★伊井暇幻読本・南総里見八犬伝「漂う国・南総」/頂点を突き抜けて★

 前回は綸旨まで引っ張り出して、ウジウジ語ったが、そろそろ筆者の云いたいことが、お解りになっただろう。中世に於いて、天皇が(直接の実力行使は伴わないものの)権威として軍事に関与することは、原則として寧ろ当然であった。だからこそ永享綸旨は出されたのであるし、其の後も治罰綸旨は度々出された。加えて、永享綸旨は、〈それまで幕府に軍事権を全く奪われていた朝廷が、其れを取り戻した画期となる綸旨〉であった。
 にも拘わらず、八犬伝では、明確に和睦を命ずる者は、征夷大将軍・足利義尚だ。天皇の関与は、「這義は諚意のみならず、最も畏き天朝も叡慮安からざる所あり」と御教書伝達の折に言及され、然り気なく勅使・秋篠が諚使・熊谷に同行したり洲崎沖会盟で重要な役割/検視を果たすことで、密かに表現されているに過ぎない。此の及び腰は則ち、完全に軍事権を幕府というものが奪取し尽くした江戸期ならではの記述だろう。中世ならば当たり前に発し得た和睦・治罰綸旨を、八犬伝では発せられなくなっている。時代に依る制約だろう。
 即ち、八犬伝に登場する天皇は、中世的世界の中で観念し得る其れではなく、飽くまで近世の現実に縛られた存在であることが解る。但し、縛られてはいるのだが、近世に碇を降ろしたままフワフワと其処から漂い出ようとしている者だ。近世の枠組みの内部から現実的に仮構できる、枠を踏み出す直前の姿だ。天皇は、里見家優位の和睦を望みながら、綸旨で明文化できていない。勅使・秋篠は、諚使・熊谷と同一行動をとることで、和睦の意思を表現する。御教書を透かし見れば、ぴったりと綸旨が張り付いているよう感じるだろう。天皇の軍事権が発動したとき、逆に時代は「近世」であることを許されなくなり、近代となった。幕府は倒れ、天皇が主権者であることを明らかにした。
 だからこそ、永享綸旨は、八犬伝の中では無かったことにされた。いや単純に〈最後には天皇から最大級の信頼を受ける里見家が朝敵だったりしたら都合が悪い〉からではない。あの時点では、朝敵だろうが仏敵であろうが、別に如何でも良かった筈だ。修正は幾らでも効く。此の隠蔽は、天皇に軍事権があってはならぬ世界だからこそ行われたのだ。朝敵の指定は、天皇の強大な統帥権を思い出させるからだ。但し、和睦は治罰を命ずるより高度な権威がなければならない。誰かの尻馬に乗って「やっちゃえ、やっちゃえ」と囃し立てること(治罰)よりも、「止めろよ」と仲裁する(和睦)方が、難しいものだ。
 八犬伝世界に於いて、当初は治罰綸旨すら出せない天皇が、終盤では和睦に関与するまでに権威を高める。其の間には、武家社会/将軍を頂点とする秩序の腐敗が、てんこ盛りに描かれている。天皇の権威が、武家社会の腐敗によって成長している。とは言え、アカラサマに決め付けては書けないから、現役将軍ではなく大御所・義政に悪役をおっかぶせている。此の点は多くの先人が指摘する如く、江戸後期の大御所政治、水野忠邦登場を許した十一代・徳川家斉の存在を彷彿とさせる。極めてリアリティーある描写だ。
 八犬伝に於いて、然り気なく幕府の権威低下が起こっていることは、以下の如き点からも補強できる。第十七回、待望の子供を得た妻・手束が、女名を与え女装させて育てれば健康になるからと、赤子を信乃と名付ける提案をした折、犬塚番作さんが賛成して答えた言葉だ。「わが子もし発迹て受領する事さへあらば信濃の守護にもなれかしと亦祝ぎのこ丶ろに称へり」。
 「受領」は元々、国司となることを意味していた。従五位になると色々と特権が与えられるので〈貴族〉と呼ぶが、中央官で参議とか納言とか大臣なんかにはなれず専ら地方官/国司に任ぜられた下級貴族以下を、受領層と謂う。しかし、鎌倉・室町両幕府の時代を通じて国司の権威は暴落し、地方の支配は幕府に依って設定された守護が行うようになる。守護になることが地方支配を意味するようになる。本来の意味を離れた「受領」なる語彙を用いても、可だ。だいたい番作さんは関東公方の忠実な近臣だったのだから、幕府至上主義が染み付いていても仕方ない。番作さんにとっては、地方支配イコール(幕府が設定する)守護なのだ。
 が、八犬伝に於いて「守護」が機能しているケースは少ない。管領細川家が阿波に拠るのは同国守護だからだが、八犬伝は其処まで書かない。逆に、北畠は伊勢の「国司」と明記されている。甲斐源氏・武田に至っては「国主」との表記だ。実際には武田は、甲斐の国司であり守護でもあった。即ち八犬伝では、幕府によって設定された「守護」が影を潜めている。地方支配を正当化する上位権威からの認定は、ただ「国司」しかない。国司は勿論、中世には形骸化した律令制下の官職であり、朝廷が任命する。しかし、八犬伝で地方支配は、何故だか、朝廷によって認定されるものなのだ。
 ところで、鎌倉・室町・江戸と三つの幕府があったが、これら幕府は、配下の武士の官位官職を管理していた。最も完成したシステムを備えた江戸幕府の場合、申請に拠って纏めて朝廷に送り、除目をさせていた。家によって極官(最高で何処まで昇れるか)が定まっており、申請された官職が既に定員に達している場合は、同格の他官職を振り当てた。武士が独自に朝廷へ申請することは出来ないし、其処等の大名家へ位記を携えた勅使が赴くなど、あり得ない。
 八犬伝第九十七回には、次のような表記がある。
 「安房上総二州の守(かみ)、里見治部大輔源義実朝臣は往る長禄二年の秋、伏姫富山に自殺の折、大かたならぬ奇瑞あり、且金碗大輔孝徳入道丶大坊は当時八方へ飛去たる那八箇の名玉の往方をいかで索んとて忽地行脚の錫を鳴らして飄然として辞し去りしより……(中略)……稍久しく信もなき、この比よりして義実主は隠遁の情願あり……(中略)……家督譲りの規式あり。安房の御曹司義成は堀内蔵人貞行を使者として随便京都将軍家(足利義政)へ、よしを告免許を得て安房守に任じられ房総二州の国司たり。時に長禄三年己卯の秋八月、伏姫の一周忌……後略」
 まず「安房上総二州の守(かみ)」だが、別に「守護」の略称ではないだろう。里見家が守護に任ぜられたなどということは、史実にも八犬伝にもない。が、義実が安房守に任官したことを窺わせる記述も、八犬伝にはない。よって、義実の「守」は地域支配者ぐらいの意味だろう。ただ、地域支配者を意味する言葉として、守護ではなく律令制下の地方一等官である守を用いている点には注目して良い。
 治部大輔、中央官庁の上級次官であった義実は安房上総を平定し、息子の義成に譲った。そして義成は「安房守」に任ぜられる。地方支配者としての実質を、朝廷に認定されたことになる。里見家の支配が、正当化された。此処で注意すべきは、義成の任官は幕府に申請し幕府の認定を受けて初めて実現している点だ。上述の如き武家社会のセオリー通りだ。此処で里見家は、(かなり独立性は強いが少なくとも形式上は)幕府の管轄下に在ると言って良い。
 そして第十一回には、「里見治部少輔義実朝臣は、山下麻呂安西等の大敵を滅して麻のごとく紊れたる安房の四郡をうち治め威風上総の尽処さへに靡ぬ武士もなかりしかば、鎌倉の両管領山内顕定扇谷定正も(康正元年成氏許我へ退去の後顕定定正両管領たり)侮りがたく思ひけん、再て京都へ執奏して義実の官職をす丶め治部大輔になしてけり」とある。此の段階で任官の為の窓口は、関東管領だ。関東管領は幕府の東国支配ラインだから、第九十七回のシステムと、本質的な差はない。
 しかし両関東管領を含む(ついでに許我公方も含む)関東諸勢力との戦いを経て、第百七十九回中、八犬伝終了間際に里見家は、天皇からの勅使を直接に迎え、官を進める。此れに先立つ第百四十九回、京都から安房へ帰ろうとする犬江親兵衛仁は途中で勅使・秋篠に呼び止められ、任官を命じられる(辞退)。此等のことどもから、関東諸勢力との戦争勃発で、里見家が幕府ラインから形式上も独立、天皇に直属する形になったと考えられる。すると諚使の和睦勧告は、〈命令〉ではなく、格上の存在に依る仲介に過ぎないことになる。但し関東管領は幕府ラインなので、彼等に対しては命令だ。管領に属する武将たちに対しても、同様である。十一回では関東管領管轄下であった里見家が、第九十七回では京都将軍直轄、第百七十九回(または第百四十九回)に至っては天皇直隷と、位置を変えていったことが解る。其の道行きは、里見家が幕府なる者に対し独立性を高める過程と言える。
 そして、第十一回では、まだ八犬士は登場していない。即ち、まだ関東管領たちの腐敗は読者の眼前に現れていないのだ。此の時点では、関東管領が里見家を管轄している。第九十七回、此の時には既に両関東管領の暗愚ぶり取り巻き連中の奸佞ぶりが十分に描かれている。里見家は京都将軍の管轄となる。第百四十九回、京都で大御所・足利義政の愚行に依って惹き起こされた画虎事件、管領・細川の仁抑留などと、中央政権・室町幕府の堕落ぶりが既に紹介されている。里見家は天皇直隷となる。腐敗せる者は、里見家を監督することが出来ず、より上位の権威に権限を譲らざるを得ない。「何を以てか人に教えん」である。また、官位の面でも、足利氏より高位になると甚だ不自然なので馬琴も遠慮したのだろうが、里見義実の治部卿(正四位下相当官)は、管領・細川家の左京大夫(従四位下相当官)より上だ。「MockingBird」で述べた如く、位階は天皇からの距離を示す。
 ところで官位官職に就いて論ったが、実際の戦国大名の中にも、叙位叙任に関心を寄せる者たちがいた。織田信長など、元々「上総介」を名乗っていた(朝廷の認可を受けたものではなく僭称との説もある)。彼は、上総なんか行ったこともなかっただろう。が、ある時、何を思ったか、朝廷に願って「尾張守」を拝命した。領国と官職を一致させたのだ。既に下克上の時代、守護は既に実質を喪っていた。権威を失った「守護」よりも、遙か昔に内実を欠落させた朝廷官職を、自己の正当性として纏ったのだ。最近の〈死語〉よりも、とっくの昔にお蔵入りしていた言葉の方が、何となく新鮮味があるものだ。彼自身も尾張守護代の其の又家臣の家柄から、のし上がった。まだ「守護」が機能していた頃でも、筑前守護でもあった大内義隆は、筑前守や太宰大弐を受けたほか、領国である周防守や隣国である伊予介を拝命している。そしてまた、松平信康は、何を思ったか徳川(得川)なる苗字を引っ張り出し、勝手に称すれば良いものを、わざわざ朝廷の認可を受けて藤原氏徳川を名乗った(何時の間にやら源氏になるが……)。徳川家康である。また彼は、領国である三河の国司(守)を願って許された。三河守は、彼を人質として長らく育て支配した、今川義元が受けていた官職でもある。徳川家康が叙任し且つ朝廷の許しをワザワザ受けて姓氏を改めた史実は、八犬伝とも無関係ではないだろう。まぁとにかく、実際に戦国大名たちは、「守護」なんか無視して、何となく有り難そうな国司の官職を欲しがったりしたのである。此れは勿論、「守護」が既に権威を失墜させていた幕府に繋がる語彙であるので、自らも凋落傾向の安っぽいヤツだと思われたくなかったからだろう。〈幕府なるものが権威を失墜させた〉場合に、国司の官職が地方支配を正当化するであろうと考えた馬琴の史的想像力は、正しく正当である。

 これまで見てきたように、八犬伝の中では、一貫して国土の分割支配は朝廷から与えられる国司の官職が正当化しているのだが、当初は朝廷/天皇の権威がアカラサマではない。そして、武家社会秩序の頽廃が描かれるにつれ、里見家と幕府の相対位置は変化していく。同時に里見家は天皇に接近する。幕府の背後に隠されていた天皇が、明らかな権威として読者の前に姿を現してくる。幕府の下降に伴い、天皇と里見家が上昇していく関係にある。第百七十九回、諚使に対しては「熊谷直親は義成にうち向ひて房州将軍家の御諚ありといへば、義成阿と応て膝を找めて拝聴す」、勅使に対しては「秋篠将曹広当は佶と義成にうち向ひて房州升進の宣下ありと告れば義成答も果ず義通と共侶に席を避て拝聴す」と当然ながら、勅使に対する礼の方が厚い。最大級の敬意だ。
 では、八犬伝に於いて、里見家は天皇に従属していると言えるのか。抑も国司は、律令中央集権体制下の地方官に過ぎない。領域の租税を徴収し労役を賦課し、中央の財政にも充てる責務を有する。施政に於いても、中央の指揮下に在る。理念としては、独立性がない(尤も中央から目の届かないことを良いことに好き放題だったかもしれないが、「理念としては」中央に従属する)。国司を本来の意味に逆行させるならば、其れは中央集権/天皇親政にまで行き着かなくてはならない。しかし、八犬伝で里見家は、天皇に対し最大級の敬意を払っているものの、其れは天皇という理念に対してであり、実際には独立しているように見える。少なくとも領内の年貢を、定期的に献上しているなんて記事はない。施政に関して、干渉を受けている風でもない。天皇親政なんて、微塵も感じさせない。

 一方、幕府に対しては如何だろう。例えば、幕府のライン上にある関東管領に対し、義成は如何な態度をとったか。十二敗将を慰問した里見義成は、こう切り出す「諸君いよいよ恙まさずや。義成不慮に罪を両管領家に得てしより料らずも水陸の闘戦に……」(第百七十九回上)。「罪を得て」は上長に対する態度だが、しっかり関東管領の攻撃に応戦して撃破しているのだから、儀礼上の言葉だろう。また第百七十九回中、諚使に和睦を勧告されて、「天威御武徳の過分き恩命を辱くす」と言っているが。「天威」は天皇に対する言葉であるから、和睦勧告に天皇の意思も関与している事情から言ったものだ。「御武徳」が将軍に対する言葉だが、極めてニュートラルで、臣下の礼をとっているとは言えない。
 付け加えるなら、結城落城時、里見季基の言葉がある。「足利持氏ぬしは譜代相伝の主君にあらず。抑わが祖は一族たる新田義貞朝臣に従ひて元弘・兼務に戦功あり。しかりしより新田の余類、南朝の忠臣たれども明徳三年の冬のはじめに南帝入洛ましまして憑む樹下雨漏りしより、こ丶ろならずも鎌倉なる、足利家の招きに随ひ給ひ、亡父(里見大炊介元義)は満兼主に出仕し、われは持氏ぬしにつかへて今幼君の為に死す。志は致したり」(第一回)。また八犬伝の認識は、冒頭「京都の将軍、鎌倉の副将、武威衰へて偏執し、世は戦国となりし比……」(第一回)であるので、関東公方は室町将軍の「副」、ライン上の存在だ。季基は、足利家に代々仕えていたのではなく、元は一族である新田義貞と共に南朝方として戦ったと強調する。新田義貞は何時の間にか徳川家康の先祖筋に祭りあげられた人物だが、それはさて措き、足利家の敵方(南朝)であることを強調し、仕方なく従っていたのだから季基自身の命一つで贖えば、主従関係はキャンセル出来るとしている。季基は幕府の大軍に飛び込み、討ち死にする。義実は、朝敵・関東公方家から独立する。住民に奉戴され安房を押領したから当然、幕府に臣従する謂われもない。

 結局、八犬伝では、「皇天皇土」(第八回)、国土の分割統治を正当化するものは、将軍の朱印安堵や守護職任命ではなく天皇の承認であり、里見家は幕府よりも天皇を尊重する態度をとるが、実際には臣従しているわけではなく、独立している。此処で構想されているのは、一種の象徴天皇制下での地方分権だ。且つ「武徳」比較的大規模な軍事力を有する〈武家の棟梁〉たる将軍は、里見家を臣従させることないまま其の存在を許されている。有り体に言えば、天皇を明確に象徴的国王とし、最大の武家として将軍も置くが、飽くまで地方支配は大名に任せるとの国家構想に庶い。征夷大将軍は、天皇の意を受け軍事権のみ行使する。実は此れに類した構想は、幕末期に浮上したことがある。幕府の存在自体を許した点に於いて保守的だと言えるが、幕府の権限を奪い天皇を名実共に最高の権威として返り咲かせよとした点に於いて、過激に反体制的だ。また里見家は、安房の住民にとって、上から押し付けられ派遣されて来た者ではなく、自ら選んで奉戴した者だ。前近代社会の枠で構想したにしては、地方分権どころか地方自治に庶い側面ももっている。義実の跡を継いだ義成も偶々名君であったから、世襲ではあるけれども、まぁ〈二世知事〉ぐらいの前近代性しか与えられていない。しかも、十代(実際には疑問符も付けられている)で断絶した史実を紹介し、世襲が永遠ではなく、いや、それどころか、三代目以降は八犬士に見放され、即ち天命を失い、安房支配の正当性を欠落させると明らかに示しているので、世襲制の限界を批判的に指摘してもいる。

 ただ疑問も湧くだろう。上記のような象徴天皇制地方分権国家に於いて、何故、将軍の存在が許されたのか。無用の長物ではないのか。征夷大将軍の存在価値は何処にあるか。……恐らく其れは、国防の為だ。馬琴の生きた時代は、フェートン号事件やらシーボルト事件やら、十八世紀末当たりから鎖国体制を脅かす事件が頻発してくる。ゴロツキ老中・松平越中褌(担ぎ)定信は、罷免後も幕府の信頼厚く、海防の大任を帯びて安房を巡検、「狗日記」を書いたりした。国内の治安行動なら幾つかの藩を動員すれば済むだろう。が、外敵に当たるには挙国一致せねばならない。外敵/夷を征する為には、各藩を束ねる「武家の棟梁」たる大将軍が必要だ。里見家が割拠する安房には、現在でも日本軍の基地がある、江戸防衛の最終ラインだ。象徴天皇制を夢見た江戸っ子・馬琴は、江戸遷都の腹案ももっていたか。象徴天皇制下の地方自治社会で、南から攻め寄せる黒船に対する最終防衛ラインであり且つ最前線たる安房に、里見家を配置し、理想国家を夢見た馬琴。其の夢は半ば実現し半ば崩れ、八犬伝刊行終了後ほんの十五年ばかりで、此の国は近代明治国家へと雪崩れ込んでいく。明治国家は象徴天皇制ではなく、統帥権を含め、「統治」していた。地方官も中央から派遣される、中央集権国家であった。

 現在は、象徴天皇制下で、中央集権の度合いを極めて色濃く遺した地方自治が行われている。形式上は、馬琴の見た夢が部分的に叶えられている。しかし、残存する世襲制を始め贈収賄、弱い者苛め逆に被害者ぶって陥れようとする族、事実より印象や希望的観測が幅を利かせる風潮……、ご立派な体制内で流通するコミュニケーションは、果たして清廉なものであるや、否や。以て、瞑すべし。
(お粗末様)
 

 

←PrevNext→
      犬の曠野表紙旧版・犬の曠野表紙