◆伊井暇幻読本・南総里見八犬伝
「番外編 吾嬬者耶」 神田明神下に住んでいた馬琴の近所に、今やラブ・ホテルが軒を連ねる界隈がある。男坂、って呼ばれている辺り、嬬恋稲荷なる小社が坐(イマ)す。「黒き衣の神」で紹介した、宝船に乗った七福神の一枚刷りを特権的に販売していた神社だ。「関東惣社」を名乗っていた時期もあったらしい。見かけに依らず、社格は立派なようだ。神様の近所にラブ・ホテルをおっ勃てるとは不謹慎極まりない、と思うのが常識だけれども、此の神様に限っては、狂おしく愛し合う男女を、きっと暖かく見守っているに違いない。
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「吾嬬者耶(アヅマハヤ)」。愛する者を失った悲しみは、如何ばかりだろう。愛ゆえに、まさに自らの為に最愛の者を喪った哀しみは、この上なく深く劇しい。激情は、言葉となって迸る。「吾嬬者耶」、日本書紀に記す此の四文字は、そんな男の絶句だ。
「吾嬬者耶」、この絶句に拠って、東国を「アヅマノクニ」と呼ぶようになった、と日本書紀は云っている。眉唾ではあるが、「東都」に住む馬琴にとって、馴染み深い説話ではあったろう。そう、景行紀、馬琴が何の脈絡もなく殆ど強引に「安房」の説明中で使った、「淡水門」なる表記の典拠を、今回は取り上げる。「あわあわアワー」にも引いた、日本武尊に纏わるエピソードだ。
日本武尊、水も滴る美い男である。女装が似合った。西征、九州の熊襲族を征服しに行ったときは、女装して宴会に潜り込み、弄ばれた経験もある。女装の美少年が熊の如き男どもに陵辱される図だ。征服に行った方が蹂躙され征服されたんだから、世話はない。が、其処に油断が生じた。勇将ホロフェルネスは、別嬪後家さんユーディットにたらし込まれ、寝首を掻かれた。日本武尊も、熊襲族長の寝首を掻いた。古事記では族長兄弟二人にサンドイッチされ……、まぁ、二人が寝込んだ所を見計らって殺害する。弟の方は、「尻」に「剣」をぶち込まれて殺された。階段を登って逃げようとする相手に追い縋って刺し殺したんだから、まったく納得できないワケでもないのだが、武尊は相手の背中を掴んで階段に押し付けた。だったら、背中を刺す方が良かろう。まぁ、殺し方としては変だが、<自分がされたことの復讐>と解すれば、納得できなくもない。……と、何やら欲求不満ゆえの妄想に聞こえるだろうが、全く故無き言いがかりではない。当時の辺境異民族、王化(マツロ)わぬ者どもに対する蛮族観は、性的放埒、であった。親だろうが子だろうが、とにかく穴さえあれば入れちゃう。それが朝廷に従わぬ<蛮族>の姿であった。
ただし、景行が罵った相手は、熊襲ではなく蝦夷であった。東国の異民族である。西征を達成し既に二十代後半となっていた武尊は、東征を命じられた。物見遊山に行けというのではない。命を懸けた<対外戦争>なのだ。生きて帰れる保証はない。武尊は、自分は既に西征を果たしたのだから兄皇子こそ東征を務めねばならないと考えた。が、父・景行天皇は、武尊に大命を下した。古事記では武尊に、「親父は俺に死ねって云うのかよ」とか泣き言を吐かせているが、日本書紀には、そんな女々しい描写がない。君命ならば是非もない、居並ぶ群臣の前に進み出た武尊は、猛々しく戦勝の誓いを叫ぶのだ。心に遣る方ない不満と憤懣を秘めつつ、武人である以上、敵に背を向けることは出来ない。彼は「武尊」なのだ。憎々しげに吐き出された異民族への呪詛は、その実、眼前の父・景行に向けられていたのかもしれない。女々しい泣き言を武尊に吐かせる古事記の描写より、屈折の度合いといい抑制の利いた筆致といい、日本書紀の方が文学として数段上だ。さすが「正史」である。閑話休題。
蝦夷東征に出発した日本武尊は、伊勢神宮に立ち寄る。伊勢神宮は、天照太神を祀った神社だ。この時には叔母・倭姫命が斎宮として神宮を取り仕切っていた。斎宮は、簡単に云えば国家最高の巫女であり、未婚の内親王(天皇の女子)が任ぜられた。倭姫命は斎宮としては二代目だが、天照太神を祀る場所を伊勢に定めた人物であり、伊勢斎宮としては初代と云って良い。この国史上重要な女性は、彼に、とんでもないものを渡した。何時から此処に置かれていたのか判然としないが、伊勢神宮には、天叢雲剣が安置されていたのだ。この剣を、彼女は彼に与えた。別に良いじゃん、剣の一本や二本、と云う勿れ。いや、私自身は如何でも良いと思うけれども、此の剣は、タダの剣ではない。皇位の証、国家支配を正当化する、三種神器の一である。それを、皇子とはいえ、天皇でもなければ皇太子ですらない武尊に、生きて帰る保証のない遠征軍の司令官に、与えちゃうのだ。最悪の場合、剣は蝦夷の手に落ちるかもしれない。そうなれば国家支配の正統性を主張できなくなるかもしれないというのに、である。
此処で読者は、或る事を思い出しているだろう。そう、八犬伝のクライマックス、里見家と関東管領軍の戦いに於いて、防御使たる八犬士に、一振ずつ刀が与えられたことを。これは、統帥権を総攬する里見義成が、指揮権を犬士に分与した事を意味している。……少なくとも表面上は、そうだ。義成と犬士は、妙に、この刀に拘る。犬士は義成の父・義実、大御所の外孫であり、既に城主格を以て里見家に迎えられていた。それだけの権限を認められていた筈だ。だいたい、長大な物語を読まされ、犬士の特権的地位を自然と認めさせられている読者は、犬士が兵卒や中間管理職として、走狗の如く使われるとは思っていない。指揮刀の件は書かずもがな、不要な条だ。が、馬琴は書いた。
日本書紀に於いて、指揮権は「斧鉞」に依って象徴されていたりする。先述、武尊が景行から東征を命じられた時も、儀式に使われたのは斧鉞である。時代が下って日本書紀の原型が成立したと目される天武期、まさに壬申の乱でも、将軍任命の儀式には斧鉞が使われている。が、日本武尊が剣を、「日本」に於いて最も強力な剣を、天皇ではなく、天皇の存在を超越し同時に正当化する天照太神から(斎宮/巫女を通じて)与えられた事は、此の遠征の重大さを伝えているのだろう……か。多分、そうだろう、少なくとも、表面上は。
日本書紀に拠れば、伊勢から東に向かった武尊は、駿河で危難に遭遇した。地元の豪族が、武尊を亡き者にしようとしたのだ。野遊びに連れ出し、武尊を一人にしておいて、周囲から火を放った。迫り来る火炎、武尊は剣を抜いて辺りの草を薙ぎ払った。燃える物がなくなれば、火は迫ってこない。武尊は、助かった。この故事により、天叢雲剣は、「草薙剣」と呼ばれるようになった、という。が、こんな話を鵜呑みにする人はいないだろう。勿体ぶって登場しといて、草を薙いだだと? そんなもん、ナマクラでも出来る。天照太神を凌ぐ力を秘めた暴風雨神・素戔鳴尊が、強大かつ凶悪な暴風雨神・八岐大蛇を退治して得た「神(アヤ)」しき剣、「天叢雲剣」を鎌の代わりに使っただと? 巫山戯るんぢゃねぇぞ、日本書紀。
日本書紀は、<ゴールの決まった物語>だ。天武・持統朝の正当性もしくは正統性を証明すべく捏造された物語、いや、全部が全部ってんじゃなくって、捏造された箇所も多々あろうと感じられるのだが、これも、その一つではないか。
抑も日本武尊は一個の実在した人物でないかもしれない。だいたい、日本武尊の九州・出雲侵略物語は、なかなかリアルで、まぁありそうな筋立てになっている。が、蝦夷東征の話は、海神は登場するわ、山神は鹿や蛇になって出現するわ、挙げ句の果てに武尊が白鳥になっちゃうのだ。ハッキリ言って、伝説とも言えない。神話である。神話だったら神話らしく、派手にしてもらいたいものだ。どうせ、嘘なんだから。なのに、わざわざ神剣を持ち出しといて、ありそうではあるがそれだけに卑小な話に擦り換えるってのは、納得し難い。事実、元になる事実があったと仮定しての話だが、事実としては草を薙いだだけでも、折角の神剣・「天叢雲剣」、抜けば雲が立ち上る剣を引っぱり出したのだから、嘘でもドピュピュと水が迸ったと語ってこそ、神話の面目である。
日本書紀(の原型)作製事業を夫・天武から引き継いだ持統に、話題を振ろう。「草薙剣」に祟られて天武が死んだ直後、彼女は天武の子の一人、しかし彼女の子ではない大津皇子へのテロを強行した。まぁ、一応、「謀反」の張本人として処罰されたことにはなっている。このとき大津は筋骨逞しく才覚ある二十四歳、皇太子で持統の息子・草壁皇子(三十前で若死)よりも、帝王としての資質に恵まれていたやに思われる。自分の息子よりも出来の良い、同年輩の偉丈夫・大津を、持統はジトォと陰湿な目で眺めていたに違いない。大津は謀反の疑いにより、捕らえられ「賜死」、殺された。この時、妃の皇女山辺は、髪を振り乱し裸足のままで夫・大津のもとに駆けていき、殉死した。御用史書・日本書紀でさえ、皇女山辺に対する同情を隠していない。そして、大津と共に逮捕された三十余人は、一人が伊豆に流され、一人の僧が飛騨の寺に転勤になったのみ、他は放免された。謀反事件であるにも拘わらず、である。此の「謀反」は大津の心に巡らされたものではない。如何やら、持統の心の裡にのみ存在した「謀反」事件であったようだ。彼女にとって、彼女の心の裡に浮かぶ景色こそ、現実であった。きっと美女だったとは思うけれども、こういう女性は付き合いにくい。
事件が終息して二カ月、年が明けた。持統元年である。日本書紀は、持統の時代が始まる直前に、次の記事を挿入している。「是歳(朱鳥元年)蛇犬相交俄而倶死」。持統時代の幕開けを予告する記事が、「蛇が犬とセックスした。共に死んだ」なのである。
性交の至福は、結果としての<小さな死>である。共に相果てる死福、じゃなかった、至福。「わぅん、わぅん、蛇さん、蛇さん、アタシ、もぉ……、し、死ぬ、死ぬぅっ」「犬さん、犬さん、はぁはぁ、ぼ、ボクも、逝くうっ」「蛇さん蛇さん」「犬さん犬さん」……ドッグ・スタイルの犬さんとニョロニョロ蛇さんの交歓、微笑ましい情景だが、彼らの絶頂/小さな死を、事実として、日本書紀は語っているのであろうか。……多分、違う。本人(?)らにとっては、かけがえのない事柄だが、国史の冒頭に記すべきことではあるまい。字面通りではなく、何かを象徴していると考えた方が良さそうだ。
さて、動物を五気に配することは難しく、諸説あるのだけれども、差し当たって此処では、犬を金気、蛇を水気と考える。礼記月令に拠れば、秋の七八九月、天子は犬を食うことになっていた。秋は金気の季節である。月令のスケジュール表は、天子の規則正しい生活により、四季の推移を円滑ならしめるためのものである。特に食事は、自然との<一体化>という重要な意味がある。故に、天子が金気の季節に犬肉を食うとは、犬が金気の動物であることを示していよう。蛇が水気であることは「黒き衣の神」でも述べた。付け足すとすれば、八犬伝に於いて、蛇の眷属・蜥蜴が登場し、雨を降らせる呪術に用いられていたりする。また、やはり蛇の親玉・龍、安房へ逃げ出す義実の前に現れた白龍が登場すると同時に、集中豪雨となった。龍の出現に雨/水は付き物なのだ。更にまた、各地のの民話に大蛇が沼や渕の主として多く登場する。八犬伝でも昔話として、沼の辺で義実の父・季基が大蛇を退治した話が語られている。蛇は、やはり、水っぽい生き物のようだ。このように考えてみると、蛇と犬とのセックスは、水気と金気の合体であることに思い当たる。いや、合体するだけではない。合体して、共に死ぬのだ。
合体するのみならず、彼らは死ななければならなかった。共に葬り去られねばならなかったのだ。執拗なまでに私は、天武・持統朝が火気の王朝であると述べてきた。いや、別に固執しているワケでもないのだけれども、そのように感じられるのだ。そして、火気なる王朝を主宰する持統が恐れたのは水気であり、金気なる大友の怨念ではなかったか。天武の子でありながら、大津皇子は子供の頃、天智に寵愛されたと日本書紀には書いている。本当だか如何だか分からないが、兎に角、天智を引く近江王朝と敵対した持統にとって、大津を憎む理由にはなる。そして、話が前後するけれども、抑も大海人/天武が皇位継承権を放棄した事情が尾を引いているかもしれない。大海人は、死の床にあった天智に呼ばれ、皇位を継ぐよう命じられた。が、断って出家、吉野へ下った。天智紀を読めば、これは尤もなことではあった。天智は弟の大海人を皇太子にしていたが、息子の大友が成長すると、どうも出来が良かったようだが、太政大臣に任じた。太政大臣は、国政を総攬する、天皇の代行者と言える。朝廷を支える大豪族五が、大友のもとに団結してもいた。簡単に言えば、大海人は即位したところで、馬鹿みたいに蚊帳の外に置かれる体制が整っていたのだ。即ち、天智の構想では、大友が実質的な皇太子であり、大海人が中継ぎに過ぎないことを意味している。はっきり言えば、大海人は、邪魔者なのだ。
また、此の様な状況下、目の前で死の床に伏している天智は、大海人にとって、憎悪の対象でしかなかった。孝徳天皇の皇太子として白雉なる年号を宣言し、献上された白雉を喜んだ、金気の王・天智は、大海人にとって、滅ぼすべき相手であった。が、それ故に、大海人は、相手が自分に対して最悪の行動をとると頑なに信じていたかもしれない。其の疑惑を決定的にしたのが、友人・蘇我安麻呂の耳打ちであった。天智に呼ばれた大海人に、この招聘に「裏がある」と仄めかしたのだ。其処で大海人は、皇位継承を拒否した。多分、大海人は、自分が皇位継承を承知すれば、其の言葉を捉え、<皇位に野心あり>として、殺されると疑ったのだろう。
そして、大友を補弼した五人の大豪族に、蘇我赤兄がいる。彼は山辺皇女の祖父に当たる。彼の娘が天智と結婚して出来た子が、山辺皇女だ。翻って、持統も天智の娘である。が、彼女は蘇我倉山田石川麻呂の娘と天智との間に生まれた。倉山田石川麻呂の娘が何故に天智と結婚したかといえば、中臣鎌子、いや女性ではない、藤原摂関家の遠祖となった男だが、彼の策略によってである。当時、蘇我馬子が権勢を振るっており、其れに嫌気が差した天智/中大兄皇子は鎌子と暗殺を謀った。其処で、有力豪族であった倉山田に援助して貰おうと、娘との結婚を申し込んだのだ。が、後に倉山田は中大兄に謀反の疑いをかけられ逃走、妻子と共に縊り死ぬ。また、倉山田の孫・持統を子供の頃に可愛がってくれただろう取り巻き連中が、多く虐殺された。倉山田は死後、無罪を認められたという。
山辺皇女の祖父は、大海人の敵対者、天智・大友皇子を支えた蘇我赤兄であり、持統の祖父は天智に利用された挙げ句死に追いやられた蘇我倉山田石川麻呂であった。天智を軸に、山辺と持統は敵対し得る関係にあった。そして、持統は、山辺を死へと追い詰めた。大津皇子へのテロは、持統にとって、父であり憎悪の対象であった天智の記憶を拭い去るために、必要な行為であったかもしれない。夫・天武が死に、彼女は敵対し得る者を、完全に抹殺せねばいられなかったのだろう。
蛇と犬が腹上死/腹下死した事件は、持統時代の幕開けに不可欠な記事だったのだ。火気なる王朝を滅ぼし、もしくは敵対する者が、既に消滅したことを宣言せねば、少なくとも彼女は安心できなかった。
日本武尊の話題に戻ろう。武尊が草を薙いで助かった伝説、はっきり云えば、神話の歪曲と考えられる。持統もしくは彼女に連なる者は、火気であると自ら規定した。自分たちがしがみついている権力の正当性を象徴するモノに、水気なるものが紛れ込んでいることを、明確には認めたくなかったのだ。が、史書は、完全には<捏造>できない。証人がいる間は。だから多分、武尊が草を薙いだだけの説話も、マイナー・ヴァージョンとして残っていたのだろう。辻褄の合わないモノでも、其れを制式採用してしまえば、主流となる。天叢雲剣が水気の剣であることを如何にか隠蔽できる。翻って、此の神話、原型は天叢雲剣が景気良く水を迸らせるものであった可能性だってある。何たって、迫り来る火炎を退けたのだから。
水を迸らせる剣を持つ美男子……これで西征のときみたいに女装してれば、<水芸の御姐さん>だ。女装……美男子……水気の剣……、水芸の御姐さんと見まごうばかりの華やかなる人物が、そういえば、八犬伝にも登場する。言わずと知れた、犬塚信乃だ。が、まだ、彼に就いて語るべき時ではない。だいたい、予定では今回、「白き衣の女」に就いて語る積もりだったのだ。しかも、タイトルにもなっている思わせぶりな「吾嬬者耶」に就いて、まだ何等語っていなかったりする。ごめんなさい。予定が狂ったのだ。まぁ、良い。次の機会に回そう。それでは、今回は、此れ迄。
(お粗末様)