★伊井暇幻読本・南総里見八犬伝「馬とか虎とか動物園かい」★
猿牽の本来的機能は、獣医であった。別に科学的な治療を施すわけではない。猿を舞わすことによって、馬を元気づけるのだ。日光東照宮の厩舎にも、見ざる言わざる聞かざるの三猿が彫り込まれている。弾左衛門が江戸及び関八州(および陸奥など計十二国)の穢多支配を認められるに至った由来は(弾左衛門が主張する所に拠れば)、関東入国のときに家康の乗馬が病に倒れ、猿牽を率いて弾左衛門が駆け付けたことに求められる。当時、家康の愛馬は「花咲」であったが、恐らく其の時に死んだ。が、弾左衛門側は治療に成功したと伝えている。待てよ……「花咲」である。そういえば、親兵衛に付き従っていた花咲翁がいる。花咲(翁)に【乗る】って、そりゃぁ莫逆に過ぎるだろぉと心配するムキもあろうが、愛さえあれば(?)年上だって親兵衛は厭わない。その証拠に彼は後に九歳年上の静峯と結婚する。いや抑も別に「乗る」と申して必ずしも【能動的行為】を意味しない。
昔、或る女性に聞いたのだが、馬並みと迄は言わず、男のがやや太い場合、女性は痛む場合があるという。相対的な大きさの問題であり、相性ってヤツだ。そんな時、女性は騎乗位をとると幾分楽になるらしい。自然と広がるからだろうか(いったい何が?)。細川政元や枝独鈷素手吉の獣欲を掻き立てる妖艶さが無垢未経験の者にあるとは余り思えないんだが、年齢不相応の体格とはいえ、まだ十歳の親兵衛ならば狭隘であろうから、【受動的行為】であっても、白く豊満な胸を揺すりつつ「乗る」ことは極めて自然だ。抑も「騎乗位」とは受動側の姿勢であつて、即ち、馬に譬えられる方が、能動的行為をなすのである。故に、「花咲」が乗られるとしても、馬と重ね合わせれば、決して莫逆ではない。親兵衛が政元に軟禁されたとき、花咲翁・代四郎が殆どヒステリックに政元の悪態を吐く場面は、親兵衛との関係が主従の一線を越えてしまったが故の嫉妬を表している……とは勿論、筆者は考えていないけれども、読者は御自由に。
えぇっと馬の話である。親兵衛の愛馬は「青海波」と、政元からプレゼントされた「走帆」だ。如何な馬かといえば、
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身材いと高くして常馬の優れること三四寸、其鬣と尾と四足は白きこと雪の如く其余は全身蒼かりけり。当下政元又いふやう、やよや親兵衛、那馬は、近日我封内阿波国美馬郡剣峰より忽然と出し来れる是蓋世の竜馬なり。我是を獲てしより走帆と命けて鍾愛す。実に是千里の能あり……中略……といはれて親兵衛、遽しく席を避け額を衝て、こは辱き御賜この馬妙相皆具して欠たる処候はねば千里の駿足たること疑ひなし。且那毛色も奇妙にて実に蒼海洋を走る白帆に似たるをもて如右名つけさせ給ひしは名詮自性、亦妙なり……中略……在下東藩に在りし時、我老侯の賜はせし青海波の名馬あり。其も亦千里の駿足にて善この馬と相似たり。且青海に走帆は妙対暗号、奇にして妙なる名号宜きのみならず在下這回の上京は難波の浦まで水路にあなれば名青海波を牽せざりしに……後略
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即ち「青海波」を安房に残してきた親兵衛が偶々得た現地妻……ではなく乗馬で、安房ならぬ阿波剣山(昭和まで四国最高峰と考えられ、実は最高峰だった伊予石鎚山と同様に修験道の霊地)で近日忽然と現れた駿馬であった。体毛は、信乃の愛犬・与四郎のヨツシロに庶(ちか)く、四つ足と鬣・尾が雪のように白かった。それ以外が黒。蒼海洋/青海原を走る白帆に似ているため、「走帆」と名付けられた。「走帆」は蜑崎照文の紋所でもあるのだが、其処までは言わない、阿波といい、青海原と縁ある形状といい、最近霊山に忽然と都合良く現れたことといい、とにかく馬琴が親兵衛に乗らせたくて登場させた、特別な馬であること明らかだ。
此の馬は、親兵衛と共に虎と戦った勇馬であったが、京から安房への帰途に斃れた。だって現地妻を安房へは連れて帰れないだろう……ではなく、京都に於ける青海波として急遽出現した虚花たる馬は、実花たる青海波とは併存し得ない。消えて貰わねばならぬ。また、体毛が与四郎に庶いことから、与四郎/「花咲」の翁の【代わり】として活躍するやにも見える、雪降って庭駆け回るか、「姥雪代四郎与保」が、京都にいる間中、親兵衛の後見人気取りである点と関わるか。そして復た、ヨツシロの走帆に乗る親兵衛は、与四郎犬に乗る女装美少年・信乃にも擬せられていよう。え、親兵衛は女装してないって? 大丈夫、女装こそしていないが親兵衛は、細川政元によって、しっかり性的に受動の位置すなわち女性に準ぜられている。孔(あな)さえあれば、美少女も美少年も、殊更とり立てて差別することはあるまい。入れる所だって一寸/ちょっと/三センチばかりしか、離れていない。入れる瞬間、少しく狙いを過てば間違う程の僅差だ。所詮は、大脳の遊戯、両者の差異を強調し過ぎるは無粋だろう。
そして「虚花と実花」では、京に於ける親兵衛の虎退治は、対関東管領戦の虚花であると断じた。親兵衛は、一世一代の大征伐戦の帰途、青海原に縁ある愛馬「走帆」を喪うのだ……そぉいや、そんな奴が八犬伝の外にも居た。源八幡太郎義家だ。彼は一世一代の対外戦争「奥州征伐」の帰途、江戸で愛馬を喪ったのではなかったか。其の愛馬の名は……えぇっと、そぉそぉ「青海原」ではなかったか。犬士の中核的存在ともされる親兵衛が、八幡神の申し子として社頭で元服した源氏の棟梁、太郎義家とニアミスを犯す。親兵衛と八幡太郎義家、両者の輪郭がブレて一瞬重なる。重なり合った輪郭は、八幡神の其れか……。観音/天照/神功皇后が脇侍として寄り添う、あの阿弥陀仏を本地とする、八幡神である。富山で観音/伏姫に寄り添われ育った親兵衛の、面目躍如だ。
源姓である里見義実は当初、頼朝の再来っぽく描かれる(里見軍記など現存する安房里見関係文書は里見義実自身が事実たどった経緯といぅより頼朝の事跡を単純にトレースさせたフィクションとしてしか読めなかったりする)。だから義実は八幡神の多大な庇護を受けるんであるが、天台仏教神道なんかでも八幡/阿弥陀は観音と置換可能であるし、馬琴が縁起を書いた両子山(天台系修験道の拠点)なんかでも、阿弥陀・観音両者の間には緊密な関係が看て取れる。
かなり余計な事どもをも語ったが、犬村角太郎礼儀こと大角の山猫退治には、淡く「杜子春傳」が感じられる。大角の無言行は、いや仏道修行としての無言行は一度目の現八訪問によって破られるのだが、「杜子春傳」と重ね合わせれば【己の感情を閉じ込める】ことこそ「無言行」の意味であるに因って、偽物の父(実は山猫)に抑圧され己の感情を強く表出しないうちは、象徴的な「無言行」と見做して宜しかろう。それが破れるのは、妻・雛衣が胎児を差し出すよう迫られた時……ではなかった、此の時さえも大角は、「そなたへ膝を推向て、うちも見戍れば降そ丶ぐ、膝の涙も玉あられ、胸は板屋の妻夫、迭に顔を見あわして共に無言の告別(いとまごひ)」結局、雛衣を見殺しにしようとする。いや見殺しにした。雛衣は乳房の下に短刀を突き込み、真一文字に引き遶らせる。と、其の時、「颯と濆る鮮血と共に顕れ出る一箇の霊玉、勢ひさながら鳥銃の、火蓋を放せし如く、前面に坐したる一角が鳩尾骨■(石に殷/はた)と打砕けば」(以上第六十五回)……偽一角は倒れる。動転した偽一角の息子・牙二郎(やはり山猫)が大角に切りかかる。それでも大角は、牙二郎を異母弟だと思っているので刀を抜けず素手で防御するのみ。まだ「無言行」を続けている。隠れていた現八が漸く手裏剣を放って牙二郎を負傷させ偽一角の妻として大角・雛衣を虐待した船虫を取り押さえた。家族に手荒なことをしたと怒ったトンチンカン大角は、しかし現八が差し出す骸骨が実の一角だと悟り、漸く「無言行」から解放される。そう、「杜子春傳」と違って、母ではなく父の死を突き付けられて、初めて無言行/虚構の中の責め苦から、解放されるのだ。
尤も前に述べた如く、「杜子春傳」では杜子春と道士との関係は虚構ではなく、其の柵(しがらみ)の裡に眼前で起こった責め苦すべてが「虚構」だったのだが、八犬伝では大角の受難は虚構ではなく、【大角を捕らえる柵/親子関係】こそが「虚構」であったのだ。前提と結果が捻れ、全く逆転している。見事な翻案だ。
さて、此の悲劇は、実は現八が引き起こしたとも言える。偽一角が雛衣に胎児を要求した動機は、目の治療であった。深夜、化け猫の姿で庚申山を散歩していた時、通りすがりの現八に矢で射られたのだ。いや、現八を、マッチ・ポンプと責めているのではない。彼が射たからこそ偽一角は雛衣に胎児を要求した。自棄(やけ)になったか雛衣が切腹したからこそ、礼の霊玉は大角の手に戻ったのだし、大角は郷里を捨てて犬士の隊に入る。また雛衣に消えて貰わねば、犬士の一人として里見の姫と結婚できない。物語が進まない……ってぇか、「物語」なんだから、大角が犬士の隊に入ることこそ予め定まっており、其の結果へと導く為にこそ、庚申山の悲劇が起こる。そして悲劇は、偽の父へと孝養を尽くそうとするが故に最悪の結果に陥る大角を描いている。まるで中国の帝舜であり、礼の犬士として面目躍如たる所はあるが、読者にとって、かなりモドカシイ話だ。「其処までする事ねぇよ、その一角は父親ぢゃないんだから」。
……そぉ、八犬伝では、暴虐の抑圧者は主君たる資格を剥奪されるのだけれども、同様に暴虐の抑圧者は「父親ではない」んである。犬塚番作さんが息子・信乃のため進んで割腹するように、里見季基が自らの死を以て関東足利家の支配を帳消しにして息子・義実に独立の道を開いたように、親は子の為に命まで投げ出す。だからこそ、犬士は孝行息子揃いなのだ。片務的な忠が存在せぬ八犬伝では、片務的な孝もあり得ない。一応、八犬伝の書き方は、一角が偽物だったから大角を虐待したのだが、ここまで子を虐待する者は偽一角だけである。まぁ実の孫が拉致監禁され陵辱されているのにノホホンとしている里見義実なんて唐変木もいるにはいるが、霊的には外孫に当たる親兵衛を猫可愛がりして、「京で虎に襲われてるぅ」と心配する一面ももっている。結局、子を抑圧し虐待する者は、ひとでなし、親ではない。いいとこ山猫か何かが化けているのだ。よって孝を尽くすまでもなく切り伏せて顧みることはない。理不尽な家庭内虐待は、外の世界から来た親友によって解消され、友と共に外の世界へと旅立つ大角の悲劇は、一種の成長譚とも読める。ただ、雛衣の悲劇は解消されない。我々八犬伝読者は、雛衣は死して真には死なず里見の姫・鄙木に変換したと思い込んで、自ら慰めるしかないだろう。
前に大蛇と虎を【魔】の代表と考え、八犬伝に於ける両者を見ようとした。見ようとしたが、個々の話が魅力的過ぎて、かなりの贅言を呈してしまった。ついでに言えば、記紀からすると、深夜の庚申山で射抜かれた偽一角/山猫/虎の射抜かれた「左目」は月、日中の渕で射抜かれた大蛇の「右目」は太陽を象徴するか、では虎の左右両眼とも射抜くは日月/陽陰とも制御/支配する陽陰神/天照と重ねる所為か、はたまた親兵衛は故に陰/女性性をも多分に含み政元に犯され(そうにな)るのか、否か……。
立ち返れば、庚申山の山猫/虎は、家庭内で暴虐濫望性的放恣な抑圧的父親の「魔」か。里見季基が討った大蛇は、差別制度そのもの若もしくは其れを望む人の心性自体の「魔」だ。そして親兵衛が退治した虎は、彼此の立場を利用して相手の肉体を望むセクハラ男を象徴しているのだろうか……多分、違う。親兵衛の退治した虎は、元々「うるわしのちご」が竹林巽風に画かせ誂えようとしたものだ。此の稚児は、何等かの仏性、多分は寅童子本人であろうけれども、妙に男好きする所なんか親兵衛そのものだし(少なくとも巽風の妻・於兎子は、夫とデキてると信じ込んでいたし、一方で親兵衛が細川政元に男色関係を迫られている話が同時進行している)、虎トラ寅、寅は東方木気であり、木気の徳は「仁」である。「うるはしのちご」と親兵衛は、やはり無関係ではあるまい。
思い切って言うならば、「うるはしのちご」は、親兵衛と根を同じうする何者か、ではなかったろぉか。画かせた虎が実体化したら、今度は虎を射抜いて消す、現八同様のマッチ・ポンプだ。
巽風に虎画を注文し絵の手解きをする稚児は、於兎子に巽風との肉体関係を疑われた。於兎子(おとこ)が、自分の男と見知らぬ男の子が姦りまくっていると邪推したのである(あぁヤヤコシイ)。邪推して近所の樵(きこり)山幸樵六に頼んで稚児を殺そうと図る。待ちかまえた樵六は巽の家から出てくる稚児に発砲、が倒れた者は何故か於兎子であった。眩惑されたのだ。巽は其の場で樵六を撲殺し、まだ目を入れていない件の虎画を持って出奔した。色々あって細川政元が、虎画に目を入れてみろと巽風に迫る。渋々巽風は目を入れる。絵の虎は実体化し、巽風を食い殺し生首を銜えて細川邸を出る。追っ手は「洛外東の申明亭(ふだのつじ)」の前で「梟首俎(きゅうしゅだい)」に載せられた巽風の生首を見付ける。即ち巽風は公式の罪人同様の扱いを受けている。此は、虎が単なる凶暴な猛獣ではなく、公共の福祉を守る為に行為していることを示す。だから巽風のほか追っ手の雑兵や猟師やら旅人やら幾人も虎に食われて死ぬのだが、「皆是残忍貪婪不孝不義の毎にて好人は一個もなし。且善人は那山を夜芟に越れども虎に撞見ず。有恁れば是霊獣なり。世に民の父母たる者、をさをさ仁政を行ひ給はば征せずして那虎は必出ずなるべしと云、識者の批評聞ゆれ」(第百四十三回)と種明かしされている。馬琴の参考書「代酔篇」にも、
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虎
鉄囲山叢談云嶺右俗淳物賤始吾以靖康丙午来愽白時虎未始傷人独村落間竊羊豚或婦人小児呼躁逐之筆委置而走有客嘗過墟井繋馬民舎籬下虎来瞰籬客懼民曰此何足畏従籬旁一叱而虎已去村人視猶犬然十年之後流寓者日衆風声日変百物湧貴而虎浸傷人今則啗人与内地殊風俗澆厚亦及禽獣耶先王中孚之道信及豚魚知筆不誣(巻三十八)
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とある。そして八犬伝では、天皇にまで跋扈する虎の責任を問われた政元が、自分に巽風を紹介した骨董屋禄斎屋与市に責任転嫁し処刑、また虎狩りの軍事動員中、武将やら兵卒が互いに私怨やら戦線離脱を目的に殺し合う。作中で五山僧が「虎不害人、人反相害」と嘯くドタバタ劇が繰り広げられる。
どうやら霊獣で善人は害を受けないと思いはするものの、やっぱり虎は恐い。退治せねば人心が治まらない。京の治安に責任をもつ左京兆(左京大夫)でもある政元は遂に最後の切り札、親兵衛に虎退治を依頼する。とにかく虎を退治できねば、政元自身の責任問題に発展するのだ。この時まだ親兵衛の肉体を渇望している政元は、下心たっぷり、駿馬「走帆」を親兵衛にプレゼントしている。安房に残してきた愛馬・青海波に代え走帆に打ち乗った親兵衛は虎と対決、左右の目を射抜いて消滅させた。画竜点睛、点晴して実体化した虎であるが故に、目を射抜かれたら、画に戻るのだ。
一方、竹林巽風および画虎事件に先駆け、「五虎」なる者が登場する。武芸を試すと称して親兵衛に、在京武芸者上位五人との試合が命ぜられるのだ。柔術捕縛術の無敵斎経緯、剣術の鞍馬海伝真賢、鎗術の澄月香車介直道、騎馬砲の種子嶋中太正告、そして弓術の秋篠将曹広当である。五人とも親兵衛に敗れるが、中でも鎗術の直道は悲惨だった。親兵衛にボコボコにされた所へ投石術の紀内鬼平五景紀が助太刀に入り、思いっきり石を命中させたのだ、直道に。堪らず直道は落馬して、物嗤いの種にされた。対して広当は紳士的に対戦し「独秋篠広当は瓦礫の中の片玉なる哉。その言都て理義文明、実に君子の風あり」と称されている(第百三十九乃至百四十回)。で、第百四十一回から竹林巽風および画虎の話が始まるが、第百四十四回途中から、試合の遺恨が事件を呼んでいく。画虎が実体化したため、五虎のうちの三人が、政元の命で京都の警備に就く。北面の武士・広当は本来の職務すなわち天皇守護の役目があるため、政元の出動依頼には応じられない。また直道は将軍や同僚から白眼視され、自宅謹慎していた。一方で、直道の助太刀に失敗した景紀は、経緯・真賢・正告と共に、虎狩りの頭人として用いられる。直道は景紀を恨み、且つ疎遠になった経緯ら三人をも憎む。復讐しようと一計を案じ、虚言を流す。
「ある農民の夢枕に件の虎が立って言うには、『我に河を渡せじとて那河原を相戍る紀内鬼平五景紀・種子嶋中太正告・鞍馬海伝真賢・無敵斎経緯等は年来管領の恩顧を負て武芸に誇り気を使ふ不良の行ひ極て多かり。矧又其隊に従夥兵們も銭を欲りし酒を貪り毎に管領の権勢を借て市人の患ひを做すのみ、一個も好人あることなし。この故に我那河を渡すの日、頭人夥兵漏す者なく鏖にせまく欲す』」(此の流言は虎を悪人を誅する霊獣と認めている)。
河原を守る雑兵たちは浮き足立つ。まず正告隊の小頭・三田利吾師平が、虎とは戦いたくないし、家に帰るわけにもいかないと、南近江で幕府に反旗を翻し観音寺城に拠っていた六角高頼の手下になろうと呼びかける。折しも比叡山から下ろす強風に、河原の小石が吹き上げられ辺りが暗くなった。雑兵達は「虎嘯けば風起るといふ古語は是なめり」と算を乱して、近江路へ向かう。十五六町ほど行った所で日は将に山に沈もうとしている。逢魔が時、人に【魔が差す】時間帯、真賢隊の小頭・藻洲千重介が全隊へと急に呼びかける。何の手柄なく六角氏を頼っても受け入れてはもらえない。いっそ四人の虎狩り頭人が六角氏と内通し幕府に背こうとしたと訴え出て、家に帰る方がよい。引き返して四人を殺す提案。雑兵たちは賛成し、河原へ取って返す。同じ頃、計画が図に当たって雑兵たちが逃げ散ったと見て取るや、直道は酒肴を携え正告の守屋を訪問する。守屋には四人の頭人が集まり、雑兵逃散に就いて話し合っている。直道は挨拶に来たと上がり込み、宴になる。直道は、泥酔した景紀を抜き撃ちに斬り殺す。直道の助太刀も踏み込んで乱戦となる。そこへ戻ってきた雑兵が鉄砲を斉射し鏖す。吾師平・千重介が訴え出る。が、殺したと思っていた者のうち、直道の弟子・品塚赤四郎、正告の弟子・花下仇丶太郎が息を吹き返す。吾師平・千重介の企みが露見し、主立った雑兵らも斬首に処される。……さて、此の同士討ちは、何を意味しているかは、次回のお楽しみ。
(お粗末様)