★伊井暇幻読本・南総里見八犬伝「朝敵・里見義実」/頂点を突き抜けて★

 関東連合軍と里見家の戦いは、里見家側が圧倒的優位に立った所で、和睦を以て終わる。これは偏に蜑崎十一郎照文の機転に依る。だいたい照文が上洛した目的は、荼吉尼信仰にカマけて女色(別に女性同性愛のことではない)を自ら禁じ、男色(別に女性が男性を愛することではない)に走った室町幕府管領・細川政元の寵愛を受け囲われている、犬江親兵衛仁を救出することであった。

 ……そういえば、八犬士が金碗氏を名乗ることに対する勅許を得るために、親兵衛は京に向かった。政元に抑留されるが、同行した照文は安房に帰る。照文は薹が立った分、そそらなかったんだろう。何たって第百十八回、両国の侠豪・枝独鈷素手吉が「生拘り懲らして頑童にせばやと火急の情慾」を燃え上がらせた当の相手、親兵衛である。親兵衛の養育係を自ら以て任ずる代四郎は、紀二六に「京師は殊に男色の行はるること女色に勝れり。且政元主は夙くより悄地に外法を行ふ故に正室側室あることなし、と予聞けども弘法以降竜陽調戯は法師すら許すといへば木犀花をのみ政元主も忌ざるべし。●(人の下に小)らんには幾までも犬江腋子を抑措て頑童にせまく欲する故に弥勒の世まで手放ちて安房へ返す日あるべからず」と胸中を打ち明けている(第百三十九回)。第百五十回に於いて、照文の報告を受けた里見家中は心配する。親兵衛の伯父に当たる小文吾と義兄弟の関係にあった現八は、京に間諜を放って安否を探ろうとする。しかし、(実は宿敵であった)馬加大記の寵愛を受け館に囲われていたにも拘わらず小文吾と出会って結婚まで申し出た毛野が、反対する。「間諜を放ったことがバレたら帰る者も帰れなくなる。里見家の評判も落ちる。占ったところ、遅くとも年内には帰ってくるから、放っておこう。蟇田素藤が里見義通を拉致監禁、緊縛し辱めた挙げ句に晒したとき、義実は『寛』の一字を以て、時機が来るまで攻撃を待てと命じたけれども、今回も、その『寛』の一字だよ」。色香に迷った類の愛/欲望が長続きせぬことなど熟知していたであろう(元)美少女スタァ毛野ならば、それこそ「寛」の一字を胸に秘め、天井の節目を数えつつ、迷惑千万な寵愛にさえも耐えてきた経験があるに違いない。説得力がある。その時の毛野は、きっと遠くを見詰めるような目になって、「ふっ」と冷笑を漏らしたかもしれない。幼い頃から辛酸を嘗め尽くした毛野ならではの、凄艶である。……とか何とか妄想は措いといて、天才軍略家の毛野に、他の六犬士も里見義成も従うほかなかった。但し、実孫・義通の屈辱を「まぁ『寛』の一字ぢゃな」と暫く放置した張本人・義実だけが、外孫・親兵衛を放置しておくことに不承知の表情を見せていた。「寛」を軸に対称し、皮肉っぽく描くことで、義実の人間味溢れる(馬鹿とも言えるが)興味深いキャラクターを、馬琴は表現している。閑話休題。

 えぇっと、それで、毛野が京へ間諜を放つことを否定して五十日ばかり経った第百五十一回、軍事演習を兼ねた大掛かりな狩りを終え十一月中旬となった或る日、そう、義成が「人を害する豺狼、稲穀を暴す猪鹿には、飽まで喫せて、筏に載て遠き嶋嶼へ流せ」(第百五十一回)と命じ、後に国府台の戦で猪が味方になる伏線となった、あの狩りだ。狩りを終えた或る日、義実は、親兵衛を返して貰うよう朝廷・幕府に申し入れようと提案する。毛野は親兵衛を放置するため〈占い(周易)〉を持ち出したが、義実が親兵衛奪還作戦を提案するに当たって持ち出したモノは〈夢占い(周礼)〉であった。義実は夢を見た。七犬士と共に狩りに参加した親兵衛が、虎を倒したというのだ。義実一流の解釈では、虎は猛悪なので悪人たちを意味している。京で親兵衛は、悪人たちに寄って集って責め苛まれているのではないか。……あのな、義実、虎が悪人たちを意味していたとしても、その虎を親兵衛は倒したんだろぉが! 何処で論理が捻じ曲がったんだ? まぁ親心とは、そういうものかもしれないが、此奴のトンチンカンは、「MockingBird」で示した如く、若い頃からのものだ。筋金入りのトリック・スターめ。
 いや、そんなことを言おうとしたのではない。義実の意を受けた義成は、朝廷・幕府との交渉を照文に、文字通り、白紙委任した。白紙に印章だけ押して渡し、内容は臨機応変に書き込めと命じた。文書作成の専門家・大岸法六郎を同行させての上だ。しかし海路、京へ向かう一行は「凶類(あやかし)や憑にけん」荒れ狂う波に呑まれそうになる。占うと、壬癸生まれの者が原因だという。副使である田税戸賀九郎逸時・苫屋八郎景能ら十三人が、弟橘姫よろしく、小船で下ろされ置き去りにされた。遠江灘での事件だ。十三人は三河苛子崎に流れ着き、安房へ取って返すが再び暴風によって新井の浦に逃げ込んだ。三浦義同に捕らえられるが、隣尾家の者だと偽り、居候になる。犬村大角が新井城を攻めたときに正体を現し、義同を捕縛し無血開城させることとなる。一方、照文らは田税・苫屋を捨てて先へと進み、津の海付近で再び暴風に見舞われ、伊勢国阿漕に漂着する。国司・北畠家に海賊と疑われて留められる。そうこうするうち里見家が関東連合軍と戦い勝利を収めたこと、親兵衛は既に安房へ戻ったことなどが知らされる。漸く疑いを解いて京へ向かう。関東連合軍との戦いに就いて、里見側からの〈真実〉を朝廷・幕府に訴え、それを含み込んだ形で和睦/固定すれば後々も政治的に有利だと判断した。照文は、独断で里見義成の呈書を捏造、「載する所、陪臣照文等が意見をもて稟すにあらず」と故意々々言う所は罪悪感の為せるわざか。尤も、任務を終え安房に戻った照文を、義成は「料らざりける汝の●(テヘンに爭/はたら)き是第一の奇功、八犬士に伯仲す」(第百七十九回上)と評価しているので、結果AllRight、問題はない。白紙委任されても臨機応変に対処できる優れた家臣と、抑も優秀な臣下を正当に評価し信頼する器量の武将が共に存在するという、現実にはまず起こらない関係が、創作世界らしい所だ。とにかく照文は、里見家に最も利益となるよう行動した。
 幕府の結論は、「御使を東国へ遣されて定正顕定を御譴責ありて房州と和睦仕るべき旨を御下知」することであった。諚使(将軍の使者)として熊谷二郎左衛門尉直親が、「御教書(将軍が下す命令書の形式)」を携え安房へ下向することとなる。が、此処で何故だか天皇が、しゃしゃり出る。里見の「御忠信と八犬士の大功を感思召よしありて勅使(天皇の使者)を遣さるべしと聞えけり」。勅使代に選ばれた者は、弓の名人・秋篠将曹広当であった。

 諚使・熊谷と勅使・秋篠は、直実と平敦盛でもあるまいに、まるで一心同体の如く行動を共にする。代四郎の言を借りれば「京師は殊に男色の行はるること女色に勝れり」、二人はデキていたのかもしれないが、それにしても極めて重大な政治的表現となってしまっている。
 京を出発した諚使・熊谷は、勅使・秋篠、蜑崎照文らと共に関東を目指す。しかし、諚使・熊谷は両関東管領を譴責し和睦を命ずる任にある。まず上野国に赴き沼田城の山内上杉顕定と面会する。照文は別れて、安房へ先行する。が、「(天皇が里見の)御忠信と八犬士の大功を感思召」した為に派遣された、飽くまで里見家にしか用事のない筈の勅使・秋篠も、諚使・熊谷について行ってしまう。やはり二人の関係はアヤしい。二人は仲良く上野国白井の長尾景春、武蔵国入間郡河鯉の扇谷上杉定正を訪れ、諚使・熊谷は任務を果たす。その時、勅使・秋篠は、如何な表情で臨席していたであろうか。
 漸く安房に着いた諚使・熊谷は、御教書を披露し、里見義成と囚われの敗将たちを和睦させる。一方、勅使・秋篠は文明十六年四月十六日、里見義実・義成・義通を、それぞれ治部卿・正四位上左少将(安房守上総介兼任)・従五位下右衛門佐に、八犬士を従六位下に叙し、それぞれ兵衛尉(親兵衛)下野介(毛野)信濃介(信乃)帯刀先生(道節)大学頭(大角)長狭介(荘介)兵衛権佐(現八)豊後介(小文吾)に任ずる。予定通りだ。諚使・熊谷は和睦を、勅使・秋篠は里見および犬士の叙任を果たせば良い。が、しかし、続く洲崎沖での会盟に於いて、和睦は飽くまで諚使の責任であるのに、熊谷が三浦の仮屋、勅使・秋篠は洲崎の台に陣取って、二人で検分している。
 幕府に人手が足りなかったのか? いや実際、人材は不足していたであろうが、此処は馬琴が創作したイデア世界だ。金も米も消費する実存の世界ではない。馬琴が、適当な人名をでっち上げて副使に任命、ほんの少し文字を足せば良い。そうしなかったのは、馬琴が勅使・秋篠も、和睦に関わらせる為だとしか思えない。そう言えば、諚使・熊谷が里見家に和睦を命ずる段、然り気なく「這義は諚意のみならず最も畏き天朝も叡慮安からざる所あり」と思わせ振りな付け足しがある。

 徳川吉宗の定めた「御条目」によって巧みな出版統制が敷かれていた近世後半(「大坂出版統制史序説」)、絶版事件が相次いだ。馬琴の身近でも、思想犯として捕らえられたり筆禍を蒙った者は複数いる。が、非常に慎重かつ頭脳も性格も甚だ複雑であったらしい馬琴は、最後まで引っ掛からなかった。その慎重な知嚢から捻り出された八犬伝は、慎重に読まねば見逃してしまうのだけれども、実は、かなりヤバイことどもを書いている。

 近世当時、軍事は〈武家の棟梁〉征夷大将軍の専権事項であった。天皇の介入は許されない。東北地方が〈日本〉となった中世以降、突発的ヒステリーの如く膨張したがることは偶にあったし元寇とか無かったワケではないのだが、八犬伝が刊行を終了するまで日本は大規模な〈対外戦〉を殆ど経験しなかった。中央政府の軍事は、専ら国内治安の大義名分を掲げて、行使された。国家にとって最大の要請は安全保障であって、広くは治安維持も含まれる。また防疫も重要な安全保障の分野だが(故に天皇は疫病平癒の祈願をする責任があった)、それに鈍感で危機感の希薄な者は、安全保障ではなく単に戦争ごっこに憧れているだけだから軍事なんぞ語る資格はないのだが、まぁそんな話は如何でもいい。とにかく、歴代中央政府の軍事は、治安維持を目的とした。
 実際には軍事権は、八犬伝の如く「和睦」を命ずる形ではなく、主に「討伐・治罰」の面で行使された。乱を起こした者を治罰し、治安を回復するのだ。そして八犬伝の舞台となっている中世に於いて、治罰を命令する者は、天皇もしくは上皇・法皇であった。行使する者は総追捕使だったり征夷大将軍だったりしたわけだが、あくまで軍事権の根源は、天皇にあった。
 尤も中世でも、或る一時期、天皇から軍事権が剥奪されてはいた。「日本国王」を名乗って能ダンサーらと男色に耽り、近世に行われた説話では、同じく両刀遣いの一休宗純に屏風の虎を追い出せとか何とか色々絡んだ、室町将軍三代・足利義満は、或る時から乱が起こっても決して治罰綸旨を天皇に要請しなくなった。臣下を懲らす時の作法である燻革威鎧を着し、鎮圧に乗り出す。天皇は馬鹿みたいに蚊帳の外に置かれ、室町将軍が軍事権を独占した。天皇を、あらずもがなの存在にしようとしたのだ。が、三代下った義満の子、籤引きによって将軍位を獲得した足利義教は、再び天皇に泣きつき、綸旨を乞う。次のようなものだ。久々の「治罰」であり、半世紀ぶりの〈朝敵〉指定であった。

被綸言称従三位源朝臣持氏累年忽緒朝憲近日興擅兵匪(非とも)啻失忠節於関東剰致是鄙(背とも)輩於上国天誅不可遁帝命何又容(又何容とも)早当課虎豹武臣可令払豺狼賊徒者綸言如斯以此旨可令洩申入給
仍執達如件
永享十年八月二十九日(二十八日とも)   左少弁資任奉
謹上三条少将殿
又御幡には忝も帝御詠歌を被遊と云々
●(シメスヘンに畢)振海中雲之幡之手に東塵於払秋風
(続群書類従版「北条記」「永享記」から)
★綸言を被(こうむ)りて称(い)う。従三位源朝臣持氏、累年、朝憲を忽緒(忽諸/おろそか)にし、近日、擅(ほしいまま)に兵を興(おこ)す。啻(ただ)に忠節を関東に失うにあらずして、剰つさえ是(これ)背輩(そむくのともがら? それとも背誓?)を上の国(関東)に致す。天誅を遁(のが)るべからず。帝の命、また何ぞ容(い)れん。早く虎豹の武臣を当て課して、豺狼の賊徒を払わしむべし。者(てえれば)、綸言、斯(か)くの如し。此の旨を以て、洩れ申し入らしめ給う。仍(よ)って執達、件の如し。
永享十年八月二十八日   左少弁資任奉(うけたま)わる
三条少将殿に謹上す
又、御旗には忝なくも帝は御詠歌を遊ばされると云々
千早振る 八重立つ雲の旗の手に 東の塵を払う秋風

 虎豹/猫科の猛獣を以て、豺狼/犬科の動物を征伐せよと言っている。綸旨は、永享の乱に際して、天皇が発したものだ。原本は不在だが、先人の研究に拠れば当時の女房・貴族の日記にも存在が仄めかされているようなので、実際に発給されたのだろう。元より本稿は史実を追究する者ではない。馬琴が参考とした「北条記」「永享記」などに掲載されていることにこそ、価値を認める。
 足利持氏は朝敵であった。即ち、持氏の子、安王・春王を守ろうとした里見季基や大塚匠作は、朝敵の係累である。義実や番作さんも同様だ。しかし、馬琴は此の件に関して口を噤んでいる。これは、何の故か? 

 いや、隠蔽という消極性だけを論ずるは、無意味だ。天皇から直接に勅使を遣わされ里見三代および八犬士が褒められ補任される積極性との両面があって、初めて馬琴の天皇観が現れてくる。勿論、積極性の面だけ論ずるも無意味だ。八犬伝が舞台としている中世ならば、幕府を通さず直接に叙位されることは、ないわけではなかった。あり得べきことなのだ。戦国大名が案外、天皇を有り難がったとは、既に周知のことであり、馬琴が参考にした軍記物などなら尚更、支配層に属する者の筆になるので、其の傾向は、敬語の使い方なども含め、甚だ強調されている。則ち、単純な「積極性」のみの記述なら、考証に忠実なだけだ。馬琴側の「積極性」を明らかにすることは、論理上、全く不可能なのだ。天皇への積極的な〈敬意〉を論じたいのであれば、里見義実らが朝敵であった筈なのに隠蔽されている「消極面」をこそ語らねばならぬ。そうでなければ、コジツケに堕する。そう、此処に於いて初めて「消極面」は、積極的に隠蔽したと断ずることが出来、「積極面」へと転換する。
 近世半ばごろまでには成立した里見関係の「九代記」や「軍記」なども、里見家が結城合戦で安王・春王に与したことを隠してはいない。幕府の都合で早々に改易されたとはいえ、大名にもなり代によっては安房守とか叙任している里見家にして、「朝敵」の係累であったことを全く隠していないのだ。だいたい「朝敵」とか何とか言っても、現実に於いては、余りイデオロギー的な意味はない。応仁年間前後の混乱した状況の中で当時の天皇は、長く敵対した二人の武将に対し、交互に治罰綸旨を発給してたりする。付け加えれば、八犬伝が基にした安房里見家伝承に於ける義実は、源頼朝をモデルにしているけれども、頼朝だって一時期、朝敵の類であった。吾妻鏡とは云わない、平家物語とか中世小説に親しんでいた近世人士なら、知っていて当たり前の情報だ。……結局、その程度のものだ、「朝敵」って。へっぽこぴーの、お尻ぺんぺん、なんである。喧嘩の時は相手に対し精神的な優位に立つことが初歩なんだが、相手を貶す口実ぐらいのものに過ぎない。

 実質的な意味が余りないにせよ、永享の乱を語る上で形式上、持氏追罰綸旨の存在は、重要だ。にも拘わらず馬琴は、一言も触れていない。実を取り、「朝敵だとか何とか、無意味だ」と無視しているなら無視しているで良いのだが、八犬伝終盤に、天皇が必要以上に介入してくる点からすれば、「朝敵だとか何とか」という、里見家と天皇の〈距離〉は、馬琴にとって重大な問題であるように思う。言い換えれば、馬琴は八犬伝に於いて、天皇に積極的で重要な機能を持たせようとしているのだ。
 また、今ひとつの解釈は、執筆を始めた当初は、馬琴も天皇の存在など八犬伝世界に於いては軽視していたと考えるものだ。途中で考えが変わって、終盤で天皇に重要な機能を取って付けた? しかし、それならば馬琴の行動様式からして、途中の何処かで修正なり訂正なりをするだろう。途中で綸旨の存在に言及し佞臣に依る策謀だったと無効性を強調する、終盤で勅許を与える、など色々と逃げ道はある。里見家当主の「義成」を如何読むかで修正説明を八犬伝に書き込んでしまう馬琴だ。故意でなくて、重大な錯誤を、口を拭って知らぬ顔は出来ない。(形式的には)重大な綸旨の存在を、書かないならば、それは矢張り〈積極的な隠蔽〉でなければならない。

 さて、里見家に対する勅使派遣で、「積極面」を見てみよう。まず、先程も述べた如く、関東諸勢力と里見家との和睦に、介入したことだ。征夷大将軍の専権事項たる軍事(和睦)に、勅使・秋篠将曹は、深く関わった。里見家にしか本来の用事がない筈なのに、諚使・熊谷に、くっついて行き、山内・扇谷の両上杉家に対している。洲崎沖会盟でも、責任者の一人として振る舞っている。中世に於いては確かに、あり得べきことなんだが、馬琴の生きた近世では、許されぬことだ。
 と、そろそろ、お約束の制限行数である。次回も引き続き、里見家と天皇との関係を考えることになろう。
(お粗末様)

 

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