★伊井暇幻読本番外試論・南総里見八犬伝「輪宝剣」/頂点を突き抜けて★

 「龍王の娘」に続き、七星如意輪曼荼羅の話だ。先述の如く如意輪観音と輪宝、訶梨帝母と七星を配置すれば曼荼羅は実質的に完成する。「秘密要経」でも、そうだ。が、だいたい曼荼羅を描く場合には、華とか香とか供える物も描き込むことになっている。もし様式上の完成度を求めるならば、訶梨帝母と七星の八尊が構成する円陣の外周、右上に金剛歌菩薩、右下に金剛舞菩薩、左下に金剛嬉菩薩、左上に金剛鬘菩薩を置く。其の復た外周、右上に金剛燈菩薩、右正面に金剛鈴菩薩、右下に金剛塗菩薩、下正面に金剛鉤菩薩、左下に金剛香菩薩、右正面に金剛索菩薩、左上に金剛華菩薩、上正面に金剛鎖菩薩を配する。四十五度方向にある八尊は何連も供養菩薩である。「燈(火)」とか「華」だ。「塗」は体に香の粉を塗りつける「塗香(ずこう)」を意味する。単に「香」とされているものが、「焼香」だ。それぞれに象徴的意味があるようだけれども、本稿の関心外なので、お約束の飾りだと考えておこう。四方正面の四菩薩は四摂菩薩と呼ばれるもので、一切衆生に仏教を教える方法を示す四菩薩だ。即ち、下方から、鉤で人間を引っ掛け、索(つな)で引き寄せ、鎖でガンジガラメに縛り上げておいて、チリンチリンと鈴の音を聞かせて恍惚状態に陥らせる。……なんだか廃人にされそうな酷い仕打ちだと思うのだが、教育なんて、そういうものなのかもしれない。
 閑話休題。七星如意輪曼荼羅は、高次の存在である如意輪観音が、日本でも軍神として崇敬を受けていた北斗七星と共に、暴悪で強力な訶梨帝母の姿となって現じることを期待しているようだ。即ち、此の時、龍王の娘にして鬼子/鬼神の母たる女神は、より高次元の存在たる観音の現世に於ける投影である。勿論、訶梨帝母だけに投影しているのではない。七星にも分散して投影している。
 鬼子母神ハーリティーは、古代印度の地母神であるから、地から涌出する登場の仕方は、まことに正統である。しかしハーリティー、中国で訶梨帝母と音訳されてしまった。日本に入ると、カリテイモだ。日本仏教は中国のフィルターを通して仏教を取り入れたから、純粋に印度味ではなく中華風味が混じっている。それをまた日本独自に発展させたから、ちょいと複雑なんだが、古代印度思想と赤い糸一本ぐらいは繋がっているらしい。
 カリテイモ……ちょっとカーリーに似ている。カーリーはヒンズーの女神で、大黒天(湿婆シヴァ)の(夜の)妻だ。大黒天はシヴァのうち闇の相貌を強調しているので、お似合いの「夜の妻」カーリーが日本では正妻「大黒天女」とされる。怨敵を殺し尽くしても飽きたらず、近寄る者を総て殺戮する暴虐の女神である。世界を破滅させる最終兵器と云って良い。一方、ハーリティーに、それほど大規模な悪神である印象はない(せいぜい怒って夫の産む子供を日に千人殺すイザナミ程度だ)が、訶梨帝母と訳されたためカーリーとの混淆の余地が生じたのかもしれない。訶梨帝母を、必要以上に強力な神だとして、日本ではイメージしているよう感じる。そんな訶梨帝母であるから、夫の帝釈天は仏教守護の軍神を統括する立場にあるし、弁天すなわち伏姫から連想する向きも多い増益の女神の母親に、祭り上げられたりするのだ。
 訶梨帝母は、本尊・如意輪観音の直下に位置している。外周に描かれる供養菩薩などが何連も「金剛…」と名付けられている所から、初期密教で謂う金剛部(仏法守護)系の曼荼羅に属すると考えられる。「龍王の娘」で述べた如く、敵への攻撃は、お上品な仏部・蓮華部ではなく、夜叉を起源とする金剛部の仕事だ。どうも、如意輪観音、単なる大悲の菩薩ではなさそうだ。ところで、日本では総合的で大規模な大日如来を本尊とする曼荼羅は、胎蔵・金剛の両部/両界に分けられる。「金剛界曼荼羅」は東を下方とする(胎蔵は西が下方)。但し、後者の場合の「金剛」は、前者の意味する仏法守護を表すものではなく、システム/ハード部分であるとの内包をもつ。体制/法の側面だ。対する胎蔵はソフト/理の世界観を表しているとされる。金剛界曼荼羅は金剛部曼荼羅と違って、従来からあった如来(/仏)・蓮華(/法)・金剛の他、宝・羯磨の二部を加え、五部構成となっている。混乱しそうだが、御了承願いたい。此処で取り上げている七星如意輪曼荼羅は、訶梨帝母が北斗七星を率いているので、北を背にしている、即ち南面していると思われる。因みに、古代印度では、冥界の王ヤマ(閻魔)は南方に座すと考えた。故に降伏系曼荼羅は、南面して修される場合がある。
 此処で謂う金剛部は、上述の如く仏教世界の守護神・金剛手に主宰されている。三分類では、仏部の曼荼羅は無病息災とかの平穏(プラス・マイナス・ゼロ)を祈る時に修する。蓮華部は、金が欲しいとか子供が欲しいとか増益(プラス)を祈る。怨敵退散など降伏系(敵にとってのマイナス)呪法は、元来が夜叉であった金剛手の担当となる。七星如意輪曼荼羅は、観音を本尊とするけれども、正しく降伏系、しかも釈迦本人が、自らより遙かに多い軍勢と敵した時に用いたことが、起源となっている(「七星如意輪秘密要経」)。
 また、本尊の直下にある事実から、相手を潰滅する行為に於いて、最も重要な部分を訶梨帝母が担うことが分かる。七星は訶梨帝母の指揮下にあって、敵に当たる陣容だ。好む好まざるに拘わらず殺戮を繰り広げてしまう、訶梨帝母の如き、血塗れの巫女なら、八犬伝にも登場している。対牛楼で怨敵を殺しまくり、直接に手は下していない書き方ではあるが、幼子まで死に至らしめている、毛野だ。
 毛野は美少年(男性に変化すべき生き物)ではあるが、第六輯口絵に於いて「変生」して生まれたとある。本来は、女性だったのだ。伏姫との繋がりを示すために無理遣り女装させられている誰かさんとは、本質的に違う(此の様に両者の差異に注目すれば、犬士に於ける〈女性〉の痕跡を本質的に示すものは二人ではなく一人となり、「尼」が二人いるとするなら其れだけで八字文殊曼荼羅は八犬伝と無関係となる)。訶梨帝母も、女性だ。毛野は、関東連合軍との戦いで、洲崎の本陣に在って他六犬士を事実上指揮する。七星如意輪曼荼羅に於ける、訶梨帝母の役割に擬することが可能だ。また、訶梨帝母/鬼子母神の娘とされる吉祥天の実体は妙見菩薩だと、天台宗なんかは考える。毛野の実家・粟飯原家は、千葉妙見の司祭であった(「星祀る巫女」)。妙見は、北極星および北斗七星に対する信仰が、仏教と結びついたものだ。其の妙見の司祭たる資格をもつ毛野は、関東連合軍との戦いで、やはり「最重要の機能」を期待される。訶梨帝母の位置には、やはり毛野が座らなければならない。因みに吉祥天は、毘沙門天の妻とされている。故に……、いや、何でもない。話を戻そう。
 訶梨帝母が戦いに於いて最も重要な機能を有していることは曼荼羅の配置から明らかだが、他の七尊だって必要な存在だ。なんたって、高次の存在であり極めて多面的な本尊・如意輪観音の一部を更に八分割しているのだから。では、如意輪観音の性格とは、如何ようなものであるか。

 毎日新聞社刊「魅惑の仏像」シリーズに、三つの如意輪観音が取り上げられている。名高い仏像を一体ずつ取り上げ細部までネチネチ撮った写真集だ。筆者は、スレンダーながら未発達の柔らかい筋肉を纏う、フックリした頬にアドケなさを残し艶っぽく眉を顰めた美少女、興福寺の阿修羅像を最も気に入っているのだが、趣味を離れて仕方なく、如意輪を眺めた。シリーズ中、十五「大坂・観心寺」、二十三「京都・宝菩提院」、二十七「奈良・中宮寺」が如意輪観音に充てられている。
 観心寺の如意輪観音は、密教仏としての像で、手が六本ある。二つの手は空いていて(印を結んでいたりする)が、四本に宝珠・輪宝・蓮華・数珠を持っている。典型的な密教の如意輪観音だ。顎が五重になっており、なかなか豊満で、タップリした肉置きの腰がソソる。顔立ちも円貌で、愛嬌がある。宝菩提院のものは、観音のくせに、ちょっと男性的な風貌で、やはり太っている。腰のクビれが少なく、情欲を催さしむるものではない。せいぜい、他にいなかったら使う、ぐらいのものだ(いったい何に……)。密教以前の二臂像だ。
 中宮寺の如意輪観音には、惚れた。スレンダーなんだが腰のクビれが判然しているフィットネス体型で、後ろ取りで致したい(だから、いったい何を……)。加うるに慈母、総てを包み込むが如き穏やかなアルカイック・スマイルを浮かべている。性的吸引力は最大限なのだが、来(いざ)となったら男が「あははー、何でもないっす」と遠慮してしまうタイプだ。膝枕でもして欲しくなる佇まいなのだ。奈良朝の尼寺に座すからか、極めて高い女性性を有している。しかし、油断はならない。女性は、優しいだけではないのだ。
 如意輪観音は、如意宝珠と法輪/輪宝によって象徴される。如意宝珠は、財を意の如くに生み出す魔法のアイテムだが、輪宝は魔を粉砕する智恵を意味する。甘えれば何でも与えてくれる過保護マザー(宝珠)でありながらも、子(仏教者)を苛む悪鬼をグチャグチャに殺戮する強力無比の恐ろしさを併せ持っている。なんたって此の「輪」は、古代印度の武器を起源としている。だから或る場合に輪宝は、輻(スポーク)を外向きの剣として描く。八本の剣がグルングルンと回転しながら飛んでくる若しくは転がってくる。敵する者を挽肉にしてしまう兇悪な武器なのだ。……読者は何処かで、似た物を見たことがあるかもしれない。日本密教神道に於ける天叢雲剣だ(図)。輪宝は、日本でも有名なアイテムであった。仏教史観は、LordOfLords釈迦に先立つ聖王として転輪王を設定したが、彼が用いた物が輪宝だ。南朝の忠臣で、八犬伝に於ける伊勢国司の祖先・北畠親房が書いた、神皇正統紀なんかにも登場する。圧倒的軍事力を背景にして治安を維持する、原始的な発想の政体だったのだろう。
 また、密教神道の解説書『渓嵐拾葉集』には「尋云天照大神天岩戸閉籠玉フ相貌如何○答凡天照大神者日神在上月輪形天岩戸籠給云也云々又相伝云天照大神転訛玉フ■(欠/後カ)天岩戸籠給云者辰狐形籠玉ケリ諸畜類中辰狐者自身放光明神也故其形現玉ケル也云々」及び「尋云何故辰狐必放光明耶○答辰狐者如意輪観音化現也以如意宝珠為其体故辰陀摩尼王名也宝珠者必夜光故諸真言供養法時以摩尼為焼云旁々可思合也云々又云辰狐之尾有三鈷々々上如意宝珠アリ三鈷則是三角之火形也宝珠又摩尼焼火也故此神現成光明法界也云々又云一伝云未曾有経説云辰狐アカメテ成国王意是(天照大神以百皇元神習也今辰狐王以)天照大神之応現習合也(深可思之)」とあり、以前にも天照が岩屋に籠もったときに白狐の姿を採ったと書いたが、本地が如意輪だからと書かれている。天/宇宙を支配する如意輪観音ならば、なるほど太陽を象徴する天照に垂迹することこそ、自然の流れだ。
 曼荼羅の作法として、其処に何百何千の仏格が描かれているとしても、一言にすれば、中央に在る本尊に集約される。逆に言えば、各仏格は、本尊の一部を表している。故に、七星如意輪曼荼羅の場合、北斗七星と訶梨帝母の八尊が、本尊・如意輪観音の多様な側面(八面とは限らない)の各々を表現している。且つ、如意輪観音は、宝珠と輪宝に集約される仏格であるから、周囲八尊に宝珠と輪宝が分与される。上述の如く、輪宝は武器であり輻は剣で、総体としては天叢雲剣と同一だ。八犬士が一つずつ玉を与えられた剣士であって、全員を代表して説明されている最初の剣士/犬士・信乃は、密教神道で謂う輪宝そっくりの天叢雲剣に擬すべき、村雨を携えている。
 また、密教の如意輪観音は、六道(天・人・阿修羅・畜生・餓鬼・地獄)それぞれに救いの手を差し伸べる故に、大坂・観心寺の像の如く、六本の腕を有している。また六道のうち「天」を主宰するとも考えられ、故に星を支配する。「それは膝か」と云われる様な巨根で孝謙女帝を蕩かし(「膝」が入ったんですかぁ?)天皇位を狙ったとの疑いで流罪にされた道鏡が修した呪法が、如意輪法である。此の如意輪法で道鏡は、孝謙女帝の信頼を得たと伝えられている。如意輪法は、七星如意輪曼荼羅を使うものではないが、悪星の災いを払うとされる。星を支配する如意輪観音の性格を如実に物語っている。そう考えれば此の曼荼羅は、中国では人の死を司るとされた北斗をも如意輪観音なら制御下に置けると考えたが故に、編み出されたものだろう。
 ところで、「山から海へ」で椿説弓張月拾遺考証を引き、保元の乱を起こした崇徳院の祟りを鎮める為に祀ることになり御神体として如意輪観音が採用された、と紹介した。付け加えれば、観音は龍王と縁が深いけれども、訶梨帝母は龍王の娘だ。更に、日本神話の最重要の部分、即ち建国の事情に深く関わっている二箇所、神武の出生、神功皇后の朝鮮侵略および応神天皇の龍姫との契りは、共に龍宮なる謎の国と交渉することで実現している。天照が太陽を象徴しつつ、天を主宰し龍王と密接に繋がる如意輪観音に擬せられている点は、甚だ興味深い。此の読本で執拗に述べてきた如く、筆者は伏姫に天照の影を感じている。伏姫は、如意輪や「阿▲麻のしたに玄▲齒の右に來/アマダイ」観音(栗鼠の頬袋・本文外資料第二輯分)など三十三体に変態する観音であることは、八犬伝本文に明記されている。
 或いは、馬琴の個人的事情に興味を有つ人は、『吾仏の記』にある次の嘆きを思い出すかもしれない。
     ◆
 そのとき伯兄の云、われかねてより思ふよしあり。わが家の紋なる八本矢車は、よのつねの矢車と異也。よのつねなる矢車は、矢の根を合したる内に小輪ありて矢の根はみなこれに付きたり。わが家の紋には彼内なる小輪なし。汝もよく知る所なり。つらつらおもふに、家の紋のかく危きかたちなるはわろし。譬ば今八本の矢をもて風車とせんに、矢の根を統る小輪なくば、その矢は何所によりて相集り居て風を受んや。そは風車にするまでもなし。是を地にならべ配りて、車のかたちをなすとても、物ありてこれに触れなば、忽ばらばらと崩れんこと疑ふべからず。これを一家のうへに喩へなば、八本の矢は親子兄弟夫婦なるべし。その親子兄弟夫婦といふとも、これを統る家なくば必離散すべきのみ。か丶れば家の紋などは、かたちの危うからぬこそよけれ。汝は何と思ふやらん。聞まほしけれ、と宣ふに、解(馬琴本名)答て云、宣ふ趣誠に然なり。老子孝経第十一章に、三十輻共一轂当其無有車之用とこそ見えたれ。輻は車幅なり。猶矢車の矢のごとし。轂は、その輻を受るもの、宣ふ所の小輪なり。凡車に轂あることは、猶傘に轆轤あるが如し。こは無用に似たれども、これなくては車輪全からず。現にわが家の紋には轂なし。轂なき車は輪るべからず。尊考寔にその理あり。しかれども家の紋を子孫の私心もて改かえんこと、いかゞあるべき。殊に鄙しき喩なれども、近比川柳が前句附けにも、身上の崩しはじめは紋所といへり。これらは放蕩無頼のもの、己が家の紋を嫌ふて、さまざまに図しかえなどするを譏りたりと聞ゆれば、同日の論にはあらねど、その故をしらずして、物忌をせんことも、傍難脱れがたかるべし。されば某は瀧澤の庶流なれば車に轂を画くとも、嫡家にひとしからぬを示す。その謂れありとせん歟。まづ某より始むべけれとて、やがて硯をとりよせて図して見せまゐらすれば、伯兄は大きに嘆賞して、且予が言に従ひ給ひき(これよりして予は矢車に◎如此轂を図しそえて用るなり)
     ◆
 馬琴の兄が病床で、滝沢家が栄えず一家離散の憂き目に遭う原因は、轂のない八本矢車の紋ではないかと嘆く。外周のみで、中心の軸受けがないから矢が固定せず不安定なのだと。馬琴は老子を引いて、論理そのものは肯定しつつ、しかし紋を変えることは軽薄の謗りを免れないと反対、庶流である自分なら紋を変えても構わないだろうから、まずは自分が変えると申し出た。半分自慢話になっているが、馬琴の心の中に、輪宝の如き結束を夢見る部分があったかもしれない、と思うことぐらいは自由だろう。

 以上、見てきた様に、伏姫・毛野の二人を軸として、七星如意輪曼荼羅が、〈里見家が関東連合軍の大軍を破るためにこそ犬士が結集する〉八犬伝の構造に、強い親近性があり、犬士のアイデンティティーともなっている玉の説明もつき、目を惹くアイテム・村雨の性格にまで連関が見られることが、分かった。
 実は、此の様な構想(思い付き)は当初から暖めていた。しかし、七星それぞれに犬士を配当する段階で躓き、お蔵入りにしていた。未完成なのだ。だいたい、西暦二千三年七夕用に準備していた文章は、「朝敵・里見義実」「漂う国・南総」のみだ。しかし吾妻鏡を読むうち筆が滑って、「忘八者」「尻軽もしくはSillyGirl」「もう一人の里見義成」を加えた。ついでに「はみ出し者」を加えたから大変、六回分になってしまった。此処まで来たら、七夕用だし七回にしようなんて欲が出る。しかし、準備していたネタを使い切っていたので、お蔵入りしていた七星如意輪曼荼羅の話題を引っ張り出した。が、ふにゃふにゃ書いていたら二回が加わることになった。でもまぁ、八犬伝に関する文章なので八回で良いか。……ことほどさようにイーカゲンに付け加えた「龍王の娘」「輪宝剣」であるから、番外試論となっている。(お粗末様)
 
 

 

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