★ 伊井暇幻読本番外試論・南総里見八犬伝「龍王の娘」/頂点を突き抜けて★
八犬伝を「伏姫の腹中から八方へ飛び散った気が宿る八犬士が里見家に結集する物語」とでも要約する向きもあろうか。間違いではなかろうが、金聖嘆の七十回本水滸伝でもあるまいし、此は乱暴だろう。最低でも、結集して関東連合軍を打ち破る所までは言及せねば、何のことか解らない。だいたい八犬伝はゴロツキ革命文学だから、梁山泊の御利口ちゃんたちの如く官軍に下って乱を鎮めて回ったりしない。逆に、公権力側の関東管領(許我公方のオマケ付き)と戦い、打ち破る。此の(作中事実上の)〈里見の乱〉、いや「乱」は公権力側からの呼称であり、「乱」側が勝利すれば「乱」ではなくなる、〈未完の革命〉もしくは〈独立〉と云って良い。兎に角、こんな大事件に言及せぬとは、宜しくない。
犬士の結集で話が終わる筈もない。何故なら、里見家側から云えば、八犬士を必要とした大部分は、関東連合軍との戦いにあったと思うからだ。八犬士の里見家に対する貢献は、そりゃぁ戦後も配下の領主として内政・防衛に務めただろうけれども、際立った功績としては戦前、仁に依る里見義実の富山厄難救出、蟇田素藤討伐、信乃・道節らに依る浜路姫奪還、……他に何かあったっけ? また犬士を犬士たらしめていた玉は、対関東管領戦の後始末、洲崎沖法会後に効力を失っていく。伏姫が、関東連合軍との戦いの為、里見家に犬士を遣わしたと考えるべきだろう。里見家が、数で遙かに優る関東連合軍を破るためには、八犬士が必要だったのだ。
いや、戦闘員が八人増えたから勝てたのではない。犬士らは、超人ではない。ちょっと腕が立つぐらいなのだ。空も飛べないし、火気の犬士・大角なんて水に弱いらしく泳げもしない(木気の仁もプカプカ浮くならできようが苦手。対して水気の信乃・毛野・小文吾は堪能)。稲戸津守によって小文吾・荘介は雑兵二三十人に捕らえられた(第七十七回)。一騎当千とはいうものの、一人で十五人も相手には出来ないのだ。スパルタ訓練を受けたスパルタの貴族だって、目標は利器を持ってロクな武器を持たぬ奴隷十人を相手にして叛乱を鎮めることだったではないか。孫子なら、一人で三人を相手には出来ないと云う。犬士を〈聖別〉する玉だって、それほど派手な機能はない。荘介と小文吾が治癒・解毒に用いたこと、大角・現八に偽・一角を寄せ付けなかったこと、仁の玉が蟇田討伐の時と河鯉孝嗣に狸寝入りの奇計を以て豊満な胸で誘って挙げ句に契りを結んだ場面で発光したぐらいか。あくまで防衛機能のみであり、少なくとも普通の人間に対しては、攻撃力のないアイテムなのだ。こんなものより、自在に風を操る甕襲の玉の方が凄い。足利家の重宝で信乃が振るってこそ冴える妖刀・村雨だって、犬士の玉より遙かに役立ちそうだ。村雨は、最強の武器のイコンだ。それに加えて、ガーデニングにも使える優れものだ。役に立つ。
犬士は、関東連合軍を打ち破る為にこそ里見家に結集した。彼等の奮戦が無意味だとは云わないが、彼等の存在自体が里見家には必要だったのかもしれない。そう、彼等が結集することによって、彼等の力を合わせたものよりも遙かに大きな力が、発動したと考える。伏姫の、いや或る女神の呪力だ。
高田衛氏の『八犬伝の世界』は、多くの示唆を与えてくれる貴重な書だ。同書は、北斗信仰と絡めプレ八犬伝では犬士が七人だったと推定し、八字文殊曼陀羅が「八犬伝」に影響を与えたと考えている。プレで七でも「八」に変わったときに論理転換は十分にあり得るし、広く行われている曼荼羅の多くは本尊の周囲を八尊が囲む形をとるし犬士のうち女性性を表す者は一乃至三かもしれず二人に限定することは危険で抑も「尼」は音写だから性別とは全く関係がない。菩薩の性を云々しても始まらないが、遊女を観音に擬した近世では、やはり文殊は一般に男性とイメージされたのではないか。何たって文殊、近世では弘法大師空海に男色を仕込んだシリ(師利)菩薩である。男色は殆どの場合、やはり男性を対象とするだろう。特に空海の場合、或る時、崖から落ちたところ、女性性を象徴する観音の豊満な胸に飛び込んでしまい、一命を取り留めたとも伝えられている。此は空海が、女性性の価値を認めていたことを暗示する。真言密教も、合体尊(宇宙の摂理を象徴する男女の交合像)を取り入れている。則ち両刀遣いだったろうから、女性に対しては通常の女性に対する作法で対したであろう。イザナギ・イザナミじゃあるまいし、鶏姦の必要はない。女性を相手に男色の勉強などする筈はあるまい。そして何より八犬伝で、伏姫は観音であることが明示されている。ならば、北斗信仰とも絡む、観音を本尊とする曼陀羅があれば、其れが八犬伝に影響したと断じても良いのではないか。有り体に言って「…の世界」の弱点は、ストーリーとの関係が希薄な点である。近似の表面的な個別事象同士を繋げるシンクロニティーだか何だか、んなこたぁ人間同士を比べれば、地球の裏側だって何処だって幾らでも見つかるだろう。注目すべきは、流れ、ストーリーなのだ。七星と観音を結び付ける都合の良い曼荼羅なんてあるのか? って、あるから書いてるんだが、其れは、「七星如意輪曼荼羅」だ。如意輪は、観音の一変態である。私がグチグチ云うよりも、まずは「七星如意輪秘密要経」を読んでいただく方が宜しかろう。
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七星如意輪祕密要經
三藏不空譯
如是我聞。一時佛在大雪山伽王那蘭陀。與大比丘衆千二百五十人倶。其名曰大目●(ウシヘンに建)連舍利弗。摩訶迦旃延波多。阿難陀摩訶迦葉。富樓那彌多羅尼子。復又菩薩萬八千。皆得不退轉陀羅尼辯才。如是等恒河沙數衆中轉大法輪。爾時迦夷城宮内使。來詣佛所頂禮佛足。而白佛言。波斯匿王使我諮量。倶尸羅大國與兵無數萬億來圍迦夷。君臣惶忙人民恐懼。唯願世尊由大智力救護我等。爾時世尊。即告神通王菩薩。往於迦夷城宮内。速建如意寶輪般多羅道場七星火壇祕密之門。所謂般多羅道場者。造於淨室。七星火壇作於露地。一日一夜如法作。其賊衆者自然退散。其法事者。先須結界然後作般多羅法門。南無如意輪王大法主。我今奉造般多羅者。有天耳眼。有神通者證明法則。即誦如意輪真言七遍。七呪水灑地。取界后為結界。所謂般多羅者。且最清淨室地平如鏡。中央造五色輪象如車輪。或十道或十二道。輪約間畫波折羅相。輪輻上亦爾。中央安如意輪王菩薩。一一輻間安七星像及訶利低母。一一像前安燈蘇香等種種供養。所為人姓名畫於本星。阿闍梨座於輪外。一一即啓法事成就。加持念誦一座一百八遍。觀念不成不數其遍。所謂火壇者。於露地造火爐。或一肘或二肘。即加持一人或優婆塞優婆夷。著新淨衣。造本星食餅及蘇蜜香藥等。即向七星一拜一燒一心著本星。或動異光即得成就。若清淨阿闍梨者。若王若臣乃至人民。自作火壇求請。隨其所願即得成就。爾時神通王菩薩。即奉教勅往於迦夷大城宮内。一一作法。霹靂雷電賊徒散滅。君臣歡喜人民安樂。爾時神通王菩薩。却來佛處頂禮佛足。而白佛言奇哉世尊。不可思議祕密法門。如意寶輪王菩薩今何在。我等之輩蒙如來力。往彼世界頂禮如意輪王菩薩。佛告神通王菩薩。善哉善哉。正南方有世界名曰七寶轉輪王。於七寶輪上護法七星及諸天衆周匝。為轉法輪度脱衆生。爾時神通王菩薩。白佛言。世尊以何因縁。不但觀念如意輪王菩薩。又令禮拜本星等耶。佛言昔燃燈佛所受此法門。七星精靈天而下。訶利大神從地而出。願我等輩護此大法。若有人等奉造此法。我等先至成就法事。以此因縁兼存造法。爾時神通王菩薩。承佛大神力。往彼世界。頂禮如意輪王菩薩。而作是言
我等住於娑婆界 修學如來因地門
救度迦夷波斯王 以此因縁禮仁者
七寶莊嚴寶輪王 菩薩相好不思議
依正二報倶勝妙 我今敬禮如意輪
爾時如意輪菩薩而説偈言
我今所修菩薩道 度脱衆生長夜苦
今座莊嚴如意輪 令諸衆生亦如是
世有衆生有所願 今我如意寶輪王
隨其種種所受樂 無不從心為如意
若有衆生在世界 欲得通達無為道
業障深厚不成就 我以寶輪使開悟
若有世界三災起 國界人民不安楽
其中有人造我法 如意聖輪與大楽
若有世界他界賊 四方覆●(オンナヘンに尭)不安寧
國中有人造我法 如意聖輪與安楽
若有國内飢饉難 一切人民不安楽
若有造我般多法 如意聖輪能救濟
若有衆生在世界 王法所加被獄囚
造我大法般多羅 如意聖輪能救濟
若有衆生在嶮難 如意聖輪能救濟
若有衆生在世界 盲聾跛(アシヘンに婁)種種病
念我大法般多羅 如意聖輪能救濟
若有衆生在世界 欲得家富求富祿
造我大法般多羅 如意聖輪如其願
若有如是如意輪 一切罪障無不除
一切吉祥無不致 無所不至拔濟苦
諸天龍神及人間 一切衆生有歸依
不隨其心墮妄語 是法能除一切罪
増長一切諸功徳 自在能照於五道
成就一切衆生願
爾時神通王菩薩。頂禮聖輪還來本處。一心受持此不可思議摩訶般多羅祕密法門真言
南無阿羅姪那阿阿那南阿梨耶婆●(クチヘンに魯)吉帝沙波訶阿耶菩提薩●(ツチヘンに垂)婆耶摩訶迦烏尼迦耶多姪他●(クチヘンに奄)折●(テヘンに曷)羅婆帝真多摩尼摩訶波地迷●(クチヘンに魯)●(クチヘンに魯)帝遮●(テヘンに曷)阿沙吽●(クチヘンに利)婆訶●(クチヘンに奄)波地迷真多摩尼摩訶遮●(テヘンに曷)阿吽●(クチヘンに奄)波阿多波地迷吽
七星本部印 如意輪本印 長誦印 若人心有所求。或有病難延壽求祿。乃至一切心所願求。當使本星必當隨心。如來在世立大誓願。為此部中當護摩。此因縁當用七星以靈驗。是多祕密不得外傳。或為國王或為大臣造此法。不得為人民百姓淺識有情造此大法 午●(ゴンベンに皮)〈此云小豆食〉蘇古香木 未巳多伊尼〈此云大豆食〉波知桃木 申辰薩波〈此云麻子食〉波此荊木 酉卯蘇烏帝〈此云麥食〉彌蘇帝違木 戌寅薩波之〈此云稻米食〉孫蘇烏獪 亥丑波伊蘇〈此云粟食〉舟尼〈此云槐木〉子薩波耶〈此云黍食〉●(テヘンに曷)帝〈此云桐木〉
七星如意輪祕密要經
天明五乙巳春二月十日。於洛北大報恩寺。以上品蓮臺寺藏本寫訖。此七星如意輪經。於重譽深密抄薄草子後重等證之
智積院寓學東武 慈忍 識
享和改元仲秋月。得右件之本令寫之。當嶺慈心院傳燈等校閲。予更考訂以彫刻
豐山總持沙門快道誌
一校加筆訖 慈順
享和三年四月七日此日也雨曚曚矣
文政三年庚辰四月十五日以右傳寫之本雙校之了
訳擇于肝精舎 龍肝
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釈迦が、大軍に攻められた迦夷国の要請を受け、救援した話だ。象徴世界の話ではなく、現実世界の話だと解すれば、丶大は真面目に厭がっているけれども、釈尊だって大量殺人を犯しているのだ。仏教を、人を甘やかすだけの過保護宗教だと思わない方が良い。
釈迦は宮殿に行き、本尊の如意輪観音を七星と訶利低母の八尊で囲む(立体)曼荼羅を配置した。此の時、法輪を用いる。法輪は八本の輻(スポーク)を備えている。寺院の門などに繁くあしらわれている紋を思い起こせば良い。但し、通常の法輪は、輻が船の操舵輪の如く持ち易そうな取っ手付きだが、此の場合に限っては、宝剣となる。八本の宝剣が外へ向かって飛び出す形を採る。此の輻の間に八尊を置く。八尊は総て下方を向く。此の曼荼羅の場合、後述する如く下方が南方だと考えられるので、全員が南に向いていることになる。
前期密教に於いて、曼荼羅は大きく三部、仏部、蓮華部、金剛部に分けられる(日本密教では両部すなわち胎蔵と金剛に分けるが、分類のレベルが異なる)。仏部は釈迦が主宰、蓮華部は観音、金剛部は金剛手が主宰する。因みに各部は、属する仏格を生み出す仏母、守護神たる明王が配置される三尊形式を採る。最上レベルの仏部の仏母が文殊であるに依って、「仏母」と云えば文殊を指すようになったのだろう。観音の世界たる蓮華部での仏母は白衣の天使・ホスピタリティーの権化たるナース、白衣観音である。明王(守護神)は、正義感は強いものの怒りっぽくて人の悪口ばっかり云っている罵倒(嘘)……馬頭観音だ。総体としても主宰・母・守護神の三分割だが、別れた各部にも主宰・母・守護神のフラクタル構造を持つものこそ、密教世界観だろう(此に、人文科学としての史を学んだ私は惹かれるのだが、社会科学としての史を学んだ私は反論したくなる世界観だったりもする。少しでも道を誤れば国家としての倫理と個人としての道徳を混同し、人格支配の衆愚に堕する危険を孕むからだ)。
まぁとにかく、七星如意輪曼荼羅を作成した釈迦は、七星を祀る火壇の前で一日一夜祈った。七星の「精霊」が天から下り、訶利大神が地から涌いて出た。敵を潰滅した。訶利低母(以下「訶梨帝母」)、元々人間の子供を喰らう夜叉の類である。釈迦に諭され前非を悔い、子供の守護神となった。日本での通名は、鬼子母神だ。「雑宝蔵経」を引く。
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鬼子母失子縁
鬼子母者。是老鬼神王般闍迦妻。有子一萬。皆有大力士之力。其最小子。字嬪伽羅。此鬼子母兇妖暴虐。殺人兒子。以自●(クチヘンに敢)食。人民患之。仰告世尊。世尊爾時。即取其子嬪伽羅。盛著●(缶に本)底。時鬼子母。周遍天下。七日之中。推求不得。愁憂懊惱。傳聞他言。云佛世尊。有一切智。即至佛所。問兒所在。時佛答言。汝有萬子。唯失一子。何故苦惱愁憂。而推覓耶。世間人民。或有一子。或五三子。而汝殺害。鬼子母白佛言。我今若得嬪伽羅者。終更不殺世人之子。佛即使鬼子母見嬪伽羅。在於●(缶に本)下。盡其神力。不能得取。還求於佛。佛言。汝今若能受三歸五戒。盡壽不殺。當還汝子。鬼子母即如佛敕。受於三歸及以五戒。受持已訖。即還其子。佛言汝好持戒。汝是迦葉佛時。羯膩王第七小女。大作功徳。以不持戒故。受是鬼形
(雑宝蔵経)
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実は此の鬼子母神、法華経(序品)に登場する八大龍王のうち徳叉迦龍王の娘で、帝釈天を夫とし、吉祥天女をもうけたとも云われている。金光明経なんかでも龍王と共に、子供を率いて仏教守護の任に就いている。石榴が好物らしいのだが、石榴とくれば、人間が切られた時その箇所を「石榴のようにバックリ割れた」と表現する場合がある。熟れた石榴の実は裂けて、暗紅色でグチュグチュのドロドロな内部を露出する。なるほど分かり易い譬えだ。人肉を食っていた時の記憶で、石榴が好きになったのか。尤も、お寺さんなんかでは、石榴の実にギッシリ種が詰まっていることを以て、多産を象徴していると説き、故に子供の守護神である鬼子母神が好むとか何とか、お上品な説明をするだろうか。まぁ余所行きの解釈は穏当な後者であり宗教的には正解だろうが、一般の俗人は前者に頷くだろう。鬼子母神は、やはり人を食っていたときの恐ろしさを、秘めているのだ。さて、この鬼子母神、八犬伝のストーリーと如何なる関係があるのか。刮目して次回「輪宝剣」を、お待ち頂きたい。(お粗末様)