★伊井暇幻読本・南総里見八犬伝「はみ出し者」/頂点を突き抜けて★

 「漂う国・南総」に於いて、里見家は、将軍をスッ飛ばして、強い独立性を有しながらも天皇に形式上直隷していると考えた。天皇から独立して存在することは、中世以降幕末まで、当然至極の状態であった。まだ多少の権威は残していた幕府をスッ飛ばして、天皇に直接関係した点が、里見家の特徴である。
 八犬伝の最終場面、犬士らは山に登り仙化し、如何やら天に昇った。犬士に見放された里見家は、徳を失い混乱の中に投げ出された。十代安房守忠義に至って亡ぶ。いや、里見家が徳を失ったからこそ、犬士が見放したのか。犬士らが鬼神/精霊であるとは、従来行われてきた解釈だ。八柱の現人神は、八行/徳を体現していた。「仁義八行の化け物」(坪内逍遙)だ。
 ……「仁義八行の化け物」だから、如何したってんだ? 小説は作者の「こうだったら面白いな」、理想(アンチ理想だとしても理想の存在を前提としている)を描くものだ。また、此等の「徳」は、長い間かけ人間社会が円滑に営めるよう編み出されたものだ。此が、徳の本義である。別に■■陛下万歳と叫んで突撃することが忠でもなし、仁義とはヤクザのことではない。徳は別に、堅苦しいものではない。例えば朱子学のように、為政者が、都合の良い解釈を押し付けたとしても、其れだけが「徳」を規定するものではない。一つの偏った政治的な解釈に過ぎない。近世、庶民は朱子学よりも、大塩平八郎も講じた陽明学(心学)に寄っていた。だいたい「徳」は、何等かの理念を実現する為に近道となる態度や考え方を謂うのであって、だからこそ、人により時代によって様々な解釈が為されてきた。現代には現代の「徳」があって良い。金太郎飴だって、折る場所によって微妙に表情を変える。金太郎が、何時の間にか、お多福にしか見えない顔になっていたりするものだ。
 権力者にとって最も重要な資質は、急に愛想が良くなって擦り寄ってくる佞人に安易に騙されないよう、人を見る目を養うことだが、里見家の如く犬士等が自然と集まって来る様な場合は、馬鹿でも務まる(賢くても務まるが)。ただ、現状に流されて迎合し、何も考えないまま肯定する者は、河鯉孝嗣を見限ったつもりで逆に見放された関東管領の如く、滅びの道を歩むしかない。対して、さほど超人的でもない里見家当主は、伏姫の「輝かしき蛮行」によって何者かに犬士を与えられ、理想的で平和な国を建設した。里見家当主の質が落ちたために犬士が見限ったことから逆説的に、少なくとも義実・義成は、犬士の眼鏡に適った有徳の人物だったことが解る。
 八犬士は、役行者によって里見家に与えられた。役行者に就いて、民衆扇動の濡れ衣を着せられ伊豆に流されたけれども毎夜毎夜空を飛んで富士山とか安房・洲崎に遊びに行っていたとか、そういう説話は周知であろうから省く。「鳥だスーパーマンだ、いや役行者だ!」(改めて書くと恥ずかしいタイトルだな)にも書いた筈だ。彼の終焉は、如何なものであったか。まずは、有名な「役行者本記」から。
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大師小角終焉分終畢
文武帝大宝元年辛丑五月初旬詣葛木修護摩而止数日又至箕面山又詣熊野権現現形而交語数日従夫帰山上修護摩而止数日又至千原寺遺告弟子本行而言我年於六十八本寿無限化寿至今汝等莫悲歎遺法在世而度脱群生遇此法者遇我也我心唯有大峰縦雖辞去此土本魂長止大峰而不移他適経箕面葛木諸山而結夏大峰終到箕面伝法之故矣誘引老母而至箕面鳴声而白聖衆報寂静之旨六月七日未暁丑時載于母儀鉄鉢微笑而隠没(矣)
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 役行者が六十八歳で、母を鉄鉢に載せ何処かに隠れた、とある。死んだ、ともとれる書き方だ。役行者は、母親孝行で知られている。神通力を持っているのに、朝廷に捕らえられ伊豆に流されたのは、母親を人質にとられていたからだと説明する書が多い。再び自分の弱味にならぬよう、母を鉄鉢/空飛ぶ円盤に載せ共に何処かへと飛び去った、と解する方が面白い。どうせ神話/フィクションだ。続いて「役君形生記」、
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第八小角入唐之事
従大宝元年往于箕面寺三年保天命七旬而乗母於一鉢自身坐草葉而泛海入唐○大和国誉田八幡記曰役行者将入唐詣当社神告曰蓬莱之薬不嘗無益崑崙之玉不琢不宝於是行者赴唐入崑崙山仙崛矣○古老伝云行者去日本国母白専悲恩愛之別行者親子別離難思無為方母乗一鉢我身居草座泛万里波浪被移新羅朝矣○釈書曰世云小角自坐草座載母於鉢泛海入唐矣仄聞天竺王旁平乗浮木至天河遇牽牛織女二星達磨乗葦葉来少林寺弘見性悟道矣○秘記曰大宝三年癸卯行者七十之六月七日雖入唐朝猶去来日域于今不尽(云々)○経曰我時語衆生常在此不滅以方便力便力故現有滅不滅矣其時御記文曰本覚円融月遙雖隠西域雲方便応化影普移秋津州水(矣)

第九異類化度之事
吾朝之道昭法師 釈道昭世姓三船氏河内国丹北郡人也居南都元興寺有戒行之誉白雉四年癸丑五月奉勅従遣唐使小山長丹渡唐而遇玄弉三蔵受法相三論禅宗教帰朝而後文武四年三月道昭年七十二而逝委見元亨釈書○承勅為求法渡唐受新羅山五百之虎之請至新羅深山講法華経法会場以日本国詞上疑有論義者道昭和尚問誰答曰我是日本国役優婆塞也化度異類連此会也但親子契天仙難捨母儀副我来此州慈父骸即有日域故今常通日本国通日本者猶有幽深致雖動我心事短筆難摸且有恐暫閣之以自身観至焉○道昭自高座下求音計不見也 元亨釈書引古記曰道昭師在唐時五百群虎共来作礼一虎人語曰新羅山中衆虎之所伏也願師赴山導我等暴猛昭点受請乃至彼講法華群虎側聴其中有和語者進曰我是日本国役小角也昭愕然問曰何在此対曰本国神曲諂以是我遁去化異類耳此事年代少乖疑又役之放逐古史或有誤乎昭師在唐者孝徳帝白雉年中也先大宝殆半百不弁何是非矣愕然者驚貌也顧眄也邪視也
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 此処では道昭が唐で役行者から聞いた話として、母とは別れ難く鉢に載せて連れてきたが、父の遺体が日本にあるため時々は日本に帰っている、と書いている。唐に行者が行ったきりだと、日本で行者の有り難さを喧伝しても効果が薄い。宗教的な必要性からも、行者は時々帰国してくれなくては困るのだろう。「役君徴業録」では、
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(大宝元年)夏五月朔公移錫于箕山欲示滅于此也山神泣涕草木変色公唱一偈曰本覚円融月雖隠西域雲方便応化影猶在東海水六月七日晏然示寂未幾或人見公載老母於鉢自乗五色雲而去入皆驚異遂啓墓視棺唯金策鉄屐遺焉屐○講式秘訣集密録○釈書云自坐草座載母於鉢泛海入唐○形生記云大宝元年写錫箕面寺三年公年七旬●(テヘンに雋)母入唐○秘蔵記云元正帝養老七年癸亥公遺言曰吾在●(鶏の鳥が隹)足洞待鴟頭会為釈尊弟子●(廐のツクリの下に旦)涅槃座文殊室利先至阿難与吾後至吾現法喜菩薩相自仏言吾為度衆生生彼東土因此誓願故至于支那来于日域汝等諦聴経一百余歳秘密之法必伝来日東爾時吾亦出遍知院而在陀羅尼場是歳公年六十歳於大峰深山安然而寂未過一七日紀州賈遇于摂州其状異常賈問曰何之公曰天竺既而聞公寂不信開棺見之唯納衣錫杖鉄屐有焉
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 崑崙山仙崛に行ったとも新羅に行ったとも入唐したとも書いているが、とにかく、役行者は日本を離れたようだ。また、役行者の棺を確かめてみたら、錫杖と鉄靴などしか遺っていなかったともいう。衣も遺っていた記述もあるから、役行者は素裸で、墓から飛び出したか(見たくないな)。役行者が飛び去ったと書いておきながら、ちゃんと役行者の遺体を葬っている。此れは矛盾だが、他史料などと繋ぎ合わせれば、唐に渡った高僧・道昭が行者に出会って初めて行者が唐に飛んで行った事情が人々に知られた、と解釈し得る。人々は死んだと思っていたが、道昭なり誰なりが死んだ筈の行者と出会い、実は行者が死んではいなかったと発覚、調べると、役行者の遺体が消えていた。無理に時系列に沿って書くから、話が拗れてしまうのだ。「役行者本記」に「我年於六十八本寿無限化寿至今」との表記があった。八犬伝で一休が果たし丶大の先触れとなった「尸解」と見るべきだろう。因みに、役行者を達磨、「尸解」の解説で馬琴が八犬伝に引いた、中国の高僧に擬する表現もある。続いて、「深仙灌頂系譜」。
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大宝二年壬寅六月七日自箕面山戌亥峰大唐飛去畢六十九歳○行基菩薩金剛山縁起云……(中略)……大宝元年辛丑自伊豆大島帰帝都途中凌虚空飛去于時六月七日六十八歳
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 此処でも役行者が入唐したとあるが、配流から許され都に帰る途中に、飛び去ったとの説を引く。「證菩提山等縁起」では、
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前略……件行者唐国三十仙人中第三座也以何知之者日本国求法遣唐制学生道昭大徳得五百賢聖請住新羅山寺講法華経時神仙毎日集会聴道昭上人所説其中第三聖人以彼倭音楊問論義時道昭法師驚奇之道昭已日本国之制学生何所御座誰申聖者以和音為問哉時件聖人答云我者日本国大和国金峰山葛木山并駿河国富士峰等修役優婆塞也時道昭法師従高座下礼拝喜悦爰彼此譲敬交談云依有度衆生之心含恨捨本山母負坐鉢渡来於此国●(クチヘンに令)●(アシヘンに并)送年雖然難忘本所三年一度詣仕於金峰山葛木富士島等寄談奉代
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 役行者が出国した理由を、「含恨」と明示している。他史料でも冤罪で配流され、剰つさえ最愛の母まで捕らえられた役行者が、唐突に日本を出るから、恐らくは此の国に愛想が尽きたからだと察しはつくけれども、明確に書いて貰うと安心できる。付け加えるならば、「鳥だスーパーマンだ、いや役行者だ!」に於いて紹介した如く、諸史料中には、役行者を素盞鳴の子孫とするものが幾つかある。

 八犬士が仙化する所だけ読めば、それが何を元にしているか全く判断できない。似たような話は多くある。しかし、八犬伝の主宰神である役行者にも似たような話(俗を離れ山に籠もり何処かへと消える)がある所から、関連性を指摘できる。役行者は日本に愛想を尽かして姿を消した(朝鮮半島を含む大陸方面に渡った)、八犬士も里見家に愛想を尽かして姿を消した。愛想を尽かして此の国を見捨てた点が、共通する。

 「天皇」は、其の言葉の採用時点では、亜細亜大陸(朝鮮半島含む)へと膨張する意思を秘めていた。しかし現実として膨張は、任那府なり植民地期朝鮮なり、極めて短期間に終わった。天皇の支配する領域は、ほぼ日本一国を限界としてきた。いや、幾ら膨張しようと、天皇が支配する領域を「日本」とするならば、愛想が尽きれば、NowhereLand此処にあらざる国へと飛び出すことになる。まぁ、話を単純化するため、天皇を実存としての日本一国に限定される、象徴/理念としておこう。
 天皇を、理念として主観的秩序(社会観/世界観)の頂点と考えると、此の国の枠を越えられない。頂点と考えない時に初めて、此の国の枠を軽々と越えることが出来る。役行者は仏教者であった。仏教は世界宗教であり、天皇も仏弟子とされた前近代、世界の頂点に天皇が存在しているわけではなく、日本の外部に(想像もつかないような雑多な)世界が広がっていることは、当然であっただろう。和漢三才図会には、体に空いた穴に棒を通して運んで貰う人やら犬人やら何やらが、ウヨウヨ登場してくる。まぁ実際に多くの人々は此の国を離れるわけにはいかず、此の国で肉体を滅ぼし死んでいくのだが、精神は肉体の制約を離れ自由に飛翔し得る。其の自由を眼前に想起せしむるものが小説/虚構であるから、八犬士だって仙人/通常の肉体に依る制約から解き放たれ、自由に此の国を見捨てる。
 役行者の祖は素盞鳴だ。一方、素盞鳴の嫡流たる大国主は天照の子孫に国を譲った。大国主の子孫は、信濃・諏訪の辺りに囲い込まれ、外に出ることを許されなかった。信濃は此の国で唯一、素盞鳴(の子孫)が支配を許された土地なのだ。水気の剣・天叢雲剣で象徴される素盞鳴の国・信濃は、最初に登場する犬士の代表、水気の剣・村雨を持つ犬士・信乃が受領する国だ。素盞鳴は記紀中で唯一、天照に対抗し一度は岩戸に籠もらせた/死滅させた神すなわち天照から唯一、独立し得る神だ。記紀神話の主宰・天照から独立するとは、「日本」の枠から飛び出し得ることを示す。信乃によって代表される八犬士は、素盞鳴の末裔だ。
 「神余」だ。神の余り、余った神、秩序内から外れた神である。八百万柱の神々を統率する天照から唯一独立し得る異人/異神・素盞鳴の末裔に、神余/金碗氏を認めるとは即ち、理念上の独立を天皇が承認するに外ならない。「理念上の独立」とは、世界観の中で天皇を頂点とせず、LookingThroughYou透かし見て、より高次の理念を身の裡に置くことだ。高次の理念に逆らうならば、俗世で最高の権威とされる者であったとしても「天皇御謀叛」罰せねばならぬ。例えば「高次の理念」を憲法と置換すれば、立憲象徴天皇制ともなるが、硬い話は止めておこう。
 椿説弓張月がある。源鎮西八郎為朝が、当たるを幸い殺し尽くし姦しまくり、通りすがりの暴れん坊に周囲が振り回される、(幼稚ではあるが)痛快悪漢小説の圧巻だ。為朝も此の国の枠をはみ出し、琉球王朝を打ち立てた。三種神器に天叢雲剣が数えられているように、天照が素盞鳴の力を取り込んでしまっている。天皇から枝分かれした源家であっても、素盞鳴の系譜は実は混ざってしまうだろう。即位儀式の内には、新帝が宝剣と一夜を共にする呪法が組み込まれている。剣はファロスの象徴でもある。天照が実弟・素盞鳴に貫かれ一体となるインセストにより、五男三女が生まれ、うち一人が神武へと繋がる。天皇から枝分かれした源家に先祖返り、素盞鳴似の為朝が生まれたって(理念上は)不思議がない。独立し得る存在・為朝が、日本から飛び出し琉球王朝を建てたのだ。が、自らの理念/王朝が確立した後、今度は崇徳院の廟前で切腹して果てる、けれども遺体は忽然として消える。種明かしは「為朝既に福禄寿仙の擁護を受、又讃岐院の引接によつて生ながら神となり神変不測の通力を得て、日の本へ飛帰り給ふといえども、なお人間にありし日の夙念を果さん為に、白峯の山陵にて自殺を示し、軈て脱仙して、天地に●(ギョウニンベンに尚)●(ギョウニンベンに羊)し人の為に生を利し死を救んと誓ひ給ふなるべし」(残編巻五)。此も一種の「尸解」であり、八犬伝と共通している。為朝の場合は、源氏すなわち天皇の枝分かれであることから、日本/天皇のしろしめす国に未練を残していたか。それでも一度うち立てた理念/王朝は因果の中を転がり始め、後戻りはできない。為朝自身が自殺の〈真似事〉をしたって、琉球王朝は日本とは独立に時を刻む。此の点、玉梓が往生しても、里見家への呪いは八百比丘尼に引き継がれ、消滅しない理屈と同様だ。
 しかし金碗/神余/素盞鳴の嫡流たる犬士らは、未練なく此の国を見捨てて顧みない。源為朝と違って遠慮がないのだ。里見家は、八犬伝に於いて、天皇から枝分かれした源氏であることを殊更に強調されている。皇土に於いて南総が強い独立性を持つ理由に見えるかもしれない。しかし、犬士らが八行すなわち天子であっても遵守せねばならぬ〈法〉を象徴しており、里見家/源氏/天皇を突き抜けて、より高次のルールに従っていた(故に里見家がルールを破れば見放す)との動かし難い、八犬伝に於ける法則を、無視してはならない。
 人間社会は、ややもすれば人格支配に流れがちだ。理念ではなく、愛想がよいとか仲良くしてくるとの人間関係とやらに規定されてしまう。人間関係とやらから逆に、仲良しだから善い人だとか優れているとか、あらぬ誤解をしてしまう。佞人の蔓延る所以であり、各種選挙で、政策論議が前面に出ない原因だ。確かに、〈人間なんて所詮そんなもの〉だ。が、人には理想を夢見る勇気と知性が、本来なら備わっている。
 八犬伝後半に、一休が登場する。彼は室町将軍に画虎を捕らえよと命じられ、虎を絵から追い出して実体化させたら捕らえてやると切り返した、との説話で有名だ。そのこともあって八犬伝で、仁の引き立て役として暴れ回った画虎を消滅させる役回りを与えられたのだろう。高僧であるから、後に描かれる丶大の「尸解」を予め行って見せ、読者に受け容れ易くさせる機能もあった。また、彼は江戸期に刊行された説話集でも、「生仏」(一休諸国物語など)などと表記されており、既存の権威、武士いや、それどころか天台座主とも対等以上に渡り合っている。天台座主は、通例、親王が就く(稀に摂関家の子弟が就いた)。天台宗は、余り目立たないけれども前近代に於いて最大の宗派であり、最も高い格式を以て朝廷に遇された。王法(俗世の権威/天皇)と仏法は両輪とされ、既存権威としての仏法の最高位置/天台座主には、親王が就かねばならなかったのだ。それは、殆ど伊勢斎宮が、当然の如く内親王の職であったことと庶い。一休が天皇の落胤であるとの風説があったことから、八犬伝で一休が大御所・足利義政を叱責した場面を、天皇の権威を幕府の其れより上位に置こうとする馬琴の企みだと、解する向きもあるやに聞くが、其れは恐らく間違いだろう。一休を矮小化し過ぎている。勿論、一休が当時の宗教界で、かなり高い位置に昇った理由として、或いは彼が天皇の落胤であった(との風説があった)ことが挙げられるかもしれない。しかし一休の権威は、天皇の権威の七光りではなく、彼自身の宗教的・文化的資質の高さを前提に、それこそ天皇やら武家やらの既存権威から超然とした所に、源泉を認めねばならぬ。少なくとも後世、例えば説話集で一休のことを知った江戸人士は、そうであったろう。一休は、軽々と天皇の権威を超え得る存在なのだ。述べてきた如く、馬琴は天皇を征夷大将軍の上位に据えている。当たり前だ。だって、将軍だろうと摂政だろうと関白だろうと、天皇に任命されるのだ。令外の官とはいえ、これらは朝廷に於ける官職であり、大日本帝国憲法発布までは、奈良期に制定された律令が、我が国の最高法であった。建前上、天皇は、いつも日本の頂点であったのだ。が、山の上には星がある。地上の頂点は山であっても、仰ぎ見れば星が瞬いている。理念である。一休は、頂点を突き抜けて、より高い権威である星(仏性)に直接繋がっている故、既存の権威から超然たり得るのだ。「生仏」なる呼び方に、如実に表れている。一休が天皇の権威を纏うことで、義政と対等以上に対峙できるなどとは、矮小化以外の何者でもない。では、頂点を突き抜けた所にある「星」とは、例えば、何を以て具象化されていたか。次回「龍王の娘」以下で、述べることにしよう。(お粗末様)
 
 

 

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