■伊井暇幻読本・南総里見八犬伝・番外編「自ら課した限界」

 中世に野馬臺詩が取り沙汰されたとして前回は史料をあさったが、古代からして、【日本滅亡】の形で当該詩の一部が存在している。延暦寺護国縁起として纏められたものの中に、最終部分だけ載せ、延暦九(七九〇)年のものだと注釈を掲げてたりする。
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本朝王法延暦以後嘉運以当山仏法持国本縁第八
野馬臺懺(讖?)云(大唐梁代寶志和尚述十一面観世音化身也)
丹水流尽後 天命在三公
百王流畢■(ゴンベンに錫のツクリ) 猿大称英雄
皇流烏野外 鐘鼓諠国中
青丘与赤子 范々遂為空
已上
延暦九年註云
 丹水流尽(千八女帝尽又馬野女帝崩也是清原孫尽故曰天命運逮近所孫大納言故云公一書云)
又云う。言水湯而衡主者(千八女又王尽而三公成王也)
衡(漸歟)者胡法滅仏法守倭云々。
又云。胡法滅者国随也云々。又云范々遂為空。謂仏法滅国邑。亡国破宗破終。無君長終成曠野運順。
謹案和注意云、本朝王法光仁天王御代、百王流尽也。称徳天皇崩後、依王孫尽白壁王子准三公一大納言是也。改之為継体君、光仁天皇也。桓武天皇其光仁天皇御子也。光仁天皇以前、依王法権威持国。光仁天皇以後、依仏法之助縁持国。王法仏法共滅尽、国随滅無君長。故終無仁民、終成曠野此意也。于時桓武聖主深知此理、伺仏法之最要。爰我日本国仏法東漸者、自欽明天皇御宇至光仁天皇治世、諸宗名僧各各所将来教迹者、只是小乗与権教也。而延暦年中伝教大師始開秘密之奥蔵、専伝天台之妙宗、応時咸得両宗。天皇咸悦、而宗中殊崇天台真言両宗、為鎮護国家之宗。開比叡山岳之霊崛、為天子本命之道場矣。
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 なんだか字面も句点の打ち方も、甚だ心許ない表記(大日本仏教全書版)だが、とにかく、「延暦九年」を信じれば、当時既に、現行のものに近い野馬臺詩の結末部分が存在していたことが解る(確かに此だけでは自称に過ぎぬが、先人の史料批判が在る)。まぁ昔から現行体制に対する不満を抱く者はいたんだろう。取り敢えず、八世紀末までに、皇家を呪う野馬臺詩は存在した可能性がある。

 姫氏は百代で滅亡する。これは単なる予言ではあるが、予言を信じる人達にとっては、【史観】だ。此の「天皇家百代限定史観」で書かれた史書が愚管抄だ。天皇家の歴史を説き始めるに当たり、
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神ノ御代ハシラズ。人代トナリテ神武天皇ノ後百王トキコユル。スデニノコリスクナク八十四代(順徳)ニモナリニケル中ニ。保元ノ乱イデキテ後ノコトモ……
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と、天皇家の終末を予言している。してるんだけれども、愚管抄は末尾で、こうも云っている。
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今百王ノ十六代ノコリタル程。仏法王法ヲ守リハテンコトノ。先カギリナキ利生ノ本意。仏神ノ冥応ニテ侍ルベケレバ。ソレヲ詮ニテ書キヲ侍ル也
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 百王/天皇家が尽きても仏教は存続する、即ち帽子に過ぎない支配層が滅亡し果てても、人類は残り生き続けていくことを宣言して、史書(愚管抄)の筆を閤くんである。末法思想の影響はあれ、とにかく「天皇家は百代限り」なる思想は、実は日本人もしくは日本列島に生きる人々の終末を、決して意味してはいなかったかもしれないのだ。帽子は天気や気分で代えれば良い。権力なんぞといぅものは、実は其の程度のモノなんである。此処に於いて「百王論」は、終末論ではなく、単なる政治史の画期として捉えられている。深刻な問題じゃないから、アレコレ思考し詮索することが、(政治的規範ではなく良心に於いて)許される。実の所、姫氏が滅亡したって如何したって、媚び売って得をしている連中以外、誰も影響を受けない。いや、今は媚び売って諂い利得を得ている者ほど、恐らく、滅亡後は後足で砂を掛けまくること、火を見るよりも明らかだ。権力者が権力にしがみつくのは、無能なくせに偉そうにしていることを心の底で自覚しているからだし、身近な周囲が実は自分そのものではなく自分に纏わる権(字義に於いてイコール仮/幻)故に、自分をチヤホヤしてくれるんだと本能的には解ってるんだろう。バカはバカなり、バカには出来ない。ずり落ちれば反動で、酷い目に遭う。だから、しがみつく。真に愛されていれば、隠居の方が楽だし愉快に決まっている。隠居しないのは、心に負い目がある証拠だ。

 愚管抄は、天皇の藩塀ではあるものの藤原摂関家という、有力であるが故に殆ど同格意識を持ち、天皇を相対化して見られる一族に連なり、しかも王法(天皇)と両立し得る仏法に帰依した坊さんが書いたものだ。天皇なんざ当時、藤原摂関家を無視しては成り立たない。ってぇか、血脈として天皇家は、殆ど藤原氏と考えることも出来る(代々藤原氏と遺伝子を結合させている)。「血」を重視するなら、天皇家と藤原氏は、ほぼ同一の流れと云って良い。しかも、聖武帝以来、天皇であっても、所詮は仏の弟子であった。愚管抄の作者は高僧だから、心の中では天皇を蔑ろにすることが可能だ。天皇が百代で終わっても、別に困らない。だからこそ、天皇家が百代で終わると考えることが出来たのか?

 そうではない。百代で皇家が断絶するとの考え方は、長元四(一〇三一)年八月四日、ある貴族の日記にも遺されている。皇家の本質的かつ日常的な伊勢神宮祭祀を一身に引き受けた、斎王の託宣である。最高の巫女に託された皇祖神の言葉だから、余りに重い。藤原摂関家に連なる坊さんが文句を付けるのとは、全く違う。身内も身内、身内どころか天皇が存在の拠り所とする者それ自身が、天皇百代限定論を下したのである。世情(天候)不順の状況の中でのドタバタは前後にも広がっており愉快だが、差し当たって該当日条の関連部分のみ引く。
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己卯 ……中略……頭弁持来宣旨(或可定申或勘宣旨)又即帰来伝関白御消息云々伊勢太神宮御託宣事近曾従斎宮内々示送然而無子細多仍召遣斎主輔親奉託宣者也而有所労不早参上一日参上面問案内申云斎王十五日着給離宮十六日参給豊受宮朝間雨降臨夜月明神事了十七日還給離宮欲参内宮暴雨大風雷電殊甚在々上下心神失度人走告有喚由凌風雨参入間笠二被吹損依召参御前斎王御声猛高無可喩事御託宣云寮頭相通不善妻亦狂乱造立寶小倉申内宮外宮御在所招集雑人連日連夜神楽狂舞京洛之中巫覡祭狐枉定太神宮如此之事不然之事也又神事遺礼幣帛疎薄不似古昔不敬神也末代之事不可深咎抑光清運出官舎納稲放火焼亡又殺害神民其事遅々無被早行僅及第三ケ年十二月晦夜被配光清公家懈怠也奉護公家更無他念帝王与吾相交如絲当時帝王無敬神之心次々出給之皇亦有勤神事歟降誕之始已定王運暦数然而復有其間事(延縮間歟)百王之運已及過半伴相通并妻可追越神部件妻交居女房中早可追遣即追遣公郡仰輔親令斎王■過状依難背神宣忽以■不及為硯書也神宣云斎王奉公之誠勝於前々斎■然而依此事令進過状可読申者輔親申云無御本心候之間雖読申難聞食歟神宣云取収斎王神所申可然可令蘇生即本心出給仍読申其後神宣云可奉七ケ度御祓者此及大雨不止僅三ケ度奉仕今四ケ度欲奉仕之間水已湛来仍退斎王御座之間極不便也今四ケ度還給可行者又神宣云汚穢事多可献酒亦供酒者仍三ケ度供之毎度五盃合十五盃亦神宣云事可託四五穢者忽無爾年歯者仍託斎姫者給終不致参内宮被申事由致抜捨神供雑物之是荒祭神御託宣云々他事多事云々近候女房承之歟不能日記又関白御消息云配流相通託宣事可令諸卿定申歟如何報云託宣已明可無疑慮非寄託凡人寄託斎王託宣給事往古未聞可令恐怖給也最可信給事也只任託宣可令行給者也若被下可及公卿定之宣旨可似有託宣之疑乎即帰来伝御消息云々所示之旨尤可然事也然而従斎宮告送事者内々事也又召輔親陣頭可被留歟輔親面有所申彼内々事也又両三上達部可参入由示遺輔親之事便仰同弁少時令参内中納言乗車尻参自待賢門如恒着陣之後左右弁着座余着南座仁王会日仰頭弁経任令陰陽寮令勘申日時廿二日廿九日時之間時剋午二剋者而左大弁令書僧名(大極殿百高座并南殿清涼殿院宮神社等如例)次々書検校(中納言経通参議経頼)行事人等(権左中弁経任史国宣守輔)書了大弁進見了納筥(日時勘文僧名定文検校定文等也但不奉行事定文是例也)以行事弁経任先経内覧(関白経営参入今朝御消息云未時許可参入者然而依定申仁王会事未時参入後日関白差開随身令見下官参入同余参入不沐浴労参云)被示云乗延者重服者可致被他人歟北野講師改清朝等也重経内覧令奏聞即致下給下給仰云廿二日可行也僧名日時勘文検校定文行事定文等相加下給行事八弁経任一々結申可仰廿二日可給之由問斎主輔親参不申云召遣使未申左右仍重召遣訖頃之申云使相共参入者令奏事由仰云可問伊勢託宣事者便仰頭弁是密事也若有不可外漏事者以他人令問可無便也仍仰頭弁於陣頭令問者有立聞之輩歟於御書所可問之由相含之心底所思者於蔵人所辺若頭宿所令問給以彼所事被仰下可宜歟民卿斎信云以外記可被問歟余答云佚可多披露以頭弁於閑処所令問戸部説矣時剋多移頭弁伝申輔親所奉之託宣即令奏若可令注進歟展転之間非無渉先可随仰之由経伝奏耳此間雷電大雨殊甚召官人并随身等令候陣砌内宜陽殿壇上諸卿失色怖畏無極陣前水湛亦陣後同溢頭弁被妨陣後七(水?)不能伝勅語徘徊南殿以陣腋橋床子相構以彼為橋纔出陣伝勅之託宣(以下欠文歟)「小右記」
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 愚管抄より二百年程以前の出来事だ。「斎王御声猛高無可喩事御託宣云……中略……奉護公家更無他念帝王与吾相交如絲当時帝王無敬神之心次々出給之皇亦有勤神事歟降誕之始已定王運暦数然而復有其間事(延縮間歟)百王之運已及過半」の部分だ。まぁ当時の天皇は桓武で五十代ジャストだから「過半」とは云いにくいんだが、皇祖が降臨したとき、既に皇家の存続は百代に制限されており、其の「過半」となってしまっていると云う。斎王の言葉/託宣は、或る意味、天皇そのもの、いや、より根本的な存在(皇祖)の言葉だ。自分で自分を「百代で終わる」と云ったんである。真に言ったとしても、テキトーに口から出任せを決め込んだに違いない。しかし、言動は、特に敵対者と鬩ぎ合っている場合、自らをも厳しく制限してしまう。言葉を絶対(値)化すれば、九十九か百か百一かが問題となってしまう(ナンセンスなんだが……)。言葉の独り歩きってヤツだ。公卿たちは、トップ・シークレットとして隠蔽しようとした。でも無駄だったろうな。隠蔽するほど事実は残る。しかも、神懸かりで斎王が自らの存在に否定的な事を口走った背景として、世間(少なくとも貴族・僧侶の教養階級)で百王論が一般化していたと考えられる。真に荒唐無稽、全くのトンチンカンは、世上に流布しない。何か心の琴線に触れるからこそ、流布するのだ。中世前半には成立した平家物語だって、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響き有、沙羅双樹の花の色、生者必衰の理をあらはす、奢れる者も久しからず、唯春の夜の夢の如し、武き者も終には亡ぬ」と仏教的無常観を冒頭で宣言している。絶対的もしくは永遠の存在などない。此の様な思想を根底にして、百王論は受け入れられたのだろう。尤も斎王が示した自らの限界は、それまでの千六百九十一年と同じ程の時間、皇家が存続するとの保証でもある。当時、貴族女性の寿命は三十年にも満たなかったかもしれず、千六百九十一年とは【永遠】に庶い時間だ。「百代」なる設定自体、実は無責任なものと言える。本人にとっては永遠の保証をしつつ警鐘を鳴らし、気に喰わぬ者の排除を図っているようにも思える。しかし、此が愚管抄のように残り十六代ともなれば、深刻さが増す。百代目となれば、人々を脅す材料にもなる。西暦一九九九年前後、ノストラダムスの予言を廻る騒ぎを思い出せば、解り易い。「んな訳ねぇよ」と言いつつ、少なくともネタとしてメディアは騒いだ。自分の理解できぬことを否定したがる科学万能の世でさえ、コレだ。呪術が支配していた当時の恐慌は、察して余りある。行為や事実が思考を形成し、思考が事実や行為に影響を与える。実際、百代の後円融(皇統譜では後小松が百代だけれども室町時代なんだから当時は北朝計算で考えていた……ってぇかソレが正しく皇統譜が間違いとしか思えないんだが)の時代、天皇の権威は、男色家の日本国王・足利義満に陵辱し尽くされた。義満の息子・義持が、結城合戦に際して天皇に治罰倫旨を強請ったことで、漸く天皇は軍事権を(形式上のみ)回復した。八犬伝の端緒である。「百代」そのものの時に偶々義満みたくアクの強い将軍が誕生したって事は偶然に過ぎないだろうけど、天皇だって永遠の存在ではないとの思想が前提として在ったとは思える。水は澱めば腐り、月は盈つれば則ち虧くる。権力の成長・衰微過程は、教科書通りに辿ったようだ。

 結局、「野馬臺詩」なるものは【中世初頭ぐらいまでには存在が話題となってはいたし、古代のうちに大まかには固まっていたが、現行のテキストに固まった年次は十六世紀前半以前としか言えない】状態だ。延暦九年の表記と、江戸版本の表記との間の異同は、人の手を経る内、よりよく意味が通ずるように改変されたことを示すか。
 また、東大寺本は、解釈が阿部(定ではない)すなわち大裸(まら)大好き女帝・孝謙と道鏡の乱れた関係を一際強調しており、後に流布する解釈とは大きく異なっている。可能性としては、孝謙時代の記憶が生々しい世代もしくは天武系の後を襲った皇統の政治的必要から古代の内に書かれたモノを十六世紀に写したか、それとも鎮護国家道場として僧侶を戒めるために敢えて道鏡をクローズアップしたかだろう。一般に、予言詩の解釈は、其の解釈を下した時代の状況を、最終部分に当てる傾向があるだろう。そうでないとしたら、客観的もしくは主観的に、自分の相対的立場を向上させる必要性を動機としている。例えば、自らの祖先称揚もしくは敵対者祖先の貶めが、想定される。訴訟なんかに持ち込まれる由緒書では、特に其の傾向が著しい。
 一方、近世に入ると刊本の形として流布する。即ち、狭い範囲で自分の立場を強固とするためのみに書かれた解釈だとは、考えにくくなる。客観的に一定の説得力を持ち、且つ衆目を惹くべき解釈となる筈だ。故に、東大寺本などでは詳細に亘る詩後半の解釈が、刊本では思わせぶりに疎漏となる。読者の解釈に委ねるってことだ。読者が自分で考え、「そういえば現在の権力者は……」と勝手に納得することを期待する形だ。此の疎漏は、近世には、ほぼ【公認の芸術である漢詩の解釈虎の巻】として刊行されていることと無縁ではなかろう。殆どが、超有名な長恨歌や琵琶行とセットで掲載されている。時事に関する評論は禁じられ、当時現存の支配層(寺社含む)に関する歴史も一般に流布しているもの以外は絶版を命じられる虞があった近世、とにかく幕府は、政治的な「新奇の説」を否定する立場であった。「現在の亡国的状況は、昔から予言されていた」なんて出版できないに決まっている。江戸文学ならぬエロ文学も、今でこそ殆ど自由に出版されているようだが、昔は教訓めかしていたものだ。例えばエロ主人公が最後に不幸に陥ったりして、「エロは滅びる」との教訓を、こじつけていた。尤も読者にとって、そんな事は如何でも良い。途中のエロ描写こそ、眼目であった。また、荒んだエロ描写を文化人とやらが【芸術】だと主張し、国家に許容するよう強要しようとした時代は、ほんの数十年前だ(また但し、此の両義的な相貌自体がエロティックであるがため、新たにエロティックな価値を生成してしまう所が、なかなか油断ならかったりする)。同様の発想であろう。野馬臺詩の場合も、出版するためには「有名な漢詩の解釈ですぅ」との形式を採る必要があったのだろうし、文学/芸術の体裁を纏っていたのだろう。【詩解釈虎の巻 野馬臺詩】刊行は、近世後半となっても執拗に行われた。馬琴が青春時代を送った寛政期の物もある。

 今回は、「野馬臺詩」の概略に就いて述べた所で、制限行数残り少ない。次回から、内容に就いて触れることになろう。
(お粗末様)

 
 
 

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