■伊井暇幻読本・南総里見八犬伝・番外編「日本滅亡」

 八犬伝に提出されている重要な概念の一つに、【尸解】がある。第百五十回、死んだ筈の一休さんが大御所・足利義政の眼前に現れ諫言する場面だ。「唐山にて仙術を得たる者、死するに及びて実は死なず、稍地に柩を蝉脱して深山幽谷に躱れて人間に還らぬあり。是を名つけて尸解といふ。仏者にも亦この事あり。達磨の如き即是なり」。両者とも、かなり皮肉っぽい性格だったらしいが、禅宗の高僧とされる達磨と、同じく一休を関連付けている。そして達磨尸解に関する物の本のうち、比較的毛並みの良い一書が、「七代記」(広島文理科大学蔵本)だ。こんな塩梅である。
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大唐衡州衡山道場釈思禅師七代記云、往年西国有一婆羅門僧、其名達磨。此人遷化、魏文帝即位大和八年歳、次丁未十月到来漢地。徘徊衡山、吟詠草室。於是達磨道場之内六時行道、問思禅師云、汝此寂処幾年修道。答云、廿余歳。問何見霊験、何被威力。答云、不見霊験、不被威力。達磨良久歎息云、禅定易厭、濁世難離、余忽遇素交、永滅塵劫之重罪、暫随清友、長植来生之勝因、阿々師々努々力々、何故化留此山、不遍十方、所以因果竝亡、海東誕生。彼国無機、人情麁悪、貪欲為行、殺害為食、宜令宣揚正法、諫止殺害。禅師問云、達磨誰人。答云、余者虚空也。相談已訖、向東先去。聖容不停、来儀髣髴。禅師恋望朝夕啼泣、六時行道。年将五十、後魏帝柘抜皇始元年庚申、永逝也。
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 実は七代記、聖徳太子の伝記で、上記「大唐衡州衡山道場釈思禅師七代記」の話を、聖徳太子が中国「思禅師」の転生だと云いたいが為に引っ張り出している。聖徳太子は、馬琴が大好きだった太平記なんかでも、予言書を遺したことになっているスーパーヒーローなんだが、予言と云えば、避けて通れぬ詩がある。兎園小説第八集に「天照太神を呉太伯といふの弁」がある。ちょっと引こう。
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 或云、伊勢国天照太神を呉の泰伯と申す説。宋元の代より申す所にして、儒者よりこれを見れば、尤事跡に付きて左あるべし。神道者よりは此説を嫌ひ、堂上方禁中方にても不被用。これも亦たあるべし。日本は大唐と各別の式を立つる故なり。然れ共、仰ぎてこれを考ふるに、呉の泰伯は誰人ぞ。周室の高祖、后稷の嫡子にて、二男は王季なり。后と王季と聖人なり。王季の子文王、その子武王、周公、何れも聖人なりと称す。世子の説ありて、泰伯は弟の王季に譲りて、家を出でて去りぬ。是を三譲といひて、論語にも泰伯をば至徳と称せられたり。呉国へ去られしと古書にもあり。呉国より日本へ渡せらる。呉国は南京なり。日本と近し。其頃は日本は纔の島国にて、鬼畜同前の土民住す。彼等穴に住し猟漁して食せしなり。泰伯九州日向鵜渡の港へ舟を留めらる。其後高千穂の嶽に上り住し給ふ。日向に今その事跡残れりと申し伝ふ。彼国にても王代の古質あり。耕作を教へ、人倫の道を教へ給ふ。仍りて人道開けて国人尊敬す。素盞烏尊は皇の御弟なり。然れ共、御心に不叶事ありて御教を止めて引き籠り給ふ。仍りて法令の教なし、人々難義に及び、これを天の岩戸に引き籠らせ給ひて、常闇の世といふ。然れば皆人なげき諫め申して、再び法令あるにつき、日月かがやくといふ。彼渡海の時の御舟、是を伊勢国の船の御蔵と申す御寶、是なり。農具を入れ持せたる。今に御蔵に納めたり。仍りて御倉と申す。其外司室童子の画あり。髪を乱して童形の竿さす処の絵なり。是渡海の御船を写すと云ふ。又内宮に三譲伏あり。三譲の文字を写す。是御殿に質朴礼義をふまへさせ給ふしるしなり。これによりて、内宮を泰伯、外宮を后稷と説き申すといふ。外宮は国常立尊と申すも此説あり。扨、日本を姫氏国と、野馬臺の詩にも見えたり。周室又姫氏符号如斯。弁に云、此説古来より誤り来ること年久し。釈の圓月日本史を作、朝に献ず。其書に泰伯を以て始祖とす。故に議論ありて、おこなわれずと云ふ事は、蕉了子が記せる史記抄路に見ゆるなり。且舊事記、古事記、日本紀に、此説に似たる事、実になし。浜成の天書記、広成の古語拾遺、倭姫世説、鎮座伝記、御鎮座次第、実碁本記、類聚神祇本源、元々集等の書に、亦見えず。野馬臺の詩は、世俗に伝はるばかり。書籍の中、嘗て見えず。梁の寶誌和尚の讖文なりといへども、誌か詩伝中にも見えず。仮令、実作りぬるも、霊僧の詞証拠とするに足らず。神皇正統記に、異朝の一書中に、日本は呉の泰伯の後なりといふ。更に当らず。思ふに、唐土の人我邦の書をしらず。偏に商舶俗侶の口に任せて、年代をも不弁、実非を不正、実を失ふこと常に多し。固と我邦の人、国史に瞽き故、姫氏国の言に迷ひ、泰伯を誣罔し、佛者は大日■(靈のしたが女)の名を以て、大日を附会し、是周礼造言の刑を免れざるの人、国神正直の教に背く。実に聖神の罪人なり。開闢の始、神霊を称するは、古今の常。予別に説あり。此に略す。或云、天地開闢の始より、我国有りて、大日本豊秋津洲と称し、我君の子世々統を続き給ふ。所謂天照太神の御子孫なり。呉は泰伯より始まり、世の相おくる丶こと数千歳。日本何そ、泰伯の子孫ならんや。史記呉の世家を按ずるに、泰伯卒して子なし。弟仲雍立つ。後十七世夫差、越の勾践の為に滅さる。此時我邦、孝昭天皇三年に当る。夫差より前、呉の日本に通ぜし事なし。異域の人、我邦に来て臣民となるは、則是あり。其氏族を蕃別といふ。この類多し。その中に松野氏あり。新撰姓氏録に曰、松野は呉夫差の後なりと。是呉人我邦に来るの始なり。日本紀に拠るに、応神天皇三十三年春二月、阿智使主、都賀の使主を呉に遣し、縫女を求めしむ。ふたりの使者高麗に渡り、呉に至らんとするに、呉に通ずることを得たり。呉王工女兄媛、弟媛、呉織、穴織四人を与ふ。大織冠鎌足執政の時、百済の禅尼法明、対馬に来て、呉音に維摩経を誦す。よりて呉音を対馬読といふ。呉音の源起なり。然れども、泰伯を天照太神といふ事、何れの書にも見えず。日本紀纂疏に、一條兼良公の説に、韻書を考ふるに、姫は婦人の美称なれば、思ふに天照太神は始祖の陰霊。神功皇后は、中興の女主たる故に、国俗姫氏国と称すとかや。只字義によりて、事を論ずるときは、此類常に多し。蓋物極れば変じ、人窮すれば則本に返る。天地の常道にして、古今の事宜なり。予兎園小説を作らんとす。嚢底を叩きて考ふるに、奇説新説、諸君の筆に出づ。予が輩、如之何そ筆すべき。於是本に返り、源を尋ね、天照皇の説を写し、聊以て例の兎園に備ふと云ふ。
               乙酉八朔   中井琴民識
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 此処では「野馬臺詩」なるものに於いて日本が「姫氏国」すなわち天皇の名字が「姫」であると記していることを紹介し、信ずべき書物に根拠が見られないことから、是を否定している。筆者だって本気では信じていない。眉唾だ。が、此処で何の説明もなく「野馬臺詩」が登場していることからも、此の詩が当時の読書人にとって、当然知っているものだと考えられていたことが分かる。他愛もない詩だが、刺激的な内容なので、江戸版本から紹介しよう。まずは、「序」から。
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野馬臺序
野馬臺詩者梁寶誌和尚所作也。野馬者陽焔也。臺者謂國也。言倭國人道軽薄雖有而如亡。猶陽焔起春臺、故指本朝云野馬臺也。昔寶誌和尚行道日、化女忽然而来与和尚倶語、恰如旧相識、一女去一女来、如斯一千八人也。皆謂本国之終始也。和尚怪之以千八人女、作文字者、乃倭字也。爰知是倭國之神也。和尚託其言、作一十二韻詩以貽将来矣。嗚呼誌公是観音大士、不知自作倭國之讖乎。中古聖武皇帝朝、吉備公入唐、唐人以其本国之讖出野馬臺詩、使之読為試其知力、文字交錯乎直不書之、非神助則不可読之。於是吉備公黙然祈仏天及本国之神祇、俄而有蜘蛛随其紙上、漸歩曳絲遂認其跡、読之不謬一字。唐人称美之。
【現代語訳】
 野馬臺詩は梁の寶誌和尚が作った。野馬とは陽焔(かげろう)で、臺は国を謂う。倭国は人道があってなきが如きであり、この「あってなきが如き」状態を、春臺に陽焔が立っているようだ、と謂っているのである。出典は荘子内篇逍遙の「野馬也、塵埃也、生物之以息相吹也」だ。現代語訳すれば「オーラ」ぐらいになるか。野馬は人に制御されず駆け回り、絶えず上気して汗塗れだ。賛否両論だろうけれども、「青春」の字面に於いて、やや上気し艶やかな即ち汗っぽい女性が、お人形さんみたく粉っぽいより、多くの男の劣情を惹き付けるとは、勿論のことであろう。妙齢以上の女性が何やらかにやら肌を艶やかに見せようとする努力を、厚化粧と呼ぶが、其れは此の「気」の発散なる考え方に依拠してをると、私は常々考えている。女性の旺盛な気は、それだけで男を絡め取る触手である。頭の悪いガキどもが、「いやぁ猥談できる女性(発散する女性)って素敵だよね」なぁんて宣う情景を思い浮かべていただければ、解り易いか。……いやまぁ簡単に言やぁ飽和水蒸気量の関係で「上気」し、空気が揺らいで見えるだけなんだが、熱を帯びた上気/陽焔は、発散/オーラの代名詞にされたんだろぉな。即ち「野馬/陽焔」は生気の謂いであり、現象としては、「陽炎(かげろう)」である(だがまぁ現在では、無生物だって陽炎を生ずるのでピンと来ないかもしれない)。しかし我らが馬琴は燕石雑志で、こう云っている。
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逃水
夫木集第廿六雑の部の八。俊頼朝臣のうた
 武蔵野にありといふなる逃水のにげかくれても世をすぐすかな
この逃水といふものは、実の水にあらず。春の曠野にたつかぎろひを遠く眺望れば水の流る丶如くに見ゆるをいふよしは、人みなしるものから、野馬陽炎を水にたとひたる事、おのづから根く所あり。左性霊集、詠陽焔喩(見于巻十第六十二張)遅々春日風光動、陽焔紛々曠野飛、挙体空々無所有。狂児迷渇遂忘帰。遠而似水近無物。走馬流川何依(以下略)運廠註智論曰、飢渇悶極見熱気如野馬、謂之為水。疾走赴之転、近転滅。走馬流川、皆謂陽炎状貌也
逃水の事これにて義審なり。俊頼は空海の句にもとづかれたるにや。
(巻之二)
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 ちなみに、寶誌和尚に関しては、梁書や陳書、南史、北史などに予言僧としての言動が多く収録されているが、例えば次のような話も残っている。

 武帝の時に侯景が謀反したが、天監年中に寶誌が、そのことを言い当てた。「尾の曲がった狗子が発狂し、人を噛んだと思ったら、忽ちに死んだ。また、山里の児童が猿のように腕を振り回し、皇帝が政治を行う太極殿の前に行って批判がましい目で睨み付けた。これは、汝南の事から起こって、三湘に横死するとの意味だ」。即ち、狗子も児童も猿を象徴しており、都市が攻められ皇帝が害毒に侵されることを意味していた。侯景の乱である。侯景は、魏との戦いで懸瓠(汝南)に於いてシクジり帝を逆恨みするに至ったが、このことから起こり謀反し、三湘で横死する。侯景は、いったん天下を奪い、百二十日の後に亡んだ。所謂、百日天下だ。前出「狗子」は、侯景が子供の頃に呼ばれていた名だともいう。また侯景は、左右の脚の長さが違い、それを「掘尾(尾が曲がった)」と表現したか。また、侯景の左足には亀の形をした瘤があり、調子の良いときにはクッキリと浮き出し、敗北すればスッカリ隠れたという。玄武/水気と関わる存在だったのだろう。猿は金気の動物で、金生水、水気との親和性は高い。五行大義に拠れば、「梁」は「七」の数字を割り当てられている。七とは火気の成数であり、水気に克される。完全に克されなかった理由は、侯景の〈徳〉が不足していたためだろう。水・金の陰気は殺を好む。侯景は性残忍で、いつも小刀を持ち歩き、人を殺すときは鼻や耳を削いだ挙げ句、すぐには殺さない、幾日か苦しみを味わせた上で、徐に殺すことが常であった。陰は殺を好む。陰性の徳、例えば金気(少陰)は、少陽の木気を併せ持ち初めて、モッキン・バード、源頼朝の如く王業を達成する。侯景には陽がない。人の気(木)を、それだけで支配するには無理がある。故に、陰としての気が強くとも、陽気の王朝を追い込むまでは出来るが、自ら徳を建てて民を率いることは不可能だ。敗死した暴虐の王・侯景の肉体は市に晒され人々に削ぎ取られ、煮込みなんかにされて、喰われた。肉(ししむら)を食らうとは、本朝の八犬伝にも表記された、民衆最大限の憎悪表現である。
 話を野馬臺詩に戻そう。昔、寶誌和尚が行道していると、妖しい女が、まるで旧知の如く和尚に語りかけた。一人去っては、また一人が現れ、千八人に及んだ。女たちは皆、自国の歴史や行く末を語った。和尚は、「千八人の女」が現れた意味を考えた。千・八・女と画すると「委」、これに人(ニンベン)を付ければ「倭」となる。和尚は、女たちが倭国の神であり、女たちが語った事柄は倭国の顛末であると悟った(八犬伝の「八百八人の計」と同類の謎懸け)。そこで聞いた事どもを五言十二韻百二十字の詩に表し将来に残した。嗚呼、寶誌和尚は観音菩薩の化現であったが、自ら知らぬうちに倭国についての予言詩を書いてしまったか。大昔…とまでは言わぬ昔、聖武天皇の時代、吉備真備が遣唐使として中国に渡った。唐人は、寶誌和尚が作った日本未来記たる野馬臺詩を持ち出し、読ませて知力を測ろうとした。表記は交錯し、その侭では読むことが出来なかった。神の助けが必要であった。吉備公は黙然として仏と日本の神々に祈った。いきなり蜘蛛が現れ、野馬臺詩を書いた紙の上を歩き回った。歩いた跡には糸が残った。糸を辿って吉備公は、一字も間違わずに訓み下すことが出来た。唐人は、称賛した。現れた蜘蛛は長谷寺の観音であった。……もう明らかだろう。此の説話は、観音の自作自演だ。真備が苦境に陥ったのも、仲麻呂が虐殺されたのも、観音の差し金だ。当然の真理は、当然の真理として眼前にあるが、人は其れを真理とは見ない場合がある。中国皇帝と真備の確執は、まさに此の点に在る。此を人々に語ろうとする観音の体温が、説話の本懐であろう。(【参考】天監中有釋寶誌曰、掘尾狗子自發狂當死未死噛人傷須臾之間自滅亡起自汝陰死三湘。又曰、山家小兒果攘臂太極殿前作虎視。掘尾狗子山家小兒皆猴状。景遂覆陷都邑毒害皇室(新校本梁書/列傳卷五十六列傳第五十侯景・王偉)
 前置きが長くなったが、それでは吉備真備が提示されたという「野馬臺詩」を紹介しよう。
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水丹腸牛龍白昌孫填谷終始
流尽鼠食游失微子田孫臣定
天後黒食窘水中動魚走君壌
命在代人急寄干戈膾生周天
公三鶏黄城胡後葛翔羽枝本
百王流赤土空東百世祭祖宗
雄英畢与茫為海國代成興初
星称竭丘々遂姫氏天終治功
流犬猿青中國司右工事法元
飛野外鐘鼓喧為輔翼衡生建
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  本シリーズは読むに当たって縦書き推奨だが、上記文字列に限っては、このままで原文である。縦横転換すれば、違ったものになってしまう。
 説話に於ける蜘蛛の導きに拠れば、以下の通りとなる。
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東海姫氏國、百世代天工、右司為輔翼、衡主建元功、初興治法事、終成祭祖宗、本枝周天壌、君臣定始終、谷填田孫走、魚膾生羽翔、葛後干戈動、中微子孫昌、白龍游失水、窘急寄胡城、黄鶏代人食、黒鼠食牛腸、丹水流尽後、天命在三公、百王流畢竭、猿犬称英雄、星流飛野外、鐘鼓喧國中、青丘与赤土、茫々遂為空。
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 第二句の「右」を「石」、第二十一句目の「飛」を「鳥」もしくは「烏」とするものもあるが、「星流鳥/烏野外」はナンセンスなので、元は「鳥/烏」であったかもしれないが「飛」としておく。十五世紀半ばの臥雲日件録にも最終部分が話題に上っているけれども、同様の詩本文テキスト群のうちでは、東大寺本(十六世紀前半)が、纏まったモノとして初期に属するとされ、次々に同様の史料が写本もしくは刊本の形で流布する。十二世紀初頭に成立した江談抄には「百王流畢竭」辺りが引かれているが、全文とも現行の表記であったか否かは、よく分からない。
 ただ、制限行数を超えるので紹介は次回になるが、少なくとも末尾十句が延暦九年までには成立したことを示す史料もある。上記のものと若干の異同があり、表記がより混乱しているものの、同様となっている。
(お粗末様)
 
 
 

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