ、オロオロするだけだ。閑話休題。

 また、夫を寝取られた女性は、相手の女を殺害しない。せいぜい箒で打ち据えるぐらいのものだ。実力によって恥辱を晴らせばよいが、仇討ち同様、返り討ちもあり得た。
 男女の浮気に対して近世社会は片務的だと感じるむきもあるかもしれないが、此処で注記すべきは、八犬伝が到達した【良識】である。八犬伝が提示している良識に拠って考えれば、八犬士が一生一穴主義を貫徹した如く、マトモな男性は浮気をしないとの前提がベースにあり、でも矢張り【家】という集団を存続するためには当主に子孫が必要だから、下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる、側室や妾も許容する場合があったわけで、歌舞伎の世話物でも心中までして【添い遂げる】ことが賞賛されつつ、でも矢張り{男女問わず}浮気したくなる秋だってあるわけで不倫モノもあるわけだが、要するに女敵討ちは義務で男敵討ちは箒で済ますって法理の根底には、「馬鹿な男の浮気を責める方が野暮」、即ち一般の男には人間として欠陥があるとの、根拠のない男性蔑視が浮かび上がってくる{なんたって八犬伝の良識に於いては、マトモな男は浮気しないのだから、一般的に男が浮気し得ると思われていたなら、世の多くの男は欠陥品だと看做されていたことになる}。
 要するに、社会制度とは各種レベルの常識が重層したものであって、時代の要請により、形を変えていくものだ。近世には近世の時代に合うよう、現在でも共通している各種レベルの心性が、適宜ブレンドされて法制化されていただけの話である。眼前の恋人と愛し合い抜いて一体化したい欲望、浮気したい欲望、浮気したくないけれども子孫を得るために別の異性と性交しなければならぬ責務……。三代将軍徳川家光じゃないけれども、元々男色家なのに女性への欲望を掻き立てねばならぬ者も、いたかもしれない。まぁ家光の場合は、幼少時、弟・国千代の方が優秀だと目されたため、武家の棟梁として必要以上に男ぶった結果、男性性を履き違え、男を姦る男こそ男の中の男と勘違いして、男色に走った可能性もある{根拠はない}。抑も、家康の神格化は天台宗の天海が進めた政策だが、家光は其の政策を大仰に推進した。何たって国松を退け自分を将軍位に就けたのは、己の優秀さではなく単に家康の権威ある一言だったのだ。己の権威の源泉は、己の資質ではなく、ただ単に、家康であることが解っていたのだろう。
 世襲とは、そういうものである。バカでも何でも、取り敢えず長男を世継ぎと決めとけば、後継者争いが起こらず、穏やかに推移する。一種の確率論なのだが、幕閣の選任体制さえ、一定の枠内から選び、しかも輪番制にしとけば、或る程度は能力ある者が補弼してくれる。血筋による忠義さと、一定の能力の者が何代かごとには発生する確率の、双方を期待して勘案した体制である。家康なりに、徳川家の安泰を考えた結果だろう。しかし所詮は人智、世襲なんぞで権力体制が永遠に存続できる筈もなく、先頃、徳川幕府は滅んだ。無能な者を、権力者の都合で、有能だと認定して上げ底。文字通りに殿様商売が許される時代は、まぁ其れでも保つが、社会が激動する時代に同じ気分でウニャウニャ遣ってたら、滅びるに決まっている。理の当然である。
 日本にも影響を与えた中国の伝説に拠れば、原初、帝位は先代の指名に依り継承されていた。本来の意味に於ける【禅譲】である。が、禹から益に迂回して禹の息子・啓に繋いで以後、概ね世襲もしくは革命による継承・交替となった。初めての世襲は一旦、益に迂回、即ち他者に一度は継承させ、其の他者が能力を認めて禅譲する形で、行われている。指名制から世襲への過渡である。後は【人間性】たっぷり、我が子可愛さで前例を盾に済し崩して、世襲。余りにも解り易い推移である。偶々禹の息子・啓が優秀だった千載一遇の機会を捉えての制度変更だった。が、皆様御存知のように、二代続けて同レベルの優秀な人材であることは極めて稀…といぅか殆ど在り得ない。まぁ何十万年も人間を遣っていたら、ほぼゼロ確率の事象だって、一度ぐらいは生起しないとも限らない。其の「一度」が、禹・啓の継承だったんだろう。【天の理】にだって、例外はあるのだ。
 指名制から世襲への変遷は、我が子可愛さっていぅ個人の【人間性】とやらが、社会の必要性を凌駕した画期でもある。其れは個人の欲望が成就する自己実現の面では確かに進歩であったが、権力が社会の必要性から乖離するという面では、明らかに退化であった。長い間かけ社会全体で練り上げた【天の理】よりも、個人の欲望が優先された結果である。当然、此の変化の背景には、【社会】の規模が、血族→村落レベル→複数集落レベル→地方レベル→国家レベル、と拡大していったことがある。規模が大きくなれば、権力も大きくなる。大きな権力が一人もしくは極少数に集中することになる。個人が冒され難いほど巨大な権力を握ったとき、個人の欲望発露としての、世襲制に移行しちゃったんである。要するに、群としてはリーダーの資質に生死を懸けているわけだから、リーダーの選任には構成員各個の意見が十分に反映されねばならぬし、構成員各個の発言力に大きな差がない段階では、リーダーといえども好き放題には後継者を決められない。しかし、社会が大きくなりリーダーの権力が巨大になれば、リーダーの継承はリーダーの意思通りになる。ただし、反対意見がリーダーの意思を凌駕すれば、革命にも行き着く。しかしリーダーに権力が集中する過程は、各種実務が構成員各個に分担されていく過程でもある。構成員各個が、其の分担に満足している間は、リーダーが世襲制に基づき勝手に後継者を決めても、文句は出ない。【天の理】に叛く世襲制でも、一定期間は政権が存続する所以である。万世一系の我等が光輝或る国体は、権力から分離することで、初めて可能であった。権力を握ったままでは、万世一系なんて御目出度すぎる妄想、在り得ない御伽噺に過ぎない。其れだけの話である。

 話を戻そう。

 結局、八犬伝に登場する動物は、飼い主の仇は討つが、自己の復讐はしない。復讐する者は、人間と、政木狐や猯穴の真猯といった霊獣ぐらいのものだ。鬼四郎牛は媼内に捕らえられたときも、モォモォ鳴いていただけであったが、道節に唆され、媼内と船虫を虐殺した。広い意味での「復讐」に見えなくもないが、実のところ、飼い主への忠が裏返しとなって媼内への暴力として発現しただけのことだ。しかし恐らく現実には、動物にも復讐心ぐらいはある。其れを行為として表現することが出来ないだけだろう{アフリカ象などは復讐と思しき行動をとることがあるという}。そして、八犬伝でも、玉梓や政木狐そして猯穴の真猯は、復讐をする。両者は、動物とは言えぬ霊獣であるが、元はといえば、動物であった。動物のうち極めて限られた者が長期間修行を積み、霊獣へと進化する。動物の時には発露しなかった復讐心が、霊獣になるまでに備わっている。霊獣になる過程で発生したと考えられるが、絶対的な無からは何も生じない。動物であったときにも、【復讐心の素】は存在していたと、考えねばならない。要するに、霊獣とは、イメージ上で、人と獣を混淆させたモノなんである。
 八犬伝に於いては、人間・動物・霊獣・妖怪・神{仏}が登場する。土地の神{月蓑団吾}山神{八党東太}といった下級の神が、玉坂飛伴太:猯とi足■サンズイ發/太郎:貂を殺した事件を、自分たちを抑圧し服従せしめた山猫の眷属に対する「復讐」と見ることも可能だ。さすれば、神も復讐することになるが、土着神らしく地域の平和のため、悪者を退治したとも考えられる。よって、「神」に就いては不詳だが、人間と霊獣は復讐を行い、動物は行わない。即ち、人間と動物、霊獣と動物を分かつ基準の一つが、復讐なんである。このことは、「八犬伝」なんて怪しいタイトルを付けながら、馬琴が無闇な擬人化を、動物に施していないことを示している。言い換えると、一般の動物には復讐を許さないが、其の動物を、まず在り得ない霊獣という存在に置き換えて、即ちフィクションのフィルターを通して初めて、復讐を行わせている。しかし一方で、与四郎犬は信乃と確かに通じ合っていた。鬼四郎も信乃に耳元で吐息混じりに囁かれ、なぜだか興奮して媼内らに襲い掛かった。動物は人間と心を通じ合える存在なのだ。だからこそ、馬琴の想像力は、伏姫と八房の気が相感し八犬士の精が発生することを許容した。また、だからこそ、動物から進化した霊獣は、人間と同様の心性を持つに至り、復讐まで行う。人間と動物は隔絶しているようで、完全には断絶していない。此れが筆者の見る、馬琴の動物観だ。
 筆者は既に「小乗から大乗へ」で、直塚紀二六と姥雪代四郎が一時期、絶えず行動を共にしている作中事実を指摘し、紀二郎猫と与四郎犬の間に確執がないと断じた。そうでなければ、紀二六と代四郎が、これほど執拗に行動を共にするとは考えられない。

 もしや、紀二六の前身たる紀二郎猫が、犬塚家と対立する大塚蟇六の飼い猫である点に疑問をもつムキもあるかもしれない。しかし其れに対する筆者の回答は、「別に良ぃぢゃん」である。紀二郎猫は大塚家の飼い猫ではあるが、善玉・浜路付きの飼い猫だ。そして紀二郎猫自身は、犬塚家と対立する素振りを見せない。猫同士の争いに敗れ、屋根から落ちたところを、与四郎犬に襲われたのだ。与四郎犬側としても、紀二郎猫に含むところは何等なく、ただ犬の習性/自然の摂理に於いて、ただ反射的に、紀二郎猫を襲っただけなのだ。憎いから殺したのではない。食物連鎖ではないものの、此れが自然一般の【形】であって、其処には何等の感情も介在する余地はない。感情が介在する余地がなければ、そもそも【復讐】は、あり得ない。此の状況で、与四郎犬が紀二郎猫を殺すことこそ【自然】なのだ。が、蟇六は、恨みを抱く。「自然/天の理」を解しない故だ。番作さんは、まさに此の「天の理」を説いて反論している。【屋内に入ったなら与四郎犬が殺されても仕方がない】との論理を逆手にとって、蟇六は、与四郎犬を屋内へと追い込み袋叩きにする。当然、追い詰められたからこそ与四郎犬は蟇六邸内に入ったのだから、免責されて然るべきである。自然な状態で入ったわけではないから、そもそも天の理から外れている。にも拘わらず、蟇六は与四郎犬に暴力を働いた。理不尽の典型である{だからこそ蟇六なんだが}。ただ、まぁ「天の理」という長い間かかって人間の思考が練り上げた論理を近視眼的に否定し、「人間至上」を謳う近代以降に於いては、与四郎犬による紀二郎猫殺害は、現代日本では犬は繋いで飼うとの原則もあるから瑕疵を指摘され、番作さんが器物損壊罪で告発される形で推移するであろう{示談もあり得る}。
 また、大塚家中の者が皆、悪玉となれば、額蔵{犬川荘介}の存在が解釈できなくなる。そして荘介の母の従兄が、蜑崎輝武であった。紀二六は、蜑崎照文にとって「親族の子」であり、娘・山鳩の婿となった男だ。しかも荘介の娘は、紀二六の息子に配偶している。八犬伝…といぅか前近代日本では、運命共同体である親族は、気を同じうし、【同じ何か】を、それぞれで表現する、と考えられていたかもしれない。そうであれば、照文の親族であり婿となる紀二六の前身である紀二郎猫と、やはり照文の親族である荘介が、共に同じく大塚家で養われていたことは、寧ろ当然と云える。尤も、勿論、紀二郎猫が浜路に愛撫されると対称に、荘介が信乃に愛撫されていた、と言う積もりはない。

 今回は二話に亘って【復讐】を取り上げた。「闇からの発生」に於いて、役行者を祖とする修験道では「伏」字を人と犬との合体とし、其れが故に修験者を「山伏」と呼んでいたことを紹介した。人は明、犬が無明である。明を人間的理性、無明を無理性と解すれば、理性と無理性の淡い間{あわい}/境界が、「伏」である。其の境界に在るべき者こそ、山伏なんだろう。また、無明は人間としては無理性なのであるが、其れこそ自然/天の摂理に従っているかもしれない。仏教の一部宗派は、故に無明こそ法性と考えたりもする。八犬伝は血塗られた「復讐」を何度も描くが、終盤、信乃は住民を賑わすことを最大の成果とし、最小限の流血で「復讐」を完遂する{第一次五十子攻略}。人間的であればあるほど、人は復讐の連鎖を生み、互いの生命が奪われていく。{殺された者の}生命への{遺されし者たちの}執着が、{仇の}生命の否定に結果していく。此の大いなる矛盾を超克するためには、人間であることを超え、非人間的な面を持つ必要があろう。動物は、復讐をしない。一方で人間は、余りに【人間的】であることにより、人間性を放棄して、残虐な復讐者となっていく。そもそも役行者が主宰する八犬伝序盤、「伏姫」自身、人間的な栄耀を拒んでまで、契約の遵守に拘った。悲嘆に暮れる両親を捨ててまで、八房の妻になった態度は、余りに【非人間的】であった。其の冷徹でありながら清々しい潔さは、人でありながら犬を名乗る八犬士にも受け継がれているか。天の理に従い与四郎犬に殺された紀二郎猫は、紀二六となって代四郎と仲睦まじく行動を共にする。近代以降、宣揚され喧伝された【人間らしさ】は、本当に人間を幸せにするのみであったか。いや、真の「人間らしさ」とは随時の個人としての感情を偏って尊ぶだけのモノか。日本でも中世以降、個人としての感覚が成長していく{と云われてもいる}。八犬伝が刊行された近世末期に於いては既に、世話物と呼ばれた個人の感情をメインテーマに据えた文物も盛んであった。個人としての欲望を全肯定する立ち位置だ。勿論、聖人孔子でさえ「七十而從心所欲、不踰矩」{論語・為政}、己の欲動と【天の理】を一致させるまで膨大な研鑽を積まねばならなかった。筆者如き凡俗にとっては、不可能事であろう。ただし、希望の光が、どの方角に在るかだけは、判る。

 大切な事なので、もう一度、言おう。復讐は文化的な行為であり、一般の動物には無理なのだ。人間および人間に類する霊獣と、一般動物との境界線が、復讐の可否だ。翻って、大塚浜路の飼い猫/紀二郎猫は、信乃の愛犬/与四郎に喰い殺された。しかし与四郎犬は後に登場する媼雪世四郎に通じており、且つ紀二郎猫は直塚紀二六に通じている。世四郎と紀二六は、親兵衛の第一次上洛から親密度を増し、結城大法会あたりまで一心同体であるかの如く、行動を共にする。デキてんぢゃないかと疑えるほど、仲睦まじい。人間の感覚ならば、紀二郎猫は与四郎犬に復讐心を抱いている筈だ。しかし、犬塚番作が夙に指摘した如く、大地の上で犬が猫を襲うことは、生態系ではないけれども、【天の理】である。其処には何等の感情も介在することを得ず、故に復讐は、あり得ない。よって、世四郎と紀二六が仲睦まじく行動を共にすることには、何の妨げもない。八犬伝の、少なくとも序盤の主宰神は、役行者であった。本シリーズでは既に、役行者を祖とする修験道で「伏」の字は、人と犬とが合体したモノであり、人は【明/理性】、犬は【無明/無理性】を表している、と紹介している。理性とは、人をして人たらしめている要素であり、犬には其れが無い。復讐は、人{と人に類する霊獣}に特有の、文化的行為である。犬/無明/法性は、復讐心をもたない。アマチュア復讐者である犬山道節以外の犬士たちは、個人的な復讐を完遂し、そして「小乗屋」に宿泊、結城大法会に出席した後、里見家の部将として南関東大戦に参加する。此のとき、犬士群の仁を象徴する親兵衞は、伏姫から授かった蘇生丹を、敵兵にまで分け与える。個人の解脱を目指す「小乗」の態度から、万人を救済せんとする大乗の姿勢へ転換している。この道行きは、里見家だけを守護する伏姫神が、万人の救済を願う観音菩薩へ成長する過程でもある。以前に語った通りだ。血で血を洗う復讐の連鎖は、人である以上、必然であるかもしれない。其の連鎖を断ち切るためには、人というステージから別の次元へと移行せねばならない{此処では「移行」を、「昇る」とも「降りる」とも断定できない}。人であって人ではない犬、明であって且つ無明、伏姫にしか、玉梓の熾烈な復讐心を包み込み無化/昇華することは、出来なかったのだろう。
 近代以降、伏姫に対する評価に「非人間的」がある。当たり前だ。馬琴は、伏姫をワザと「非人間的」に描いたのだ。そうでなくて、如何して復讐の連鎖を断ち切ることが出来ようか。しかし、「人間らしさ」を至高とし、そうでないものを、まさに非人間的に排除、なんだか鬼の首で奪ったごとく口角泡立て言い募る様は、まさに非人間的である。「人間らしく」復讐の大波に溺れ、凄惨なまでに非人間的な光景を繰り広げる矛盾。人間こそ、地球にとっての害虫ではないのか。

 人と犬との両面を併せ持つようイメージされ得る、伏姫と犬士が織り成す物語、八犬伝が当時の社会に向かって突きつけた大いなる疑問符は、現在に於いても、未解決のまま燦然と輝いているように思う。{お粗末様}

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