★伊井暇幻読本・南総里見八犬伝「麗しき秋篠の人」★

 まず広当の印象から考える。彼は温厚だが武芸に秀で、恐らくは其の筋の方なら姦りたくなるぐらいの美男子だ(妄想)。如何も政元を嫌っていた節のある親兵衛だが、道端の仏堂で広当と二人きり、責め立てられ泣きじゃくっている(だから、そぉいぅ言い方は……)。きっと舞わせても、いや事によると楽器を奏でさせても上手なのではないか。京侍らしい雅びな雰囲気が漂っている。美男子となれば八犬伝では信乃か毛野って印象だが(潤鷲手古内美容や上杉顕定の愛人・斎藤兵衛太郎盛実もいるけど存在感が薄い)、温厚篤実となれば、信乃だろう。
 まぁ上記は単なる妄想だが、まず「秋篠」であるが、以前に見た如く、菅原道真と同じ土師氏系で御井氏(井氏)を名乗る分家がある。遠江には藤原流の井氏が展開し江戸幕府の重臣(大老井伊家)を輩出した。信濃にも井氏はあるが、此は帰化人系である。名詮自性、別に土師氏だろうが藤原だろうが帰化人だろぉが、良いではないか。信乃の母・手束は、信州の井氏である。また、生駒山麓の秋篠寺は薬師如来が本尊だが、八所御霊社が附属していることは措いといて、本尊が薬師で十二神将像もあるんだが、何と言っても、伎芸天が有名だ。まずは、伎芸天を紹介する上で外せない「摩醯首羅大自在天王神通化生伎藝天女念誦法」を引く。
 

     ◆原文◆
摩醯首羅大自在天王神通化生伎藝天女念誦法
爾時摩醯首羅天王。於大自在天上。與諸天女前後圍繞。神通遊戲作諸伎樂。忽然之間於髮際中化出一天女。顏容端正伎藝第一。一切諸天無能勝者。於大衆中而作是言。我今為欲利益一切。有所祈願豐饒吉祥富樂之事。隨心■(リッシンベンに希)求悉能滿足。於諸業藝速能成就。我有祕密陀羅尼法要。今當説之即説陀羅尼曰。曩謨(引)榲支摩貌施■(ニンベンに去)地尾■(缶に本)羅(二合)■(缶に本)地野(二合引)試(引)迦■(口に羅)者■(口に魯)婪(二合)怛■(ニンベンに爾)野(二合)他(去引)濕■(口に縛)(二合)惹底隷吠■(口に羅)摩惹哩■(ニンベンに爾)吽(引)發■(口に託のツクリ)(半音)娑■(口に縛)(二合引)賀(引)。是時衆伎藝天女。説此陀羅尼已。告諸天衆。若欲誦持我此陀羅尼者。先須建立道場如法嚴飾。種種香花以為供養。於二七日或一七日。受持齋戒斷其婬欲。誦此陀羅尼滿其萬遍或十萬遍。於其中間勿食酒肉薫穢。至心誦持天女現前種種加備。一切願求皆悉滿足。從此已後無有障礙。乃至妻子薫穢。亦不制斷。若能淨持最為速驗。後有所用應令成就。若持誦時先須結界。或水或灰加持七遍。散灑四方隨心遠近。即成結界地。一切鬼神莫能博近。若誦至一千遍。能令天龍人及非人見即歡喜。若誦至二千遍。一切鬼神皆悉衛護。若誦至三千遍。草藥精靈悉現其前。華果林神歡喜隨從。若誦至四千遍。一切毘多羅鬼深生恭敬。若誦至五千遍。一切龍神眷屬男女歡喜敬仰愛念無厭。若誦至六千遍。一切藥叉眷屬男女。歡喜隨逐任其所使。若誦至七千遍。一切天王摩達■(口に魯)等。并其眷屬以給侍。種種驅役不以為倦。若誦至八千遍。一切持明五通仙人等。深生歡喜仰無盡。若誦滿一萬遍。乃至十萬遍。一切天龍藥叉乾闥婆阿修羅緊那羅摩呼羅伽人非人等。乃至塞乾陀天一切鬼神。生大歡喜隨逐侍衛。常令行者豐饒吉祥。又法若欲祈止不以為難。若天旱時如法結界壇。護摩念誦誦此真言滿一萬遍。其雨應時即下。若雨過多惡欲止者。加持淨灰一百八遍。空中擲之其雨即止。又法若有怨家興起惡意。以用朱砂或其赤土。書名或書形。於左脚下踏之念誦。夜後作之一百八遍。無問遠近彼怨自來求解怨結。心生和順轉生愛敬。又法若欲使役一切鬼神。皆當召集生愍念心。隨分飲食加持一百八遍。而散施之。然後驅使速疾成弁。常生歡喜終不離人。又法若欲鉤召一切人民。隨心所念無問遠近。加持水七遍。散於四方望彼稱誦一百八遍。無問識與不識。悉來奔就隨心所為不敢違逆。又法若有怨家來欲相害。至心誦明一百八遍。彼即被打身契如火。若迴心相伏。即與解之時。誦明七遍云放。即放其身即平復如本。又法若有夫婦。外心相背不相喜見。猶如火水相憎者。密書其名勿令知覺。一依前法左脚踏之。稱名誦一千八遍。即相和順轉相怜愛如同膠漆。永更不生憎背之意。又法若有所愛宣婦。乃至諸天女■(女に采)及天帝釋妃后眷屬心所愛者。一依前法念誦召之。應時即至自來求之請為給侍。若不違之終不捨離。又法若欲鉤召藥叉女等。求其財寶隨心召之。迅疾即至。一切所須悉皆奉獻。請為妻妾或為給侍。又法若欲得一切貴人愛敬。稱名念誦一千八遍。自來歸敬以為僕使。又法若入官府。至心誦明七遍而至。遙仰善相使得隨心。若見面時喜悦無量。有事求之即能相為。又法若有所愛女人。或其男子意相樂者。以加持胡燕脂或紅藍花汁。塗其二脚掌下。以火炙之二手掩上。稱名念誦彼即立至。自来相求乃至深隱之處。直来相來見乃至命終不肯相捨(毎稱名時於娑婆二合賀句上加之除其發■(口に焚くのツクリ/二字)。若是女人為求男子者。並依前法作之隨心即至。又法若欲得令見諸鬼神身者。取尸陀林燒死人柴。護摩一明一燒。乃至一百八遍。一切鬼神悉自現身即得相見。又法若有所有一切財寶。隨心所須至心持誦自然獲得。又法若欲縛人問事。無問大小淨與不淨。心想本尊至心念誦。應時即縛問知三世之事。一切皆説無所不知。非但能縛一人。乃至百千萬人至心誦之。隨心應念一時即縛。又法若有家人逃走極遠處去者。準前書名踏之。念誦其人迴還奔走立至。若來遲者即以灰書彼形。毎日三時作法。毎誦真言一遍打之。一下乃至三七遍已。彼即恐怖如風即至。又法若欲療治一切病者。取■(ニンベンに去)陀羅木。截作二十一段。誦明一投火中燒之。遍已但是疾病即得除差。又法若有患神病者。取阿魏藥安悉香雄黄白芥子青木香若練葉等。並擣節相和作四十九丸。一誦明一投火中其病即差。又法若患狐魅病者。取雄黄白芥子■(クサカンムリに弓)■(クサカンムリに窮)獨頭萩犀角■(羊にルマタ)羊尿白馬懸蹄驢馬夜眼。並擣篩為丸。加持一百八遍。燒薫鼻孔之中。并塗身上狐魅消滅其病即差。如上所説利益之法悉皆神驗。速疾成就。凡欲作法必須至誠。若不至心輕慢誦者無益法亦不成。若至誠心一遍便獲效驗。我今略説少耳。餘法莫能窮盡。若欲持誦求其證驗。先畫我壇并畫我像安置壇中。如法供養即疾證驗即疾成就。
  大自在天女畫像法
先畫摩醯首羅天王。三面六臂顏貌奇特端正可畏。從其髮際化生一天女。殊妙可喜天上人間無能勝者。著天衣服瓔珞嚴身兩手腕上。各有鐶釧左手向上捧一天花。右手向下作捻裙勢。身形可長三尺。或隨大小任取稱量畫像了已。如法安置壇中供養。
  祈願壇法
量高四指肘量隨其處所大小。壇開四門於東門内燒安悉香。南門内燒沈水香。西門燒薫陸香。北門燒兜樓婆香。於壇中心安本尊像。於四角安刀一口懸明鏡。於四門各須安箭兩隻。於南門兩邊安尾那夜迦位。於壇四縁周迴隨其力分。安置甜脆華果等以為供養。
  次説火壇法
作護摩爐深十二指。爐可横量一肘。於壇傍作彼怨家形貌。以刀之割護摩念誦。以用皀夾刺柴燒諸毒藥。一誦明一燒之。滿四十九遍或一百八遍。即大驗耳彼怨家即便消滅。若療一切疾病亦如上法。作彼鬼神形状。斷截燒之決死之病應時得愈。
  摩醯首羅大自在天神通遊戲變化頂生衆伎藝天女成就法印
二手合掌。二名指二中指。外相叉指面著其手背。二頭指微蹙頭似寶。二大指頭並來去。即成誦請召明曰。曩謨(引)摩醯濕■(口に縛)(二合)羅(引)野(一)榲支摩冒(引)試■(ニンベンに去)野■(日に壹)醯(去引)■(口に四)娑■(口に縛)(二合引)賀(引)。結此印已。隨誦此明七遍。請召本天與諸眷屬。悉皆降至種種加備。次結神通攝召一切印。以右手中指直豎。次以名指■(クサカンムリに必)在中指後。以頭指鉤召指頭。以大指横押頭小二指甲。以中指如鉤勢向外。鉤向身來去。即是誦根本明。於娑■(口に縛)(二合)。賀字上加所召者名請之。若結此印誦明攝召一切。悉皆立至。是神通攝召印。亦通一切處用。若逢怨惡人。欲相刑害。結印展其中指。望彼■(テヘンに為)之自然散壞。諸惡鬼神指之消滅。結此印誦根本明。印心額喉頂即成護身。一切鬼魅不敢親近。其法必須從師親授。淨室密持毎念誦了。以淨絵帛覆天形像。不得輒説此法。向餘人。若妄泄之終身無效。慎之慎之。其天像或畫或素總得。於壇中心安置本天形像。於天左右各安二女天。若壇中安坐位。形貌可喜。如天女形状。其像後又置二侍從女天位。唯於前面留火爐處所。燒諸香藥奉獻本天。如不能安火爐。著一寶盆。盛其香水著諸妙花獻之亦得。於壇四角四門不能安其刀箭。但於壇外畫之亦得。唯移鏡安於壇内四角。如餘部壇法。安羯磨杵處即得仰安之。若畫壇時。於壇四面地上畫作五色綵雲。如捧壇從地踴出勢。摩醯首羅頂生天女法

     ◆書き下し◆

摩醯首羅大自在天王神通化生伎藝天女念誦法
爾(そ)の時、摩醯首羅天王は、大自在天上に於いて、諸天女の前後圍繞と陣痛遊技し諸伎樂を作(な)す。忽然の間、髮際中に於いて一天女の化出す。顏容端正にして伎藝は第一、大衆中に於いて一切の諸天は能(よ)く勝(まさ)る者無し。而して是(こ)も言(げん)を作す。我は今、一切の豐饒・吉祥・富樂の事を祈願する所あるを利益し、諸業藝に於いて速やかに成就するを心に随いて希求するもの悉く能く満足せしむるを欲(ほつ)することを為(な)す。我は祕密陀羅尼法要を有(も)つ。いま當(まさ)に之(これ)を説く。即ち陀羅尼に説きて曰く、「なうまくをつしまぼうせきゃぢびかんらかんぢやしきゃらしゃろらんたつにやたしつばじゃていれいばいらまじゃりにうんはつたそわか」。是の時、衆に伎藝天女は此の陀羅尼を説き已(おわ)りて諸天衆に告ぐ。「若(も)し我れの此の陀羅尼を誦持せんと欲せば、先(ま)ず須く道場を建立し、法の如く嚴(いか)めしく飾り、種種の香花を以って供養を為せ。二七の十四日あるいは七日、受持齋戒し其の婬欲を斷て。此の陀羅尼を誦すこと其の萬遍あるいは十萬遍に満(み)ちよ。其の中間に於いては、肉薫穢を食飲すること勿(なか)れ。心至して誦持し、天女の現前に種種の備を加えよ。一切の願うこと求めること皆(みな)悉(ことごと)く滿足す。此れ從(よ)り已後(いご)障礙あること無し。乃至(ないし)、妻子の薫穢は亦、制斷せず。若し能(よ)く淨らかにして持(じ)せば最も速やかに驗(げん)を為す。後に用いる所あれば、應(まさ)に成就せしむべし。若し持誦する時は、先ず須く結界せよ。或いは水、或いは灰にて加持すること七遍、四方に心に随いて遠近に散灑せよ。即ち結界の地を成(な)す。一切の鬼神は能く博く近づく莫(な)し。若し誦すること一千遍に至れば、能く天龍人および非人をして即ち歡喜に見(まみ)えしめん。若し誦すること二千遍に至れば、一切の鬼神は皆、悉く衛護す。若し誦すること三千遍に至れば、草藥の精靈は悉く其の前に現る。華果林の神は歡喜し隨從す。若し誦すること四千遍に至れば、一切の毘多羅鬼は深く恭敬を生ず。若し誦すること五千遍に至れば、一切の龍神の眷屬の男女は歡喜して敬仰し愛念して厭うこと無し。若し誦すること六千遍に至れば、一切の藥叉の眷屬の男女は、歡喜し其の使う所に任せて随逐す。若し誦すること七千遍に至れば、一切の天王・摩達■(口に魯)等、并(なら)びに其の眷屬は以て給侍し、種種の役に驅け倦むこと無し。若し誦すること八千遍に至れば、一切の持明五通仙人等、深く歡喜を生じ仰ぐこと盡きる無し。若し誦すること一萬遍乃至十萬遍に滿てば、一切の天龍・藥叉・乾闥婆・阿修羅・緊那羅・摩呼羅伽・人・非人等、乃至は塞乾陀天や一切の鬼神は大いに歡喜を生じ侍衛に隨逐し、常に行者をして豐饒・吉祥たらしむ。又、法において若し祈り止むを欲すれ者あれば、難を以て為さしめず。若し天の旱(ひでり)なる時は、法の如く壇を結界し、護摩念誦せよ。此の真言を誦すること一萬遍に滿てば、其の雨は時に應じ即ち下る。若し雨の多きに過ぎて惡(あ)しく止めんと欲すれば、淨灰を加持すること一百八遍にして空中に之を擲(なげう)てば、其の雨は即ち止む。又、法において若し怨家ありて惡意を興し起こすことあれば、朱砂あるいは其の赤土を以て用いて名を書き或いは形を書き、左脚の下に之を踏みて念誦し、夜後に之を一百八遍作せば、彼の怨みするものの遠近を問うこと無く、自ら来たり求めて怨結を解き、心に和を生じ順なりて轉じて愛敬を生ず。又、法において若し一切の鬼神を使役せんと欲せば、皆、當に召し集め愍(あわれ)み念(おも)う心を生ずべし。隨分と飲食加持すること一百八遍。而して之を散らし施せ。然(しか)る後に驅使すれば、速やかに疾(はや)く弁を成し、常に歡喜を生じ終(つい)に人を離れず。又、法において若し一切の人民を鉤召せんとすれば、心に随いて念ずる所は遠近を問うこと無し。水を加持すること七遍、四方に散らし彼を望み稱誦すること一百八遍、識(し)ると識らざるを問うこと無く、悉く來たり奔(はし)りて就(つ)きて心に随うに所に敢えて違逆せず。又、法において、若し怨家の來たるありて相(あい)害するを欲せば、心に致して誦明すること一百八遍にして、彼は即ち身を打られる契り火の如し。若し心(しん)の迴りて相伏し即ち與(くみ)して解かんとするの時、誦明すること七遍にして云いて放つ。即ち其の身を放ち即ち本(もと)の如く平らに復す。又、法において若し夫婦ありて、外に心をおきて相背き相(たがい)いに見ゆるを喜ばず、猶(なお)火水の如く相憎く者あれば、密かに其の名を書きて知り覺えしむこと勿れ。一つ前の法に依り、左脚にて之を踏み、名を稱して誦すること一千八遍、即ち相和し順じて膠漆にして同じくなる如く相いに怜(あわれ)み愛するに轉じ、永く更に憎背の意を生ぜず。又、法において若し愛し宣(つう)ぜんとする所の婦あれば、乃至は諸天女采および天帝釋妃后の眷屬を愛する所の心あれば、一つ前の法に依り、誦して之を召す。時に應じ即ち至りて自ら來りて之を求め請いて給侍と為る。若し之を違わざれば終に捨て離れず。又、法において若し藥叉女等を鉤召し其の財寶を求め心に随いて召さんと欲すれば、迅疾にして即ち至り須(もと)める所の一切を悉く皆奉獻し、請いて妻妾と為り、或いは給侍と為る。又、法において若し一切貴人の愛敬を得んと欲せば、稱名念誦すること一千八遍にして、自ら來り敬に歸して以て僕使と為る。又、法において若し官府に入らんとすれば、心を至して誦明すること七遍にして至る。善相を遙かに仰ぎ心に随いて得さしむ。若し面を見る時は喜悦すること無量、之を求める事ありて即ち能く相に為る。又、法において愛する所の女人あれば、或いは其の男子の意(こころ)に相いに樂しまんとする者あれば、以て胡燕脂あるいは紅藍花汁を加持し、其の二脚掌下に塗り、以て之を火に炙り二手にて上を掩う。稱名念誦すれば、彼は即ち立ち至り、自ら来たりて相求め乃至、深隱の處に直に来り相來りて見ゆ。乃至、命の終りまで相捨てるを肯んぜず(毎稱名の時はシャバ二合カ句の上に之を加えハツフンを除く)。若し是れ、女人の男子をして求ましむる者あれば、並びに前法に依り之を作せば、心に隨いて即ち至る。又、法において諸鬼神の身を見さしむるを得んと欲せば、尸陀林(墓)にある燒死人の柴を取り、護摩すること一明一燒、乃至一百八遍にして、一切の鬼神は悉く自ら身を現し即ち相見ゆるを得る。又、法において若し一切の財寶を有する所あらんとせば、心に随いて須める所に至り心に持誦せば、自然と獲得す。又、法において若し人を縛り事を問う所あれば、大小や淨と不淨とを問うこと無く、心に本尊を想い心を至して念誦すれば、時に應じて即ち縛りて三世の事を問いて知る。一切の皆を説いて知らざる事路無し。但し能く一人を縛るには非ず。乃至、百千萬人を心を至して之を誦せば、心に隨いて念に應じ一時にして即ち縛る。又、法において若し家人に極めて遠き處に逃走し去る者あれば、前に準じ名を書き之を踏み念誦すれば、其の人の迴り還りて奔走し立ち至る。若し來るの遲き者あれば即ち灰を以て彼の形を書き、毎日三時(度)法を作せ。真言一遍誦するごとに之を打て。一たび下す乃至三七(二十一)遍にして已む。彼は即ち恐怖して風ぼ如く即ち至る。又、法において若し一切の病を療治せんとすれば、■(ニンベンに去)陀羅木を取り截(き)りて二十一段を作す。誦明すること一たびにして火中に投じ之を燒くこと遍くして已む。但し是れ疾病は即ち除き差(なお)ることを得。又、法において若し神病を患う者あれば、阿魏藥・安悉香・雄黄・白芥子・青木香・若練葉等を取り、並びに擣(つ)き節(ほどよ)く相和し四十九丸を作る。一誦明して一つを火中に投ずれば其の病は即ち差る。又、法において若し狐魅病を患う者あれば、雄黄・白芥子・■(クサカンムリに弓)■(クサカンムリに窮)・獨頭萩・犀角■(羊にルマタ)・羊尿・白馬懸蹄・驢馬夜眼を取り、並びに擣きて篩(ふる)いて丸に為す。加持すること一百八遍、燒いて鼻孔の中に薫らせ、并びに身上に塗れば、狐魅は消滅し其の病は即ち差る。上の如く利益を説く所の法は悉く皆、神驗あり。速疾にして成就す。凡(およ)そ法を作すを欲すれば、必ず須く誠を至せ。若し心を至さず輕慢にして誦すれば、無益法なりて亦、成らず。若し誠心を至せば、一遍にして便(すなわ)ち效驗を獲る。我は今、少しく耳にするを略説す。餘の法は能く窮め盡くすこと莫し。若し持誦して其の證驗を求めるを欲せば、先ず我が壇を畫し、并びに我が像を畫して壇中に安置せよ。法の如く供養すれば、即ち證驗を疾くし即ち疾く成就す。
  大自在天女畫像法
先(ま)ず摩醯首羅天王を畫す。三面六臂にして顏貌は奇特に端正にして畏(おそ)るべし。其の髪際從り化生する一天女は、殊に妙なりて天上・人間を喜ばすべくして、能く勝る者無し。天衣服・瓔珞を著(ちゃく)し身を嚴(おごそ)かにす。兩手腕の上に各(おのおの)鐶釧あり。左手は上を向け一天花を捧ぐ。右手は下に向け、裙勢を捻るを作す。身形は長三尺なるべし。或いは大小に隨い、稱量の畫像を取るに任せ了(おわん)ぬる已(のみ)。法の如く壇中に安置し供養せよ。
  祈願壇法
高さ四指肘を量り其の大小する處に随う。壇は四問を開き、東門内に於いて安悉香を焼く。南門内に沈水香を焼く。西門に薫陸香を焼く。北門に兜樓婆香を焼く。壇の中心に於いて本尊像を安ず。四角に於いて刀一口を安じ、明鏡を懸ける。四門に於いて各、須く箭兩隻を安ずべし。南門の兩邊に於いて尾那夜迦位を安ず。壇の四縁周に於いて、其の力の分に随て廻る。甜脆華果等を安置し以て供養と為す。
  次説火壇法
護摩の爐は深さ十二指に作る。爐の横は一肘を量るべし。壇の傍に於いて彼の怨家の形貌を作る。刀を以て割り護摩念誦す。以て皀夾柴を用いて刺し諸毒藥を焼く。一たび誦明して一たび之を燒く。四十九遍あるいは一百八遍に滿たば、即ち大いに驗ありて、彼の怨家の即ち便ちににて消滅するを耳にす。若し一切の疾病を療せんとすれば亦、上の法の如し。彼の鬼神の形状を作り斷截し之を燒けば決ず之を死なしめ、病は時に應じて愈ゆるを得。
  摩醯首羅大自在天神通遊戲變化頂生衆伎藝天女成就法印
二手は合掌す。二つの名指と二つの中指は外にし相(なら)べ叉、指面は其の手背に著(つ)く。二つの頭指は頭を微かに蹙(かが)め寶に似せる。二つの大指の頭は並びて來去す。即ち誦を成して請いて召して明らかに曰(い)う。「のうまくまけいしばらやをつしまぼうしきゃやえいけいきそわか」。此の印を結び、此れを誦するに随うこと七遍。本天と諸眷屬を請いて召す。悉く皆、降くだりて至る。種種に備えを加う。次に神通攝召一切印を結ぶ。右手の中指を以て直ぐに豎(た)てる。次に名指を以て■(クサカンムリに必/なび)かせ中指の後に在り。頭指を以て指頭を鉤召す。大指を以て横にし頭小二指の甲を押す。中指を以て鉤勢の如くし外に向ける。鉤は身に向け來去す。即ち是れ根本明を誦す。「そわか」字の上に於いて、召す所の者の名を加え之に請う。若し此の印を結び攝召一切を誦明すれば、悉く皆が立ち至る。是れ神通攝召印なり。亦、一切の用いる處に通ず。若し怨惡する人に逢いて相いに刑害するを欲せば、印を結び其の中指を展べ、彼の之を■(テヘンに為/はな)すを望めば自然と散壞す。諸の惡鬼神は之を指(ゆびさ)せば消滅す。此の印を結び根本明を誦し心・額・喉・頂・に印せば、即り護身と成る。一切の鬼魅は敢えて親しく近づかず。其の法は必ず須く師從り親しく授けよ。淨室にて密かに念誦ごとに持す。淨らかな絵帛を以て天の形像を覆う。輒(たやす)く餘人に向かいて此の法を説くを得ず。若し妄(まだ)りに之を泄(もら)せば終身にして效無し。之を慎め、之を慎め。其の天の像あるいは畫あるいは素總を得ば、壇の中心に於いて本天形像を安置す。天の左右に於いて各、二女天を安ず。若し壇中に坐位で安ずるならば、形貌は喜くべきもの天女の形状の如し。其の像の後に又、二りの侍從の女天位を安ず。唯、前面に於いて諸香藥を焼き本天に奉獻する所の爐處所に火を留めること、火爐を安ずること能わざるが如し。一寶盆を著し、其の香水を盛り諸妙花を著し之に獻ずれば、亦、得る。壇の四角四門に於いて、其の刀箭を安んずること能わざれば、但し壇外に於いて之を畫すれば亦、得る。唯、鏡を移し壇内の四角に於いて安ずること、餘部の壇法の如し。羯磨杵を安ずる處は即ち仰ぎ得て之を安ず。若し壇を畫す時、壇の四面の地上に於いて畫し五色綵雲を作せば、地從り踴出する勢いありて壇を捧げるが如し。摩醯首羅頂生天女法

     ◆
 まぁ要するに、伎藝天は、殆ど弁財天なんである。秋篠寺の「伝・伎藝天像」は国内唯一と言われるもので全国各地、だいたいは弁財天が祀られている。経典は日本に入ってきていたにも拘わらず、である。恐らく川の女神として、また仏教神として二大巨頭とされる梵天とか帝釈天とかの妻であり古代印度でも深く信仰されたサラスヴァーティー弁財天に吸収され混淆し、同一視された(ってぇか秋篠寺の「伝・伎藝天」も腰をクネらせた格好が「躍るシヴァ神」に似てなくもないので伎藝天と伝えられているのだろうけれども、実は帝釈天像と対になっており、弁財天だと解釈した方が……)。弁財天は、信乃と縁が深い。だいたいからして、秋「篠(しの)」である。信乃は対関東管領戦に於いても親兵衛の後見人/庇護者として振る舞うが、勅使として親兵衛に追い付き、駅鈴を直ちに返すよう助言する広当は、然り気なく庇護者の雰囲気を漂わせている。敢えて虚花とは云わず、かなり微かではあるが、広当は京に於いて親兵衛を見守る信乃の如き位置を与えられているのではないか。

 さて、信州馬籠で走帆を喪った親兵衛は関東に戻る。千住河原で青海原と再会する。信乃が陣中に連れてきていたのだが、盗人に奪われた。逃げ出し奇しくも親兵衛に巡り会ったのだ。親兵衛が馬盗人を懲らしめていると、偶々里見方に属こうとしていた二四的寄舎五郎・須々利壇五郎および手下計六十五人と合流する。一方、同じ頃、信乃は火牛の計を以て許我公方・成氏らの駢馬三連車陣を破ろうとしていたが、牛の代わりに摩利支天の社地で、もとは安房軍事演習で狩った猪を偶々得た。

 信乃が火計に於いて牛ならぬ猪を使う理由は、単純に考えると、以下の如きである。伏姫→観音→天照太皇神→太陽の連想から、伏姫は眷属の陽炎/摩利支天女の使いである猪は当然支配しているから、里見軍を救うために遣わした。洲崎神社が祀る女神は太陽/天照の眷属とも考えられており、摩利支天女とも重なる。そして他ならぬ、信乃のもとへ猪が届けられた理由は、信乃自身も、登場当初に伏姫の姿を写して女性させられ世四郎犬に跨っており、信乃自身を太陽の眷属・陽炎の化身・摩利支天女に擬することが出来る。よって、摩利支天女の使いである猪を手に入れる。……が、馬琴は一筋縄ではいかぬ。表記の意味や理由が一つとは限らない。実は「猪」と信乃の関係に、また一つの可能性も在る。玄同放言下集第十一地理「武蔵太田荘」だ。

     ◆
武蔵国埼玉郡川口村は旧名太田の荘といひけり。……中略……余が通家、真中氏は彼郷の旧家にして、猪隼太が後なりといふ。その口碑に傳ふるよしを聞くに、高倉院の治承四年五月廿六日、宇治川の軍破れて、三位頼政入道父子、平等院にて自刃し給ひしとき、猪隼太は遠江にあり(老後本国へ退隠せしなるべし)。遙に義兵のよしを傳へ聞きて走せて京へ赴く折、三河路にて下河辺藤三郎が三位入道の首に倶して下総へと落ちて来つるに逢ひけり。こ丶にはじめて猪隼太は主家の凶音を聞きて遺恨に堪へざれどもすべなし、せめて和殿もろ共に主のおん首に倶し奉り墳墓せん処をも見果侍らんといふ。藤三郎聞きて、げに遠江はなほ都のかた近かり。誘給へと打ちつれ立ちて下総へ落ちて行けり。かくて頼政公の首を下総の猿島なる古河の里に埋葬つ丶隼太は其処にて頭顱を剃りまろめ、塚のほとりに菴を結びて亡君の菩提を吊ひぬ。是年八月、前武衛木曾冠者、東北に起りつ丶合戦年を累ねて平家は西海の波濤に沈没し、源氏一統の世となりにけれども、隼太入道は旧里へかへることを思はず。終に古河にて身まかりけり。隼太が妻子も其処に集合て子孫真中村(古河を去ること一里許にあり。今は間中に作るといふ。その故をしらず)にをり。これ真中氏の祖なり。是より十あまりの世を累ねし比、頼政卿の曾孫、左衛門の尉国綱ぬしの後たる武士某氏、武蔵国埼玉軍太田荘の地頭たるにより旧縁あればにや、真中氏も太田荘へ移住してけり。子孫今なほ彼処に在り。世村正たり。皆実子にてし嗣きぬといふ。この事、祖父(諱興吉字左仲法名浄頓宝暦十年庚辰十二月十九日下世年六十一)の物語なりとて、わが家の口碑に傳ふる所と吻合す。按ずるに猪隼太は右大臣藤原武智麻呂の後裔、遠江権守為憲が末葉、同国の住人、井氏の族たり。平家物語(ぬえの段)源平盛衰記(三位入道の段)参考太平記(塩谷判官讒死の段)等に載する所、猪隼太(参考太平記)猪早太(平家物語)早太(盛衰記)とのみしるして実名傳はらず。家記には、守資、或は資直に作る。然るや否やをしらず。凡軍記に載せたるは、頼政怪鳥を射る一段のみ。宇治川の戦に、かの人の事見えざれば事迹の考ふべきものなし。……中略……松田一楽が武者物語(上巻)云、ふるき侍の物語に曰、源三位入道頼政、氏の平等院にて自害の時、郎等に向ひて曰、吾白骨を平等院にをさむべからず。頭陀に入れ汝首にかけて諸国を修行すべし。吾とどまらんとおもふ所にて瑞相あるべし。其所に白骨を納むべしと有りて、自害とげ給ふ。其ごとくかの郎等、白骨を首にかけ諸国をめぐる。こ丶に下総国古河といふ所に著きたり。とある芝原に頭陀をおろし、しばし休息して扨立ちあがり頭陀を取りて首にかけんとしけれども、づだあがらず。郎等ふしぎの思をなし、さらば爰に骨ををさめんと思ひ、在所の人をかたらひ、古河村の在所に白骨を納め、其所にかの郎等も庵をむすび、おこなひすまして、其所にて死にたりしとなり。今に於て古河に頼政塚あり。今は古河の城内になる彼塚のある所を頼政曲輪といふなり。この書小説に係ると雖も、かの家説と暗合せり。只その郎等の姓名を識さざるを遺憾とするのみ。
     ◆

 馬琴は自らのルーツを探ることに情熱を傾けていた。軍記や物語に登場する人物に、「瀧澤」とか「真中」なんて見付けると、執拗に自分との関係を探ろうとしていた。そんな馬琴が、源平盛衰記とかに見出した源三位頼政の忠臣・猪隼太に就いて語った部分である。「猪」は【遠江の藤原姓井氏】であったと言っている。遠江ではないが信乃の母方は信州井氏であり藤原姓である。郷士を祖とした馬琴が、郷士・大塚家に自分を投影していたとする論者もいるが、なるほど「井」氏を通じて、両者は重なる。秋篠将曹と信乃が「井」でも繋がることは、既に示している。そして、信乃が若い頃、居候生活から放浪生活まで長らく経験し、理不尽な扱いを経て確固たる自我を練り上げていく側面は、或いは馬琴の主観的記憶が投影されたものか。……ぢゃぁ馬琴は幼い頃に女装していたのか、との疑念も湧くが、黄表紙の自画像やら後の翁像を見て、美少年であったと筆者は思いたくない気分なので、否定的だ。いや、そうではなく、馬琴は「井」氏の表記に「猪」もあるとしているのだから、井氏(母方)に連なる信乃の眷属が猪であるとは、まことに以て名詮自性である。色白美青年・信乃にブヒブヒ擦り寄り甘える瓜坊六十五頭……なかなか佳い図だ。
 ところで引用文後半に、猪隼太が携えた頼政の首が古河で持ち上がらなくなり、其処に葬ったと書いている。此は素藤との戦いに於ける南弥六の挿話と無関係ではないだろう。例えば菅原道真も、配流先の太宰府で死んだとき、罪人だから死ねば斬首され都に送られる筈なのだが、それではアンマリだと忠臣が遺体を密かに運び出した。車を引いていた牛が、ウンともスンとも動かなくなった。困った忠臣が、其の場に葬った。太宰府天満宮である。自らが鎮座すべき場所に至ると動かなくなるってぇのは、珍しい話ではないのだ。頼政の逸話も、其の一話に過ぎない。が、わざわざ馬琴は八犬伝に南弥六の話を挿入した。自分の祖先に重ね合わせていたのだろう。南弥六は洲崎無垢三の縁者で無頼の徒であった。里見義実を害せんとし、親兵衛に諭されて、里見家に従う。素藤を追い詰めたが、妙椿狸の妖術に阻まれ、無念の死に至る。洲崎沖海戦では、息子の増松に憑依して、華々しく軍功を挙げさせた。かなり恰好良い役柄だ。南弥六には馬琴の思い入れが感じられる。閑話休題。
 国府台合戦に話を戻す。「太陽の眷属」に於いて、駢馬三連車との戦いが三国志の名場面・赤壁の戦いを模したものだと述べた。三国志演義では諸葛孔明の活躍を過大に評価しているが、三国志では呉の都督・周瑜の手柄だとしている。周瑜は美周郎とも称された美男子であり、信乃に似合う。但し、もう一人の美男子、毛野も美周郎だったりもする。八犬伝第百五十三の、「八百八」の謎掛けは、百回本「三国演義」第四十六回「用奇謀孔明借箭 献密計黄蓋受刑」が元ネタであろうとは、やはり「太陽の眷属」で述べた。だいたい、史書の三国志では、以下の如くアッサリしている。

     ◆
其年九月曹公入荊州、劉j挙衆降、曹公得其水軍、船歩兵數十萬。將士聞之、皆恐、權延見下、問以計策。議者咸曰、曹公豺虎也、然託名漢相、挾天子以征四方、動以朝廷為辞、今日拒之、事更不順、且將軍大勢、可以拒操者、長江 也、今操得荊州、奄有其地、劉表治水軍、蒙衝艦、乃以千數、操悉浮以沿江、兼有歩兵、水陸倶下、此為長江之險、 已與我共之矣、而勢力衆寡、又不可論、愚謂大計不如迎之。瑜曰、不然、操雖託名漢相、其實漢賊也、將軍以神武雄才、兼仗父兄之烈、割據江東、地方數千里、兵精足用、英雄樂業、尚當横行天下、為漢家除殘去穢、況操自送死、而可迎之邪、請為將軍籌之、今使北土已安、操無内憂、能曠日持久、來爭疆場、又能與我校勝負於船楫闌チ、今北土既未平安、加馬超・韓遂尚在関西、為操後患、且舍鞍馬、仗舟楫、與呉越爭衡、本非中國所長、又今盛寒、馬無草、驅中國士衆遠渉江湖之閨A不習水土、必生疾病、此數四者、用兵之患也、而操皆冒行之、將軍禽操、宜在今日。瑜請得精兵三萬人、進住夏口、保為將軍破之。權曰、老賊欲廢漢自立久矣、徒忌二袁・呂布・劉表與孤耳、今數雄已滅惟孤尚存、孤與老賊、勢不兩立、君言當撃、甚與孤合、此天以君授孤也。(江表傳曰、權拔刀斫前奏案曰、諸將吏敢復有言當迎操者、與此案同。及會罷之夜、瑜請見曰、諸人徒見操書、言水歩八十萬、而各恐懾、不復料其虚實、便開此議、甚無謂也、今以實校之、彼所將中國人、不過十五六萬、且軍已久疲、所得表衆、亦極七八萬耳、尚懷狐疑、夫以疲病之卒、御狐疑之衆、衆數雖多、甚未足畏、得精兵五萬、自足制之、願將軍勿慮。權撫背曰、公瑾卿言至此、甚合孤心、子布文表諸人、各顧妻子、挾持私慮、深失所望、獨卿與子敬與孤同耳、此天以卿二人贊孤也、五萬兵難卒合、已選三萬人、船糧戰具倶弁、卿與子敬程公便在前發、孤當續發人衆、多載資糧、為卿後援、卿能弁之者誠決、邂逅不如意、便還就孤、孤當與孟徳決之。臣松之以為建計拒曹公、實始魯肅、于時周瑜使■番にオオザト/陽、肅勸權呼瑜、瑜使■番にオオザト/陽還、但與肅闇同、故能共成大勲、本傳直云、權延見下、問以計策、瑜擺撥衆人之議、獨言抗拒之計、了不云肅先有謀、殆為攘肅之善也)時劉備為曹公所破、欲引南渡江、與魯肅遇於當陽、遂共図計、因進住夏口、遣諸葛亮詣權、權遂遣瑜及程普等與備并力逆曹公、遇於赤壁。時曹公軍已有疾病、初一交戰、公軍敗退、引次江北、瑜等在南岸。瑜部將黄蓋曰、今寇衆我寡、難與持久、然觀操軍船艦首尾相接、可燒而走也。乃取蒙衝艦數十艘、實以薪草、膏油灌其中、裹以帷幕、上建牙旗、先書報曹公、欺以欲降(江表傳載蓋書曰、蓋受孫氏厚恩、常為將帥、見遇不薄、然顧天下事有大勢、用江東六郡山越之人、以當中國百萬之衆、衆寡不敵、海内所共見也。東方將吏、無有愚智、皆知其不可、惟周瑜・魯肅偏懷淺■章の右にフユガシラ中に工で下に貝んでもって全体の下に心←トウ意味は馬鹿/意未解耳、今日歸命、是其實計、瑜所督領、自易摧破、交鋒之日、蓋為前部、當因事變化、效命在近。曹公特見行人、密問之、口敕曰、但恐汝詐耳、蓋若信實、當授爵賞、超於前後也)、又豫備走舸、各繋大船後、因引次倶前。曹公軍吏士皆延頸觀望、指言蓋降。蓋放諸船、同時發火、時風盛猛、悉延燒岸上營落、頃之、煙炎張天、人馬燒溺死者甚衆、軍遂敗退、還保南郡(江表傳曰、至戰日、蓋先取輕利艦十舫、載燥荻枯柴積其中、灌以魚膏、赤幔覆之、建旌旗龍幡於艦上。時東南風急、因以十艦最著前、中江挙帆、蓋挙火白諸校、使衆兵齊聲大叫曰降焉、操軍人皆出營立觀、去北軍二里餘、同時發火、火烈風猛、往船如箭、飛埃絶爛、燒盡北船、延及岸邊營柴。瑜等率輕鋭尋繼其後、雷鼓大進、北軍大壞、曹公退走)備與瑜等復共追。曹公留曹仁等守江陵城、徑自北歸
……中略……
權拜瑜偏將軍、領南郡太守。以下雋漢昌劉陽州陵為奉邑、屯據江陵。劉備以左將軍領荊州牧、治公安。備詣京見權。瑜上疏曰、劉備以梟雄之姿、而有關羽張飛熊虎之將、必非久屈為人用者。愚謂大計宜徙備置呉、盛為築宮室、多其美女玩好、以娯其耳目、分此二人、各置一方、使如瑜者得挾與攻戰、大事可定也、今猥割土地以資業之、聚此三人、倶在疆場、恐蛟龍得雲雨、終非池中物也。權以曹公在北方、當廣英雄、又恐備難卒制、故不納。是時劉璋為益州牧、外有張魯寇侵。瑜乃詣京見權日、今曹操新折、方憂在腹心、未能與將軍連兵相事也、乞與奮威倶進取蜀、得蜀而并張魯、因留奮威固守其地、好與馬超結援、瑜還與將軍據襄陽以操、北方可図也。權許之。瑜還江陵、為行裝而道於巴丘病卒(臣松之案、瑜欲取蜀、還江陵治嚴、所卒之處、應在今之巴陵、與前所鎮巴丘、名同處異也)。時年三十六。權素服挙哀、感動左右。喪當還呉、又迎之蕪湖、衆事費度、一為供給。後著令曰、故將軍周瑜、程普其有人客、皆不得問。初瑜見友於策、太妃又使權以兄奉之。是時權位為將軍、諸將賓客為禮尚簡、而瑜獨先盡敬、便執臣節。性度恢廓、大率為得人、惟與程普不睦(江表傳曰、普頗以年長、數陵侮瑜。瑜折節容下、終不與校。普後自敬服而親重之、乃告人曰、與周公瑾交、若飲醇醪、不覺自醉。時人以其謙讓服人如此。初曹公聞瑜年少有美才、謂可游説動也、乃密下揚州、遣九江蒋幹往見瑜。幹有儀容、以才辯見稱、獨歩江淮之間、莫與為對。乃布衣葛巾、自託私行詣瑜。瑜出迎之、立謂幹曰、子翼良苦、遠渉江湖為曹氏作説客邪。幹曰、吾與足下州里、中間別隔、遙聞芳烈、故來闊、并觀雅規、而云説客、無乃逆詐乎。瑜曰、吾雖不及曠、聞弦賞音、足知雅曲也。因延幹入、為設酒食。畢遣之曰、適吾有密事、且出就館事了、別自相請。後三日、瑜請幹與周觀營中、行視倉庫軍資器仗訖、還宴飲、示之侍者服飾珍玩之物、因謂幹曰、丈夫處世、遇知己之主、外託君臣之義、内結骨肉之恩、言行計從、禍福共之、假使蘇張更生、■麗にオオザト/叟復出、猶撫其背而折其辞、豈足下幼生所能移乎。幹但笑、終無所言。幹還、稱瑜雅量高致、非言辞所閨B中州之士亦以此多之。劉備之自京還也。權乘飛雲大船、與張昭秦松魯肅等十餘人共追送之、大宴會別。昭肅等先出、權獨與備留語、因言次、歎瑜曰、公瑾文武籌略、萬人之英、顧其器量廣大、恐不久為人臣耳。瑜之破魏軍也、曹公曰、孤不羞走。後書與權曰、赤壁之役、値有疾病、孤燒船自退、横使周瑜虚獲此名。瑜威聲遠著、故曹公劉備咸欲疑譖之。及卒、權流涕曰、公瑾有王佐之資、今忽短命、孤何頼哉。後權稱尊號、謂公卿曰、孤非周公瑾、不帝矣)。(三国志巻五十四呉書九周瑜)
……中略……
蓋姿貌嚴毅、善於養毎所征討、士卒皆爭為先。建安中、隨周瑜拒曹公於赤壁、建策火攻、語在瑜傳(呉書曰、赤壁之役、蓋為流矢所中、時寒墮水、為呉軍人所得、不知其蓋也、置廁中、蓋自彊以一聲呼韓當、當聞之曰、此公覆聲也。向之垂涕、解易其衣、遂以得生)。拜武鋒中郎將。武陵蠻夷反亂、攻守城邑、乃以蓋領太守。時郡兵才五百人、自以不敵、因開城門、賊半入、乃撃之、斬首數百、餘皆奔走、盡歸邑落。誅討魁帥、附從者赦之。自春訖夏、寇亂盡平、諸幽邃巴醴由誕邑侯君長、皆改操易節、奉禮請見、郡境遂清。後長沙益陽縣為山賊所攻、蓋又平討。加偏將軍、病卒于官(三国志巻五十五呉書十韓當)
     ◆

 三国演義と比べると、孔明は殆ど出てこない。それでも周瑜の優秀さを示したり、黄蓋が音音よろしく水に飛び込む(落ちる)場面は、しっかりある。とはいえ、やはり演義ほど劇的ではない。だいたい呉軍(もしくは協力している劉備の軍師・孔明)が東南/巽の風を妖術に依って起こす場面がない(正史だから当たり前ぢゃが)。しかも、火計の実質的戦術は、黄蓋の献策であった。やはり馬琴は三国演義を主に参照したとは思われる。但し、八犬伝の登場人物は、過去の文物を背負いつつ、其れが一対一の関係で留まってはいない。多対多の関係だ。例えば孔明に擬せられていると疑える者には、洲崎沖海戦で、それこそ赤壁の戦い宜しく火計を立案した毛野が、まず挙げられる。が、立案は毛野でも、演義風に巽風を吹かせた者は、丶大である。火気の犬士・大角も協力している。また、親兵衛も八卦の陣を駆使し、孔明ぶりを発揮する。更に行徳口の戦いで荘介は三国演義を引き、孔明が赤壁の戦いで藁人形を用いて曹操軍から矢をせしめた作戦を真似して、鉄砲の弾(ってぇか玉)を得る。孔明がイッパイな情況だ。ただ注意せねばならぬ事は、当然、三国志も読んでいたであろう馬琴が、演義一辺倒で八犬伝を書いたとは思えない。第五輯口絵の信乃は「王佐の器」と呼ばれている。「王佐」は三国志でも頻出する語句で、王允とかにも使われる要するに王を王たらしめる賢臣ぐらいの意味だけれども、上に挙げた箇所では赤壁の戦いに関連し感動的筆致で孫堅に、「王佐之資」と言わしめている。更に復た、駢馬三連車は飽くまでも水滸伝が元ネタであろうから、既に国府台戦では、三国演義のみならず水滸伝も混じっちゃってるのだ。様々な物語が、様々の人物に移し替えられ蓄積し、八犬伝の各キャラクターは設定されている、と見るべきだろう。故に美貌を以て、正史三国志の周瑜が、信乃とダブらされていると、筆者は判じた。

 因みに、ついでに書き添えると、三国演義の黄蓋役を務めた音音は、「火の玉! 音楽一家」で丙午年生まれであろうと推測した。恐らく間違いないだろう。火気が最も旺ずる時に生まれたからこそ、洲崎沖海戦に於ける火計の実行犯になるのだ。が、丙午生まれの女性に対する差別に対し、馬琴は「禄命家の説に、生れたる年をのみ取るといふことは絶てなし。か丶れば丙午の年をもて生たる女も忌に足らず」(燕石雑志丙午)と一蹴している。一方で、西暦千九百六十六(丙午)年生まれの日本人は、有意に少ない。迷信に左右された結果だ。五行説に拠る物語構築と、現実に対する態度は全く別物だ。だからこそ逆に、馬琴は実生活で家父長制下の家長として傲然と家内を支配する態度をとっているやにも見受けられるが、一方で八犬伝やら傾城水滸伝やら読むと、表層こそ封建制的装飾を施してはいるが、其の実、かなり未来的なコミュニケーション状態が描かれている。勉励・競争(互いを見詰めながら足を引っ張り合う競争ではなく理念を真っ直ぐに見詰めて進むことで第三者的に見れば競争に見える状態)しかして連帯、である。さて、「江戸時代」の八犬伝と「現代」の小説群、何連が人間社会に対し深い洞察を有するか、其の判断は、読者に委ねよう。(お粗末様)

 

←PrevNext→
      犬の曠野表紙旧版・犬の曠野表紙