★伊井暇幻読本・南総里見八犬伝「怪鳥を射ること」★

 駅鈴が十二ある理由を冒頭から述べようと思っていたが、気が変わった。少し休憩して、前回掲げた「東海道名所記」の続きを読もう。ちょっとした芸能蘊蓄となっている。考証の典拠となるものではないが、話として面白い。国史やら何やら、硬いものばかり紹介してきたから、軟派な話で骨を休めていただきたい。

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(承前)……中略……
そもそも浄瑠璃といふ事は、そのかみ九郎判官は鞍馬にそだちて牛若殿と申せしが十五歳の春、山を出て奥州に下りやはぎの宿の長者が家に宿をとりて長者がむすめ浄瑠璃御前は薬師の申子にてこの名を付たり。美人にて有しかば牛若殿これに忍びて契り給ひける事を、こと葉をつづけてふしをつけてかたりしより初まりて、余の事までも浄瑠璃とはいひつたへ侍るなり。
……中略……
そもそも歌舞妓といふは出雲の国大社の神子の舞そめしといふ説あり。それにはあらず、後鳥羽院の御時通憲入道は舞の上手にて、おもしろき舞の手をえらび出し、磯の禅師といふ女にをしえてまはせけり。しろき水干にさうまきの太刀をさ丶せゑぼしを引いれたりければ男舞とぞいひける。禅師がむすめ静といへる白拍子につたへ侍り。今やうをうたひて舞けるを後にはことがらあらけなく侍りとて、ゑぼし腰がたなをとどめ水干はかまばかりにて舞けり。歌をうたひて舞ける妓女なれば歌舞妓と名づけたり。さいつごろまでか遊女どもの舞けるに瓢金のとびあがりども、これに心をとらかされて、あるひは親の銭箱に合鍵をこしらへ、あるひは子もちの山の神が目をしのびて一跡のたからを質にをき、ひたゆきに行て見けるほどに、ゐ勢あらそひのはり合に、いさかひどよめき、こうびんさきをそがれ、にげ尻をきられて公事のうつたへをいたすものおほければ、国のさまたげ人のわざはひなりとて女の舞をとどめられぬ。
その丶ち若衆歌舞妓といふ事をはじめて、うるはしき少年にまはせければ猶又たましゐをうばはれ心くらみてうかれまどひ股をつきて腰ぬけになり、かひなをひきて傷をいたみ、つかぬ片輪になるもの多し。諸寺の僧達は変成男子の利やくはこ丶なりとよろこび布施のまめいたは鼠戸の札せんとさだめ祠堂の丁銀は、しなせこと葉のまいらせ物になす。仕舞柱にくりつかはす花の枝は舞台にさしあげて色をあらそひ、さげ重箱にかざりいれたる酒肴は桟敷にかきいれて舌をならす。これにしあげてたらぬときは紅の袈裟・金襴の打敷に釈迦の鑓・弥陀の利剣をとりそへて質物にいれ、もぢの衣は新発意太鼓の狂言師にゆづり末ひろの扇は海道下りの太夫様に奉り、つゐには寺にもたまられず心もゆかぬ遁世して、たうとげもなき難行苦行に身をうづもれ、ゆきがたしらずうせにけりと檀那にうたはれ侍る。末世の僧は児の臂をとると経文にゆるされたれども此世からまよひはて丶来世はさこそと思ひやらる。
もろこしにも若道はある事にて伊川先生よりはじまりて栽尾とかや名づくめり。騎馬少年清且婉とつくれる詩は蘇東坡が李節推をしたひて風水洞におもむきつ丶こ丶にてつくれる所なり。又我朝のそのかみは業平の少年なりし時、真雅僧正これを恋て、常磐の山のいはつ丶じいはねばこそ、とよみ給へり。されば詩歌をなかだちとして、なれしたしみまじはる中に義もあり礼もあり、しかも信ありて契り久しからむ主君にかしづかる丶少年は、その契り二世をかたらひ死出の山路のあとをおふ事これ又ためしならずや。
されども歌舞妓の少年は此ためしには遙に違ひ侍る事、誰とても推量べきを忽に色に染て身をくづをらし財をいしなふ。か丶る若衆歌舞妓は、まことに二の舞の人だをしよとて、若衆どもの額髪をおとさしめらる。うとましきかたちなり。そのさまひねこびてをかしかれども、もてなしからに見ぐるしからず、かざりたてつ丶幕うちあげたれば橋がかりにねり出たるは、又あつた物ではないと思はる丶に、桟敷より、あれあれ御らいごうよとほむれば……中略……やがて舞おはりて楽屋に引こむ。せめて打越なりとも給はらんと連歌にはきらへど酒もりにはこのみて八ごゑの鳥もろ共に、なきなきいなせて庭鳥をうらむるごとくなる世の痴者また市のごとし。楽阿弥も、これにはちとほの字なりけん。かくぞよみける。
  うつくしき若衆歌舞妓をんながたこれは世界のまんなかぞかし
……後略

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 作者が仏教系だから男女間の姦淫には手厳しいものの若衆趣味には寛大どころか、主人公の楽阿弥自身うつつを抜かしているから滑稽だ。自分の属する仏教界への自虐でウケを狙っている。八犬伝を読む上で、刊行当時に流布していたと思われる情報/データは必要だが、失われた当時の感覚も、なろうことなら窺い知りたいし、少しでも同好の士に紹介したいと願っている。……って、興に任せて書いてるだけなんだが、人は現在に拘束される者ではあるが、八犬伝を繙くひとときだけでも、現在からの自由を得たいと思うは贅沢に過ぎるか。現在の一般常識に抗う上記の如き言葉たちを、愉しむことは無駄ではあるが、無用の用、案外に大切なことかもしれない。
 

 それは、さて措き、問題は駅鈴だ。実は駅鈴が十二あったことだけに注目しても意味はない。【十二あったもののうちの一つが一時的に元あった場所から離れ暫くして戻る】ことこそ重要だ。三十三なら観音だが、十二は薬師如来の数である。画虎事件の発端をつくった竹林巽は丹波国桑田郡薬師院村で、まさに薬師院に奉納する絵馬を描く者であった。薬師十二神将のうち寅童子に擬すべき麗しの稚児が現れ、問題の画虎を描くことになった。点晴して画虎は実体化した。実体化した画虎は親兵衛に両眼を射抜かれ再び画に戻った。麗しの稚児若しくは実体化した画虎を虎童子とすれば、何処かの虎児童が其の間消滅していたのだろう。そして「十二あったもののうちの一つが一時的に元あった場所から離れ」たものの取り返された時、それは秋篠将曹広当が親兵衛に追い付いたときだが、伊勢石薬師村であった。大角の礼玉が登場した白山権現と関わりの深い泰澄が菊面石を見付け空海が彫った薬師如来像を本尊とする石薬師寺付近であって、御丁寧にも親兵衛は、「そういえば画虎を描いた巽風は丹波国桑田郡薬師院村に住んでたんだよなぁ」と思い出す。
 十二は薬師の数字である。唐突かつ実用上無意味に登場した駅鈴は、全部で十二あった。うち一つが広当によって石薬師で取り返され、政元の手に戻った。広当に駅鈴を突き付けられた政元は「苦咲(にがわらい)」する。或いは駅鈴を持っていった親兵衛を罪人として追求し、今度は軟禁状態どころか投獄緊縛して無理にでも嗜ませようとしたのに失敗したから「苦咲」したに違いないのだが、其の様なことは筆者の想像が及ばぬ所なので差し当たり、或る神秘的な思いが政元を捉えたと考えておく。

 即ち、【十二あったもののうちの一つが一時的に元あった場所から離れ暫くして戻る】ことから、親兵衛を十二神将の一つと重ね合わせ、其れは画虎事件から容易に寅童子を連想したといぅことだが、寅童子が眼前に生ける者として存在するとは寅童子そのものは消滅していることを示し、寅童子が戻ってきたってこたぁ眼前にいた筈の寅童子の化身は消滅してしまったことを意味する。恋い焦がれ渇仰した親兵衛の肉体は、政元の手の届かぬ所へ行ってしまったのだ。家康が生まれたとき寅童子が消え、死ぬと出現し元に戻った。後日談として政元が失脚し殺される所から見て、寅童子がとった政元への態度は、拒絶どころか断罪であったと知れる。セクハラ管領・政元の末路である。
 

 ところで、馬琴の時代にも、唯一の例外を除いて駅鈴は現存していなかったと書いた。では、「唯一の例外」とは? 本居宣長がレプリカを持っていた。宣長、かなりのコレクターかつ鈴フェチで、自分の号を「鈴屋」としたほどだ。疲れると鈴の音を鳴らし陶然としていたという。確かに心澄ませる音ではある。古人の鋭敏な聴覚なら、或いは障魔を払う力を感じたかもしれない。此のレプリカは、源氏物語講釈の礼にと寛政七(一七九五)年、石見浜田藩主・松平周防守康定から贈られた。隠岐国造家に二つ伝わっていた駅鈴を型に鋳たものだ。隠岐には二つ残っている。隠岐は下国であるから、上掲「令」の規定に合う。隠岐と云えば、八犬伝には、隠岐次郎左衛門尉広有が登場する。

 「寂寥たる復讐」で秋篠姓に就いて若干の史料を提示した。秋篠姓の祖は土師氏であった。菅原道真の一族である。で、問題の秋篠将曹広当だが、八犬伝では後醍醐帝のとき紫宸殿上を飛び回っていた怪鳥を射落とした隠岐次郎左衛門尉広有の六世孫だとされている。「広有」の子孫が「広当」ってのは良いとして、片や「隠岐」片や「秋篠」、何だか先行きに不安が漂うが、まぁ見てみないと解らない、太平記から隠岐二郎左衛門広有の事跡を引こう。巻第十二である。

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広有怪鳥を射る事
元弘三年七月に改元有て建武に被移。是は後漢光武、治王莽之乱再続漢世佳例也とて、漢朝の年号を被摸けるとかや。今年天下に疫癘有て、病死する者甚多し。是のみならず、其秋の比より紫宸殿の上に怪鳥出来て、「いつまで、いつまで」とぞ鳴ける。其声響雲驚眠。聞人皆無不忌恐。即諸卿相議して曰、「異国の昔、尭の代に九の日出たりしを、■(羽の下にコマヌキ/ゲイ)と云ける者承て、八の日を射落せり。我朝の古、堀川院の御在位時、有反化物、奉悩君しをば、前陸奥守義家承て、殿上の下口に候、三度弦音を鳴して鎮之。又近衛院の御在位の時、鵺と云鳥の雲中に翔て鳴しをば、源三位頼政卿蒙勅、射落したりし例あれば、源氏の中に誰か可射候者有」と被尋けれ共、射はづしたらば生涯の恥辱と思けるにや、我承らんと申者無りけり。「さらば上北面・諸庭の侍共中に誰かさりぬべき者有」と御尋有けるに、「二条関白左大臣殿の被召仕候、隠岐次郎左衛門広有と申者こそ、其器に堪たる者にて候へ」と被申ければ、軈召之とて広有をぞ被召ける。広有承勅定鈴間辺に候けるが、げにも此鳥蚊の睫に巣くうなる■(虫に焦)螟の如く少て不及矢も、虚空の外に翔飛ばゞ叶まじ。目に見ゆる程の鳥にて、矢懸りならんずるに、何事ありとも射はづすまじき物をと思ければ、一義も不申畏て領掌す。則下人に持せたる弓与矢を執寄て、孫廂の陰に立隠て、此鳥の有様を伺見るに、八月十七夜の月殊に晴渡て、虚空清明たるに、大内山の上に黒雲一群懸て、鳥啼こと荐也。鳴時口より火炎を吐歟と覚て、声の内より電して、其光御簾の内へ散徹す。広有此鳥の在所を能々見課て、弓押張り弦くひしめして、流鏑矢を差番て立向へば、主上は南殿に出御成て叡覧あり。関白殿下・左右の大将・大中納言・八座・七弁・八省輔・諸家の侍、堂上堂下に連袖、文武百官見之、如何が有んずらんとかたづを呑で拳手。広有已に立向て、欲引弓けるが、聊思案する様有げにて、流鏑にすげたる狩俣を抜て打捨、二人張に十二束二伏、きりきりと引しぼりて無左右不放之、待鳥啼声たりける。此鳥例より飛下、紫宸殿の上に二十丈許が程に鳴ける処を聞清して、弦音高く兵と放つ。鏑紫宸殿の上を鳴り響し、雲の間に手答して、何とは不知、大盤石の如落懸聞へて、仁寿殿の軒の上より、ふたへに竹台の前へぞ落たりける。堂上堂下一同に、「あ射たり射たり」と感ずる声、半時許のゝめいて、且は不云休けり。衛士の司に松明を高く捕せて是を御覧ずるに、頭は如人して、身は蛇の形也。嘴の前曲て歯如鋸生違。両の足に長距有て、利如剣。羽崎を延て見之、長一丈六尺也。「さても広有射ける時、俄に雁俣を抜て捨つるは何ぞ」と御尋有ければ、広有畏て、「此鳥当御殿上鳴候つる間、仕て候はんずる矢の落候はん時、宮殿の上に立候はんずるが禁忌しさに、雁俣をば抜て捨つるにて候」と申ければ、主上弥叡感有て、其夜軈て広有を被成五位、次の日因幡国に大庄二箇所賜てけり。弓矢取の面目、後代までの名誉也。

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 流石に広当の祖先だけあって(?)、武勇のみならず尊皇精神も旺んで、怪鳥を射たとき矢が宮殿の屋根に立つことを忌み、鏃を取り除いて射た。深謀遠慮の武士であったらしい。尊卑分脈に拠れば、広有は藤原長良(冬嗣息/従二位左衛門督・権中納言・贈正一位太政大臣)流で、長良の息には従一位太政大臣で摂政も務めた基経もいるが、其れではなく従四位上右大弁・遠経から従五位下右衛門権佐・大蔵大輔の良範と結ぶ。良範の三男が「西海道賊首」従五位下伊予掾・藤原純友だったりするけれども其れではなく、六男で春宮主殿首の純素に繋がり、茂範、雅亮、忠厚、致孝、親任、俊基、致康、忠広、康久、俊親、広能と続く。概ね従五位下で国守やら弾正忠やら勘解由判官やらで典型的な受領層って印象だ。代々二条家(摂関家)の執事みたいなことをしていたらしい。んで広能は隠岐守で「大力」を以て知られた。次の広義も隠岐守で「大力」、大夫尉も務めた。広義の息子が広有で隠岐守かつ「大力」、兄弟の広家も「大力」で正五位下飛騨守・大夫尉だった。但し広有、注記に「出家之後於内裏射怪鳥 法名弘■穴に勿」とあるので、怪鳥射殺の折りには頭髪ぐらい剃っていただろうか。

 因みに、馬琴の「燕石雑志」では、「近衛院の仁平の年間、内裡に怪鳥あり。源頼政朝臣勅を奉てこれを射たり。これは保元の乱おこらんとする象ともいはんか。後醍醐帝の建武元年亦内裡に怪鳥あり。隠岐二郎左衛門広有これを射る。かくて南北朝とわかれ給ひき」とあり、太平記「広有怪鳥を射る事」は広有の武勇顕彰の側面ではなく、怪鳥出現自体にも注目し此を射殺す事件そのものが、乱の兆しと見ているようだ。怪鳥ならぬ怪虎を射倒したは、広有の六世孫・広当ではなく、親兵衛であった。此の事件後に色々あって政元は殺され、戦国の世へと時代は雪崩込んでいく。同時に此は、八犬伝刊行時が、動乱の世界へと走り続けていたことの表現でもあるか。

 さて、隠岐次郎左衛門広有は南朝の忠臣だ。これが佐々木隠岐判官清高となれば北朝の武士である。隠岐の領主だ。そして隠岐国造家は古代から隠岐に土着していた一族で、素晴らしく物持ちが良くて近世には唯一、駅鈴を保管していた。大名によってレプリカが本居宣長に贈られた。三つの「隠岐」は全く別物だ。が、佐々木隠岐は「佐々木」だから別として、広有と国造は、別なんだが、互いへの連想は妨げない。ってぇか、実際に駅鈴を保管していたのは隠岐国造だけれども、駅鈴は律令上、国司が独占的に持つべきものであった。広有は、隠岐守すなわち国司であった(赴任し実務を執ったとは思わないが)。玄ムに付いてウジウジ書いたが、

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人の名につきて禍福吉凶あるよしは既にいへり。きのう■(ツチヘンに蓋)嚢抄を見しに、その事粗載てあり。玄ム僧正は渡唐して■(サンズイに輜のツクリ)州の知周大師に法相宗を習ひ給ふころ、彼処の人いへりける。玄ムは還亡と同音なるにと難ぜしが、帰朝の後筑紫の観音寺供養の日、太宰少弐広嗣が霊にとられて生ながら雲の中に入りつ丶、頭は興福寺の唐院にぞ落たりける。還て亡るの義終に違はず。(燕石雑志)

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 名詮自性、隠岐守である広有は隠岐国を管理する者であり、隠岐国の駅鈴行使も権限の内だ。馬琴の時代に唯一(二口)残っていた有名な隠岐国造所蔵の駅鈴と、無縁ではない、と馬琴は考えたのではなかったか。其の子孫たる広当が、政元によって私的に流用された駅鈴を取り返す。また其の広当が元の「隠岐」を名乗らず「秋篠」を何故に名乗っていたか。其処には、馬琴の個人的な事情も絡んで複雑な理由があったと想定できる。それは即ち……。と、気を持たせつつ、次回へ。(お粗末様)。

 

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