■伊井暇幻読本・南総里見八犬伝・番外編「詩は世に連れ、世は詩に連れ」

 前回は、不吉な予言詩・「野馬臺詩」の概略に触れた。今回から、内容を見ていこう。しかし、「野馬臺詩」、中国の高僧が書いたとは思えぬ、置き字も何もないアッサリした、まるで日本人が書いた中途半端な漢文だ。……まぁいい、引き続き注釈書を引こう。筆者が使用した近世解釈本のテキストだ。近世流布のものは、これと大同小異のようだから、細かく詮索はしない。()内が、割り注である。
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東海姫氏國(本朝后稷之裔也故云姫氏國也)百世代天工(人王天工也理庶民百代政出於王者也)右司為輔翼(昔神代天児屋根命天太玉命二人奉天照太神勅為左右之臣扶翼然後神武皇帝東征為天下扶翼謂一統彼二神之子孫天種子命天富命又為左右之扶翼臣也)衡主建元功(衡主者謂聖徳太子也衡岳恵思大師後身也推古天皇朝為摂政好定官位十八階也)初興/治/(治和)法事(聖徳太子十七箇条憲法以治世者也條)終成祭祖宗(慎終追遠則莫善聖徳太子矣)本枝周天壌君臣定始終(本枝君臣也聖徳教治後風雲之際令命不違普天之下莫不有王土卒土之寶莫不王臣也)谷填田孫走魚膾生羽翔(谷填魚鱠言天智皇子大伴作乱有陵谷之変天智諱葛城号開別天王)葛後干戈動中微子孫昌(葛謂藤氏也天児屋根命以来為其裔者代々扶翼朝中臣鎌子討賊有大功故更賜藤原姓鎌子之後恵美押勝作乱故云葛後干戈動中微子孫昌者押勝以後藤氏不振処矣清和天皇朝良房公奉文徳天王之遺詔為摂政忠仁公是也爾来彼子孫連綿任其職昌司可知矣)白龍游失水窘急寄胡城(白庚龍辰指孝謙天皇言彼女帝庚辰歳誕生也在位之日婬乱而無度寵弓削之道鏡太過矣故九族不親諸臣無朝遂失位不堪窘急而寄身於胡城中以自譲矣曽彼太上天皇孝謙改大臣曰大師初上皇僭幸藤原武智丸大臣第二子押勝而為大師居正一位藤原下添二字而賜姓云藤原恵美又幸法師道鏡号大師押勝寵衰於是欲廃上皇与謀作乱也)黄鶏代人食黒鼠食牛腸(黄鶏者指平氏之将門言黄己鶏酉将門己酉歳生矣大将門作乱而略東八箇國以称王是代人食之謂也黒鼠者謂乎相國清盛也黒水鼠子太政入道也壬子歳生矣無道而乱君臣之権而不奉祭祀食其肉也)丹水流尽後(丹水喩天子徳沢安徳天皇以後王道衰微徳沢涸天下之政出於諸侯云々)天命在三公(言後鳥羽院朝源頼朝討平氏而有功天下之事無大小皆聴於頼朝朝臣三代登公小輔自是以後天下政幽不復于天子也)百王流畢竭(百王以後必有申戌之歳人而威如四海乎)猿犬称英雄(猿犬云也)星流飛野外鐘鼓喧國中青丘与赤土茫々遂為空(星謂戻氏世以星喩庶民言万民遁逃國中唯有鼓■鼓の下に卑しい/之声而巳故云青丘与赤土茫々遂為空矣)
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東海姫氏國(本朝后稷之裔也故云姫氏國也)百世代天工(人王天工也理庶民百代政出於王者也)

 これは、まぁいい。事実関係は別として、穏当である。「后稷」は、中国の五帝のうち舜代、農業大臣に任じられた人物だ。実は舜の先代・堯の時代から仕えていたが、職務分掌が定まっていなかった。五帝の歴史は、国家の成立を象徴的(且つ論理的空想的)に跡づけたものでもあるため、官僚集団が専門分化する過程が、堯→舜の移り変わりともいえる。とか言いつつ、堯の時代から后稷は后稷と呼ばれている。これは名前っていぅより職名で「稷(しょく)を后(きみ)する」だから、そのまんま「農業大臣」なんだけれども、細かいことは気にしないよぉに。昔の本では、初登場の場面から最終的な官位官職称号諱号で呼ばれることが、ママある。彼の本名は弃(すてる)だ。そのつもりのない女性が、思いがけず妊娠して捨てた子だから、「弃」だ(酷い話だ)。八犬伝でも、金碗大輔孝徳(丶大)は望まれぬ子であったけれども、無責任に出奔した八郎孝吉の忘れ形見だったから「カタミ」と名付けられた。同様の発想だ。史記周本紀冒頭に明らかである。弃は「姫」姓となり、周を宛てられた。妲妃に誑かされた殷の紂王を滅ぼし、孔子に理想王朝と称された、あの周である。この簒奪王朝の分家が、日本だと言っている。また、此の分家が百代に亘って、日本を支配するとも言っている。裏返せば、天皇家の支配は百代に限定される、との謂いである。
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右司為輔翼(昔神代天児屋根命天太玉命二人奉天照太神勅為左右之臣扶翼然後神武皇帝東征為天下扶翼謂一統彼二神之子孫天種子命天富命又為左右之扶翼臣也)

天児屋根命と天太玉命は天照太神を祀る重要な二神だ。前者は中臣/藤原氏の祖とされ、後者は忌部の祖とされた。これが天照神話に於ける左右の臣だとは、異議のない所だ。また「左右」には輔翼との意味がある。君主の左右にあって輔弼するのだ。議会に於いても議長から見て右が右翼、左が左翼なんだけれども、共に国家を翼賛する(筈だ)。しかして、国史日本書紀は、中臣/藤原氏の影響下に書かれた。故に、その祖神たる天児屋根命が優越する。忌部は対抗して私撰史書古語拾遺を書いて天太玉の優越を主張したが、影響力の差は縮められなかった。忌部は国政に於いて、傍流に甘んじる。其の忌部の国が、八犬伝の舞台たる安房なんだが(実際には違うが国史では)、そんな話は後にして、先に進もう。此の野馬臺詩では、本来なら藤原氏・忌部氏双方が「左右」として天皇を補弼する筈が、「右」のみが「輔翼」となっている。故に、これは、忌部が脱落して、藤原氏のみが残る/残ったことを意味していよう。
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衡主建元功(衡主者謂聖徳太子也衡岳恵思大師後身也推古天皇朝為摂政好定官位十八階也)初興/治/(治和)法事(聖徳太子十七箇条憲法以治世者也條)終成祭祖宗(慎終追遠則莫善聖徳太子矣)本枝周天壌君臣定始終(本枝君臣也聖徳教治後風雲之際令命不違普天之下莫不有王土卒土之寶莫不王臣也)

 衡岳恵思大師とは通常、「南岳慧思禅師」と呼ばれる人物だ。中国の天台第二祖である。南岳は、中国五嶽の一、衡山のことで、恵思は此処の福厳寺に住した。衡山の主だから、衡主だ。早くから鑑真和上の事跡を述べる書なんかに、聖徳太子が衡岳恵思大師の転生だと主張されてきたらしい。遅くとも、「唐大和上東征傳」(東寺観智院蔵本/真人元開:淡海三船:八世紀の篤学撰)には載す。
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前略……栄叡普照(東征第一発)留学唐国已経十載、雖不待使而欲早帰……中略……時大和尚在揚州大明寺、為衆講律。栄叡普照至大明寺、頂礼大和尚足下、具述本意曰、仏法東流至日本国。雖有其法、而無伝法人。日本国(日字群招高三本無。群本註云日)。昔有聖徳太子曰二百年後、聖教興於日本。今鍾此運、願大(大字群招高三本無。但群本注大)。和上東遊興化。大和上答(答字群本注云イナシ)曰、昔聞、南岳思禅師(慧思続伝十七)遷化之後、託生倭国王子興隆仏法済度衆生……後略
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である。ただし数百年後、扶桑略記(古代末中世初頭/十一世紀末?成立)なんかでは疑問も呈されている。
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相当陳大建九年、南岳思大師入寂之日也。由霊応伝第四巻之文、引合和漢年代暦計之也(私云、今案、聖徳太子、是南岳大師後身也。鑑真和尚云、聞、南岳思禅師遷化之後、託生倭国王子、興隆仏法済度衆生。倭国王子者、聖徳太子也。又滋覚大師奏状云、大唐南岳禅師之後身聖徳太子、以不世徳、伝生此国。然太子年六歳時、南岳大師入滅後身之義、年序同時也。其意如何。本伝云、先身念禅比丘。或本云、前身思禅師矣)巻第三敏達天皇六年丁酉六月二十二日条
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 聖徳太子が生まれたとき、恵思は、まだ生きていたのだ。故に【聖者が死んで別の聖者として生まれ変わる】との意味での「転生」ではないと言っている。なるほど、「転生ではない」との主張は、一応の理屈は立っており、まぁ許容の範囲とは思う。
 ただ、しかし、八犬伝なんかでは、洲崎沖海戦に於いて、直前に死んだ侠客・荒磯南弥六(洲崎無垢三外孫)の霊が、息子の増松に憑依する。また、八犬伝本文には書かれていないが、金碗八郎孝吉は死に際して対面したカタミ・大輔孝徳に憑依もしくは【自らの運命を押し付けた】疑いが濃厚だ。馬琴は、もう一つの傑作・椿説弓張月でも、源為朝の妻・白縫をして琉球・寧王女に憑依せしめ体を乗っ取らせる。別に恵思と聖徳太子、生涯が重なっていたとしても「転生」は流石に語彙としてマヅイとしても、霊的に同一の存在であったことを否定する根拠とはなり得ない。四乃至六歳の聖徳太子に、死んだ恵思が乗り移っても、筆者は全然困らない。だいたい聖徳太子は、恵思大師と同じく救世観音の垂迹ともされていた(扶桑略記巻第三欽明天皇三十二年卯正月一日甲子条など)。本体は飽くまで観音であり、其の現世に於ける発現が、恵思であって、且つ遅れて生まれた聖徳太子だと考えられていた。高次の存在が、下位次元の現世に於いて存在する場合、同時かつ場所を異なっても不思議はない。三次元の針千本は、二次元平面の複数点を同時に突き破って針(平面上では円)を出現せしめ得る。其の意味で、聖徳太子が恵思と同一の存在だと言いたいのだろう。
 聖徳太子は十七条憲法を定め、まぁ倫理規定を明文化したに過ぎず如何ほどの拘束力があったか覚束ないが、とにかく王者さえ守るべき題目を動かし難いイーワケのきかぬ形/明文化したことのみを以ても、法治国家への方向性願望を示すものと言えなくもない(十七条憲法が聖徳太子作でないとの説もあるが、本稿は馬琴当時の水準で考察を重ねている)。君臣の終始を定めたとは、官位十二階(同前)のことを言っているのだろう。これは、官僚集団を秩序づけると同時に、官位/人臣なるものから天皇を切り離し、絶対的に別次元の存在としたとも言える。
 史記舜本紀でも、職務分掌/官職を定めた後、姓が発生した。上述の通りだ。姓は差し当たって血脈の別を標識するものだ。尭は能力を鑑みて、血の繋がらない舜に帝位を譲ったのだけれども、舜代に至って職務分掌が明らかになり官僚集団が秩序づけられると前後して、血脈の標識たる姓が定められたのだ。官僚集団が有能となれば、皇帝は無能でもよい。皇帝世襲の道が拓かれた。即ち、皇帝が世襲したいなら、その他の血脈は峻別されなければならず、姓が必要となったわけだ。
 まだしも中国では易姓革命論が厳然としてあり、王朝も姓をもつわけだが、そういった弱肉強食の世界に対して引き籠もりを決め込み逃避するなら、姓を放棄せねばならぬ。五行説の呪縛から逃れる唯一の手段は、自らを無色とすることであったろう。万が一「姫」が姓であっても、自ら忘れ去られねばならぬ。そこら辺の事情は、「日本ちゃちゃちゃっ」で書いたから、繰り返さない。
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谷填田孫走魚膾生羽翔(谷填魚鱠言天智皇子大伴作乱有陵谷之変天智諱葛城号開別天王)葛後干戈動中微子孫昌(葛謂藤氏也天児屋根命以来為其裔者代々扶翼朝中臣鎌子討賊有大功故更賜藤原姓鎌子之後恵美押勝作乱故云葛後干戈動中微子孫昌者押勝以後藤氏不振処矣清和天皇朝良房公奉文徳天王之遺詔為摂政忠仁公是也爾来彼子孫連綿任其職昌司可知矣)

 ここらから、割り注の内容が甚だ怪しくなってくる。前半は壬申の乱をいっているのだと言う。「陵谷」は、詩経小雅の「節南山之什 十月之交」の注釈(毛詩正義)なんかにある言葉で、小人が上位に立ち君主が下り賢者が隠れて、世が乱れることを謂う。
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十月之交、朔月辛卯、日有食之、亦孔之醜。

彼月而微、此日而微。今此下民、亦孔之哀。
日月告兇、不用其行。四國無政、不用其良。
彼月而食、則維其常。此日而食、于何不臧
YY震電、不寧不令。百川沸騰、山冢■(山のした卒)崩。
高岸為穀、深穀為陵。哀今之人、胡■(リッシンベンに僭のツクリ)莫懲
皇父卿士、番維司徒、家伯維宰、仲允膳夫、
■(取のした木)子内史、蹶維趣馬、■(キヘンに禹)維師氏、艶妻煽方處。
抑此皇父、豈曰不時、胡為我作、不即我謀
徹我墻屋。田卒■(サンズイに于)莱。曰予不■(爿に戈)、禮則然矣。
皇父孔聖、作都于向、擇三有事、亶侯多藏。
不憖遺一老、俾守我王。擇有車馬、以居徂向。
黽勉從事、不敢告勞。無罪無辜、讒口囂囂。
下民之■(クサカンムリに追のツクリよこに辛したに子)、匪降自天。噂沓背憎、職競由人。
悠悠我里、亦孔之■(ヤマイダレに毎の本字)。四方有羨、我獨居憂。
民莫不逸、我獨不敢休。天命不徹、我不敢效、我友自逸。
(前略)毛以為幽王時不但日食、又然有震雷之電其聲駮駛過常令使天下不安止由、王政教不善之徴所致也。又當時天下有百川之水皆溢出而相乘。水流■(ソウニョウに多)下小人之象。今溢出由貴小人在上也。又時山之頂高之上■(山のした卒)然崔嵬者皆崩落山高在上君之象。今崩落是君道壞也。於時又高大之岸陷為深谷岸應處上今陷而在下由、君子居下故也。又深下之谷進出為陵谷應處下今進而上由小人處上故也。變異如此禍亂方至哀哉。今在位之人何曾無肯行道コ消止、此異者但尚コ省刑退不肖進君子、則此異止矣。此所陳皆當時實事震電既言不寧不令由、所致有象在下致皆有象矣。故箋皆以象解之推度災曰百川沸騰陰進山■(山のした卒)崩人無仰高岸為谷賢者退深谷為陵小臨即是也。鄭唯脂、時為異。傳山頂曰至箋乘陵。正義曰釋山云山頂炎曰謂山■(山のした顛)也又。云■(山のした卒)者■(ガンダレに垂)子規反語規反。郭璞曰謂山頭■(山に讒のツクリ)岩者意或作嵯此經作■(山のした卒)箋作崔嵬者雖子、則爾雅小異、義實同也。徐■(シンニョウに貌)以■(山のした卒)子恤反、則當訓為盡。於時雖大變異不應天下山頂盡皆崩也。故鄭依爾雅為説百川沸出相乘陵者、謂陰盛也。水泉溢時川多然故舉百成數也。周語曰幽王三年西周三川皆震伯陽父曰周將亡矣。昔伊洛竭而夏亡、河竭而商亡。今周若二代之季其川源必塞必竭夫國、必依山川山崩川竭亡國之徴。是歳三川竭此言百川沸騰與彼三川震不同也。何者此有沸出相乘水盛漫溢而巳非震之類也。彼幽王之時云若二代之季、若脂、時巳百川皆震不當遠比二代之末以此知沸騰非震也。彼云三川震此云百川沸又知此詩非幽王時也。鄭以為當刺脂、於義實安
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 この詩は、玉藻前・九尾狐が化けたともいう褒■(女に似)に誑し込まれ周を滅ぼした幽王に関するエピソードを取り上げている。周と祖を同じくする天皇に、周滅亡の予兆となった「陵谷」を突き付けている。
 また、日本書紀巻二十八天武天皇上元年五月条に「是月朴井連雄君奏天皇曰臣以有私事独至美濃時朝庭宣美濃尾張両国司曰為造山陵予差定人夫則人別令執兵臣以為非為山陵必有事矣」とあり、大海人側が、大友側の造陵を目的とした人夫徴集を戦争準備だと猜疑した事情を語っている。此のことをイーワケに、大海人は、決戦を決断し兵を起こす。やられる前に、ヤレだ。

 えぇっと、だから、此処の割り注は則ち、「谷填」を、この造陵を念頭に置き、大友の【陵を造ることに言寄せた兵員徴集によって準備された乱】と「陵谷の変」を重ねているようにも読める。また馬琴が燕石雑志に引く所では、「楊柳観音の事によりていふ歟。又法華経薬釈法雲、姓周氏、陽羨人云々。嘗一日講、散感天花状如飛雪、満空而延于堂内云々。続斉諧記、京兆人田真兄弟三人、共分財、所居堂前有紫荊、一株華甚茂、共議破而為三、待明截之。忽一夕樹即枯死。真見之驚謂弟曰、樹本同株、当分折便憔悴、況人兄弟。孔懐而可離。是人不如樹木也。兄弟相感而更合。而更合、樹随復活、亦開元遺事、明皇遭禄山之乱。■(鸞のツクリに金)輿西幸、林中枯松復生……後略」(巻四・花咲翁)とあり、「田孫走」は、兄弟/親族がバラバラになったら一族としても滅びるとの思想を示していることになる。古代天皇家の歴史は、叔父甥やら兄弟やらの家庭内暴力の、連続だ。……とまぁ通釈に牽強付会して話を進めてきたが、やはり、此の部分の通釈には、大きな疑問が残る。それは即ち……と、御約束の制限行数だ。次回は、通釈に反し、独自の解釈を下すことにもなろう。お粗末様。

 
 

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