★伊井暇幻読本・南総里見八犬伝「最後の審判」★
此処で事件を評して馬琴が地の文「抑この時に当て京師にて武芸をもて五虎の称を得たりしは、秋篠広当をもて第一とす。シカるに広当は素是温順の君子にて己に勝るを仇とし憎む那小人們に同じからねば機変破滅の田地に入らず。造化易るに紀内平五景紀をもて充しに時の人は旧に因て猶是をしも五虎といふめり。蓋広当が賢にして五虎の称に数まへられしは、瓦礫の中なる片玉なりき、と心ある者はいひけり」(第百四十五回)。
此の一文に、「虎」の問題が巧く説明されている。補助線は、広当だ。当初、「五虎」は柔術捕縛術の無敵斎経緯、剣術の鞍馬海伝真賢、鎗術の澄月香車介直道、騎馬砲の種子嶋中太正告、そして弓術の秋篠将曹広当だ。此処で「五虎」の表面上の意味合いは、京で上位五人の武芸者ぐらいのものではあるが、加えて変態管領政元と関係がある者に限定されている。しかし「五虎」が紹介された直後に、本物の虎が登場する。いやまぁ実際には動物園にいる「本物の虎」ではなく霊的な存在だったわけだけれども、此の画虎登場後、「五虎」が変質する。変質者だけの集団になっちゃうのである。投石術の紀内鬼平五景紀が加わり、広当が離脱するのだ。「広当は素是温順の君子にて己に勝るを仇とし憎む那小人們に同じからねば機変破滅の田地に入らず。造化易るに紀内平五景紀をもて充しに時の人は旧に因て猶是をしも五虎といふめり」である。だから広当は画虎が出現した途端に「五虎」から抜け、即ち政元から離れることをも意味するのだが、本職の北面武士として政元とは無関係に天皇警護の任に就く。一方、虎に備えた新「五虎」は私怨に因る同士討ちの挙げ句、まさに(作為的な流言ではあったが)虎を恐れた雑兵たちに鏖滅される。「五虎」から抜けた広当は後に勅使として、安房へ帰ろうとするムチムチ親兵衛の尻を追い掛け回して掴まえて、道端の仏堂に引き摺り込み這い蹲らせたと思ったら、ガンガンに責め上げ泣きじゃくらせて、交感するに至る(←別に嘘は言っていない/第百四十九回)。親兵衛の奴、とんだ於兎子……男殺しである(麗しの稚児が親兵衛と密接な関係にあるならば、やはり【於兎子殺し】事件に親兵衛は責任がある)。いや、マコトに男殺し此の上ない。犬士なかんづく親兵衛は伏姫によって聖別された存在である。読者の完全な同化を拒むかも知れない(ってぇか読者の方が無意識のうちに拒む)。が、広当は、まぁ通常の人間としては最高度の武人とはいえ、所詮は普通の人間だ。まだしも同化し易い。其の普通の人間が、化け物/親兵衛を泣きじゃくらせるとは、【身分違いの姫/皇子/アイドルを陵辱し完全に性的な支配下に置こうとする制服マニアならぬ征服マニア】隠微で淫靡なファンタジー、男女共通の闇い欲望を密かに満たすかもしれない。大衆小説の筆法である(一旦交感した動物が献身的に助けてくれるなんてのも単純なるリバース、同じ穴の狢だろう)。
簡単に云えば、元々の「五虎」は【猛武】ぐらいの意味で【政元寄り】のニュアンスをもつが、本物の虎が登場すれば【人たる虎】は苛政もしくは圧政、権を私物化した者達の謂となる。象徴的意味合いへの移行だ。だから、新たに悪人・紀内平五景紀が「五虎」に加わり、広当が抜けるのだ。広当は京で最高の武芸者だが善い人なので、「五虎」の条件が【猛悪】に変わると当然、抜けなければならない。また、「五虎」の条件であった「政元寄り」は引き続いて生きている。其の意味でも、政元支配下から離れ天皇直属の本来的立場(親衛の武士)に戻った広当は、資格を失っている。此処に於いて、本物の虎(何等かの仏性によって準備された画虎)は悪人を懲らす通りすがりの暴風雨みたいな存在となり、【人たる虎(五虎)】こそ人々に悪を為す者として強調される。だからこそ外ならぬ親兵衛は、政元に虎退治を依頼されたときグズつく。
◆
孔子家語に、孔子泰山を過るとき、婦人の哭をうち聞て其の故を問へば、対て曰、舅と夫と及児子さへ皆虎に喫れたり。シカらばなどて他郷に去ざる。否とよ、この地方には苛き政なければなり。孔子是を聞て歎ずらく、噫苛政は虎よりも猛かりき、といへる故事も候ひき……
◆
苛政は虎よりも猛かりき。「悪人の方が猛獣たる虎より始末が悪い」を地で行ったのが新「五虎」事件であったのだ。しかし、実際に虎が暴れ回っているのに、「別にイィぢゃん」との態度をとる親兵衛は、やはり怪しい。此のように自信タップリに「あの虎なら大丈夫、政を正せば自然といなくなるよ」と言える者とは即ち、虎の関係者だけだろう。やはり、於兎子によって於兎子の男(夫)とデキてると堅く信じられた男の子(うるはしの稚児)は、政元に懸想され囲われた親兵衛のドッペルゲンガーもしくは、高次に於ける根を同じうする何者かを、三次元に投影した存在であったと考えるべきだろう。後に実体化する虎画を描かしめた者(うるはしの稚児)と通じる親兵衛だからこそ、其の虎を消滅させることが出来たのだ。虎自体は道具に過ぎない。
また、うるはしの稚児が信奉する寅童子、薬師瑠璃光如来を守護する十二神将の東方担当は、徳川家康ゆかりの仏でもある。家康は天文十一年十二月二十六日午前四時頃に生まれたとも言われている。即ち、壬寅年の寅月の寅日の寅刻である。また誕生の瞬間、三河国設楽郡鳳来寺の本尊薬師十二神将のうち金比羅神(寅童子)が消え、家康没後に再び現れたなんて神話がある。親兵衛は、文明七年すなわち乙未年ではあるが、師走に生まれた(第三十五回)。さて「偶然」が幾つも重なれば、やはり「作為/作意」が浮かび上がる。裁判では推定無罪原則により、有罪には出来ないが、此処は裁判の場ではない。親兵衛ひいては八犬伝と家康との関係は、政木大全やらも補完して用いれば(「準犬士・正木大全」)、ほぼ認定できる。
とはいえ、家康そのものへの回帰を馬琴は望んでいたのだろうか。そうではないだろう。江戸期の所謂「改革」は、総て東照大権現様(家康)への復古を標榜してはいた。しかし結局は、「大厦の覆んとするときに、一木いかでこれをササエん」、幕府は潰れる。また、此の「東照大権現様」は、前例主義の硬直せる組織が弄する常套句に過ぎず、「改革」のイーワケに過ぎぬ。前例主義は、まずは直近の例を参照するのだが、前例は重ねる毎にズレてくる。状況も組織の構成員も違うのだから、当たり前だ。故に殆ど「前例主義」とは、徐々に変化するための形なんであるけれども、「徐々に」であるから現状にキッチリ対処は出来ない。後手に回る場合が多い(いや後手に回るならマダシモ、トンチンカンに陥る場合も多い)。そんな時、思い切った「改革」をしようとすれば、徐々にズレてきた当初の事象を検証し、現状を改革するに都合の良い論理を発掘するなら、まだしも「前例」なる言葉の魔力によって、正統性を纏うことが出来る。結局、そぉいぅ都合の良いモノとして持ち出された「家康」だろうから、それは既に実存としての「家康」ではなく、「理想」に「家康」と名付けているに過ぎない。言い換えれば、「家康」は捏造されし【最強の前例/理想】だ。現状を改革する為のイーワケとしての意味しかないんである。幕府の裏面たる弾左衛門から独立するため東照宮へと繋がった、日光神領猿牽の論理である。
飽くまで其の意味での「家康」は、八犬伝にも必要であった。幕府を否定する為に、幕府さえも否定し得ない東照大権現を持ち出しイチビッたのだ。此と対極にある視点が、大塩平八郎の乱だ。平八郎は、大坂東照宮に砲弾を撃ち込む。即ち暗愚な幕府の権威源泉としての「家康」を否定することで、幕府を否定しようとした。成功すれば平八郎の戦術の方が、改革を徹底化できはする。が、天保八年段階で、幕府の実力は、まだまだ強かった。既に屋台骨が朽ち果て尽くしていたならば、五十年遅れた仏大革命となったかもしれない(故に明治維新なんぞ比べものにならぬほどの血が流されたではあろうが)。まだ幕府の屋台骨を揺さぶり蝕む段階であって、倒す機は満ちていない。言い換えれば、「家康」自体をアカラサマには否定する段階ではなく、「家康」を利用しつつ眼前の(当然の如く「血」なぞで資質すべてが継承できる筈もないが、一応は「家康」を継承してきている筈の)幕府を揺るがすべき段階だ。馬琴のスケジュールでは、「百年以後の知音」を待って初めて改革が徹底し、八犬伝が読み解かれることになっていたか。都合良く利用した「家康」を、結局は使い捨てるよう予め、八犬伝は予定していたと見るべきであろう。古川柳なんかでは「虎」といえば「家康」を暗示し得るんだが、八犬伝に於いて、画餅ならぬ画虎は、単に悪を懲らすためだけに引っ張り出され、用済みとなれば使い捨てられる消耗品に過ぎないのだ。空恐ろしいまでの道具主義であり、合理主義だ。即ち、儒教的なんである。まぁ権力なんざ何時だって、消耗品なんだけれども。
えぇっと要するに、薬師十二神将が象徴する【世界】が、第一回親兵衛上洛の背景として在り、上洛譚の前段として在る結城法会で語られた猿牽から始まって、徳川家康って人名が薬師十二神将なる言葉から浮かび上がってくる。八犬伝刊行時の権力とは江戸幕府だったわけだが、家康は幕府の権威源泉であったが故に、日光猿牽の如く家康と直接に繋がることは、幕府権威超越を可能とする。薬師十二神将が八犬伝に関わっていることは、「南総里見八犬伝第九輯巻之二十九簡端或説贅弁」
◆
嚮に友人告ていへらく或云本伝第九十九回素藤鬼語を聞く段より第百四十九回一休画虎を度する段まで事々物々怪談鬼話ならぬは稀なり。且上に十二地蔵の利益あり、下に薬師十二神の霊異あり、又前に狸児の怪談あり、後に画虎の怪談あり。
◆
とあるので明らかだろう。
ついでに云えば、「十二地蔵」は、猿牽の話題が持ち出された結城法会に登場する。法会には、星額はじめ十人の僧(地蔵)が里見季基の遺骨を携え参列する。また、法会に熱中する丶大・七犬士らに、悪僧・徳用が攻めてくると情報をもたらした鼻の欠けた「衰老法師(後の記述は乞丐坊・法師)」(第百二十四回)、及び親兵衛または照文に情報を与えた法師で「十二地蔵」だろう。第百二十七回に、
◆
親兵衛嗟歎して、そは勿論の事ながら、■(郷に向)我們路次をいそぎて諸川を過る折、前面より来ぬる一個の法師が■(口に自)們をヤヤと喚住めて和君達は今日丶大庵の念仏供養に会んとて結城に赴き給ふなるべし。いまだ知せ給はずや、件の庵主は今恁々の地方にて一路児と共侶に免れかたき急難あらん。その故は箇情々々恁々の情由ありとて庵主の宿願成就の事、星額長老師弟の事、又先君季基朝臣の遺骨の事、又施行の折に来にける乞丐法師の忠告の事の趣、逸疋寺の住持徳用その徒弟堅削們が悪心邪議を幇助ぬる結城の驕臣経稜・素頼・惴利們が詭詐の緝捕の事、又犬山・犬阪・犬飼・犬川・犬田・犬村の義兄弟は塔所の茂林をはやく立去りし事この余念仏供養の光景、姥雪叟は故主の随意与四郎の与を改めて代四郎与保と喚る丶ことまで漏さで具に告らる丶言約にして諄からねば……
姑息して照文がいふやう、是も亦犬江生、聞知られしか知らねども卑職この地に来ぬる折、丶大庵をたづね難て殆困じたりけるに奇しき法師に案内をせられて面会の本意を遂にき。矧亦星額師弟の石塔婆の奇工あり、乞丐法師の忠告あり、是に由て彼を思ふに和殿に先機を告し法師は権者の化現なるべきか。いと憑しく候……
◆
とあるので、親兵衛と照文に情報を伝えた僧を別に数えれば「十三」になる。また、不思議の僧は今一人登場する。
徳用らの攻撃を凌いだ丶大一行は古い大伽藍に辿り着いた。直塚紀二六に命じて見に行かせると、「昔はしかるべき大刹なりけん。今観る所は荒果て草茸々たる処々に柱礎の遺れるのみ。遮莫庫裏は猶これあり。其も甍は堕砕けて雨はさらなり月も漏るべく白壁壊れて骨の顕れたる処■(虫に喜)手形なる窓に似たり。然ば柱斜にして片仮名のノの字の如く簀子は朽て燕子花なき八橋かと疑る。恁れば守る者候はず。但庫裏の背のかたに褊小なる白屋あり。其首には年六十許なる一個の法師が柱に背を凭けて打■(目に屯)して在りしかば山号寺号を問んと思ひて、しばしば喚覚し候しに熟睡したるか聾児なるか、応ぜざれば術もなく」(第百二十七回)。しかし一行が訪ねると「白屋」に法師は居なかった。シリーズ当初から、源里見を白で象徴される金気とし、里見もしくは犬士らが「白屋」で泊まるなどすれば、まるでHP回復ゾーンのように事態が好転することが多いと指摘している。寺で休息をとる一行と離れていた信乃は浄西が住んでいた地蔵堂に行き着き、食料を得た。徳用に遭遇するが、徳用は仲間と同士討ちする。倒れた者は、信乃を信州で罠に掛けた出来介であった。正に出来すぎだが、気にしないようにしよう。
如上、実は「十四地蔵」の可能性だってあるんだけれども、馬琴が「十二」って云ってるんだから、「十二地蔵」なんだろう。と、此処まではオサライであって、読者御存知の事だ。付け加えるべきは、何故に十二地蔵が法会に参列する十人と、情報を伝える二乃至三人(及び安息の地「白屋」を明示する六十歳ばかりの僧)に分けた理由だ。だいたい地蔵とは、五十六億七千万年後に弥勒菩薩が救済のため降臨するまでの間隙を縫って、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)を輪廻する人々を救済する。六道それぞれの担当者がいて、色々に呼ぶが、檀陀・宝珠・宝印・持地・除盖障・日光の六体セットって言い方もある。曼陀羅に登場するときは菩薩形(ゴータマさんが王子だった頃を模しており冠や装飾具を着けた王侯の姿。観音様みたいなやつ)だが、少年僧の姿(比丘形)が一般的か。つんつるてんの頭に、額中央の印が印象的だ。額の印は所謂「白毫」であり実は巻き毛なんだけれども、実写怪獣活劇の如く此処からビームが出る。叡智の光だが、智恵によって魔を消滅させるのであつて、正義の味方のビーム武器と解すれば、通りが良いか。額に輝くモノ、である。「額の星」と呼んでも可であろう。六地蔵の一は「宝珠」であるが、星額の師匠の名でもある。また字義通り星を星、宝珠を宝珠と考えれば、犬士の「玉」が、空に煌めく北斗と北辰、丶大が輔星ぐらいに感じられてもくる。
また、身代わり観音ならぬ身代わり地蔵なる分野もあり、坂上田村麻呂を助けた地蔵の話は既に紹介した。子供の姿で悪馬を働かせたり誰かの代わりに怪我をしたりして、篤信の者を救う逸話は、各地の民話に残っている。変身して人間(じんかん)に化現しがちな仏であるから、十二人の僧侶となって現れることに、違和感はない。また、上記の如く地蔵は六体組で語られるのだが、「十二地蔵」は二倍体だ。他に「二十四地蔵」なんて四倍体もある。とにかく基本は六地蔵だ。
一方、十王地蔵ってのもある。此は六道のうち地獄をも地蔵が支配していると考え、冥府の判官(閻魔と格下の九人)計十人の実体が地蔵だとする説に拠る。死者は初七日に秦広王、二七日(十四日目)に初江王、三七日に宋帝王、四七日に五官王、五七日に閻魔王、六七日に変成王、四十九日に太山王(泰山府君)、百日に平等王、一回忌に都市王、三回忌に五道転輪王の前で裁かれる。ただ、馬琴の「燕石雑志」鬼神論にも「塩尻云、玉笑零音云、人之初生以七日為臘而一魄成、故七七四十九日而七魄具矣、一忌而一魄散、故七七四十九日而七魄散、故知鬼神之情状、といへり。いにしへは亡者の追善四十九日にして止、この日七魄散ずる故なり。散じて後亦聚ることなし。譬ば春の氷の解るがごとし。その解んとするとき、まづ砕けて水の上に浮ぶものは、人死すといへどもその魂魄いまだ散ぜざるが如し。氷解て水に帰し、魄散て地に帰す。冤鬼は砕たる氷の水上に浮の類なりか丶れば鬼神も滅するときあり。冤鬼の説誣べからず」とあって、死後四十九日で霊は此の世から消滅し、彼岸に行ってしまう。十王も必要ではなく泰山府君までの七人で十分ではある。残り三人は、異議申し立てか控訴・上告ってことになる。ために古代には、【此の世で最後の判官】泰山府君への信仰が厚く、毎度お馴染み藤原頼長なんかも泰山府君を祀って喜んでいた。しかし十王では物足らなかったらしく、十王に代えて十三仏なんてものが発明された。七回忌に阿閃如来(蓮上王)、十三回忌に大日如来(抜苦王)、三十三回忌に虚空蔵菩薩(慈恩王)を当てた。親の三十三回忌を祀る為には、かなり寿命が長くなければならないのだが、昔って、そんなに平均余命が長かったか? 因みに十三仏を十王に配当すると、不動明王・釈迦如来・文殊師利菩薩・普賢菩薩・地蔵菩薩・弥勒菩薩・薬師如来・観世音菩薩・勢至菩薩・阿弥陀如来の順となる。此の相当でも閻魔と地蔵が組み合わされている。「地蔵と閻魔は一仏二体。慈愛粛殺異なれども倶に能化の教主なり」(第九十回。船虫虐殺の前段)である。また結城大法要は合戦の四十二回忌であるから、少なくとも十四仏が必要となるけれども、馬琴にも色々事情があったのだろう。
結論を急ぐ。「十二地蔵」は本来的な地蔵信仰「六地蔵」の二倍体だが、うち十体を取り出し「十王地蔵」に関連付けることで、死せる義人烈女に肯定的な【最後の審判】を下している。単なる結城合戦戦没者追悼ではない。そうでなくて薄幸の別嬪人妻・手束まで祀られる筈もない。義人に永遠の幸福、罪人に永遠の呵責を与え、新たな千年王国が……と単純な二元論では捉え切れぬ、差し当たっての「小団円」である所の最後の審判、闇に生じ光に満ちた物語は、再び闇の大団円へと転がりだしていく。(お粗末様)