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八犬伝第八輯自序

 

曲亭主人、江戸隠士也。別号多有。名平居綴文処為著作堂。其次名小書斎為■頼のしたに鳥/斎。繙国史旧録奇文諸雑書時、号彫窩。閲儒書仏経諸子百家之書時、号玄同。自序於稗史小説時、号蓑笠。耽戯筆時、号曲亭。編児戯小策子時、称馬琴。下俚巴人、其曲不高、和者弥〃衆。是以、馬琴曲亭二号、著于世云(曲亭山名。見漢書陳湯伝及大明一統志。馬琴、取野相公索婦詞句、以命之。相公詞曰、才非馬卿、弾琴未能、身異鳳史、吹簫猶拙、見菅原為長十訓抄}

[十訓抄作者名見徹書記物語]是他有雷水・狂斎・半閨E信天翁・愚山人数号、約一十二号。皆臨時随意、莫弗書矣。或笑其別号之多。主人乃弁之曰、古人有表字、而無別号、或称本貫、或以所居地名、相呼耳、近世別号、始自儒流、間亦、有堂閣楼台精舎草庵、則名此而号某堂某楼主人、此後世有別号、所以至二三、不足怪矣、時好名者、相羨以為雅事、因無其堂閣楼台、亦自号某堂某楼主人、夫有名而無実、是為虚名、虚名与身倶亡、不伝于後世、雖有十数号、与坊賈記本銭字号一般、非但文人墨客有別号、貴賤有家号、又有綽号、万物有方言、多異名、至諸家本草、乃薬物異名最煩多、非学而得焉、識別殆不輙、故老氏曰、名可名、非常名、漆園亦曰、名実之賓、名実両忘、始可知非常之名也、由此観之、余之有十数号、猶無也、古之高人、許人聞名、不許人見面、余胡為望高人、然措身而不思名、比肩措稗官者流、而意織筆耕、不■澤のツクリに攵/造化小児与之為狡獪也、豈思名者所庶幾、能察是意者、可倶評稗史焉、未得是意者、何憑知作者之観世写情有寓言以奨忠孝戯謔中弁貞淫猶且正是非昭法戒又善懲隠■匿のしたに心/禁窃盗之旨哉、雖然、集虚仮之詞、而綴虚仮之文、事之与文、素所無之、徴諸華胥乎、抑〃討於南柯乎、胸中有物、則求之于内、胸中無物、則求之於外、内外撮合、然後許多脚色出焉、於戯噫■クチヘンに喜/、誰徐悟立談之旨於言外、世人多不思之、好閲稗史者、啻喜虚仮之詞之奇中出奇且有千情万形可笑可悲可怒可罵之闇合已矣、不閲者、不択巧拙、又唯謂虚仮之詞之誣世惑俗一毫無益於名教、而擯斥之、至甚焉者、焼琴烹鶴、其故何也、為膠柱不解、不悟幻境為仙家、除此之外、厭常喜怪、是故徒好聴鬼、而不楽観鬼、昔者葉公好画竜、而懼真竜、当時呈画竜者賞矣、致真竜者黜矣、余亦為婦幼、呈画竜也久矣、尚幸不能致真竜焉、此拙編所以行于今、儻有与余同愚者、而思及于此、乃観画竜、如観真竜、其油然有所感、而粛然知所懼、一日有客、余対客腐談如前条、時八犬伝第八輯、全稿方成、欲序未果、即次是言、代序以顔于簡端

天保三年如月望蓑笠漁隠撰

董斎盛義書

 

曲亭主人は江戸の隠士なり。別号は多くあり。平居して文を綴る処を名づけて著作堂と為す。その次に小書斎に名づけて■頼のしたに鳥/斎と為す。国史旧録奇文諸雑書を繙く時には彫窩と号す。儒書仏経諸子百家の書を閲する時は玄同と号す。自ら稗史小説に序す時は蓑笠と号す。戯筆に耽る時は曲亭と号す。児戯の小策子を編む時は馬琴と称す。下俚巴人は、その曲高からざれば和す者いよいよ衆し。是を以て馬琴曲亭の二号にて世に著すと云う。(曲亭は山の名なり。漢書陳湯伝および大明一統志に見えたり。馬琴は、野相公の婦を索ぬる詞句を取りて以て乃に命す。相公の詞に曰く、才は馬卿にあらざれば、琴を弾ずること能わず、身は鳳史に異なりて簫を吹くこと、なお拙し、菅原為長の十訓抄に見えたり)

[十訓抄の作者の名は徹書記物語に見ゆ]この他には雷水・狂斎・半閨E信天翁・愚山人の数号ありて約{およ}そ一十二号。皆、時に臨み意に随いて、書せざることなし。あるひと、その別号の多きを笑う。主人は乃ち之を弁じて曰く、古人には表字ありて別号なし。あるいは本貫を称し、あるいは居る所の地名を以て相呼ぶのみ。近世の別号は、儒流より始まる間、また堂閣楼台精舎草庵あれば則ち、此を名づく。しこうして某堂某楼主人と号す。此、後世に別号ありて二三に至る所以、怪しむに足らず。時に名を好む者は、相羨みて以て雅事と為す。よりて、その堂閣楼台なきも、また自ら某堂某楼主人と号す。それ名ありて、しこうして実なし。是を虚名と為す。虚名は身とともに亡びて後世に伝わらず。十数号ありといえども、坊賈の本銭を記す字は一般に与し。ただ文人墨客の別号あるのみにあらず。貴賤に家号あり。また綽号あり。万物に方言ありて異名多し。諸家の本草に至りては乃ち、薬物の異名は最も煩多にして学びて得るにあらざれば識別は殆ど輙{たやす}からず。ゆえに老氏の曰く、名の名とすべきは常名にあらず。名は実の賓と名実の了ながら忘れて、はじめて非常の名を知るべし。漆園もまた曰く、名は実の賓、名実を両ながら忘れて、はじめて非常の名を知るべし。此によりて之を観れば、余が十数号あるも、なお無きがごとし。古の高人は名を聞くことを許して面を見ることを許さず。余は胡{なに}が為ぞ高人たらんを望むや。しかれども身を惜しみて名を思わず、稗官者流に肩を比{なら}べて、しこうして意を織り筆に耕して、造化の小児これと与して狡猾を為すことを■澤のツクリに攵{いと}わず。あに名を思う者の庶幾する所ならんや。よくこの意を察する者は、ともに稗史を評すべし。いまだこの意を得ざる者は何に憑{よ}りてか作者の世を観じ情を写すに寓言を以て忠孝を奨し戯謔の中に貞淫を弁じ、なおかつ是非を正し法戒を昭{あきら}かにし、またよく隠■匿のしたに心/を懲らし窃盗を禁ずるの旨あることを知らんや。しかりといえども虚仮の詞{ことば}を集めて、しこうして虚仮の文を綴る事と文は、素{もと}より之なきの所、諸を華胥に徴{あらわ}さんか、そもそも南柯に討{たず}ねんや。胸中に物あれば則ち、内に之を求め、胸中に物なければ則ち外に之を求む。内外を撮合して、しかる後に許多の脚色は戯れに出ず。戯{ああ}噫■クチヘンに喜/{ああ}、誰か徐に立談の旨を言外に悟らん。世の人の多くは之を思わず。好みて稗史を閲する者は、ただ虚仮の詞の奇中に奇を出すを喜ぶ。かつ千情万形の、笑うべく悲しむべく怒るべく罵るべき闇合あるを喜ぶのみ。閲せざる者は、巧拙を択{えら}ばず。またただ虚仮の詞の世を誣{しい}して俗を惑わし一毫も名教に益なしと謂いて、しこうして之を擯斥す。甚しきに至りては、琴を焼き鶴を烹る。その故は何ぞや。膠柱を解けざるが為に幻境の仙家たるを悟らず。此を除くのほか常を厭いて怪を喜ぶ。この故にただ鬼を聴くことを好めども、しこうして鬼を観{み}ることを楽しまず。昔、葉公の画竜を好みて真竜を懼る。当時、画竜を呈する者は賞せられ、真竜を致す者は黜{しりぞ}けらる。余りもまた婦幼の為に画竜を呈すること久し。なお幸いに真竜を致すこと能わず。此、拙き編の今に行わるる所以。もし余と愚を同じくする者ありて、しこうして思いここに及ばば乃ち、画竜を観ること、それ油然として感ずる所ありて、しこうして粛然として懼るる所を知らん。一日、客あり。余は客に対して腐談は前条のごとし。時に八犬伝第八輯は全稿まさに成れり。序せんと欲して、いまだ果たさず。即ちこの言を次ぎて序に代え以て簡端に顔とす。

天保三年如月望蓑笠漁隠撰す

董斎盛義書す

 

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八犬伝第八輯口絵

 

【長刀を手にした箙大刀自が荘介か小文吾の首を持って立っている。首桶を前に稲戸津守が座っている。津守の紋は「戸」字紋。絵の周りに桜と矢羽】

 

京北割居長氏之母垂簾聴訟賞罰赳赳良佐竊憂魚龍出留雖権似欺君焉有咎 玄同

 

京の北に割居する長氏の母、簾を垂れ訟を聴き賞罰赳赳、良佐の竊{ひそ}かに憂えて魚龍を留から出す、権{はかり}て君を欺くに似ると雖も咎あらんや

 

箙大刀自ゑびらのおほとじ・稲戸津衛由充いなのとつもりよりミつ

 

【斬りつける酒顛二と炭で刀を受け止める磯九郎。磯九郎の着衣は蜘蛛模様。絵の周りは何等かの植物】

 

あきさめのもる夜わひしもうつはりのくすしは袖をぬらすものかは

 

童子■タケカンムリに隔/子酒顛二どうじかうししゅてんじ・鮫守礒九郎さめのまもりいそくろう

 

★試記:秋雨の漏る夜侘びしも打つ鍼の、医師は袖を濡らすものかは。泣きたくなる淋しい秋の宵、雨漏りが殊更に哀愁を誘う。とはいえ患者を治療するため鍼を打っている医師が涙を見せる筈もない。職務の遂行に当たっては、感傷に浸る筈ない。医師は患者の健康回復のため鍼を打つ。酒顛二は強盗殺人犯であり逆の立場であり当然、犯行に当たって感傷に浸るわけもない

 

【片膝立てて大刀を抜く馬加郷武と立って刀に手を掛ける丁田豊実。視線の先に雀三羽。絵の周りは上部が折紙、下部が意匠化した波】

 

覆車横路燕雀得時不知■隼に鳥/鶻博且充飢 著作堂

 

覆車の路に横たわりて燕雀、時を得たり。知らず、■隼に鳥/鶻の打ちて且しの飢えに充つるを

 

丁田畔五郎豊実よぼろたくろごろうとよさね・馬加蝿六郎郷武まくハりはへろくろうさとたけ

 

★燕雀は詰まらぬ小人物を意味する。即ち豊実と郷武を指す。■隼に鳥/鶻は立派な人物を意味するので、小文吾と荘介。覆車は、小文吾・荘介の身代わりに刑死した罪人。罪人の刑死にヌカ喜びした豊実・郷武であったが、実は小文吾・荘介を生かすための身代わりであった

 

【軍配を手にして立つ毛深い次団太と、笠を被って控える土丈二と毛深い鮒三。絵の周囲は萩か】

 

西ひがし入る日と月を引わけてすまひくつれのすすめいろ時

 

石亀屋次団太いしかめやじだんだ・百堀鮒ひやくほり鮒ざう・泥海土丈二どろのうみどぢやうじ

 

★試記:西東、入る日と月を引き分けて、相撲崩れの雀色時/雀色時とは夕暮れか。中年に至り人生の夕暮れを迎えた次団太を謂うか。また、黄昏/Twilightとは、陰と陽との中間だ。月と日、である。絵に引き付けて考えれば、裏切り者の土丈二/泥鰌と信頼すべき鮒三/鮒の対置があるか

★第百十八回から百十九回にかけて、土丈二と嗚呼善が密通者らしく重ねて刺し殺される。残酷な【復讐】場面だ。次団太は善い奴ではあるが、亀らしく水気であるので、毛野と同様、手加減をしない。殺し尽くす。抑も越後は北国、水気の国であり、水気たる女王、箙大刀自の支配下にある。女王様の忠実なる僕は稲戸「津衞」由充であったし、由充の信頼すべき部下は、荻野「井」三郎であった。牛関係のキャラクターを除く主要登場人物は皆、お水系である。次団太が主宰する石亀屋には、嗚呼善{虎魚}土丈二{泥鰌}■魚に即/三もしくは鮒三{鮒}鮫守磯九郎{鮫}鮠八{鮠}がいた。海淡水問わず、水棲動物である。

鮠八といえば、里見家臣にも鮠内葉四郎がいた。但し鮠には二種類いるからヤヤコシイ。外見からして全く違う。一方はキビナゴみたいにスマートな小魚で、一方はデップリ大きな魚である。

 

     ◆

鮠魚(音■キヘンに危/拾遺)

【釈名】■魚に回/魚(音回)■穫のノギヘンが魚/魚(化獲二音)■魚に果/魚(化上声)■魚に頼/(癩○【時珍曰】北人呼■穫のノギヘンが魚/南人呼鮠。並与■魚に回/音相近。邇来通称■魚に回/魚而■穫のノギヘンが魚/鮠之名不彰矣。■魚に果/又■穫のノギヘンが魚/音之転也。秦人謂、其発癩。呼為■魚に頼/魚、余見鮎魚)

【集解】(【時珍曰】鮠生江淮閨A無鱗魚。亦■魚に尋/属也。頭尾身■カミガシラに老した日/、倶以■魚に尋/状。惟鼻短爾、口亦在頷下、骨不柔■ニクヅキに刀した巴/、腹似鮎魚、背有肉■カミガシラに老した日/。郭璞云、■穫のノギヘンが魚/魚似鮎而大白色者是矣)

【正誤】(【蔵器曰】鮠生海中、大如石首、不腥、作鱠如雪。隋朝呉都進鮠魚鱠、取快日曝乾瓶盛、臨時以布裹水浸用、与初鱠無異【時珍曰】蔵器所説出杜宝拾遺録、其説云、隋大業六年、呉郡献海■魚に免/乾鱠、其法五六月取大鮠四五尺者、鱗細而紫、無細骨不腥、取肉切■日に麗/極乾、以新瓶盛之、泥封固、用時以布裹水浸、少頃去水、則皎白如新也。珍按此乃海鮠、即石首之大者、有鱗不腥。若江河鮠魚則無鱗極腥矣。陳氏蓋因■魚に免/鮠二字相類。不加攷究、遂致謬誤耳。今正之)

肉【気味】甘平無毒(【頌曰】能動痼疾。不可合野猪野鶏肉食、令人生癩)

【主治】開胃下膀胱水(蔵器){本草綱目巻四十四鱗部}

     ◆

 

JISにない字が多く読みづらいだろうが、要するに鱗がなくヌメヌメした奴で鼻が短い。和漢三才図会では、鯰に似ているとしている。筆者は余り賛同したくないが、まぁ鯛や鯉よりは鯰ににていると云われたら、そうかもしれない。そしてデカい。本草綱目や和漢三才図会で謂う所の「鮠」とは要するに、スナメリである。ジュゴンみたいな奴だ。実は魚ではなく鯨の仲間らしいが、鯨だって「鱗類」であるから、よしとしておこう{鱗ないけど}。現代の生物分類と違うだけの話だ。鮠は四・五尺にもなる。何が特徴かといえば、刺身にして時間をおいても水につければ新鮮に見える、という不良外食産業が喜びそうな魚だ。前者はコロボックルか何かコビトさんでなければ刺身で喰わぬほど小さく細い。和漢三才図会なんかでは「はや」ではなく「はゑ」としている。現在でも此方の方が通りが良かろう。この鮠/ハヤ/ハエは渓谷の清流をシャカシャカ機敏に泳ぐイメージであるし、後者はノッソリ回遊してそうなんである。人魚と間違える者もいたかもしれない。

里見家臣の鮠内葉四郎は家老付の番士で、第百一回、里見義通の伴をしていた堀内貞行と杉倉直元および親族を呼び返す早駆けの使者であった。実は当日、葉四郎は終日稲村に居て、使者は偽物であった。蟇田素藤の関係者、恐らく妙椿の幻術か何かだったと思われる。護衛が減ったこと、特に創業時に活躍した貞行の不在により、義通は素藤に掠奪され辱められることになる。本文に登場した鮠内葉四郎は、里見家にとって半ば【凶】であった。とはいえ、本物の鮠内葉四郎は恐らく善玉だ。以後、南関東大戦に於いては、ちゃんとマトモな使者として活躍している。即ち、「鮠内葉四郎」は凶なる名ではなく、語感通りに、【素早く勤めを果たす使者】であろう。偽物の責任まで負わねばならぬなら、第百九回、浜路姫が病に伏せったとき偽物が登場して里見家を惑わした役行者そのものも、凶とせねばならぬ。ナンセンスである。鮠内葉四郎は悪玉では決してなく、「素早く勤めを果たす使者」に過ぎない。「鮠」のうち、スマートな小魚{ハヱ}の方だ。

対して鮠八の方は、土丈二と仲が良く嗚呼善に媚びて鮒三と争った。小柄な鮒三と違って、大柄であった。この描写だけで、「スマートな小魚」としての「鮠」には縁遠い。鮠八は、駝牡八の独子であった。ダボとはバカのことだが、如斯く呼ばれる魚がいる。所謂ダボハゼである。鯊/ハゼは淡水から河口付近にかけて棲息する魚だが、佃煮とか唐揚げなんかにする。泥の中に棲み、時々ピョコタン躍り出る愛嬌者だ。形は筒っぽく鯰に背鰭を付けたようなものだ。{筆者としては百歩譲って}和漢三才図会が云うように鮠が鯰に似ているならば、鯊に似てなくもないだろう。

よって鮠内葉四郎は小魚の鮠、鮠八はスナメリの鮠と断ずる。抑も鮠八は「只その同気相求め同悪を相憐む土丈二に相譚れ嗚呼善に折々餌を飼れて非義の利慾に惑ひけん、土丈二が讒訴の折、若は他が証人に做て巧に我{次団太}を誣たる」{第百十九回}とあるので、土丈二/泥鰌とは何やら似た者同士らしい。オコゼ・ドジョウ・スナメリの共通点は、鱗類に分類されつつも鱗をもたない点である。鱗類の長は龍であるが、龍は鯉の鱗をもち、逆鱗まである。鯉は魚の王たる者だが、三十六枚の鱗をもつ。鱗こそ、鱗類の典型的な特徴と見られるが、オコゼ・ドジョウ・スナメリには鱗がない。鱗類として特殊な種族と目せる。此の特殊性を馬琴は、悪として認識したのではないか。名のある石亀屋所属者で唯一、鱗のある鮒/フナ三は、次団太を除き、まさに石亀屋唯一の善玉であった。悪玉ではなかったと思しい駝牡八は、形状こそ泥鰌あたりに似ているが鱗のある鯊{ダボハゼ}と考えておく

★且つは亦、次団太受難と嗚呼善成敗は、蟇田素藤征伐と同時進行で語られている点にも注目せねばなるまい。嗚呼善は、虎魚である。虎だ。虎は、猫である。いや別に虎が猫科だからと云うのではない。んなこと云ってたら、犬だって猫目{ねこもく}だ。しかし、八犬伝では「曲亭主人曰、唐山にて山猫と唱るものは、即虎の事也」{第六十七回}なんだから仕方がない。虎は、猫の一種なんである。同時に野猫/狸/玉面嬢/妙椿も猫の一種である。猫なるものが犬に祟っている構図だ。勿論、此の対立構図は絶対的な者ではなく、妙椿が成敗された瞬間に解消した。「如是畜生発菩提心」である。画虎の条で、解消が裏付けられることになる

★淫奔で間夫を持つ若い妻の罠に掛けられる中年男には、次団太のみならず、木工作もいた。四六城木工作は【四六の蝦蟇】だろう。大塚蟇六の善なる後身と考えられる。但し、完全な善にはなり切れず、狩猟を好み殺生を重ねた。泡雪奈四郎に暗殺されてしまう。一方の次団太は、若妻嗚呼善に図られ、木天蓼丸を故買したという無実の咎で箙大刀自に捕らえられた。鮒三が毛野を通じて蟹目前に愁訴し、次団太は助かる。土丈二は、次団太と親しい者の子であったが、幼くして孤児となった。次団太が引き取って相撲を仕込んだ。子分というより養子である。嗚呼善は、次団太より十七八若い後妻だ。後妻と養子が密通しているようなものである。対して四六城家は、木工作の妻麻苗が亡くなり、後浜路の乳母をしていた夏引の夫が死んで後家になっていたのを、後妻とした。密通相手は甲斐武田家の山林管領泡雪奈四郎であった。共に後妻の密通が原因となり、木工作は殺され、次団太は殺されそうになる。また共に実子はなく養子がいるが、土丈二は後妻と密通し、後浜路は善女であった。木工作は信乃を養女浜路の聟として相続させたかったのだが、此れは蟇六の空手形、大塚家を継がせるとの約束を果たそうとしたようにも見える。善に転換した蟇六/木工作は、浜路を実娘の如く愛し信乃を聟にしようとする。しかし元より、信乃は四六城家の聟になる筈もない。木工作は殺され、四六城家は、信乃・道節の願いを容れた武田家の計らいで、隣村親戚の二男を養子に入れ後の木工作を名乗らせて、存続した。石亀屋次団太は越後には帰らず行徳・塩浜の長となった。越鮒三は同次役となったが、次団太の養子に入り石亀屋を相続した。次団太は、回り道をして漸く、信頼すべき【真の家族】を得たことになる。対して木工作は、死んで初めて穏当な跡継ぎを得た。

実の親子関係は、選べない。そして、実の親子だからと云って油断はならず、殺し合う現実がある。対して、後天的親子もしくは慎重な選択の結果としての養子縁組が、「実の親子」ではないものの、理念上は、真の親子関係たり得る

八犬伝で描かれる、再婚や養子縁組による【家庭崩壊】は、家というものの理想化・絶対化の問題を感じさせる。家を絶対化するとは、再婚したり養子縁組してさえも家を存続させることだ。家を絶対化せねば、家名が絶えても何ということはないので、無理に再婚したり養子縁組したりする必要はない。再婚なり養子なりの縁組みが不調に終わる場合もあろう。互いに異なった理想を持ち寄って一つの家を構成する場合、矛盾や食い違いが生じることも多かろう。馬琴は、家の理想化・絶対化により深刻な問題が生ずることを指摘していると思しい。但し、次団太・木工作の挿話で馬琴は、家の理想化・絶対化を否定しきるには至らず、其の範疇で解決させている。一方で、親兵衛/八房は、妙椿/玉面嬢狸/継母を退治する。悪とはいえ、後妻を成敗するより継母を退治する方が深刻である。前段として、大角が父の偽物を退治する。家という強固な枠内に設定された悪縁を否定解消するには、犬士という聖なる資格が必要であったのかもしれない

 

【扇を開いて立つ荻野井三郎と鉄砲を構えて見得を切る毛深い媼内。媼内の着衣模様は銀杏葉】

 

人而獣性牝牡相憐野狐鼠怪屠戮可駢 ■頼に鳥/斎

 

人にして獣性、牝牡相憐れむ、野狐と鼠怪、屠戮駢すべし

 

荻野井三郎おぎのゐさぶらう・悪僕媼内あくぼくおばない

 

★詩は媼内が船虫と夫婦となったことを云う。二人は共に虐殺された

 

【槍を持って見得を切る軍装の落鮎余之七有種。腰を下ろし向かい合って見得を切る操野重戸。やはり見得を切る氷垣残三夏行。絵の周りに女郎花】

 

うき秋を虫になかれておミなへしなみたか露にぬらす袖垣

 

氷垣残三夏行ひがきざんざうなつゆき・操野重戸みさをののおもと・落鮎余之七有種おちあゆよのしちありたね

 

★試記:憂き秋を虫に鳴かれて女郎花、涙か露に濡らす袖垣

 

 

 

いはのやのかにまろおぢが八犬伝をめでよろこびてよみける八うた

たをやめの花のたもとにおひたてとこ丶ろは雲をしの丶をす丶き

あたうちてたのみよりつるとこしろのめくみもかへす犬川の波

これやこのやしなひとりていぬかひのありておやには似さりけむ蜂

もゆる火の中にのかれて犬山のわさすてつるも心たかしや

きえぬへき露のしら玉神も手にとりてもていぬえにはふかしな

おひか丶る犬田のくろのすまひ草したにくちたるゐのくつちかな

おほろけのかりの色かはをみなへしあたをもつくし花のひと丶き

いぬむらのかきねのくす葉うらみをもかへせる露の玉やうれしき

 

蟹麻呂者、伊勢松阪人、殿村常久一称也。別号巌軒。善研究国学、而所発明不尠矣。是以其著宇通保物語年立・千種根左志、各一巻有之、皆刻于家。然性謙譲、而不遊於名利間。是故其書雖刻成、而自非知音之友、未嘗与諸人。嗚呼可惜焉。文政十三年庚寅秋七月十六日病没。享歳五十二。是歌易簀之前月所咏云。因附録簡端楮余。

蓑笠漁隠再識

 

蟹麻呂は伊勢松阪の人たる殿村常久の一称、別号は巌軒。よく国学を研究し、しこうして発明する所、尠{すくな}からず。是を以て、その著す宇通保物語年立と千種の根左志おのおの一巻あり。皆、家に刻す。しかれども性の謙譲にして、しこうして名利の間に遊ばず。この故に、その書は刻の成るといえども、しかれども知音の友にあらざるより、いまだかつて諸人に与えず。ああ惜しむべし。文政十三年庚寅秋七月十六日に病没す。享歳は五十二。この簀を易える前月に咏ずる所と云う。よりて簡端の楮余に附録す。

蓑笠漁隠再び識す

 

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第七十四回

 

「牛を■ウシヘンに牛/て悌順答恩銭を辞ふ朸を御して磯九残雪窖に墜つ」

 

【夜の相川畷。次団太が頬被りし井桁模様の風呂敷包みを背負った土丈二を捕らえ、頬被りして風呂敷包みを背負い蹲る嗚呼善に提灯をかざしている。提灯に亀の絵紋】

 

相川の畷路に次団太賊男女をとらえんとす

 

本文見十九張右

 

賊男・次団太・ぞく婦

 

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第七十五回

 

「酔客を■シンニョウに旱/て小文吾次団太に遇ふ短刀を懐にして仮瞽女犬田を按摩す」

 

【農民が、殺された磯九郎を抱き起こしている。次団太が磯九郎の手首をとり脈を調べている様子。槍を検分している。虫亀村須本太の小者が「蟲」字紋入り提灯を掲げる。牛裁判も同じ提灯を持つ。小文吾が磯九郎を指差し何か指摘している風情。画面奥に駕籠を率いた須本太と牛裁判。小文吾の着衣模様は、瓢箪・鯰の筈が瓢箪・オタマジャクシに見える】

 

つかさめの守りかたなに手をおふてよみにいそくはをこのしれ人

 

すほ太郎・すほん太・牛さいばん・荘客か丶えの百せう・いそ九郎・僮僕とうぼくのめしつかひ・次団太・牛さいばん・小文吾

 

★試記:柄鮫の護身刀に手を負うて黄泉に急ぐは烏乎の痴れ人/鮫守礒九郎の愚かさを指摘するために、「柄鮫の守り刀」を詠む。護身刀は男が腰に差すものではなく、女性が懐に忍ばせる懐剣を想起させる。女性に隙だらけで近付き、殺される愚

★小文吾の着衣は第七十三回挿絵と同様に、瓢箪鯰

 

【短刀で小文吾を襲う船虫。小文吾が目を瞑った侭に防いでいる。蚊遣の煙が広がる。確かに蚊が多い。次の間で驚いた下女が盆から湯呑を落とし割る。片肌脱ぎの次団太が勇んでいる。毛深い】

 

短刀を閃して賊婦小文吾を刺んとす

 

女あんま・小文吾・次団太・下女

 

★小文吾の着衣は、瓢箪鯰ではなくなっている

 

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第七十六回

 

「庚申堂に侠者賊婦を囚ふ廃毀院に義任船虫を送る」

 

【庚申堂の二階で船虫を吊し責め苛む次団太・土丈二・鮒三。道行く荘介が振り返っている。胴に「川」字紋。空には満月】

 

荘介古■マダレに苗/に船虫をすくふ

 

犬川荘介・次団太・鮒むし・鮒三・土丈二

 

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第七十七回

 

「衆賊を尽して酒顛旅舎を脅す内命を伝へて由充二客を招く」

 

【深夜の石亀屋店先。荘介が酒顛二を槍で突く。小文吾と次団太が刀で賊と戦う】

 

賊隊に紛れて荘介衆賊を殺戮す

 

しゆてん二・小文吾・次団太・鮒八・荘介・どぶ六

 

★小文吾の着衣は第七十五回と同じ柄

 

【荘介が二人の兵に組み付かれている。小文吾は二人の兵を脇に抱え締め上げている。稲戸津守・荻野井三郎が緊張した面持ちで見守る】

 

片貝の別館に二犬士捕捉らるるところ

 

荘介・いなの戸津もり・小文吾・荻野井三郎

 

★小文吾の着衣は瓢箪鯰ではないし、一つ前の挿絵に描かれたものとも違う

 

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第七十八回

 

「北母自賞罰を恣にす東使双で首級を賜ふ」

 

【首桶の上に置かれた荘介・小文吾の偽首。丁田豊実と馬加郷武が実検している。上座に箙大刀自。太刀持ち小姓の代わりか背後に袋入り刀を捧げ持つ美少女。脇に女中。座敷に稲戸津守と三人の女中が控える。津守の紋は「戸」】

 

訪問起居東使謁北母時歓借公道復私怨

 

起居を訪問して、東使が北母に謁す。時に公道を借りて私怨を復すを歓ぶ

 

えびらの大刀自・いなの戸よりみつ・犬田小文吾・馬加さとたけ・犬川荘介・丁田とよさね

 

★大刀自の背後に控える美少女は、男の小姓に当たるか。凛々しく、ちょっと気になる

 

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第七十九回

 

「家廟に斎して良臣異刀を返す茶店に憩ふて奸佞落葉を試す」

 

【右脚がかなり浮腫んだ鎌倉蹇児が物乞い。旅の男と何か言葉を交わしている。路上に立つ毛野。笠で顔は見えない。笠に「大神」の字が見える守札。「大神宮」か。柄杓を旅の女性に差し出している。抜け参りといった扮装。女性は毛野の横顔を見詰めている。馬に乗る帯刀の男。馬の腹に「大吉」。馬子、もう一人旅の男】

 

夏さむきすはの水うみ氷らねととき風わたる波のかよひ路

 

かまくらゐざり・さがミ小ぞう

 

★試記:夏寒き諏訪の湖凍らねど、逸き風渡る波の通い路/後述するが、諏訪湖とくれば狐だろう。毛野と縁ある河鯉家は、忍岡の狐を擁護した。信州諏訪は信乃のみならず、もう一人の美少女・毛野とも縁が深いらしい

 

【大刀を抜こうとする馬加郷武。奴二人に引き据えられた鎌倉蹇児。奴二人ともにチョビ髭。見物する丁田豊実。木陰から様子を窺う前髪姿の毛野】

 

乞児を斬て郷武名刀を試す

 

さがみ小ぞう・さとたけ・かまくらゐざり・とよさね

 

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第八十回

 

「残仇を斬て毛野荘介と戦ふ伝来を舒て小文吾両雄を和ぐ」

 

【手前に郷武の首を落とした毛野。チョビ髭の奴と逃げる豊実に刀を翳している。豊実は既に手負い。チョビ髭の奴と顔を切られた別の侍が反対方向に逃げている。侍は菖蒲革の着衣模様から前挿絵で豊実の背後に控えていた者か。画面奥では、向かい合う毛野と荘介の刀を石の標識で圧する小文吾。前髪姿の毛野】

 

左名刀を売弄して奸党命を喪ふ

 

右家伝疑ひを解て旧刀旧主に返る

 

馬加さとたけ・さがミ小ぞう・丁田とよさね・毛野・小文吾・荘介

 

★漸く小文吾の着衣模様に、瓢箪が復活。しかし、鯰が消えており、第七十一回で信乃を捕らえた{偽}捕手と同様の柄となっている。但し捕手の瓢箪は黒白二色、小文吾は黒一色

 

【郷武の奴似児介に郷武らが殺されたと聞いて驚く荻野井三郎。着衣の紋は「井」。似児介にチョビ髭はない。画面右上に小文吾が豊実を殺す場面】

 

小文吾路撃豊実こぶんごみちにとよさねをうつ

 

小文吾・とよさね

 

東使を■ソウニョウに旱/て荻野井凶変を聴く

 

にこ介・萩の井三郎

 

★直前の挿絵と同様、小文吾の着衣は瓢箪柄

 

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第八十一回

 

「荻野井返命して偽刀旧主に還る三犬士再会して宿因重て話表す」

 

【障子に残された毛野の書き置きを見る小文吾と荘介。背後に女中二人】

 

この段の本文これより下第十五張に見えたり

 

小文吾・荘介

 

★書き置きは「凝成白露玉未全環会流離侭自然」と後半の「のみ」は見えないが「めぐりあふかひありとても信濃路になほわかれゆく山川のみす」であろう。手を抜いていない。障子の裏から見えているので下絵は正像であっただろうが、薄墨にして透かし見る雰囲気も出ている

★小文吾の着衣は瓢箪柄……夏だからって、外でも屋内でも着たきり雀なのか。第七十一回から今回にかけて、瓢箪鯰もしくは瓢箪の着衣文様に着目してきた。特に、第七十三回から今回までの小文吾が気になる。だいたい「瓢箪鯰」なんぞ、大津絵ではないか。犬士のうち、くだけた印象もある小文吾だが、余りと云えば余りに巫山戯ている。しかも小文吾の着衣は、第七十三回から第七十五回途中まで瓢箪鯰柄だが、第七十五回途中から鯰が何処かへ逃げ出して瓢箪だけになる。瓢箪鯰は、「瓢箪で鯰は捕らえられない」との寓意をもつ。鯰を前に瓢箪を取り出した時点で、捕らえないことは決定している。瓢箪は元々「瓢箪鯰」の一部であり、瓢箪単独ならば、既に鯰が逃げてしまっているか、鯰を逃がすことが決定していることを示していないか。

則ち、第七十一回、信乃と浜路姫を取り囲む捕手は、二人を捕らえる者ではない。彼等の着衣は、瓢箪柄であった。果たして、捕手は偽物であり、黒幕は道節であった。第七十三回、小文吾の着衣は瓢箪鯰柄だが、暴れる須本太牛をガッチリ捕らえた。しかし第八十回で、嘗ては婚約までしていた毛野と悲願の再会を果たした小文吾の着衣からは、鯰が逃げ出し瓢箪柄しか残っていない。信乃・浜路姫を取り囲んだときの偽捕手と酷似した柄となっている。信乃・浜路姫は偽捕手に拘束されたと思いきや、捕らえられたのではなかった。道節らと再会したのであった。小文吾の場合、着衣が瓢箪柄となったとき、毛野と再会を果たした。しかし、瓢箪鯰から「再会」との意味を導き出すことは難しい。やはり、瓢箪柄の偽捕手は、夏引らの追及から信乃・浜路姫を「逃がす」者と捉えるべきだろう。そして小文吾は、せっかく再会できた毛野を、しかも荘介なんて邪魔者さえ交え、一晩中しか拘束できずに、「逃がす」。勿論、偽捕手の「逃がす」は意図的なものであり、小文吾が図らずも毛野を「逃がす」こととは違う。違うから前者は黒白二色の瓢箪柄、後者は黒一色の瓢箪柄となっている

 

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第八十二回

 

「青柳の歇店に胤智詩歌を題す穂北の驟雨に礼儀行嚢を喪ふ」

 

【盗人二人を打ち倒す大角。現八が駆け付けようとしている。驟雨に紅葉が散っている】

 

千住堤に大角二賊を拗拉ぐ

 

ぬす人・大角・ぬす人

 

 

 

八犬伝第八輯巻第五附録

 

江戸麻生長坂のほとりなるまみ穴は、いと名だたる地名なれば知らざるものなし。沾凉が江戸砂子に雌狸穴と書たり。雌狸をマミといふ義は何に拠れるにや、こ丶ろ得がたし。貝原益軒の大和本草には猯をマミとす。

 

篤信云マミ、ミタヌキトモ云。野猪ニ似小ナリ。形肥テ脂多ク味ヨクシテ野猪ノ如シ。肉ヤワラカ也。穴居ス。其四足ノ指各五ツ恰如手指。猟師穴ヲフスベテ捕之。行クコト遅シ。■ケモノヘンに灌のツクリ/ハ猯の類ナリ。狗ニ似タリ。並ニ穴居ス。

 

といへり。又本草網目(五十一獣之二)■ケモノヘンに灌のツクリ/の下に、

 

稲若水和名を剿入れマミとす。李時珍云猯猪(ケモノヘンに灌のツクリ)也。■ケモノヘンに灌のツクリ/は狗■ケモノヘンに灌のツクリ/也。二種相似而略殊。狗■ケモノヘンに灌のツクリ/小狗、尖啄矮足短尾深毛褐色皮可為裘領。

 

といへり。か丶れども和名をマミといふ獣はなし。益軒若水の二老翁、一は猯をマミと訓し一は■ケモノヘンに灌のツクリ/をマミと読せしは、訛によりて訛を伝ふ世俗の称呼に従ふものか。今按ずるに■ケモノヘンに灌のツクリ/は和名鈔に載せず。猯は和名ミなり。和名鈔(毛群部)猯の下に、引唐韻云

 

猯(音端又音旦和名美)似豕而肥者也。本草云、一名■ケモノヘンに灌のツクリ/■ケモノヘンに屯/(歓屯二音)

 

といへり。独野必大本朝食鑑に和名鈔を引てをミと読たり。必大云、

 

猯頭類狸、状似小猯、体肥行遅、短足短尾、尖啄、褐色、常穴居、時出窃瓜果而食、本邦処処山野有之、人多不食、惟言能治水病、予昔略見状、然未試之、則難弁■カサに小/{のみ}

 

といへり。これらの諸説を参考るに近来世俗のマミといふ獣はミを訛れるに似たり。是則猯なり。又田舎児は、これをミタヌキといふ。その面の狸に似たればなり。何まれミとのみ唱よからぬ故に或はマミといひ或はミタヌキといふにやあらん。か丶れば麻布なるまみ穴も、むかし猯の棲たる余波なるか。遮莫猯は大獣にあらず。よしやその穴ありとても、地方の名に呼ぶべくもおもほえず。且猯をミタヌキと唱るは本づく所あり。是その頭の狸に似たればなり。又猯をマミと唱るは拠ところなし。何となれば猯に真偽の二種なければなり。因て再案ずるに麻布なるまみ穴は、元来猯の事にはあらで■鼠に吾/鼠ならんかと思ふよしあり。■鼠に吾/は和名モミ、一名ムササビなり。和名鈔■鼠に吾/鼠の下に引本草云、

 

■鼠に田みっつ/鼠(上音力水反又力追反)一名■鼠に吾/鼠(和名毛美俗云無佐佐比)兼名苑注云、状如■ケモノヘンに爰/、而肉翼似蝙蝠、能従高而下、不能従下而上、常食火烟、声如小児者也

 

か丶れば■鼠に吾/鼠の和名は毛美なれどもいとふるくよりむさ丶びとのみ唱たるにや。歌にはモミとよみたるものなし。万葉集第三、むさ丶びは木ぬれもとむとあし引の山のさつをにあひにけるかも、とよめるにて知るべし。しかれども古言は多く田舎に遺るものなれば昔東国にては■鼠に吾/鼠ををさをさ、みみといひしならん。その証は今も日光山の頭にて■鼠に吾/鼠の老大なるものをモモングワアトいへり。モモンはモミの訛りなり。グワアはそが鳴く声なるべし。さてこの■鼠に吾/を下野にては、も丶んぐわあと唱へ武蔵にてはまみとといへるにやあらん(まみはもみなり。マモ音通へり)。然らばむかし麻生長坂のほとりには人家もあらで樹立ふかく昼もいと闇かりける比は■鼠に吾/鼠などの栖べき処なり。故にまみ穴の名の遺れるにや。今も世人の小児を権すになべても丶んぐわあとい鮒り。■鼠に吾/鼠の形はいともいともおそるべきものなればまみ穴の名の高かりけるも(今はこの穴なし)是等によりて思ふべし。縦その穴に■鼠に吾/鼠などの棲たることはあらずとも、いとおそるべき穴なれば土俗これをもみ穴とも又訛りてまみ穴とも呼なしたるにあらんかし。まみ(即もみなり)は則魔魅にも通ひて是おそるべきの義なり(今もおそるべきものを、も丶んぐわあといふがごとし)。猯をまみといふよしは方言なるか知らねども考る所なし(安永七年の夏両国の頭にて観せたる千年もぐらといふものは即猯なり。予も観たり。■鼠に偃のツクリ/鼠にはあらず。然るを若水の■ケモノヘンに灌のツクリ/をまみと和訓せしは、猯と■ケモノヘンに灌のツクリ/とは似たるものにて共に穴居を做すなれば猯の和名をミといふに対へて■ケモノヘンに灌のツクリ/をまみといふにや。しからずばまみのまはまねにて、猯をまなぶの義なるべし。又愚説の■鼠に吾/鼠は鼠類なり。穴居する物ならずといふとも怕るべきの義に憑らば、この名なしとすべからず。とにもかくにも麻生なる、まみ穴を真名に書ば■鼠に田みっつ/鼠に作りて怕るべきの義となさば妥当なるべし。江戸の地名を誌せるものに、かばかりの考だもなきは遺憾の事ならずや。抑本輯第七巻に、まみ穴の事あれば此に愚考を附録して下帙の引に代るのみ。

 

天保三年壬辰夏五月中浣蓑笠漁隠識

 

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八犬伝第八輯巻第五口絵

 

【雨に立つ蟹目前。小猿を連れている。傘を差し掛ける河鯉守如。蟹目前は、かなりの年増である筈だが娘の如き扮装。絵の周りは扇】

 

憂邦婦徳心猿美■クサカンムリにルマタ/佞老■サンズイにム月/憑駿才

 

邦を憂う婦徳の心猿美{さかし}き。佞を刈るに老涓は駿才に憑{たの}む

 

河鯉権佐守如かハこひごんのすけもりゆき・蟹目前かなめのまへ

 

★絵の周囲にある扇は、蟹目前が、扇の蟹目/要であることをも暗示する。勿論、水気なる北方女王国の出身であることが水棲動物の名を冠する所以である。彼女が守る五十子城は、女装犬士信乃・毛野によって、蹂躙されることなく征服され、伏姫が里見家守護神から普門たる観音菩薩へと完成する重要な要となった。

信乃による第一次攻略迄、血で血を洗う復讐が、物語の原理の一つであった。アマチュア復讐者道節が、叶わぬ敵討ちを果たそうと、扇谷上杉定正をドタバタ無駄に追い掛け回す。復讐者として火気犬士道節は、暑苦し過ぎる。「現天道は生を好して、殺を憎ませ給ふこと、是日の神の御こゝろ也」{第七十回}とある如く、太陽/火気は、生を好み殺を憎む。弟/陰とはいえ火気犬士は本来として、殺に遠い{火兄犬士大角は、憎むべき悪辣な船虫の死刑にすら当初は曖昧な態度を示す}。冷徹なプロ復讐者毛野は、着実に敵を皆殺しにしていく。失われた命を贖うため、命を奪っていく。【負の平衡】である。しかし信乃は、五十子城を落としたとき、敵兵も城郭も温存し、地域住民を慰撫することを以て、定正への復讐とした。親兵衛の出現を先取りしたかのような、仁による復讐、【正の平衡】を指向した。前段として、浜路が浜路姫として復活し、信乃の前に現れていた。失われた命が、蘇ったのである。正の平衡、である。物語の原理は、復讐から仁へとシフトし始める。

素藤の招きで里見義通が正八幡社を訪れた。近臣として田税力助逸友も従っていた。義通は素藤に掠奪された。玉面嬢の魔力により手筈が整えられていた。この時である。伏姫が、十一二歳の姿で現れ蟇田勢の生首を路傍の木に梟けた。敵対する者への幼児的な残虐さを示した。物語の原理が仁へと軸足を移動させ始めたとはいえ、まだ負の平衡/陰の原理が強い。また、このとき伏姫は、八房と玉面嬢を義絶させたと思しい。玉面嬢は、八房の乳母もしくは継母である。実母でなくとも、悪辣であっても、八犬伝に於いては{表面上だけでも}孝養を尽くさねばならぬことは、浜路・大角らの例から容易に首肯せられよう。勿論、悪辣な親に孝養を尽くすが如き態度は、物語上の原理というより、口五月蠅い読者向けのエクスキューズに過ぎないだろうけども。

幼い八房が里見家に引き取られたのは、伏姫が十一二歳の頃であった。伏姫が十一二歳の姿で現れたとは、伏姫の中での時間が、当時に遡ったことを意味する。伏姫は、夫の八房を、姑である玉面嬢から奪い取り、関係を消去させた。義絶である。此の手続きを経ねば、八房は玉面嬢を倒せない。伏姫は、敵の生首を弄ぶ残虐さを見せる一方で、斬られた逸友らを蘇生させ、味方ばかりを救った。まだ伏姫は里見家専属守護神に過ぎず、普門/普{あまね}き門ではない。

里見義成は軍勢を催し素藤を館山に攻めた。素藤は義成の面前で義通を緊縛し辱めた。このとき後門を逸友の従兄弟田税戸賀九郎逸時が責めていた。後退する義成の殿軍となるべく逸友は正面に回るが、素藤が打って出ると踏んで身を隠し伏勢となった。予測は的中し、後退する里見勢の後ろを襲った素藤を側面から攻撃する。素藤は命からがら城へ逃げ帰り惨敗を喫した。戸賀九郎は田税一族の名誉を挽回した。田税力助・戸賀九郎は当然、田力雄である。前に義成は「躬方に佑る神仏あれば敵にも資る邪神あらん……中略……諏訪の社頭の木虚へ伏勢を出せしは是五月蠅成悪神の蟇田が与にせしならん……中略……汝達{逸友ら}が妖怪に魅されしは不覚に似て反て主の与い宜き理あり」{第百二回}と状況を的確に判断した。太陽が隠れた闇黒なる世界に、五月蠅なす悪神が跋扈している。しかし田税力助・戸賀九郎/田力雄の登場により、富山/戸山/戸隠山に隠れた天照太神/伏姫が世界に光を降り注がせることが約束された。世界の原理は、陰から陽へと転換せねばならない。

嘗ては流離せる貴種/天津神、里見義実の目の前に、仁の犬士犬江親兵衛が出現する。神余・安西・麻呂の安房土着三家すなわち国津神が、完全に服属する場面でもある。恐らく此の時、義実の犯した言の過も許された。殺し合い奪い合って負の平衡を求める陰の原理は後退し、与え合い循環する経済、正の平衡を指向する陽の原理が前面に顕れる。

しかし生まれたて/剥き出しの仁は、濁世に於いて甚だ危うい。親兵衛は人間離れした活躍で素藤を捕らえた。根拠なく素藤の善良さを信じ助命した。玉面嬢に付け込まれ、素藤に再起を許しただけでなく、自らも陥穽に填り、里見家から体よく追い出された。娑婆の空気を吸って、親兵衛は成長した。狸寝入りをして純情な河鯉孝嗣に豊満な胸をまさぐらせた挙げ句に契りを結んで手馴づけるまでとなった。河鯉孝嗣、後の政木大全/正木大膳は、八代から十四代まで江戸幕府の征夷大将軍職を独占する紀州徳川家の源流お万の方に繋がる。八犬伝物語には、前後の浜路や雛衣と鄙木など、虚花と実花の転生転換が描かれる。八犬伝世界に於いて孝嗣は、八犬士全員を一個人の小宇宙に縮小した存在である。が、八犬伝の枠を取り払えば、小説中に描かれた安房里見家こそ、紀州徳川家の虚花であった可能性もある。だがまぁ、其れは措き、とにかく、一度裏切られたことにより親兵衛は、仁の犬士として読者への言い訳を手に入れた。義絶した乳母もしくは継母である玉面嬢もろとも素藤を屠った。

親兵衛が犬士を代表して京師へ赴き、玉面嬢の後身たる画虎と絡む。既に玉面嬢も「如是畜生発菩提心」、仇為す者ではない。画虎は悪人のみ喰い殺し、親兵衛の矢にかかって消滅する。西/秋の信乃すなわち秋篠が親兵衛を庇護するし、走帆が青海波に替わって親兵衛を乗せて活躍する。虚花走帆は、実花青海波のいる関東に足を踏み入れることが出来ず、帰途半ばにして死ぬ。如斯く親兵衛が見聞を広げるため京師へ修学旅行に行っていると、里見家と関東管領率いる連合軍との間に、南関東大戦が勃発した。

南関東大戦では、他七人の犬士が各方面軍の現地指揮官である正副防禦使に任ぜられるに対し、仁に最も遠い血塗られた復讐の女神毛野が軍師として全軍を総覧する。如意輪観音を本尊とし、訶梨底母が北斗七星を率いる、如意輪七星曼陀羅の構図である。如意輪七星曼陀羅は、小国が大国の侵略を受けたとき防御に使用したと伝えられるものだ。毛野は八百八人の計を用い、洲崎沖で膨大な数の敵兵を火に炙り水に沈めて殺戮を恣にした。関東連合艦隊は潰滅し、大戦の帰趨は決した。何を思ったか毛野は、軍師の立場を放棄して、五十子城へ急行する。五十子に人質となっていた妙真・曳手・単節の三犬女を救出するためだとか云っているが、そんなものは馬琴の筆で如何にでもなる。実際、烈女音音が男装して一足先に潜り込み、女たちの危機を救っている。三犬女のみならず、定正の母河堀殿および息子朝寧の妻姑姫さえ保護していた。毛野は完全に後手である。武蔵を無駄にドタバタ駆け回っている道節に五十子攻略を任せれば良かったのだ。が、とにかく毛野は、もう一人の女装犬士信乃と同じく、五十子を攻略せねばならなかった。

五十子は、五十子である。伏姫の母だ。女装せる犬士、信乃と毛野は、伏姫の遺伝を最も色濃く受け継いでいる。二人の女装は、「男子にして女子、女子にして男子」たる伏姫の性格を体現していた。則ち、信乃と毛野が二人して五十子を攻略し居座ることなく程なく放棄するとは、伏姫が五十子の胎内を再び通過することを意味している。比喩として筆者は、美少女毛野の裸身を妄想する。敵の血に塗れた白い膚を、熱い湯で洗い清める美少女の裸身を。引き締まった太腿に、僅かながら柔らかな曲線が張り詰め始めている。もう彼女は、男のように戦わなくてよい。愛する者のために、もう此れ以上、殺さなくてもよい。

殺伐の夜は明け、太陽が光を取り戻した。毛野が五十子を攻略した頃、親兵衛が奇矯な行動を取り始め、当初は周囲を驚かせる。伏姫から授かった蘇生薬を、敵兵にも振る舞い始めるのだ。欧州で赤十字運動が起こるのは西暦十九世紀半ば以降だ。親兵衛が敵兵をも差別なく救おうとしたのは皇紀二一四〇年代だから三百五十年以上早い……いやまぁ八犬伝刊行時でも十年以上早い。戦国の世、敗残兵は敵どころか中立の野武士や地元住民に殺され武具やら銭やら剥ぎ取られる時代だ。実際のところ、戦争の狂気に陥ることなく義によって敵にさえ情けを掛けることは、味方を敵に回す虞もあり、何も考えていないか喧嘩腰が強いかしないと、実行できないことだろう。親兵衛は、愛らしい鶫の如く駆け廻り、敵兵にさえ蘇生薬を施した。幾らバラ撒いても蘇生薬は減らなかった。則ち、伏姫がコッソリ補充していたのであり、敵兵にさえ施すことを容認していたことが判る。一年足らず前、味方だけ助け敵兵の生首を弄んでいた伏姫が、である。

蟹目前は湯島天神で、幸か不幸か毛野と出逢った。読本で触れたように、毛野の実家粟飯原家は、千葉家庶流で妙見神の司祭たる家柄であった。毛野の紋所は、千葉家・馬加家と同じ月星である。また、妙見神は天神と関わりが深い。天神の正体は、菅原道真と云われている。俗に道真は、藤原時平に讒言され醍醐帝によって左遷されたとされる。雷神となって時平を殺し、地獄に堕ちた帝を責め苛む。本地は観音菩薩であるが、復讐神の色彩が濃い。御霊/怨霊信仰の最たる者だ。一般に怨霊信仰が何かと考えてみれば、簡単に云うと、私怨が義憤に昇華される過程を経ているだろう。怨みは個人が個人もしくは組織に向けたものであって、一対一対応の関係だ。特定の対象以外には発動しない。怨まれた者が恐れて怨霊を祀ったとして、実際に社が構えられ多くの人が参拝すれば如何なるか。参拝する者は、それぞれの悩みや怨みを晴らしてもらおうと祈るだろう。祭神たる怨霊と、全く個人間の関係がないにせよ、個人としての怨みや悩みを打ち明けて、晴らそうとする。そして、祈りが叶えられると信ずる。祭神としたら知ったこっちゃないだろうけれども、信ずれば信仰である。自分を讒言した時平を殺しただけの菅原道真は、赤の他人が同じ憂き目に遭ったとき、悩みや怨みを晴らすよう期待される。怨みのパワーを分けてほしいと、人々は願う。理不尽な扱いを受けた者を博く救済する存在に【祭り上げられる】のだ。個人間の怨みを晴らすだけでなく、同じ理不尽を許さぬ者、即ち公的な存在とされ、社会的な監視機能を期待されてしまう。御霊をはじめ、個人的な事情で特筆すべき死に方をした人を神と祀った場合、博く信仰されるに従って、神威は個人の枠を超え、普遍化されるだろう。

父である里見義実の言の過を背負って死なねばならなかった伏姫は、里見家によって神に祀られた。里見家専属守護神である。しかし里見家自体が、博く読者の共感を得る存在であるためには、或る程度は一般化し得る、即ち刊行当時の社会で博く支持され得る理想的な支配者でなければならない。古今東西、恣意的な権力者は必ず放逐されてきたところからして、如何やら得手勝手な支配者は嫌われるようだ。恣意ではなく道理に従う君主でなければならない。立憲君主制に近いものだ。故に恣意により憲法がコロコロ変わってはならぬのだが、其れは措き、当時の憲法とは、社会倫理であった。仏教であり民俗信仰であり儒教であり心学であり其の他もろもろの混淆したものであったが、象徴としては各種仏格神格が考えられる。馬琴は観音を選択した。遊女を観音に擬する場合がある。観音は普門であるからだ。普門とは、愛人同士の一対一対応の関係ではなく、「誰でもComeOn{InかIntoでは }」な存在である。均衡を取るため遊女だけでなく陰間も観音であるべきだと思うが観音は、近世日本に於いて、女性性を色濃く持った仏格だ。其れは措き、相手を特定せず普{あまね}く開かれた門が、普門である。里見家だけを救う観音菩薩なぞ原理的に在り得ない。専ら里見家と犬士たちのみを擁護していた伏姫が、仁を得て、普門たる観音菩薩に成長し、敵兵にまで蘇生薬を振る舞うようになる。伏姫の性格、「男子にして女子、女子にして男子」を体現する信乃・毛野が五十子を攻略することによって、其の転換は図られた。且つ、第二次攻略で特に顕著であるのだが、五十子には、【女の城】であるとの性格がある。描かれる所の者は、音音の見事な活躍である。音音が、朝時技太郎・天岩餅九郎といった男の身勝手を排し、曳手・単節・妙真を救い、貌姑姫と河堀殿を保護する。美少女毛野に責め立てられ城兵たちは逃げ出してしまう。貌姑姫と河堀殿を心配して、恐る恐るでも城に戻ってくるのは、女房たちと料理人であった。毛野が君臨する五十子に、男性性は不要らしい。婦人の仁、と云えば語弊もあるが、「男子にして女子、女子にして男子」、伏姫に欠けていたのは、女性的な仁愛の情ではなかったか。物語序盤で、伏姫の母五十子は、ただ娘を心配し心配し心配し尽くして、生命を消尽した。五十子の愛は、文字通り命を削るものであった。八房を憎む言葉も吐かないまま、ただ娘に愛を注ぎ尽くして死んでしまった。

 

     ◆

大輔の薄命伏姫の枉死と一対也。金碗八郎が義死と五十子方乃憂死と又一対也。凡此主従男女は造悪の事なし。これ善果乃人たるへきにかくなり果たることのもとを玉梓か祟といハずは何をもて勧懲とセん。玉梓か祟ハよしさねの彼を赦さんとし赦し得ず只一言乃失より出たり。これ又大なる愆にあらず。そのたゝり却大なるは何そや。玉梓淫乱無智乃毒婦たる故也。その悪報犬となりかハりしより終に八士を現す。これ金碗父子伏姫母子乃功徳によれり玉梓か祟乃なすところにあらす。是則作者乃真面目也。よりて筆もてそのよしをことわらず。看官をして暁しめんと也。{犬夷評判記第二編稿料}

     ◆

 

五十子の存在は地味ではあるが彼女の死は、犬夷評判記稿料に於いて、金碗八郎の義死と一対だと指摘されている。八郎が表現した所の者を極端なまでの男性性による義とするならば、一対である五十子の憂死は、極端なまでの女性性による仁ではなかったか。極端なまでの慈母、五十子こそ聖母ではなかったか。

信乃・毛野の二度に亘る五十子攻略は、「男子にして女子、女子にして男子」たる伏姫が、女性として欠落させていた聖なる一片、深い仁愛を獲得するため、五十子の胎内を再び潜ることを象徴的に意味していた。クライマックスの南関東大戦を勝ち抜くため、伏姫の一部すなわち毛野は、最後まで敵の血に塗れなければならなかった。しかし洲崎沖海戦で勝利を不動のものとし、且つ敵の主将扇谷上杉定正の居城を攻略した毛野は、漸く軍装を解くことが出来た。毛野は五十子で漸く許されて慈愛に満ち、大戦犠牲者を弔う水陸大施餓鬼を提案する。大戦の犠牲者とは即ち、殆どが関東軍側である。結城大法会でさえ、結城側の将兵および家族しか祀られなかった。此処に至り、伏姫が敵味方に普く慈愛を注ぐ観音菩薩として完成したと見ることが出来る

 

【膝下に猯を圧し印を結ぶ鵞ゼン坊。指先から黒雲が湧いている。雨は此奴のせいか。背後に松明を持つ冠松鬼四郎。絵の周り八方に蜥蜴/イモリ】

 

雨をしるけものゝ穴にとしふりて雲なすわさは魔魅のまかわさ

  

冠松鬼四郎かむりまつのおにしらう・魔魅穴鵞■魚に單/坊まミあなのがぜんばう

 

★試記:雨を知る獣の穴に年経りて雲なす技は魔魅の禍業

【短刀の鞘と上意を示す書状を持つ嗚呼善。紋は宝珠。ハタキを持った小才二と火箸を持った世智介が嗚呼善を捕らえる仕草。嗚呼善の足下に猫が抜き身の短刀を銜えている。木天蓼ゆえか。絵の周囲に波と八方に虎魚】

 

猫兒可愛木天蓼柯犬子看匹夫欺黠豪

 

猫兒は木天蓼柯を愛すべし。犬子は匹夫の點豪を欺くを看る

 

穂北小才二ほきたのこさいじ・石亀屋嗚呼善いしかめやのをこぜ・氷垣世智介ひかきのせちすけ

 

★口絵の嗚呼善が上意を示す書状と木天蓼丸の鞘を持っている点は、夫の次団太を陥れたことを示している。嗚呼善は、次団太が木天蓼丸を持っていたことから、盗賊酒顛二の蔵品を故買したと片貝の箙大刀自に誣告したのだ。木天蓼丸は長尾家の重宝で、籠山逸東太が偽赤岩一角に鑑定を依頼し奪われた。偽一角は猫だから、木天蓼丸に使っている材を薬にしたのである。現八に射られた目の治療に使った。この時、鞘の部分は殆ど削ってしまい、価値高い真木の柄だけ大事にとっていたのである。胎児の生肝と心臓が手に入れば一緒に薬にしようという魂胆だった。偽一角が討たれ、木天蓼丸は逸東太の手に戻ったが、護送していた船虫に路用金と共に奪われ逃げられてしまった。船虫は木天蓼丸を秘蔵し盗賊酒顛二の妻となった。船虫は按摩に扮し小文吾を襲ったが、捕らえられた。木天蓼丸は、このとき、石亀屋の手に落ちる。庚申堂で緊縛され責め苛まれる船虫を、事情を知らない荘介が逃がしてやる。荘介と小文吾は酒顛二一党を討ったが、船虫は更に逃亡。箙大刀自は二犬士を褒賞すると招き油断させて捕らえた。大刀自の娘たちが嫁いだ大石憲儀・千葉自胤が犬士に怨みがあったからだ。大刀自付きの秘書みたいな稲戸津守の配慮で二犬士は救われた。次団太も木天蓼丸を故買したとの濡れ衣で捕らえられてしまっていた。次団太の子分鮒三が偶々毛野に出逢って事情を話す。其処へ偶々来合わせた蟹目前{当初は箙大刀自の義妹だったが後に実娘へと昇格}が偶々飼い猿を逃がしてしまった。猿を捕まえた毛野が、恩賞として次団太の釈放を蟹目前に依頼する。次団太は釈放され、復讐として嗚呼善と子分でありながら嗚呼善と密通した土丈二らを殺す。

口絵では猫が柄を銜えて抜き身の木天蓼丸を持ち去っている。嗚呼善の手には鞘だけが残っている。結局、嗚呼善の企みは毛野の介入によって潰え、次団太に殺された。刀の価値は拵えではなく刀身にある。鞘だけでは何にもならない。尤も、木天蓼丸の場合は木天蓼で出来た拵えに価値があったが、石亀屋に来た時点で鞘は既に木天蓼製ではない。柄だけが木天蓼であった。鞘には全く価値はない。せっかく一時は次団太を罪する上意を得たのだが、却って次団太の復讐を招いてしまった。木天蓼丸一件を訴え出る以前に嗚呼善は、土丈二との密通を次団太に知られてしまったが、土丈二が出入りを禁じられただけで、嗚呼善には何の沙汰もなかった。下手をすれば二人して重ね斬りにされていたかもしれないのに、嗚呼善は逆恨みして、次団太を罪に落としたのである。次団太が甘すぎたとも言える。が、嗚呼善は次団太より十七八も年下である。そりゃぁ年寄りの皺くちゃ亀より、ヌルヌルヌメヌメピチピチの泥鰌の方が好いだろう。嗚呼善が名前の如く虎みたいなゴツイ虎魚面であっても、妄想は自由である。嗚呼善が虎魚だからといって、筆者は虎→猫との連想から、木天蓼丸を使った計略を以て、嗚呼善を猫系だと云いたいのではない。だいたい、嗚呼善は、次団太を陥れるため、惜しげもなく木天蓼丸を箙大刀自に差し出す。愛しているようには思えない。しかも口絵で猫は嗚呼善から木天蓼丸{の柄}を盗み取っている。猫は嗚呼善本人ではなかろうし、嗚呼善は誰にも木天蓼丸を盗まれはしない。木天蓼丸は二度盗まれた。一度は妖術を使って偽一角が逸東太から奪った。二度目は船虫が逸東太から奪った。偽一角は第七輯で退治されており、本第八輯下帙開始段階で生きているのは船虫だ。第七十五回、船虫が按摩に化けて小文吾を襲う直前に、以下の記述がある。

 

     ◆

この日も相川なる畷路にて夫婦窃に諜し合せて磯九郎を殺せし折、船虫が雪窖にて十々滅を刺したる短刀は是則別刃にあらず、いぬる年沓掛にて縁連を誑惑りて金もろ共に窃取りたる木天蓼丸の短刀也。船虫越路に流寓ひて酒顛二の妻になりにし後も、外に出ることある毎に那短刀を懐にして身の護に做せしとぞ。害心あるもの防害ありとは恁ることをやいふべからん{第七十五回}。

     ◆

 

護身刀として船虫は外出時、たえず木天蓼丸を持ち歩いていた。彼女の用心深さを示す挿話として描き込まれているが、どうも船虫は、木天蓼丸を愛していたようだ。また、第六十回、一角の幽霊が語る。偽一角は女を次々雇い入れたが、半年や一年足らずのうちに、皆いなくなった。精気を吸い取られたり喰い殺されたりしたのだ。しかし「船虫といふ妾は邪智逞しく慾ふかく行ひ穢れし淫婦なれば、彼同病は相憐み同気は相歓ぶ沿習にて妖邪に触れても恙なく且妖獣のこゝろに■リッシンベンにハコガマエ夾/ひて、はや正妻になり」。問題は偽一角と船虫が「同気」である点だ。「同病」と並べて慣用句めかしているが、両者とも「邪智逞しく慾ふかく行ひ穢れ」ているぐらいで、ほかの女性が精気を吸い取られているというのに、船虫だけ元気いっぱいでいられるだろうか。単に性格が似ているなどというのではなく、より深刻な相似が、両者の間になければならない。偽一角の定義で第一義であるのは、化け猫、である。船虫の本質が猫ならば、同気相歓することも解り易い。

本第八輯下帙末尾近くで、船虫は牛の角で脇腹から肩まで劈かれ、阿鼻叫喚のうちに死んだ。勿論、脇腹から肩を貫くは、磔の作法である。個人的な怨みは無い筈である信乃が先導した【公儀/天】としての刑戮である。作法を守らねばならない。しかも一般に、刺殺武器は鋭利な方が相手の為だ。より少ない苦痛で失血死に至らせる。牛の角は鈍く太い。牛の力積あってこそ、脇腹から肩まで貫ける。八犬伝の動因の一つとなった山下定包でさえ、竹槍に見立てた尺八で殺されたが、喉を貫かれたため、苦痛を感じる時間は、まだしも長くはなかっただろう。腹部は重要であるためか敏感であり、苦痛も甚だしい。余りの残虐さ故、「有繋に勇む六犬士も這光景に蕭然と思はず目を合しけり」{第九十回}。大部の八犬伝でも、豊嶋郡の農民によって「其罪を責罵りて……中略……一個々々誅するに先手を斫落し足を斫落し胸を劈き大小腸を裂出し竟に首を撃落」{第百七十八回上}された箕田馭蘭二・根角谷中二・穴栗専作の三人を除き、船虫の死に様は凄惨の極みだ。読者に強烈な印象を残す。

船虫のキャラクターは強烈だ。粟飯原度胤暗殺の場で嵐山の笛や名刀落葉・小篠を盗んだに始まり、鴎尻並四郎の妻として旅人の生命と財産を奪い、化け猫/偽一角の妻として雛衣を死に至らせ、酒顛二の妻として盗賊の実行犯として働き、売笑婦に扮して客の舌を噛み切り強盗を重ねた。

  

縁連は、まず馬加大記に唆されて粟飯原度胤を殺す。但し此の時、横合いから登場した船虫らに嵐山の笛と名刀落葉・小篠を奪われたため武蔵千葉家に戻れず逐電し、長尾家に仕えた。長尾家の重宝木天蓼丸の鑑定を偽赤岩一角に依頼したが、偽一角の幻術により木天蓼丸を奪われた。偽一角は大角に退治され一旦は縁連に木天蓼丸は戻ったが、捕まえた船虫を護送中に姦して深い眠りに落ちたため、木天蓼丸および路用金を盗まれた。船虫も逃げ、面目を失った縁連は長尾家からも逐電し、扇谷上杉家に仕え直した。同盟の使者として後北条家に派遣された折、途中で粟飯原度胤の遺児毛野に討たれた。そもそも同盟は、扇谷上杉家が故主長尾家と和睦しそうになったため旧悪を暴かれることを恐れた縁連が、定正に強いたものであった。また因みに馬加大記は、もと関東管領系の下総千葉家の家臣だったが出奔し、故主と敵対していた許我公方系の武蔵千葉家に乗り換えた男だ。大記の奸計に填った粟飯原度胤は、両千葉家の和睦に当たり許我公方足利成氏の許しを得ようと嵐山の笛および落葉・小篠を持参する途中に殺された。

二君に見{まみ}えぬどころか三君に仕えた縁連は、転機に当たって共に、使いに出て失敗している。一度目は名笛嵐山と落葉・小篠、二度目は木天蓼丸を盗まれた。両度とも犯人は、船虫であった。船虫は、縁連の【天敵】である。また縁連は、千葉・長尾家に仕えていた折は籠山逸東太と名乗っていたが、扇谷上杉家に乗り換えてから龍山免大夫と改名している。故主への憚りがあったのであろうか。「籠」から「竹」を除いて「龍」にしたと思しい。しかし此れを以て、龍が竹から抜け出した、とは云えない。縁連は扇谷上杉家でこそ奸佞ぶりを問題視した蟹目前・河鯉守如によって排された。此処も縁連にとって、雄飛の場ではなかった。千葉氏は日月紋、長尾氏は九曜巴紋だが、扇谷上杉家は竹雀紋である。一貫して縁連には竹がついて回る。縁連の本質は龍であると知れる。且つ、里見義実は龍に見守られ安房国主になったと思しく、観音たる伏姫は龍の統括者だ。更に縁連の天敵として振る舞う船虫は、犬士とも敵対する。敵の敵が味方となり得るならば、縁連は毛野の仇でありながらも、犬士と本質を親{ちか}しうすると想定可能だ。犬は龍に庶{ちか}い。

龍は元より強力だが、竹に閉じ込められている。縁連は武芸達者なのだが、船虫に巧くあしらわれている。充分に力が発揮できない場合、龍/縁連は猫/船虫にすら劣るようだ。そうすると、偽一角は元より猫として、船虫に名笛と名刀を盗ませ縁連を陥れた馬加大記も、猫系統の登場人物だと疑える。八犬伝に於いては、狸は玉面/野猫であって、猫の一種だ。故に物語前半では、狸/玉面/野狸からはじまって、紀二郎猫、馬加大記、船虫、偽一角、再び玉面/妙椿と、相次いで猫系敵キャラクターが登場していることになる。

このうちでは特に、初出であり再登場する玉面嬢が最重要であろう。玉梓怨霊に衝き動かされ里見家と敵対した玉面嬢は、玉梓怨念が解脱した後も、独り怨みを抱き続けた。彼女が犬の種族に向けて呻る怨嗟の声が、そのまま猫族による宣戦布告になったようだ。積極的ではないにせよ、浜路の愛猫紀二郎の存在が、自然の法則に従って与四郎犬の暴力を惹き起こし、犬塚番作の切腹に繋がる。犬族にとって、猫族は呪われた存在であることが明らかになった。盗賊の夫が殺されたことを逆恨みした船虫が小文吾を陥れようとし、以前に毛野の親族を死に追い込んだ馬加大記が小文吾を抑留し、偽一角は船虫と一緒になって大角を苛み愛妻雛衣を切腹に追い込んだ。諸悪の根元、玉面嬢が姿を現し、蟇田素藤を利用して、里見家に敵対した。したが、親兵衛に退治され、「如是畜生発菩提心」、解脱した。その後、猫らしい者が里見家および犬士に仇做す痕跡は明らかでない。

いや寧ろ、怨みを消去した猫族も里見家および犬士に与した痕跡ならば在る。五行説三十六禽論により、狸は虎に転化し得る。解脱した玉面嬢狸は、まさに甕襲玉が狸から出現した丹波国桑田で、画虎として現れた。薬師如来眷属寅童子の差し金である。画虎は京師の善男善女に恐れられたが、実のところ悪人しか喰い殺さないまま、潔く親兵衛に射られて消滅し、親兵衛を変態管領細川政元の毒牙から逃がす契機となった。猫なる種族は、既に犬の敵ではない。よって玉面嬢妙椿は、単に再登場するのではなく、己の発した犬への敵愾心を自らの裡に終息させている。やはり玉面嬢は、親兵衛に退治されたとき「如是畜生発菩提心」、解脱していたのだ。解脱した直後に、結城大法会が開催される。法会の準備段階で直塚紀二六が登場し、姥雪代四郎とベッタリ行動を共にする。紀二六は、後に照文の娘/山鳩と配偶するように、本質としては鳥類/雉である。しかし名詮自性の理により、紀二郎猫の後身と思しい。紀二郎猫/紀二六は、前世で自分を殺した与四郎犬/代四郎と、とことん仲睦まじい。前に筆者は、犬塚番作の言を引き、元来ならば地面上で猫が犬に殺されたとて怨念は生じ得ないと考えた。犬にとって地面上で猫を殺すことは、自然の法則に従った行為だからだ。怨念懐胎は、人間特有の現象である。怨念の原因は、人倫とも云える。取り敢えず、紀二郎猫/紀二六と与四郎犬/代四郎の睦まじい関係は、復讐の虚しさ、人たる故の如何しようもない業{ごう}を想起せしむる。しかし、紀二郎猫/紀二六が登場し与四郎犬/代四郎と仲の良さを読者に見せつけるタイミングが、まさに玉面嬢解脱直後である点から、二人の妖しいまでの睦まじさの意味は、其れまで敵対していた猫族と犬族の和解/仁気を示すものだと知れる

★柯は柄もしくは枝を意味する。黠豪は抜け目のない豪家であろう。よって、詩句は「猫は木天蓼の柄を愛して当然。詰まらない者が抜け目のない豪家を欺くところを犬が見ていた」となる。口絵には、穂北郷の小才二・世智介が描かれている。しかし彼等は嗚呼善と絡まない。詩句は、前半が船虫を歌っているのだろう。木天蓼丸の柄を銜えている猫が、船虫だ。しかし後半を、嗚呼善・土丈二が箙大刀自を騙し次団太を騙したことをのみ語っていると解釈すれば、小才二・世智介が浮く。また、後半を、小才二・世智介が、大角・現八を騙して捕らえた事件のみを表しているとすれば、嗚呼善が浮く。

抑も小才二・世智介が登場する穂北の場面で、木天蓼丸は登場しない。但し、まず穂北に到着する犬士は大角・現八であって、二人は偽一角・船虫と対決した。到着時、小才二・世智介の計略に掛かった。計略に掛けた理由は、大角・現八を盗人と誤認したからであり、無実の罪で捕らえたのだから、誣告{但し善意}に当たり且つ詐術を以て二犬士を捕らえた。一方、嗚呼善は、次団太を意図し詐術を以て誣告した。口絵に描かれる三人は、誣告した者、との共通点がある。よって、詩句の後半は、或る特定場面を云っているのではなく、嗚呼善と小才二・世智介の詐術・誣告を重ねて表現している。

但し、小才二・世智介は善、嗚呼善は悪であって、同じく「詐術・誣告」を為すと云っても、深刻さが全く違う。いや、「違う」と云うより深刻さが「逆」だ。小才二・世智介の「詐術・誣告」により、大角・現八は捕らわれ殺されそうになるのだが、やがて疑いは晴れ、一座の者が却って仲良くなる。大角・現八に合流した信乃・道節も小才二・世智介の計略を聞いて「那計略を誉めしかば、大家咄と笑ひ興じて隔もあらずなりにけり」{第八十五回}。深刻な対立が裏返り、逆に和気藹々となる。小才二・世智介は、名詮自性、小才あり世智あり、書物で得たインテリジェンスではない頓知の類だが、正道を外れた危なっかしさはあるものの、気の利いた可笑し味ある人物だ{そんな彼等のチョッとした失態が、やがて南関東大戦に直結するのだが、其処に又、奇妙なリアリティーが醸し出されている}。

小才二は鉢巻に熨斗紙を差して襷掛け、ハタキを手にしている。熨斗紙は全体が見えないが「{……}差上鰊鯑きく家」と読める。カズノコを差し上げるのだから、歳暮か。氷垣家に来た歳暮の熨斗紙を要らないからと鉢巻きに差し込んで埃避けにでもしているのか。年末であることを示していよう。世智介は刀代わりに火箸を腰に差し、頭を布で覆っている。如何やら大掃除の扮装だ。近代落語の蛸芝居ではないが、小才二・世智介は、巫山戯て芝居役者になり切りつつ、大掃除をしている雰囲気なのだ。滑稽味ある二人の嵌り役だろう。勿論、画面中央の嗚呼善は大真面目である。大真面目に箙大刀自の下知を言い立て、次団太を悪人呼ばわりしているに違いない。が、其の緊張感を、猫が破る。猫が嗚呼善の手にある刀を、柄の木天蓼欲しさに盗んで行っている。嗚呼善が大真面目に深刻ぶるほど、可笑しみが増す。大上段に構えた嗚呼善を、火箸とハタキを武具に見立てた小才二・世智介が大冗談に取り囲む。口絵は、真実めかした嗚呼善の詐術・誣告が、水泡に帰することを示すか

 

【馬上で槍を手にした仁田山晋五が振り返っている。羽織の模様は牡丹唐草。馬の前に毛深い五十子善悪平。絵の周りに竹林に鈴がなっている】

 

ふりわけてささの葉たをれ鈴のもり竹しはのうら遠くなりゆく ■頼の下に鳥/斎

 

仁田山晋五にたやましんご・五十子善悪平いさらこのさぼへい

 

★試記:振り分けて篠の葉倒れ鈴の森、竹芝の浦遠くなりゆく。素直に解せば、篠を掻き分け倒し鈴の森に辿り着いた、竹芝の浦は遠く離れてしまう。鈴ヶ森は江戸幕府刑場。縁連らは此処で毛野らに討たれた。山下定包など、悪人を殺戮するに当たり八犬伝は、公儀の処刑に重ね合わせ、善玉側に正当性を付与している。善悪平は、「五十子頭の放免ならば素より好人にはあらず、撃殺すとも尸骸を躱さば後安きに似たれども」{第九十回}と云われている。放免は検非違使庁の端役であるが、此の場合は扇谷上杉家の末端捜査員ほどの意味であろうが、発刊当時の読者は所謂、岡っ引き、をイメージしたであろう。各藩にも同様の存在はあり、犯罪者や故買商などに顔が利く者を非常勤で捜査協力させた。死体が見付からなければ詮索する者がないほど、嫌われていたということか。八犬伝に登場する放免善悪平は、売笑婦船虫が客の舌を噛み切って殺し財物を奪っていると目星をつけ、客を装って船虫と口吸いする。船虫が噛み切ろうとした瞬間に、舌を引き、正体を明かして船虫を捕らえようとする。媼内に背後から撃たれて死ぬ。当該場面を見る限り、悪漢じみているが、悪人と迄は云えない。但し、犯罪者の捕縛で手柄も揚げただろうが、名前の示す通り、悪も為していたとの想定があろう。読者も恐らく、善悪平が職業柄、善悪両面をもつキャラクターだと理解したのではないか

 

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第八十三回

 

「得失地を易て勇士厄に遇ふ片袖禍を移して賢女独知る」

 

【氷垣残三邸。太刀を握り座敷に踏ん張っていきり立つ残三夏行。縁に控えた郎等も肩を怒らせ脇差しに手を掛けようとしている。庭では盗人と疑われ捕らえられた現八・大角が後ろ手に縛られたまま小才二・世智介を足蹴にしている。小者たちが棒を手に控えている。縁側で重戸が怒り狂う夏行を宥めている。小才二の着衣模様は卍】

 

夏行怒て二犬士を斬んとす

 

なつゆき・おも戸・小才二・現八・せち介・大角

 

★夏行の紋は浮線蝶。櫃と重戸の紋も同じ。氷垣家の家紋が浮線蝶/伏蝶であることが判る。氷垣夏行に盗賊だと疑われた現八・大角を弁護するため、わざわざ伏姫が重戸の夢に現れる。重戸は夢を信じて、二犬士を脱獄させる。貞節な若妻/重戸が、まるで情人を逃がすが如き思い切った行動にでる所が物語を、やや艶っぽく魅力的にしているとの積極的な意味合いもある。幼少期の信乃が浮線蝶/伏蝶模様の着衣を纏い、伏姫との関係もしくは加護を示したことを思い起こせば、此の挿絵からも、何やら、伏姫の関与が暗示されているように見える。また、伏姫が此処まで直裁に関与する以上、穂北という土地が八犬伝にとって重要であるとも考えられる

★穂北が如何なる集落か考えてみると、結城合戦の残党と、豊嶋・煉馬一族の残党との共同体である。共に関東管領上杉家を敵とする。敵地で竊に生き延びていたのである。そして物語上、此処は第一次五十子攻略に当たって、犬士のベースキャンプとなった。五十子攻略後、一足先に里見家に参じた親兵衛を除き、此処で七犬士が結集する。【仁】の欠けた状態の犬士は、五十子攻略時に仁を示し、不足を補った。また、此の攻略は、仁を欠いた伏姫が五十子の胎内を再び潜ることで、仁を得る過程の開始を示すものでもあった{「聖なる一片」参照}。里見家にとって敵となる扇谷上杉家の領内に存在する理想郷/穂北は、伏姫によって打ち込まれた楔であるように思える。穂北をベースキャンプとして親兵衛以外の犬士が結集し、毛野が復讐を完遂し、道節は復讐を完遂せぬまでも最大限のダメージを定正に与え、信乃が其れまで秘めていた君父の仇を討ち、小文吾・荘介・現八・大角に敵対した船虫が誅戮される。七犬士ともに一応は【個人的事情】を精算する。結城大法会へ向かい、仏の掌上に在るが如き小乗レベルから、個人的事情を超えた世直し/大乗へとステージを移す。結城大法会を控えた七犬士は、旅館「小乗屋」に宿泊している。小乗から大乗へと次元を上げた八犬伝は、個人的復讐を超え他者を受け容れる【仁】を根本原理として採用するに至る。信乃による第一次五十子攻略は、仁を標榜した。洲崎沖海戦を立案し、独り仁から遠ざかっていた毛野が第二次五十子攻略を行う頃から、伏姫は親兵衛を通じ敵兵にまで蘇生薬をバラ撒くようになる。また、五十子占領時に毛野は、洲崎沖大法会を提案する。結城大法会では、里見季基など結城方の菩提のみ弔ったが、洲崎沖大法会の対象は、里見方に殆ど死者がいなかったことから、専ら侵略軍側であったことが判る。蟇田素藤討伐に当たって味方のみ蘇生させ敵の生首を弄んでいた伏姫が、女装犬士/信乃・毛野の五十子攻略を経て、普門なる観音菩薩として完成していく。小乗レベルの最終局面/結城大法会を控える穂北での物語は、伏姫の性格が大きく転換する転機に当たる。重戸を含む氷垣家が浮線蝶/伏蝶を紋章とすることは、伏姫の存在を読者に強調する効果を生んでいる

 

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第八十四回

 

「夜泊の孤舟暗に窮士を資く逆旅の小集妙に郷豪を懲す」

 

【重戸に救われ氷垣邸から逃げ出した現八・大角が千住川まで辿り着く。河中に浮かぶ船へ現八が飛び乗る。船から二人の武士が現れ現八と対峙。岸では飛び移れない大角がヤキモキ。現八の着衣模様は菖蒲革】

 

野渡の歇船に現八夜両敵と闘ふ

 

大角・未詳・現八・未詳

 

★飛び移れない大角は浅瀬を尋ねて岸辺を走り回る。なんだか可愛い光景。大角に跳躍力がないと云うより、火兄の犬士であるため水が苦手だとの表現か

 

【氷垣邸盗難の真犯人である野良平・河太郎が縛り上げられている。現八らに逃げられた夏行が追ってきて大角を槍で突く。大角は槍を握り止める。現八が有種を投げ飛ばす。夏行・有種とも上着は雲模様。信乃・道節も身構えている。小者たちが刺又や袖搦みを持って四犬士に殺到する。一人の男が逆を向き、刺又を持って逃げる風情。着衣模様が前と逆転し逆卍になっているが小才二か】

 

四犬武勇を顕して夏行有種を懲

 

信乃・河太郎・のら平・大角・道節・現八・なつゆき・ありたね

 

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第八十五回

 

「志を傾けて夏行四賢を留む夢を占して重戸讖兆を説く」

 

【氷垣邸座敷。上座に道節・信乃・現八・大角が並ぶ。前に饗応の膳。夏行が脇に控え、有種と重戸が四犬士に挨拶。夏行と重戸の紋は浮線蝶。有種の着模様は逆卍。床の間に兎の置物】

 

夏行有種四犬士を歓待す

 

なつゆき・おも戸・道節・ありたね・信乃・現八・大角

 

★床の間に兎の置物がある。揚羽蝶は道節の紋だが、偶に浮線蝶の場合もある。夏行は信乃の祖父・匠作の弟子。養子/有種の実父は練馬家臣。道節は対関東管領戦の後も穂北荘のことを気にかける

 

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第八十六回

 

「道節再復讐を謀るヽ大巧に妖賊を滅す」

 

【五十子城外。道節が廓を窺っている。城門には、天秤棒を担いだ男や侍姿、着飾った女性ら多くの人々が出入りしている。道節の隣に大根と桶を担わせた馬。「平」字。馬の背にある桶は下肥か。ならば大根は、下肥との交換用かもしれない。馬の近くに幼子を抱いた女性】

 

笠を深くして道節敵城の虚実を覘ふ

 

道節

 

【沼上の船に俵と箱。男が一人ひっくり返っている。岸で慌てる黒服面の男。鵞ゼン坊か。ほか三人の男が慌てふためいている。手前に鉄砲を撃つ嶋平と着弾を見届ける種平。錫杖を手に後ろ姿を見せる丶大。墨染め衣の下は繋ぎ雷文。水面に満月が映る】

 

あつま路に名をのミうつす水鳥のかものあふひの岡の辺の池

 

ちゆ大・たね平・しま平

 

★試記:東路に名をのみ移す水鳥の鴨の逢う日/葵の岡の辺の池

 

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第八十七回

 

「天機を談じて老獣旧洞を惜む蕉火を照して勇僧猯穴に入る」

 

【穴の前に立つマミの老夫婦。猫背出方を怒らし威嚇する体の丶大。緊縛された風九郎。着衣模様は卍。嶋平・種平・衛門二ら】

 

二賊を■ソウニョウに旱/ふて丶大老翁老婆に遇ふ

 

風九郎・たね平・しま平・ゑもん二・ちゆ大

 

★種平、嶋平、二人合わせて種子島平、と云いたいんだろうが、「子平」は 

 

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第八十八回

 

「湯嶋の社頭に才子薬を売る聖廟の老樹に従者猴を走らす」

 

【前髪を落とした毛野が不安定な積み木の上で高足駄を穿き片足を揚げたまま、大刀を抜いて見せる。笠を目深に被った道節が毛野を見詰めている。簪売りまで見物している。前列で振り返る男の着衣模様は卍。毛野の脇に鎖鎌】

 

湯嶋の社頭に薬賈人坐撃大刀を抜く処

 

★物四郎は「物知り」か

 

【次団太が土丈二を片手で抑え付け、もう一方の手で嗚呼善の帯を掴んでいる。密会現場を押さえた瞬間。画面左上に、毛野に次団太の災難を語る鮒三】

 

鮒三が越路の物かたり次団太夜奸淫を捉ふ

 

をこぜ・次団太・土丈二・物四郎・鮒三

 

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第八十九回

 

「奇功を呈して義侠冤囚を寧す秘策を詳にして忠款奸佞を鋤く」

 

【湯島天神境内。毛野が雑兵一人を踏みつけ一人を投げ飛ばしている。背後にも一人いる。他に一人倒れ、一人が星梅紋付き大水瓶の中から藻掻き出ている。社殿に昇る階段上に河鯉守如。満足そうな横顔を見せ毛野を見詰めている。縁に立って毛野を見詰める蟹目上。五人の女房と一人の少女が取り囲んでいる。天満宮らしく梅の木もある】

 

夥兵を找めて守如物四郎を搦捕んとす

 

ゐあひ師もの四郎・もりゆき・かねめのうへ

 

★毛野には天神が似合う

 

【塩浜閻魔堂前に立つ売笑婦船虫。紋は白抜き。男達が冷やかしている。向こうから提灯を提げた帳八・錫右衛門。背後に塩竈】

 

塩浜閻魔堂しほはまのゑんまだう

 

此ところの本文ハ巻の八の下のはじめに見えたり

 

帳八・しやくゑもん・鮒むし

 

★船虫の仕事場は、善悪平の例からすれば、「塩竃の陰に筵を布寝の手枕」であった。青天井の夜鷹レベルである。夜鷹は一回二十四文と云われているが、船虫は、そんなに、お安くない。「二百郤舎て別れゆく」{第九十回}とあるので、恐らく船虫の売笑は一回二百文。米一石一両六万円換算で三千円である。但し昔の江戸庶民は米が主食であった。現在ならば食費に占める米の比重は下手すれば五分の一とかにもなろうし、日常生活で交通費もかからず……結局、当時は生活費に占める米の割合は高くて良いのだ。米で換算すると、他の物価が妙に安くなり過ぎる。例えば家を建てる建設作業員の日給が二百五十文ぐらいとすれば、現代なら一万五千円見当で、一両二十四万円となり、船虫の売笑は一回一万二千円也。これなら……高すぎる。青姦売笑なぞ現在あり得るのか{売春は違法ですから現在、如何ような形態もあり得ません}

 

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第九十回

 

「司馬浜に船虫淫を鬻ぐ閻羅殿に牛鬼賊を劈く」

 

【小文吾が船虫を緊縛している。右手の地蔵堂から姿を現した信乃が媼内の背を踏みつけている。向かいの閻魔堂から笠を目深に被った道節が現れる。画面上部に太った羊のような牛。鬼四郎の牛らしい。空には下旬の月】

 

目前地獄もくぜんのぢごく二兇就戮じけうりくにつく

 

冥府の鬼四郎が牛鬼・信乃・おバ内・小文吾・道節・鮒虫

 

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第九十一回

 

「鈴森に毛野縁連を撃つ谷山に道節定正を射る」

 

【馬を撃たれ、縁連が落馬。供四三人が切られて血を流している。毛野の衣装にも返り血。竃門既済が馬で駆け付けようとしている。海から朝日が昇っている】

 

胤智単身にして大敵を撃つ

 

かまとやすなり・毛野・よりつら

 

 
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